温かい人生

人生は辛いことが多いと言われますが、実は人生はそんなに辛くないものです。でも、「辛くないのに辛い」のはなぜでしょうか? 二つの話を紹介することから始めたいと思います。

補・温かい人生(3) 日光浴すら危険と脅すNHK

NHKばかりではなく、日本のテレビ局は実に残酷な放送局と思います。それは、強力なテレビの力を利用して、せっかく幸福で安心した生活を送っている日本人を恐怖に陥れようとしているからです。 目的は視聴率を上げたり、政府に協力して税金を高くしようとしたり、知り合いの人が化粧品会社なので紫外線吸収剤を売るのを手伝ったりすることですが、番組は表面上、そうは見えないので、多くの日本人が「幸福な人生なのに無理に不安にする」ということをしています。 その一例がNHKの「ためしてガッテン」で放送した「太陽の光を浴びると、こんなになる!」と脅した衝撃的な顔写真で、表紙にNHKの画面を切り取って示しました。 誰でもゾッとするこの写真は、顔の片方に日光が当たった人のもので、日光の当たらなかった向かって左の顔は普通なのに、右の顔は醜くなっています。女性でなくてもこんな写真をNHKに見せられたらゾッとするでしょう。 おそらく特異体質か病気か、もしくは別の原因が重なっていると思いますが、顔に日光が当たっただけでこんなに醜い顔になるというなら、これまでも「日光に当たる危険性」が強く指摘されているはずです。 でも、この番組の効果は抜群で、多くの人が皮膚科に走り、紫外線吸収の化粧品を買いに走り、日傘、これまで日本では見かけなかった腕や顔を覆う商品などが飛ぶように売れたのです。NHKの作戦{国民を脅して、特定の業者がもうけ、国民を幸福な人生から心配の多い不幸な人生にする。それでNHKの視聴率があがり、NHKは安泰になる}が成功したのです。 夏の海岸でやけどをするような過度な日光浴や、もともと肌に問題がある人が故意に日光に当たるという特殊な場合・・・NHKの写真はごくごくまれな例を世界のどこかから探してきたと思われます・・・をのぞき、日本人は黄色人種ですからこのブログに書いたように日本に住んでいる限り日光に当たっても、特に問題になることはありません。 bandicam 2015-09-05 11-42-38-093 先日の「温かい人生」でも書いたように、このように白人が日光を求めてリゾートで肌を焼いている写真は多くの人が見ていると思います。この女性はみんなNHKが示した写真のように醜くなっているのでしょうか?? 素人を騙すということは難しいことではありません。世界60億人以上いるのですから、その中で特別な人の写真を使って脅すことはできますが、それは専門家もメディアもやってはいけないことで、オレオレ詐欺の手口とも言えます。 幸福な人生を辛いものにしたNHKはできるだけ早く訂正番組を行い、「事実ではあるが、世界でも何例かの特殊な例であり、日本人には普通は起こらないことだ」ということをはっきり言うべきです。 「温かい人生」のシリーズは、現代の日本がこのように「お金のため」に脅かす人たちが多すぎることによって、不安になっている人が多いことも強く示したいと思っています。 知識人、マスメディア、政府などの方! あなたたちは収入も安定し、生活も特に困るわけではないのですから、自分の知識や力を利用して一般の人の恐怖を煽るようなことは止めてください。そんなことをしていたら自分が寂しい人生になります。 (平成27年9月2日)

11-15
09:20

補・温かい人生(2) 日本陸軍と知識人

安保法案が衆議院で可決された後、まだ大学教授、大学生、そしていわゆる知識人を中心として「反対運動」が残り、国政が混乱している。 これほど奇妙なことはない。民主主義というものは一定の手続きをもっとも大切にするものであり、たとえ安保法案がかなりの問題を含んでいるとしても、そのために私たちは民主主義や政治活動の自由を失うわけにはいかない。 安保法案は、2012年の総選挙における自民党の公約・自民党圧勝→2014年7月の閣議決定(憲法を改正せずに集団的自衛権拡大)→2014年12月総選挙・自民圧勝→2014年7月衆議院可決→反対運動激化・マスコミも反対にまわる、という経過をたどってきた。ほぼ100%、民主的手続きをとってきた。 それにも拘わらず、「衆院審議中に憲法学者3人が「違憲」といった」、「初めて政治に口を出してよいことを知った(大学生)」、「集団的自衛権は賛成だが、安倍政権の下では反対(民主党)」など民主主義を崩壊させる理由で、こともあろうに大学教授、大学生、そして知識人、マスコミが反対している。 ・・・・・・・・・ 旧日本陸軍は上意下達の典型で、自由も民主主義もないとされているが、「マレーの虎」と呼ばれ、陸軍大将だった山下奉文さんはその遺書で、日本陸軍の欠陥は自由な議論がされなかったことを反省し、次のように言っている。 「自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。・・・(中略)・・・ 従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。」 日本の問題は、「虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました」ということに尽きると残している。まさに、現代の安保法制の反対運動や民主党というものの存在は、「虚勢された徳」としての「日本の空気と見かけ良心的と思われる言動」を具現して、「決定時に自己を主張しない」ことを賛美するということで、衆議院通過後の安保法案の反対運動がそれを象徴している。 なぜ、これが「温かい人生」に関係するかというと、「自分で考えたこと、自由な発言、合意された手続き」でことが進めば、陰謀も減り、突然バッシングを受けることもなく、明るく気軽な生活を送れるからだ。 現代の日本に「辛くないのに辛い人生」が多い一つの原因が、この安保法案反対にみられるように「闇でうごめく論理」が闊歩していることに他ならない。会社でも学校でも「会議では発言せず、個人の飲み方で細工する」という人が増えると、みんなが不幸になる。 かつて「貞女」と言われた淑女が陰でなにも言わなければよいのだが、表面で発言せず、自分の意思を表明しないので、陰や井戸端で大いに他人を批判するということがあった。それが自由で明るい日本社会を壊していることは確かで、その結果、辛くないのに辛い目にあっている人が多い。 現在の安保法案の反対をしている人は、「自分がイヤなら陰でもイジメる」という考えだから、なにか正当なことを言っているようでまさに「虚勢された徳」を言って社会を暗くしている。 (平成27年8月29日)

11-14
12:35

補・温かい人生(1) マーラーとシェーンベルグ

クラシックと言えば私たちはまずベートーベンやモーツアルトを思い出しますが、クラシックの歴史から言うと「古典派」にあたり、その次にショパンやシューマンといったロマン派が現れます。 しかし19世紀の後半になると、より自由な作曲がされてマーラー、シェーンベルグ、そして私たちにもなじみのある作曲家としてはドビッシーやストラヴィンスキーが活躍しました。しかし、20世紀の現代音楽になると、私などはややうるさく弦楽器がキーキーと音を立てている感じがします。 マーラーはロマン派後期に分類されますが、現代音楽との架け橋にもなっている人です。彼の時代に現代音楽の雄、シェーンベルグが登場します。シェーンベルグはそれまでの「オクターブ」にとらわれない「十二音音階」を創立して新しい作曲に挑んだのですが、なにしろ私のような素人の音楽愛好家にはさっぱり理解できず、ただうるさい音としか感じられません。おそらくは毎日、数時間の音楽を聴く人なら理解できるところまで行くのでしょう。 そのシェーンベルグの作曲が発表になると、非難囂々、演奏会場で大声でヤジを飛ばす人はいるわ、演奏中にわざと席を立つ人が多いわ、演奏が終わると拍手どころかブーイングが始まるといった具合でした。 音楽会は自分の意思で行くのですから、シェーンベルグがイヤなら聴きに行かなければ良いのに「自分で勝手に聴きに行ってヤジを飛ばす」というのが人間でもあります。このような性格の人は「自分が正しいと思っている」のですから、先回のシリーズで書いたように「幸福でも不幸になる」という人たちということになります。 一方、マーラーはシェーンベルグを非難する人たちに敢然と立ち向かい、あるときには身を張ってシェーンベルグを守ったのですが、あるとき、次のようにいっています。 「実は私はシェーンベルグを守っているけれど、私は彼の音楽はさっぱり分からない。しかし、彼の方が若いので、正しいかも知れない。私は歳をとっているので彼の素晴らしさが分からないのだろう」 つまり、マーラーはシェーンベルグの音楽を高く評価しているから彼を守ったのではなく、「理解できない」のに守ったのです。つまりマーラーにはマーラーの正しさがあり、シェーンベルグにもそれがあるのです。だから、マーラーは「私は彼が間違っていると思うけれど、たぶん、私の方が間違っているのだろう」と考え、彼の保護のために行動をしていたのです。 臨終の床で「ああ、私が死んだあと、だれがシェーンベルグを守ってくれるのだろう」といっています。偉い人は偉いですね。相手が間違っていると感じるのは自分が間違っているからだと思って、実際に意見が異なる相手を守るというのは相当なものです。 ところで、最近、ある音楽家からマーラーとシェーンベルグの入ったCDをいただき、聞いてみましたが、一部の曲を除いて、私はタダうるさいだけで良さは分かりませんでした。でもそれは私の理解力が不足しているからです。 (平成27年8月26日)

11-13
09:00

温かい人生 その13 「脅し商法」に翻弄された20年(2)

ある日から(私の著書に事実を詳細に書いたが)、朝日新聞が「リサイクル反対」から「賛成」に変わり、キャンペーンを打ち始めます。それをきっかけにNHKや他のテレビ局が追従、半年ほどで日本社会はそれまでとまったく逆の方向に走り始めました。 女性の進出と脅し商法は「ゴミ問題」から顕著になったのですが、リサイクルで特定の焼却炉メーカーが巨利を得たこと、ペットボトルなどの消費量が飛躍的に拡大したこと、それまで地道にやっていた「ちり紙交換」の業者が一網打尽にやられて廃業し、お役所に取り入った特定業者だけが紙のリサイクルでぼろもうけをするという結果になりました。 また、紙のリサイクルでは日本の森林の利用率が落ち、山は荒れ放題になり、他国の森林を傷めるという結果を招いたのです。でも、朝日新聞を中心としたマスコミの「良い子報道」によってリサイクルがもたらした酷い状態はまったく報道されず、国民は、分別の苦労、ゴミ収集の頻度の低下、地方税の増税(もしくは減税できない体質)、役所と特定業者のとの癒着、日本のゴミを開発途上国に出して国際的な顰蹙を買う・・・などが「冷たい日本」を作っていきました。 隣の家からでたゴミを隣組の監視員がゴミを開いてみて、私生活を覗く密かな楽しみを生み、「ゴミは少ない方が良い」という奇妙な道徳観念を生んで、主婦は家の前に置くゴミの量をできるだけ少なく見せるようにするまでになりました。 人間が使ったものは必ず何らかの形でゴミになるのですが、さまざまな利権と報道が事実を報道せず、監視社会が生まれたという結果になりました。 リサイクルの利権が一渡り終わると、少し手の込んだリサイクルに進む人たちと、温暖化利権に向かった人たちがいました。一般のプラスチックなどと異なるさらに悪質なリサイクルがペットボトルのフタとワクチンが組み合わさったもので、少しの常識があればこのリサイクルが異常であることがわかるものです。 ともかく、「リサイクル」という美名で「悪徳商法」と「庶民の苦労」が日本社会の中にはびこり、不合理なことを隠しながらやるのですから、「暗い社会」、「冷たい社会」をもたらしました。 役所は市民に「分別しろ」と命令し、分別したものが「再利用」されているかを明らかにしないとか、分別した物を一括して燃やしても「サーマル・リサイクル」と読んだり(ヨーロッパですら禁止されている呼び名)、もともとリサイクルに出すと少しのお金やトイレットペーパーがもらえたくず鉄、アルミ缶、紙などもお役所と特定の業者が独占して、逆に税金を払うと言う事態になりました。 よく中国の悪口などを言う人がいますが、日本のリサイクルほど一般国民に負担を強い、税金を取り、特定業者がもうけるという社会悪が「道徳」の名の下に行われているというのは驚きです。 でも、「冷たい社会」とはこういうことの積み重ねで起こり、次第次第に「人をバッシングする風土」、「精神的に弱い人がうつになる危険性の増加」、「自殺の増加(ほぼ世界一のレベル)」を生んできたような気がします。 本当にリサイクルができ、ものを大切にできるなら、データはオープンになるでしょうし、第一、「繰り返し使えるようになった」のに、「捨てていた時代」より多くの税金がかかると言うこと自体が奇妙なのです。 このリサイクルを皮切りに、女性の不安感と脅し商法は日本社会に定着し、ダイオキシン、環境ホルモン、オゾン層破壊、日光浴の危険性、高血圧、コレステロール、植物油、そして温暖化と際限なく繰り出されるようになりました。 これらの問題はもともと存在しないか、あるいは逆に私たちの生活や健康を脅かすことになり、周囲からの多くの脅迫で、精神的に弱い人はうつなどになり、人生を失っていきました。 知識人、指導者、マスコミなど日本をリードする人たちの心はどういうものなのでしょうか? 第一に自分はリサイクルもダイオキシンも関係がないということです。所得は高く、持ち家か高級マンションで、分別は奥さんがしますし、形だけ「文化人」、「環境を大切にする人」ぐらいの印象を与えておけば、特に社会の流れに背く必要はありませんし、「儲け」というのがある程度の「裏の操作」を伴うこともよく知っています。 第二に、主として東京に住んでいるある意味での特権階級の人は、自分たちの生活を悪くしてまで「日本のため」とか「未来のため」に何かを考えるということは必要がありません。特権階級にいると言うこと自体が「現在の体制を維持した方が良い」ということですので、多くの改革は自分たちの生活を危うくするだけで得にならないからです。 朝日新聞、NHK、そして東京に住む知識人が組んで、徐々に日本に不道徳な考え、非日本的な道徳、村八分的な空気を次々と作り出したことが、「締め付けられるような社会」を作り出したと思われます。 少し前までは、自由にゴミを捨て、電気を使い、ドライブを楽しんでいたのに、そしてそれは今でもアメリカやフランスなどでは普通のことなのに、日本は分別し、ゴミの収集日は減り、節電をし、ガソリンは使いにくくなる・・・まるで「お犬様の時代」に逆戻りしたような息苦しさを感じるようになったのです。 あののんびりした生活、ゆっくりした時間、他人を認める日本の生活をもう一度取り戻したいものです。 (平成27年9月27日)

11-12
12:35

温かい人生 その13 「脅し商法」に翻弄された20年(1)

女性の社会進出や家庭での女性の発言権が増大するにつれて、「脅し商法」が1990年代から急激に激しくなりました。女性は男性と比較すると慎重派で危険に対して敏感で、しかも将来は別にして1990年代はようやく女性が社会に進出を始めた時ですので、「そんなことはないよ」というようなチェック機構が働きにくいというところもありました。 まず第一は「リサイクルしないとゴミ箱が満杯になる」というものでした。日本は物質の生産量が約20億トン、そのうち、どんなに頑張ってもリサイクルできる量は5億トン、さらに産業ではなく、家庭を経由するゴミは5000万トンぐらいしか無いのですから、いくら頑張っても40分の1、現実にはその100分の1しかリサイクルできていないので、家庭の主婦が一所懸命やってもゴミに行かずにもう一度使っているのは実に4000分の1にしかなりません。 でも主婦にしてみれば、生産工場を見たこともなく、エネルギーが消失していくのも目に見えず、目の前の台所のゴミは一日で袋一杯になったりするので、「これは大変だ」ということで分別を始めました。 もちろん、意味の無いことですから、夫は「そんな馬鹿らしいことをしてもダメだ」と言って夫婦喧嘩が絶えない家庭も多かったのです。もちろん、リサイクルしなければ廃棄物貯蔵庫が満杯になるなどはウソですし、リサイクルのおかげでペットボトルの販売量は急増、自治体は焼却炉を作る必要がなくなり仕事が楽になり、単に税金を上げれば良くなった(500億円が3000億円に増えた)だけのことでした。 知識と思考力がなければだまされるのは仕方ないことですが、臨調をやった土光さんの奥さんは昔型の女性でしたが、社会を見る目があり、「家庭では節約、社会は発展」と言われ、家庭の考え方を社会にそのまま適応できないことを戒めています。だから、多くの家庭婦人がリサイクルや分別をして、環境を汚し、税金を上げたのはやはり女性の社会の経験が少なかったということになると思います。 今では考えられないことですが、リサイクルは当初「資源を多く使う」という正しい考えが支配的でした。当時は「ペットボトルがこれ以上増えたら廃棄物貯蔵所の寿命が短くなる」という正しい認識が一般的でした。「廃物貯蔵所が一杯になって場所がない」というのではなく、「廃棄物貯蔵所の寿命が短くなって、新しい廃棄物貯蔵所を作るお金がかかる」という妥当なものでした。 ところが、社会の裏に2つの動きがあったのです。一つが「ペットボトルをもっと売りたいという産業の思惑」、もう一つが「棚段式の焼却炉は効率が悪いが、既得権益があるので守りたい」という動きです。この二つの動きは産業としてはそれほど倫理に悖るというものではありませんでした。 会社は社会的なことをそれほど強く考慮する必要はありません。たとえば、エアコンのメーカーが「エアコンで生活するのは問題だ。自然の風で生活するべきだ」としてエアコンの生産を止めてしまうのはやはり産業としては行き過ぎです。自由な社会では、「自然のなかで生きる」ということを目指した産業もあれば、エアコンの性能を良くして快適に過ごしてもらうと言う産業もあって、その中で国民が選択していけるからです。 ペットボトルはどこでも飲料を飲めますし、それまで女性が「お茶くみ」というのを担当していたのが無くなるというメリットもありました。だから、「廃棄物貯蔵所の寿命が短くなるからお金がいる」というのと、「ペットボトルを自由に使って快適な生活をする」というのではどちらが良いか分からないからです。 ところが、ここに朝日新聞が登場します。朝日新聞は自らの販売部数を増やすために、女性をターゲットにして「脅し商法」に踏み切ったのです。 (平成27年9月26日)

11-11
12:00

温かい人生 その12 人には「取り柄」があるのか?

先回、子供を教育するときに、数学から音楽までまんべんなくできるようにさせず、数学の好きな子供は数学、バレーボールの好きな子はバレーという教育にした方が相互に比較をすることもなく、子供は好きなことを勉強できるので良いという私の考えを書きました。 それとは矛盾するのですが、良く、「人間はなにかの取り柄があるから、頑張れ」と言われることがありますが、はたして人間には取り柄があるのでしょうか? 一体全体、「取り柄」というのはどういうことを言っているのでしょうか? 普通は「人より優れている」というようなことのようです。たとえば、「彼は勉強は苦手だが、運動は得意だ。特に短距離は彼の取り柄だ」というと、勉強は「人よりおとっている」が、運動は「人より優れている」ということを暗に意味しています。 しかし、「人より優れる」ということが良いことなのでしょうか? このようなことを耳にすると私は「人は他人と比較することによって価値が生まれるのか?」と疑問になります。  たとえば女性の方で子供を産み、一所懸命育てることができれば、それでとても立派な人生で、下手にスポーツ万能で東大を出て人の上に立ち、自分だけは豊かな生活をしている人に比べれば、その女性の人生はとても素晴らしく立派であることは間違いありません。 人間も他の生物も同じですが、毎日、楽しく生活ができればそれが最高で、なにもその人が誰かと比較して優れているかどうかなど全く関係もありません。 一度、フィンランドの大使館との関係があり、その時にフィンランドの人が「フィンランドの大学では合格や不合格、成績順などはありません。卒業したら森に入り他人との関係があまりありませんから、比較すること自体が無意味なのです」と言われたことが忘れられません。 そして、「人と比較しないと人間は頑張らないと思うかも知れませんが、オリンピックの選手、ノーベル賞、作家などを比較しても人口比で日本とフィンランドと同じぐらいか、フィンランドの方が多いぐらいです。人間は人と比較しなくても才能があれば開花するし、才能が無くても同じなのです」と言われました。 「取り柄」というのは「楽しく毎日を生きることができるか」ぐらいはありますが、その他の取り柄などはないし、「人より優れている」というのはそれ自体が欠点ではないかと私は思うのです。 でも、多くの若者が小学校から高等学校にかけて「取り柄はなに?」、「あなたの長所は?」と聞かれ続けて、「自分には取り柄がない」とションボリしている人を見かけます。そんな時、「取り柄なんか無いに決まっているじゃないか」と言うと、それだけで顔が輝いてくる学生も実際にはいます。 私は最近、テニスを始めました。本当は走るとか歩くということでも運動ができるのですが、私は男性でもあるので闘争心があり、テニスをうまくなりたいとか、勝負に勝ちたいという無意味な衝動があり、それを利用して体を鍛えたり、楽しみにしたりしています。 テニスをするということは私の人生を豊かにする「道具」であり、決して「目的」ではありません。まして人に勝つなどはつまらないことなのですが、私の心に闘争心がある限り、それを利用することはできます。でも、「利用」しているだけで、その結果が私の人生に影響があるわけでもないのです。それは私がテニスのプロであってもそうで、テニスをすることですでに目的は達成されていて、勝つとか負けるというのはおまけのようなものです。 「他人と比較しなければならない」という強固な日本人の信念は小さい国にひしめき合って住むようになった明治以来のことで、わずか170年ほど前までは日本にも特殊な人以外はなかったことだったのです。 (平成27年9月20日)

11-10
11:14

温かい人生 その11 なぜ、子供を採点するの?

赤ちゃんはみんな、明るく元気で、親がちょっと目を離すとすぐいたずらをします。それが実は「人間」、つまり「私たち」で年齢を重ねたからと言ってそんなに大きく変わるものではありません。 40歳の人も70歳の人も、ともにヤンチャで悪戯好き、何事にも本当は興味津々で、おかしいことがあれば声を上げて笑いたいのです。ところが、小学校に上がる頃からあんなに元気だった子供が、少しずつ少しずつ、目に見えないスピードで変化し、だんだん元気がなくなります。 それは現在の教育というものが「人間を対象にしていない」ということによります。一人の人間を「国家のために貢献させなければならない」という強い使命感が教育関係者にあります。「日本のために役立つ人間とは」というのが常に議論され、あるときには(高度成長期)、個性のなく一定のことが集団でできる子供たちを育てました。小学校から「これは学ばなければ進級させない、進学させない」というものでがんじがらめにして個性を捨てさせました。その結果、日本としては大成功をして世界が驚くような成長を成し遂げました。それはそれで評価が分かれると思います。 その代わり、「何でも言われたとおり」という人だけで社会が構成され、「空気」だけに従って一斉に行動するということになりました。今から40年前「石油がすぐ無くなる」と誰かが言うと、全体を見渡すことなく、「トイレに行けなくなる」と思ってトイレットペーパーを買いあさったという現象になりました。 でも、人間というのは、数学が得意な人、詩を理解できる子供、ピアノがうまい子、バレーボールは才能があるけれど100メートルというと全くダメという人など千差万別です。それを強制的にやらせて、おまけにあるレベルまで来なければ合格させないという残酷なことをするのです。 よく「数学嫌いでも数学は必要だ。数学的な考えは人生にとても大切だ」と数学の先生が言われるものですから、私が大学の管理をしている時に、「数学がどのように人生の考え方に影響を与えるのか?」を聞きに行きましたが、ほとんどキチンとした説明はありませんでした。数学の先生に辛い言い方ですが、私に説明する態度と言い、話の内容と言い、とても「人格者」と呼べないような人たちでした。 数学がまったく役に立たないと言うことはありませんが、数学の代わりに国語を勉強したらどうなるか、歴史は必要か、地学はどうか・・・と聞いていくと、とどのつまり「その先生が数学が得意だったので、他人より優越感を味わった」と言うことなのです。 子供が学ぶべきことを、現実に子供が勉強できる量の2倍から3倍を準備し、子供の特徴に合わせ、興味に合わせて学ぶことができるのが良いと思います。わかりやすく言えば、バレーボールでも陸上でも選べるということです。 数学が非常に好きな子供は200人に一人と言われていますが、それでも日本全体で50万人が数学が極めて優れているということです。英語でもなんでもそうですから、「読み書きそろばん」程度を越える、二次方程式とか、虚数、細かい歴史の年号などは好きな子供だけにするのが人間というものを認めた教育でしょう。 そうすればとても温かい、人の得意な分野を尊重する社会になると思いますし、人との比較をしなくてもそれぞれのことをやれば良くなると思います。 (平成27年9月18日)

11-09
09:35

温かい人生 その8 他人の評価と自分の人生

サラリーマンになると複数の同僚や時には後輩との競争になり、どう見ても自分より劣ったり、ゴマをすっているばかりの人が評価され、悔しい思いをすることがあります。人間の心は弱いもので、自分の人生は会社の人のような他人とは関係がないのですが、「他人が評価してくれないなら、自分の人生を捨てる」という奇妙なことが良く起こるのです。 ちょうど、中学校ぐらいの時に先生に酷いことを言われたことを苦にして、勉強が手につかなくなって、そのまま立ち上がれずにぐれてしまう場合と似ています。もちろん先生が生徒に酷いことを言うのは問題ですが、先生はすべて人格が優れているとは限らないので、そのぐらいの不運は乗り切らなければならないのですが、なかなかそうは行きません。 考えてみると、「先生の人格が低いから自分がダメになる」というのは実に奇妙です。もともと人格が低いのですから、そんな人の影響を受けるのは馬鹿らしいことで、むしろ反対に人格の高い人に影響を受けるべきなのです。 つまり、人格の低い先生になにか言われたからといって自分の人生をダメにしたら、何をやっているか分からないからです。でも、人間はこんな矛盾したところがあり、いくら頭で「あんな奴の言ったことにとらわれるな!」と言い聞かせても、繰り返し頭に浮かび、悔しくてたまらないということになるのです。 それが学校の先生ならまだ分かるのですが、日常生活であまり利害関係の無い人でも、何か言われると気になってしょうが無いということも起こります。 でも、よく考えてみると、まず第一に、自分の人生は自分と家族のものであり、他人の評価や言ったことで左右されないという強い気持ちを持つことです。そして第二に、自分で自分の人生をどのように過ごすか、なにが自分の人生なのかを繰り返し考え、仮にでも良いから決めておくことです。 「自分の人生をどうするか、自分で決める方法」でもっとも簡単で現実的なのが「目標を決めないで、毎日、一所懸命に過ごす」ということです。実は、これは武田の人生そのものなのです。私は会社に入ってすぐ「この世の中は努力したから報われるとか、優れているから評価される」と言うことはないのだなと思いました。周辺を見てみると、努力しない人、優れていない人が評価されているからです。 そして、「自分はおそらく評価されないだろう。今までは学校だったから試験の成績が良ければ評価されるけれど、今後はそうではない」と言い聞かせ、自分を振り返ると、確かに一所懸命に仕事をしたり、計算が速かったりする点では優れているのですが、性格が少し強く、言葉も厳しく、我慢もあまりできないということがあり、きっと多くの人に好かれることは無いと言うことは自覚できました。 そうなると、一所懸命仕事をして、たとえ優れていても評価されない可能性が高いことになりますので、「何をしよう」とか「出世しよう」ということは考えず、「目標を持たず」、「ただ毎日、一所懸命やろう」と思い、「一所懸命やるのは他人から評価されるためではなく、自分の人生のために精一杯の生活をしよう」と覚悟したのです。 それからの人生はかなり楽になりました。毎日、自分なりに一所懸命にやることはできますし、その結果がどんなことになってもそれは承知の上ということですから、ストレスはかなり減りました。私が32歳の時でした。 でも、それまでの私は普通の人と同じように、「他人が評価することで満足する」(成績が良いとか皆が自分を褒めてくれるなど)というクセがついていたので、「他人が評価しなくても自分として一所懸命やればそれで満足する」という心境になったのは40歳ぐらいだったと思います。 その後も、周囲は私を誤解していました。あまりに一所懸命に仕事をするので、きっと出世したいという野心があるのだなと思われていました。だから私が49歳の時に急に会社を辞めて大学に行ったことにビックリされたものです。でも、その頃には「自分の人生は自分なりに一所懸命やればそれで良い」と心から思っていましたので、どこで仕事をするというより、毎日、一所懸命やれればそれで良かったのです。 でも、失敗は良くありましたので、時々、それを想い出しては苦しい思いをすることがありました。でもそれもやがて克服できたのです。それは「昨日、どんなに土砂降り(まずいことがあった)でも、昨日はもう帰ってこない。だから昨日は晴れ(すべてがうまくいった)と思い込もう。そして、今日、自分に朝がこれば今日一日だけでも頑張ろう」と思うことができるようになったのです。 この体験が私が色紙に書く次の言葉になりました。 「昨日は晴れ、今日も朝」 (平成27年9月11日)

11-08
12:15

温かい人生 その7 「利権」がなければ環境は良い

人間が成長していく時、赤ちゃんはいつもニコニコしていて、何にでも興味を持ち、とても可愛い。普通に成長すると、10歳、つまり小学校4年生ぐらいまでは素直さ、明るさ、そして強い興味を持っている。でも、いわゆる思春期が来ると無口になり、反抗的になり、暗くなる。 思春期の子供は自分でも「昔はボクは明るかったのに、今はどうしてこんなになったのだろう」と不甲斐なく思う。 成長というのは一様には進まない。頭と体、内臓や筋肉、生理の発達はそれぞれが進んだり、遅れたりする。だから成長期にはアンバランスが起こり苦しむ。でも、20歳ぐらいになると段々、そのアンバランスがなくなり、明るく活発な青年に戻る。 このことと同じように社会の発展も途中でアンバランスになる。所得が増え、餓死する人などがいなくなると、生産が過剰になり、大気や水が汚れたり、大量に供給される食材に毒物が含まれるようになる。そして多くの人が不安に陥り、「大量生産すると環境が破壊される」と錯覚する。 有名は水銀で起きた水俣病の裁判の判決がその錯覚の典型例で、裁判官は「大量生産すれば環境は汚染される。だから過失がなくても汚染させた人に責任がある」という「環境汚染不可避説」をとって有罪にした。裁判官が文化系だったから、脱硝技術、脱硫技術など「大量生産しても環境は汚染されない」という事実を認識する力はなかった。 やがて、社会が成長を終わるとバランスが徐々に戻ってきて、「大量生産しても環境は素晴らしい」ということになる。ちょうど20歳の青年が輝いているようなものだ。 ところが、その頃になると「創造された環境破壊」が出現する。それが「リサイクルしないとゴミがあふれる」に始まり、「石油がなくなる」とか「地球が温暖化する」とか「異常気象になる」という類いだ。本当はそんなことはないが、専門家でなければ分からないことを利用して、脅し、税金や利権をとろうとする。 しかし、それも30年ぐらい経つと、すべてウソであることが分かるが、それでも脅され、洗脳された国民はなかなかその脅しから抜けることができない。そしてなんとなく不安を感じ、意味の無い分別やCO2削減などをやって暗くなる。 私はこのような科学的な間違いを直そうと、ずいぶん長い間、活動してきたが、人間の頭にインプットされた間違った考えは、簡単な事実も認めようとしないのでガッカリする。たとえば、「リサイクルしないと8年で廃棄物貯蔵所が満杯になる」と言われていたが、すでに25年たってリサイクルはされていないのに廃棄物貯蔵所は全く問題がない。50年前、「あと30年で石油がなくなる」といって大騒ぎをしたのに、10年前には「あと40年で石油がなくなる」と言い換えた。さらには、「石油は40年分しかないが、100年石油を炊き続けると温暖化する」という奇妙な説明がされても、それを奇妙に思わない。 石油は枯渇しないし、温暖化もしない。科学的には間違いないが、なかなか「温かい人生」の方に日本社会が向くのは時間がかかるかも知れない。 (平成27年9月10日)

11-07
11:05

温かい人生 その6 私たちの人生を幸福にするために

このシリーズの最初にすこし触れたのですが、日本は所得、長寿、医療、安全、水、気候などどれをとってもほぼ世界一と言えます。そんな環境のもとで一生を送っているのに日本人には幸福感はありません。それどころか世界でもっとも「満足できない毎日」を送っているという驚くべき事実があります。 その理由は「幻想」で、その幻想の多くが「マスコミ、専門家、進歩的知識人、政府、官僚、一部の運動家」などが作り出しています。人間は大脳支配動物なので、頭が洗脳されると事実さえも打ち消されてしまうのです。ここまで「正しい」、「健康・・・日光浴の問題」、「私たちの歴史観」、「男女の問題」などに触れてきました。まだ「環境の脅し」や「教育、出世など」がありますが、かなりの反論があります。 反論すること自体が自分で考えるということですから、人生を幸福にしますが、ややマスコミの言っている通りに信じているという方が多いのでちょっと感想を書きました。 (平成27年9月8日)

11-06
12:30

温かい人生 その5 男女の会話が不幸を招く

離婚や男女の別れの多くの原因は「男女の会話の違い」によるものです。もし人間に「言葉」というのがなければ、多くの男女の別れも、離婚もなかったでしょう。 オオカミは一夫一妻制ですが、ひとたび、結婚すると夫婦が相協力して10キロ四方の縄張りを守り、子供を育て、夫婦仲のよい生活を送ります。それは、オオカミの夫婦に目的(家庭を幸福に、子供を育てる)というのがあり、言葉が無いからと考えられる。 人間の場合は、10万年ほど前から男性が狩にでて、女性は子供とともに家にいる生活をしていた。男性には基本的には言語は不要で、お互いの信頼感が最も大切だった。大型の動物を狩るときにはかけ声や雄叫びは必要だったが、仲間が「自分の命を捨てても仲間を守る」という信頼感だけが頼りだったからだ。 女性は集団で子育てをしたが、子供に言語を教え、日常的に細かいことを話しながら無事に子供を成長させた。その結果、言語能力がたけ、細かいことに気がつくようになった。 このような男女の頭脳の差が「先天的」か「後天的」かは問題にはならない。10万年にわたる生物の生活はその種の特性を決めてしまうからだ。現在では職業(当時の狩)に危険を伴わなくなったので、女性が職業に進出する希望を持つようになったが、それはどんなに短くても1万年、戦争を考えると70年しか経っていない。 女性が安全になった職業に携わるのはとても良いことだが、そのためにはこれまでの人類の歴史に大きく逆らうとギクシャクしてうまくいかない。私たちは不幸になるために努力してはいけないのであって、幸福に人生を送るために努力しなければならない。 「男性は言葉を発しない」、まずそう思うことだ。次に、「男性は聞いたことは覚えているが、反論などはせず、行動で示す」という特徴も女性は理解しておいた方が良い。これは「それが好ましいかどうか」ではなく、男性に備わった性質だから仕方が無い。 女性が何か言っても男性は答えない。聞こえていないわけでもなく、不誠実でもない。言葉がでないのだ。女性にはこれが分からないが、現実はそうだから仕方が無い。せいぜい、小さく頷く(うなづく)だけだ。 女性の会話は回答を求めない。だから言いっ放しで言ったことが実現するかどうかはあまり問題ではない。会話自体に意味があるので、言えば80%は満足する。でも男性は「答えを求めるために発言する」ので、女性が言ったことを実現しようとする。普通はできないか、少しできるぐらいだ。 「あなたお腹が出ているわね」というと男性は少しでもお腹をへこませようと、食事を制限したり、運動したりする。でも現実にはお腹はへこまない。だから何回も女性に言われるが、男性は答えることができない。結果を伴っていないからからだ。 「あなた、少し肥えた?」と女性が女性に尋ねると、聞かれた女性は事細かに努力しているが減らないと言う。そして次に会ったときにも聞かれもしないのに、事細かにいかに努力しているか、なかなか痩せられないかを膨大な言語で表現する。 でも女性二人はなにも変化がないのに「会話した」ということで満足しているが、男性は女性に言われないかとビクビク(イヤな感じ)している。 つまり、男女は言語の目的が違うので、会話はいらない。会話が必要なのは女性同士だけである。男女はオオカミの夫婦のように「目的」が一致していればよい。本来、幸福な夫婦が会話をするために不幸になることが著しく多い。それは10万年の歴史に反して、「自分が正しいと思うことだけが正しい」と多くの女性が信じているからと私は思う。 男女が争うより、また男性は男性の、女性は女性の正しさを主張するのではなく、お互いの性質を知って穏やかで温かく、幸福な人生を目指した方が良いように思う。 (平成27年9月2日)

11-05
08:25

温かい人生 その4 日光浴と健康

寒い冬、柔らかい日の光を浴びてちょっとしたところで日向ぼっこをするのは実に気持ちの良いものです。寒くても気持ちがよいのは大昔に私たちの祖先の動物の体ができた時も同じ太陽の光を浴び、その光を利用して体の健康を保っていたからでしょう。 日本では少し前、皮膚科の先生を中心として「日光に当たるとガンになる。できるだけ日光に当たるのは避けたほうがよい」とかなり厳しく言いはじめました。なにしろ医師のいうことですから多くの日本人は「日光に当たってはいけないのだ」と思いましたし、特に女性は肌が黒くなるし、シミも残るというので完全に防御した服装で外出をするようになりました。 しかし、何かおかしい、違和感があると思ったのは私だけではありません。かつてあれほど「日光浴は大切だ」と言われ、昔は子供は真っ黒になり、加山雄三が明るい歌声を聞かせてくれたころからは小麦色に焼けた女性も持てたものです。 「なんで昔と今と違うのですか?」と私も皮膚科のお医者さんに聞いたことがあります。「がんの研究が進んだから」とか「寿命が長くなったから」というようなことを言っておられましたが、どうも釈然とはしませんでした。なにか紫外線吸収剤を売りたい化粧品会社の陰がちらつくのです。 そして10年ほどたつと、今度は「日光によく当たる地方の女性は長生きで元気だ」とか「日光に当たらないと認知症になる」などと言われるようになり、瀬戸内海の島の女性を対象にしたカナダなどの研究が紹介されるようになると、「できれば毎日少しでも日光に当たらないといけない」とか、昔から言われていたように「ビタミンの合成を助けるために日光が必要だ」が復活しました。 ・・・・・・・・・ 私はこのような医療の混乱が「本来、安心して幸福な人生を送ることができる人々に不安を与え、不幸に陥れる原因」になっていると思っています。医療の混乱が「日光浴」だけならよいのですが、高血圧の上限、高血圧と食塩、コレステロールの食事制限、人工透析の増加、がんの早期発見、肺がんと喫煙、ビールと痛風、水と熱中症などなど、あまりにもいい加減なことが多いのです。 このような医療の混乱は、1)縦割り医療(皮膚科は皮膚のことしか意識しない)、2)薬品会社や医療機器会社と医師の癒着、3)厚労省の利権行政(メタボに代表される)、などに原因していて、多くの医師が毎日、懸命に働いているのにこのままでは医療の信頼性はさらに悪化します。 お医者さん自身が「病院に行くな」などという本を書いてベストセラーになるところまで来ていますが、具合の悪い人にとっては一つ一つが真剣な話で、「縦割り医療」などと言ってもらっては困るのです。 そこで、この「温かい人生」で整理をしようと思っているのは、今回は「本当に日光浴はどの程度、すれば良いのか?」、「日に当たるというのは本当に害があるのか?」を常識的に、原理的に、時代が変わったからといって変わらない話を多くの人の立場にたってしたいと思っています。 ・・・・・・・・・ 日光浴をどのぐらいすれば良いのかは、第一に基礎的知見、第二に医学的知見、第三に臨床的知見が必要です。 1) 基礎的知見:   植物の紫外線防御機構と動物の差、生物と人類発生の歴史、緯度と肌の色、メラニン色素と光の遮蔽の関係、皮膚のDNAのチミンダイマーの発生と分解などで材料の劣化などの研究をしていた私の領域です。 2) 医学的知見:   ガン発生の基本的なメカニズム(紫外線と皮膚の疲労、血流の関係)、皮膚ガンの発生機構、防御機構、TNFなどの人間が持っているガン壊死因子の効果、日光浴とビタミンやその他の活性物質の合成過程、過去の日光浴の知見との関係など基礎医学分野の知見。 3) 臨床的知見:   内科や全身医療から見た日光浴の効果、皮膚科から見た皮膚の健康と皮膚ガンの状態、過去の日焼けと病気との経験的関係など。 これらのことが総合的に判明していて、はじめて「どのぐらい日光に当たって良いのか」が決まります。単純に日光に当たるとシミができるなどといってご婦人を脅かし、紫外線吸収剤を買わせるというような医療は生活を不安にしますから、適当ではありません。 現在のところ、厳密には分かりませんが、日本人は日本の太陽の光による障害を防ぐことができるように「黄色人種」になっているので、「普通の生活」をしていて問題は無いと考えて気楽な人生を送るのがベストでしょう。 (平成27年9月1日)

11-04
10:05

温かい人生 その3 自分が正しいと思っている

かつての日本人が満足した人生、豊かな生活を送っていたのに対して、現在の日本人は物質的には飛躍的に「幸福になれる環境」にいるのに世界でもっとも「不幸だ」と思っているという驚くべき現状を先回に示しました。 この錯覚が生じたのには原因があるのは当然です。それを一つ一つ整理していくことで、この素晴らしい環境の中で、安心して満足した生活をすることができるようにしなければ何のために日本人として生まれてきたかも分からなくなります。 原因の第一に「自分が正しいと思う」という現代の日本人のクセを示します。 学生がケンカしているのを見ると、一方の学生は「俺は正しい。おまえは間違っている」と叫んでいて、相手の学生は「俺の方が正しい。おまえが間違っている」と言っています。 そこで、一方の学生に「なんで君が正しいことがわかるの?」と聞くと、聞かれたことが分からずにポカンとしている。そこで「だって、自分が正しいって主張しているのだから、なぜ正しいか理由を言わないと」と言うと、しばらく考えていて「僕が正しいと思います」と言う。 私が「君が正しいと思っているだけなら、相手だって自分が正しいと思っているはずだよ。だから理由の説明になっていない」というと、学生は困ってしまいます。つまり、彼は「自分の考えが正しい」と激高しているのに、「正しい根拠」を示すことができないのです。 「自分が正しいと考えていることが正しい」ということになると、人によって考えが違いますから日本には人口分だけ、つまり1億2000万ヶの「正しさ」があることになります。 そこでダメを押すために「たとえばお釈迦様に聞いてみるとかした?」と聞くと、さらに学生は困ります。お釈迦様はすでに2600年ほど前にお亡くなりになっているから「議論していることが正しいかどうか」を聞く人がいない・・・だから自分が正しいと判断すると、それが正しいと錯覚することになるのです。 この話で分かるように「正しい」というのは人によって違いますが、異民族が混合して生活をしている大陸では「人によって正しいことは違う」ということを認めていますので、主語や目的語がはっきりして言う言語を使い、価値の多様性を認めるという文化ができました。 これに対して日本は1万年前からほんの最近(150年前まで、つまり日本人が集団で過ごした期間の98.5%)まで「曖昧な言語、暗黙の空気、一つの価値」の中で過ごしてきたのに、開国しかつグローバリゼーションがさらに進む中で、この伝統的な文化だけはまだ残っているということです。 「人は人」であり、「違いこそが人生を豊かにする」と言う意識がはっきりできれば、まず第一にケンカがなくなり、第二に不愉快なことが少なくなり(自分の考えと違うことが行われている時に、それは相手としては正しいと思ってやっているのだなと思う)、辛い生活のかなりの部分が解消します。少なくとも「怒りっぽい」と言うことがなくなり、「他人の言うことが理解できる(同意ではない)」ようになり、楽しく毎日が過ぎていくからです。 (平成27年8月26日)

11-03
12:26

温かい人生 その2 欲深くなった私たち

「辛くないのに辛い人生」になるのはなぜでしょうか? 今日の話題はその1です。 19世紀のはじめ、今から200年ほど前のことですが、ヨーロッパの白人は力があまって世界中に軍隊を送り、次々と有色人種の国を侵略して植民地にしていました。 しかし、日本は「東のはずれ=極東」にあってなかなかそこまでは到達しませんでした。そしていよいよ幕末に鎖国が解け、白人の人たちが日本に来てみるとビックリ仰天したのです。当時の記録をちょっと見てみます。 「彼ら(日本人)は皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もいない。これがおそらく国民の本当の幸福の姿と言うものだろう。私は、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たして日本人の幸福を増やすことになるかどうか疑わしく思う。 質素と正直があれば黄金時代を築けるとしたら、どの国よりも日本がその典型的な社会だろう。生命と財産の安全、人々の質素と満足は、現在(幕末)の日本のはっきりした姿であるように思われる」 当時の日本は、安全な社会で生命と財産が保証されていて、その中で「質素」を「満足」としていたので、日本人はみんな幸福そうだったと言っているのです。 さて、表紙のほとんど見えないほどの小さな字で書かれているグラフをザッと見てもらいたいと思います。このグラフは、一日が終わる時に「今日は良い日だった」と思った人の割合を青い棒グラフで示しています。 グラフの上の方、つまり「今日は良い日だった」というのが多い国は、アフリカや南アメリカの国がほとんどで、先進国ではアメリカが13番目、イギリスが22番目です。 そして目をグラフの下の方に移してもらうと、極端に「良かった」という人が少ない国があります。つまり最下位の国、それがなんと日本なのです。この調査によれば「今日は良かった」と思う人がたった8%!!?? その一つ上が残念ながら韓国で9%。これほど不満持ちな国が隣り合わせになっているのですから、歴史認識も問題になるはずです。 つまり、日本は気候が良く、山紫水明、四季折々の自然に囲まれて命の危険を感じることもありません。その上、治安は素晴らしく(世界で10万人あたりの殺人件数が0.6人と世界最低)、女性でも夜一人で歩ける珍しい社会です。それに、所得、寿命など生命財産に関係するものも世界のトップですから、素晴らしいのです。 そしてかつての日本人はそれで満足して「不満なし」だったのですが、今の日本人は不満だらけということです。江戸時代と比較しますと、現在の日本は、所得、生活レベル、健康、寿命などあらゆる点で「幸福に生きることができる環境」にいます。それでも世界で最も不満の多い民族ということになるのです。 つまり、日本人の不満は「事実」ではなく「作られたもの」、「幻想」であることが分かります。 (平成27年8月23日)

11-02
07:00

温かい人生 その1 人生はそんなに辛いことはありません

人生は辛いことが多いと言われますが、実は人生はそんなに辛くないものです。でも、「辛くないのに辛い」のはなぜでしょうか? 二つの話を紹介することから始めたいと思います。 「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。 ……漁師のむすめ達が臑(すね)をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。 子供らは泡立つ白波に立ち向かって戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。 暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」 この文章を見て私は「ああ、幸福そうだな」と思ったのですが、女性の友人は「こんな役割分担の話は聞きたくないっ!」とイヤな顔をしていました。まあ、江戸時代に話だからと言って納得してもらいましたが、この女性が言ったことに中に「辛くないけれど辛い」という現代の日本人のこころがあるようです。 ・・・・・・ イエス・キリストという人はキリスト教の人は神様と信じていますが、私は神様か人間か分かりませんが、もし人間としてもこれまでこの世に生まれた人間の中でもっとも偉かった人だと思います。聖書を読むと「こんなに素晴らしいことに良く気がついたものだ」と思いますが、それこそが神様なのかも知れません。 イエスは「野バラは楽しく野に咲き、ヒバリは大空でさえずっている。あなたは何を悩んでいるのだ」という意味のことを言われています。私たちは神様(自然)から命を授かり、それがたまたま人間であったということで人生を送っています。 自分が生まれる時に、人間として生まれるか、イヌとかブタにとしてかは自分が決められることではありません。神様か自然が決めてくれたことです。もしブタに生まれていたら一年も経たないうちに殺されて肉になっているでしょう。 人間で早く殺されてなにかの生物の餌になるのに耐えられる人はいるでしょうか?そう考えると私は人間よりブタの方が偉いのではないかと思うことすらあります。 そして、さらに偶然に多くの人は戦争の終わったあとの日本に生まれ、平和な社会、経済発展する時代に生きてきました。平均寿命は43歳から80歳を超えるまでになり、所得も世界でトップクラスです。 まさに、安全でお金持ち、健康で寿命は長いという国に偶然に生を得たのですから不満はないはずなのに、なぜか幸福感がない人が多いのです。なぜでしょうか?それを少しずつ考えていきたいと思っています。 (平成27年8月22日)

11-01
10:44

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