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説教・聖書メッセージ「みちことば」
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2026年3月1日大斎節第2主日 聖餐式高齢の信徒さんが真冬に教会に来られるのを見ると、祝福された気がします。また教会内外で色んなストレスを抱えながらも礼拝に来られる信徒さんもそうです。その人の信仰を通して、私もその人と神さまとの交わりに与かる気がします。祝福された気がします。創世記で「神になろう」とした人類は、大地と子孫を罪と死の囚われとしてしまいました。呪いが人類に入りました。しかし神は呪われた人類をさえ愛し、呪いを祝福で塗り替えようとされました。それがイスラエルです。主はアブラハムを選び、約束されました。彼を祝福の基にすると。彼を通して大地と全ての氏族は祝福される。人を祝福する存在にする。この神の約束だけを頼りに、アブラハムは75歳で故郷を捨てました。祝福とは、究極的には神との交わりそのものです。(現代イスラエルは祝福の基どころか呪いの基となり果ててしまいました。)しかし律法を守って主のみを愛することができなかった子孫は再び罪と死の呪いの中に入ってしまいました。しかしそれでも神は見捨てません。イエスさまは真のアブラハムとなり、ただ父を頼り、父との交わりに頼って生きました。アブラハムの使命を成就し、呪いを塗り替えました。そしてついには自分の命を与える、という祝福を十字架と復活で成し遂げられました。人間の呪いを祝福で塗り替えました。私たちもまた、ニコデモのようにキリストを「信じて永遠の命を得て」新たになり、この祝福の民、父アブラハムの子孫となったのです。この世の全ての地と氏族に祝福を与える民です。「そんな滅相もない」と謙遜することを神は望みまれません。神はあなたを祝福の基、源、道具、器、指先として用いたいのです。アブラハムのように主に信頼すれば、その信頼を通して神との交わりの祝福が人に及びます。例えば大切な人が病気のときや、死に面するとき、信仰が試されます。悲しくて泣いて弱気になって普通ですが、最後には復活の主を信じて、委ねて、祈りましょう。祝福の基となって、しっかりと信じて祈り歌うことで、ご本人に安心と慰めが伝わります。聖餐で司祭が祝祷をするように目の前の人を祝福しましょう。私たちは「祭司の王国」で(出19:6)、「祭司として仕えさせて下さることを感謝します」(聖餐式)。祝福共同体です。どんな否定的な思いや呪いにも負けず、主の交わりの祝福を信じて、神の祝福を広げていくように呼ばれています。 「あなたは祝福の基。私を信じることで、目の前の人を祝福しなさい。」
2026年2月22日大斎節第1主日 聖餐式 自殺防止の傾聴ボランティアをしていたとき、よく「悪魔の誘惑」を受けました。それは活動後です。「自分は善いことをしてやった、話を聴いてやった」と思い上がる時です。本来は感謝と、ご本人の今後を祈るべきですが思い上がる機会となるのです。創世記では、いまだ死を知らない人間は「善悪の知識の木から食べるな。死んでしまうから」と神に忠告されます。しかし悪魔(蛇)にそそのかされ、「成りあがりたい」欲望を抑えられず食べてしまいます。倫理的には「善悪を知る」ことは必須です。子どもにも教えなければなりません。「やっていいことと、悪いことがあるでしょ!」しかし霊的には、つまり神との関係においてそれは「神のようになる」ことであり、神を不要として自分を神とし、神の命の交わりから離れ、自分に囚われて死ぬことです。神から離れると死ぬのです。霊的に言うと「自分が善いか悪いか」は自分で判断するものではなく、その判断は神に委ね、神に決めて頂くことで生かされるのです。それが詩篇32編の「罪を告げる」懺悔です。アダムもイブも罪を誰かのせいにして、自分は悪くない、と言い張りました。自分が判断して神に委ねていません。しかし本来は「私は罪を犯しました」と認めて、その自分に対する判断と審きを神に委ねるのです。「こんな失敗をした私について、主よ、あなたが判断してください」と。そうすれば愛の神は赦されるのです。「あなたは罪人だ、しかしそれでも、善い」と。人間をやり直すキリストは、荒野の誘惑で善悪の判断を父に委ねて頼りました。「神の言葉で生き」「神を試さず」「神に仕え」ました。(マタイ4章) そして苦しみ死んでいく自分の人生の判断も委ねました。「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)だからこそ復活して神の判断と裁きに生かされたのです。「復活によって力ある神の子と定められました」(ロマ1・4)人生の良し悪しは分からないものですし、分からないままでよいのです。大斎の祈りで、そして最期の日にも、判断は神に委ね、神に裁いて頂き、生かされましょう。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」「分からないままでいい。委ねよ。あなたをよしとするのは私だ。」
2026年2月22日大斎節第1主日 聖餐式 自殺防止の傾聴ボランティアをしていたとき、よく「悪魔の誘惑」を受けました。それは活動後です。「自分は善いことをしてやった、話を聴いてやった」と思い上がる時です。本来は感謝と、ご本人の今後を祈るべきですが思い上がる機会となるのです。創世記では、いまだ死を知らない人間は「善悪の知識の木から食べるな。死んでしまうから」と神に忠告されます。しかし悪魔(蛇)にそそのかされ、「成りあがりたい」欲望を抑えられず食べてしまいます。倫理的には「善悪を知る」ことは必須です。子どもにも教えなければなりません。「やっていいことと、悪いことがあるでしょ!」しかし霊的には、つまり神との関係においてそれは「神のようになる」ことであり、神を不要として自分を神とし、神の命の交わりから離れ、自分に囚われて死ぬことです。神から離れると死ぬのです。霊的に言うと「自分が善いか悪いか」は自分で判断するものではなく、その判断は神に委ね、神に決めて頂くことで生かされるのです。それが詩篇32編の「罪を告げる」懺悔です。アダムもイブも罪を誰かのせいにして、自分は悪くない、と言い張りました。自分が判断して神に委ねていません。しかし本来は「私は罪を犯しました」と認めて、その自分に対する判断と審きを神に委ねるのです。「こんな失敗をした私について、主よ、あなたが判断してください」と。そうすれば愛の神は赦されるのです。「あなたは罪人だ、しかしそれでも、善い」と。人間をやり直すキリストは、荒野の誘惑で善悪の判断を父に委ねて頼りました。「神の言葉で生き」「神を試さず」「神に仕え」ました。(マタイ4章) そして苦しみ死んでいく自分の人生の判断も委ねました。「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)だからこそ復活して神の判断と裁きに生かされたのです。「復活によって力ある神の子と定められました」(ロマ1・4)人生の良し悪しは分からないものですし、分からないままでよいのです。大斎の祈りで、そして最期の日にも、判断は神に委ね、神に裁いて頂き、生かされましょう。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」「分からないままでいい。委ねよ。あなたをよしとするのは私だ。」
2026年2月15日大斎節前主日大斎節が始まります。食生活の節制を定めましょう。平日は節制し、日曜に復活を祝い、大斎節を祈り守っていきましょう。「戒め」を守る、それが命に輝く道です。主イエスさまは受難の前、山上で顔から光を放ちました。これは新しいモーセを示しています。神はモーセを通して私たちの祖先を奴隷の国から解放し、シナイ山で十戒を与え、その実践によって結びつきを強くしました。直後の箇所での雄牛の血で結ばれた契約です。モーセの顔が光を放ったのは、律法を守り主と結ばれて生きるとき、人間は最も輝くからです。戒めを守るのは自力の「自己義認」ではありません。主と結びつき、契約が強められ、自らが神に生かされて光り輝くことです。「あなたの言葉は私の道の光、私の足の灯火」(詩編119:105)です。主教エイレナイオスは教えました。「神の栄光とは、善く生きた人間である」神と人は競合しません。人間が最も神に従うとき、私たちは最も自由になり、最も輝くのです。しかし律法を守らず契約を裏切り、先祖は罪と死の捕囚に堕ちました。顔は暗闇の穴となりました。それでも神は愛し続けました。神自ら人となって私たちの代表、私たちの代わりとなりました。そして神の愛の律法を教え、自ら愛を貫き、新しいモーセとなって光を放ち、十字架と復活に至るまで父の律法を守りました。そしてその従順を通して、悪から最も解放された自由な人間となり、光り輝いたのです。そしてご自分の血によって新しい契約を誓われました。この契約によって罪が赦され、内なるキリストの力で戒めを守り「主と同じ姿で」顔から神の光を放つのです。「安息日を守る」ように主日礼拝を守る信徒、「隣人を愛しなさい」とイヤな人にもニッコリする信徒、「むさぼってはならない」と、嫉妬を抑えて足らない自分を受け容れる信徒は光り輝いています。「私の新しい契約の血」を飲み、主と結びつき、光を放ちましょう。「光を放て。私の力で戒めを守り、神に生かされ、人間らしくなり、光を放て。神の光、人間の光を。」
2026年2月1日顕現節第4主日
2026年1月25日 顕現後第3主日
2026年1月18日 顕現後第2主日
2026年1月11日 顕現後第1主日 主イエス洗礼の日皆様の親御さんはどうだったでしょうか。しんどい時に実家に帰ると「太一が帰ってきた!」と母はたこ焼きを作ってくれ、父は酒を飲みつつ一緒にいてくれます。社会で(教会で!?)どれだけ働けていてもいなくても、たとえ精神病院に入院してもしなくても、自分のことをかけがえのない存在として手放しで喜んでくれます。それが新たに働く原動力にもなります。洗礼とは、かけがえのない子として神に手放しで喜ばれるしるしです。私たちの洗礼はイエスさまの洗礼に与かります。天の声がその喜びを表します。「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタ3:17)直訳では「私が喜びとする」です。このイエスさまの洗礼と使命はBC540年頃の「バビロンのイザヤ」の喜びに与かるものです。「見よ、私が支える僕、私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」(42:1)当時、国は滅び、民は捕囚にあり、苦しみと絶望のなか、救い主の到来が預言されました。それは民の罰を代わりに苦しみ、民を捕囚から救い出す「苦難の僕」です。それは最終的には570年後のイエスさまでした。私たちの「病と痛み」を代わりに負い、私たちを罪と死の捕囚から解放しされたのです。イエスさまは、苦しみを肩代わりするという使命を果たす前に、父に喜ばれました。「あなたは私の喜び!」これが受難を耐え抜く原動力となったのです。「私は父の喜び」。そして自らが「かけがえのない喜び」とされた洗礼体験は、弱者をガサツに潰さず、丁寧に包む使命となります。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さず。」(42:3) 十字架で私たちの弱さを引き受け、私達を生き返せます。かけがえのない喜び、それは私たちの周りの傷つき消えそうな人です。私たちは洗礼で、イエスさまと同じように父から「私の喜び!」と言われたのですから、同じように弱い人の存在を「神の子」として喜び、丁寧に包み、守り、救いましょう。それが「公正」です(42:3)。洗礼を感謝しましょう。あの時そして今も、あなたは神の喜びです。そしてイエスさまの公正の働きに加わり、主と一体になりましょう。ただし全ての働きの根源は、働く前に、働いた後に、または働けなくなった後も残る神さまの喜びです。毎主日、神の喜びを確認しよう。「あなたは私の喜び! 」
2026年1月4日 降誕後第2主日 映画「ペリリュー」は1万2千人のうち34名が生き残った奇跡、と悲劇を描きます。貫く思いは「日本に帰りたい、家族に会いたい」という帰還の願いです。「天皇陛下万歳、鬼畜米英、生きて虜囚の辱めを受けず」は大義名分なだけで、二十歳の青年たちにはやはり「お母ちゃん!」です。「お母ちゃん!」と叫んで死んでいき、「お母ちゃん!」と夢見ては軍部の洗脳を乗り越、奇跡的に帰還を果たしました。預言者エレミヤは紀元前587年にユダ王国が滅ぼされ、民がバビロンに拉致されていく絶望の只中で希望を預言しました。罪の報いの期間が終われば、神は地の果てから民を連れ帰る。そして「大いなる集団がここへ帰ってくる」と。故郷への帰還です。エレミヤは預言成就の前に死にましたが、50年後に民は故郷に帰還します。民は「神が連れ戻してくれた」と嬉し涙を流して主を賛美しました。しかしエレミヤの預言はこの世的な帰還では終わりませんでした。本当の預言成就はその570年後になったのです。神が人となることで、人が神に帰る道が開かれました。天と地が「キリストのもとに一つにまとめられた。」(エフェ1:10) イエスさまに結ばれることで、私たちは死と罪と病との戦場から解き放たれて、天の父なる神のみ胸に帰っていけるのです。死ぬことを「帰天」するとも言います。人は天の父の御心によって生まれ、この世で喜び楽しみ、よく働き、または罪と病と死と闘い、最後には魂の故郷である天の父へと帰っていく旅です。イエスさまはその道の同伴者、道そのものです。もちろん独りだけ地上から離れて帰って行くのではない。地上のあらゆるものを、苦手なあの人も、神は「大いなる集団として」引き連れて天に帰ります。そのとき地は天に満ち、天は地を招き入れ、天と地は大きな喜びのうちに交わるのです。聖餐で 「心を神に」と地上に生きる心を天に上げるとき、私たちは少しずつ天へ帰っていきます。イエスさまと一体になって、愛する人たちを一体になって、天に帰っていく。泣きながら死んでいったペリリューの青年たちも、共に、帰って行く。「天のお父ちゃんのところに帰ろう! 私が必ず連れ帰ってやる。」
2025年12月28日「み子と共に神のことされますように」降誕後第一主日特祷
2025年12月25日 「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」ヨハネ1:14
2025年12月24日イブ礼拝
2025年12月21日 降臨節第4主日 クリスマス礼拝「しるしを求めなさい」 イザヤ書 7・11
2025年12月14日 降臨節第3主日「萎えた膝を確かにせよ」 イザヤ35・3
2025年12月7日 降臨節第2主日「狼は子羊と共に宿り」イザヤ11・6
2025年11月30日降臨節第1主日「剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とし」イザヤ書第2章4節
2023年11月23日子ども祝福式
2025年11月16日「あなたがたは惑わされないように気をつけなさい」ルカ21:8
「ほかならぬこの目で見る」 ヨブ記19・272025年11月9日 聖霊降臨後第22主日(特定27)生まれた息子と初めて目を合わせた時、私は「生きててよかった」と思いました。笑顔で話す母の目を見て「生きていてくれて嬉しい」と思います。見つめ合うことは生きている喜びを鮮明に感じさせます。だから「もう見つめ合うことができない」死は悲しいのです。復活はこの肉眼でありありと見つめ合う喜びを回復すものなのです。 ヨブ記のこの箇所は葬送式で読まれます。ヨブは「義しい人」でありながら財産と家族と健康を奪われ、酷い皮膚病に苦しみ、友人から責め立てられていました。そんななかで彼は「死ぬ前にこの目で神と見つめ合い、自分の無実を訴える!」と叫んだのでした。そして実際に嵐の中で、肉眼でありありと、神と見つめ合ったというのです。 ここには「今ここでこの身をもって生きている自分」として神を見る希望、愛する人と見つめ合う希望があります。「この身この目」とヨブが自分の身体性を強調するように、復活は死後の世界の非物質的な幻ではなく、自分の肉眼でありありと見つめ合う生きる喜びです。私たちはヨブのこの希望を復活信仰として受け継ぎます。 復活信仰の根源は主イエスさまの復活です。主は十字架刑のあと復活し、弟子たちに現れ、肉眼でありありと弟子たちと見つめ合いました。お互いにどれだけ嬉しかったことでしょう。死を超えて「今ここで」生きている喜びが教会の初めです。 ヨブのように今この世で見つめ合えなくとも、死んで骨が土に返って何億何兆年経っても、復活の日私たちは、人知を超えた新しい、しかし「ほかならぬこの目で」見つめ合います。神とそして愛する人と。この世で愛する人と見つめあった事実は決して失われません。復活の日に再び見つめ合い、喜ぶのです。 葬送式でこの聖句を聞く度に神が、あの人が、再会の希望を語るのを聴きとりましょう。「復活の朝、肉眼でありありと、見つめ合おう。そして喜び合おうよ。生きててよかった!」
「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」 ルカ福音書6・212025年11月2日 諸聖徒日聖餐式・逝去者記念の祈り




