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天理教の時間「家族円満」
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天理教の時間「家族円満」

Author: TENRIKYO

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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。
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最後のギュー

最後のギュー

2025-10-10--:--

最後のギュー 岡山県在住  山﨑 石根 私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。 信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。 私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。 さて、その報せは記念のお祭りの二日前の5月8日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。 報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。 ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。 賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。 その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。 私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。 今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。 すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。 父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。 さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。 6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。 しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。 お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。 母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。 また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。 さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。 「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。 さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き!」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな?」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。 「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」 今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、5月5日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き!」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や~」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。 妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。 妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし!」と姉と妹から異議が唱えられました。 「ホンマやね。みんな、ありがとう」 今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。 なにかなハんとゆハんてな 教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。 三下り目に、  六ツ むりなねがひはしてくれな    ひとすぢごゝろになりてこい  七ツ なんでもこれからひとすぢに    かみにもたれてゆきまする とあります。 このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。 それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。 しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。 では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。 直筆による「おふでさき」に、   月日にハなにかなハんとゆハんてな  みなめへ/\の心したいや  (十三 120) とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。 「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。 「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。 (終)
記憶に残る活動を 埼玉県在住  関根 健一 2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。 長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。 小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。 長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。 一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。 2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。 たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。 こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。 「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか?」 野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。 そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。 「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」 私はこの言葉に深く納得しました。 どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。 さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。 プログラムの中で、教祖が現身を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。 その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。 上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Aさんと、私より少し年上と思われる女性Bさん、そして私の三人でした。 AさんもBさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Aさんはこうおっしゃいました。 「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」 その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。 「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」 するとAさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。 そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。 その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。 残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。 だけど有難い「ノミのジャンプ」 ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。 ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。 人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。 私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。 最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。 そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。 そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。 それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族はどうなるのだろうと思ったら、なんとしてもたすけていただきたいという気持ちになって、「生涯、神様の御用一筋につとめます。おたすけをして通ります」と決心したのです。「ひのきしん隊に行くのは無理だ」と考えていた人が、生涯、神様の御用一筋に通る決心をしました。 十日後に再度、診察がありました。検査の結果、ガンが消えていたのです。彼は喜びいっぱいに修養科へ行って、教祖百三十年祭をおぢばで元気に迎えさせていただいたということです。 ノミの話に戻りますが、コップの高さまでしか跳べなくなったノミは、いったいどうすれば元に戻るか。自分の体の五十倍、百倍跳ぶノミのなかに入れたら、すぐに跳べるようになるそうです。私は、これが教会だと思います。教会へ行けば、自分の枠や殻でなく、神様を目標に歩んでいる人たちがいます。その人たちは、いわば五十倍、百倍跳んでいるノミの仲間です。そこへ入ることによって、すぐに自分も跳べるようになる。これが教会だと思うのです。また、そんな教会でありたいと思います。 (終)
砂を噛む日々(後編) 助産師  目黒 和加子 商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。 空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90%の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。 理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。 実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。 そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。 「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」 新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。 ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。 実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが3才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。 参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。 京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。 「あ~よかった!」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。 その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。 そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。 空ちゃんの3才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。 「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」 下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク&バッグせえへんかったん?」 マスク&バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。 「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」 「もし院長さんを呼んでたら、マスク&バッグしたと思うか?」 「はい、100%したと思います」 「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク&バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外! やったらあかんのや。 肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク&バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」 瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。 「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク&バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」 噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。 空ちゃんが3才になるまで勤め続けていなかったら、A先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、A先生の前でわんわん泣きました。 数日後、空ちゃんは3才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。 すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。 また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って!』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。 そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。 壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。 クサはむさいもの 人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。 しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。 むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。 明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。 教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、 「おタネさん、クサは、むさいものやなあ」 と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。 タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにしてはがれていました。頭の地肌にはすでに薄皮ができていて、すっきりとご守護頂いたのです。(教祖伝逸話篇107「クサはむさいもの」) この教祖の逸話は、人をたすける上では、言葉より、まずは真心を込めてお世話をすることがいかに大切であるかを、教えられているのではないでしょうか。そして教祖は、それに加えて、ほんに短いお言葉でタネさんに心の治め方をお諭し下されたのです。 (終)
砂を噛む日々(前編) 助産師  目黒 和加子 ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。 今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。 担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。 薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空(そら)ちゃんと名前がついています。 胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後2時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。 しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。 空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90%。保育器に入れ、酸素を与えると94%まで上昇しました。 「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95%になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64%まで低下したのです。 「64%!ありえない!」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。 しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。 「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。 出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。 「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」 空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。 「こうなったら神さんしかない!」 家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。 24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。 「やっぱり神さんしかない!」 家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。 その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。 72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。 院長は「酸素飽和度が64%まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。 それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので3歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。 しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。 私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。 その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。 早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。 思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ!」と気づいたのです。 リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で。 人の目と神様の目 私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。 お言葉に、   このせかい一れつみゑる月日なら  とこの事でもしらぬ事なし (八 51) とあります。 この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。 親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。 教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。(教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」) このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。   なにもかも月日しはいをするからハ  をふきちいさいゆうでないぞや (七 14) 親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、人の目先の評価にも一喜一憂することなく、親神様の思いに近づくことが出来るのではないでしょうか。 (終)
人生100年時代

人生100年時代

2025-09-12--:--

人生100年時代 千葉県在住  中臺 眞治 5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか?」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。 最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。 元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。 こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。 厚生労働省が発表した令和6年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。 高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。 例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。 その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。 急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。 困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。 この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。 また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。 少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。 また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。 天理教の原典「おふでさき」では、   このたすけ百十五才ぢよみよと  さだめつけたい神の一ぢよ (三 100) と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。 昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。 私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。 行いに表してこそ 思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。 そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。 親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。 しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ!」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。 教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。   月日にハたん/\みへるみちすぢに  こわきあふなきみちがあるので (七 7)   月日よりそのみちはやくしらそふと  をもてしんバいしているとこそ (七 8)   にんけんのわが子をもうもをなぢ事  こわきあふなきみちをあんぢる (七 9)   それしらすみな一れつハめへ/\に  みなうゝかりとくらしいるなり (七 10) この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。 信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。 (終)
タイでひろがるたすけ合いの輪 タイ在住  野口 信也 私はタイへ赴任して14年目になります。教祖140年祭に向け、皆が心を一つにして、病気の方や困っている方の力になってもらいたいとの真柱様の思いを少しでも実現するため、教友の方々と様々な取り組みをしてきました。そうした中、身近な方々が重病を発症されたり、急にお亡くなりになるなど、心を倒しそうになることもありましたが、大きなたすかりを頂戴することも多くあり、教祖の年祭へ向けた活動の大切さを改めて感じる毎日です。 そうした活動の中でのことをお話したいと思います。友人の誘いで信仰を始め、母親の大けがを通して親神様の大きなご守護を体験したチューンさんという方がいます。私の住むタイ出張所の近くで小さな料理屋を経営し、そこに妹さんと住んでおられました。 チューンさんの妹さんは優しくてとても温厚な方でしたが、病弱で心臓病や重度の糖尿病など様々な病気を併発していて、私は病気の平癒を願い、何度かおさづけをさせて頂いていました。かいさ しかしその後少し遠方に引っ越され、コロナ禍もあり思うようにお会いできなくなってしまいました。 チューンさんは以前から、自分も人類のふるさとである天理で教えを学ぶべく修養科を志願し、おさづけの理を拝戴して、一日も早く妹におさづけを取り次ぎたい、と話していました。 そして、2020年5月から開始予定の修養科タイ語クラスに志願するため、料理屋を辞め、日本のビザを取得し、後は出発を待つのみでしたが、コロナ禍の影響で二年に一度開催されるはずのタイ語クラスが急遽中止となってしまいました。そして、あらためて開催されることになった2022年の修養科タイ語クラスへの志願を目前に、妹さんは残念ながらお亡くなりになりました。 私は、チューンさんは修養科を辞退されるのでは、と思いましたが、「神様との約束ですから」と初志貫徹。修養科にて三か月間学び、自身の悩みの種であったひざの痛みも完治のご守護を頂き、勇んでタイへ戻ってきました。 そして、知り合いや近所に病気の方やケガ人がいると、自身の学んできたことをお伝えし、妹さんに出来なかった思いも込めて、おさづけの取り次ぎを続けておられました。 「これまでおさづけを取り次がせて下さいとお願いして、一度も断られたことはありません」と、チューンさんは嬉しそうに話していました。 そんなある日、今年の一月のことです。チューンさんを信仰に導いたBさんから連絡があり、チューンさんから緊急のラインが入ったとのこと。現在、バンコクから約400キロ離れたブリラム県の病院で母親の看病をしているが、膀胱炎で血と膿が止まらず、心臓肥大に末期の腎不全など様々な症状を併発している。94歳という年齢も考え、延命治療は断っているが、検査のための採血などで腕は青あざだらけで、可哀そうで仕方がない。お母さんが安らかな最期を送れるようお願いして欲しい、とのことでした。 お母さんは家庭の事情から、チューンさんの兄嫁の実家へお兄さんと一緒に引っ越しておられたので、10年ほどお会いできていませんでした。私は何とかもう一度お会いしたいと思い、すぐに車を運転してBさんと現地へ向かいました。 到着後、病室へ入ると、お母さんはとても苦しそうで話が出来る状態ではなく、すぐにおさづけを取り次ぎました。すると、たちまちいびきをかいて気持ち良さそうに眠ってしまいました。 私が来るのを待って下さっていて、このままお亡くなりになるのでは、という不安が頭をよぎりました。その横でチューンさんとBさんは、「お母さんはこの辺りに知り合いがいないので、葬儀はバンコクでやりたい」など、今後のことについて相談をしていましたが、夜間の地方道路での運転は危険を伴うため、15分ほどの滞在ですぐにバンコクへとんぼ返りしなければなりませんでした。しかし帰りの運転中も、バンコクへ到着してからもお母さんの容態が気になって仕方がありませんでした。 翌日、Bさんからチューンさんのラインが転送されてきました。そこには、「お母さんの病状がとても良くなり、表情も明るくなり、呼吸器も簡易のもので事足りるようになりました。家族みんなで喜んでおり、お医者さんは二日後には自宅療養できると言っています」と書かれていました。 私はそれを見て大変驚きましたが、事情を知っている出張所の事務員も、この話を側で聞いていて、「鳥肌が立った」と言ったほどでした。チューンさんの献身的な看病と、心を込めたおさづけの取り次ぎにより、本当に鮮やかなご守護を頂戴しました。 10日後、私は再度ブリラム県へお見舞いに行くことにしました。この時はバンコクに戻っていたチューンさんと、Bさん、そして長距離を運転する私を手伝うためにと、Bさんの娘さんも同行してくれました。 元気なお母さんにお会いできることを楽しみにお宅を訪問すると、とても苦しそうなお顔で眠っておられました。チューンさんが食事をさせようと起こしましたが、目もほぼ開けることが出来ず、顎が外れたようにぽっかりと口が開いていて、チューンさんがご飯を口元まで運んでも、とても食べられる状態ではありません。 お兄さんたちの話では、昨日まで元気に食事もとっていたとのこと。そこで、すぐにおさづけを取り次ぎました。チューンさん、Bさん、そしてBさんの娘さん、全員修養科を修了したばかりですから、私に続いて順番におさづけを取り次いで神様にお願いしました。 すると、いつの間にかお母さんの顔がいきいきと明るくなり、ぽっかり開いていた口もしっかり動き、おかゆのご飯を美味しそうに食べ始めました。あまりのことに、今度はこちらがぽかんと口を開けたような状態になりました。 帰りには、お母さんの隣のベッドで治療していた方のお宅を訪問しました。病院でのお母さんの回復した姿を目の当たりにし、是非自分も神様にお願いして欲しいと依頼されたのです。この方は若い頃から心臓の病気を患っておられ、またその方の母親も膝に痛々しい傷を持っていたため、そのお二人におさづけを取り次ぎ、バンコクへ戻りました。 それから20日後、お母さんはご自宅で静かに息を引き取られました。お母さんの御霊をタイ出張所の祖霊舎(みたまや)へお遷しするため、再度ブリラム県へ行き、また帰りには心臓病の方のお宅を訪問しました。チューンさんも葬儀を終えた後、このお宅へ行き、お二人におさづけを取り次ぎましたと報告をくれました。 チューンさんの真心と、お母さんが自身の病気を通して導いて下さった新たなたすけ合いの輪です。大切に育んで、バンコクから遠く離れたこの町にも、教祖の教えでたすかる方が少しずつでも増えることを楽しみにしています。 だけど有難い「三つの『元』」 「幸せの元」は何でしょう。お道を信仰している方であれば、お金や物の豊かさではないということはお分かりだと思います。実際、お金や物の豊かさというのは、「幸せの元」ではなくて「生活の元」です。全くないと生活できませんから、お金も物も必要です。では「幸せの元」とは何か。いったい人間は、どんなときに幸せを感じるのでしょうか。 あるアンケート調査によれば、「自分が人から愛されている、大切にされていると感じたとき」「人から信頼されている、頼りにされているというとき」「世の中、社会のために役に立っていると感じたとき」という答えが多いそうです。これらはいずれも、人のために動いたときに得られるものばかりです。自分が何もしなければ、人から愛されたり、大切に扱われたり、信頼されたり、頼りにされたり、また世の中や社会の役に立ったりすることはありません。 「人たすけたら我が身たすかる」という教祖の教えは、このことからもよく分からせていただけます。「幸せの元」は、人をたすけるところから生まれるのです。 もう一つ、大事なものがあります。それは「命の元」です。これは誰しも察しがつくでしょう。健康であるということです。 この「命の元=健康」というものは、自分ではどうにもなりません。これをご守護いただこうと思ったら、どうすればいいのか。それは「幸せの元」である、人をたすけること、そして「生活の元」である、お金や物を人だすけに使わせていただくことです。普通、人間は、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいと考えて、「生活の元」であるお金や物を自分のために使うのです。そうではなく、人のために使わせていただくのです。 「生活の元」に困っている、生きていくのが大変という人は、どうしたらいいのか。「命の元」である健康を頂戴しているこの体を使って、人をたすけさせていただく。そうすることによって、生きていく糧をお与えいただけるのです。 こう考えると「幸せの元」「生活の元」「命の元」というのは、それぞれ大いに関わりのあるものです。そして、おたすけの実践こそ、そのすべてを頂く本元なのです。 (終)
共に栄える理

共に栄える理

2025-08-29--:--

共に栄える理  東京都在住  松村 登美和 今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。 3月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。 6月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を5キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。 その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。 番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は?」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。 私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。 その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。 天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。 ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。 ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。 「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。 男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。 私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。 天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。 ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。 問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。 しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。 自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。 親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。 つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。 さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。 おふでさき御執筆 ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。   このよふハりいでせめたるせかいなり  なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)   せめるとててざしするでハないほどに  くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)   なにもかもちがハん事ハよけれども  ちがいあるなら歌でしらする (一 23) この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。 そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」(M37・8・23)と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。 さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」(M37・8・23)と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。 さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。 「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。 書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」   だん/\とふてにしらしてあるほどに  はやく心にさとりとるよふ (四 72) とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。 (終)
心を込めたサービス券                 大阪府在住  山本 達則 日々の街角での布教活動では、沢山の方々との出会いがあります。その中のお一人とのお話です。 いつも布教活動をしている駅周辺で、自転車整理の仕事をされている70代のAさんが、いつ頃からか声をかけて下さるようになりました。「おはよう。今日も頑張ってるな」と、いつも気持ちの良い笑顔で声を掛けて下さいました。 そのAさんが、ある時から「はい、これご褒美」と言って、新聞の切り抜きの餃子のサービス券を私の手に握らせて下さるようになりました。それはいつの間にか、毎週月曜日のルーティンのようになって、私が駅前に行くとすぐに満面の笑顔で近寄って来られ、餃子のサービス券を下さいました。 ある日のこと、いつもは裸のサービス券が、その日は小さなポチ袋に入っていました。私が「わざわざ入れて下さったんですか?」と聞くと、「これでちょっとはいい事あるかな」と、少し照れながら手渡して下さいました。 私が「きっとあると思います」と言うと、びっくりしたような顔で「ほんまか?なんでや?」と言われるので、「僕が喜んでいるからです」と答えると、「そうか、そういうもんなんや」と嬉しそうに言われました。それからは、餃子のサービス券は、必ずポチ袋に入れて渡して下さいました。 ところが半年ほど経つと、ある日を境に、ぱったりとAさんと出会わなくなりました。心配になり、同僚の方に聞いてみると、身体を壊して休んでおられるということでした。 住所は個人情報なので教えられないという事でしたが、いつもの雑談の中で聞いていた辺りを何となく探していると、意外と簡単にお宅が見つかり訪ねてみました。 インターホンを押すと中からAさんが出てこられ、少し驚いた様子でしたが、心配になって訪ねた事を説明すると、快く迎えて下さいました。聞くと、持病の腰痛がひどくなり、一日中立ちっぱなしの仕事が難しくなったとの事でした。 それより私が驚いたのは、「腰がましになったら、持っていこうと思ってたんや」と言って、5枚のポチ袋に入ったサービス券を下さった事でした。 それから、しばらくお話を聞かせて頂くことが出来ました。Aさんには娘さんが一人おられ、数年前に結婚されました。 しかし、一年ほど前から夫婦仲がうまくいっておらず、実家に帰ってきては愚痴や不満をこぼすことが多くなってきました。最近では離婚についても言い始め、孫の事を思うと何とかならないものかと、夫婦で心配ばかりしているという事でした。 「でもな…」とAさんは続けて話して下さいました。 「あんた、前に自分が喜んでるから、自分を喜ばしてくれたから、餃子のサービス券でもいい事あるって言うてくれたな。だから、娘のことも自分ら親だけは喜んでやろうと思って、娘にも話してみたんやで。世の中には結婚したくても出来ない人もいるし、子供を欲しいと思っていても授からない人もいる。旦那さんに対しても、不満や愚痴をこぼしたくなるような事があるにせよ、それは旦那さんがいるからで、いなければそんな事も出来ないもんなって、そう話してみたんや。娘は黙って聞いておった。親である自分だけは、心配するだけでなくて、喜んでやろうと思ってんねん。これでええんやろ、天理さん」 Aさんは満面の笑顔で話して下さいました。 「そうなんですよ。私たちの日常の中では、自分にとって都合のいい事、悪い事、喜べる事、喜べない事、楽しい事、腹立たしい事、色んな事がありますが、それは私たちがそう判断しているだけなんです。それらすべては、私たちが陽気ぐらしをするために神様が与えて下さっている姿ですから、それをどう喜ぶか。そのための努力を、神様は私たちに期待されているんだと思います。 だから、あまり面白くない事が起きても、その中で喜びを見つける努力をする。そうすると、次に何が起きても、それまでよりも喜べる心になるというのが、天理教の教えの一つなんですよ」 私がそう言うと、Aさんは、「うん、うん、ほんまやな」とうなずきながら聞いて下さいました。 それからしばらくして、Aさんは仕事に復帰されました。そして、「今日もいい音してるな」と拍子木の音を褒めて下さった後で、「はい、これ」と言って、ポチ袋に入れた餃子のサービス券を下さいました。 日常生活での「家族円満」への道は、喜べないような中であっても、少しでも喜ぶ努力をすることが一番の近道なのではないかと改めて思いました。 梶本宗太郎さん 小さい頃から、教祖のお屋敷へ引き寄せられ、その教祖の温かい親心にふれ、生涯を信仰にささげた者は数多くいます。 教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんも、その一人です。小さい頃の教祖との思い出を、このように語っています。 教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。 それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。 櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。 私は、曾孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、  「早う、一人で来るようになったらなあ」 と、仰せ下された、という。(『教祖伝逸話篇』193「早う一人で」) 教祖の懐に抱かれながら成長し、家族共々お屋敷へ入り込み、教会本部に長らく務めた宗太郎さんは、後年、このようなお話をしています。 このお屋敷に連れ帰られたみなさまこそ、まことに幸福な方々であります。 だれ一人として不足な心づかいで帰りている者がありましょうか。病気をたすけてもらったうれしさとか、今までは内々も、親子、兄弟、夫婦の中をむつまじく暮らせなかったが、教えの理を聞かしていただき、内々が互い互いの心の改良ができて円満に通させていただいているとか、そのうれしさを神様に報告申し上げるとか、親神様のひざ元に参りて心のさんげをさせていただきたいとか、今後は道の上で働かせていただく決心を告げ奉るとか、でありまして、何万の人々は和気藹々のうちにお屋敷にお帰りになったのであります。 お言葉にも、   をもしろやをふくの人があつまりて   天のあたゑとゆうてくるそや   (四12)   にち/\にみにさハりつくまたきたか   神のまちかねこれをしらすに   (四13) とお諭しありますごとく、喜び勇んで帰るみなさまを、神様は日々にお待ちかねておいでになります。 まさに、教祖に引き寄せられた喜びそのままに、宗太郎さんは生涯をこの道の信仰に捧げたのでした。(終)
心コロコロ

心コロコロ

2025-08-15--:--

心コロコロ 岡山県在住  山﨑 石根 一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。 私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。 3月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。 そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。 また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。 つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。 おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。 さて、月が変わり4月1日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。 私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。 「え、どういうこと?」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう? 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。 こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。 そして、三男は次のように続けたのです。 「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ!」 子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。 すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。 妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。 「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」 と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。 なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。 嬉しい出来事はまだまだ続きます。 我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。 さらに中3のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。 もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。 しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は3月で、つい二週間ほど前だったのです。 「あれあれ? よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで~」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。 「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」 これには一本取られました。 続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。 そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。 今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。 御退屈でございましょう 教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。 井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、 「ここへ、一寸顔をつけてごらん」 と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。(教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」) また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、 「幻を見せてやろう」 と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。 というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。 もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。(教祖伝逸話篇97「煙草畑」) さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、  「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。(教祖伝逸話篇168「船遊び」) 教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。 (終)
待ちに待ったカラオケ                埼玉県在住  関根 健一 小学生のあこがれの職業に「YouTuber」がランクインした時、ニュースがこぞって取り上げて話題になったことは記憶に新しいですが、今ではランキングに並んでいても、特に話題にならなくなってきました。さらに時代は先に進んで、動画配信サービスやAIなどが日常にあふれて、人々の娯楽というものは多岐にわたっています。 私が小学生の頃はというと、専らテレビが娯楽の中心でした。その頃、同級生の間では戦隊ヒーローやアニメが流行っていましたが、印象的な子供向けのドラマもたくさんあったと記憶しています。 中でも「あばれはっちゃく」というドラマが、私にとっては毎週の楽しみの一つでした。やんちゃで情にもろい昔ながらのガキ大将の主人公を同世代の男の子が演じ、5代目まで続いた人気シリーズで、児童向け小説が原作でした。 各回の細かい内容は覚えていませんが、学校から自宅へ帰った主人公がランドセルを放り投げて一目散に遊びに出かけていくシーンや、主人公の破天荒ぶりに「父ちゃん、情けなくて涙が出てくらあ!」と父親が叱りつけるシーンなどが大好きで、放送された次の日に学校で友達とモノマネをしたことを今でもしっかり覚えています。 その頃の私は、あばれはっちゃくの主人公の性格とは真逆で、外で活発に遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、木登りや虫取りなど、当時の男の子達が夢中になっていた遊びがどちらかというと苦手でした。 自分が出来ないからこそドラマの主人公に憧れを抱き、毎週楽しみにしていたのかもしれません。そんな子供の頃の思い出もあってか、「元気に遊ぶ子供」のイメージは、いつもランドセルを放り投げて遊びに行くあばれはっちゃくの主人公の姿です。 やがて生まれてきた我が家の子供たちは、二人とも女の子だったので、あばれはっちゃくとはちょっと違いましたが、長女が特別支援学校に通うことになり、障害のある子供たちの「遊び」の環境には別の問題も多いことを教えてもらいました。 遊びは、子供たちに多くの学びを与えてくれます。小学生になると、ほとんどの子が、親がいなくても子供同士で約束して公園で待ち合わせをしたり、お互いの家を行き来したりするようになりますが、障害のある子供たちはそのようなことが出来ません。 そんな自分たちで遊ぶことが難しい子供たちのために、平成24年度から「放課後等デイサービス」という制度ができました。 一般の学童保育は保護者が働いていて不在の時間、子供を預かることが目的ですが、放課後等デイサービスは、障害があって支援が必要な子供に対して、様々な体験を提供し、健全な育成を保障していくことが目的です。 我が家の長女も、制度が始まった当初からこのサービスを利用してきました。放課後の時間、必要な支援を受けながら、本を読んだりゲームをしたり、同級生だけでなく、小学生から高校生までの幅広い年代の子供たちとの交流を通じて、色々な体験をさせてもらいました。この場で培われた感受性は、彼女の現在にまでとても大きな影響を与えています。 高校を卒業すると放課後等デイサービスの制度は使えなくなり、今度は成人向けの福祉サービスの中で暮らすことになります。長女は現在、生活介護サービスという制度を利用して、日中を事業所で過ごしています。 働くというよりも、日中を穏やかに過ごすことが目的ですが、ここでは最高65歳までの方がサービスの対象となるため、放課後等デイサービスの頃よりも、さらに幅広い年代の利用者さんと関わることになります。 人と関わることが好きな長女は、行き始めてすぐに施設の雰囲気に馴染みました。それと同時に、先輩たちが長年の経験から様々なサービスを使って充実した生活を送っていることを見聞きして、大いに刺激を受けました。 そのうち、自分から「お出かけに行きたい」などと言い出しました。施設の職員さんに聞いてみると、「この前、〇〇さんがお出かけした話を聞いたから、自分も行きたいと思ったのかもしれません」と教えてくれました。 そこで、長女にどこに行きたいのか聞いてみると、「Kさんとカラオケに行きたい」と言うのです。Kさんとは、おしゃれな服を着て、ピンクの可愛い車に乗って週に何度か送迎の介助に来ている女性のヘルパーさんのことで、いつも長女の話し相手になってくれるので、一緒に行きたいと思ったようです。 長女の希望を叶えるべく、Kさんの所属している事業所とも相談して、二か月後に移動支援サービスを使って、Kさんご指名でカラオケに行くことが決まりました。 長女にそのことを伝えると、翌朝、起きて着替える時から「Kさんとカラオケに行くんだ~」「嵐の歌を一緒に歌うんだ~」と、家を出るまでずっとその話をしています。帰宅しても、寝るまでの時間、思い出すと「Kさんとカラオケに行くんだ~」と二か月の間、ほぼ毎日繰り返し言っていました。 普段送迎に来てくれるKさんも、「当日は車で3時に迎えに行くね」とか、「カラオケは車椅子が入れるお店を予約したよ」と声を掛けてくれて、益々楽しみになっていったようです。 やがて当日を迎え、移動も含めて3時間を過ごして帰宅しました。大好きなKさんと大好きなカラオケに行って、本人はご満悦の様子で、目をキラキラさせながら「楽しかった~!」「また行くんだ~!」と話してくれました。 そんな長女の姿を見て、次女がボソッと「教祖がおっしゃる『たんのう』の意味が少し分かった気がする」と言いました。それを聞いた私は「なるほど!」と膝を打つ思いでした。 自分で考えて自由に行動できる身で考えると、たった3時間、移動してカラオケに行くだけなら、今すぐにでも出来ます。しかし、障害のある長女は、海外旅行にでも行くかのように、数か月前から待ちわび、準備をして、当日、その時間を精一杯楽しんできました。 「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも聞かせて頂きます。たんのうすることはなかなか難しいことだと常々思っていましたが、出来ないことに目を向けるのではなく、出来る中で精一杯楽しむ長女の姿に、たんのうすることのヒントをもらえた気がします。そして、そこに気づいた次女の素直さにも頭が下がります。 私たちの幸せは、どこかから持ってこなければ存在しないものではなく、今の自分の中に十分にあるのだと思います。心の中にある幸せをたくさん見つけられるように、長女の姿と次女の素直さをお手本にしていきたいと思います。 真実の願いは埋もれない 人間には誰しも欲があります。「よくのないものなけれども」と、みかぐらうたにあるように、欲のない人間はいないと親神様は仰っています。生きるうえで必要な欲もありますから、ある程度は許されていると考えても良さそうです。 ところが、人間というものはいかにも欲深くて厚かましい。おつとめで親神様に拝礼をしている時、どんなことを願っているでしょうか。自分の健康な身体にお礼を申し上げる、今日も結構な目覚めを頂けた、あるいは身近な家族か親戚が病気で臥せっているのでたすけて欲しい、上司との関係で悩んでいる友人の気分が少しでも晴れますように…。このような謙虚なお願いなら親神様はお受け取り下さるでしょう。 ところが、なかには「もっとお金が儲かりますように」だとか、努力もせずに「テストの点数が上がりますように」なんていうお願いをする人もいるでしょう。親神様も、時に何千、何万ものお願いを一度に聞かれるわけですから、そんな自分勝手なお願いまでは手が回らないかも知れません。 親神様は、そんなたくさんのお願いの中でも、「私のことはどうでもいいのです。困っているあの人のことを、どうかたすけてください」という声を、スーッと聞き入れて下さるのではないでしょうか。 「ほしい、ほしい」と求めてばかりいる人と、「あの人をたすけてください」と真剣に祈りを捧げている人とでは、神殿で額づく際にも、おのずと醸し出す雰囲気が違ってきます。ですから、後者のような真実の願いは、どんなに大勢の人の中でも埋もれず、確実に親神様の元に届くのです。 「おふでさき」に、   をやのめにかのふたものハにち/\に  だん/\心いさむばかりや (十五 66) とあります。 人様のことを考え、そのたすかりを祈る時間が長いほど、心はますます勇んできます。そうして自らの欲の心は自然に取り払われ、親の思いに近づいていくことが出来るのです。 (終)
まいたる種は…

まいたる種は…

2025-08-0113:38

まいたる種は… 福岡県在住  内山 真太朗   にち/\に心つくしたものだねを  神がたしかにうけとりている   しんぢつに神のうけとるものだねわ  いつになりてもくさるめわなし   たん/\とこのものだねがはへたなら  これまつだいのこふきなるそや 今日は、この三首のお歌に込められた神様の親心を悟った話。結婚14年目に突入し、現在教会長をつとめている私と妻との、ちょっと甘酸っぱい話をお聞き頂きたいと思います。 私と妻との出会いは今から20年前、お互いハタチの時です。私は天理大学の学生、妻は静岡県在住のOLで、当時はまだSNSもなかった時代、インターネット上の音楽系サイトで知り合い、未信仰だった彼女を初めておぢばに案内したことをきっかけに、交際が始まりました。 6年間にも及んだ遠距離恋愛の中で、何度もおぢばを案内し、お道の話をする機会も増え、別席も運んでくれました。私にとっては初めてお連れする別席者で、交際相手とあって丹精に熱が入っていました。 交際して6年の月日が流れ、「この人となら」と思い、お互い結婚を決意しました。しかし、私は福岡県の天理教の教会長後継者、妻は静岡県でお茶工場を営む社長の一人娘。あまりにも境遇がかけ離れていて、反対されるのを覚悟で妻のご両親へ挨拶に伺いました。 新調したスーツを着て、ご両親を前に、緊張しながら「どうか、娘さんと結婚させてください…」しばらく沈黙がありましたが、「二人で決めたことなら」と、ご両親とも快く結婚を承諾して下さいました。 すると妻のお母様から、「結婚の前に天理教の勉強をさせたい」との思いがけない申し出があり、妻は教えを学ぶため、結婚前に修養科を志願してくれました。さらに三か月間の修養科修了後には、教会生活を学ぶため、半年間大教会の住み込み女子青年としてつとめてくれました。 天理教のことを全く知らなかった妻は、結婚前に多くの教友と出会い、導いて頂き、お互い26歳の秋、大勢の方々に祝福されながら、大教会で結婚式と披露宴を挙げさせて頂きました。 世界中の人とつながれるインターネット上で、偶然出会った素敵な女性との結婚。私にとってこんなにありがたい事はありませんでした。 さて、話は結婚式の数日前に遡ります。教会の前会長夫婦である祖父母から「話がある」と、妻と二人で呼び出されました。80歳を超えて尚、誰よりも信仰に厳しい祖父母。よもや結婚を反対されるのでは? そんな不安をもって祖父母のもとへ行くと、祖父がこのような話を聞かせてくれました。 「今回の結婚、本当に嬉しく思う。実は、おじいちゃんは今から60年前、戦争が終わってハタチの時、確かな信仰をつかむために、当時出来たばかりの天理教校専修科に入学したんだ。二年間色んなことを経験して学んだが、この信仰を信じ切ることが出来ず、神様をつかみ切ることが出来なかった。これではいけない、どうしても神様をつかみたいと思って、専修科を卒業してすぐに福岡から横浜へ単独布教に出ようと決意したんだ。でも当時お金がなくて、片道切符で横浜まで行こうとしたけれど、お金が足りずに静岡駅で下車して、その周辺を布教に歩いていたんだよ」 妻の実家であるお茶工場は静岡駅から徒歩10分ほど。何と、60年前に祖父が布教に歩いた地域とは、妻の実家がある場所そのものだったのです。 祖父は続けて、「60年前に布教した時は大した成果は見せて頂けず、あの時の布教は無駄だったと思ったし、今までずっとそう思っていた。でも、静岡の地で伏せこんだ種を神様はちゃんとお受け取り下さって、60年後に今こうして、お前のお嫁さんという形で芽を吹いて帰ってきた。私たちにとって、これほどありがたく、嬉しいことはない。本当にありがとう」と涙ながらに話してくれました。 話を聞いて鳥肌が立ちました。妻はインターネットでたまたま私と出会い、お道を知り、修養科を修了し教会の住み込みをつとめ、結婚して教会へ来ることになった。それはすべて自分の成したことだと思っていました。しかしそれは大きな間違いで、その背景には60年前の祖父の真実の伏せこみがあり、今にして思えば、妻との出会いは偶然ではなく、すべては親神様が出会わせて下さった必然だったのです。 天理教では「まいたる種はみな生える」と教えて頂きます。日々にまいた種、つまり自分の日々の行いは、やがては自分や子孫に返ってくるのです。 まいた種によっては一日で生えてくる種もあれば、一か月で生えてくる種もある。一年、二年で生えてくる種もあれば、このように60年経ってようやく生えてくる種もある。いずれにしても、真実の種をまけば親神様はお喜び下さり、いつか必ず素晴らしい形で芽吹かせて下さる。そのことを身をもって実感した妻との結婚でした。 私たち夫婦は4人の子供たちを授かっています。祖父をはじめ親々の伏せこみのおかげで今の自分達があるということを肝に銘じ、今度は私たちが子供達のため、そしてまだ見ぬ孫達のために、親神様、教祖にお喜び頂ける種をまくことを目標に通っていきたいと思います。 だけど有難い「『感謝』から『報恩』へ」 最近、親による子供の虐待や育児放棄が社会問題になっています。それに伴い、「親は子供を育てる責任と義務がある」とか、「子供には育てられる権利がある」というようなことが言われます。私は、この「責任」や「義務」「権利」というようなものからは、「感謝」の心は生まれないと思うのです。「責任があるから」「権利があるから」といった感覚では、子供は親に「育ててもらって当たり前」であって、そこに感謝の心の生まれる余地はありません。 お道では、そうしたことに気づいていただきたいとの思いから、「感謝 慎み たすけあい」という標語を作って、教会の前などに横断幕を掲げてきました。 「感謝」という言葉は、一般社会でもよく使われます。「親に感謝しています」「お世話になって大変感謝しています」などと言いますね。しかし本当に大事なのは、その先だと思うのです。それは「報恩=恩を報じる」ということです。「感謝」は、いわば「報恩」への入り口なのです。 三代真柱・中山善衛様は、教会巡教などの際に、よく「報恩感謝」とご揮毫くださいました。三代真柱様が真柱をお務めの時代は、真柱様が「報恩」とお書きになって、継承者であられた善司様が「感謝」と続けられました。善司様が跡をお継ぎになってからは、真柱様が「報恩」とお書きになって、三代真柱様が「感謝」とお書きになりました。 私は「感謝」という言葉は、「報恩」という言葉と結びつかないことには、あまり意味がないと思うのです。たとえば「親に感謝します」と口にするだけでなく、親に育ててもらった「恩」、産んでもらった「恩」を感じることが大切だということです。 「恩」には「返す」という行為が伴います。そう言うと、嫌々させられると感じる人もいるかもしれません。しかし実際には、恩を感じたら返したくなるものではないでしょうか。たとえば恩師に贈り物をするときに、嫌々する人はないでしょう。何を贈ったら喜んでくれるだろうかと、品物を選んでいるときからうれしいものです。恩返しというのは、そういうものだと思います。 親に恩を感じると、それを返したくなる。これは親孝行です。親孝行というのは、しなければならないからするのではなく、せずにおれないからするのです。 親神様のご恩も同じだと思います。この道は「ご恩報じの道」ともいいますが、ご恩を感じなければ通れないのです。親神様のご守護を有難いと思う心があればこそ、「させてもらいたい」「やらずにおれない」という気持ちになるのです。 私たちが毎日こうして元気でいられるのは、第一に親神様のご守護のおかげです。そして、産み育ててくれた親のおかげ、周囲の人たちのおかげ、学校の先生のおかげもあれば、仲間のおかげもあるでしょう。実は、人間はこうした「おかげ」を感じ、「恩」を感じて、それに応えようとするなかに、「生き甲斐」や「喜び」を見いだし、「幸せ」を味わうことができるのです。 私たちは、一人でも多くの人をおぢばへ連れ帰らせていただき、別席を運んでもらおうと努めさせていただいています。それは、私たちの親である教祖に、お喜びいただきたいからです。さらに一層、声掛けに努めて、教祖のご恩に、親神様から頂戴している限りないご恩に応えさせていただきましょう。 (終)
令和元年台風15号 千葉県在住  中臺 眞治 今から6年前、令和元年9月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。 夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。 被災から6日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか?」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。 聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。 早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。 私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。 「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」 ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。 その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか?」と相談の電話があったのです。 しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。 そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか? 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う?」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。 今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。 さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、4か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。 どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。 こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。 「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。 天理教の原典「おふでさき」では、   だん/\になにかの事もみへてくる  いかなるみちもみなたのしめよ (四 22) と記されています。 このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。 少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。 「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。 ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。 令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。 いんねんというは心の道 病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。 たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ!」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。 これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。 「いんねんというは心の道」(M40・4・8) このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。 「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。 意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。 お言葉にも、 「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」(M28・7・22) と、はっきりと示されています。 いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。 (終)
吐く息引く息一つの加減で内々治まる 東京都在住  松村 登美和 先だって、仕事先の人間関係で悩む人から着信がありました。「一生懸命働いているのに、上司や同僚が認めてくれない」といった話でした。役目柄、そのような相談事によく出会います。 2、30分話を聞いて電話を切った後で、妻が「いつもご苦労様」と言ってくれました。そして続いて、「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ~」と、少し冗談交じりの一言を付け加えました。 その言葉を聞いて、私は背筋がピンと伸びる思いで、忘れかけていた昔の出来事を思い出しました。 それは妻が20代で、私が30代の頃の経験です。私たち夫婦には現在3人の子供がおり、また妻は流産を2回経験しています。そのうち初めの数回、妻は産後に40度近い高熱が数日間続いたことがありました。病院で診察してもらっても原因がわからず、ただ熱が下がるのを待つばかりでした。 私たち夫婦は、普段は東京に住みながら、月に数回奈良県天理市へと足を運び、神様の御用を勤めています。今の時代では「マタニティハラスメント」とお叱りを受けてしまうかもしれませんが、その当時、私は出産前後も家を留守にすることが多く、妻が東京に残ることが重なりました。 何度目かの出産の後、私が天理にいるときに、妻が再び高熱を出しました。その報せを聞いて、私は一緒に御用を勤めていた先輩に「妻に、そうした発熱が度々起こるんです。それも私が東京を留守にしている時が多いんです」と話をしました。するとその先輩が、アドバイスを下さいました。 「奥さんに電話してる? 天理で御用ができるのは、留守を預かる奥さんのお蔭だよ。すぐに帰れなくても、毎日一回はお礼の電話ぐらいしなくちゃ。俺はいつもしているよ」。 なるほど、それはそうだなと思い、それ以後、私も妻に一日一回は電話をかけて、感謝の言葉を伝えるようにしました。すると妻は、電話越しにも分かるほど喜んでくれて、熱はピタリと下がり、それからはひどい高熱が出ることはなくなりました。 天理教教祖・中山みき様が、ある男性にお諭しになったお言葉が残されています。 「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」 私たちは中山みき様のことを、親しみを込めて「おやさま」とお呼びしていますが、教祖は続けてその男性に、「あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」と仰せられました。 私は元来、腹立ちの性分を持っていることを自覚しています。同時に、教祖が仰るように、外では人付き合いが良いのですが、家に帰ると安心感からなのか、ぶっきらぼうになったり、ガミガミ腹を立てたり、めんどくさそうに家族と接してしまう自分がいます。 妻が発熱した時も、振り返ってみれば、人の相談事には耳を傾けるのに、常に私に愛情を注いでくれている産後の妻を顧みず、電話の一本もかけていないのが実情でした。 妻の「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ~」との言葉を聞いて、「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」との教祖のお言葉をあらためて思い出しました。妻の口から出た冗談交じりの言葉は、私の性分も抑え込んでくれる絶妙の加減で、本当に頭の下がる思いでした。教祖が140年以上も前にお話になったことなのに、まるで今の自分に向けてお諭し下されているように感じました。 口に出す言葉の加減で、家庭内や職場、近所付き合いが丸く治まっていく。それが「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」ということなのだと思います。もし腹が立ってしまった時に、その感情をそのまま言葉に乗せて相手にぶつけてしまえばトラブルに発展します。そのような気持ちになったら、一旦言葉を飲み込んで引いてみなければなりません。 また、妻の体調が悪い時には、「大丈夫か」と声をかけ、感謝の気持ちを伝える。そうした言葉を日頃から出すよう心がければ、内々は幸せに治まっていくでしょう。 人間の息は、冷たくなった相手の心を温めることもできれば、たかぶっている感情を鎮めることもできます。寒い冬、冷えてかじかんだ手に息を吹きかけて温めたり、また同じ息で熱い飲み物を冷ますこともできます。 心が弱っている人には温かく声をかけ、横断歩道を飛び出しそうな子供には大声で注意をする。 妻のように、言葉の使い方の加減ができるような人間になりたいと思います。それができれば、きっと私たちはお互いにもっと幸せになれるでしょう。 松村吉太郎さん 人は、何ごとも自分の勝手になるものと思い、とかく自分ひとりの苦楽や利害にとらわれがちになります。このような自己中心的な心遣いは、本人にとっては都合がいいかもしれませんが、まわりの人々や世の中にとっての迷惑、苦悩の原因となります。 人間は、きょうだいのように仲良くたすけ合って暮らすのが本来の姿ですから、私たちお互いは、自己中心的な心遣いを慎まなくてはなりません。 明治十九年の夏のことです。 当時ハタチの青年、松村吉太郎さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。 ところが、若くて多少学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら抱いていました。 ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。 教祖からこのお言葉を承って、吉太郎さんは心の底から高慢のさんげをしました。そしてその生涯を、信仰の道一筋に歩んでいったのです。 後年、吉太郎さんは、「神様は身の内にある」と題して、このようなお話をしています。 「かりものの理とは、私ども人間の体は私どもがつくったものでもなければ、また、私どもの心のままに自由になるものでもありませぬ。すでに我がものでないとしますれば、だれのものでありましょう。すなわち、神様のものでありまして、神様はこの体を、ただしばらく、私ども人間にお貸し下されたのであります。 われわれのすること、思うことで、神様がお知りなさらぬことは一つもありません。どんな小さい心づかいでも、みな神様に響かぬということはないのです。 しかして、人間の心は肉体と同じく、初め神様から賦け与えられしものでありまするが、心だけは自由を付けて下さってあるがために、その心だけは借りものの肉体と異にして、心そのものが、すなわち自分ということになっているのでござります。 ゆえにわれわれは、自分の心をいずれのほうにでも自由に立て替え、どんな良いことでも悪いことでもすることができるので、そこでその心づかいがむずかしいのであります。 人間というものは、自分さえ都合よければよい、他人はどんなに困っていてもかまわぬなど、自分勝手の了見をのみ、出すことになりますが、これすなわち、ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、八つのほこりによるのであります。 八つのほこりと本来の誠とは、あたかも仇敵のごとく、八つのほこりがはびこれば、本来の誠は光をくらまし、本来の誠が強ければ、八つのほこりは自ら治まるというありさまにて、詮ずるところ、八つのほこりさえ起こらなければ、罪悪禍害の生ずる原因はないのであります。」 (終)
「にをいがけ」ってこういう事!?  兵庫県在住  旭 和世 次女が小学一年生になった頃、学校の運動場にあるウンテイが上手になりました。嬉しくて毎日毎日休み時間になると練習をしていたようで、家に帰ってくると、「ママ~手にマメができた~」と嬉しそうに話します。私は、「わ~、そんなマメができるまで練習するなんてすごいね!」と親子で喜んでいました。 数日後、朝の登校時間になってランドセルを背負う時、娘が「腕が痛い…」と言いました。私は筋肉痛だろうと思い、「腕を使い過ぎたんだわ。日にち薬だから大丈夫! いってらっしゃい!」と、不安そうな娘を見送りました。 そしてその日の夕方、娘は学校から帰ってくると、玄関に入るなりランドセルを下ろし、へたり込んでしまったのです。私があわてて駆け寄ると、とてもしんどそうな顔をしていて、額をさわると熱があります。驚いて、とにかくおさづけを取り次がせてもらい、娘を寝かしつけました。 夜になって会長である主人が御用を終えて帰ってきたので、事情を説明すると、すぐにおさづけを取り次いでくれました。 主人が娘に「大丈夫?しんどい?」と声をかけると、「痛い…」と言います。「どこが痛いの?」と聞き返すと、「手が痛い」とのことで、主人がふと見ると、手がグローブのようにパンパンに腫れていたのです。それを見て、これはただ事ではない!となり、急ぎ夜間の救急病院に走りました。 救急病院では、「ここでは見切れないので、明日、大きな病院に行ってください」との事で、翌日市民病院を受診しました。診察の結果は「蜂窩織炎」という病名で、傷口などから細菌が入り、それが炎症を起こして体に回ると重症化する可能性がある、とても怖い感染症だという事を知らされました。 抗生剤の点滴を24時間投与する必要があると言われ、あわてて入院することに。まさか、ウンテイのマメからこんな事態になるなんて思ってもみませんでした。私は気づいてあげられなかったことを後悔し、「本当にごめんね」と娘に謝り、しばらくの入院生活が始まりました。 点滴を開始し、数日間は安静にしていましたが、熱も下がり、腕の腫れも良くなると、すっかり元気になって、そのうち娘は「小児病棟のプレイルームで遊びたい!」と言うほど回復しました。 子供にとれば、ずっと病室にいるのは退屈です。「そうだね!遊びに行こう!」と、二人でプレイルームに行きました。そこにはすでに先客が何人かいて、みんな思い思いに遊んでいます。その中の一人のお母さんと挨拶を交わして中に入り、次女は嬉しそうに遊び始めました。 私はひとしきり遊ぶ我が子を見守っていましたが、ふと、さっきのお母さんが目に留まりました。まるでこの病棟の子供たちをみんな知っているかのように、来る子一人ひとりに声をかけ、色々とお話をしているのです。 このプレイルームの保育士さんかな? いやいや、そんな感じでもない。きっと長い間入院されていて、いろんな子と知り合いになったのかな?ぐらいに思っていました。 そして翌朝、中庭でラジオ体操をするというのでデッキに行くと、またそのお母さんがよその子に声をかけ、面倒を見ている姿がありました。 「わ~すごいな。なんかすごくあったかくて、お道の人みたいに親切なお母さんだな~」と思っていました。 その後、しばらく娘の付き添いを義理の妹に任せ、その後、主人が交代して付き添ってくれていました。すると、しばらくして主人から電話が入りました。 「あのさ~、さっきプレイルームにさやかを連れて行ったら、知らないお母さんが『あら~さやかちゃ~ん!』って話しかけてくれて、うちの子のボサボサの髪の毛を見て気の毒に思ったのか、『髪の毛くくってあげよ~』って言って綺麗に結んでくれてさ~。えらい面倒見のいい方なんやな~と思ってたんだけど、そのお母さんと話してるうちに、同じ市内にある教会の奥さんだってことが分かったんよ! しかも僕の知り合いのお姉さんでさ~、本当にびっくりしたわ~」と、主人は驚いています。 私はその話を聞いて、ビックリしたのはもちろんですが、「やっぱり!あのにをいは、お道のにをいだったんだ!やっぱり教会の奥さんだったんだ!!」と、むしろすごく納得したのです。 そのお母さんは息子さんが大けがをして、緊急で手術をし、ご守護頂きつつあるという事でした。そんな大変な事が起こっているとは思えないほど、とても明るく前向きなお道の女性だったのです。私は本当に感動して、このお母さんに私自身がお道のにをいをかけてもらったな~と思っていました。 「人の子も我子もおなしこゝろもて おふしたてゝよこのみちの人」 という初代真柱様のお言葉があります。これは、天理養徳院という児童養護施設が設立された時のお言葉です。 「人の子も我が子も、どうか同じ心をもって隔てなく育ててほしい。この道を歩む人々よ」 実に、お道のあたたかい「にをい」がいっぱい詰まったお言葉です。このお母さんは、まさにこのお言葉通りの人だと思いました。そして、そんな素敵な方に巡り合わせて頂けた事を、私は神様に感謝しました。 その後、娘もその息子さんも神様のあざやかなご守護を頂き、元気に退院することが出来ました。それ以来、そのお母さんとなかなか会うチャンスはありませんでしたが、数年経って、お互いの教会が「こども食堂」を開催しているという共通点から、再会することが出来ました。今ではたびたび会う機会があり、いつも本当に元気をもらっています あの日、娘が蜂窩織炎になっていなければ、こんな風に出逢う事もなかった私たちですが、きっと親神様が「お道のにをいがけというのはこういう事なんだよ」と、私に教えて下さったんだと思います。この出逢いは私にとって、大きなプレゼントになりました。 「人の子も我が子も同じ心をもって…」これは私の永遠のテーマです。教会の御用の時はもちろんの事、こども食堂を開催している時も、いつもこの気持ちを持っていたいと思います。 『教祖伝逸話篇』には、教祖が大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、丁寧な言葉をお使いになったお話が数多く残されています。  教祖の分け隔てない、慈悲深いお心に少しでも近づき、あのお母さんから感じたようなお道のあたたかいぬくもりと「にをい」を、醸し出していけたらなあと思っています。 ひとことの言葉 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ある日、飯降よしゑさんに、こうお聞かせくださいました。 「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」(教祖伝逸話篇112「一に愛想」) 日常のちょっとしたことであっても、何事にも「はい」と明るい返事をする。そして「愛想」と言われるように、ただ返事をするだけでなく、顔の表情や身のこなしなど、全身から素直さがにじみ出るような姿が大切でありましょう。 教祖は、別のお言葉においても、 「愛想の理が無けりゃ曇る。曇れば錆る」(M27・7・30) とお諭しくださいます。一つの「はい」という返事にも心を込め、また、ちょっとした言葉づかいや態度の違いにも目を向けると、世界が違って見え始め、新たな扉が開かれてゆくのです。 教祖が教えられた「みかぐらうた」に、「ひとことはなしハひのきしん」(七下り目 一ッ)とあります。「ひのきしん」とは、神様への感謝を表すご恩報じの行いを指しますが、つまり私たちが発するひとことの言葉が、神様を介してどれほどの大きな意味を持つかもしれない、ということを表しているようにも悟れます。 こんな逸話が残されています。 小西定吉さんは、不治と宣告された胸の病を、教祖にすっきりたすけて頂きました。また、同じ頃、お産の重いほうであった妻のイエさんも、楽々と安産させて頂きました。 お屋敷へお礼に参った定吉さんが、教祖に、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。 そこで、「どうしたら、人さんが救かりますか」と再びお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せ下さいました。(教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」) 自らたすかったことを、自らの言葉で伝えることこそ、神様への大きなご恩報じ、「ひのきしん」となるのです。 (終)
まことの人

まことの人

2025-07-04--:--

まことの人 助産師  目黒 和加子 数年前、ラジオ天理教の時間に『テールランプを追いかけて』というタイトルで原稿を書きました。リスナーの皆さん、覚えておられるでしょうか。 その内容は私が4歳の時、父が事業に失敗し多額の借金を残して蒸発。その辛い経験を子供の視点で書いたものです。放送後、「そのあと、お母さんはどうされたのですか。お元気でしょうか」と母を心配してくださる声を沢山いただきました。今回は、母のその後の生きざまを書いてみます。 失踪してから7年後、私が小学5年生の時に父の居場所がわかりました。家庭裁判所の調停で離婚が成立し、私と弟が二十歳になるまで毎月養育費を送る約束でした。 しかし、送られてきたのは半年ぐらいでしょうか。しかも中身は五百円札が一枚とか、百円札が三枚とか、小さな子供にあげるおこづかいのような金額でした。現金書留の封筒を手に、悲しい顔でため息をつく母。そのうち途切れ途切れとなり、やがて届かなくなりました。 この頃から、母の中で何かが吹っ切れたのでしょうか。進んで人様のお世話をするようになり、子供の目から見ても変わっていくのがわかりました。 母は隣町の総合病院に看護師として勤めていたのですが、事情のある若い看護師さんや看護学生さんを抱えるようにお世話を始めたのです。 数年間、一緒に住んだ看護師さんも二人います。二人ともうちからお嫁に行き、うちで里帰り分娩しました。職場では救急外来と手術室の主任を兼任し、周囲から頼られる存在になっていったのです。 母が48歳の時、同じ病院で勤務するK先生が病院を開業することになり、総師長として来てもらいたいと引き抜きの声がかかります。悩んだ末に看護部門のトップである総師長として新たなキャリアをスタートさせました。 母がまず取り組んだのは、子供を持つ看護師や看護助手が働きやすい環境づくりです。病院内に24時間託児所や病児保育室を設置。その結果、離職するスタッフが減り、子育てと仕事が両立できる職場として地域に知られるようになりました。 また、その当時まだ珍しかった訪問看護ステーションを立ち上げ、自ら所長を兼務。地域医療の担い手として看護師を育てました。 そして、持ち前の粘り強さで周囲のスタッフを巻き込み、厚生労働省の定める看護基準の最高ランク「特A」の取得に多大な貢献をしたのです。当時、民間の中小病院では「特A」の取得が難しかった時代、周囲の同業者を驚かせました。 母は74歳で退職するまで25年間、総師長を務めました。長きにわたり続けてこられたのは、ゼロから立ち上げた管理職としての功績よりも、母の人柄によるものだと私は思います。 情に厚く、困っている人をほっておけない母。俗に言うガラの悪い地域にある病院なので、ヤクザの奥さんや刑務所から出てきた人など、びっくりする背景を抱えたスタッフもいたようです。嘘をつかれ、裏切られることもしばしば。それでも人を信じ、温かい情を貫いた母らしいエピソードを一つ紹介します。 木枯らし舞う二月の真冬日。看護助手の求人に応募してきた「橋本美加」と名乗る35歳の女性を面接しました。5歳の男の子を育てるシングルマザーで、埼玉から大阪に引っ越してきたばかりだと言います。身なりからは生活に困っている様子が漂い、深い事情がありそうです。 面接が終わると「子供を家に置いておけなくて、病院の玄関先で待たせています」と言うのです。その子は自動扉の向こうで寒さに震えながら待っていました。お母さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、ピッタリくっついています。その姿に胸打たれ、一抹の不安を感じつつパートで雇うことにしました。 母は生活用品を揃えてあげたり、患者さんから頂いたお菓子を取り置きして持って帰らせたり、何かと心にかけていました。 それから一か月後のある朝、「橋本さんが出勤してきません」と病棟主任が報告に来たのです。橋本さんの携帯電話に掛けようとした時、総師長室の電話が鳴りました。橋本さんからではなく、なんと警察からです。 「総師長の佐々木さんですか。橋本美加を本日朝、駅の改札口で逮捕しました。橋本がそちらの病院で働いているのは間違いないですか」 「逮捕? 橋本さんはうちの職員です。何をしたというのですか?」 「詐欺容疑で逮捕状が出ています。総師長さんに連絡してほしいというので電話をしました」 「橋本さんは今どこに居るのですか?」 「署で取り調べ中です」 「子供はどこに居るのですか?」 「知りません」 「知りませんって。5歳ですよ。急に親がいなくなってその子はどうするんですか!」 「こちらに聞かれても知りません」 と、一方的に電話が切れました。 母は仕事を切り上げ、履歴書に書かれた住所に飛んで行きました。古いアパートの一室。テレビも暖房も電灯さえもない部屋に、男の子がポツンと座ってお母さんの帰りを待っています。児童相談所に連絡して事情を説明し、緊急保護を依頼しました。 「お腹すいたよね。お弁当を買ってきたから食べよう」薄暗く寒い部屋で一緒に食べました。そして、「お母さんは必ず迎えに来るから。お利口にして待ってようね」と言い聞かせ、職員に引き渡しました。 母は警察署に電話をし、「子供は児童相談所で保護してもらいました。橋本さんに、母親としてのあなたを信じています。必ず迎えに行くようにと伝えてください」そう話したそうです。 母は順調に年を重ね、今年86歳になります。体調の良いときは体操教室で身体を動かし、弟夫婦に車であちこち連れていってもらってのんびり暮らしています。 母の人生を貫くのは、おたすけの精神です。相手を想い、出来ることを精一杯させてもらう。そのぶれない強さと温かさは、教祖の手をしかと握っているからなのでしょう。 母のような人を「まことの人」と言うのだと私は思います。 だけど有難い「お願いの仕方」 川中島の戦いをご存じでしょうか。戦国時代、現在の長野市郊外にある川中島を舞台に、戦国武将の武田信玄と上杉謙信の間で繰り広げられた戦のことです。当時の暦でいえば、永禄四年八月十五日、上杉謙信が兵を率いて川中島に陣を布きました。それを知った武田信玄は、十六日に出陣して、二十四日に川中島に着陣します。双方にらみ合いが続いたあと、有名な「鞭声粛々夜河を渡る」と漢詩に詠まれた決戦は、九月九日と十日に行われたということです。 私は講釈師ではありませんから、いまから合戦について長々と語るつもりはありません。なぜ、川中島の話をするかというと、このとき決戦を前にした武田信玄と上杉謙信は、それぞれ神仏にお願いをしていて、その願文(がんもん)が残っているのです。 上杉謙信は、「戦の神様」と称えられるくらい、戦上手だったといわれます。どんなお願いの仕方をしているのかというと、「義があるのは自分である。だから神仏は自分に味方せよ」。つまり、自分のほうが正しい。だから自分を応援するべきだという内容が願文に記されています。 武田信玄はどうかというと、「もし勝たせてくれたなら、斯く斯く然々のことをさせてもらう」と、こういう願い方をしているのです。 今日、私たちが神様にお願いをする仕方からすれば、二人ともあまり良い願い方とは言えませんね。特に上杉謙信のような願い方をする人は、ほとんどいないでしょう。よほどの自信家でないと、こうはいきません。たとえば、病気や事情で悩み苦しんでいる人が、「自分は決して悪くない。今日まで人に迷惑をかけた覚えはない。なぜ自分が病気になるのか」などと言い立てて、「だから、たすけろ」と言うのと同じです。 しかし、武田信玄のような考え方をすることは、私たちもあるのではないでしょうか。「たすけてくれたら、修養科へ行きます」「ご守護くださったら、別席を運びます」「たすけてくれるなら、お供えをさせてもらいます」。これらは一見、心定めに似ていますが、実は取り引きなのです。 病院で手術を受けるときに、「成功したら、お金を払います」というようなことは言わないでしょう。成功しようが失敗しようが、手術代は払わなければならないのです。注射を打ってもらったら、注射代を払うのです。成功報酬のようなものを病院は認めてくれません。当たり前のことですよね。 私たちが神様にお願いする場合も、決心することが大事です。「たすかったら、こうさせてもらいます」というのは決心ではありませんね。ここを間違わないようにしないといけません。 『稿本天理教教祖伝』に、清水ゆきという人が、をびや許しを戴く話があります。教祖のお子さんであるおはるさんが、をびや許しで楽々と安産するのを見て、ゆきさんも願い出ます。そして、教祖からをびや許しを戴くのですが、毒忌みや凭れ物といった当時の風習にも同時にすがりました。こういう願い方をしたところ、大変な難産で産後も三十日ほど寝込みました。いったいどうして、こんなことになったのかと教祖にお尋ねすると、「疑いの心があったからや」とおっしゃったのです。 翌年、ゆきさんは再度妊娠し、教祖の仰せ通り、素直にをびや許しだけを頼りに過ごさせていただいたところ、楽々と安産させていただきました。産後の肥立ちも大変良かったということです。これが、素直に信じて、もたれて通るということなのです。 たすけてほしいなら、まず、親神様、教祖におすがりすることです。そしてその際には、しっかりと決心する。おたすけ人として導かせていただく側からすれば、しっかり決心していただき、自分の真実も添えて、真剣にお願いをさせていただくことが大切です。 (終)
世界一れつ皆きょうだい フランス在住  長谷川 善久 一般的に西洋人は個人主義だと語られることがありますが、そんなイメージとは違う統計数値を見つけました。それはボランティア活動をしている人の割合です。 年に一回以上参加した人の数ですが、日本人は五人に一人にも満たない割合で、20代、30代に限って言えば約15%、フランスは約30%なので、二倍もの差が生まれているのです。世界で評されてきた日本人の美徳の一つ、相互扶助の精神はもはや昔のものとなっているのかも知れません。 フランスにあるヨーロッパ出張所では、毎年5月に「チャリティーバザー」を開催しています。開催時間は午後の4時間のみと短いのですが、700名以上が出張所を訪れ、無料で提供された物品や軽食販売、指圧や散髪などによる収益金は、全額慈善団体へ寄付をすることになっています。 30年ほど前の開始当初は信者のみで運営していましたが、最近では未信者さん方の「ボランティア」が増えており、全体の3,4割を占めるようになってきました。未信者さんのスタッフの多くは、天理教が運営する文化交流団体「天理日仏文化協会」の会員さんです。 信者、未信者を問わずスタッフの国籍も職業も年齢も多種多様です。日本人、フランス人はもちろんのこと、アフリカ人や南米人などもいます。また医師や弁護士、芸人、学生がいるかと思えば、年齢も上は80代から下は10歳ぐらいと、祖父母と孫のような三世代にわたる年齢層の方々がいます。 開催当日、来場者一人ひとりに次のおふでさきの一首を記したビラを配っています。   このよふを初た神の事ならば  せかい一れつみなわがこなり (四62) 肌の色や言葉の違い、宗教の違いも問わず、老いも若きも共に一手一つになり、困っている人のために我を忘れて尽くす姿が出張所で実現出来ていることに、教祖も喜んで下さっているに違いないと確信しています。 チャリティーバザーと言えど、出張所としては、物を売り、寄付金を集めることで満足するべきではありません。ただ単純に安価な商品販売をすることで、結果的に来場者の物欲を増長するような場にはしないことを申し合わせています。 ある時のバザーでは、いかにも手癖の悪そうな若者が人目を避けるように入場してきました。数分もすると彼が入った売り場の未信者スタッフから私に連絡があり、「所長、万引きしそうな若者が来たので見張りに来てください」と言われました。当然、直ぐに駆け付けましたが、私が彼を見張った理由は、万引きを防ぐためではなく、彼の心の中で物欲が強くなるのを防ぐこと、「よく」の心を起こさせないように祈ることでした。 このチャリティーバザーの真の目的は、あくまでもボランティアや来場者を含めた関係者全ての人が、親神様のお膝元で、他者の救けにつながる行いをし、それによる他者とのつながりを通して、現代のストレスにまみれた心の皺を伸ばしてもらう場にすることだと思っています。 そのためにも、私たちが醸し出す雰囲気で、「世界一れつ皆きょうだいの精神」を感じてもらうことを目指すのが、必要不可欠な心構えだと、信者スタッフにはいつも伝えています。 なればこそ、来場者が何も購入しなくても、人とのつながりが楽しめるようなアイディアも取り入れています。天理日仏文化協会で公演をして下さった方々によるコンサートや演劇、パントマイムなどがそれで、私たちの真の目的を果たすための大きな役割を担ってくれています。 これら無料の文化プログラムがあるお蔭で、より多くの人が出張所の芝生の上で家族揃ってピクニックをするようになったのです。人種、宗教が違えど、偶然隣り合った人と一緒に美しい音楽に聞き惚れ、面白い演劇を見ながら笑い合うきっかけを、これら文化プログラムはもたらしてくれるのです。 そして、私たちがおぢばで迎えられた時に感じるような、スタッフの笑顔とゆったりとした優しい雰囲気の中で、心と心のつながりが生まれやすい環境を提供してくれています。 ある時、レジで黒人の女性が大声を出してスタッフと言い合いをしていたことがありました。しばらくは、その若いスタッフがどのように話を治めるかを見ていましたが、やがて罵り合いが始まってしまいました。 そこで私が介入して話を聞いてみると、女性曰く、あるスタッフにお願いして取り置きしてもらっていた支払い前の商品が無くなっているというのです。 しかし、レジの担当者はその話に全く聞く耳を持たなかったのです。実際、スタッフにはお客さんからは何も預からないという取り決めがなされていたので、支払い前の商品を預かったなどあり得ないことで、スタッフにしてみれば、単なる強欲な女性の戯言としか聞こえなかったのです。そして、そのようなスタッフの態度が彼女の気持ちを逆なでしていたのです。 私はまず、その女性の言い分を全部聞いた上で、不愉快な気持ちにさせてしまったことをひと言お詫びしました。それから、このバザーはスタッフも商品も、すべては他者のためにあること。物品は無料で持ち込まれ、スタッフも無償で自分の身体と時間を使っていることを伝え、あなただけが自分の利益を得ようと必死になっている現状をどう思いますか?と優しく質問をしました。 すると、それまで顔を赤らめて怒っていた彼女の顔色がスッと変わり、うつむき加減で騒いだことを悔やんでくれました。別れ際には、「また来年も絶対に来ますね」と笑顔で言ってくれました。 毎年のバザーは本当に骨が折れます。しかし、しんどければしんどいほど、そのお蔭で出張所で寝食や御用を共にする所員同士、お互いの癖性分をより知ることができ、気遣い合う中で個性を認め合うことが出来るようになるのは確かです。そして、それを機に出張所内の雰囲気も良くなっていくのが所長の私にはよく分かります。 また、外に向かっては、ある未信者のフランス人スタッフが帰り際に掛けてくれた言葉が心に強く残っています。彼は愛想もよく、終日周りから引っ張りだこだったので、さぞかし疲れただろうと思い、「今日はありがとう。使われまくったみたいだけど、これに懲りず来年もよろしく頼みますね」と声を掛けました。 すると彼は、「今日はたくさんお手伝いをさせてくれて、本当にありがとうございました」と、疲れた様子ながらも満面の笑顔で返してくれたのです。私は驚きと同時に、このような言葉が聞かせてもらえるとは、今日のバザーは大成功だったと、心から喜びが湧いてきました。 誰もが他者に喜んでもらいたいと思っています。ただ、それを一人で実行するには勇気がいります。ヨーロッパ出張所が、そのはじめの一歩を踏み出す場でありたいと願っています。 赤衣を召して 教祖のおわす教祖殿で参拝していると、お社の正面にご存命の教祖がお召しになっている赤い着物を見ることができます。教祖がお召しになったこの赤衣の一部を、おまもりとしてお下げくださいます。人類のふるさと、おぢばに帰った証拠としてお渡しくださる「証拠守り」です。 明治七年十二月二十六日、教祖は初めて赤衣をお召しになりました。直筆による「おふでさき」には、   このあかいきものをなんとをもている  なかに月日がこもりいるそや (六 63) と記されています。 教祖は、五十年の長きにわたる「ひながた」を通して、人類の生みの親である親神様の思召しをお伝えくださいました。そして、赤衣を召して、教祖こそ地上における人間の親であり、「月日のやしろ」であることをお姿の上に示されたのです。 『教祖伝逸話篇』には、先人が赤衣を召した教祖にお目にかかった時のことや、赤衣を直にお着せ下されたことなど、数多くの逸話が記されています。 明治十二年、十六歳の抽冬鶴松さんは、胃の病で危篤状態となりました。鶴松さんが教祖にお目通りさせて頂くと、「かわいそうに」と仰せになり、それまで召しておられた赤の肌襦袢を鶴松さんに着せられました。そうして不思議なたすけを頂いた鶴松さんは、「今も尚、その温みが忘れられない」と、一生口癖のように言っていた、と伝えられています。(教祖伝逸話篇67「かわいそうに」) また、明治十四年頃、岡本シナさんが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と仰せられ、一しょにお風呂へ入れて頂きました。 その後、何日か経って、再びお屋敷へ帰ると、教祖は「よう、お詣りなされたなあ。さあ/\帯を解いて、着物をお脱ぎ」と仰せになりました。 何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣の襦袢を背後からサッと着せて下さいました。「その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった」と記されています。(教祖伝逸話篇91「踊って去ぬのやで」) 先人は、赤衣にこもった教祖の温もりを直接に感じられました。それは教祖がいつもそばにおられ、おたすけくださり、お導きくださっていることの証であり、私たちも「証拠守り」を肌身離さず身につけることによって、その温かな親心を感じ取ることができるのです。 (終)
タイでのあざやかなご守護 タイ在住  野口 信也 タイ国の首都バンコクの正式名称は、「天使の都」という意味の「クルンテープ」から始まる、タイ語で約100文字を超える、世界で最も長い首都名で、ギネスブックにも記録されています。 また、タイは仏教の国としてよく知られていますが、この首都名はただの都市の呼称ではなく、日々タイの仏教徒が敬う神々の名前や、教えに基づく平穏社会への理想などが反映されており、タイの仏教信仰や文化を象徴するものでもあります。 さて、そうした仏教の国タイではありますが、基本的には宗教はすべて良いものである、という思いを持つ方が多く、天理教の信仰をされているタイ人の方々も、天理教は排他的ではなく、他の宗教にも寛容で、仏教の教えに似ているといって信仰される方も多いのです。中には天理教のお話を聞いて、「これは本物の教えだ」と感じて、熱心に信仰する方もおられます。 今日ご紹介するチューンさんは、宗教には全く興味を示さなかった友人の夫が、天理教と出合い、いそいそと天理教の集まりに参加する姿を見て、この宗教は何か違う、と興味を持ったそうです。 そんなある日、チューンさんは体調を崩し、友人に誘われるまま、少し興味を持ち始めていた天理教のタイ出張所へ行きました。そして、夕づとめに参拝し、おさづけを取り次いでもらったところ、とても元気になり、驚くとともに大変喜んでおられました。その後、夕づとめや月次祭に顔を出すようになり、積極的におてふりや鳴物を学び始めました。 このチューンさんは小さな料理屋を営んでおられましたが、生活の苦しい方には大盛で安く料理を提供し、一方で人を押しのけてくるような図々しい人には、「あんたに食べさすご飯はもうないよ!」と断ることもあるといった、やさしくて強い肝っ玉母さんという感じの方です。 ある日、お店に全くお客さんが来なかったので、教祖に「お客さんが来てくれますように」とお願いをしました。するとたちまちお店がいっぱいになりました。また、やはりお客さんが全然来ない別の日、遠慮がちに教祖にお願いしました。すると、また急に来客でいっぱいになり、嬉しさのあまり天理教を紹介してくれた友人にこのことを話しました。 すると冗談交じりに、「自分のことばかりお願いして、教祖の手を煩わせてはいけないよ」と言われたとのこと。 そして三回目、ここ何日かお客さんが来ていませんでした。そこで、今日お客さんが来たら、今後は毎月26日は店を閉めて、出張所の遥拝式に参拝する。そう心に決めて教祖にお願いをしました。果たして、食材がなくなるほどお客さんが来たということです。 そんなある日、大変働き者の、チューンさんの84歳になる母親が、ドラム缶を持ち上げようとして、腰の激痛とともに倒れて病院へ。医師から、「腰椎の四カ所で圧迫骨折を起こしていますが、高齢のため手術もできません」と入院を断られ、自宅で寝たきりになったと連絡がありました。家庭の事情で母親と少し距離を取っていたチューンさんですが、やはり親子です。なんとかたすけてもらいたいと、すぐに連絡をくれました。 私はすぐに自宅へ駆けつけ、精一杯おさづけを取り次ぎました。高齢な上にこれほどの症状なので、どうなるかと不安な思いでいっぱいでしたが、チューンさんはこの時も自身の経験から「三日で治るから」と、信じ切った様子でお母さんに言って聞かせていました。チューンさんの兄弟たちも、大好きな母親のために車で私を送り迎えして応援してくれました。 私はお母さんの症状を考えて、何かチューンさんに神様との約束をしてもらいたいと思い、迷いながらも「チューンさん、今日から一週間は毎日参拝を…」と言いかけました。するとチューンさんは、「はい、今日から一カ月間、毎日出張所へ参拝に行きます」と、自分から進んで決心してくれました。 おさづけを取り次ぎ始めて三日目、腰の痛みは相変わらずで、座ることもできず、身動きができないためか便が全く出ておらず、その症状のお願いも加わりました。四日目、「便は出ましたか?」と聞くと、「出ません、苦しいです」との返事です。せめて便だけでも出るようにと、おさづけを取り次ぎましたが、まだまだ改善の兆しはありません。 ところが五日目、お母さんにお会いすると、元気な声で「先生、出ました!どばっ、どばっ、どばっ、と三回も出て、それも座って用を足すことができました」と。 私も驚きと嬉しさで、「そうですか、どばっと三回も出ましたか」「はい、どばっと全部出ました」「全部ですか、いやー良かった」。嬉しさのあまり無我夢中でこんな会話をしてしまいましたが、お互いふと我に返り、ばつが悪いやら、おかしいやらで、朗らかな笑いが起こりました。その後、お母さんは歩けるまでにご守護頂かれました。 親神様、教祖に素直にもたれ切り、人間思案を離れ、自分のなすべきことを精一杯努めれば、間違いなくお受け取り頂けるということを、チューンさん家族にあらためて気づかせてもらいました。 その後、お二人のわだかまりも薄らいだ様子で、チューンさんもお母さんも、天理教講座という、信者さん宅でお話をする会に未信者の方々を誘って参加するなど、親子仲良く熱心に信仰を続けておられます。 かなの教え この教えは、「かなの教え」とも言われるように、教祖は私たちが得心しやすいように平易な表現でこの世の真実をお示し下さいます。それはしばしば、語呂合わせのような形で表されることもあります。 教祖は、病だすけのための金平糖の御供をお渡し下さる時、 「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで」 と、仰せられました。そして、 「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理」 と、お聞かせ下さいました。(教祖伝逸話篇60「金平糖の御供」) また、親神様のご守護にあふれる日々の喜びを、このように表現されました。 「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで」。 一日 はじまる  二日 たっぷり  三日 身につく 四日 仕合わせようなる五日 りをふく  六日 六だいおさまる  七日 何んにも言うことない八日 八方ひろがる  九日 苦がなくなる  十日 十ぶん十一日 十ぶんはじまる  十二日 十ぶんたっぷり  十三日 十ぶん身につく 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり  二十一日 十ぶんたっぷりはじまる三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり三十日は一月、十二カ月は一年、一年中一日も悪い日はない。(教祖伝逸話篇173「皆、吉い日やで」) さて、私たちが、日々朝夕に唱える「みかぐらうた」は、一下り目からは、各下りともいずれも十首ずつの数え歌からなっています。 教祖は、「正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや」と。まさに「おつとめ」は、教祖自らが可愛い子供たちのためにお教え下されたものであり、陽気ぐらしの喜びに満ちあふれています。 (終)
「ありがたい」と思う 大阪府在住  山本 達則 どのご家庭でも、毎日の生活の中で一日として「同じ日」というのは無いと思います。「今朝は夫がご機嫌斜め」「奥さんは体調が優れない」「子供はご機嫌で学校へ」こんな日があると思えば、次の日は「夫は仕事がうまくいって上機嫌」「でも、子供が朝から熱っぽい」「奥さんは子供の世話で朝からばたばた」など、よくあることと言えば、よくある家庭での日常だと思います。 しかし、「よくあること」で片付けられないような一大事が起きたり、「何でこんなことになってしまったのか」と頭を抱えるような経験をすることもあります。 以前、私の息子が大学生になってバイクの免許を取りました。息子は早速、先輩から中古のバイクを譲ってもらうことになり、それを先輩の自宅まで取りに行くことになりました。 天理教の教会である我が家の妻は、「バイクを取りに行くなら、神様にお礼とお願いをしてから行きなさいよ」と声をかけました。息子はちょっと邪魔くさそうに、「帰ってからするわ」と答えましたが、妻は負けじと「先にしなさい」と。息子は渋々でしたが、神殿に上がり、神様にお礼とお願いをしてから、意気揚々と出かけて行きました。 しばらくして、息子から家に電話がかかってきました。「先輩からバイクをもらって、帰る途中でスリップ事故を起こした」と。幸い単独事故で、どなたに迷惑をかけることもなく、バイクが少し壊れたのと、息子が軽い怪我をしたということで、迎えに行くことになりました。バイクは修理が必要で、車屋さんに修理をお願いして、息子を車に乗せて自宅へ戻りました。 息子は帰りの道中で、「最悪や、お願いしていったのに」とやり場のない怒りを妻にぶつけました。その息子の様子を見て、妻は「何言ってるの。神様にお礼とお願いをしていったから、このくらいの事故で済ましてもらったんやで。お願いをしていかなかったら、今頃病院かもしれんよ」と言いました。 私はその二人の会話を聞いて、正に「言い得て妙」だと思いました。物事には色んな捉え方があることを、改めて実感させてもらいました。 確かに息子が言うところの「最悪だ」ということも、うなずけると言えばうなずけます。でも、この時の息子に「嬉しい」という気持ちはありません。 同じ結果であっても、「この程度で済ましてもらえて良かった」と思うことができれば「嬉しい」。物事の捉え方によって、同じ結果でも「良かった」と思うこともできれば、「最悪だ」と思うこともある。物事の見方は決して一方向でないのです。 得てしてお互いは、自分に無いものを持っている人に心を奪われ、自分にとって損な出来事に出合うと心を濁します。当たり前と言えば当たり前かも知れません。 天理教では、人間の身体をはじめ、生活の中の人間関係、更には周りの環境や手にするものすべてが神様からの「かりもの」であり、私たちが自由にできる我がものは「心」だけだと教えられます。その心の持ちようが、自分の人生を良くもすれば、悪くもすると聞かせて頂きます。 自分に無いものを持っている人に出会った時、「うらやましい」「どうして自分にはそれが無いのか」と心を濁す時は、おそらく自分の見えている方向の半分しか見えていないのではないでしょうか。 自分に無いものを持っている人は、確かに目の前にいるのかも知れませんが、実は自分が持っているものを持っていない人も、目を凝らせば世の中には沢山おられるのです。 当たり前だと思いがちな、目が見える、話ができる、耳が聞こえる、歩ける、食べられる…。言い出せばきりがありませんが、その当たり前と思い込んでいることが出来ずに、悩み苦しんでいる方は、世の中に沢山おられます。 方向を変えて、そちらの方を見ることが出来れば、自分が持っていないものを持っている人に出会っても、「ありがたい」という心が湧いてくるのではないでしょうか。 私の息子のように、思い通りにならないことに出合って、不足をするという自由もあります。しかし、自由に使える心の最高の使い方は、どんなことが起きても、その中に喜びを見つけていくことだと教えて頂きます。 「喜べば 喜び事が喜んで 喜び連れて喜びに来る」という川柳を聞いたことがあります。 日々の生活の中の些細なことでも、あるいは人生の中で大きな分岐点になるような出来事でも、常に喜べる方向の見方をしていきたいと思います。それが、自分以外の誰かの喜びにつながっていれば、なお良いかもしれません。 いつも住みよい所へ どんな人の人生にも、いつしか転機が訪れます。ある出会いが、その人の生き方自体を決定的に変えてしまうこともあるでしょう。 明治十七年二月のこと。神戸・三宮駅の助役をしていた増野正兵衛さんは、十数年来、脚気などに悩まされていました。また、妻のいとさんは、三年越しのソコヒを患っており、何人もの名医にかかっても為すすべなく、ただ失明を待つばかりという状態でした。その頃いとさんは、知人から「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞き、それなら一つ夫婦で話を聞いてみよう、ということになりました。 その時聞いた知人の話によると、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい」また、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。 そこで正兵衛さん、病気のためにやめていたお酒でしたが、その日にあげたお神酒を頂いてみたところ、翌朝はすこぶる身体の調子がよく、さらにいとさんの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになりました。 早速に夫婦揃って神様にお礼を申し上げ、話を聞いた知人宅へも行って喜びを告げました。ところが帰宅すると、どうしたことか、日暮れを待たずにいとさんはまた目が見えなくなってしまいました。 この時夫婦で相談し、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせ、朝夕一心にお願いをしました。すると正兵衛さんは十五日間ですっきりご守護頂き、いとさんの目も、三十日間で元通り見えるようになったのです。 その年の四月、正兵衛さんは初めておぢば帰りをし、教祖にお目通りさせて頂きました。教祖は、「正兵衛さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」と、やさしく仰せ下さいました。このお言葉に強く感激した正兵衛さんは、仕事も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、おたすけに奔走しました。しかし、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くありません。 そこで教祖に伺うと、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と仰せられました。この時、正兵衛さんは、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのでした。(教祖伝逸話篇145「いつも住みよい所へ」) おぢばを離れると身体の具合が悪くなり、訪ねていくと良くなるといったことを繰り返し経験した正兵衛さん。不思議なことに、教祖の御前に出ると、信仰的な疑問も家庭の悩みも一瞬にして解けてしまったといいます。 まさに教祖のお側こそ、正兵衛さんにとっての「住みよい所」でありました。後に明治二十三年、正兵衛さんといとさんは、夫婦揃ってお屋敷へ住み込むこととなったのでした。 (終)
不登校から学んだ親心 福岡県在住  内山 真太朗 教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。 自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。 私は小学四年生から中学三年生までの約6年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。 なぜ学校に行かなかったか? いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。 突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ?」「学校の何が嫌いなの?」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい!」などと説得されたりしました。 教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。 そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ?」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。 しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。 でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の6年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。 そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて9年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。 すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。 この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。 教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。 そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。 私が不登校をしていた時、両親は、我が子の事情を通して色々と思案を重ね、「子供が15歳になるまでは、親のいんねん通りの姿をお見せ頂く」との教え通り、まずは自分たちの通り方、信仰姿勢を見つめ直そうと、様々な心定めをしたのです。 特に、子供の事情を解決するには親へのつなぎが大切だ、とのことから、上級教会への日参を欠かさない。そして月に一度、教会の元をさかのぼり、おぢばまでつながる全ての上級教会へ参拝するという心を定め、約13年の長きにわたって、私のために懸命に通ってくれていたのです。 私はその話を聞くまで、自分が不登校の中頑張ったから、厳しい高校生活を頑張ったから、今こうして通れているのだとばかり思っていました。しかしその陰には、我が子を思う両親の長きにわたる真実の伏せ込みがあったのです。そのおかげで、今の自分があるのだということに気づかされました。 今、私は4児の父親であり、そして、自分と同じような境遇の子供達との関わりを与えていただいています。彼らに直接、たすけの手を差しのべると同時に、彼らが将来「不登校していたから、引きこもりの時期があったから今の幸せな自分がある」と思ってもらえるよう、神様への伏せ込みをさせて頂いています。 日々、心を尽くして伏せ込んでいれば、教祖は必ず良い方向へとお導きくださいます。親を立てたその先には、子供が立派に育っていきます。 人をたすけるにも子供を育てるにも、まずは自分が、神様や人に喜んで頂けるような真実の心で日々通ることを、大切にしていきたいと思います。 だけど有難い「匂い」 嗅覚というのは五感の一つです。五感とは、目、視覚。耳、聴覚。鼻、嗅覚。舌、味覚。そして手で触る、触覚の五つですね。なかでも嗅覚は、人間がはるか大昔に身につけた能力のようです。視覚は、どちらかというと新しい能力のようです。 なぜ、そんなことが分かるのか。五感で得た情報はすべて脳に伝えられ、脳が判断を下します。物を見たときに「これは花だな」「花のなかでもチューリップだな」「チューリップのなかでも綺麗だな」というふうに感じるわけです。これはかなり高度な処理です。 これに対して、嗅覚はもっと直接的です。たとえば、臭い匂いを嗅いだ瞬間に「臭い!」となります。識別も何もありません。いきなり臭いのです。これは嗅覚の特徴です。面白いものですね。 嗅覚には、ほかにもいろいろな特徴があります。たとえば、良い香りだと思う香水でも、濃くなり過ぎると臭く感じるようになります。しかし、その場に長くいると慣れてしまうのです。これも判断するとか、脳が感じるとかではありませんね。 私たちがテレビを見ているとき、その場面を視覚と聴覚で想像します。この二つで十分想像できるのですが、もし、さらにリアルになって、テレビから匂いが出てきたらどうでしょう。新鮮な海産物の調理のシーン。トイレで化粧直しをするドラマのシーン。画面が変わるたびに匂いがするとしたら、おそらく部屋がさまざまな匂いでいっぱいになって、テレビを見ていられなくなるでしょう。 一方、視覚は見たくなければ遮断できます。目をつぶればいいのです。聴覚も聞きたくなければ耳を覆えばいい。口は閉じれば食べずに済みます。触覚は触らなければいいのです。 嗅覚はどうでしょうか。鼻をつまめばいいようなものですが、呼吸の役割もありますから、いつまでもつまんでいるわけにはいきません。結局、匂いというのは拒絶できないのです。五感のうち、より本能的で避けられない感覚、これが嗅覚なのです。 女性は成長するにつれて、自分や家族とは違う匂いを本能的に求めるといいます。ですから年ごろになると、お父さんの匂いは嫌になる。彼氏の匂いがいいのです。結婚して子供が生まれると、今度は子供を守ろうとする本能が働いて、自分や子供、家族以外の他人の匂いがだめになります。つまり、夫の匂いがだめになるのです。 男からすれば困ったことで、父親は娘をいくら可愛がっても、年ごろになると相手にしてもらえない。夫は子供が生まれたら、妻から相手にしてもらえないのです。 教祖は「にをいがけ」と仰せられました。私たちは、自分の匂いは分からないけれども、他人の匂いはよく分かります。自分の家の匂いは分からないけれども、よその家の匂いはよく分かるのです。 私たちはみな、自分の匂いを持っています。どんな匂いを掛けるのか。お道の匂いを掛けなさいと仰せくださっているのです。それはどうやったら身につくのかといえば、教えを実行すれば身につくのです。 お風呂に入って石けんで体を洗うと香しい匂いがします。石けんの匂いというのは、だいたいみんな好きな匂いのようです。ですから、お風呂から上がった人は良い匂いがするのです。石けんで体を洗うように、教えで心を洗う。綺麗にして、その匂いを掛けて回るということが、私たちの大事な御用なのです。 世界に無臭のものはありません。どんなものにも必ず匂いはあるのです。人も同じです。ですから「にをいがけ」は、いつでも誰でも、知らずしらずのうちにしているのです。私たちの役目は、お道の匂いを掛けて回ることです。そのためには、相手に近づかなければなりません。隣の部屋にいたのでは分からないのです。私たちのするべきことは、教えを身につけ、人に声を掛けて回ることなのです。 (終)
真実の種と肥やし 埼玉県在住 関根 健一 私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。 現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。 中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。 しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます!」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。 しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。 ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。 建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。 そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。 もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。 一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。 先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。 私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。 しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。 その時、関連業者の担当者がポツリと、「Aさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。 この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からAさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。 教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。(137「言葉一つ」) 人間の息は、口を大きく開いて「ハ~」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ~」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。 他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その思いを受け継いだ先人たちは、「声は肥」肥やしであると例えました。 これは「声」と「肥」の単なる語呂合わせではなく、深い意味を持つ言葉だと思います。肥やしは、それだけを土に蒔いても意味を成しません。作物を育てるためには、「種」が必要です。 仕事ならば、まずしっかりとした技術や誠実な取り組みが「種」となり、その上で気持ちの良い挨拶や言葉が「肥やし」となって、より良い仕事へとつながる。おたすけの現場であれば、「どうしてもたすかって頂きたい」という思いと、真実を尽くす行いが「種」となり、そこに温かい言葉が「肥やし」となってご守護へとつながる。 つまり、人生を豊かにするためには「種」となる誠実な心や行動が必要であり、そこで心からあふれ出す温かな言葉が発せられることで、種が芽を出し、豊かな実りにつながるのです。 人生の実りを豊かにするための種と肥やし、どちらも大切にしていきたいと思います。 待っていたで 私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。 文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」) また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」) どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。 様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。 親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。 お言葉に、   たん/\と月日にち/\をもハくわ  をふくの人をまつばかりやで  (十三 84)   この人をどふゆう事でまつならば  一れつわがこたすけたいから  (十三 85) とあります。 親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。 (終)
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