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説教・聖書メッセージ「みちことば」

Author: Taichi Araki

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聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。
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2025年10月26日聖霊降臨後第20主日(特定25)自信から憐みへ「神さま、罪人の私を憐んでください」ルカ18・13私は、真面目過ぎるほどに「よい」牧師になりたいと願ってきました。「よい」働きをしたいと努力してきました。一人で祈り、人と共に祈り、聖書を読み、病気の人や施設にいる人を訪ね、教会に仕えてきました。特にみ言葉を伝える説教の働きを大切にしてきました。主イエスさまに生涯をかけきました。しかし、真面目に生涯をかけてきたからこそ、少しでも良い働きができないと自信を失い、自分の価値、「よさ」を疑いがちです。そう思うとこの譬えのファリサイ派の人が自分に思えてきます。彼は神の言葉をよく読み実行します。搾取、不正、姦淫を遠ざけ、十分の一献金を献げ、週に二度も断食します。真面目で「よい」先生です。神さまに生涯をかけています。徴税人を直接断罪するのではなく、そうでない自分を感謝する。見方によれば、素晴らしい姿勢です。ただその信仰は「自分のよさ」に頼る自信です。自分の価値は良い働きにある。だから自信を持つために真面目に努力します。それに対して徴税人は、ローマ帝国から徴税権を買い、好きなだけ同胞から金を巻き上げてきた、大金持ちの悪人です。この悪人が神殿に祈りに来ます。神の前で、自信はありません。「よい」先生から遠く離れ、胸を打って自分を恥じ、それでも神の憐れみを信じて自分をさらします。「神さま、私を憐れんでください。」ここでイエスさまは譬えを終えて宣言します。「義とされたのはこの人であってファリサイ派の人ではない。」悪人は自信ではなく神の憐みに頼ったからです。イエスさまはどうだったのでしょうか。自信満々に十字架へと向かったのでしょうか。いや、自信なく、ただただ父の憐みに頼っていかれたのではないでしょうか。人生の旅が深まるにつれて私たちは、自信によって歩む段階から、神の憐れみによって歩んでいく段階に入っていくのだと思います。「自信ではなく憐みによって、この世が知らない力によって、生きていこう。私と一緒に生きていこう。」 そういえばあまりにも真面目すぎる私に主治医が言ってくれました。「荒木さん、『ダメ牧師』でいなさいよ。そのほうが牧師らしいんだから。」 私は少しは牧師らしくなったでしょうか。ぜひあなたも「ダメ・クリスチャン」でいてくださいね。自信満々ではなく、主の憐れみに頼るクリスチャンに。
感謝からの自由

感謝からの自由

2025-10-0518:27

「感謝されたい」からの自由 「しなければいけないことをしただけです」 ルカ17・102025年10月5日 聖霊降臨後第17主日(特定22)ひどい譬えです。一日働いた奴隷に主人は感謝もせず、夕食での給仕を命じます。そして奴隷はこう言いうべきだと。「私どもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしたにすぎません。」感謝を期待せず、主人に仕えて生きていきなさいと。この譬えで女性を無口な「主婦」にしてはなりません。「感謝くらいしてもいいのに」とも思います。しかしこの譬えは「自分がしたことは感謝されて当たり前だ」という傲慢を戒めます。そして主に結ばれて主と一緒に働くことで「感謝されたい」という束縛から自由になりなさい、という勧めです。私たちは感謝されたり評価されたりすると自然と嬉しいものです。あぁ頑張って動いてよかったと思います。そして人からの感謝と評価の内に神さまからの恵みも感じます。だからこそ逆に感謝も評価もされないと「それでもいい」と分かっていてもガッカリします。腹が立ち、嫌にもなります。特に思い入れの深い教会では。(私なら、説教の反応の良し悪しに一喜一憂すること)でもそれは傲慢だよ、とイエスさまは言うのです。主人はあなたではなく、私。あなたは私に従う弟子、私が遣わした者、私の道具。そりゃ感謝や評価や見返りがあれば嬉しいけど、感謝されなくてもあなたは私と結ばれていた。一緒に働いた。十分嬉しいことじゃないか。人からの感謝と評価を求め過ぎると逆に人に縛られます。だから感謝と評価への執着を捨て、ただ主に結ばれて、主に忠実に生きれば、私たちは解放され、自由に、あっさりと、潔く生きられるのです。イエスさまは「主の僕」として、人から感謝と評価ではなく、裏切りと排斥を受けました。ただ父と結ばれ、父に忠実に生き、苦しみを受けて解放を実現されました。もっと言えばイエスさまこそ、私たちから感謝されずとも、ずっと私たちを愛してきてくださいました。ご自分の命を与えるほどにです。感謝を期待せず、神に結ばれて行う働きは、無条件の愛となるのです。それは誰にも見せない小さな愛です。親の介護、家族の看病、家事、同僚への親切、傾聴、友情、信徒同士の慰め、教会の当番…。 感謝などあてにせず、自由に主と共にこの世で働くなら、神の国で主は言われます。「ありがとう、よくやった、一緒に働けて嬉しかった!」
2025年9月28日
2025年9月21日「不正にまみれた富で友達を作りなさい」ルカ福音書16・9ルカ福音書はお金の使い方を重要視します。神を信じる生き方、また神の国とは、絵に描いた餅ではなく、現実生活に密着したものだと。神の国は貧しい人のものです。貧しい人に施すなら神の国は与えられます。(6・20、12・32-3) 聖書の神は経済格差を嘆き、格差是正を願う神です。この願いを背景として理解すると今日の「不正な管理人」の譬えは、イエスさまの貧しい人への慈しみを表していることになります。ある財産管理人が流用を告発されます。そこで彼は解雇される直前にずる賢さを働かせて、主人に借りのある人を一人一人回っては借金の額を書き換えていきます。借金を軽減された人たちは喜びます。そうして不正な管理人は解雇されても迎えてくれる人を作りました。主人は、予想に反して、その「賢くふるまった」行動を褒めるだけでなく勧めるのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。もちろん不正を許容するのではありません。そうではなく、ピンチにあってずる賢く自分の救いを確保するための友達作りではあっても、それでも貧しい人を助けたことを褒めたのです。たとえ動機がずる賢い「自分の救い」であってとしてもよい、それでも貧しい人を助けろ。「富で友達を作れ。」それが神の国をもたらすことになる、と。神さまの「結果オーライ」です。人の心には色んな動機があります。悪や罪の動機もあります。しかし十字架で神さまは人間の全ての動機を受け容れられました。そして死なれました。そしてそれでも神の国を成就するために人間を用いられます。神さまは人間の動機を問わないほどに、神の国を求めておられるのです。貧富の差のない社会を熱望されておられるのです。だから、ずる賢く自分が救われるための施しでもよい。自分が天国に行くためでもいい。それぞれの人が、自分のできる範囲で貧しい人を経済的に助ければ、私の熱望する神の国は実現する、と。神の切望は、小さな正しさをも超えます。「奉献」で私たちの献金を受け容れられる神の声を聞きましょう。「この際、動機は何でもいい。貧しい人を助けなさい。それが私の願いだ。」
2025年9月14日「念入りに捜さないだろうか」 ルカ福音書15・8敬老の日、ご長寿おめでとうございます。最高齢は99歳! 信仰による内から出る若さを教えられます。しかし当然、私の父もそうなのですが、年齢と共に弱って来る現実を無視はできません。体力、気力、認知力、理性、運転、社会的役割。何年か前と比べると「できたこと」や「自信」が少なくなってくるのではないでしょうか。私はもっと弱いので、小さなことで自信を失い、自分の価値を疑いがちなのですが、今日のこの譬えを聞くととても嬉しくなります。ある女性が10枚の銀貨のうち1枚を失くします。それは高価なもので、また結納の品でもありとても大切です。だから必死になって捜します。窓のない暗い家の中をランプを灯して捜します。家具の裏、物の陰を捜します。床を掃いて徹底的に掃除をしながら捜します。決して諦めません。そしてとうとう見つけます。「あった!」そして見つけた喜びは自分だけにはとどまらず、友人や近所の人を呼んで宴会をするのです。「一緒に喜んでください!」と。私たちは神に捜し求められている存在でもあります。闇に落ちたままの銀貨は自分から出ていくことができないように、闇の中で迷ったしまった私たちは自分の力で神へ帰ることができません。しかし神さまは必死になって、決して諦めず、捜してくださっているのです。それが十字架の出来事です。イエスさまは十字架の苦しみを通して、苦しむ人を捜されます。神の愛を疑う苦しみを通して、愛を疑う闇の中にうずくまる人を捜されます。そして十字架の苦しみの中で私たちを見つけ、喜び、抱きしめ、復活の命へと導き出し、そして教会を始められたのです。「さぁ、喜ぼう!!」自分には価値がない、良い人柄も、良い働きもないと思っていても、神さまにとってあなたは「生きているだけ」で神が十字架で苦しみ死んでも捜し出すに値する「高価で尊い」存在だと。そして神に捜し出された時、人は愛を受け容れ、捜し出された喜びを知るのです。「生きていることに価値がある」これを今ここに生きているイエスさまを中心に皆で、天使も加わって、祝うのが教会です。聖餐式です。「神さまはずっと捜してくれていたんだ! 見つかって嬉しい!」
楽しんで欲しい

楽しんで欲しい

2025-08-3116:27

「むしろ末席に行って座りなさい」ルカ福音書14・102025年8月31日単純な話にしてみます。夫婦二人でカフェに行き、私か妻かどっちがより落ち着く壁側の奥の席に座るか。奥が上座で手前の席が下座でしょうか。お恥ずかしい話、今までは普通に自分が奥の席に座っていました。でもやっぱり妻に奥の席に座ってもらう方がいいなと思うようになりました。彼女が落ち着いて楽しめれば、それは嬉しいな、と。席順マナーの根本にあるのは相手に「落ち着いて楽しんでほしい」というおもてなしの精神です。形だけの「謙虚さ」ではありません。イエスさまの席順の譬えでは、席が逆転します。「宴会の上座に座ろうとする者は、もっと偉い人が来て上座から下されて恥をかく。だから下座に座りなさい。そうすれば上座に引き上げられる。」ですがこれは「最終的に上座に着くためには謙虚に出るのが得策」という処世術ではありません。そうではなく、復活の宴会では傲慢な者は低められ、謙虚な者は高められ、この世の価値観が逆転する。だからこの世の価値観や世間体に縛られず、神に仕えよ、と。ただし謙虚さは「遠慮」ではありません。神の宴席で下座に着くのは、大切な人に神の愛の交わりを「落ち着いて楽しんでもらう」ためです。父と子と聖霊の愛の交わりを心ゆくまで楽しんでもらう。そのために互いに仕え合うのです。イエスさまは私たちに神の命を「落ち着いて楽しませる」ために、自らは最も不安な死の苦しみへと、へりくだっていかれました。「謙虚な人」になるためではなく、神の命を私たちに楽しませるために、自分の命を捨てられたのです。献げたのです。与えたのです。神の国、復活の食卓であるこの聖餐式で本当の下座から仕えて下さるイエスさまに感謝して、落ち着いて楽しませてもらいましょう。あなたが神さまとの関係を楽しむこと、それがイエスさまの願いです。「いいんだ、いいんだ。楽しんでくれ。そのために私は苦しんだんだ。遠慮も何もいらない、心いっぱい味わってくれ。神の存在を、この命を、この愛を。」
弱さの戸口

弱さの戸口

2025-08-2417:44

 「狭い戸口から入るように努めなさい」 ルカ福音書13・242025年8月24日 聖霊降臨後第11主日(特定16) ホラーのような譬えです。神の宴会への戸口はとても狭く、アスリートの様な訓練が必要。しかもその戸口が一度閉じられたら「私はご主人様と食卓を共にし、教えを聞ました」と言っても「どこの者か知らない」と追い払われるのです。この譬えは「自分は由緒正しいユダヤ人だから神の国に必ず入る」と思い上がる者に対して語られました。確かにアブラハムなどの父祖は宴会に入っています。しかし東西南北の諸国から異邦人は入っているのに自分たちは入れません。なぜか。それは弱々しい罪人として十字架で死ぬ人を、自分と一体となられた救い主として受け容れられないからです。「自分はそんなに弱くない、自分は正しい」または「自分はもっと強くあるべきだ、正しくあるべきだ」と思うとき、私たちは、主の十字架が示す、弱く間違った自分を受け容れられません。ですがイエスさまは呼びかけます。「弱く間違ったあなたでも、私にとっては大切なかけがえのない存在だ。だから、私はあなたと一体になったんだよ」と語りかける十字架のイエスさまを拒むことになります。自分の弱さと間違いを認めず、十字架を拒めば、解放と赦しはありません。弱く間違った自分は永遠に赦されず、自分はダメなままです。しかし十字架の内に自分の弱さを見るなら、それが神の宴会への戸口です。「力は弱さの中で完全に現れる」(1コリ12・9)。神の愛を知り自分を大切にできます。 パウロの回心も「弱さが受け容れられた体験」だったのだと思います。皆さまの弱さの戸口は何でしょうか。私の今の弱さは自己肯定感の低さです。自分や人の理想に至らない自分の評価を自分で勝手に低めています。しかし朝晩祈るとき、弱さの戸口の向こう側から十字架のイエスさまが呼ばれます。「弱いままでいい。間違ったままでいい。私は共に居る。あなたは大切だ。だからあなたも自分を大切にしなさい」。弱さを受け容れ、十字架のイエスさまの宴会に入りましょう。「罪の赦しを得させる」主の御血を飲み、自分を大切にしましょう。「弱いままでいい。間違ったままでいい。あなたは大切だ。だから自分を大切にしなさい。大切にして、弱さの戸口から入ってきなさい。」
良い対立

良い対立

2025-08-1714:18

 「対立して分かれる」 ルカ福音書12・512025年8月17日 聖霊降臨後第10主日(特定15)私の両親と兄妹は無宗教です。それで私が23歳で洗礼を受けた時、私は家族との「対立」を少し感じました。自分が不安だったからなのかもしれません。イエスさまは、家庭に平和ではなく対立をもたらす、と言いました。しかしこれはカルトのように信仰を持たない家族との対立を煽る言葉ではありません。神は平和の神です。「父母を敬え」とイエスさまも他の所では教えています。これは理想の勧めではなく現実描写です。この世の家族の現実は甘くない。不信仰も悪もある。だがあなた自身は、まずこの世の家族関係から自由になりなさい。「よい意味で対立」しなさい。そして神の家族として生まれ、神の子となって、もう一度この世に派遣されて、この世の家族を愛しなさい、と。家族は社会で最も基本的な人間関係です。愛で結ばれた家族はその人を守ります。失敗を恐れない自信のある人にします。しかし最も身近な存在ゆえに家庭には悪も潜んでいます。親子の確執、虐待、夫婦の不仲、離婚…そして霊的に言えば、愛の神を知らないままの不信仰もあります。だから私たちはこの世の家族関係に埋没したままではなく、そこから抜け出て「良い意味で対立する」必要があります。別次元に立つ必要、垂直に神と繋がる必要があります。この世の家族である以前に、まず主イエスさまの「苦しみの洗礼」という十字架の愛を信じ、共に死に、神の国という真の平和に基づいて新たに生まれる必要です。そこに神の家族が誕生します。そうしてまず神の家族となることで、逆に私たちはこの世の家族への「祝福の基」(創世記12:2)となります。良い意味での対立が祝福の源、神の民を作るのです。そのために私たちはまず、祈りと礼拝で神の家族として生まれましょう。食卓で、病室で、スマホで、神の家族同士つながって祈りましょう。そしてこの世に遣わされて、この世の家族を愛しましょう。今は私は、神を信じないこの世の家族のためにも祈ります。神の家族として、それは嬉しいことです。 「あなたを神の家族のうちに迎え、キリストにあって一体とされたことを感謝します。」(洗礼式、式文)イエスさまが言ってくださいます。「お前と私は家族だ。同じ家族になれて嬉しい。一緒にこの世の家族を愛していこう。」
与えられる確信

与えられる確信

2025-08-1018:42

 「小さい群れよ、恐れるな。父は喜んで神の国をくださる」  ルカ福音書12・322025年8月10日 聖霊降臨後第9主日(特定14)先週の「財産を施し、与えなさい」という教えの続きです。常識では色んな恐れや心配があります。貯金は、家は、車はあと何年もつか。健康は、老後は、介護は、子どもらは、人間関係は。施しどころではありません。古代の庶民はもっと基本的な食料と衣服について心配しました。しかし「非常識」にもイエスさまは「恐れず施せ」と命じます。その背後には生き方、信仰があります。それは「父は必ずあなたが必要なもの、いやそれどころか神の国をも喜んで与えてくださる。」という「与えられる確信」です。これはアブラハムが星を数え、子孫が与えられる約束を信じた生き方です。またヘブライ書が「望んでいる事柄を確信し」と表現した信仰生活です。人生の必要と神の国は必ず与えられる。この確信から、与える生き方を選ぶのです。平和について言えば、神の国とは神が与えるものですが、「神国日本」は人の命を要求する怪物です。神の仮面を被り、国民を騙した偶像です。平和は戦争で獲得するものではなく、武力を委ねた向こう側に、神から与えられるもの。与えられる確信が、平和を呼びます。最近やっと私は寝る前にその日の感謝を数えるようになりました。以前はどこか自力で働いて、一日の終わりに感謝などせず、そこで「こと切れた」ように寝ました。しかし自力の働きを超えて父は「喜んで神の国をくださる存在」。すべては父から私に与えられたギフトです。確信があるから感謝し、感謝すればするほど、確信は強まります。イエスさまは、復活が与えられる約束を確信して死に、そして復活しました。約束が実現し、復活した主は感謝に溢れたことでしょう。 「小さい群れよ、恐るな」。財政と信徒数を真剣に悩みつつ、父は喜んで神の国を与えてくださると確信し、感謝の聖餐を献げましょう。そこで私たちは「み国の世継ぎであることがいよいよ明らかに」されます。確信が与えられます。 「与えられる確信を持ち、与えられたものを感謝し、与える生き方を選ぼう。私と共に、確信して。」
2025年8月3日 聖霊降臨後第8主日(特定13) 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」 ルカ12・21祖父は闇市から身を起こした商売人でした。最後は大きな家を買いました。しかし肺を病み「死にたくない」と嘆きながら60代で逝きました。大好きなおじいちゃんでした。ですが神を知る機会に恵まれなかったのです。19歳の私は考えさせられました。「本当の豊かさとは一体何か」と。「もっと金が欲しい」という強欲に取りつかれた人が、イエスさまに救い主ではなく、遺産相続の調停人になってほしいと頼みます。そこでイエスさまは強欲ヘの警告として譬えを語られました。庶民がその日の糧を祈る時代に、ある金持ちが倉に入らない豊作に恵まれ、思案した結果、もっと大きな倉を建てて自分の魂に言います。「この先何年もの蓄えができた、安心して人生を楽しめ」。自分の人生を決めるのは神ではなく自分です。しかし神さまが人生を決めます。「神を知らない愚か者よ、今夜、命を返してもらおう。お前の富はどうなる。」そして言います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」本当の意味では虚しい人生だ、と。「神の前に豊かになる」は「財産を売って施しなさい」となります。(33)これはお金だけに限らない、、神の国での生き方のことです。命も金も神さまからお借りしている賜物。今日にでも、み心ならば、お返しすべきもの。だから「もっと欲しい」と執着するのではなく、必要な人に気前よく分け与えるとき、初めて人は本当に豊かになります。「全ての物は主の賜物、私たちは主から受けて主に献げたのです」。そしてこの「与える豊かさ」こそイエスさまの命です。「受けるよりは与える方が幸いである」。(使20・35)。だから十字架で死んだのに、復活の命で輝いたのです。金持ちが独り占めする食卓ではなく、自らを分け与え続ける主の食卓で、神の声を聞きましょう。「自分にできる範囲でいいから、分け与えなさい。お金を、時間を、力を、人生を。そして本当の豊かさを知りなさい。与える豊かさを。」あぁできることなら、大好きな祖父に大好きなイエスさまのことを話したい。
祈りは人を変える「しつように頼めば」ルカ福音書11・8病気の癒しを祈ります。そして時に思います。「神さま、なぜ祈りを聞いてくださらないのですか。」そんな私たちにイエスさまは教えます。「祈りは必ず聞かれる。」それが「真夜中のパン」の譬えです。夜中に旅人にパンを準備せねばならず、友の家に行きます。ですが戸締りをし子供らと寝静まっていて断られます。それでも「しつように頼めば」友情ゆえではなく迷惑がゆえに願いを聞いてくれる。神はもっと慈しみ深いのだから、あなたの祈りを必ず聞く。だから諦めず祈り続けなさい、と。 ただしそれは自分の都合の良いようになるのとは違います。  イエスさまこそ「しつように頼み」祈られた方です。「み国(神の支配)が来ますように」と祈りました。み心です。そして祈りの中で変わっていきました。山上の変容で十字架の使命を受け入れ、ゲッセマネの園で自分の心をみ心に委ねました。そう祈り続けることで、イエスさまは死に逝く者から、復活の命に輝く者へと変わり、神の国が開きました。この神の国こそイエスさまが祈り求めたものだったのです。祈る人は変えられます。み心に沿うように変えられ、神はそれを成就します。振り返ればそれこそが自分の本当の願い、本当に求めていたことだったのだと気づくのです。それが人間の成就です。代祷で個人的な祈りも献げましょう。み心に沿うように変えられ本当の願いを成就して頂くために。「父は本当の願いを成就される。だから、しつように祈りなさい。」 ——「ある無名兵士の詩」---成功したいと力を神に求めたが、謙虚に従うようにと、弱くされた。より偉大なことをしたいと健康を求めたが、より善いことをするようにと病弱が与えられた。幸せになりたいと財産を求めたが、賢明になるようにと貧困が与えられた。称賛されたいと成功を求めたが、神を必要とするようにと弱さが与えられた。人生を謳歌したいと多くの物を求めたが、命だけが与えられ、どんな物でも喜べるようになった。願ったことは何一つ与えられなかったが、求めていたことはすべて与えられた。ほとんど自分の思い通りにはならなかったが、言葉にならない祈りはすべて聞かれた。色んな人がいるが、私は最も豊かに祝福された人だ。
「マルタ、マルタ、必要なことはただ一つだけだ」 ルカ10・412025年7月20日 聖霊降臨後第5主日(特定10)「働き者の姉が叱られて、なんでボーッとしている妹が誉められるのか」という声が聞こえてきそうです。ですがイエスさまは、もてなしの働きを軽視したのではありません。そうではなく、多忙さゆえに「思い悩み、心を乱し」て妹に不満を募らせているマルタに愛を込めて語り掛けているのです。「マルタ、マルタ」と。(10・41)それは放蕩息子の兄に愛を込めて「子よ」と呼びかけた父と同じです。マルタは一同の洗足の用意や、ぶどう酒や、料理のことで頭がいっぱいで、ゲスト本人の存在は二の次になっていました。だから「必要なことはただ一つだけだ」と。その唯一必要なおもてなしとはゲストの言葉と心に聴くことです。今、ベタニアの自宅に迎え入れた目の前のこのお方は神の子。このお方はエルサレムの十字架と復活へと進むにあたって、赦しを語られている。「わたしがあなたの代わりに死ぬのだから、あなたの罪は赦される。」 この方の望みは洗足でも酒でも料理でもない。自分の言葉を、神の言葉として聞くこと。教会生活も同じ。教会委員、礼拝奉仕、掃除、婦人会、そして献金も・・・。私たちは様々な奉仕で主をもてなしています。喜びです。ですが時に、摩擦や虚しさに「思い悩み、心を乱します。」そんな時に心に覚えましょう。最重要のもてなしはゲストの話しを聴くことだと。このフェルメールの絵は、礼拝堂への献品だったそうです。礼拝は聴くというもてなしです。聖書と説教を通して主の言葉に聴きます。聖別祷とご聖体で自らを現す主の存在に聴きます。「あなたのために与えられた主イエスキリストの体。」 人生も同じ。イエスさまを心にお迎えするために「思い悩み、乱した心」を全て捨てて今、目の前におられるゲストの言葉に聴き入る。「私はあなたと共にいる」「恐れることはない」「あなたの罪は赦された」。その祈りの時々に、主が一回きりで語り掛けてくださる言葉を必死に聴き取りましょう。それは日常の中で大切な人の心に聴くことです。困難ですが自分の「思い悩み、乱した心」を一旦横に置いて相手の心に聴くとき、本心が現れ、主が共に居て祝福して下さり、未来が見えてきます。そして主は喜ばれます。「よく聴いてくれた。ここに来てよかった。」そして気づくのです。イエスさまこそ、ずっと自分の気持を聴き、天で、もてなしてくださっていた、と。
専門家は無条件の隣人愛を避けようと、イエスさまに問いました。「隣人を自分のように愛しなさい、と言いますが私の隣人とは誰ですか。」敵と味方に線を引き、愛の義務を狭めたいのです。味方は愛しますけれど敵は愛さなくてもいいでしょ、と。当時のイエスさまたち古代ユダヤ人と、北王国の末裔であるサマリア人とは、敵と味方で殺し合うほど激しく対立していました。また日常生活でも、いけないことですが、損得勘定で人を分けてしまっているときがあります。あの人は味方、あの人は敵。味方を愛せば得をします。感謝されたり、褒められたり、よくされたりするでしょう。ですが敵を愛しても何の得もしません。それどころか感謝されず、ほめられず、骨折り損をするでしょう。あるユダヤ人が治安の悪いエルサレムからの道で強盗に合い、半裸で捨てられました。そのままでは死んでしまいます。そこに同じユダヤ人の祭司が来ます。「あぁ助かった、味方の聖職者だ」と思った瞬間、祭司は見て見ぬふりをして通り過ぎました。損得勘定をしたのです。面倒だ、危ない、穢れる。味方じゃない、と。同じようにレビ人も損得勘定をして通り過ぎました。そして最後に来たのは敵のサマリア人。「ああダメだ、敵だ、絶対助けてくれない」と諦めた瞬間、その人は敵と味方の損得勘定をせず、はらわたからの憐みに突き動かされ、近寄り、薬を注ぎ、包帯をし、ろばに乗せ、宿屋へ連れ、一晩中介抱し、銀貨を二回も払って更なる介抱を主人に頼んだのです。イエスさまは問います。「誰が隣人になったか」「助けた人です」「行ってあなたも同じようになれ」。隣人とは「損得勘定で決める相手」ではなく「あなたがなる存在」だと。人について損得勘定をせずに、その人を助けるとき、私たちは「隣人になる」。そのとき始めて私たちは、あくせくした損得勘定から自由になり、救われます。私たちが神の敵であっても、イエスさまは私たちのために死に、隣人となってくださいます。この「隣人」と共に、損得勘定から自由になり「隣人」となりましょう。あなたのために『隣人となって』与えられた主イエス・キリストの体。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」ルカ9・622025年6月29日 聖霊降臨後第3主日(特定8)厳しすぎる。できない。そんな人にはついて行けない。エリヤが旅の途上で弟子となるエリシャを召したとき、エリシャは牛に鋤を引かせて畑を耕していました。その時は師匠に従う前に両親に分かれを告げることが許されました。しかし今、イエスさまはご自分の旅について来る決心を、家族に別れを告げることよりも、父親を葬ることよりも優先させました。エリシャの姿を念頭に置き「鋤で耕し始めた農夫が後ろを振り返れば、その道筋は歪んでしまう」と。今、真っ直ぐに私だけを見てついて来い。十戒も命じた父母を敬うことよりも、家族よりも、私の旅について来る決心を、いま、しなさいと。これはカルトのように社会の全てを拒否する禁令を出したのではありません。この世のどんな責任を負っていようとも、主が決めるその時には「今、私はイエスさまに従う」という決心をしなさい、と。イエスさまについて行くこと、従うことは切迫した、緊急の決断です。「一年後では遅い、明日では遅い、今日、いま、私に従いなさい」と。実際には、私たちは父母を丁重に弔い、家族を大切にいます。しかし本質的に一番大切なのは「今、主イエスさまに従う決断」です。私にとってそれは神学校に行く決心でした。資格を取ってしばらく働いてから牧師になろうと考えていた私に、恩師は「資格なんて要らない。今、神学校へ行け」と言われました。そして私は鏡に映る自分に見つめられて、その切迫性を感じました。「いましかないのだ。」皆さまにとって「今しかない」と決心したのはいつでしょうか。洗礼や、堅信を受けたとき、結婚を決めたとき、人を赦したとき、困難にあっても希望を捨てないと決心したとき。そのような決心のときを通して、イエスさまは「今、私の旅に付いて来い」と呼びかけてこられます。躊躇せずに付いて来い、と。そして私たちがついて行くイエスさまの旅は、罪の赦しを実現するために死んで復活する旅です。イエスさまこそ家族よりも何よりも、神の赦しを求める決断をされました。それだけ緊急の事柄なのです。旅路を歩むイエスさまの背中だけを見て付いていきましょう。「今、私について来い。そして私と共に赦しを実現しよう。」
2025年6月8日 聖霊降臨日赦しの教会 「誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される」 ヨハネ20・23「それでもいいよね」教会には、決して相手を否定しない人が多いと思います。相手を肯定して、安心させて「ここにいていい」と感じさせます。そんな努力の背後にはその人が受けているイエスさまの赦しが透けて見えます。まず自分が「それでもいい」と神さまから赦されてはじめて、人を赦すことができます。肯定することができます。互いに赦しあい、日常生活で神の赦しを現す、赦しの教会になることができます。逆に自分が心から赦されていないと、人の弱さと悪を赦せません。否定してしまいます。ギリシャ語で「赦す」とは「手放す」という意味で、赦さないとは「握りしめる」です。神さまに手放せないのです。イエスさまは私たちが赦されるために、私たちの弱さと悪をその身に受けて殺されました。そして復活して神に赦された「御心にかなう新しい生涯」を与えられます。それがヨハネ福音書による聖霊降臨です。イエスさまは自分の息を、ご自分が生きた赦しの精神を弟子たち、私たちに吹き込みます。イエスさまは私たちをご自分の代理とし、この世で人を赦し続けられます。「私が赦したように、あなたも赦しなさい」。私たちが赦せばその人は神の前で赦されます。大きな責任ですし、大きな喜びです。ただし「どんな悪人でも赦せ」ではありません。赦しの条件は悔い改めです。だから悔い改めのない場合は「赦さないまま」にすベきです。そしてその違いを識別するのもまた、聖霊の働きです。教会生活でイエスさまの赦しの霊が降臨するのが、罪の赦しが与えられる、洗礼と懺悔です。一生に一度、洗礼においてその人の罪の根源は赦されます。毎週の懺悔と赦しの祈りは、その洗礼の恵みの延長です。そこでこそ私たちは神から赦された新しい自分を受け取るのです。「弱さと悪は私が受けた。だから、あなたはそれでいい」と。洗礼と懺悔に働く聖霊が私たちに、赦しの教会となるように呼びかけています。「イエスさまはあなたを赦される。だから、ここにいていい。それでもいい。それでもいいよね。」
神と抱き合う

神と抱き合う

2025-06-0115:51

「わたしのいる所に共におらせてください」(ヨハネ17:24)2025年6月1日 昇天後主日一か月半の入院から退院した日、お祝いに3人家族でピザを食べに行きました。回復と再会の喜びが溢れて、普段はそんなことしないのに、抱き合って肩を組んで商店街を歩きました。体で家族愛の交わりを感じました。「抱き合って喜ぶ」復活の朝もそうですし、クリムトの描く男女が抱き合ってキスすることもそうです。体は愛を感じる、愛を感じさせるために造られたのです。イエスさまの肉体も同じです。イエスさまが昇天されたとき、聖書のイメージでは「体から魂が抜け出た」とはありません。体ごと天に昇られた、とあります。(使1:9) 上を向く祈りの姿勢は大切ですが、実際の「天」はオゾン層の上ではなく神の場所、神の次元、神の胸のことです。それはヨハネ17章では「父と子が互いの内にいる愛の交わり」です。イエスさまは肉体をもって今そこにいます。この天が地に来る、それが復活の時です。神は私たちと同じ肉体を取られました。そしてその肉体で私たちの罪を引き受けて死に、新しい肉体に復活し、人間の肉体を天に運びました。それは私たちの肉体が、最終的には復活し、神さまと体ごと抱き合うためです。父と子と聖霊と抱き合い、肩を組むことです。それが「わたしのいる所に共におらせる」イエスさまの目的です。天が来る復活の時、私たちの肉体は完全に癒されます。受け容れた自分らしさとしての病や障害はそのまま、全ての苦しみは消え、体ごと神の愛の交わりに入ります。天が来る復活の時、それは既に始まっています。聖餐は天の写し絵です。聖餐で目に見えるパンを食するとき、目に見えない天上のイエスさまと抱き合っています。そして地上の社会では、イエスさまと肩を組み、体で神の愛を示すように呼ばれています。「み子の体のえだ」です。(陪餐後)それは訪問、微笑み、優しい言葉、手紙、プレゼント、なんでもいいから私たちの肉体を愛に使う。そうすれば私たちを通して天が地に来て、復活の時が始まり、主が現れるのです。陪餐で抱き締め、肩を組んでくれるイエスさまの声を聞きましょう。「天上で私と抱き合ってほしい。体で愛を感じてほしい。地上では私と肩を組んでほしい。私の体のえだとなり、私の愛を伝えてほしい。」
いないところに

いないところに

2025-05-2517:17

 「弁護者が、、、ことごとく思い起こさせてくださる。」 ヨハネ福音書14・262025年5月25日 復活節第6主日死を理解できない小さい子には「お父(母)さんは、お星さまになったんだよ」と伝えます。死がすべての終わりではなく、大好きな人は、新しい形で共にいることを伝えようとします。イエスの昇天は「その人間性が神の内に入る」という栄光ある祝福ですが、それが見えない弟子たちは別れの悲しみにありました。昇天してしまうと「ここにはいない」と不在を感じるのです。2千年後の私たちも主の不在を感じます。どれだけイエスさまの話を聞いても、どれだけ「主は共にいる」と言い聞かせても「今ここにいるはいない。不在だ」と。この不在感に対して主は「弁護者」を父がお遣わしになる、と予告されました。聖霊の別名です。法廷に立つ自分を助けてくれる弁護人のイメージです。その敵は「イエスさまはいない」という不在感です。弁護者はイエスさまの存在を「思い起こさせ」、想起させ、その不在に対して私たちを弁護します。 (14・26)主が新しい形で共にいてくださる時代を聖霊が始めます。 聖霊が働いて主の存在を想起させるもの。それが聖書の言葉です。「イエスさまはこう言われた、こうされた、こう生きてこう死に、復活された」と弟子たちは語り継ぎ、それが聖書になりました。その後の世代も私たちも、聖書の言葉を祈り、愛唱聖句として覚え、読んでいく中で聖霊が働き、新しい形で共にいる主イエスさまの存在に触れます。ただ、一人で聖書を読むのは困難です。だからこそ聖霊が働き「私はそこに現れる」と主が約束された聖餐に集まり、聖書に聴くのです。役に立つアイデアでも処世訓でもない「今ここでわたしはあなたと共にいる」と呼びかける主の声を、聖霊が聞かせてくれるのです。イエスさまが「いないところ」と思うところで弁護者は働きます。「わたしはあなたの弁護者だ。イエスさまがいないところに私は来て、新しい形、目に見えない形、霊的な形でイエスさまをあなたに感じさせる。そしてあなたを弁護する。不在感からあなたを護る。」「そしてあなたの大好きなあの人も、イエスさまと一緒に、あなたに感じさせてあげるから。」
否定の真ん中に

否定の真ん中に

2025-05-0116:52

2025年4月27日 復活節第2主日否定の真ん中に立つ 「イエスが来て真ん中に立ち」 ヨハネ福音書20・19教区主教不在で教区はこれからどうなるのか。少子高齢化でこの教会はどうなるのか。また、個人的にもこれからの人生はどうなるのか。不安が不安を呼び、主イエスさまを忘れるとき、私たちは自分自身を否定してしまいます。これではダメだ、と。最初のクリスチャンたちは命の不安がありました。師匠を殺したユダヤ人たちが自分たちの命をも狙っているのです。そしてイエスさまが復活した、と聞いてもなお、恐怖と不安に囚われて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。「イエスさまはいない。これから、どうなるのか。」しかしこんなところに入っては来られないと思った復活のイエスさまが、鍵のかかった戸を通り過ぎて、不安で否定的な弟子たちの真ん中に立ったのです。そして言われました。「あなたがたに平和があるように。」「心配することはない。ほら、あなたたちの真ん中に私はいるじゃないか」と肯定されたのです。そして癒えた手と脇腹の傷を見せられます。それは自分たちの否定的な心が受け取られ、消し去られた証拠です。だから弟子達は喜びました。否定を消し去り、愛する先生が私たちの真ん中に立って肯定してくださる。そして聖霊を吹き込み、人を肯定していく宣教へと派遣されました。これは聖餐式の体験です。毎週その週の初めの日、新しい創造の日、イエスさまは否定的な教会の真ん中に立ち、復活の命で肯定されます。御体の赦しを見せ、主の平和を与え、聖霊を吹き込み、赦しの使命を与えられます。教区が、教会が、個人が、自分自身に対して否定的になるとき、聖餐式のなかで復活のキリストに真ん中に立ってもらいましょう。そして聞き取りましょう。「大丈夫。あなたたちがどれだけ否定的でも、私が真ん中に立ち、あなたたちと共に働くから。」
2025年4月20日 復活日復活、それは新しい創造「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」 ルカ24.5今、毎晩祈っている人のお一人がガンと闘っています。4人の子のママで、純真で明るく素敵な方です。病気に負けないように、人生を楽しんでおられます。私は祈ります。「命の創造主なる神さま、どうか抗癌剤が効いて癌細胞を死滅させてください。」復活とは、命の創造主の「今、既にここで」働く力です。死後の世界の話だけではありません。既に働くイエス様の命の支配力です。病と死と罪に勝つ力です。天使が言うように「死者の中に捜しても見つからない、生きておられる方」です。天地は創造主によって良いものとして創られ祝福されました。人間は身も心も、創造主が愛を込めて造った最高傑作、神の似姿です。しかしアダムが象徴する全人類は「神に成り代わろうとする罪」によって死に支配されました。死の力は魂にも及び、人間は神をも人をも愛さない罪に支配されます。古代イスラエルもまたこの罪によって国を滅ぼしました。そんな中で「新しい創造」への希望が語り継がれてきていました。(イザヤ65・17)その天地の新しい創造の初めがイエスさまの復活です。神は私たち人間を愛しています。生かしたいのです。一人の人となり、罪と死を引き受けて死ぬことで、罪と死を死滅させました。白血球も共に犠牲になることで、抗がん剤がガン細胞を死滅させるようなものです。そして復活し、新しい創造が始まりました。共に死に、共に新しく生まれました。新しいアダムです。それ以後イエスさまによって、聖霊によって、弟子たちによって、世の命は創り変え続けられています。もちろん未だ新創造は完成していません。病気は治らず、人は罪を犯し、愛する人は死にます。新創造の完成は、私たちが死んだ後に来る、新しい天地が降る終わりの時まで待たたなければなりません。しかしイエスさまは復活した。この事実が「私たち人間の内には復活の力が既に働いている」ことの証拠です。ガン細胞の消えたレントゲン画像のようなものです。まだ実感していなくても、確かに癒されています。既に創造主が私たちを愛して、私たちの内に働いています。新創造の主に祈ります。「どうかあなたが、抗癌剤を通して働き、彼女を癒してくださいますように。」新創造の主は語りかけます。「私はあなたを愛している。そして新しく創造する。生かす。だから、病気を前にして、死を前にして、決して負けずに信じていなさい。」
「主は振り向いて、ペトロを見つめられた」ルカ福音書22・61 神が私たちを新しく創り変えようと、私達の罪を受けて殺され、罪を滅ぼす。この愛の物語のどこかにあなたはいて、主はあなたを見つめておられます。  中心は主イエスさま。父への従順を貫き、罪を背負われます。私たちの罪の苦しみを背負われます。ゲッセマネの弟子たち。イエス様の祈りについていけず眠ってしまう祈りの薄っぺらさ、集中力のなさ。 ペトロ。愛する先生を三度も否定する臆病さ弱さ。彼を見つめるイエス様の哀しみ。号泣する悲しみ。   ユダ。強い王への望みが叶わないと知って抱く、憎しみと裏切り。大祭司と長老たち。神殿と律法の恵みを分かち合わない強欲さ。自分を批判する者を亡き者にしようとする、排他性。神の子を崇めず自分を崇める、偶像礼拝。 中庭に集まった女中。ペトロに対する週刊誌のような詮索心。 見張り。イエス様を侮辱し、ののしり、目隠しをして殴る暴力性。 ピラト。イエスは無実だと知りつつ群衆のために死刑にした保身。 ヘロデ。気晴らしに奇跡を見たがっただけの不遜さ、無理解。 群衆。棕櫚の葉で大歓迎したにも関わらず、望んだ革命を起こさないと知ると「殺せ、殺せ」と叫んで死刑を求める集団心理、狂気。 悪人であるのにイエスに代わって釈放されたバラバの幸運、驚き。 願わない形で主の十字架を背負わせられた、キレネ人シモンの従順と、神の導き。 女性たち。弟子たちが見捨てても、泣きながらついていく悲しみ。 議員と兵士。十字架の主を「自分を救わないユダヤ人の王」と言う真実の言葉であざ笑う皮肉。 イエス様と共に十字架に付けられた罪びと。そこまで神の近くにいても悟らなかった愚かさ。対して赦しを願ったもう一人の罪びと。イエス様の真実を知り、楽園を願って叶えられた喜び。 「御手に私の霊を委ねます」と委ねて死なれた主イエスさまの最期の信頼。私たちの最期は?百人隊長。イエスさまの無実と、罪を肩代わりに死んだ正しさを見てとった悟り。未信徒の悟り。 アリマタヤのヨセフと、ガリラヤから来た婦人たち。イエス様の遺体を丁重に葬ったの、絶望と希望。 祈りによって物語に入り、私たちの罪を受けて私たちを創り変えようとされている、イエスさまの生き様、神の愛に触れましょう。
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