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よっしーの「今週のエッセイ」

Author: 森田義夫

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自分が書いたエッセイに自分で、突っ込みを入れてます。過去の自分と今の自分、どんなんかな?
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8年前になる。 この時期はこんなに働いていたのかと驚愕! 今は、ブライダルの仕事とネットの配信作業と家事と趣味で 一週間が過ぎてしまう。やりたいことが多くて、一日がとても速い。 今週には、エッセイ集が完成しそうだ。   このエッセイは、2016年2月の作品です。   **************************************      「マルチワーク」    今年は、六十五歳になろうとしている。一昔前なら、鬼籍に入っているか、隠居の暮らしだろう。しかし、逆に仕事を増やしている。そんなにも働かなくてもという声も聞こえてきそうだが、こちらにも他人に言えない事情と言うものがある。私の人生には、安穏とした老後というイメージはない。体が続く限り働いて、ライフワークに取り組んで、人生を振り返る時間もなく、あっと言う間に、引き上げられたい。エノクのごとくに・・・。幸いなことに、天における私の住まいは、すでに備えられている。  一昨年の十一月に学校給食の仕事に就いた。私の担当は、春日北中学校である。春日市の給食は、弁当なので、赤い食器には、ごはん、黒い食器には、おかずが二品から三品。それに、マグカップには、味噌汁などが入る。それを学年ごと学級ごとに入れ、弁当保温カートに納め、九つのカートを二トン車に入れ、十一時四十五分までに学校に納めるのである。毎日が、時間との勝負なので、作業に対する段取りがすべてである。ちょっと段取りが狂うと納入時間が遅れ、学校から校長会、校長会から教育委員会、教育委員会から中村学園事業部へとクレームが入ってくる。異物混入もしかり、数量違いもしかり、交通事故もしかりである。だから、納入が完了するとほっとするものである。毎日が緊張の連続であるが、1日一日で完結するので、翌日に引きずることはない。それに、夏休み、冬休み、春休みがあるのがいい。収入はないが体の休養には最高である。  ほかに、ブライダルの仕事もかかえている。もう、十八年目、二千件を越えてしまった。こちらの方は、土・日・祝日の仕事がほとんどである。だから、休みがない。それに団地の入金事務もあるので、大変だ。数字が合わない時は、徹夜して、そのまま仕事に出かける時もあった。その他にも収入はないが、自社の経理、NPO法人の経理も見ている。  マルチワーク。現代ならではの働き方かも知れない。その先に何が待っているか分からないが、今は、楽しくこなしている。多分、何が起きようともそのまま受け入れてしまう。そういう生き方をしてきた。だから、悔いはないが、他人に薦める気はない。まぁ、そんな生き方は、御免蒙りたいという声が聞こえてきそうだが・・・。満足な人生、でも、高らかには叫べない。   注 エノク・・・創世記五章二十四節「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」       エノクだけが死んだという記述がなかったので、生きたまま引き上       げられたという人もいる。 天における私の住まい・・・「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く       のです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て       あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネの福音書十四の二)       イエス・キリストを信じる群れは、そのイエスの言葉により、天に       自分の住まいが備えられていることを信じて疑わない。 **************************************   兎に角、時間が少なくなってきている。 まだまだ元気なうちに、やりたいことをやり終える。   それも亦、愉しからずや です。
そういえば、文通をしていた時期もあった。 あれは、7年前か、でも、一年ちょっとでやめてしまった。 最初は、愉しかったが、だんだんと話題がなくなり、 共感することも少なくなってきて、自然と遠ざかった。   ポストでワクワクしたのは、最初の三か月ぐらいだった。   このエッセイは、2017年12月の作品です。   ****************************************************************************   ポストでワクワク    ネットのニュースをサーフィンしていたら、「文通」というニュースソースにヒットした。ブームとまではいかないが、増えているらしい。そう言えば、小学校時代に、引っ越していった女の子と文通していた事を思いだした。万年筆は買ったまま使っていない。文章を書くことは多いが、文字を書くことは少なくなってしまっていた。言葉も漢字も忘れがちだ。文通するのも悪くはない。でも、この歳で文通していますとは、気恥ずかしくて言えない。第一、文通してくれる人が果たしているのだろうか。  そこで、ネットで調べてみた。便利な世の中になったもんだ。「文通村」というサイトがあった。こちらは会費制で費用がいる。もう一つは、日本郵政が主催の「青少年ペンフレンドクラブ」というものがある。こちらは、以前から知ってはいたが、縁がなかった。果たして六十六歳の私が青少年と言えるのだろうか。文通相手が見つかるのだろうか、恐る恐る申し込んでみた。年齢も性別も問わないようだ。毎月「レターパーク」という会員情報誌が送られてくる。その中に、国内ペンパル、海外ペンパルの紹介が掲載されている。名前、県名、年齢、メッセージを読みながら、自分に合いそうな人を選び、手紙を出してみた。最初だけは事務局が介在するが、あとは個人レベルでやりとりするらしい。  十日ほど経った頃だろうか、ポストに見知らぬ名前の人から手紙がきていた。ポストに手紙が入っていると何だか嬉しくなる。三日後に返事をしたため、ポストに投函してきた。これも嬉しいものだ。でも、まだ、返事はこない。どうやらペース的には月一のようだ。恋人じゃあるまいし、行ったり来たりが頻繁であるはずがない。思い込んでいた自分が恥ずかしい。  文字を書くということが久しぶりなので、なかなかうまく書けないが、楽しみではある。毎日、家のポストをのぞき込むのが楽しみになってきた。これから先、どんな展開を見せるかは皆目分からないが、楽しみが一つ増えたことは確かである。   *****************************************************************************   どうにも、他人とのかかわりが下手なようです。 自分一人の世界では、長く続くのですが、 他人が絡んでくると、なかなかうまく続かない。 浅く、細く、そんな付き合いが似合っているようです。   それも亦愉しからずやです。
これは、2017年11月の作品です。 今から、7年前の作品です。 7年間で、何かひと花咲かせたかな?ないですね。 この時のピアノの発表会は散々でした。 舞台から途中降板でした。 今もピアノは毎日弾いていますが、教室には通っていません。 あまりストレスはかけないようにしています。   ************************************** ひと花咲かせてみませんか?    それは、恋愛でもいいし、仕事でもいいし、趣味でもいい。「人間五十年」と言っていた時代から考えると、いまや百年の時代である。信長は言うかもしれない「長さじゃない、重さじゃ。この大地でどれだけ踏ん張れるかじゃ」私は信長ではないので、軽~く生きていきたい。でも、もうひと花咲かせたい気持ちはある。それは、世の中に貢献するというよりも、自分の中で人知れず咲く花でいい。誰にも理解されなくてもいい。他人から「つまらん人生やね」と言われても構わない。もはや眼中に他人はいない。自分の好きな事だけをして過ごしたい。明るい引き籠りでいたい。  では、何という花を咲かせようか。匂いで気づかせる金木犀、鮮やかな主張のハイビスカス、山の麓の小さな村に咲くレンゲ草。私は、いつでも、どこでも、何時間でも、見ていて飽きない花がいい。仮にその花の名を「阿喜那畏花」とでも呼ぼうか。ちなみに、「阿」には、「まがっていりくんだ所」という意味があり、人知れず咲くにはいい場所だ。そして、その花を見ると「喜」びが湧きあがるのもいい。「那」には特別な意味はないが、その花の前では『どれどれ』と言いながら座って見つめていたくなる。「畏」は大事なことだ。その花に対する畏れ、自然と頭が垂れるのがいい。  さて、ひと花のイメージは出来上がったが、今の生活の中で何が当てはまるのか、それとも、また、新しい何かが私の心に取りつくのか。恋愛でいうと、このイメージにぴったりの女の人が現れるのか。「昔の事を忘れてしまうには、素敵な恋をすることさ」と日吉ミミが歌っていたが、私には関りはないようだ。仕事で何かと出会うのか。今はネット社会なので、資金が無くてもクラウド、人材がなくてもIOT、店舗がなくてもインターネット。企画力さえあれば何とかなりそうだが、私の心はアナログのままである。残るは趣味。少なくはないが、どれもこれも三流どまりである。花を咲かせるまでには至っていない。でも、このイメージに近いものがあるとすれば、ピアノである。十一月の発表会で、陽水の「少年時代」を上手く弾けたなら、ひと花咲くような気がする。  さぁ、これから先の残された時間の中で、いくつの花が咲き乱れるのだろうか楽しみである。「花の色は うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに」と小野小町が詠っているようなことにはならないように、美貌の衰えを堰き止め、時間の流れをくい止め、懐古趣味から脱却し、寸暇を惜しんでひと花作りに邁進することとしよう。 **************************************   毎日のルーティンは順番があります。 朝、5時台に起きて8時までには、大体、一日の作業を終わらせます。 それから、朝ごはん、ギター、ピアノの練習。 午前中には、大体の仕事を終わらせ、 昼からは、エッセイ集の編集をしています。 一日が早い、残り時間が少ない。   それも亦愉しからずや。
外には極力出ないようにしている。 街に出ると、お金が減る、時間が減る、体力が減る。 というか、インドアが性に合っているみたい。   このエッセイは、2017年11月の作品です。   ************************************** インドア人間    六十数年生きてきたが、親友なし、インパクトなし、厳しさなし。外に出るよりは、家で本でも読んでいる方が楽しい。人が大勢いると目が回る。人はおしゃべりが楽しいと言うが、私は頭が石になる。大勢の中では孤独感、ひとりの時は解放感。好きなスポーツはみんなインドア。好む趣味はみんなインドア。小学校の一年生から通知表の所見は「もっと積極的に」、先生たちは言葉を知らないようだ。学校は嫌いだ。今でも校門をくぐるのは嫌だ。人見知りが激しい。親睦会とやらで親しくなったことはない。ただ誰かが飲みたいだけだろう。頭脳明晰、容姿端麗、才能抜群、凄いとは思うが、なりたいとは思わない。だから、努力はしない。好きなことを一生懸命するのは努力ではない、好きだから。苦手なことを一生懸命するのは、努力である。でも、いくら努力しても一人前にはなれない。だから、そうすることはやめた。私のする事はすべて自分の為だ。他人の為にしたことはない。私の身長と同じように、この世の中では私はマージナルマンだ。流行は追わない。話題作は見ない。芥川賞・直木賞の作品も読まない。その時々で私のアンテナにひっかかったものしか読まない。本当は、読んでもその価値が理解出来ないのかもしれない。政治や宗教の話はしない。というよりも本音は言わない。討論は苦手である。理論で生きていないから。大きな声と理路整然は眉唾だと思っている。分からないという答えが一番信用できる。人生を舐めている。真面目な話と硬い話は苦手だ。いつも冗談と茶化す話しかできない。心を開くのは覗き見した後だ。距離感がない人間は鬱陶しい。自分のエリアには決して人を入れない。愛情もなければ人も信用できない。だから、ひとりになるしかない。 だけど、世の中に迎合しているインドア人間が、ここにいる。 *************************************   7年前だけど、何だか尖っている感じ。 今は、一人に違いないが、少し丸い感じ。   それも亦愉しからずやです。 それでは、皆さんの明日が希望に満たされたものとなりますように・・・。 おやすみなさい。よっしーでした。  
2017年4月の作品です。 あれから7年、第41号で「余暇草倶楽部」も解散しました。 それが1年前です。 私は、書き溜めたエッセイを本にしてまとめました。 手作りで近しい人に配っています。   ************************** あとがき                              「人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる」と書いたのは、哲学者三木清だった。思えば十五年程前に、多賀先生から「小説を書いてみない」と声かけられてから、余暇草の道を歩み始めた。ひとつの区切りである第三十号を迎えるにあたり、自分の道もネクストステージへと進もうとしている今、感傷的になるのは加齢によるものなのか、それとも、残された時の少なさか。  それぞれの言葉には、それぞれの人生が映し出されており、心の琴線に触れた言葉が踊りだしてくるものである。ロゴスとレーマ。どちらも言葉には違いないのだが、前者は、ただの言葉であり、後者は、心の中に入り込んでくる言葉である。だから、レーマの方は、その人の人生をも変えてしまうぐらいの力がある。 ひょっとすると、今まで積み重ねてきた三十号の中に、レーマを感じた人がいるかもしれない。偉大なり言葉の力。 **************************    電子書籍化しようとしています。 タイトルも著者もペンネームにして 変更しようとしています。 表紙は、誰かセンスがある人が作った方が いいのでしょうが、行き詰ったら、考えます。   俺も亦愉しからずやです。
70数年生きてきた。 大過なく、無事に。 でも、貴人ではありません。   このエッセイは、2016年10月の作品です。   ************************************** 無事是貴人                            森田 義夫    「ぶじこれきにん」  この言葉に出会ったのは、高校生の時だっただろうか。その時は、「ぶじこれきじんなり」と、読んでいた。黒板に書いた古文の先生が、確かにそう言った記憶がある。無事という言葉には、健康、平穏、安心というようなイメージがあった。波乱万丈の人生も大過ない人生もある。私は、後者だ。 それはそれで貴人の中に加えていただければ、良しとしていた。  しかしながら、この言葉、禅語で、もう少し深い意味があると最近知った。読み方は、冒頭の「ぶじこれきにん」だそうだ。大きな病気もせず、毎日、平穏で安心して暮らしていたら、結構なことだが、どこか薄っぺらな人生にも思えてくる。ここでいう無事とは、外に対する欲望(馳求心『ちぐしん』というそうだが)を捨て去って、さわやかな心境に達することだそうだ。現状を考えると、健康だし、幸せだし、眠れない程(酷暑で眠れない時はあるが)の悩みもない。これでは、薄っぺらな貴人でしかない。馳求心を捨て切るとは、どういう心境だろうか。例えば、幸せや健康や平穏というものを自分の外に置いて、それを求めないということであり、それは、既に自分の中に備えられているということである。だから、外に向かって求める必要はない。しかも、爽やかな心境にあるということである。ここが難しい。ブレルのである。自分の中にある幸せは、ともすれば他人と交わることで簡単に崩れてしまう。そして、最終的には、自分の幸せを追認するのだが、そこには、もはや「爽やかな心境」と呼べるものはない。限りない妥協があるのみである。  自分のありのままの姿を認め、それを良しとし、馳求心を捨て切るには、誰かが自分のことを「大丈夫」と太鼓判を押してくれる人が必要である。いや、人ではいけない。無限にして偉大なるもの、すべてを知り尽くし、覆い包んでくれるもの、その存在に気づき、その存在の中で生かされているという体験を得ることである。そこに、「さわやかな心境」が生まれ、何に出会っても、ブレルことなく、過ごすことができる。嗚呼、貴人には程遠きなるかな。 **************************************   最近、ある方から、「波乱万丈の人生だね」と言われた。 私にはふさわしくない生き方である。 貴人でもなく、才能の人でもなく、ただただ普通に生きたかった。 何が普通なのかは、分からないが・・・。   それも亦愉しからずやです。
これは、余暇草メンバーをイメージ化した川柳です。 だから、ブログにアップしても、誰も知らないので、面白きもない川柳。   2016年10月の作品です。   **************************************        よかくさ五七GO    今年のサラリーマン川柳の大賞は、  「退職金 もらった瞬間 妻ドローン」    そこで、現在のよかくさメンバーを五七五でシャレてみた。    「かわたれに 橋本橋で 佇みて」  実は、かわたれの明け方ではなく、たそがれ時だった。彼女が眺める景色の先には、何が見えているのだろうか。その顔は、少女漫画の主人公の如く、瞳が大きく輝いていた。たそがれ時よりも希望に満ちた明け方が似合ってる気がした。  「室見川 耳に音楽 華やぎて」  別にストーカーではないが、彼女の後ろを歩いていた。声かけたら違った表情が振り返る。人生笑った顔ばかりは見せられない。でも、いつもの表情に戻って大安心。  「ケークサレ 麦ぜんざいと 腕がなり」  娘からその名を教えてもらった。ケーキというよりオカズらしい。ぜんざいの中に麦が入っているのも初めてだ。彼女の食卓の一品が興味深い。  「締切日 またいでしっかり 魅せ笑い」  笑顔が可愛いとすべてが許される、らしい。得である。つい家内の顔が目に浮かぶ。締切日なんて何のその、ノープラン、約束の時間から準備が始まる。それでも何の支障がない。私以外の人には。彼女も家では笑顔を振りまいているのだろうか。  「他にはない 自分の世界 まっしぐら」  彼女には、些事は似合わない。と、言っても彼女のすべてを知っている訳ではないので、想像の域を出ないのだが、どこにいても空気のような私から見ると、常に存在感が際立っている。 *************************************   この当時「ポケモンGO」(?)が流行っていたので、 タイトルは、ちょっと真似ました。   それも亦愉しからずやです。
他人といると、鬱っぽくなって、どうも調子が良くない。 子どもの頃から、そうだ。対人恐怖症なのかも。 従って、友達は少ない。 小学に入った頃、先生が、「友達をたくさん作って・・・」、 いつも違和感を覚えた。私には必要ないかも・・。   このエッセイは、2016年10月の作品です。 今から8年前、平成28年の作品です。   ****************************************************************************   至福的おひとり様生活    生まれた時もおひとり様。多分、死ぬ時もおひとり様。そして、生きている間も、おひとり様の時間が多い。でも、寂しいと思った事は一度もない。大勢でいる時の方が孤独を感じる。「今、ひとり暮らしなんですよ」と言うと、ほとんどの人が、「寂しいでしょう」と言う。あいまいな返事はするものの、何とも楽しくて仕様がない。そこで、私の一日を紹介しよう。だいたい朝六時に起きる。冷房は入ってない。家内がいると夜通し入っている。トイレも自由に何回でもいける。家内がいるとちょっと遠慮する。何回でも行くと、「調子悪いの?」と聞いてくる。朝は、子供の頃から何回でも行っているのだ。わがままな朝食の始まりだ。家内がいると、「健康的な・・・」「野菜をとらないと・・・」などとのたまう。健康には興味がない私。料理はしないのに含蓄が多すぎる妻。今日は、卵ご飯にしよう。簡単すぎるが、まぁいいや。食事が済んだら、食器を洗い、洗濯に掃除、フトン干し。時計を見ると、もう十時を過ぎている。家内がいると、こうははかどらない。やっと落ち着いた頃に、冷房のスイッチオン。涼しい気持ちで経理の仕事に取り掛かる。BGMはユーチューブだ。好きな歌手や曲名を検索して、クリックすると、あとはずっと鳴りっ放し。便利な世の中になったもんだ。有線もレコードもCDもなしに好きな音楽にひたれる。十二時になると、昼ご飯の準備。冷蔵庫にある残り物を適当に、ご飯と絡めてピラフだ。さしておいしくはないが、舌鼓をうつ。昼からは、法務局に行ったり、銀行や郵便局などの用事を済ませる。時間があると、喫茶カノンでケーキセットを注文し、本を読んだり、原稿を書いたり、それはそれは至福の時。家に戻ると、レシピを見ながら夕食の準備、料理時間三十分、五分もあれば食べてしまう。それでも、満足。他人は、大勢で食べるとおいしいというが、私の場合、ひとりの方がずっとおいしい。ここから、後片付けが待っているが、この時間になると少々疲れるので、明日に伸ばしても、何の支障もない。さてと、月曜と金曜は卓球に行くのだが、今日は水曜日なので、四畳半のエンターテナーと化する。外に音が漏れないようにして、二時間程、ギターの弾き語りである。曲目は、最近何だか固定化してきた。「傾いた道しるべ」「縦じまのシャツを着て」「シクラメンのかほり」等々。三十数曲を歌いまくる。他人に聞かせるレベルではないが、自己満足にはなる。この他にも、読書だったり、エッセイを書いたり、ネットで囲碁をしたりしていると楽しい楽しい毎日である。家族がいると、このほとんどができない。おひとり様万々歳である。 ****************************************************************************   この時、65歳こんな生活をしていたっけ、あんまり覚えていない。 いまは、確実に一人暮らし、ライフワークの集大成に向けて、まっしぐらです。 だから、いまもお一人様万歳です。 と、言っても、卓球に行ったり、教会に行ったりで、友達関係でないけれども、 それなりの付き合いはあります。   それも亦愉しからずやです。
未だに、自分が何をしたいのか、何をしてきたのか。 皆目分からない。何も言えない。 でも、なぜか楽しく暮らしています。 金もない、人望もない、実績もない、のに。   このエッセイは2016年8月の作品です。   **************************************   途中下車の男    未だかつて自分の道を自ら決めたことがない。面白きなき男だ。  高校も行きたい高校というよりも行ける高校だった。そこでの部活も友人に誘われ、入ったものの途中で抜けてしまった。そう言えば、中学の部活も途中下車だった。大学は、兎に角親元を離れたい為に、遠くの大学を受けた。将来の志とか夢とか何にも無かった。結局国立一期も二期も落ちて、望まない会社へ入ってしまった。しかし、長崎を出たい気持ちは強く、会社内部機関である専門部を受けて、長崎を脱出することに成功する。親元を離れたいという気持ち以上に離れなければならない別の理由があったが、ここでは詳らかにはできない。これは、自分の意志で全うした唯一の例かもしれない。会社生活二十年目に転機がきた。人生の一大転機だというのに、何の目標もなく、見通しも計画もなかった。妻のやりたい事に、ただ同調したのみだ。今まで会社の名前を出せば、おさまっていたものが、ことごとくひっかかるようになった。白い眼の人が私の横を通り過ぎていった。母協会の生活もカルト的な教会での暮らしも馴染めなかった。とうとう教会生活からも離れることになった。幸いなのは、子供たちが幼かった頃の聖書的生活を子供たちが今でも良しとしていることだ。イエス・キリストは信じるが、信じている人たちは嫌いだ。それは、今でも変わらない。そして、今、何を目指しているのか分からない。ただ言えるのは、妻の夢が叶うことに、力を注ぐだけだ。とは、言っても離れて暮らしているし、本当に役に立っているのか甚だ疑問だ。目に見える部分では、第三者の目から見れば、役に立っているようには見えないだろう。これも途中下車してしまったら、どうしようもない男に成り下がってしまう。その時には、こう叫ぶことにしている。男らしさなんてくそくらえ!俺は、一人で生きていく!俺はひとりで死んでいく!誰も邪魔するな! **************************************   エッセイ集が完成しました。 あとは、未完の小説3作。 聖書のメッセージ化と新約聖書等々。 自己満足の世界です。   是も亦、愉しからずや、です。
最近は、とんと応募していない。 小説もエッセイも書いてもないし、本を読んでもない。 ちょっと余裕が出てきたので、またぞろ、本を読もうと思ってる。 今度は、まだ読んだこともないジャンルに挑戦しようと思っている。 Reedeeというアプリもあるようなので、読書記録が容易だ。   このエッセイは、2016年2月の作品です。   **************************************  消印有効    「締め切りは三月二十日。当日消印有効!」  今は、ほとんど応募しないが、以前は応募ガイドを買ってきては、賞取りレースに参入したものである。余裕で原稿を書き上げ郵送することは、ほとんどなく、推敲に推敲を重ねてといえば聞こえはいいが、実際は七転八倒の挙句、やっと規定枚数を確保するのがやっとである。そして、郵便局へ駆け込む。時計は三月二十日午後十一時五十五分。窓口で、「消印は三月二十日ですよね」と確認する。安堵の顔には、もはや、賞取りレースの心意気はない。私の戦いはここまで、案の定、後は何の連絡も入らない。でも、消印有効日にぎりぎり間に合わせるあの快感は忘れられない。何だか作家にでもなったような気分だ。でも、今は郵便局の窓口が閉まるのが遅くても午後九時だから、そのスリルを味わうのが難しくなったような気がする。  何事にも締め切りは必要である。商品を納める時にも、履歴書を提出する時にも、原稿を応募する時にも締切日がある。その締切日から逆算してスケジュールが生まれる。そのスケジュールを淡々と余裕でこなす人、ノープランで締切日だけを守る人、締切日さえも守れない人。十人十色であろう。  もしも、人生の締切日が設定されていたらどうしよう。「森田義夫さん、あなたの人生の締め切りは西暦**年**月**日の**時までですよ」と宣告されたら、「えっ、それって明日じゃない?」顔面蒼白、頭脳真っ白。「あと五年か。これからどう生きようか」何とか間に合いそうかな。自分がやりたいことが。「あと三十年か。今の仕事辞めて、本当に自分のやりたいことを求めて旅に出るか」ゆっくりと考えてみる時間はまだありそうだな。  さて、自分自身の人生締切日を仮に「二○三六年四月六日」と決めれば、あと二十年。新しい事に挑戦するには体力、知力、気力に難がある。人の役に立つような賜物もない。だとすれば、今までやってきたことの延長線上にあるものを考えなければならない。そうすると、すぐに思い浮かべるものは、「みことば日記」の完成をめざすことぐらいだ。これは、誰の為にもならないし、ただただ自分自身の満足だけだ。でも、もしも、何年か先に日本のどこかで、どこかの誰かが、私の書いたものを読み、その人生が変えられたら、その時に励まされたら、としたら感慨深いものがある。でも、私にはその事が起きたとしても知る術はない。しかし、他にできることはない。消印有効日ぎりぎりに間に合うようなスリルあることはやめて、早めに完成するように努めることにしよう。明日何が起こるか分からないのだから。 **************************************   残された時間は、限りなく少なくなってきた。 早くライフワークを完成させなければ・・・。 これも亦、愉しからずや です。
これは、確か、「余暇草」の巻頭言だったかな? この時期は、比較的本を良く読んでいたようだ。 今は、ほとんど読まない、聖書以外は。 本屋の平積みが私を呼ばない。 だから、本屋にも寄らない。 コロナ以降、それが顕著である。   このエッセイは、2015年7月の作品です。   ************************************** 未来草稿     草枕、文鳥、霧の城、鬼弾、悪党の戦旗、朝の霧、のぼうの城、忍びの国、 信長の血脈、剣と紅、三好長慶、前田慶次郎、崖っぷち侍、花の館、刀伊入寇、 沙門空海唐の国にて宴す、長曽我部最後の戦い、実朝の首、箱根の坂、光圀伝。    漱石を除いて時代小説あるいは歴史小説に類する本である。今年は、何だか歴史物を無性に読みたくなった。年間百冊を読破すると感嘆の声が聞こえそうだが、五十数冊では、中途半端な数である。しかし、これが僕の限界だ。  読むと書きたくもなる。書くと行き詰まる。またぞろ、読みたくなる。そして、ペンを執る。そこに成長した自分を見出すのは皆無に等しい。陳腐な文章でもマンネリズムな表現でも独りよがりな言葉でも、それはそれでいい。何を伝えたいかは、ない。読んだ人が何かを感じれば、それがメッセージだ。自分を分かって欲しいという気持ちは、ない。自分自身も分からないのに他人が分かるはずがない。でも、書きたい。残された未来に向けて、読破した本がそのまま私の草稿だ。 *************************************   いま、エッセイ集の編集作業中だ。 「手ほどの雲 その一」 書いたエッセイに、その時の心情、状況、環境等々を加筆している。 自分の生きた証しにもなるので、それはそれで面白い。   それも亦、愉しからずや」です。
私が生まれた町が世界遺産へ 嬉しいことではあるが、無名の町である。 長崎に住んでいても、小菅という地名を知らない人は多かった。 世界遺産になったとしても、やはり無名のままである。   このエッセイは、平成27年7月の作品である。   ************************************* 生まれた町の遺構が世界遺産へ    私が生まれた町は、長崎市小菅町7。今回世界遺産に登録されたひとつに小菅修船場跡があり、その住所は小菅町5です。長崎駅から野母半島へと続く道沿いにあります。実家の前は、その道があり、渡ると下の方に小菅修船場跡が見えます。通称、”ソロバンドック”です。  江戸末期から明治にかけて、長崎に出入りしていた船は中古船が多くて、たびたび故障していました。船を修理する設備が欲しいという声が多くあがり、薩摩藩士小松帯刀と五代才助、グラバーなどが協力して、長崎湾からすぐに船を引き上げやすくなっていた入り江小菅にそれを作ったのです。船を引き上げる為のレール上の滑り台が上から見るとソロバン状の形に見えたことから”ソロバンドック”と親しまれています。  子供の頃は、すでに民営となっており、小型船舶の修理場となっていました。夏になると、「第八山田丸」と書かれた船舶が引き上げられ、錆を落とす音がけたたましく聞こえ、夏の風物詩となっていました。実家の五軒ほど先に「梶山商店」という駄菓子屋があり、といっても駄菓子だけではなく、パンや牛乳などの飲み物、米、野菜、缶詰なども売っていましたが、そのご主人が面白いことをしていました。店の前の道路を渡り、木の幹にロープをかけ、それを下の”ソロバンドック”に引き上げられていた船の甲板に取り付けてもらい、小さな籠を取り付け、上から下へ、下から上へと移動できるようにしたのです。その籠には作業員の注文の品が書かれ、商品とお金が行ったりきたりしていました。昭和二十八年に閉鎖されたとありますが、私の記憶の中にあるということは、昭和三十年代まで稼動していたような気もします。  小学生時代の社会科の教科書の中には、日本最古の造船所として写真入りで”ソロバンドック”が載っていました。最近では、すっかりそのことも忘れていましたが、世界遺産の登録で俄かに脚光を浴びるようになりました。それは、私の中だけかもしれませんが。グラバー邸までは来るのでしょうが、その先歩いて二十分程の”ソロバンドック”まで足を伸ばす人はいないようです。よっぽど歴史に興味があるか、船の引き上げ方法に興味があるかしないと来ないと思われます。近くに駐車場があるわけではなく、お土産屋さんがあるわけではなく、風光明媚な場所でもなく、何のお薦め目玉もありません。実家には、今七十を過ぎた兄が一人で住んでいますが、世界遺産登録後の様子を聞いてみようと思っています。  子供の頃から親しんでいた場所が世界遺産に登録されたということは、驚きであり、また、誇りでもあります。長崎市内の人でも小菅という町を知らない人が多いのですが、これで、少しは世界にその名を知る人が増えたことと思います。今までは、小菅を知らない人に、  「戸町(バス終点か経由地でほとんどの人が知っている)の隣の小菅です」  と、言っていましたが、これからは、  「世界遺産の町小菅です」  と、言うことにしたいと思います。 **************************************   世界遺産になってから、一度帰ったが、誰も来ている様子はない。 地元のガイドさんが暇そうにしているだけだった。   それも亦、楽しからずやです。
このエッセイは、この時の状況を理解していないと何のことか分からないと 思うので、かいつまんで、お話すると、   この当時、私は団地の管理組合の会計担当をしていました。 管理組合費の滞納者へ督促へ行った時の話なのです。 団地の5階まで上って、ベルを押したが、誰も出てこず、 帰ろうとして階段を降りかけた時に、その人は出てきました。 昼の一時頃でしたが、酔っているようでした。 その時の様子を、漱石風にエッセイにしました。 感情を抑える為に。   その後、この人とは、「支払った」、「支払われていない」で、 ひと悶着があって、後味の悪いものとなりました。 私の仕事ですから、仕事を全うしただけなので、仕様がないのですが。   2014年11月の作品です。   **************************************  漱石風を気取って    団地の階段を踏みながら、自分はふと考えた。  「今歩く道が過去からの道なのか、未来へと継ぐ道なのか、今知らず、後に知るべし」  一陣の秋風が階段の斜に当たり、踊り場の病葉を吹き上げて、自分の目の前で挨拶をした。今、逢おうとしている人は、自分にとっては無益な存在である。しかし、返信が来ない以上、逢いに行かざるを得ない。人の気配がしない玄関扉を前にして、ベルを二度押す。気配がない。あらかじめ認めた覚書を新聞受けへ投じる。気配はないが、何だか中が明るい。少しの間の後に、階段を降り始めた。三段目を降りかけた刹那に玄関の扉が開く音、即、踵を返したら、その人が佇んでいた。少し目が虚ろ、裸足、足元がふらついている。昼の一時なのにと思いながら相好の微笑みで返した。初対面だと一触即発の場面だが、少しばかりの関係性を持っていたので、お互いの用件を理解することができた。人を知る、知らないで、斯様に違うものなのか。それぞれの用件を受け入れて降りていった。  そうして、家人に話す種が殖えたことを喜んだ。 *************************************   思えば、滞納者ともよく交渉をしてきました。 解決してもしなくても、すっきりした気持ちにはなれませんでした。   それも又、今では、楽しからずや です。
誰に向かってのエッセイだったのだろう 10年前のエッセイだが、もっともっと昔のような気がする 今は、人と何かを作り上げるということはない。 自分の世界で事足りている。   **************************************  町作り人作り    武田信玄の軍略をまとめた「甲陽軍鑑」の中に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と有名な言葉があります。攻撃手段としての或いは防衛手段としての城や石垣や堀の役割があります。しかし、これらはすべてただの道具に過ぎないのです。この道具を有効に最大限に活用するのは人の力です。有象無象の集まりでは、立派な道具が泣いてしまうのです。  私たちが推し進めているNPO法人小羊の里も二期目となりました。少しはその思想や事業が具体性を帯び、少しずつだが支援する人々も増えてきたようです。私たちの事業は安心安全な場所作りです。具体的には環境にやさしい化粧品、安心して食べられる野菜、無理なく健康を維持できる体操、この三点セットがお互いを幸せにする大事なポイントです。これが少しずつ形になってきました。そして、それを提供する場所も福岡市でオープンし、島根県吉賀町でもオープンする予定となっています。この場所がどういう風に発展するのかは今からの楽しみでもあります。  さて、この町作り、それは人作りでもあります。町を作るには、その狙いが必要です。構想、計画、行動も必要です。そのひとつひとつを実現するには人の力が必要となってきます。人がその狙いを理解し、それにそって構想を練り、計画し行動していくのです。その時にやっと町らしきものの一片が見えてくるのです。  私たちの小羊の里は、みんなが夢を持ち、それぞれに協力しながら、みんなの夢実現のために前に進んでおります。どうかこれからも応援の程よろしくお願い致します。  **************************************   ビジョン無き民は滅びると言われるが、 今は、自分のライフワークに取り組むだけである。   それも亦愉しからずやです。
最近、家系図を造ろうかなと思った。 義父が天に召された時に、自分で相続登記をしたが、 その時に集めた資料を丹念に追うと少しは何かが分かる気がした。 でも、時間も体力も知力もないので、誰かに依頼するのが一番良いかなと。 そこで、ネットで検索すると、4系統で13万円で・・・。 これが一番妥当かな! でも、大丈夫かな? それに、今年は提灯も和田家と森田家の家紋入りを造ろうかな。 子どもたちに残しておきたい。 そんなことを考えている時に、このエッセイが出てきました。   このエッセイは、平成26年2月の作品です。   ************************************* カモン!家紋    いきなり息子から携帯へ着信があった。いつもはメールの返事もないし、電話にも出ないのに、何だろうと思い携帯に出た。  「お父さん、和田家の紋は、菊水だったよね」  「あ~」  「凄いじゃん」  「何が?」  「今、ネットサーフィンしていたら、菊水の紋にいきついてね、確か、和田家はそうじゃなかったかなぁと思って」  「そう、楠正成の紋」  「楠正成の子孫ということ?」  「よくは分からないけど、もともと楠の前は橘姓を名乗っていたらしい。それから、正成は楠姓に変わり、弟は和田姓を名乗ったらしい」  「ふ~ん。その菊水の紋は残ってないの?」  「提灯とか着物の紋には使われていたけど、今は、うちには何も残ってないなぁ」  「どっかに残ってない?」  「兄貴の家には何かあるかもしれないけど。ちょっと気にかけとくね」  「何かあったら、お願いします」  「わかった」  突然呼び出された菊水の紋。私の姓も和田から森田へと変わったから、ほとんど思い出すこともなかったのに、菊が入っているので、天皇と関係があるのかなぁと思い調べてみると、後醍醐天皇が正成に下賜したが、恐れ多いということで、下半分を水の流れにしたということだった。何の役にも立たない知識が一つ増えた。 **************************************   と、いうことで、家系図と提灯、作ってみたくなりました。 今年中に何とかしたいものです。 それも亦愉しからずや です。
この出来事は、もう32年ほど前になる。 だから、この時に生まれた子は、32歳ぐらいだろう。 もう、結婚しているかもしれないし、そうでないかもしれない。 消息は、まるで知らない。 この事を分かち合える人は、誰もいない。それでいいのだろう、この世では。   このエッセイは、2013年12月の作品です。   ****************************************************************************  ことの葉エレジー    「妊娠三ヶ月なんです」  それは、温子の一言から始まった。彼女は、まだ十七歳、相手も高校生で経済力もなければ、その親も無関心。私は、教会の伝道師という立場上、この小さな命を守る方向で動き出した。短い時間の中でやらなければならないことは多々あった。温子の検診と保護、彼の親との面談と交際禁止、主治医と生まれてくる子の養子先探し。  「お願いします」  酒乱の父と精神的に不安定な母を持つ温子にとっては、そう答えざるを得なかったのかもしれない。早速、両親に会いにいくが話が通じない。最後は、「こちらに任せていただきます」と通告して帰ってきた。彼の母親にも会いにいったが、関わりたくない様子。「息子さんに会わないように言ってください」とこれも通告して戻ってきた。近くの産婦人科へ温子を連れてゆき、診察を受けてもらった。幸いにも順調でほっとした。養子先はCという団体に相談し、指導を仰ぐことにした。  「それでいいです、お任せします」  進む方向を温子に説明し、了解を得た。まずは、彼女を安心できる環境に置かなければならない。自分の家に引き取ることにした。妻と六歳の息子二歳の娘がいる我が家では少し狭いが心は紛れることだろう。C団体からの紹介で他県の産婦人科医を紹介してもらい、 そこで診察を受けた。生まれるまでは、そこに入院することとなり、一度戻ることとなった。温子は押し黙ったままであった。  「赤ん坊は自分の袋を持って生まれてくるから」  牧師に一部始終を説明し、了解を得た。その時に牧師が言われた言葉であった。生きる為に必要なものを袋の中に詰めて生まれてくるから何の心配もないということだった。そのことを温子に話し、安心して連れていくことができた。一番不安だったのは、私だったかもしれない。生まれるまでの数ヶ月、温子の両親の動きも心配だったし、彼の行動も不安、そして、温子自身の心変わりも心配だった。  「無事に生まれました、女の子です」  安堵の気持ちと共に飛ぶように病院を訪れた。温子に似た可愛い女の子だった。抱き上げると、じっと私の顔を見て、視線をはずそうとはしなかった。私も、その子を食い入るように見ていた。その様子がぎこちなかったのだろうか。C団体の人が、「赤ん坊を抱くのがうまくないですね」その声で我に返ったような気がした。自分が生んだ子を抱くこともなく、他人へ渡さなければならない温子の気持ちを考えると切なかった。一切の手続きを完了し、真理と名付けられたその子をC団体の人に預け、帰ることにした。  「・・・・・」  温子は何も言わず車に乗り込んできた。生まれた時の様子も聞かなかった。生まれた子を抱いたのかも聞かなかった。温子の気持ちを聞くこともなく、車は福岡へと黙々と走り続けていった。温子の声なき声が私たちの心の中にガンガン言葉となって落ちてきた。それを拾うこともなく、整えることもなく、淡々と車を走らせていた。    あれから二十年。真理ちゃんは成人式を終えた頃だろう。一年近く一緒に暮らした温子は、結婚して幸せに暮らしていると聞く。あの時、言葉を封印した温子は、今の幸せを得る為に過去を葬り去ったのだろうか。 ****************************************************************************   あの時の姉妹は、今、妹が49歳、姉が52歳ぐらいだろうか。 この二人の姉妹の出会いが、私の人生に大きく関わってきたのであった。 今あるのは、彼女たちのお陰ともいえる。 いろいろありましたが、それも亦、愉しからずやです。
不毛の一日、不毛のエッセイ、 不毛ではあるが、そんな一日があっても良いのでは・・・   このエッセイは平成25年10月の作品です。   ************************************** 今日の一日    これは、ただの言葉の羅列です。エッセイでもなく、ましてやショートストーリーでもありません。何のメッセージ性もなく、テーマもありません。ご用とお急ぎのない方は、読んでも構いませんが、何の益にもなりません。随筆とは何ぞや、メッセージは?テーマは?と考えている生真面目なお方は、もうこの辺で読まない方がよっぽど精神的なストレスを抱え込まないのではないかと思う。  さて、今日十月二十七日は、仕事が入ってなかったので、早良区の卓球大会へ出場することにした。朝六時半起床。残っている味噌汁とご飯を頬張る。それだけでは足りなかったので、スパゲティを茹でる。何の具も野菜もないので、わずかに残っているキャベツを刻み、鍋に二リットルの水に塩小さじ一を入れ、八分間茹でる。そして、ざるに移し、しっかりと水を切っていると「水はあまり切らないでゆで汁が残っている方が私は好き」むかっときたので、わざと水を目いっぱい切る。「自分でしたら?」と、娘がフォロー。何も言わず、中華鍋にごま油とにんにくを入れ、それにバターを追加し、水をしっかりと切ったスパゲティを入れ、手早く炒める。麺がなじんだらキャベツを入れ、手早く炒め、火を止める。ちょっと七味唐辛子を入れて完成。時間がなかったので、自分だけ食べていると、「私は?」娘が「自分でしたら?」面倒くさいので、お皿についで、箸も水も添える。食べ終わるとそそくさとバッグ片手に家を出る。途中でおにぎり一個を買い、バスに乗り込む。早良体育館まで十五分程度。試合が始まる五分前に到着。何の準備もないまま、試合に臨む。最初はミックスダブルスで相手は男性ペアだったので、ハンディ二本をもらう。そのハンディのおかげと相手の調子があがらないうちに勝ってしまった。次もミックスダブルス、パートナーのおばちゃんのイージーミスに「いいよ、いいよ」と言いながら、内心いらいら。負けてしまった。次もミックスダブルス。次のパートナーは、うるさいおばちゃん。自分もミスが多いくせに、こっちがミスると何かしら講釈が始まる。いつもははいはいと聞くのだが、今日は何だかいらいらしていて、無視を決め込む。最後までぎくしゃくしていたら、また、負けてしまった。最後は、シングルス。相手は今まで勝ったことがない強敵。だけど、二ゲームを先取。これはひょっとすると勝つかなぁと思っていたら、二ゲームを取られ、タイになってしまった。でも、粘りをみせて、何とか勝つことができた。このチーム、女性四人に男性は私だけだった。何となく気分が乗らないままに、試合が終わると早々と帰宅。家には、娘がいて、帰るなり、「ちょうど良かった。藤崎まで送っていって」あ~、何で女性は人をこきつかうのか、いらいらしながらも、送ってゆく。帰ったら、掃除、洗濯物とりこみ、かたずけ、風呂の掃除、掃除機かけ、終わる頃に、「迎えに来て?」と今度は家内から電話。家の中が一段落してから、車で拾六町の会社まで、迎えに行く。麻雀メンバーを乗せて、おじいちゃんの家へ直行。時間は夕方六時半。日本シリーズを気にしながら、半荘、ついていて一人勝ち。おじいちゃんが「時間が早いから・・・」暗黙のうちに、もう半荘。またもや一人勝ち。今日はついてるついてる。朝からのいらいらも解消。自宅へ戻り、携帯のカメラで写していた写真をパソコンへ送る。美のり新聞用だ。最後は、余暇草の原稿書き。最近の心模様を書こうと思ったが、人に読んでもらうには何だか鬱陶しい。楽しい話題に関して書こうと思ったが、これもつまらない。そんな訳で、こんな文章になってしまった。明日は、余暇草だが、平日なのに結婚式が十二時から入っているので、十五分程しか参加できない。何か原稿を持っていくと、許してもらえるだろう。そんなこんなで今日の一日は過ぎていった。私のいらいらを解消したのは、誰かの言葉でもなく、カウンセリングでもなく、ただの麻雀だった。人生とはそういうもんさと、嘯きながら、明日の結婚式の準備をする。寿三ヶ月とある。平日だし、できちゃった婚みたいだし、二人式か少人数なのだろうと考えながら、床につく。何とも人に語るような一日ではなかった。読むべき事はなかったが、原稿二枚完成。一八○○文字となった。 **************************************   10数年前は、不毛な一日があったようですが、 今は、ないです。好きな事を好きなだけしています。 気楽な一人暮らしです。それが不毛というのだよという声が聞こえてきそうですが。   それも亦、愉しからずや です。
義父が天に召されて、もうすぐ二年になる。 本当に手のかからない人だった。 介護できる人間はわたしだけ。 94歳で天に召されたが、あまり会話をする機会も 最後の方は、なかったような気がする。 今思うと、聞きたいことがたくさあんあったのに・・・。   このエッセイは、2013年10月の作品です。   ************************************** 麻雀介護    昭和三年生まれだから、八十五歳である。何だかんだと言う割には、頗る元気である。若い時には自ら志願して少年飛行兵に行って、韓国の水原(スウォン)を中心に出陣の支度をしているうちに終戦となり、日本へ引き揚げて来たそうである。運動能力は高く、身体能力も誰にも負けないほどの強者である。数年前の自動車事故で大怪我をしたにも関わらず、寝たきりになることもなく、最近は、要介護のランクが下がってきた。要は、手のかからない老人ということである。その義父は、隣に住んでいるので、家内は毎日顔を出しているようだが、私は、麻雀の時に顔を出している。麻雀は、ほとんど毎日やっているので、私も毎日ということになる。  家内が、まだ幼かった頃は、ミルク代を麻雀で稼いでいたようである。自宅に雀士が集まってきては、卓を囲んでいた。現在と同じじであるが、違うのは賭けないことである。ミルク代を稼ぐ必要もないし、お金に困っているわけでもない。そこそこに暮らしていけるのである。ただただ、楽しんでいるようである。一日のリズムは麻雀を中心に回っている。麻雀以外の時間帯に、病院や買い物、その他の所用を済ませているようである。メンバーも忙しいので、一時間半ぐらいで切り上げる。それも毎日続けられる理由のひとつかもしれない。  麻雀は、四人のメンバーでの会話あり、手を動かし、相手を観察し、捨て牌から相手の当たり牌を予測する、また、相手の性格から手牌を推測する。そして、計算もしなければならない。呆ける暇がないのでる。呆け防止で麻雀をしている団体もある。賭けさえしなければ、精神的にも経済的にも負担は少ない。  義父の家に行くのは、ただ単に麻雀を楽しむためだけではない。介護なのだ。介護だけの目的で行くとしたら、行く方も来られる方も少し構えるし、だんだんと重荷になってしまう。でも、麻雀を目的にしていたら、それが少し和らぐ。その日の体調も分かるし、精神的状態も垣間見ることができる。一石二鳥どころか何鳥にもなるのである。でも、こんな環境にあるのは、日本広しと言えど、うちぐらいではなかろうか。義父の家のひと部屋は、全自動の雀卓が備え付けられているし、メンバーはすぐに調達できるし、時間も融通がきく。あと五年は、この麻雀介護が続くことを望む。 ************************************* ある時、12時間ぐらい義父の話を聞いていた時があった。 あの時、なぜいろいろと質問しなかったのだろうか、 今なら、きちんと質問できただろうに・・・。 謎の多い森田家である。ちなみに私は養子です。   それも亦、愉しからずや です。
娘は今、転職4回して、5社目である。 昔と違い、転職にあまり抵抗はないようだ。 それは、本人もだが、世間もそうなっているようだ。 アメリカンナイズされてきているが、賃金はそうなってはいない。   時代遅れの私には、何の助言も提言もない ただただ、見守るだけである。   このエッセイは、2013年7月の作品です。   ************************************** ドボジョ    帳尻合わせの女が今やドボジョと化した。ドボジョとは、土木関係の仕事に従事している女子のことである。ニュースによれば、何だか急増しているらしい。その一翼を担っているかどうかは定かではないが娘も立派なドボジョである。天神の現場に夜な夜な現れ、朝の六時には引いている。ただ、ゼネコンだから実際の仕事は下請けの人たちが行い、彼女と所長と男性社員は、いわば監視役である。  このドボジョ、どうやら漫画が発祥らしい。大学出の娘が、作業服を身に付け、土嚢を運んだり、ユンボを動かしたり、男顔負けの働きをするらしい。娘が入った会社の反応は、男並みの頑健な女子が入ってくるものと思っていたらしいが、そこに登場したのは華奢な体つきの娘である。困惑したことだろう。私も勤まるのかどうか心配だ。入社二日目にはもう泣きが入っていた。綺麗な服で通勤したいのに、作業服で通勤するのが嫌だというのである。やはり女の子である。次の泣きは、現場の事務所では一日ほとんど会話がないということだった。所長は無口、一年先輩の男性社員もほとんど口を聞かない。そんなこんなで三ヶ月が過ぎてしまった。今では、何だか作業着が似合っている。夜の仕事にも徐々に慣れてきている。  その所長の趣味は読書にジャズにワイン。ほとんどのジャンルの本を読み、五年ほど前から少女文学にはまっているらしい。萩原規子、森絵都、香月日輪等々。文庫本を五十冊ほど貸してくれたそうだ。娘が読んだ本もあるし、まだ読んでいない本もある。ジャズもCDをリムーバブルディスクに落としてくれたそうだ。ジャズはワインを片手に聞いているらしい。独身の五十男、嫁が来ないのも分かる気がする。  所長と気が合うのか合わないのか分からないが、外見には似合わず優しいらしい。しかし、その優しさを伝えるのが苦手のようだ。娘は、所長を好きだが恐いという。この先、どうなるのか、気が気でないが、今は、「ドボジョ頑張れ」と見守るしかない。 **************************************    思い出すなぁ。真夜中にクレーンで釣り上げられて、写真撮影。 開発した現場用トイレを運んだとか。 朝6時ごろに迎えに行った、とか。etc.
作家久坂葉子の事は、今の今まで忘れていた。 自分が書いたエッセイを読みながら、思い出していた。 あの時の感動というか、ワクワクドキドキはどこへいったのだろうか。 そういえば、今はほとんど感動はない、でも、涙は流れる。   このエッセイは、2013年1月の作品です。   ****************************************************************************  作家久坂葉子のこと    彼女の名前を初めて目にしたのは、日本経済新聞のコラム「春秋」の中だった。心惹きつけられたキーワードは、「伝説の作家」「女太宰治」「男爵家出身」「川崎製鉄所創業者のひい孫」「二十一歳で鉄道自殺」、恥ずかしながら一度も聞いた記憶がない作家。そんな彼女に魅入られてしまったのだ。早速、数箇所の書店をあたってみたが、品切れか絶版。芥川賞にノミネートされた「ドミノのお告げ」は絶版、自殺前に書かれた「幾度目かの最期」は品切れ。でも、「幾度目かの最期」の方は、一月末に重刷する予定だとのことで、注文することにした。久しぶりに気持ちが昂揚し、何だかわくわくしてきた。待ち遠しいのだ。ところが、何気なく総合図書館のホームページから検索してみたら、「久坂葉子全集」も「ドミノのお告げ」も備えていたのだ。何でもっと早く気づかなかったのかと思いながらも予約を入れた。全集も「ドミノのお告げ」もすぐに手元に入ってきた。でも、書店で注文したことには悔いはなかった。手元に一冊ぐらいは持っておきたかったからだ。  早速、「ドミノのお告げ」を読み始めた。没落貴族の話。主人公の雪子は二十代半ばで独身、賭け事好き。父は喘息持ちの寝たきり病人、母は神霊教という神道の一派の信者。兄は、肺結核で入院中。弟は音楽を目指している学生。みんな働いてないのに、どうして生活をしているのか。家にある財産を売って生活をしているのだ。雪子は、世間体があるという理由で働くのを両親から止められている。しかし、両親に見つからないように働いて何がしかの収入を得ている。ある日、貴金属を売りに町へ出かけ、何とはなしに八卦見でみてもらうと、「今月中に動という字が出てますから、何か、あなた自身か家族に変動があると思います」ということだった。これが、「ドミノのお告げ」だ。ドミノというのは象牙でできた西洋カルタ即ちトランプである。その翌日、いつも咳をしている父親が静かなので部屋を覗いてみると自殺をはかって既に死んでいた。葬式を終えたある日、親戚四人でカードの卓をかこんでいた。賭け事をしながら雪子は述懐する。「この時だけ命を燃やしていると感じる」と。ここには、雪子が、「人生は賭け、そうであるならば賭けに生きよう」という決意がにじみ出ている。  太宰治の「斜陽」に似た雰囲気で物語は進んでいくが、私が生まれた翌年に阪急六甲駅で電車に飛び込み自ら命をたってから六十年、今私がこの作品に出会ったのは何の意味があるのだろうか。また、久坂葉子という作家に惹かれたのは何なのだろうか。「今知らず、後に知るべし」だろうが、ただ、今言えるのは、何篇かの作品を読み進むうちに自分の感性に近いものがあるということだ。言わば共感できる作品のひとつということだ。 ****************************************************************************   11年前は確かに共感し、彼女の本を読んだはずだが、あまり覚えていない。 その時の感動も共感した事も記憶にない、加齢の為なのか? 忘却とは、忘れ去ることなり、忘れえずして、忘却を誓う、心の空しさよ。 誓わなくても、忘れてしまっているのも、虚しいものです。   それも亦愉しからずやです。   それでは、皆さんの明日が希望に満たされたものとなりますように・・・。 おやすみなさい。よっしーでした。
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