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リジョイス聖書日課
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リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。 (イザヤ書63章16節) 「そのとき、主の民は思い起こした」と言われています(11節)。神の裁きを経験し、神の怒りを目の当たりにした彼らは、その嘆きの中で、かつてのイスラエルが受けてきた主の憐れみを思い出しました。11節から14節では、主なる神によってエジプトの奴隷から解放されたことが思い起こされています。 それゆえ、預言者は今の状況に苦しみます(15節)。かつての祖先たちは、主の御業によって救われました。しかし、今、民たちの前には悲惨な現実があり、神の憐れみが失われているかのような状況の中を歩んでいたからです。 それでも預言者は告白します。「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です」(16節)。祖先から認められないという状況が起ころうとも、神が自分たちを見捨てたかもしれないという現実の中でも、父である主に呼び掛け続け、神に顔を向ける信仰を持って、神を「わたしたちの父」と告白しています。どのような状況においても、私たちの希望は父なる神にしかありません。 きょうも、私たちは自分たちの罪を悔い改めつつ、父なる神に向かって顔を上げたいと思います。 【祈り】 天の父よ、私たちの希望はあなただけです。きょうもあなたに向かって顔を上げさせてください。
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず エルサレムのために、わたしは決して黙さない。 (イザヤ書62章1節) 預言者はエルサレムのために「決して黙さない」と宣言します。預言者は、黙ることなく、メッセージを語り続けます。「彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」(1節)と言われているように、絶望の中にある人びとに、主の光が照らされ、救いが与えられる「まで」です。 その救いの時、エルサレムは「夫を持つもの」と呼ばれると宣言されています(4節)。聖書の中で、神とエルサレムの関係を「結婚」にたとえる箇所がいくつかありますが、本日の箇所もその一つです。 11節で、「見よ、あなたの救いが進んで来る」と言われます。エルサレムに救いがやってくる。その事実を見上げ、礼拝するエルサレムに諸国の人びとが集まることを呼び掛けています。新約聖書の光に照らせば、エルサレムを教会にたとえることができます。救いの喜びを分かち合う場所、それが教会です。 私たち一人ひとりに3節の御言葉が与えられています。「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる」。私たちは神の御手の中の冠なのです。だから私たちも黙していることはできません。主の恵みを証ししないではいられないのです。私たちは主の喜びを分かち合う者として召されています。 【祈り】 神様。あなたの恵みがきょうも私たちに差し込みます。あなたの恵みを分かち合う者とさせてください。
シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。 (イザヤ書61章3節) 61章は、福音を告げ知らせるメシアの存在が預言されています。預言者は、悲惨の中にある人びとに対して、具体的に分かる言葉で、希望を語りました。貧しい者には福音が語られる。打ち砕かれた心が包まれる。捕らわれた者、つながれている者には自由と解放が与えられる。福音は、ただの漠然としたメッセージではありません。主に油注がれた存在によって人びとの嘆きが喜びに変わるのです。主イエスは、この言葉はご自身において実現したのだとおっしゃいました(ルカ4章16~21節参照)。私たちが信じるメシアは、嘆きを喜びへと変えられる救い主です。 さて、3節には「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と記されています。嘆きの中にある者たちの心に喜びの香油が注がれ、彼らは賛美の衣をまとわせられます。彼らは、また顔を上げて、神を賛美することができるように導かれるのです。 私たちも、今、聖書を通して、主にある恵みのメッセージを聞いています。たとえ嘆きの中にあろうとも、聖書は、私たちに福音を告げ知らせます。私たちは救い主によって、罪から解き放たれました。賛美の衣をまとわされた存在として、与えられた救いに感謝しつつ、きょうも主を賛美して歩んでいきましょう。 【祈り】 主よ。きょうも、あなたの救いに感謝しつつ、賛美して歩めますように。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。」 (ヨハネによる福音書) この章は、主イエスが羊の門や羊飼いに、そして私たちが羊に譬えられている箇所です。9節ではご自身を「門」に譬えられて、「わたしを通って入る者は救われる」、豊かな命を得ることになると言われて、主の門をくぐった者たちの幸いと励ましが語られています。 そのような関係性の中で、キーワードのように繰り返されているのが「聞き分ける」という言葉です(3、16節)。当時、主イエスの真実の御声以外にも、ファリサイ派やユダヤ人の声など、ほかにもたくさんのまことしやかな声、或いは恐れを抱かせるような声があったようです。 私たちも人生を歩んでいれば、主イエスとは違う声、主義主張に出会います。世界からも日本の中からもまことしやかな発言が聞こえてきます。或いは、自身の内側からも聞こえてくる声があります。そのような中、イースターを経た私たちは、主イエスの御声に聞き従う歩みを心に留めたいと思います。 さらに16節では、これから主の群れに加わるであろう羊のことも語られています。主が一つに集めようとされている群れを邪魔することなく、主の御声のみに導かれる群れでありたいと願います。 【祈り】 主の御声を聴くことの出来る幸いに感謝します。外と内から聞こえてくる誘惑の声に陥らないように、御声にこそ従えますように。
はしためを町の高い所に遣わして 呼びかけさせた。 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」 (箴言9章3節~4節) 9章には二つの招きが語られています。一つは1節から6節の知恵の招きで、もう一つは13節から18節の愚かさという女の招きです。どちらも同じ言葉で人びとを招きます。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」と。しかし、その招き方と招きに応じた結果はまったく異なります。 愚かな女の招き方から見てみましょう。自ら通りに出て、その姿を見せて、声をかけて道行く人びとに呼びかけます。当時の遊女の姿を連想させます。直接的でわかりやすい、だから惹かれる人も多くなるでしょう。 一方、「知恵」は直接、その姿を人の前にはあらわしません。家を建てて、食卓を用意して待っています。そして、「はしため」を遣わして呼びかけます。人が目にするのは「はしため」の姿であり、その声です。用意されている食卓も直接見ることはできません。「知恵」の呼びかけは、「愚かさ」の呼びかけのようにわかりやすくなく、魅力的にも思えないかもしれません。使いの声を聞き、冷静に自分でその家に赴くほかありません。 結果を見てみましょう。愚かさの招きは「深い陰府」に、知恵の招きは「命」に至ります。キリストの招きはこの知恵の招きです。遣わされた者が御言葉をもって招きます。それは一見、愚かな手段ですが、実はここに深い神の知恵があります。 【祈り】 主イエスよ、広い門ではなく、狭い門から入って命に至らせてください。
起きよ、光を放て。 あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。 (イザヤ書60章1節) イザヤは、直接的にはバビロンに捕らえられているイスラエルが解放され、エルサレムに帰還することを預言しています。そして、新約の時代に、この預言がメシアである御子イエス・キリストの到来のことをも告げ知らせるものであることが示されました(エフェ5章14節参照)。 旧約の時代、メシアがどのようなかたちで現れるか、おぼろげでした。そのため、この聖句が、メシアを預言したことであることを、はっきりと理解することはできなかったかもしれません。しかし、新約の現在に生きる私たちは、私たちを照らす光として御子イエス・キリストが来られたことを知っています(ヨハ1章9節)。そして、光であるキリストは、私たちを闇から光の世界に導くために、私たちの身代わりとなって十字架で死に、私たちの初穂として死からの復活を成し遂げてくださいました。やがてこのキリストが再臨され、最後の審判と神の国の完成がもたらされます。 イスラエルの民が捕囚からの解放を夢見たように、新約に生きる私たちはこの幻を見て歩みます。主は、イスラエルだけでなく、異邦人を照らす啓示の光として来られました(ルカ2章32節参照)。その主の光に照らされて、歩みましょう。 【祈り】 キリストの再臨によりもたらされる神の国の希望に、私たちも生きることができるようにしてください。
主は贖う者として、シオンに来られる。 ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると 主は言われる。 (イザヤ書59:20) イスラエルの民が主の御前に罪を重ねた結果、イスラエル王国は南北に分断され、その後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。南ユダ王国もバビロンによって滅ぼされて、捕囚の民とされました。そこに至るまでにも、主なる神は繰り返し預言者を遣わし、イスラエルの民に悔い改めを求めておられました。しかし、イスラエルの民は、預言者の言葉に耳を貸さず、その結果、ついに滅ぼされるに至りました。 人は、他者から罪や弱さを指摘されても、それを認めたくありません。それは、その結果、蔑まれたり、虐げられたりするからです。しかし、主なる神が人に罪を指摘するのは、人が救われることを願っておられるからです。人は罪の結果、死を迎え、滅びを避けることができません。そして、人は自分の努力によって、罪を帳消しにすることはできません。そのため神は、主に自らの救いを委ねるようお語りになります。自らの罪を認めて、悔い改めることが私たちに求められています。 主は、罪人の罪を贖う者として救い主イエス・キリストを預言し、やがてお遣わしくださいました。キリストが私たちに代わって罪の刑罰を十字架で受けてくださることにより、私たちの罪はすでに贖われています。 【祈り】 神さま、罪のゆえ滅び行く私たちに救い主イエス・キリストをお与えくださり、ありがとうございます。
主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。 (イザヤ書58章11節) 主なる神は、私たちに、主なる神を信じ、主を礼拝することを望んでおられます。そして、神の御言葉に聞き従うことが求められています。 イスラエルの民は、主を信じ、断食を行っていました。しかし、主なる神は「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない」と語ります(4節)。主が求めておられるのは形において主に断食することではありません。断食を行うことにより、心が動かされ、自らの弱さを知り、主の御前にへりくだり、同胞の苦しみを覚え、助けを求める者に施しを惜しまないことです。 同様に、私たちが主を礼拝するとき、主は私たちに、御言葉を語りかけ、私たちの渇いた魂に命の水をお与えくださいます。そのとき私たちは、自らの内にある闇である罪が明らかにされます。そして、私たちは自らの罪の悔い改めへと導かれ、主への信仰が新たにされます。 だからこそ、私たちは主の御言葉を聴くことができるように心の準備をもって礼拝に出席しなければなりません。そして、主の御前に頭を垂れて主がお語りになる御言葉に聴くことが求められています。 【祈り】 神さま、礼拝で語られる主の御言葉に耳を傾けて聴くことができるように、お導きください。
わたしがとこしえに沈黙していると思って わたしを畏れないのか。 (イザヤ書57章11節) 主なる神が全世界を支配しておられ、主の御力が私たちに及んでいます。このことは私たちキリスト者の確信です。しかし、この世の人たちは神の存在などに関係なく、世界は自然の秩序と世の権威において動いていると考えています。このような考えは、巧妙にもキリスト者の考えに入り込もうと忍び寄ります。 主なる神が私たちのただ中にあって働いておられることを、私たちは主の日の礼拝において確認します。御言葉である聖書を解き明かした説教において、主は私たちに語りかけてくださいます。主の晩餐の礼典にあずかることにより、キリストの十字架の御業が、私たちの救いのためであることが示されます。そして、天国が完成したとき、私たちは、キリストの御前で主の食卓にあずかることにより、救われていることが明らかになります。 主が沈黙されているのではなく、主が私たちに語りかけてくださっているのに、人間の側が耳を閉ざしているのです。主は、「へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させ」てくださいます(15節)。神は、神を信じようとしない周囲の人たちにではなく、あなたが神の御前で主の御言葉に聴き、神を畏れて歩むことを求めておられます。 【祈り】 主なる神よ、礼拝をとおして生きて働く主なる神と出会うことができるよう、お導きください。
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え … わたしの家、わたしの城壁に刻む。 その名は決して消し去られることがない。 (イザヤ書56章5節) イスラエルの民は、自らの罪の結果、主なる神の裁きとして国をバビロンに滅ぼされ、捕囚の民とされました。このとき、多くのイスラエルの民は、生きる希望を失ったのではないでしょうか。神の存在が見えないとき、人は神を信じることができず、自己中心の生活となっていきます。 しかし、主なる神は、捕囚の民となったイスラエルを見捨てることがありません。そして、このように語りかけてくださいます。「正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(1節)。 やがてイスラエルは捕囚から解放され、エルサレムに帰還することが許されます。主なる神は、いつもイスラエルの民と共にいてくださいます。そして主の恵み、主による救いがあることを忘れないように、預言者をとおしてお語りくださいます。 イスラエルの民がとこしえの名を与えられたように(5節)、今、私たちキリスト者にも、神による救いが約束され、神の僕としての刻印が押されています(黙7章3節参照)。 「神などいない」、「天国などない」と思われている現代ですが、主なる神による救いと、神の国の完成に希望をもって、歩み続けましょう。 【祈り】 神さま、私たちを忘れることなく、私たちの名を天国に書き記してくださり、ありがとうございます。
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。 (ルカによる福音書24章45節~46節) きょうはルカによる福音書の最後の場面からです。このとき、平和ではなかったであろう弟子たちの前に、復活の主が現れて言われます。「あなたがたに平和があるように」。この方が平和をもたらし、平和はこの方によって実現されることを確信させられる、そのような箇所です。 44節からの場面では、旧約聖書に書かれたことはすべて主イエスによって実現すると前から言っておいたではないかと言われて、昇天日(イースターから40日後)まで、旧約聖書を弟子たちにみっちり教えられたことが記されています。そして興味深いのは、その理由です。それは「聖書を悟らせるため」そして「彼らの心の目を開く」ためです。昇天日までに主イエスは、「聖書を悟らせるため」、また、肉の目ではなく「心の目を開く」ためにそのことをされたのでした。 私たちはペンテコステまでの期間、聖書を悟るため、心の目を開かれるための歩みに導かれたいと思います。まるで主イエスがおられないかのように、亡霊のように主イエスを見るのではなく、実生活の中で、具体的な人との関わりのなかで、目の前に復活の主イエスをいつも見ながら生活したいと思います。これがペンテコステへと繋がる歩みだからです。 【祈り】 地上の歩みの中で主イエスに出会わせてください。主イエスを見るように、人と接することができますように。
わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し… (箴言8章30節~31節) 繰り返されている「わたし」とは誰のことなのでしょうか。「わたしは知恵」(12節)と名乗っていますから「わたし」は「知恵」のことだとわかります。 「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵も、まだ造られていなかった」(25、26節)。創世記は、人間は塵から造られたと言っていますが、その塵すらまだ造られてはいません。しかし、その時すでに存在していたのですから、人間ではありません。 27節には、天地創造のはじめの時に、「わたしはそこにいた」とも語られています。「そこにいた」というのはただ存在していたということだけではなく、関わっていた、参与していたということを意味しています。 ここで語られている「わたし」、「知恵」とは、主イエス・キリストのことです。確かに主イエスこそ、神の深き知恵の現れであります。 知恵は造り主なる神の御前で楽を奏でます。ひとりではありません。「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し」ます。主の関心は、神の民だけに向けられているのではありません。神に造られたすべての人間に向けられています。およそすべての人が主を知り、賛美に招かれています。 【祈り】 日々出会う人たちを、神に造られた人間として見出させてください。
わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。 (ヨハネの手紙一5章20節) ヨハネは、第一の手紙を結ぶにあたって、今一度、「子たちよ」と呼びかけます。そしてその最後の一言が「偶像を避けなさい」です。このように言わなければならないほど、偶像の力は大きなものです。偶像は目に見えるものを神として拝んでしまうだけではありません。コロサイの信徒への手紙が記すように、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(3章5節)など、地上的なものすべてを指します。キリストを退けようとするすべてのものと言ってよいでしょう。 その偶像を避けるためにも、私たちが「御子イエス・キリストの内にいる」ことが許されていることは大きな喜びです。なぜなら、私たちは「神に属する者」(19節)だからです。何もわたしの力によって偶像を避け、神に属しているわけではありません。「この世全体が悪い者の支配下にある」のですから、キリストを離れてはたちまち偶像の力に飲み込まれてしまいます。 だからこそ、聖霊の導きによって御言葉が御言葉として、しっかりと語られ、日々、その知らされている御言葉の約束にとどまり続けることは欠かせません。私たちはその実践を、『リジョイス』を通して与えられています。 【祈り】 毎日、『リジョイス』によって御言葉をいただいている恵みをありがとうございます。
イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。 (ヨハネの手紙一4章2節) ヨハネの手紙一は、後半に入って特に「公に言い表す」(2、3、15節)こと、「信じる」(1、16節、5章1、5、10、13節)ことが繰り返して語られています。これらの言葉によって、私たちがイエス・キリストがまことの神でありつつまことの人であると、正しく信仰を言い表すこと、告白することが強調されています。しかし、そのような告白、また信じることが、私たちにどうしてできるのでしょうか。それは「神から出た霊」によって可能とされることだとヨハネは語っています。つまり、信仰の告白も信じることも神ご自身の御業です。 ローマの信徒への手紙10章9節には、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とあります。主イエスが肉となって来られたからこそ、死者の中からの復活が起こりました。そのことを信じ、イエスを主と告白したのは、ほかでもない「わたし」がしたことですが、そこに「神から出た霊」が働いてくださったからこそ告白できました。それを神はわたしがしたこととして喜んで受け入れてくださいます。イエスを主と告白するのは、まさにわたしの喜びであり、神の喜びです。 【祈り】 イエスを主と告白する信仰を与えられ、あなたからの霊により確かなものとしてくださったことを感謝します。
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。 (ヨハネの手紙一3章1節) 「わたしたちが神の子と呼ばれる」とは、何とおどろくべきことでしょうか。このことは私たちが神を愛したからではありません。神が私たちを愛してくださったからです(4章10節)。 それでは、これからのことはどうなのでしょうか。「今既に神の子」(2節)と言われていることは確かなのですが、どのようになるかはまだ示されていないと語られています。確かに私たちは皆、自らの将来について多くのことを知ることはできません。しかし、はっきりしていることがあります。それは、「御子が現れるとき、御子に似た者となるということ」です。 「御子に似た者となる」とは同じ者になるということです。主イエスは今、栄光の姿で父なる神の右に座しておられます。私たちはその主イエスが再び来られる日に、「顔と顔とを合わせて」お会いします。そのとき、私たちは御子と似た者、同じ者としていただけます。それは全くの恵み、御子イエスの救いの御業によるものです。 今、私たちはその途上にありますが、導かれることは、はっきりと見せていただいています。それこそが神の子と呼ばれている者の確かさです。 【祈り】 私たちを「神の子」と呼んでくださり、感謝します。そこにあなたの愛をいただき、ありがとうございます。
…書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 (ヨハネの手紙一2章1節) ヨハネが願っていることは、「あなたがたが罪を犯さないようになる」ことです。ところが、「たとえ罪を犯しても」と言われなければならないように、罪との戦いに敗れてしまうことがあるのが私たちの現実です。 けれども、犯してしまったら終わりなのではありません。なぜなら、そこにこそ「弁護者キリスト」がおられるからです。 「弁護者」については、ヨハネによる福音書14章16節でも語られています。そこでは、「わたし」である主イエスが、別の弁護者として真理の霊を父が送ってくださると約束されています。それに対して、きょうのところでは、父のもとにおられるイエス・キリストご自身が弁護者として語られています。 私たちの罪に対する神のさばきはまことに厳しく、それは死に値するものです。だからこそ、その負い切れない罪に対する神の怒りを執り成す弁護者が、父のもとにおいても、私たちのところにおいても共におられます。弁護者であるイエス・キリスト、この方は十字架にかかって私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださったお方です。 罪を犯し、最も神から遠いと思われるところに、弁護者はきょうも働き、執り成してくださっています。 【祈り】 弁護者なるキリストが私たちを忘れることなく、いつも共におられることを感謝します。
御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。 (ヨハネの手紙一1章2節) ヨハネがこの手紙によってぜひ伝えたかったこと、それは私たちに現れた永遠の命です。 永遠の命、それは神が人となり現れてくださった方、イエス・キリストです。この方は初めからあった方、すなわち天地創造の時におられた方ですが、私たちに現れてくださいました。それは、私たちに知ってほしかったからです。 「永遠の命とは」と問うとき、ヨハネによる福音書17章3節は「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語っています。その「知ること」ができるために、「命の言」として現れてくださいました。その言をいただき、直接出会うことのできたヨハネは、何としてもこの方を直接見ていない「あなたがた」に伝えたいとの思いでいっぱいです。 なぜなら、そこに大きな喜びがあることをヨハネは知っていました。ですから、なんとか喜びを共にしたいのです。だからこそ、キリストとの「交わり」(共有するという意味)に、キリストの命を共有して生きることに、人びとを招きます。招きに応えて聖書によって永遠の命の恵みにあずかり、喜びを共にしましょう。 【祈り】 私たちが「永遠の命」をいただくことが許され感謝します。この喜びにきょうも生かされますように。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、…信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネによる福音書20:31) ここに、福音書の書かれた目的が端的に表されています。それは「信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。「信じる」という言葉がここで重ねられています。まるで信じることのなかに、命が約束されていると伝えたいかの如くです。私たちは先週イースターを迎えましたが、19節の弟子たちのように、未だ「信じること」を見失っているかもしれません。そのことに気づかされる御言葉です。 この箇所の前には二つの話があります。一つは、未だイエスの復活を信じておらず、「ユダヤ人を恐れて、…家の戸に鍵をかけて」主日をひっそりと過ごす弟子たちの姿から始まります。このとき、恐れと不安のなかで平和を見失っていたであろう弟子たちに対し、復活の主は「平和があるように」とおっしゃいました。また後半の話では弟子のトマスに対して主イエスが「見ないのに信じる人は、幸いである」と説かれます。 私たちは、真の意味で今年のイースターを迎えたでしょうか。見ずして信じる幸い、平和を、そして命を生きているでしょうか。肉の目では見えない復活の主イエスを見、信じて、主にある平和を生きることへと、リフォームされたいと思います。新しくされ続けたいと願います。 【祈り】 平和を損なう強い現実の生活から守られ、主を信じて生きる幸い、そして平和、命へと導かれますように。
戒めを守って、命を得よ。 わたしの教えを瞳のように守れ。 それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。 (箴言7章2節~3節) 7章では、罪の誘惑に陥ることの恐ろしさが赤裸々に描かれています。ここでは特に男性に対してだけ語られているように見えます。しかし、罪の誘惑は性別、年齢を問わず、誰にでも襲いかかります。そして、私たちは自分自身で誘惑に立ち向かうことはできません。私たちは、誘惑に陥ったことに気づかないことがあると、ここでは語られています。どうしたらよいのでしょうか。どうすれば私たちは誘惑から身を守ることができるのでしょうか。 きょうの聖書は、そのような私たちに語りかけています。鍵は「戒め」、「教え」、つまり神の「御言葉」にあります。御言葉に生きることです。「わたしの教えを瞳のように守れ」と言われます。また「指」や「心の中」についても語られます。 ルターは悪魔の誘惑への最も有効な手段は「笑い」だと言いました。ルターが言った「笑い」とは主イエスの十字架と復活の福音の喜びのことです。御言葉に生きるとは福音に生きることです。御言葉は、神の愛、主イエスの愛を示します。わたしの瞳、指、心まで恵みに満たされます。繰り返し、繰り返し、そのように御言葉を味わい、福音の恵みにあずかっていきます。キリストの愛と平和、そして恵みが刻まれていきます。そのとき、恐ろしい誘惑からも必ず守られます。 【祈り】 主イエスの愛によって、私たちをあらゆる誘惑から守ってください。
モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、二人の息子を連れて…神の山に宿営しているモーセのところに行った。 (出エジプト記18章2節~5節) モーセの妻ツィポラと二人の息子たちは、モーセのしゅうとエトロのもとに送り返されていました。おそらくエジプトとの戦いに巻き込まないようにするためだったのでしょう。このとき、出エジプトが一区切りついたことを聞き(1節)、妻子がモーセのところに連れ戻されたのです。 モーセの息子は、一人はゲルショム、もう一人はエリエゼルです。ゲルショムは、モーセがエジプトからの逃亡場所であったミディアンにいるとき、「わたしは異国にいる寄留者だ」(3節)と言って名付けられました。自分は祖国エジプトを追われて異国の地ミディアンに仮住まいしていると思ったからです。エリエゼルは、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って名付けられました。エジプトが母国ではなく他にあると確信したのです。モーセは、真の故郷は約束の地、乳と蜜の流れるカナンの地にあることを知っていました。その地に一緒に向かわせるため、モーセの家族は連れ戻されたのです。 私たちの国籍は天にあります。復活の主イエスは、私たちの住む場所を用意すると約束してくださいました。その言葉を信じ、私たちも約束の地を目指して進んで行きましょう。 【祈り】 天の父なる神よ、あなたの約束された恵みと祝福にあずかる生活を、たくさんの人びとと経験できますように。
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