🔶「仏教とお米」に宿る“いのちへの感謝”秋は実りの季節です。お米をいただくたびに、たくさんの“いのち”のつながりに支えられて生きていることを思い出します。今回は、浄土真宗における「御仏飯(おぶっぱん)」を中心に、お供えの意味や作法、迷信との向き合い方までを整理してご紹介します。🔶御仏飯の意味を学びます御仏飯とは、炊きたてのご飯を仏さまにお供えすることです。「今からいただく食べ物は、私のいのちを生かす尊いご縁です」と確かめ、仏さまの光の中で感謝を表します。浄土真宗では、亡き人への“施し”というより、今を生きる私が“いのちの事実”に気づくためのご縁として大切にします。🔶器と置き方を整理しますご飯を盛る器は「仏器(ぶっき)」といいます。お内仏(仏壇)では、中央の阿弥陀如来、左右の親鸞聖人・蓮如上人の前にお供えします(お家の荘厳により並べ方は異なります)。量は多すぎる必要はありません。まごころをこめた“ひと椀”で十分です。🔶正午までに下げます御仏飯は原則として正午までにお下げします。これは、釈尊の時代から伝わる「過午不食(昼を過ぎて食さない)」の戒めに由来します。お下げした御仏飯は、感謝をもって家族でいただきます。供えたものを無駄にせず、“お下がり”としていただく姿勢が大切です。🔶水と華瓶(けびょう)を整えますコップの水だけを「喉が渇くから」とお供えする考え方は、浄土真宗の趣旨とは少し違います。仏前には一対の「華瓶(けびょう)」を置き、常緑の「樒(しきみ)」を挿します。樒は“香りある清らかな水”を象徴し、仏さまへの敬いと感謝の心をあらわします。🔶“好物のお供え”を考えます故人の好物を供える気持ちは尊いものです。ただし、浄土真宗では亡き人はすでに仏さまです。仏前には基本のお供え(御仏飯・華瓶など)を調え、好物は法要後に参列者でいただくなど、“いのちに感謝して分かち合う”形にするとよいです。🔶避けたい迷信を確認しますご飯に箸を突き立てる、通夜に火を絶やさない“火の番”、葬儀後に塩をまく――これらは地域の俗習・迷信によるところが大きいです。火気のつけっぱなしは危険ですし、恐れや穢れの観念で亡き人を遠ざける発想は、阿弥陀さまの平等の救いにそぐいません。“感謝と念仏”を要に、安心・安全を優先した実践に整えましょう。🔶今日からできる“ひと手順”をまとめます朝、炊きたてのご飯を小さく盛って仏器に供える。一礼し、声に出さずとも「いただきます」と心で称える。正午までにお下げし、感謝をもっていただく。華瓶の樒を清潔に保ち、仏前を整える。迷信で不安にならず、念仏と感謝を深める。🔶今週のまとめ御仏飯は、私たちが“いのちのご縁”に気づき直すための、毎日の小さな礼拝です。お供えは仏さまへのお礼であり、同時に自分自身の心を正す実践でもあります。一椀のご飯から広がるたくさんのつながりに手を合わせ、今日の一日を丁寧にいただきましょう。来週のテーマは「仏教とSDGs」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶「月のうさぎ」に宿る布施と慈悲お月見で親しまれる「中秋の名月」には、古くから心を澄ませる時間という意味合いがあります。今回は、月面にうさぎが見えるとされる由来を、仏教説話「ジャータカ(本生譚)」に基づいてわかりやすくご紹介します。月をめでる習わしと、そこに息づく布施と慈悲のこころをたどります。🔶中秋の名月の由来中秋の名月は、中国の「中秋節」を起源とする行事です。旧暦8月15日に月の恵みを喜び、実りに感謝する風習が日本へ伝わりました。日本では平安期に貴族文化として受容され、のちに庶民へ広がりました。お月見団子や秋の収穫物を供えるのは、自然への感謝を形に表す作法です。🔶月のうさぎの仏教的ルーツ月にうさぎがいるという伝承は、仏教の本生譚「ジャータカ」に由来します。お釈迦さまの前世を語る物語群の一つで、うさぎ・猿・山犬・カワウソが登場します。物語は、命を懸けた布施と、戒を守る尊さを伝えます。🔶物語のあらすじ(施しを求める修行者)森に修行者が現れ、動物たちに食べ物の施しを求めます。カワウソは川辺で魚を見つけ、持ち主の不在を理由に持ち帰ります。山犬は番小屋で肉や乳に出会い、応答がないまま持ち出します。猿は木の実を集め、正当に得た食べ物を用意します。🔶物語のあらすじ(うさぎの自己犠牲)うさぎは何も蓄えがなく、施せる食べ物を見つけられません。うさぎは「私をお召し上がりください」と自らを差し出します。修行者に殺生をさせないため、自ら火中へ飛び込む方法を選びます。これは「不殺生」の戒を守るための、徹底した思いやりの表れです。🔶結末と月面に刻まれたしるし修行者の正体は、仏法を守護する帝釈天でした。帝釈天は、うさぎの尊い布施心を後世に伝えるため、月の面にその姿を刻みます。以来、月にはうさぎの姿が見えると語り継がれます。物語は、無私の徳が永く記憶される尊さを示します。🔶物語が語る仏教の徳目うさぎは「布施(与える行い)」を身をもって示しました。修行者に殺させない配慮は「不殺生戒」を尊ぶ態度です。他者の苦を引き受けようとする心は「慈悲」の体現です。形だけでなく、心の在り方にこそ徳行の核心があると物語は教えます。🔶月光が象る智慧と平等の慈悲仏教では、闇を静かに照らす月は「智慧」の象徴と語られます。月光は分け隔てなく万物を照らし、「平等の慈悲」を想起させます。阿弥陀さまの光明になぞらえられ、迷いの闇を導く比喩として親しまれてきました。🔶季節の行事としての実践お月見団子や秋の恵みを供えることは、日々の「いただきます」を深める実践になります。月を仰ぐひとときは、利他心や感謝を見つめ直す時間になります。自然のめぐみに手を合わせる所作が、心の静けさを育てます。🔶今週のまとめ「月のうさぎ」は、自己犠牲的な布施と慈悲の象徴として語り継がれてきました。月光のように、静かで温かな心を忘れず、季節の行事を味わいたいものです。中秋の名月を前に、物語が照らす徳のひかりを胸に刻み直します。🔴来週のテーマは「仏教とお米」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶「仏教と火」に息づく光と香りお寺に足を運ぶと、必ずといっていいほど目にする「ろうそく」や「お線香」。これらには、仏教における深い意味が込められています。今回は、「仏教と火」をテーマに、その象徴的な意味や浄土真宗における作法、さらには迷信との違いまで、幅広くご紹介します。🔶ろうそくの火に込められた意味ろうそくの火は、仏さまである阿弥陀如来の「智慧」と「慈悲」を象徴しています。暗闇を照らす明かりは智慧、そして温かさをもつ炎は慈悲のあらわれです。心が氷のように凝り固まってしまっている私たちに、仏さまの知恵と慈悲の光が差し込むのです。🔶ろうそくの色と形の違い日本では江戸時代中期から色付きろうそくの文化が広まり、現在では用途によって様々な色のろうそくが使われています。一般的な白のろうそくは法事などでよく用いられ、赤は浄土真宗で最も重要な行事である報恩講、銀は中陰法要、金は結婚式や住職の就任式など、お祝いの場で用いられます。形状も、まっすぐな棒状のものや、ウエストがくびれた「イカリ型」と呼ばれる形があり、浄土真宗ではこの「イカリ型」が主流です。また、素材には「和ろうそく」と「洋ろうそく」がありますが、お寺ではすすが取りやすいことなどから和ろうそくが使われます。🔶お線香とお香の意味お線香やお香も火を使う仏具の一つです。日本書紀によると、お香は595年にはすでに使われており、悪臭を除き、心を落ち着かせる作用があるとされています。阿弥陀如来の「分け隔てない慈悲の心」を香りによって感じる——そんな意味が込められているのです。🔶浄土真宗の作法と起源お線香の使い方は宗派によって異なります。浄土真宗では、お線香は立てずに横にして供えます。これは、江戸時代以前に使われていた「抹香」の名残であり、抹香を粉状にして横に火をつけていたことが由来です。また、焼香の作法も特徴的です。一礼してから抹香を1回だけつまみ、額にあてずそのまま香炉に入れ、再び一礼します。このように、宗派ごとに異なる作法があるため、自分の信仰する宗派の作法に則って行うのが望ましいでしょう。🔶「火の番」は迷信?かつては通夜の晩に、ろうそくや線香の火を一晩中絶やさない「火の番」が行われていました。その理由は「火を絶やすと死者が迷う」といった迷信に基づいていたのです。しかし、現代では火事のリスクを考慮して、安全性の観点からも火を絶やすことが推奨されます。迷信と現実の区別をしながら、仏教の教えを大切にしたいものです。🔶今週のまとめ今週は「仏教と火」をテーマに、ろうそくやお線香に込められた意味や、浄土真宗における作法、そして迷信との向き合い方についてお話ししました。ろうそくの炎には阿弥陀如来の「智慧」と「慈悲」が表され、色や形には用途ごとの意味があります。お線香やお香には、心を清める香りとしての役割があり、その使い方にも宗派ごとの深い意味が存在しています。日常の中にある小さな「火」のひとつひとつにも、仏教の教えが息づいているのです。来週のテーマは「月の兎」。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶お彼岸の心を見つめ直す今年の秋のお彼岸は、9月20日から26日までです。中日(ちゅうにち)にあたる9月23日は「秋分の日」で、祖先を敬い、亡くなった人々をしのぶ日とされています。お墓参りやお寺参りをする方も多いこの期間、「彼岸」という言葉の語源は、サンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」から来ています。これは「悟りの境地に至ること」を意味し、仏教でいう「お浄土(じょうど)」を表しています。🔶太陽が教えてくれる彼岸の意味お彼岸は春と秋にありますが、この時期は太陽が真東から昇り、真西に沈む日です。その太陽の動きに重ねて、西方極楽浄土を思う日とされてきました。つまりお彼岸は、亡き人への祈りであると同時に、私たち自身が仏の教えを聞き、自らの心を見つめる機会なのです。🔶芦屋仏教会館に学ぶ「聞法(もんぽう)」の心昭和2年、兵庫県芦屋に「芦屋仏教会館」という施設が建てられました。これは、大手商社「丸紅」の創業者・伊藤長兵衛氏が私財を投じて建てたものです。伊藤氏は、当初「地域の人に教えを聞いてもらおう」と考えていましたが、仏教学者・梅原真隆先生の「それは違うのではないか」という言葉に戸惑います。伊藤氏は悩んだ末、考えを改め、「この私が教えを聞かせていただく場所として会館を建てよう」と計画を変更。梅原先生はその言葉を聞いて、「その言葉を待っていた」と感動したといいます。今でも芦屋仏教会館は、宗派を問わず多くの人が集う聞法の場として息づいています。🔶亡き人のためでなく、今を生きる私のためにお墓参りやお寺参りは、つい「亡き人のため」と考えがちですが、実は「今を生きる私自身のため」なのだと、仏教は教えてくれます。亡き人や仏さまから「今のあなたを見つめてほしい」という願いが届いている──そのことに気づかされるのが、お彼岸なのです。🔶今週のまとめ今週は「お彼岸の心」をテーマに、芦屋仏教会館と伊藤長兵衛氏のエピソードを通して、「仏教を聞くことの意味」について考えてみました。春分・秋分の日に、太陽が西へ沈む様子を見ながら「極楽浄土」を思う。お寺やお墓に手を合わせるのは、他者のためではなく、自らの心と向き合うため──そんなお彼岸の過ごし方を、あらためて見つめてみてはいかがでしょうか。来週は「仏教と火」というテーマでお届けします。お話は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん、お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)さんでした。どうぞまた来週。
🔶平和を願う心は尊い9月11日は、2001年にアメリカで起こった同時多発テロが発生した日です。旅客機4機がハイジャックされ、結果的に3,000人以上の命が失われました。この事件は、世界中に大きな衝撃を与えました。事件後は、アラブ系やイスラム教徒への差別や偏見が広まり、空港での人種差別的な扱いや、職場でのいじめ、ヘイトクライムなども発生しました。🔶ノーマン・ヨシオ・ミネタ氏の尊い行動6,438機の飛行機を短時間で安全に着陸させたのは、当時の運輸大臣、ノーマン・ヨシオ・ミネタ氏でした。事件発生からわずか2時間22分の間に、これほどの機数を無事故で着陸させるという前例のない判断と指導力が発揮されたのです。ミネタ氏は、アラブ系やムスリム系であることを理由にした航空機の搭乗拒否や、人種による選別的な取り扱いを厳しく禁止しました。その背景には、彼自身が太平洋戦争中、日系人であることを理由に強制収容された過去がありました。🔶ミネタ氏の遺したもの2022年、90歳で死去したミネタ氏の功績は、アメリカでも日本でも高く評価されています。アメリカでは、運輸省の入る建物に「ノーマン・Y・ミネタ連邦ビルディング」という名称が冠されました。さらに、駐日米国大使の公邸の一室には「ノーマン・ミネタ・ルーム」という名が与えられ、彼の功績が称えられています。また、出身地であるカリフォルニア州サンノゼの国際空港は、彼の名にちなんで「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」と名付けられています。🔶平和を願う心を忘れずに今でも中東では戦争やテロが続いています。平和を願う心、そして差別を許さない心。それを言葉だけでなく行動で示したのがミネタ氏でした。現在の日本はグローバル社会の一員であり、外国人と接する機会も増えています。そうした時代に生きる私たちは、ミネタ氏の姿勢から学び、多様な人々を排除することなく、平和を願い続ける心を大切にしていくべきでしょう。🔶今週のまとめ今週は「平和を願う心」というテーマで、ノーマン・ヨシオ・ミネタ氏の話をご紹介しました。日系人として強制収容された経験を持ちながら、差別に立ち向かい、平等と安全を守る行動を貫いたミネタ氏の生き方から、今を生きる私たちも学ぶべきことは多くあります。来週は「お彼岸のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん、お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)さんでした。
🔶今週のテーマは「物の見方」この番組では、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんに、仏教にまつわるさまざまなお話をうかがってまいります。🔶和歌が伝える物の見方の違い「手を打てば鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池」という和歌をご紹介します。猿沢の池(さるさわのいけ)は奈良公園にある池です。ある人が手を叩いたところ、鳥は驚いて飛び立ち、鯉は餌をもらえると思って寄ってきた、という情景が詠まれています。同じ行為でも、受け取る側によって反応は異なることを示しています。これは、見るものによって物の見方が異なるという、仏教的な視点に通じています。🔶仏教の教え「唯識(ゆいしき)」とは仏教では「唯識(ゆいしき)」という教えがあります。これは「すべてのものは心の働きによって生じている」という考え方です。たとえば、「一水四見(いっすいしけん)」という例えがあります。水という同じ存在も、見る者によって異なるものに見えるとされます。・人間にとっては、命を支える飲み物・天人(てんにん)にとっては、水晶のような床・魚にとっては住処・餓鬼にとっては燃え盛る炎このように、物の見え方は存在する側の心によって決まるとされているのです。🔶人間の価値観は経験で変わる人間の場合も同じです。生まれ育った環境、教育、経験などによって価値観が形成されます。たとえば、コップに水が半分入っていたとき、「もう半分しかない」と見る人もいれば、「まだ半分もある」と見る人もいます。人は五感を通して物事を認識し、そこに好き嫌いや善し悪しといった価値判断を加えて、自分だけの世界をつくり上げているとも言えます。🔶「それってあなたの感想ですよね?」の意味を考える「それってあなたの感想ですよね?」という言葉が、最近では子どもでも使うようになりました。しかし、それを言っている本人もまた、自分自身の感想の世界を生きているということを忘れてはいけません。つまり、私たちは誰もが自分の感想というフィルターを通して世界を見ており、その見方に絶対の正解はないということなのです。🔶仏さまは事実をありのままに見通す仏教における「仏になる」とは、自分の都合や感情、価値観から離れて、物事の本質や事実をそのままに見通すことができる存在になるということです。水が半分入ったコップを見て、「半分も」「半分しか」と感じるのではなく、「水が半分入っている」という事実そのものをありのままに見る。これが仏の視点であり、私たちが目指すべき心のあり方でもあります。🔶違いを認めることで穏やかに生きる私たちは完全に仏のような視点を持つことはできませんが、せめて「人によって物の見方は違うのだ」という前提を持つことで、怒りやトラブルを減らすことができるかもしれません。身近な人とであっても、見ている世界が違うことを認め合いながら暮らしていく。その心が、穏やかで平和な毎日を築く第一歩となるのではないでしょうか。🔶今週のまとめ今週は「物の見方」というテーマでお話ししました。「手を打てば鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池」という和歌を通して、物の見方は人それぞれであり、それは自分の心の働きによって生じていることを学びました。仏さまはその心の働きから離れ、ありのままの姿を見通す存在です。私たちには難しいことですが、「人によって見方は違う」という前提を持つだけで、心穏やかに生きていく助けになることでしょう。🔵来週のテーマは「平和を願う心」です。どうぞお楽しみに。お話は仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんでした。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶 蓮如上人とは浄土真宗本願寺派の第8代門主で、「浄土真宗中興の祖」と称されます。室町時代(1415年~)に生まれ、不遇の幼少期を経て、43歳で本願寺の門主となりました。荒廃していた本願寺を復興し、門信徒を増やしながら教えを広めました。🔶 教えの普及と工夫当時、本願寺は天台宗の傘下で、仏具やご本尊も天台宗の様式でした。蓮如上人はこれを改め、本願寺を浄土真宗の寺として確立されました。民衆にも理解できるよう、教えを簡潔に綴った「御文章」や「名号(阿弥陀仏と書いた紙)」を多数配布しました。読み書きができない人も多い時代に、視覚や口伝を通じて信仰が広まりました。*本願寺派(西本願寺)では「御文章(ごぶんしょう)」、大谷派(東本願寺)では「御文(おふみ)」と呼ぶことが一般的です。🔶 教団の広がりと対立教えは近江(滋賀)を中心に、近畿・東海・北陸などへ急速に広がりました。その影響力の大きさから、天台宗から敵視され、本願寺が焼き討ちに遭うという事件も起きました。その後、越前・吉崎御坊へ移り、そこを拠点としてさらに信仰を拡大しました。ただし、武力と結びついたことで「一向一揆」などの争いも起こり、蓮如上人は吉崎を去り、山科(京都)へ移られました。🔶 大阪との関わり山科本願寺の建立後、蓮如上人は晩年に現在の大阪にも拠点を移し、それが後の「石山本願寺」の基礎となりました。石山本願寺は、のちに織田信長との戦いの舞台となり、退去後は豊臣秀吉によって大阪城が築かれたため、その場所は「大阪城の元になった」とされています。当時「小坂」や「尾坂」などと呼ばれていたこの地に「大坂(のちの大阪)」という名を用いたのが蓮如上人だという説もあります。そのため、蓮如上人は「大阪の名付け親」と称されることもあり、大阪と浄土真宗は今も深い縁で結ばれているのです。🔶 熊本との関係蓮如上人の布教活動により、熊本にも浄土真宗のお寺が多く建立されました。熊本市中央区京町の仏嚴寺も、そうした歴史をもつお寺の一つです。🔶 まとめ蓮如上人は、荒廃した本願寺を再興し、民衆に向けた布教活動を展開された中興の祖です。京都から北陸、そして大阪と、各地を巡って教えを広め、今の浄土真宗の礎を築かれました。「大阪の名付け親」として、都市の成り立ちとも深く関わっています。🔵来週のテーマは「物の見方」です。どうぞお楽しみに。今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。 あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。 では、また来週お会いしましょう。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう) 司会:丸井純子(まるい じゅんこ)
今週も、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さんに、「ご法事」についてお話いただきました。🔶 ご法事とは何かご法事(仏事)とは、仏様の教えに出会う大切な場であり、亡き人のご縁によって縁ある人々が集い、仏様の教えを聞き、お念仏を称える場です。🔶 法事の種類主なご法事には、以下のものがあります:年忌法要(祥月命日):一周忌、三回忌など。月命日法要:毎月の命日のお参り。入仏法要:新たに仏壇を迎えた際の法要。お葬式や初七日、四十九日(中陰)なども法事の一部です。🔶 年忌法要のタイミング一周忌は亡くなった翌年、三回忌は2年後、七回忌は6年後に行います。その後は13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌、さらには100回忌まで続きます。数字から1を引いた年数が、亡くなった年から数えた法要の年になります。🔶 ご法事の意味浄土真宗では、ご法事は供養のためではなく、亡き人をご縁として、私たちが仏様の教えに出会い、お念仏に生きることを再確認する機会です。ご法事を通して、自分自身もやがて命を終える存在であることを知らされ、阿弥陀様のお救いに出会うことができます。🔶 ご法事の三つの出会い参列者との出会い:同じように大切な人を亡くされた人々との共感。亡き人との新たな出会い:仏となった故人が寄り添ってくださる存在となります。阿弥陀様との出会い:仏様の教えとお救いにあう大切な機会です。🔶 ご法事は「誕生日」でもある浄土真宗では、亡くなった日は「浄土に生まれた日」と捉えられます。悲しみだけでなく、仏として生まれる誕生の日としての意味も込められています。🔶 ご法事の継続と意義ご法事は数年に一度、親戚や家族が集まり、亡き人を偲び、子どもたちの成長も感じることができる貴重な機会です。「いつまでやらなければならないのか」と感じることもありますが、それだけ大切な出会いの場であり、成長とご縁を感じる機会です。🔶 まとめご法事は、亡き人を偲び、仏様と出会い、自らの生き方を見つめ直す機会です。ご縁を大切にしながら、仏様のお救いに出会う大切な場であると改めて感じさせてくれます。来週のテーマは「大阪の名付け親 蓮如上人」です。どうぞお楽しみに。――――――――――――――――――――――――今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子(まるい じゅんこ)
戦後80年という節目の年にあたる今年、番組では戦争の記憶と仏教の教えから平和について考えます。🔶 サンフランシスコ講和会議と仏教精神1951年、サンフランシスコ講和会議でスリランカ代表のジャヤワルダナ氏は、お釈迦さまの言葉を引用してスピーチを行いました。「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。 怨みを捨ててこそ息む。」スリランカは日本に対する戦後賠償請求を放棄しました。この精神は「怨親平等(おんしんびょうどう)」と呼ばれ、仏教の慈悲の心に基づいた行動でした。🔶 日本と仏教の戦争協力の歴史浄土真宗を含む仏教各宗派は、戦時中に教えを曲げて国家に協力しました。仏教の本来の教えとは異なる方向に進んでしまった過去を、今こそ見つめ直す必要があります。🔶 浄土真宗の平和に向けた声明戦争は命を奪い、命の尊厳を踏みにじる行為。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞聖人の言葉の通り、私たちは状況次第で争いの加害者にもなり得る存在。だからこそ、同じ過ちを繰り返さないために、状況を作らない努力が必要であると説かれています。🔶 詩「死んだ男の残したものは」から学ぶこと谷川俊太郎さんの詩「死んだ男の残したものは」を紹介。死者が遺したものは、物質ではなく、生き残った私たち自身であること。歴史の犠牲の上にある現在を認識し、二度と戦争を繰り返さないという意志を持つことが重要。🔶 まとめスリランカの怨親平等の実践や、谷川俊太郎さんの詩から、私たちは戦争と平和について深く学ぶことができます。日本が歴史の中で犯した過ちを正しく理解し、語り継ぎ、未来に活かす努力が求められています。平和を守り続けるためには、仏教の教えや宗教心を日常生活の中で大切にしていく姿勢が欠かせません。来週のテーマは「ご法事」。「三回忌はいつ?」という疑問にもお応えしながら、法事についてわかりやすくお話していきます。――――――――――――――――――――――――今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。出演:お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子(まるい じゅんこ)
🔶 お寺と戦争の関わり・昭和17年、戦争のために「金属回収令」が施行され、寺院の梵鐘や仏具も供出を余儀なくされました。・浄土真宗本願寺派の調査によると、当時の約9割の寺院が梵鐘を供出し、戦後に戻ってきたのはわずか5%ほどでした。・梵鐘は溶かされ、戦闘機や爆弾などに使われたとされています。🔶 熊本の空襲とお寺の記憶・熊本市京町にある仏嚴寺も空襲に遭い、近くの気象台に焼夷弾が落ちて犠牲者が出たそうです。・ご遺体が仏嚴寺に運び込まれたこと、機銃掃射による被害の痕跡が額縁に残っていることなど、戦争の記憶が今も語り継がれています。🔶 戦時中の宗教と国家・戦時中、国家による統制のもと、仏教も本来の教えを曲げて国家に奉仕するよう求められました。・浄土真宗もその例外ではなく、信仰と国家政策のはざまで悲しい歴史が刻まれました。・その過ちを繰り返さぬよう、今後も平和の大切さを語り継いでいく必要があります。🔶 戦争の記憶を次世代へ・お寺には戦時中の遺物が多く残されており、当時の生活や悲劇を知る手がかりとなっています。・戦争を経験した世代が少なくなる中、語り継ぎの重要性が高まっています。・戦争の悲惨さを後世に伝え、平和を大切にする社会を築くことが、今を生きる私たちの役割です。🔶 世界の戦争と日本の平和・現在もウクライナや中東など、世界各地で戦争が続いています。・日本は戦争をしない国として、平和を守り育てていくことが大切です。・宗教の視点から、戦争と平和を見つめ直す機会を持つことが求められています。🔶 まとめ・今年は戦後80年を迎えます。・戦争を経験した方の話を直接聞く機会が減っている中で、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐことが重要です。・身近な人々が経験した戦争の話から学び、平和な社会の実現に努めていきたいと感じました。*来週も引き続き、「戦争と平和」をテーマにお届けいたします。――――――――――――――――――――――――この番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談を受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子(まるい じゅんこ)
🔶 テーマ:「若者と仏教」今週も、福岡県の私立校・筑紫女学園で宗教科教諭を務める小杭浄海(おぐい じょうかい)さんをゲストに迎え、若者と仏教の関わりについて語っていただきました。🔶 現代の若者と宗教の距離NHKや統計数理研究所の調査によると、日本の若者の宗教離れは近年顕著。仏教やお寺に対し、「高齢者のためのもの」という印象を抱く若者も多い。一方で、筑紫女学園では仏教の授業中に寝ている生徒はほとんどおらず、意外に関心があることが分かる。🔶 若者が仏教に興味を示す背景多くの高校生が、身近な人の死などを通して「命」と向き合う経験をしている。自分自身の死についても意識し始める時期であり、仏教で語られる命の話に惹かれる側面がある。「仏教=難しそう・堅苦しい」というイメージはあるが、授業を通じて興味を持ち直す生徒も多い。🔶 授業で使用される教材とアプローチ高校では「見真(けんしん)」という教科書を使用。親鸞聖人が朝廷より賜った「見真大師」の名に由来。難解な文言も多いため、教師が現代の話題や具体例を交えて丁寧に解説。身近な話題と仏教を結びつけることで、生徒の理解を深めている。🔶 宗教教育の意義SNSや科学技術が中心となる現代においても、「命には限りがある」という普遍的事実は変わらない。仏教は「縁起」や「気づき」を大切にし、他者とのつながりや感謝の心を育む。宗教的価値観は、すぐに理解できなくても、大人になってから心に残る教えとなることも多い。若いうちに宗教に触れることは、人間形成の大きな礎となる。🔶 まとめ宗教が若者から遠ざかっている現状がある一方で、仏教的な命の教えには多くの若者が興味を示している。教育現場での宗教授業は、彼らに新たな視点を与え、自らの生き方を見つめる機会となっている。*来週のテーマは「戦争と平和」。引き続き小杭浄海さんとともにお送りします。この番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談を受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子(まるい じゅんこ)ゲスト:筑紫女学園中学高校 宗教科教諭・専念寺 小杭浄海(おぐい じょうかい)
🔶 テーマ:「仏教と教育」熊本市中央区京町にある仏嚴寺の住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんと、今週もゲストに福岡県・筑紫女学園中学校・高等学校で宗教の先生をされている、佐賀県の専念寺ご所属の小杭浄海(おぐい じょうかい)さんをお迎えし仏教と教育の関係について紹介。🔶 仏教と教育の歴史的背景江戸時代の「寺子屋」は、庶民が読み書きそろばんを学ぶ場として、お寺が担っていた。明治13年、博多の萬行寺で七里恒順和上による日本初の仏教系「日曜学校」が始まり、全国に広まった。子どもたちに親鸞聖人の教えや阿弥陀如来の救いを伝える目的があった。🔶 仏教教育の特徴命の尊さやつながり(縁起)を重視。「迷惑をかけないように」という道徳的視点に加え、「迷惑をかけながらも支え合って生きている」という仏教的視点を教える。他者に支えられていることへの気づきを通じて、「自分も支える側になる」意識を育む。🔶 まとめ仏教の教えは人との関係性や感謝の心を育む教育の基盤として有効。教育は知識だけでなく、人間としての在り方を学ぶ場でもある。来週のテーマは「若者と仏教」。小杭浄海さんとともに引き続きお送りします。出演:お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子(まるい じゅんこ)ゲスト:筑紫女学園中学高校 宗教科教諭・専念寺 小杭浄海(おぐい じょうかい)――――――――――――――――――――――――今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。
🔶 浄土真宗と海熊本市中央区京町にある仏嚴寺の住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんと、今週はゲストに福岡県・筑紫女学園中学校・高等学校で宗教の先生をされている、佐賀県の専念寺ご所属の小杭浄海(おぐい じょうかい)さんをお迎えしています。高千穂:はい、今週もどうぞよろしくお願いいたします。小杭:よろしくお願いいたします。丸井:おふたりは同級生だそうですね?高千穂:そうなんです。龍谷大学大学院時代の同級生で、まさに“ご縁”でつながった仲間なんです。丸井:本当に素敵なご縁ですね。では、今週のテーマは?高千穂:はい、今回は「浄土真宗と海」についてお話しいたします。🔶 海の日と仏教のつながり7月21日は海の日。海の恩恵に感謝し、海洋国・日本の繁栄を願う国民の祝日です。高千穂:そして今回のゲスト、小杭浄海さん。お名前に“浄”と“海”が入り、まさに今日のテーマにぴったりなんですよ。小杭:私の名前は「海のように清らかな心を持ってほしい」という親の願いから付けられたんです。🔶 煩悩の海と浄土の海高千穂:浄土真宗には“海”を用いた多くの表現があります。一つ目は「煩悩の海」です。親鸞聖人が詠まれた和讃には、「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とあります。この「生死の苦海」は、私たちが煩悩に悩まされながら、六道輪廻のなかで苦しみ続ける姿を表しています。一方で、「大悲の海」もあります。「本願力(ほんがんりき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」ここでの「功徳の宝海」は阿弥陀様のお徳が、まるで広大な海のように満ち満ちているという意味です。小杭:阿弥陀様の救いの広さ、深さを“海”に例えているんですね。🔶 海の性質と仏の徳高千穂:海の特性にも意味があります。・広大さ:阿弥陀様の徳の広さを表す・深さ:迷いの深さ、生死の苦しみの深さを示す・動き続けること:如来の働きが常に私たちに及んでいること・すべてを受け入れること:川の水が全て海に注ぐように、どんな命も阿弥陀様は救ってくださる小杭:私の名前「浄海」にも、そうした意味が込められていると日々感じています。🔶 親鸞聖人と海との出会い高千穂:親鸞聖人は京都のお生まれなので、幼い頃は海を見る機会がなかったと思われます。ですが、流罪となって越後に赴かれた際、新潟県の居多ヶ浜で初めて本物の海をご覧になったとされています。小杭:そのときの広大で深い海の景色を見て、親鸞聖人がそれまで学んできた教えの真意をより深く実感されたのではないでしょうか。🔶 海のような心を生徒たちへ小杭:仏教では「海」は限りない慈悲の象徴とされます。私も「浄海」という名前にふさわしく、そうした広く深く清らかな心を持って生徒たちと接していきたいと思っています。丸井:素敵なお話ですね。🔶 今週のまとめ高千穂:今週は「浄土真宗と海」をテーマにお話ししました。煩悩の海、功徳の宝海など、海に例えられる仏の教えは数多くあります。海のように広く、深く、そしてすべてを包み込む阿弥陀様のお救い。その偉大さをあらためて感じるご縁となりました。🔶 次回予告:仏教と教育について丸井:来週は「仏教と教育」について、小杭浄海さんを引き続きゲストにお迎えしてお送りします。どうぞお楽しみに。🔶 お悩み相談、受付中この番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp まで。今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子(まるい じゅんこ)ゲスト:小杭浄海(おぐい じょうかい)
🔶 お盆の始まりは、目連尊者と母親の物語丸井:「高千穂さん、今週はどんなお話でしょうか?」高千穂さん:「今週は『お盆』についてのお話です」お盆というのは実は略語で、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。この「盂蘭盆」は、インドの古代語サンスクリット語で「ウランバーナー」という言葉に由来し、「逆さ吊るしの苦しみ」という意味を持っています。🔶 盂蘭盆会の由来:母を思う目連尊者の供養これは、お釈迦様の弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)のエピソードに基づいています。ある日、目連尊者が神通力で亡き母の様子を探ると、母親は“餓鬼道(がきどう)”という、飢えと渇きに苦しむ世界に堕ちていたのです。どうにかして母を救いたいと願った目連尊者は、お釈迦様に相談しました。お釈迦様はこう言いました。「7月15日、修行を終えた僧たちに食べ物を供え、供養をすれば母は救われるであろう」これが「盂蘭盆会」、そしてお盆の由来とされています。🔶 インドや東南アジアには「お盆」がない?高千穂さん:「実はこのお盆の風習、日本や中国、韓国など東アジアに見られるもので、タイやインドネシアといった仏教国には“お盆”はありません」お盆は大乗仏教の教えに基づいた文化的な行事であり、日本では推古天皇の時代(西暦606年)に『日本書紀』に登場するなど、古くからの歴史があります。🔶 なぜ7月盆と8月盆があるの?「お盆といえば8月」と思う方もいれば、「7月だよ」という地域もありますよね。これは旧暦と新暦の違いによるもので、もともとお盆は旧暦の7月15日とされていました。しかし旧暦をそのまま新暦に置き換えると、農繁期と重なってしまい、供養が難しくなる地域があったため、ひと月遅らせて8月15日をお盆とする風習が広がったのです。高千穂さん:「同じ熊本でも地域によって7月盆と8月盆が混在していますが、今では全国的には8月盆が主流となっています」🔶 キュウリの馬とナスの牛は仏教じゃない?丸井:「お盆といえば、キュウリの馬やナスの牛も思い浮かびますよね?」高千穂さん:「あれ、実は仏教の教えとは直接関係がないんです」それらは日本各地の民間信仰や風習と融合したものであり、仏教と地域文化が重なり合ってできたお盆ならではの風景と言えます。🔶 浄土真宗におけるお盆の意味高千穂さん:「浄土真宗では、お盆は亡き人の命日をご縁として、私が仏法と向き合う時間です」亡くなった方を偲ぶことをきっかけに、親鸞聖人の教え、そして阿弥陀如来のはたらきに触れる機会。それが浄土真宗における“お盆”の本質なのです。🔶 お坊さんも忙しい!お盆は早めの準備をお盆は初盆(ういぼん)や帰省など、家族にとっても準備が多く、慌ただしい時期です。高千穂さん:「お坊さんたちもスケジュールがぎっしり詰まるので、早めにお盆の準備や日程調整をしておくのがおすすめです」🔶 まとめ:お盆は、亡き人とつながる“今”を生きる行事今週は「お盆」をテーマにお届けしました。高千穂さん:「お盆の語源は“盂蘭盆会(うらぼんえ)”。母を思う目連尊者の心がきっかけとなり、僧侶への供養を通じて亡き人を救うという教えが生まれました。その風習が中国を経て日本へ伝わり、旧暦と新暦の違いによって、現在のように7月盆・8月盆に分かれました」お盆はただの休暇ではなく、亡き人とつながる大切なご縁のとき。自分の命、そして命のつながりをあらためて感じる行事として、大切にしていきたいですね。🔶 次回予告:「浄土真宗と海」について次回は「浄土真宗と海」という、少しユニークなテーマでお話しします。どうぞお楽しみに。🔶 あなたのお悩み、聞かせてくださいこの番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正司会:丸井純子
🔶 「嘘も方便」って、本当は仏教用語?丸井:「高千穂さん、今週はどんなお話でしょうか?」高千穂さん:「今週は『嘘も方便(ほうべん)』というテーマです」日常生活でよく聞くこの言葉。「嘘も方便だから…」と軽く使われがちですが、実は仏教に由来する深い意味を持つ言葉なのです。🔶 方便(ほうべん)とは「手段・方法」のこと「方便」は、インドの古代語サンスクリット語で「ウパーヤ(upāya)」という言葉を漢訳したものです。もともとは「接近する」「到達する」といった意味を持つ動詞に由来し、転じて「目的のための手段」を表すようになりました。高千穂さん:「たとえば川を渡るとき、向こう岸に行くには“いかだ”が必要ですよね。でも、川を渡りきったら“いかだ”は必要なくなる。その“いかだ”こそが方便なんです」🔶 仏さまの姿も“方便”浄土真宗では、仏さまのお姿そのものも方便とされています。高千穂さん:「本来、仏さまの姿は私たちには見ることができないものです。でも、阿弥陀さまは私たちにもわかるように、仮の姿をとって目の前に現れてくださる。それが方便なんです」つまり、私たちに教えを届けるために“姿”をもって現れてくださること自体が、仏さまのお慈悲の表れだというのです。🔶 二種類の方便:善巧方便と権化方便仏教には、方便にも種類があります。善巧方便(ぜんぎょうほうべん) 仏さまや菩薩が、私たちの理解力に合わせて教えを巧みに伝えてくださる“慈悲の手段” 権仮方便(ごんげほうべん) 未熟な私たちが真理に直接触れられないため、仮の教えを通して少しずつ導いてくださる方法🔶 金獅子(きんじし)のたとえ:わかりやすく伝える智慧高千穂さん:「わかりやすい例として、『金獅子(きんじし)の比喩』というお話があります」たとえば、子どもに“金の延べ棒”を渡しても価値がわかりません。でもそれを“金のライオン像”にすれば、「ライオンだ!」と喜び、興味を持ちます。丸井:「つまり、教えが伝わる“かたち”に変えてくださるということですね」高千穂さん:「そうです。その“形を変える”ことが方便なのです。たとえ仮の姿でも、本質は“金”=真理であり、お慈悲の心に変わりはありません」🔶 まとめ:方便とは、私たちへの深い思いやり今週は「嘘も方便」というテーマでお届けしました。高千穂さん:「『方便』とは仏教において、“真実の教えを伝えるための仮の手段”を意味します。私たちは本来、仏さまの姿も教えも、そのままでは理解できません。だからこそ、阿弥陀さまは私たちの理解に合わせて、姿や教えのかたちを変えてくださる――それが方便であり、仏さまのお慈悲のあらわれなのです」🔶 次回予告:「お盆」のお話次回は「お盆」をテーマにお話しします。先祖を敬う心、迎え方や意味について、やさしく解説していただきます。どうぞお楽しみに。🔶 あなたのお悩み、聞かせてくださいこの番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。
🔶 宗教と音楽の深い縁丸井:「高千穂さん、今週はどんなお話でしょうか?」高千穂さん:「今週は『仏教と音楽』というテーマでお話しします」宗教と音楽は、古くから切り離せない深い関わりがあります。キリスト教では賛美歌やミサ曲、クラシック音楽もその多くが教会音楽に起源を持っています。丸井:「仏教でも音楽って重要なんですか?」高千穂さん:「そうですね。たとえば雅楽(ががく)が挙げられます。神社のイメージが強いかもしれませんが、仏教でも大切にされてきました。さらに称名(しょうみょう)、つまりお経や念仏も、節やリズムがあり、音楽的な要素を含んでいるんです」🔶 正信偈の多彩な節浄土真宗で大切にされている「正信偈(しょうしんげ)」にも、節が存在します。高千穂さんによると、現在は「送付(そうふ)」「行譜(ぎょうふ)」「真譜(しんぷ)」の三種類の節がありますが、昔は十種類以上の節が存在し、地域によって歌い方が異なったそうです。高千穂さん:「全国が今のように繋がっていなかった時代、各地で独自の節が生まれたんですね」🔶 親鸞聖人の「和讃(わさん)」と民衆への伝わり方親鸞聖人は、教えを広く民衆に伝えるため、当時の流行歌であった「今様(いまよう)」の旋律に乗せ、かな交じりの柔らかな言葉で「和讃」を作りました。高千穂さん:「『教行信証』のような漢文の書物は、当時の庶民には難しかった。だからこそ和讃が作られたんです」🔶 明治以降の仏教と洋楽の融合明治維新で西洋文化が日本に入り、仏教界でも西洋音楽の要素を取り入れた「仏教唱歌」が生まれました。これにより、伝統を守りながらも時代に合わせた新たな表現が模索されてきました。丸井:「伝統と新しいもののバランス、難しいですね」高千穂さん:「そうなんです。伝統だけだと古びてしまう。でも、新しいものばかりだと本来の形が崩れる。だからこそ、法要や儀式では伝統的な節、みんなで集まる場面では新しい歌、それぞれ役割を分けて大切にしてきたんです」🔶 音楽が問いかける“変わるもの・変わらぬもの”丸井:「言葉も音楽も、時代とともに変わっていく。でも全部が変わったら大切なものが失われてしまう。その加減って難しいですね」高千穂さん:「まさにその通りです。音楽一つとっても、私たちの暮らしや価値観と深く関わっています。伝統を守りつつ、新しいものも取り入れる――その姿勢が仏教にも求められているのだと思います」🔶 まとめ:音楽に学ぶ仏教の柔軟さ今週は「仏教と音楽」というテーマでお届けしました。高千穂さん:「仏教の音楽は、称名や雅楽など古くからのものもあれば、明治以降の仏教唱歌のように新しい風も取り入れてきました。伝統と革新のバランス、その難しさと大切さを改めて感じていただければと思います」🔶 次回予告:「嘘も方便」について来週は「嘘も方便」というテーマでお話しします。仏教的に“嘘”はどんな意味を持つのか?興味深いお話をお届けします。どうぞお楽しみに。🔶 あなたのお悩み、聞かせてくださいこの番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。
🔶 英語で法話仏教を言葉の壁を越えて伝えるにはこんにちは、丸井純子(まるい じゅんこ)です。熊本市中央区京町の仏嚴寺(ぶつごんじ)より、今週も高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんとともに、仏教にまつわるお話をお届けします。🔶 仏教の教えを英語で伝える難しさ丸井:「高千穂さん、今週はどんなお話でしょうか?」高千穂さん:「今週は“英語で法話”というテーマで、浄土真宗の教えを英語に翻訳することの難しさについてお話します」日本に根付いた仏教の言葉や文化を英語に訳すのはとても難しいことです。なぜなら、その背景にある文化や感性が異なるからです。🔶 芭蕉の俳句を訳すと…?たとえば、松尾芭蕉の有名な句「古池や かわず飛びこむ 水の音」。これをラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、"The old pond — a frog jumps in — the sound of water"と訳しました。丸井:「英語だと、なんだか大きなウシガエルがドボンと飛び込んだような印象ですね」高千穂さん:「そうなんですよ。日本語では静かで風情があるけど、英語にすると印象が変わるんですよね」🔶 浄土真宗のキーワードも苦労の連続仏教用語を英語にする際も同じ苦労があります。たとえば「信心(しんじん)」は英語で「Faith(フェイス)」と訳されることが多いです。また「浄土」は「Pure Land(ピュアランド)」とされます。高千穂さん:「でも、この“Faith”や“Pure Land”という言葉では、日本語が持つニュアンスや奥深さをすべて表すのは難しいんですよね」🔶 アメリカで広がる「ゴールデンチェーン」そんな中、アメリカの仏教界で大切にされている一つの歌があります。それが「ゴールデンチェーン(Golden Chain)」です。これは1920年、ハワイの女性僧侶ドロシー・ハンドさんが作詞したもので、日曜学校などで今も歌い継がれています。🔶 日本語訳されたゴールデンチェーン高千穂さん:「英語では少し難しいので、日本語に訳されたものをご紹介します」私は世界に広がる阿弥陀仏の金の鎖の一つで、明るく強く輝き続けます。私は生きとし生けるものすべてに対して思いやり深く、弱いものを守ります。私は阿弥陀仏からいただいた美しい心を大切にし、美しい言葉を語り、美しい行いをします。金の鎖の一つ一つが輝き続け、世界のすべての人が大いなる安らぎに満たされますように。英語では「Golden Chain of Love(愛の金の鎖)」と表現されており、キリスト教文化の影響も感じられます。丸井:「仏教ではあまり“Love”という言葉は使わないですよね」高千穂さん:「そうですね。本来は“慈悲”を表しているんですが、英語では“Love”という言葉で伝えるんです」🔶 文化の違いを超えて伝わる“心”言葉の壁はあるものの、人が宗教を求める心はどこでも同じです。アメリカでは、日系人だけでなく、まったく仏教と縁のなかった人たちが仏教に触れ、その教えに感動し、信仰を深めています。🔶 翻訳しない、という方法もある高千穂さん:「あるアメリカの先生が“信心(しんじん)はそのままShinjinでいい”と言われていました」たとえば“豆腐”といった言葉が、そのまま“tofu”として定着しているように、“Shinjin”という言葉も、そのまま浸透させていくのも一つの方法です。🔶 まとめ:言葉は違っても“心”は伝わる今週は「英語で法話」をテーマに、仏教を世界に伝えることの難しさと面白さをお届けしました。高千穂さん:「アメリカでは“ゴールデンチェーン”という歌が浄土真宗の教えを伝える手段として根付いています。文化や言葉は違っても、仏教の教えが世界中で受け入れられているという事実は、私たちにとっても喜びです」🔶 次回予告:「仏教と音楽」について来週は「仏教と音楽」をテーマに、心に響くお話をお届けします。🔶 あなたのお悩み、聞かせてくださいこの番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。
熊本市中央区京町の仏嚴寺(ぶつごんじ)より、今週も高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんとともに、仏教にまつわるお話をお届けします。🔶 お坊さんの足元にも「雨対策」あり丸井:「雨の日でも、お寺のお仕事ってあるんですね」高千穂さん:「もちろんあります。実は私たちが履いている草履には、雨の日用のビニールカバーを装着するんですよ」草履の下には足袋を履いていますが、雨水が染み込むと泥だらけになってしまいます。そのため、足元を守るための“雨具”もしっかり用意されているんです。🔶 インド仏教における雨季(うき)と安居(あんご)仏教が生まれたインドにも「乾季(かんき)」と「雨季(うき)」があります。インドの雨季は非常に激しく、なんと3か月以上雨が降り続くこともあります。この期間、仏教教団では「安居(あんご)」と呼ばれる学びの時間が設けられていました。これは、修行僧たちが移動することで小さな命を踏んでしまうのを避けるため、一か所にとどまり、学問や修行に励むというものです。🔶 日本にも伝わる安居の精神この「安居」の伝統は、日本にも伝えられました。浄土真宗本願寺派では、毎年7月下旬ごろに「安居」と呼ばれる最高峰の勉強会が京都で開かれます。高千穂さん:「私もかつてお手伝いで参加したことがありますが、全国から集まった精鋭の僧侶たちが真剣に学び合う様子は圧巻でした」九州からの参加は大変ではありますが、学びへの熱意は地域を越えてつながっています。🔶 源信(げんしん)和尚の教えに学ぶ今回は、親鸞聖人が心の師と仰いだ七高僧のひとり、源信和尚(げんしんかしょう)が著した『往生要集(おうじょうようしゅう)』のお言葉を平易にご紹介します。高い山には雨水はとどまらず、必ず低いところに流れていく。これと同じように、人もおごり高ぶれば仏の教えは心に入らない。反対に、謙虚な心で師の教えを敬えば、その功徳は自らに流れ込むのだと。🔶 仏教的に見る“高い山”と“謙虚な谷”高千穂さん:「これはまさに“自力の思い上がり”を戒めたお言葉です」努力や修行に偏るあまり、自分こそが正しいという思いにとらわれてしまうと、阿弥陀様のはたらき=他力の救いを素直に受け入れることができなくなってしまう。それが仏教の世界でいう「自力の限界」なのです。🔶 まとめ:梅雨の季節は、学びのチャンス今週は「仏教と雨」をテーマにお届けしました。高千穂さん:「仏教が生まれたインドには3か月以上続く雨季があり、その間、修行僧たちは一か所にとどまり学びを深めていました。この教えは日本にも伝わり、今も“安居”という形で大切にされています」そして、原信和尚の言葉にあるように、謙虚な心で教えを受け止めることの大切さ――雨の時期だからこそ、自分の内面と静かに向き合う機会にしたいものですね。🔶 次回予告:「英語で法話」について次回は「英語で法話」というちょっと変わったテーマでお届けします。仏教の教えを、もし英語で伝えるなら?という興味深いお話です。どうぞお楽しみに。🔶 あなたのお悩み、聞かせてくださいこの番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。🔶出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。
蓮の花に宿る仏の教え―仏嚴寺・高千穂光正さんと語る仏教のお話―🔶今週のテーマは「仏教と蓮の花」熊本市中央区京町にある仏嚴寺(ぶごんじ)のご住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)さんと、丸井純子(まるい じゅんこ)さんが語り合います。蓮の花が象徴する「清らかさ」蓮の花――仏教では「れんげ」とも呼ばれ、お釈迦様が悟りを開いたときにもその足元に咲いていたと伝えられる、美しい花です。浄土真宗の仏様である阿弥陀様も、蓮の花の上に立っておられる姿で表されます。では、なぜ蓮の花がこれほど大切にされてきたのでしょうか。それは、蓮が「泥の中から咲く花」だからです。この泥は、煩悩に満ちた私たちの生きる世界を表します。そんな世界に染まることなく、清らかに咲く蓮の姿は、仏教の理想そのもの。「どんなに汚れた世界の中でも、美しい花を咲かせられる――」そんな希望と慈悲の象徴として、仏教では蓮が尊ばれてきたのです。🔶阿弥陀様は「立って」おられる理由仏様といえば、座っている姿を想像する方が多いかもしれません。けれど、浄土真宗の阿弥陀様は「立って」おられます。それは、「救いに行くために座っている暇などない」という姿勢の現れ。さらにお顔は、やや斜め前に傾けておられます。「今すぐあなたのもとへ向かいますよ」という、まさに“やる気満々”の姿なのです。🔶浄土の世界と「白蓮華(びゃくれんげ)」仏教発祥の地・インドでは、蓮は国家の花。仏教と深く結びついた特別な花とされています。浄土真宗の教えの中でも、「正信偈(しょうしんげ)」には極楽浄土を「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」と表現し、蓮が咲き誇る美しい世界として描かれています。また、念仏を唱える人は「白い蓮の花」のようだとも語られます。心清らかに阿弥陀様を信じ、念仏に生きる人々を称えて、そう呼ばれるのです。🔶念仏に生きた人々――妙好人(みょうこうにん)そのような念仏者たちは「妙好人」と呼ばれます。親鸞聖人の教えに目覚め、阿弥陀様の慈悲を喜び、感謝とともに生きた人々――それが妙好人です。今回はその中から、妙好人・浅原才市(あさはら さいち)さんをご紹介します。浅原才市さん――「念仏の日暮らし」浅原才市さんは、1850年・江戸末期に島根県温泉津(ゆのつ)で生まれました。もとは下駄職人でしたが、福岡の七里(しちり)先生という高僧と出会い、念仏の道へ。以来、20年以上も七里先生の話に耳を傾け、お念仏の喜びを歌にして人々へ伝えました。昼も夜も、寝ても覚めても「南無阿弥陀仏」。まさに「念仏の日暮らし」と呼ぶにふさわしい生き方です。歌に込めた信仰の喜びたとえば、次のような歌があります:寝るも仏 起きるも仏 覚めるも仏冷めて敬う 南無阿弥陀仏胸に六字の声がする親の呼び声 慈悲の催促 南無阿弥陀仏ここでいう「親」とは阿弥陀様。念仏を唱える私の声も、阿弥陀様の導きによって出てくるものだ――そんな深い気づきを表しています。🔶「自分は鬼」――角を描かせた肖像画ある日、画家が才市さんの肖像画を描いたときのこと。できあがった絵を見た才市さんは「これはわしじゃない。角を描いてくれ」と言いました。「わしは鬼だ。怒り、妬み――そんな心を持っている」と。頭に2本の角を描かせて完成した肖像画を見て、「これが本当のわしだ」と喜んだそうです。才市さんは、自らの煩悩に気づき、それを抱えながらもなお、阿弥陀様の慈悲に感謝して生きていたのです。🔶まとめ今週は仏教と蓮の花についてのお話でした。蓮の花は、泥の中から清らかに咲くその姿が、私たちの生き方の理想を表しています。念仏を喜び、感謝して生きた先人――妙好人たち。浅原才市さんのような念仏者の存在は、現代に生きる私たちにも、温かい光を届けてくれます。🔶次回のテーマは「仏教と雨のお話」。番組では、あなたのお悩み相談も受け付けています。メールは goen@rkk.jp までお寄せください。お話は仏嚴寺の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。聞き手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。ご縁に感謝して、また来週――。
🔶 共命鳥とは?阿弥陀経に登場する不思議な鳥今週のテーマは「共命鳥(ぐみょうちょう)の教え」です。高千穂さん:「共命鳥は、『仏説阿弥陀経』に登場する極楽浄土に住む美しい鳥のひとつです」“共命”とは「命をともにする」という意味。この鳥は体は一つ、頭が二つ。それぞれ別の意識を持ちながら、一つの命を生きる不思議な存在です。仏教では、この鳥を通じて人間の「煩悩(ぼんのう)」や「自己中心的な心」のはかなさを説いています。🔶 提婆達多(だいばだった)と共命鳥の物語ある日、弟子が釈尊(お釈迦さま)にこう尋ねます。「仏法を聞いていたはずの提婆達多は、なぜ釈尊に深い恨みを抱いたのですか」この問いに対し、お釈迦さまは共命鳥のたとえ話をもって答えられました。🔶 二つの頭と一つの命:破滅へ向かう心昔、雪山のふもとに共命鳥が住んでいました。一つの体に、カルダとウバカルダという二つの頭がついており、それぞれに独立した意識を持っていました。ある日、カルダがウバカルダに黙って「摩頭迦という果樹の実」を食べてしまいます。これは非常に良い香りと功徳を持つ果実だったため、ウバカルダはひどく怒りました。そしてあるとき、ウバカルダは毒の花を見つけます。「この毒を食べれば、カルダを苦しめることができる」と考え、眠っているカルダに黙って自ら毒の花を食べてしまいました。その結果――共命鳥は、体ごと死んでしまったのです🔶 お釈迦さまが語った深い意味死の間際、カルダはウバカルダにこう語ります。「私は良かれと思って花を食べた。だが、あなたは怒りにかられて毒を口にした。その結果、私たちはともに命を落とした。怒りや憎しみに利はなく、それは自らを、そして他者をも破滅させる」お釈迦さまはこう締めくくられました。「カルダは私・釈尊でありウバカルダは提婆達多である」🔶 共命鳥が教えてくれること高千穂さん:「共命鳥は、“自他は分けられるものではない”という教えを体現した存在です」現代に置き換えるなら――家庭や職場で、良かれと思ってしたことが誤解される自分の不満が、誰かへの攻撃になり、結局自分にも返ってくる私たちの中にも、“ウバカルダ”のような怒りや嫉妬の心が生まれることがあります。丸井:「他人を責めたつもりが、自分自身をも傷つけていた――思い当たるふしがあります」🔶 まとめ:一つの命をどう生きるか今週は「共命鳥(ぐみょうちょう)の教え」をテーマにお届けしました。高千穂さん:「共命鳥の物語は、他者と命をともにするという在り方を、優しく、そして厳しく伝えてくれています。自己中心的な怒りや執着が、やがて自分自身をも苦しめるということ。仏教が説く“縁起”や“慈悲”の心を、物語を通じて学ぶことができます」人との関係に悩んだとき、心の中の“ウバカルダ”と向き合うヒントになるかもしれません。🔶 次回予告:「仏教と蓮の花」次回は「仏教と蓮の花」をテーマにお届けします。泥の中から美しく咲く蓮の花は、なぜ仏教で大切にされているのか――その象徴的な意味に迫ります。🔶 あなたのお悩み、聞かせてくださいこの番組では、リスナーの皆さまからのお悩み相談も受け付けています。メールは → goen@rkk.jp までお寄せください。出演お話:仏嚴寺住職・高千穂光正(たかちほ こうしょう)司会:丸井純子今週も最後までお聴きいただき、ありがとうございました。あなたと結ばれたこのご縁に、心より感謝申し上げます。では、また来週お会いしましょう。