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5分 de ヒストリー ~歴史・世界史・日本史・学び直し/クロノ

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教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第121回目は「ウイグル」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文モンゴル高原では744年に東突厥を倒したトルコ系のウイグルが台頭する。唐の支配体制を揺るがした安史の乱の際には、唐を支援して事実上、属国化させた。突厥と同じようにソグド人を用いて交易で利益をあげて大いに繁栄したが、840年に内乱に乗じたキルギスに滅ぼされる。帝国の崩壊後、一部のウイグル人が西方に移住する。これによりイラン系が中心だった中央アジアのトルコ化が進み、この地がトルキスタンと呼ばれる由来となった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第120回目は「突厥」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文6世紀半ば、トルコ系の突厥が急速に勢力を拡大する。柔然を滅ぼし内陸アジア一帯に大遊牧国家を形成した。中央アジアでは遊牧民族のエフタルが大国家を作り、ササン朝の領土に侵入する。ササン朝のホスロー1世は突厥と同盟を結び、これを滅ぼす。6世紀末、東西に分裂し唐に服属した。唐の衰退後、東突厥は7世紀末に帝国を再興し、北方遊牧民最初の文字である突厥文字を使用したが、8世紀にトルコ系のウイグルに滅ぼされた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第119回目は「鮮卑」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文モンゴル高原では2世紀に、匈奴に従っていた鮮卑が台頭する。君主号としてカガンを用い、後に最高君主の称号として中央ユーラシアで広く使われるようになる。3世紀には、いくつかの集団に分かれて華北に侵入する。鮮卑の拓跋氏(たくばつし)が386年に北魏を建国し、439年に華北を統一して五胡十六国時代を終わらせる。モンゴル高原で台頭してきた柔然と対立した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第118回目は「匈奴」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文スキタイと同じ時期に、東方でもいくつかの遊牧勢力が生まれていた。その中の匈奴が前3世紀末に冒頓単于により急速に力をつけて大遊牧国家を形成する。秦滅亡後に誕生した前漢の高祖(劉邦)を破り、事実上の属国とした。月氏を西に追いやりタリム盆地を支配下において東西交易の利益を手にした。しかし、前1世紀には東西に分裂し、さらに東匈奴が1世紀に南北に分裂した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第117回目は遊牧国家「スキタイ」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文中央ユーラシアの草原地帯では早くから文化、技術の交流が見られ、東のモンゴル高原から西の南ロシア草原までが、草原の道により1つの文化的まとまりが見られた。騎馬戦術を得意とする遊牧民の中から、強大な遊牧国家が生まれた。黒海北岸の南ロシア草原地帯には、前7世紀にスキタイが形成された。最初の遊牧国家で、強大な騎兵隊を組織し、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の軍隊を撃退するなど、強盛を誇った。ギリシア植民市と交易をおこない、黄金の装飾品が取引きされた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第116回目は東アジア文化圏の形成と発展「南宋その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文「宋」は、外交ではこれまでにない屈辱を受けたが、経済的には大きく発展した。国家による都市への商業統制が廃止され、城外では草市が開かれ、大量の銅線や紙幣(北宋時代は交子、南宋時代は会子)が流通する。輸出もさかんになりジャンク船を用いて商人が活躍した。農業は臨案を拠点にして江南の開発が進んだ。干拓地の拡大、成長の早い占城稲の普及により長江下流域の開発が進み「蘇湖(そこ)熟すれば天下足る」と言われるまでになった。唐代末以降に増えた形勢戸と言われる新興地主層が、収穫物の半分ほどの小作料をとって佃戸に耕作させていた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第115回目は東アジア文化圏の形成と発展「南宋その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文靖康の変で、皇帝が北方に連行されたが皇帝の弟が江南に逃れられた。彼(高宗)は臨案を都にして宋を再建する。これ以降を南宋と呼ぶ。金にどう対処するかで主戦派と和平派の2つに分かれた。将軍の岳飛は金との対決を主張し、宰相の秦檜(しんかい)は金が淮河より南進しない可能性が高いことを理由に和平を結ぶべきだと主張した。最終的に和平派が勝利、淮河を境界とし歳幣を贈る屈辱的な和約を結んだ。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第114回目は東アジア文化圏の形成と発展「宋(北宋)その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文12世紀初め、完顔阿骨打(わんやんあぐだ)が金を建てる。キタイ(契丹)の勢力圏の東部は比較的海に近く一定の降水量があり、森林が広がっていた。そこで狩猟、農耕で生活していたツングース系女真族が、力をつけて自立したのだ。キタイを背後から脅かすようになり、これに目をつけた宋が金と挟み撃ちをして滅ぼそうと画策する。宋と金の連合軍の攻撃を受け、キタイはモンゴル高原から逃げ出した。しかし宋が契約違反を重ね、怒った金は南下して開封を占領。皇帝の欽宗、上皇の徽宗をはじめ、多数の王族や高官が北方へ連行されるという靖康の変が起こり、宋は滅亡した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第113回目は東アジア文化圏の形成と発展「宋(北宋)その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文11世紀後半、宋は深刻な財政難となったため皇帝の神宗は王安石を登用する。彼は新法とよばれる均輸法、市易法、青苗法など一連の改革を行う。中小商人や農民を救済しながら富国強兵に努めようとした。しかし、これらの改革は豪商や大地主の利益を損なうものでもあった。官僚は豪商や大地主出身が多く、司馬光を中心に反対派(旧法党)を形成。改革派の新法党と対立したため政治は混乱した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第112回目は東アジア文化圏の形成と発展「宋(北宋)」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文960年に後周の武将、趙 匡胤(太祖)が開封(かいほう)を都に宋を建てた。彼は藩鎮を解体し皇帝直属の親衛軍を強化する。武断政治ではなく文治(ぶんち)主義に基づく皇帝独裁体制を強化。科挙の最終試験に皇帝が実施する殿試を創設して官僚制を整備した。キタイ(契丹)と結んだ「せんえんの盟」に代表されるように、軍事力の低下した宋は周辺の異民族王朝と和議を結び、毎年多額の銀や絹などを贈り平和を維持した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第111回目は東アジア文化圏の形成と発展「五代十国時代」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文907年の唐滅亡から960年の北宋成立までの間を五代十国時代と言う。節度使の朱全忠が建てた後梁に始まり後唐・後晋・後漢・後周と華北に5つの短命な王朝が相次いで成立した。その周辺で10の大小様々な地方政権が興亡した。5つのうちの3つ目である後晋は、建国するさいにキタイ(契丹)の援助を受けた。キタイは10世紀初めに耶律阿保機(やりつあぼき)がモンゴル高原東部を中心に建てた強力な国家であり華北の政変に介入して、援助の見返りとして後晋から燕雲十六州を獲得した。この時代、貴族層は没落し形勢戸とよばれる新興地主や大商人が台頭してきた。
北魏、隋、唐のまとめです。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第110回目は東アジア文化圏の形成と発展「唐その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文楊貴妃のいとこの楊国忠が宰相になると、節度使の安禄山と史思明を中心に安史の乱が起きる。唐は洛陽と長安を奪われ危機に陥るが、ウイグルの支援で反乱は鎮圧された。弱体化が露呈した唐は、ウイグルとチベットに中央アジアを奪われるなどして領域が縮小する。さらに内地に置かれた節度使が自立し、地方の財政・民政も掌握する藩鎮になった。9世紀後半には農民反乱である黄巣の乱が起こり、唐の衰退は決定的となる。907年、反乱鎮圧に活躍した節度使の朱全忠により、唐は滅ぼされた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第109回目は東アジア文化圏の形成と発展「唐その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文3代の高宗の死後、皇后の則天武后が周を建てる。後に唐が復活し、玄宗は善政に努め「開元の治」と呼ばれた。しかし、農民の逃亡や皇后の逝去が重なり、治世の後半は楊貴妃に溺れ政治をかえりみなくなった。彼女の一族が役人に登用され政治権力を握るようになる。軍事制度が府兵制から募兵制に変わり、国境地帯では警備の兵として異民族が雇われるようになり、指揮官として節度使が置かれた。中でも安禄山は複数の節度使を兼ね、山東半島から洛陽に至る大領域を勢力圏にした。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第108回目は東アジア文化圏の形成と発展「唐その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文武力を背景とする土地の公有化が強大な権力を生み出した。戸籍をもとに民衆に土地を支給する均田制は皇帝の権力を強めたが、租税・労役・兵役が課される民衆にとっては過酷な制度だった。重税と徴兵から農民が逃亡し、均田制と府兵制が崩れ、荘園が拡大し、傭兵を採用する募兵制に変わる。その後、税制は租庸調制から両税法に切り替わり、王朝による土地管理と貴族の大土地所有の制限を目指す方針は放棄された。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第107回目は東アジア文化圏の形成と発展「唐その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文太宗(李世民)は、東突厥を従え、チベット(吐蕃)のソンツェン=ガンポと和親して中央ユーラシアへも勢力を伸ばした。3代の高宗の時代には西突厥も服属させ、西域のオアシス諸都市にも進出。朝鮮半島にも勢力圏をひろげたので、唐は一時期、東アジア・中央ユーラシアにまたがる世界帝国となった。征服地には6つの都護府が置かれ、諸民族の自治を認める間接統治がとられた。これを羈縻政策(きびせいさく)という。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第107回目は東アジア文化圏の形成と発展「唐」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文618年、煬帝暗殺の知らせを聞き、李淵(高祖)が長安を都に唐を建てる。この時点では、まだ中国全土を支配しておらず、子の李世民(太宗)の代で再統一する。彼の治世は「貞観の治」と呼ばれ最高の名君と称賛された。唐の支配体制は、隋を反面教師としているのが特徴だ。独裁ではなく集団指導体制を採用。中央に中書省・門下省・尚書省(しょうしょしょう)の三省、尚書省に属す六部、観察機関の御史台が置かれた。官僚の採用法については、隋にひき続き科挙を用いている。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第106回目は東アジア文化圏の形成と発展「隋その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文第2代の煬帝は中国の華北と江南をつなぐ交通、輸送の幹線として大運河を完成させる。温暖な地域で開発が進む江南の経済力や文化力を、首都長安をはじめ華北に取り込む。親子2代にわたる悲願が達成されたが、建設には多数のマンパワーが必要とされ、その負担に苦しむ人民の不満が、隋短命の一因となった。3回に及ぶ高句麗への遠征失敗をきっかけに、各地で農民や豪族の反乱が起こる。煬帝は都を脱出して揚州に逃れる。しかし親衛隊の隊長に殺害され隋は滅亡した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第105回目は東アジア文化圏の形成と発展「隋」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文581年に北周の武将であった楊堅が権力を握り、帝位(文帝)について隋をたてる。内政では九品中正を廃止して、科挙という試験に基づく官吏任用制度を始める。外政では突厥を分断させて北方の脅威を低下させ、南朝を滅ぼして589年に中国を統一する。彼は北朝以来の均田制、府兵制を継承した。税制度として租庸調制を実施し、地方統治のため州県制を整備。この他、開発の進んでいた江南と華北とを結びつける大運河の建設にも着手した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第104回目は東アジア文化圏の形成と発展「魏晋南北朝時代」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文後漢滅亡以降の370年にわたる分裂時代を魏晋南北朝時代という。歴代王朝は、豪族や貴族の大土地所有を抑制し、農民を保護して税収を安定化させようとした。魏では屯田制、西晋では占田・課田法、北魏では均田制を実施した。これらは一定の効果はあったが、根本的に解決するには至らなかった。人材登用では魏が九品中正を行うが、かえって豪族が上級官職を独占し、門閥貴族を生み出す結果となる。民族や風土の違いを超えて適用できる制度は隋・唐にも継承された。