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リジョイス聖書日課
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見よ、幸いなのは
神の懲らしめを受ける人。
全能者の戒めを拒んではならない。
(ヨブ記5章17節)
エリファズの言葉は続きます。彼はもはやヨブを慰めるつもりはありません。むしろ神に代わってヨブを裁こうとします。ヨブが神の教育的配慮を正しく受け止めないからです。
エリファズの信じる神は因果応報の神です。すべての出来事には、原因に基づく結果があると考えています。現在の境遇が悪いのは、悪しき原因があるからです。もとを正さなければ望む結果は得られません。ヨブが受けるべきは神の懲らしめです。神がいたずらに苦難をお与えになるはずがないからです。ですから、苦難に遭うときは喜ぶべきです。その人は、神の取り扱いを受けているのです。
エリファズの言葉には一理あります。そうです。確かに神が私たちに苦しみを与えることがあります。キリストを信じる私たちに苦難はつきものです。そしてそのとき、私たちはしばしば神の善き御心を忘れてしまいます。けれども、神は私たちをただ懲らしめるのではありません。苦難をとおして神の愛を示し、憐れみで包むことこそ、神の御心なのです。
神は私たちのためにキリストを与えてくださいました。十字架のキリストを差し出すことで、神は私たちの罪を示されます。十字架のキリストを見て罪を悔いる人に、神は復活の希望を与えてくださいます。
【祈り】
苦難に遭うとき、わたしはあなたの御心を忘れてしまいます。御手を伸べて守ってください。アーメン
「人が神より正しくありえようか。
造り主より清くありえようか。 」
(ヨブ記4章17節)
三人の友人がヨブを慰めるために集まってきました。しかし、信仰深いヨブを知っているだけに、彼らは怪しむのです。ヨブは罪を犯したので神に打たれているに違いない。
慰めるつもりのエリファズは言います。「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか」。
エリファズの言うことは正しいのです。確かに、人は神より正しくありません。しかし、彼の語る正しい言葉は、彼自身もヨブも救いません。
ヨブに厳しいことを語るエリファズは、自分が正しいと思っています。しかし、果たしてそうでしょうか。彼は自分の語る言葉で自分自身を計ってみる必要があります。人の愚かさは、とどまるところを知りません。自分が正しいと確信して、罪を犯します。人を慰めるつもりで、傷つけてしまいます。誰がこんな私たちを救ってくださるのでしょうか。
私たちはお互いに罪深い者です。わたしは大丈夫という過信はどこから来るのでしょう。友人が間違っていると思うのなら一緒に罪を悔いれば良いのにできません。自分の目にある丸太に気付かず、他人の目のおがくずが気になって仕方ありません。
人を救うのは神の言葉です。人となられた神の言葉、イエス・キリストの義だけが私たちの救いです。
【祈り】
主よ、罪深いわたしをお忘れにならず、憐れみをもって救っ
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
(ヨハネによる福音書4章14節)
主イエスは今、伝道の旅に疲れ、喉の渇きを覚えて、一人、井戸のそばに座っておられました。そこに、サマリアの女性が人目を避けて水を汲みに来ました。「水を飲ませてください。」主イエスは、こうして彼女に語りかけ、彼女の隣人となられます。
確かに彼女も、礼拝を誇りとする信仰者でした。しかし、その礼拝には、魂を真に潤す「生きた水」が欠けていたのです。なぜなら、「生きた水」とは、イエスを信じ、イエスをとおして神を礼拝することだからです。
彼女は、「わたしを信じなさい」と招かれたイエスの内に、約束の救い主を認めました。その瞬間、水がめを置いたまま町に戻り、人びとに主イエスのことを語り始めました。それはまるで、主イエスが、タブーであった男性から女性へ、ユダヤ人からサマリア人へという隔てを、軽々と乗り越えてしまわれたかのようにです。
律法学者でもなく、男性でもなく、罪深いと見なされていた彼女の証言によって、サマリアの人びとはこぞって主イエスのもとに招かれ、イエスを救い主と信じるに至りました。
真の礼拝をする人とは、主イエスを通して神を礼拝する人です。教会が礼拝に生きるとき、その恵みは、教会の内にとどまらず、本人はもとより、地域社会をも潤し、変えてゆく泉となって湧き出します。
【祈り】
主イエスよ、御国の進展のために、わたしをあなたの泉としてください。
すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
(詩編117編1節)
この117編は、2節しかなく、150の詩編の中でもっとも短い詩編です。113編から118編までの「ハレル詩編」に含まれ、ユダヤ教の祭り、特に過越祭で歌われる賛美の歌でもありました。主イエスも、最後の晩餐の後に、弟子たちとこれらを歌ったであろうと想像します。
この詩編は二つのことを歌っています。一つは、すべての国、すべての民に対して、つまり、神の民イスラエルだけではなく、異邦人に対しても賛美を呼びかけています。聖書の神、まことの神への信仰が、イスラエルだけではなく、全世界に広がるべきだという神のご計画が、ここには反映されています。このような思いは、後のキリスト教会の福音宣教の広がりにもつながっています。
もう一つは、主なる神の「慈しみとまこと」をほめたたえる信仰者の感謝の告白です。慈しみとまことに基づく神の救いの働き、それを知るからこそ、信仰者は、心からの感謝と賛美を神にささげるのです。
そのように短いながらも力強いメッセージを持つ詩編ですので、ジュネーブ詩編歌の117編を礼拝の中の「頌栄」として用いている教会もあります。この詩編をどのように用いるにしても、同じ信仰の思いに立ちつつ、共に主を賛美しましょう。
【祈り】
神よ、全世界にキリストの福音が広がり、すべての人が、あなたの慈しみとまことをほめたたえますように。
わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
(ヨブ記3章3節)
3章のヨブは、まるで人が変わったかのように思えます。神を呪うことはしませんが、自分の生まれた日を呪っています。命は神から来ます。ですから、命が与えられた日を呪うとは、神に異議申し立てをするのと同じようなことです。
しかし、ヨブを非難できるでしょうか。家族や財産を奪われ、我が身にも満足なところはありません。絶望するのも当然です。神を信じるからこそ嘆きが深まる、とも言えます。
それにしてもヨブの嘆きは深く、もはや人にはこれを受け止めることができません。旧約聖書では、新約聖書で示される復活信仰はまだ明確でなく、死後に希望を見いだせないのに、死の方がまだましだと言います。彼の嘆きがいかに深いかを思います。
この箇所から励ましや慰めを得ることは難しく思われます。だからこそ言わねばなりません。神を見失ってはなりません。苦しみの中で、神と格闘せねばなりません。苦難がどこから来るかと言えば、神から来るからです。神のあずかり知らない苦難はないからです。
ヨブの呻きは神へと向かいます。これが信仰者の、神との正しい関わりです。私たちの祈りは神へと向かうべきです。神は私たちのいかなる祈りも受け止めてくださるからです。
【祈り】
主よ、嘆きは深く、わたしに力はありません。どうか最後までお支えください。主の御名により、アーメン
「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
(ヨブ記2章10節)
ヨブは今、どこまで神を信じ続けることができるかと試されています。ヨブを苦しめているのはサタンです。しかしヨブは、我が身に災いを受けても、神のなさることは最善であると告白します。神だけを信じています。
サタンは、ヨブが神を呪わないのは、彼自身の身が傷ついていないからだと言います。家族を失うことと我が身が傷つくこと。どちらがより大きな苦しみとなるのか。サタンにはよく分かっていないようです。
再び神の許可を得て、サタンはヨブの骨身に害を加えます。それでもヨブは神を呪いません。神のなさることは最善であると信じるからです。そして神は、わたしの苦しみを知っておられると信じるからです。
神はサタンがヨブに手を出すのをお許しになりました。しかし、彼の命にまで触れることは認めません。神の子の失われることは、神の願うところではないからです。
父なる神は、家族を失う悲しみを知っておられます。独り子キリストを十字架に架けられたからです。神は私たちの苦しみ、悲しみを知っておられます。神はサタンとは異なり、私たちの心をよく知っておられます。神が私たちに与えてくださるのはキリストの救いです。神の善き御心を疑わずに受け止めましょう。
【祈り】
主なる神よ、わたしの苦難を知り、救い出すためにキリストを与えてくださり、感謝いたします。アーメン
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」
(ヨブ記1章21節)
ヨブ記は、正しい人、義人がなぜ苦しむのかを問うています。問われるのは義人の苦しみだけではありません。人の苦しみを見ておられる神は義しいのかと神の義を問うています。
ヨブは神を畏れる正しい人でした。そんなヨブを評して、サタンは言います。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」。これは鋭い指摘です。私たちも改めて、なぜ神を信じているのか考えてみる必要があります。祝福の神を信じているだけなら、災いに遭うときに信仰を失ってしまうかもしれません。いや実際のところ、信仰者には苦難がつきものではないでしょうか。どうしてあなたは、それでも神を信じているのでしょうか。それは神の恵みとキリストの救いを知るからではないでしょうか。
サタンがヨブを苦しめます。しかし、サタンは神の許可無しには何もできません。言い換えれば苦難には神の支配、すなわち摂理があります。
ヨブは本当に耐えがたい苦難に遭います。それでも神を賛美します。このような信仰は、なかなか持つことができません。しかし私たちは、「神よ、何故ですか」と叫んで良いのです。神に叫ぶのは、苦難の背後に神が居られると信じることだからです。
苦難に遭うとき、神に向かって叫びましょう。神が私たちの叫びを受け止めてくださるからです。
【祈り】
主よ、わたしの叫びを受け止めてくださり感謝いたします。アーメン
ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。…彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。
(エステル記10章3節)
エステル記の結びの章は、大国を治めるクセルクセス王の偉大さを記すことから始まります。この偉大な王から栄誉を与えられたモルデカイを強調するためです。神に仕えたモルデカイは、このようにして大いに高められたのでした。
こうして高められたモルデカイは王に次ぐ地位であり、なおも王に仕える立場にあります。この王は、決して理想的な支配者ではありません。しかし、モルデカイは、その王に仕える者であり続けます。同時に彼は、高められたその地位を用いて同胞の民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束しました。他者の幸せのために、そして仲間と子孫たちの平和のために、彼はその地位と権威を用いて彼らに仕えました。
神に仕える者の歩みは、他者に仕える歩みでもあります。これはキリストの地上のご生涯にそのままあてはまります。偉大な神の独り子であられるお方は、父なる神にお仕えになられました。そして十字架に至るまでへりくだって仕えることで、私たちの幸福を追い求め、平和を約束してくださいました。この恵みをいただいて神の民へと高められた私たちもまた、兄弟姉妹に、そしてすべての人びとに、仕える者とされているのです。
【祈り】
キリストの恵みによって神の民とされた私たちを、人びとに仕える者とならせてください。
王国の諸州にいる他のユダヤ人も集合して自分たちの命を守り、…仇敵七万五千人を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。
(エステル記9章16節)
アダルの月の13日は、ユダヤ人が敵を滅ぼす日となりました。この日に要塞の町スサで滅ぼされた者の数は500人に達しました。エステルは、翌日もまた同じ勅令を行えるよう王に願い、許可されます。翌日には、ハマンの息子たちが木につるされます。スサでさらに300人が殺されました。王国の諸州にいる他のユダヤ人たちも、仇敵7万5千人を殺しました。
ユダヤ人たちの行為は残虐なものに見えます。確かに多くの人びとが殺されました。この事実は、それだけユダヤ人たちを脅かす敵が多かったことを示しています。しかし、ユダヤ人たちは、滅ぼした者の持ち物には手をつけませんでした。そこにあるのは、残虐に殺して敵から奪い取る強盗の姿ではありません。過度に命が失われることを避けようとする神の御意志です。それは旧約の時代の感覚からすれば、驚くべきものです。この常識外れの御心に従う神の民の姿の先に、敵をも愛されるキリストのお姿を私たちは見るのです。
神の民を滅ぼそうとする敵は、本当に多いのです。それでもなお、私たちはキリストに従う者です。敵の滅びではなく命を求めて、きょうの一日を歩みだしてまいりましょう。
【祈り】
命を守られるあなたの御意志に従う民として、きょうの一日を歩みださせてください。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)
このとき、主イエスを知らない人はいても、ニコデモを知らない人はいなかったと思われます。彼は、優れた律法の教師、最高法院の議員でした。誰よりも早く、主イエスの中に神の働きを認め、訪ねて来たのです。
ところが、主イエスは彼に向かって、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、つまり、あなたはそのままでは神の国に入ることも永遠の命を得ることもできない、と言い切られたのです。厳しすぎる、と同情したくなるかもしれません。
しかし主イエスは、律法学者たちに共通する根本的な過ちをご覧になっていました。彼らの聖書理解は、合理的、理性的でしたが霊的ではなかったからです。自分の理解を絶対化することも、偶像礼拝だからです。
十字架のイエスを、「自分の救いのためである」と信じなければ、神との交わりに生きること、すなわち永遠の命に生きることはできません。
ですから主イエスは、十字架に赴かれる覚悟をもって、彼を霊による信仰へと招くために、語りかけられたのです。やがて彼は、十字架の上に掲げられたイエスを仰ぎ見て、悟ることになります。「ああ、これほどまでに、私は愛されていたのか」と(19章39節参照)。
主の愛と救いの物語は、彼が自分の立場や恥を顧みず、主イエスに問いかけたところに生まれたのです。
【祈り】
ニコデモの罪からお守りください。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から
助け出してくださった。
(詩編116編8節)
詩人が、死を覚悟するほどの苦難を経験する中で、祈り叫びつつ主の御名を呼んだとき、主はその祈りの声を聞き、突き落そうとする者から助け出してくださいました(8節)。そのような素晴らしい救いを体験した詩人は、主に心からの感謝を献げます。どんなに苦しみや不安に襲われるときにも、主を信頼して主の御前に歩み続けようと歌います。
私たちの日々の歩みの中でも、さまざまな苦難を体験することがあります。そのような中で、弱り果ててしまうことがあるかもしれません。人の欺きに失望し、不安に襲われ、死の脅威にさらされることもあるかもしれません。そのような中で、私たちも主の御名を呼びたいと思います。主は必ず私たちの嘆き祈る声を聞き、必ずその祈りに応えてくださいます。私たちを必ず守り救ってくださる主を信頼してその御名を呼び、心からの礼拝を献げたいと思います。
その答えはすぐには見えないかもしれません。「わたしの叫びは本当に届いているのだろうか」と思うこともあるかもしれません。しかし、私たちのためにすでに十字架の上でご自身の命を献げてくださった主イエスが、私たちを救ってくださらないはずがありません。生涯、私たちは、主の御名を呼びましょう。ハレルヤ。
【祈り】
憐れみ深く、情け深く、正義を行われるあなたを信頼し、生涯あなたの御名をほめたたえます。ハレルヤ。
主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
(詩編127編1節)
2026年、日本キリスト改革派教会は創立八十周年を迎えます。この聖書日課においても、ひと月に一度、「宣言」へと思いを向けることにいたしましょう。まずは、1946年四月29日に採択された「創立宣言」です。
「終戦後既に九ヶ月」に生きる教会は「今次の大戦に当りては、宗教の自由は甚だしく圧迫せられ、我等の教会も歪められ、真理は大胆に主張せられざりき」という告白に立ちます。その悔い改めに立つ教会は「純正なる宗教の上にのみ健全なる文明は築かれたり」という確信のもとに「敗戦祖国の再建」という大志を与えられました。二点の主張をもってです。
第一点は、「此の有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の確なる基礎なり」という主張です。「『何事をなすにも凡て神の栄光を顕はす事』」を以つて至高の目的」とすること、「我等の熱心此処に在り」。
第二点は、「神のみ明かに知り給ふ所謂『見えざる教会』」を「一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活と」において「一つの見える教会として具現」することです。それは決して分派を作るのではない、源清く且つ正しき教理を堅持する「唯一の公同教会の枝」として生きることです。
「神よ願くば汝の栄光を仰がしめ給へ」、そう高らかに叫ぶことで、私たちの教会の歩みは始まりました。
【祈り】
「神よ…汝のみを我等の神、我等の希望と仰がせ給へ。…アーメン」
自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。
(エステル記8章11節)
エステルとモルデカイは、ハマンによるユダヤ人絶滅の文書を取り消そうとしています。しかし、王の印を押された文書は取り消すことができないことが8節で判明します。そこでモルデカイがとった方法は、新たな文書によって、ハマンの文書を上書きすることでした。
モルデカイの出した文書の内容は11節以下に記されています。その内容は、一見すると過激な復讐を容認しているように見えます。しかし、3章13節にあるハマンの文書と比較すると、必ずしもそうではないことが分かります。ハマンの文書においてユダヤ人の絶滅は命令であり、対象に制限はありません。これはハマンのユダヤ人に対する敵意を反映しています。一方、モルデカイの文書は、命令ではなく許可です。その対象は、自分たちを迫害する民族や州の軍隊です。あくまで自衛の範囲に留まっています。ここに示されているのは、自らに向けられた敵意を、敵意で返さない神の民の姿勢です。この姿勢は、十字架のキリストに示された敵を赦される神の愛につながっています。
敵意を神の愛で上書きすることは簡単ではありません。キリストの十字架によって赦された私たちこそが、それをなすことができるのです。
【祈り】
世にあふれる敵意をあなたの愛によって覆う者と、私たちをならせてください。
こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。
(エステル記7章10節)
7章で、エステルが催した酒宴において、彼女は同胞であるユダヤ人の命を救うべく、自らの望みを王に打ち明けました。王には犯人に心当たりがなかったようです。誰がそのようなことをたくらんでいるのかとの王の問いに、エステルは「この悪者ハマンでございます」と答えます。一連のやり取りを経てハマンは、自分がモルデカイをつるすために立てた柱に、自らがつるされることとなりました。こうして王の怒りは治まりました。
ここですべてが丸く収まったかのように見えます。しかし、物語はここでは終りません。なぜならユダヤ人絶滅のためにハマンの出した王の勅令が、まだ有効だからです。怒りが治まったとはいえ、自己保身に熱心な王はいつ気が変わっても不思議ではありません。同胞のユダヤ人はまだ危機の中にあります。エステルのなすべきことは続いていきます。
私たち神の民は、神の守りの内にあります。ゆえにハマンのような敵を、神が滅ぼしてくださることもあります。しかし、敵の滅びを喜んで終わるのが神の民の物語ではありません。なお命の危機の中にある人びとがいます。その人びとに神の救いが実現することを求め続けるところに神の民の歩むべき道があります。
【祈り】
敵対者の滅びを喜ぶ者ではなく、命の危機にある人びとの救いを求める者とならせてください。
「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」
(エステル記6章13節)
自らが受けたいと願っていた栄誉をモルデカイに与えるようにと、ハマンは王に命じられました。彼は激しく嘆きます。彼は、誰よりも自らが栄誉を受けることを望んでいました。まして自分がモルデカイに栄誉を与えなければならなかったのですから、彼の嘆きは相当なものだったことでしょう。
ハマンは、そのことを妻ゼレシュや親しい友達に話します。彼らは以前、ハマンと思いを共有し、一緒にモルデカイを殺す計画を立てていた人びとです。しかし、ここではそっけない態度です。彼らは自らを守るために、もはや力を失いつつあるハマンと距離を取ろうとしています。ハマンからすれば、自分の力に陰りが見えた瞬間に、仲間と思っていた人びとが離れていってしまうように思えたかもしれません。自らのつまずきで簡単に揺らいでしまう人間関係が、ここにはあります。
私たちが揺るぎない神の愛の内に生きるとき、そうではない関係を結ぶことができます。自分は誰かよりも優秀か否か、自分は他者にとって役に立つか否か。そういったことを超えて、互いに愛しあうことができる。それが、神の民とされた私たちが互いに結ぶことのできる関係です。
【祈り】
共にあなたに救われた私たちを、互いに愛し合う関係で結び合わせてください。
しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれを見て、怒りが込み上げてくるのを覚えた。
(エステル記5章9節)
神の民であるユダヤ人を滅ぼうそうとしたハマンは、神への敵対者と言ってよいでしょう。その彼が、王と共にエステルの酒宴に招かれました。そのことに、彼は上機嫌です。しかし、王宮でモルデカイを見たとき、一転して彼の心は怒りで満たされました。彼の人柄は、家に帰った際の言動に表れています。素晴らしい財産、大勢の息子、王から賜った栄誉、自分の栄進。このような他者との比較が、彼の生き方の土台でした。他者よりも偉大な自らにひれ伏さないモルデカイは、彼にとって自らの土台を脅かす存在です。彼はモルデカイを見るたびに、自らの栄誉がすべてむなしいものに感じたのでした。
このように他者との比較を土台として生きようとするとき、他者の評価や他者の行動に左右される不安定な生き方にならざるを得ません。
それに対して神の民は、決して変わることのない神の愛の中で生きることができます。たとえ自らが弱く、他者と比べて劣っているように見えたとしてもなお、私たちに注がれている神の愛は揺らぐことはありません。キリストの十字架が、その確かな証拠です。決して変わることのない神の愛の中で生きることができる。それが神を信じる私たちに与えられている確かな恵みです。
【祈り】
弱い私をなおも揺らぐことなく愛してくださるあなたの愛に、心から感謝いたします。
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
(マタイによる福音書4章4節)
主イエスは公のご生涯を始められる前に、悪魔からの誘惑を受けるために荒れ野に行かれました。それは、私たちが日々、私たちの荒れ野でどのように生きるのかを示すためでした。荒れ野での誘惑の場面で、主イエスは悪魔の巧妙な攻撃に対して、御言葉の力で応答されています。
空腹の中でパンの誘惑を受けられたときには、神の子としての超自然的な力を用いることもできましたが、主イエスは申命記の言葉を引用して立ち向かわれました。
「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉は、私たちの日常の優先順位が何であるかを問いかけます。物質的な必要に心を奪われがちな現代において、神の御言葉こそが真の糧であることを思い起こさせてくれます。主イエスが三度の誘惑すべてに御言葉で答えられたのは、私たちへの模範です。
試練や誘惑に直面するとき、私たちもまた、神の御言葉に立ち帰る必要があります。御言葉は私たちの足のともし火、道の光となり、サタンのどのような攻撃からも守ってくれる盾なのです。日々の御言葉への信頼と従順こそが、勝利ある信仰生活の秘訣です。私たちの真の日ごとの糧である御言葉に信頼しましょう。
【祈り】
主イエスのように、御言葉の力によって歩むことができるよう助けてください。日々の糧として御言葉を慕い求める者としてください。アーメン
わたしたちではなく、主よ
わたしたちではなく
あなたの御名こそ、栄え輝きますように
あなたの慈しみとまことによって。
(詩編115編1節)
かつて捕囚の苦難を経験した神の民は、目に見える誇りをすべて奪われ、異邦人から「彼らの神はどこにいる」と嘲られ、辱めを受けました。そのような苦難の中で、詩人は国々の偶像にはるかに勝る、主の御名こそが栄え輝きますようにと祈ります。
主は慈しみ深く、どこまでも契約に真実であられ、御自身の民を決して見捨てることをなさいません。主は人間の手が作った空しい偶像とは違い、天地の造り主であられます。この生けるまことの神を知り、主に依り頼む者は、何者をも恐れる必要はありません。主は天におられてすべてを支配しておられます。そして主がわれらの盾となり、必ず守り助けてくださるからです。詩人は主の祝福を祈り求めつつ、このような主なる神を知っている私たちこそ、何があっても主をたたえようと、苦難の中で呼びかけるのです。
私たちの日々の現実のただ中におきましても、耳をすませば、ハイテクの偶像に依り頼む者のあざけりの声が聞こえてきます。富と権力を手中に収めた神を知らない者たちは、神のようになろうと高ぶり、命の尊厳をふみにじり、弱き者を搾取します。そのような今、イエス・キリストの神を知る私たちこそ、主をたたえましょう。ハレルヤ。
【祈り】
主よ、偶像に依り頼み「神のようになろう」とする者たちの高慢を打ち砕き、ご栄光を現してください。
「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
(エステル記4章14節)
モルデカイはエステルに、命をかけて王に嘆願するよう求めます。彼女がこの決断をしなければ、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こるとモルデカイは言います。選びの民であるユダヤ人を、神は必ず救ってくださる。この確信が、モルデカイにはあります。
選びの民の解放と救済の実現は、御言葉によって示されている神の確かな御計画です。それをふまえて、モルデカイは言葉を続けます。このときのためにこそ、あなたは高い地位に導かれたのではないか。この神の御計画に従う決断を、今こそしなければならない、と。この決断に、エステルが王妃にまで導かれた神の目的が示されます。
キリストの十字架によって救われた私たち一人一人にもまた、神の御計画と目的があります。私たちはしばしば、自らが救われた事実のみに満足してしまいます。しかし、大切なことは、救われたわたしを神がどのように用いて、悲惨の中にある人びとの救済と解放を実現されるか、です。救済と解放をもたらす神の御計画と御業に加わるよう、私たちもまた招かれています。
この招きに応える決断をして一歩を踏み出すとき、わたし自身の人生に確かな意味が生まれるのです。
【祈り】
あなたに従う決断をしてきょうを歩みだす私たちを、あなたの救いの御業に用いてください。
急使は王の命令を持って急いで出発し、要塞の町スサでもその定めが公布された。スサの都の混乱をよそに、王とハマンは酒を酌み交わしていた。
(エステル記3章15節)
ユダヤ人を根絶やしにする。このハマンの計画が順調に進んでいます。彼はクセルクセス王のところに行きます。そして、一つの独特な民族を、王の法律に従わないことを理由に根絶やしにすることを進言します。
このハマンの進言に対する王の反応は、「その民族はお前が思うようにしてよい」というものでした。積極的に同意するのではなく、無関心な態度です。他者に対するこの無関心さが、ここに記されている王の特徴です。それは15節において、スサの都の混乱をよそに、王がハマンと共に呑気に酒を酌み交わしている様子に表れています。
ユダヤ人に対するハマンの告発は、真実に基づかないものです。神の民に対するこのような理不尽な悪意は、いつの時代にもあります。しかし、それを助長し、実行に移させたのは、その悪意に対する無関心です。自分に被害が及ばなければよい。他の人びとの命が失われようが関係ない。このような無関心さが、理不尽な悪意による悲惨をもたらします。
私たちのできることは限られています。それでもなお、今まさに命が奪われようとしている人びとへの無関心を、乗り越えてまいりましょう。そこから、命を救われる神の御業はなされていくのです。
【祈り】
自分以外の誰かに悲惨をもたらす理不尽な悪意への無関心を、私たちの心から取り去ってください。



