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リジョイス聖書日課
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リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」 (サムエル記上3章9節) 神は聖書の目的を次のように教えておられます。「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハ20章31節)。 サムエルが神殿で寝ていると、ある声が彼を呼びました。彼はそれが神の声だとは知りませんでした。後に祭司エリの助言によって、それが神の声であったことを知ります。この出来事の目的は何でしょうか。1節に「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく」とあるように、当時は祭司や預言者に神の言葉が語られるということがほとんどない時代でした。 このような時代に、人が神を探したのではなく、神が人を探し求めておられます。夜中に眠っているサムエルに、しかも神だと分からないサムエルのところに、神が来られます。そして語りかけられます。「サムエルよ!」。そうです。どれほど時代が暗くても、サムエル自身が神の声を聞き分けられないほどに闇が強い時代でも、神は世界を再び起こされる計画をお持ちです。そして神の神殿たる一人の人(2コリ6章16節)、神がお用いになる一人の人を通して、神の御計画は実現していきます。 神が聖書を通して語られても、神の声だと認めない時代のなかで、私たちは神の御心に聞き続けます。 【祈り】 神よ、あなたの御声を神の声として、聞き分ける耳と従順な心を与えてください。
「弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ 高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」 (サムエル記上2章8節) ハンナは、自分の子どもであるサムエルを神に献げたあと、この歌を歌います。ハンナの歌は、王の権能を讃える歌です。ハンナはこう歌います。「主にあってわたしは角を高く上げる」、「思い上がった言葉を口にしてはならない」。なぜなら「勇士の弓は折られ」、「食べ飽きている者はパンのために雇われ」、「多くの子をもつ女は衰える」からです。その一方で「よろめく者は力を帯び」、「飢えている者は再び飢えることがな」く、また「子のない女は七人の子を産」む。 神だけが王です。だからこそ、人の目には強かった者が再び弱くなり、弱かった者が強くなり、豊かだった者が貧しくなり、何もなかった者が豊かになるのです。 この真理を要約したのが6節と7節です。「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」。 この御言葉の核心は、主なる神が真の王であり、私たちの人生はすべて神の御手にかかっているということです。私たちの人生が本当に誰を見つめ、どのような目標に向かって進むべきかを深く考えましょう。私たちの真の王イエスを見つめましょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章47節)。 【祈り】 真の王なる神よ、あなたが私たちの人生を導き、高め、祝福してくださることを感謝します。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 (ルカによる福音書18章14節) 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(10節)。ファリサイ派とは、律法の戒めに忠実に生きようと努めていた人たちで、正しい者と見なされていました。徴税人とは、支配者であるローマ帝国のために同胞から税金を徴収しつつ私腹を肥やしていた人たちで、罪人の代表と見なされていました。 ファリサイ派の人は祈りの中で、自分の信仰とその実践を誇り、神に感謝しました。徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)とだけ祈りました。これについて、主イエスは、義とされたのは徴税人であるとし、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と結論しました。 ただ、ファリサイ派の人には高ぶっているつもりもなかったでしょうし、徴税人にもへりくだっているつもりもなかったでしょう。 ファリサイ派の人は、「心の中で」祈ったのですが、この言葉は原文では、「自分自身に向けて」です。神に心を向けていたのではないのです。だからその祈りは、自分と人を比較して、自分を誇るものとなります。徴税人は、人は見ずに神のみを見つめていました。だからその祈りは、罪の赦しを求めるものとなります。それが御心に適ったのです。 【祈り】 私たちが神にのみ心を向けることができるようにならせてください。
我らの神、主をあがめよ。 その聖なる山に向かってひれ伏せ。 我らの神、主は聖なる方。 (詩編99編9節) 私たちが神を「天の父なる神よ」と呼びかけることができるのは、どうしてでしょう。なぜ私たちは神を知り、礼拝することができるのでしょう。改めて考えてみると大切なことに気づきます。 聖書は私たち人間に罪があることを指摘します。そして、そのような私たちに関わり続けてくださるのも神であると教えてくれます。神は罪に対して必ず裁きもって報いられる。しかし同時に、神は人間の罪をお赦しになる御方です。 昔からイスラエルの民は、必ずと言っていいほど数多くの失敗をしました。神の思いよりも自分たちの思いを優先する罪のため、何度も神を悲しませてしまうのです。でも神は、その都度、働き人をお立てになり、ご自分の民と向き合ってくださいました。「主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた」のです(6節)。 今、神と私たちとの間に立ってくださるのは、ほかでもありません、主イエス・キリストです。この救い主を通して罪赦され、神が語りかけてくださるからこそ、私たちは「天の父なる神」と呼びかけて、神を礼拝できるのです。そのような主なる神を聖なる方としてあがめましょう。 【祈り】 天の父なる神よ、私たちの罪を赦し、あなたとの交わりを喜ぶために、きょうもわたしに答えてください。
エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。 (サムエル記上1章3節) サムエル記上は士師の時代の延長線上にあり、士師時代の核心は「主なる神が王とされない世界」ということにありました。人びとは「自分の目に正しいとすることを行っていた」、つまり、すべての人が自分自身を王とした世界に生きていました。それは、誰も神の律法を守らず、誰も神の御言葉に関心を払わずに生きていた時代でした。その時代は、士師記の後半を見るとよく表されています。たとえば、ミカの偶像事件(17、18章)やベニヤミン族の側女事件(19~21章)は、当時のイスラエルがいかに神の言葉を軽んじ、勝手気ままであったかをよく示す出来事です。 しかし、そのような時代のなかにあって、神の契約の箱があったシロに上って万軍の主に礼拝をささげる人がいました。誰もそうしていませんでしたから、たとえそうしなくても非難されない、他の人もそうしていませんでしたから、罰を受けることもない。しかし、エルカナは「世が基準」ではなく、「神の御言葉が基準」でした。ですから、毎年、シロへ神に礼拝するために上っていきました。 私たちは、このエルカナの姿に、神が士師の時代をどのように終わらせるかを垣間見ることができます。神は、これから、このエルカナの息子サムエルを通して、この混沌の士師時代を終結させるでしょう。 【祈り】 主よ、混沌の時代にも揺るがない信仰を与えてください。
すべてに耳を傾けて得た結論。 「神を畏れ、その戒めを守れ。」 これこそ、人間のすべて。 (コヘレトの言葉12章13節) 「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1章2節)。コヘレトは、彼の生きる現実を、すべては空しいと語ります。しかし、コヘレトはその現実をただ嘆いていただけの人ではありません。目の前の空しい現実を直視し、その中に真理を見つけようとした人です。その結果、見つけ出した真理、それが「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」でした(12章13節)。 戒めとは何でしょうか。主イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と教えてくださいました(マタ22章37~40節)。 神を愛するとは、神から与えられたさまざまな恵みを、何よりも十字架に示された神の愛と救いを心に留め、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです(『ウ小教理』問一)。 私たちの生きる現実は空しさであふれています。しかし、そこに示された神の恵みと愛に心を向け、神を愛し、神が与えてくださった今日を懸命に生きようとする者を、神は空しい人生から解き放ってくださいます。 【祈り】 主よ、あなたの恵みを数え、あなたを愛する一日としてください。
すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。 (コヘレトの言葉11章5節~6節) コヘレトの時代、種蒔きは、ただ地面に種を振りまくだけだったそうです。どの種が実るかわかりません。一つも実らないかもしれません。「実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からない」のです(6節)。 皆さんなら、そのような先のわからない状況でどう行動しますか。 コヘレトは、「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな」と答えます。ただ種を蒔くのではありません。神が成し遂げてくださることは私たちにはわからないのだから、朝から晩まで、夜も休まず種を蒔き続けろと答えるのです。 私たちは一秒先のことも分からない存在です。そのような私たちに、さまざまな将来の不安が襲ってきます。最悪のケースを思うと、体が動かなくなることもあります。そのような私たちに、コヘレトは、先がわからないからこそ、すべてを成し遂げてくださる神に信頼し、神が与えてくださった今を最善を尽くして生きろと勧めるのです。 ガラテヤの信徒への手紙に「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」とあります(6章9節)。成し遂げてくださる神の時を待ち望み、神に委ねられた種を、きょうも蒔き続けたいと願います。 【祈り】 主よ、今日も、あなたに委ねられた種を蒔き続ける者としてください。
愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。 都に行く道さえ知らないのだから。 (コヘレトの言葉10章15節) 会社員時代、「このプロジェクトのゴールはどこですか」と何度も問われました。目指すゴールが誤っていると、結果を出せないばかりか、多くの人の努力が報われないからです。 コヘレトは、「愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから」と嘆きます(15節)。この愚者は、城壁に囲まれ、安心して豊かな生活が待っている都に続く道を知らない人でした。もしかしたら、自分勝手に都に続く道はこれだと思い込み、誤った道を日々労苦して歩んでいたのかもしれません。その労苦は報われることはなく、疲労感が残るだけです。 私たちは、この愚者を笑えるでしょうか。私たちもまた、自分の力のみに頼り、人生の意味や目的を探そうとする者、迷走の果てに、虚しさに涙する愚者の一人ではないでしょうか。 そんな私たちに、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と語りかけます(ヨハ14章6節)。私たちは、神の都に至る道を自力では歩めない者です。そんな私たちが神の都にゴールできるかどうか、それは神の都に続く道である主イエスに人生を懸けるかどうかにかかっています。主イエスは、主イエスに人生を懸ける私たちに応えてくださる方です。 【祈り】 主よ、ますます主イエスに心を向け、主に従う者としてください。
太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。 (コヘレトの言葉9章9節) コヘレトは、「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」と私たちに語りかけます。この「楽しく生きる」と訳されている言葉は「見る」という意味を持つ言葉です。聖書協会共同訳は、この箇所を「愛する妻と共に人生を見つめよ」と訳しています。コヘレトはここで、単純に楽しく快楽を求めて生きろと言っているのではありません。大切な人生のパートナーと共に二人の人生を見つめて楽しく生きろと語っているのです。 二人で見つめる人生をコヘレトは「与えられた空しい人生」と語ります。「空しい」という言葉は「息」とも訳せる言葉です。詩編144編に「人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影」(4節)とあります。確かに人生は消え去る影のように短く、はかないものかもしれません。しかし、二人が共に見つめる主が与えてくださった人生は、はかないまま終わる人生ではありません。 主イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とおっしゃいました(マタ19章6節)。二人で見つめる人生は、その中心に二人を結び合わせた主がおられる人生です。深い悲しみや怒りが襲うこともあるでしょう。しかし、二人の中心におられる主が、二人を堅く守り、導いてくださる人生です。 【祈り】 主よ、あなたが中心におられることを感謝する一日としてください。
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」 (ルカによる福音書18章8節) 主イエスは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」たとえを話されました。私たちが、祈りが聞かれないと思って気を落としてしまい、祈ることを止めてしまうことがあるからです。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」(2~4節)。どうやらこれは、やもめが正しく、「相手」が間違っているようです。続きを読むと、やもめは裁判官が迷惑がるほど訴えていますから、やもめは本気で自分が正しいと思っていたでしょうし、裁判官が取り合わなかった理由として、やもめが間違っていたということは言われていません。やもめは立場が弱いために、取り合ってもらうのに時間がかかったのです。 「まして」、祈る相手は神であり、あなたがたは「選ばれた人たち」である。「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。最終的な裁きは世の終わりに「人の子が来るとき」になされます。その時まで、祈りつづけたいのです。神は良い裁判官として裁いてくださいます。 【祈り】 私たちが、神の裁きを求めて、祈り続けることができるようにならせてください。
琴に合わせてほめ歌え 琴に合わせ、楽の音に合わせて。 ラッパを吹き、角笛を響かせて 王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 (詩編98編5節~6節) 神は、ご自分が真の神であること、ご自分の民を愛していることを示すためにさまざまなことを成し遂げられます。特に注目すべきは、イスラエルと結ばれた約束を成就していくことです。 神は、ご自分の民イスラエルと結ばれた契約を忘れることなく、必ず守られます。旧約聖書時代の信仰者たちも、神が「イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた」と語ります(3節)。イスラエルの民が苦しんでいたら、その声を聞いてくださいます。イスラエルの民が危機に直面したら、それを乗り越えられるように救いの手を差し出してくださるのです。 するとどうでしょう。約束の成就である神の恵みの御業が多くの人たちに知れ渡ります。もちろん、その恵みの御業を信仰者たちは実際に目の当たりにします。そして自分たちの神が真の王として君臨していることを心強く思い、喜び歌います。「琴に合わせてほめ歌え、琴に合わせ、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」と。 明日は日曜日の礼拝です。神が私たちのためにしてくださった救いの御業を思い起こし、主を喜び歌い、御名をほめ歌いましょう。 【祈り】 天の父なる神よ、あなたの救いの御業を見て、心からあなたを喜び歌うことができるようにしてください。
わたしは…昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。 (コヘレトの言葉8章16節~17節) どうしてですか。そう問わずにはいられない理不尽な現実が、この世にも、そこに生きる私たちの営みにも溢れています。受け入れがたい現実を前に、「なぜ」「どうして」と問い続けます。しかも、答えの出ないその問いは、しばしば、新たな怒りや悲しみ、自己嫌悪を生んでいくように思います。でも、問わずにいられない。 そのような私たちに、コヘレトは「まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない」(17節)と語りかけます。有限な人間は、永遠の神の業をすべて知り尽くすことなどできないと言うのです。 では、どうしたらよいのでしょう。なおも問い続ける私たちに、主は、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレ29章11節)と語りかけます。 答えの出ない問いの連鎖を断ち切る鍵、それは「なぜ」の先に、将来と希望を与えてくださる神を見ることです。その神が与えてくださった今を「いかに生きるか」に、心の向きを変えることです。その歩みを「天と地の一切の権能を授かっている」主イエスが共にいて支えてくださいます。 【祈り】 主よ、「なぜ」「どうして」と問い続ける私たちを守り、導いてください。
知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが 知っておくがよい 知恵はその持ち主に命を与える、と。 (コヘレトの言葉7章12節) 私たちの身を守るものはなんでしょうか。その問いにコヘレトは「知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが」(12節)と答えます。口語訳聖書では「陰に宿る」を「身を守る」、「銀」を「金銭」と訳しています。身を守るものは何ですか。その問いに、コヘレトは身を守るものは「金銭」と「知恵」だと言われていると答えるのです。しかし、コヘレトは「金銭」と「知恵」を同列に捉えていません。続いて「知っておくがよい、知恵はその持ち主に命を与える」と加えます。 「金銭」は、私たちの生活を守る大切なものです。しかし、永続的に私たちに平安を与えるものではありません。金銭を求めるあまり、心が窒息してしまうことすらあります。 しかし、知恵は違います。「知恵はその持ち主に命を与える」とコヘレトは言うのです。持ち主に命を与える知恵とは何でしょうか。その問いに、聖書は詩編30編で「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました」(4節)と答えます。 命を与える知恵とは、私たちに命を得させるために主イエスを送ってくださった神を知ることです。その知恵を通して、神は私たちの身を守り、深い平安で満たし、絶えず新しく私たちを生き返らせてくださいます。 【祈り】 主よ、きょうも、あなたに心を向け、あなたを知る一日としてください。
これまでに存在したものは すべて、名前を与えられている。 人間とは何ものなのかも知られている。 自分より強いものを訴えることはできない。 (コヘレトの言葉6章10節) 太陽の下で人間を大きく支配している不幸は「死」です。人間には永遠を思う心が与えられていても(3章11節)、永遠に生きるのは神だけです。人の短い日々を思い巡らせば、地上で得た富も財産も名誉も家族もすべては死という終わりが奪います。 この世で与えられている私たちの命には限界があり、「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る」(5章14節)定めにあります。しかし、そうした命を私たちに与えた神は、私たち一人ひとりの名を呼び、この世での働きを与えて、私たちの行く道をも定めておられる御方です。 人の欲望は果てしなく満足を求めて自分の幸福を追求しますが、死の向こう側で何が待っているかを知る者は「太陽の下にはいない」のであって、神だけがご存じです。コヘレトは現世利益を追求するのが知恵だと言うのではなくて、神を越える知識を求めたり、神が与える以上の幸福を願ったりすることの空しさを説いています。それは聖書が教える知恵である「神を畏れること」に始まり、罪と死から逃れられないでいる自分という人間を知る信仰の道です。 神は、私たちの「短く空しい人生の日々」を、主イエスと共に歩む「短くても空しくない喜びの日々」に変えてくださいました。神を信頼することこそ神が人に与えた知恵でしょう。 【祈り】 生涯の終りに主イエスとお会いすることを心から待ち望みます。
神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。 (コヘレトの言葉5章17節) ここでは、初めに言葉によるつまずきが述べられます。大言壮語や饒舌は神の言葉の邪魔をし、御旨を裏切る結果をもたらします。そうならないように、主イエスは山上の説教で弟子たちに「一切誓いを立ててはならない」とお命じになりました(マタ5章34節)。 そして、賢者は労働の尊さを語ります。「働く者の眠りは快い、満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない」(11節)。世の中に不正がはびこり、企業が労働者から搾取して利益をひたすら貯め込むことの空しさを、賢者は見抜いています。苦労して働いた結果は神の賜物であり、それを皆で分かち合って短い人生の日々を楽しむことは、神が人に許しておられる幸福です。 王に与えられた領域では、その地位も富も財産も、感謝して喜ぶことのできる賜物であったとしても、それを賢く管理する知恵が欠けていれば空しく不幸な結果を国にもたらすことでしょう。箴言では、「主を畏れることは知恵の初め」と教えています(1章7節)。与えられた地位や立場の中でそれぞれの分を果たして労苦し、その結果を感謝して喜ぶことは、幸福で良いことです。だれもがそうした幸せな日々を送ることができるように祈り、働きかけることも、私たち教会の務めではないでしょうか。 【祈り】 日々生かされることの喜びをすべての人にお与えください。
ひとりよりもふたりが良い。 共に労苦すれば、その報いは良い。 (コヘレトの言葉4章9節) コヘレトは地上から虐げが無くならない現実を見て、その世の中で生きなければならない不幸を率直に言葉にします。確かに「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだ」(4節)という現実は、今も昔も変わりません。その競争心から、隣人を遠ざけ孤立するならば、人生は空しくなり不幸であると、賢者はつぶやきます。「ひとりよりもふたりが良い」。これが賢者の悟った知恵です。 しばしば権力者はひとりよがりになって孤立し、他人の言葉に耳を傾けなくなります。かつてエジプトのファラオも、モーセばかりでなく臣下の者の言葉をも退けて、国に荒廃をもたらしました(出8~11章)。富や権力は、それを手にするまでは自分を賢くし幸せにする手段と思えます。しかし、隣人を押しのけて手にしたその地位から得るのは空しい労苦だけだったと、結局は気づかされます。「貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を入れなくなった王よりも良い」(13節)。 神は最初の人間に伴侶を与え、世に御子イエスを与えて、私たちがひとりになって人生を空しく費やしてしまわないようにしてくださった御方です。神の知恵に頼って隣人を愛する道へと進みましょう。 【祈り】 私たちから空しい競争心を取り除いて、互いに助けあう思いを与え、実りある日々を送らせてください。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 (ルカによる福音書17章19節) 重い皮膚病を患っている人びとを主イエスがお癒しになりました。それは、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)という言葉によってでした。「重い皮膚病」には「むち」、「こらしめ」という意味があり、この時代には、神から罰を受けたと見なされるものでした。ですから、この病については、それにかかったと判断するのも、清くされたと判断するのも、祭司の務めでした。 人びとが癒されたのは、「そこへ行く途中で」でした。つまり、癒された人びとは、まだ何も起こっていないのに、主イエスの言葉を信じて、そのとおりにしたのです。この十人の人びとは、信仰のお手本のような人びとです。 「大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のは一人だけでした。主イエスは、他の人々が戻ってこなかったことを残念がられ、この人だけが、「あなたの信仰があなたを救った」との御言葉をいただきました。 癒されることと救われることとは違います。九人の人びとは、清くされたと判断してもらうこと、つまり、自分のことを最優先しました。一人の人は、主イエスを賛美し礼拝することを最優先しました。救いは、主イエスとのつながりを第一にする者にあるのです。 【祈り】 私たちが救われた者としてふさわしくあることができますように。
主こそ王。 全地よ、喜び躍れ。 多くの島々よ、喜び祝え。 (詩編97編1節) 私たちが生きている世界は広大です。自然そのもの、国や民族の営み、そこに生きている人びとの多種多様な考えが、数えきれないほど渦巻いています。それほど広い世界の中で頼れるものがあるとしたら、それはいったい何でしょう。 旧約聖書時代のイスラエルは、神に背いたことの報いを受けました。神を礼拝するエルサレム神殿は破壊され、捕囚民となって外国に連れ去られてしまうのです。しかし、神が彼らを見捨てることはありませんでした。神は捕囚となったイスラエルを連れ戻し、エルサレム神殿再建への道を開いてくださいました。これは、主こそ全世界の上に立つ真の王として臨み、大いなる力をもって即位されていることを示すことになりました。 自分たちの神こそ主であり王である。それは信じる人びとの生き方を力強くしてくれます。古の信仰者たちは、全世界を治める主こそが王であることから安心と嬉しさに溢れて喜び躍ります。するとどうでしょう。「主を愛する人は悪を憎む」ようになり(10節)、主の約束を見つめてあらゆる場面に主の助けがあると固く信じて人生を歩み始めるのです。 神は全世界の上に即位される王として、今の私たちの人生を確かに導いてくださいます。 【祈り】 天の父なる神よ、あなたが世界を治める王として私たちを愛し、支えてくださると信じさせてください。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。 (コヘレトの言葉3章11節) 日本のポップ・ミュージックの歌詞に、「永遠などない」というフレーズが出てくることがあります。「永遠」などという夢想じみた不確かな言葉に踊らされないで、確かな現実を見つめたいとの気持ちでしょう。しかしコヘレトは、神が「永遠を思う心を人に与え」たと言います。それは死に定められた人間には手に入らないのですが、それを思う人の心は本来のものだと言うのです。その「永遠」とは、この地上にあるものではなくて神の領域です。地上のすべての事柄には神が定めた時があります。 すべての命には終わりがあることをコヘレトは賢く見ています。その点では人間にも動物にも違いはありません。「自分も動物にすぎない」とコヘレトははっきり言います(18節)。その上で、その命の限界を越える科学が必要と現代人は考えるかもしれません。自分のすべてのデータをデジタル化してどこかに保存すれば、自分自身は肉体を越えて存続できるのかもしれません。永遠を思う人の心は止むことがないのです。 神がお許しになるなら何事も可能でしょう。しかし、今を生きることの恵みと喜びを捨てて、永遠を手にしようとする人の試みは、やはり「空しい」のではないでしょうか。それを手にする時は、キリストの復活によって定められています。 【祈り】 永遠を思う人の心に主イエスの復活を示してくださり感謝します。
人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。 しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの。 (コヘレトの言葉2章24節) コヘレトは王としての富と財を用いて地上のあらゆる快楽に身を委ねてみました。それによって人間が幸せになれるのではないかと考えたからです。今でも、お金さえあれば幸せになれると思う人はあるでしょう。貧しい暮らしに疲れていればなおさらです。大昔にそれを実践してみたのがコヘレトです。この世の富を追いかけるにも苦労がいりましたが、彼はそれも楽しかったと言っています(10節)。しかし、願いを叶えてひととき達成感にひたったとしても、よくよく考えてみると、それも「空しい」のが、賢者の試みの結果でした。 「空しい」という言葉は、創世記の「カインとアベル」の話に登場する「アベル」の名と同じで、「蒸気、息」を意味します。弟アベルは兄の妬みを買い、野原で若い命を奪われました。人間を襲う死は誰にも等しく訪れます。コヘレトのように努力して賢くなろうと、反発して狂気と愚かさに身を委ねようと、賢者にも愚者にも死は訪れ、命ばかりでなくその名も永遠に地上に留めることはできません。アベルの名のとおり、その命は蒸気のように空中に消え去ります。 そのような人生の中で感じ取ることのできる神の恵みは、自分で労苦し、自分で飲み食いすることだと、コヘレトは率直に告白します。 【祈り】 日々、自分で働く力と生活を養うことのできる恵みを、すべての人にお与えください。
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