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天理教の時間「家族円満」
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天理教の時間「家族円満」

Author: TENRIKYO

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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。
408 Episodes
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アリガトウ大作戦 岡山県在住  山﨑 石根 今年の夏休みに、小学5年生の末娘が歯医者で舌の手術をしました。きっかけは舌小帯と呼ばれる、舌の裏側についているヒダが短いと、小学校の健診で指摘をされたことでした。 歯医者を受診すると、確かに舌を前に出そうとしても口からあまり出ておらず、これから学校で英語などを学ぶ際に発音が難しくなるだろうからとの理由で、手術することを勧められました。 さて、彼女の手術は朝イチでしてもらいました。もちろん麻酔をしているので手術中は痛くないのですが、「麻酔が切れると今日一日は痛いでしょう」とのことで、痛み止めの薬と抗生剤を処方して頂きました。また、食事は刺激のあるメニューは避け、柔らかいものを食べるように助言を受けました。 ところが、彼女は昼食も夕食も痛くて何も食べられなかったのです。 昼には妻がフレンチトーストを作ってみましたが、本人は口を動かすのも痛いようで昼食はあきらめました。夕食では、「それを牛乳に浸しながら食べたら飲み込めるかも?」と挑戦しましたが、やはり無理でした。お腹が空いているのに食べることが出来ず、とても辛そうで、私たち夫婦も切なくなりました。 その日の夜、私は末娘に、病の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぎました。神殿の参拝場にて妻も一緒にお願いをさせて頂いた後、私は娘に「かりもの」の話をしました。 天理教では、誰もが自分のものであると思って使っているこの身体は、親神様のご守護と共に私たち一人ひとりに貸し与えられた「かりもの」であると教えられます。そして、心だけが自分のものであり、自由に使うことをお許し下さっているので、神様にお喜び頂ける心遣いが大切になります。 私はこの大事な教えを末娘に分かるように伝えた上で、「こうして身体が自分の思い通りに使えなくなった時こそ、普段、当たり前のようにご飯が食べられていたことの有り難さを確認して、感謝したいよね。実は、ととも今から20年以上前に、ご飯が食べられなくなった時があるんで~」と、自分の体験を話しました。 平成13年6月17日、私は人生で初めて入院を経験しました。その2、3日前から発熱と喉の痛みがあって、次第に声が出なくなり、食べ物や飲み物が喉を通らず、ついには唾すらも飲み込めなくなりました。 当時、妻とはすでにお付き合いしていたのですが、心配して一人暮らしの私の住まいに看病に来てくれた彼女とは、筆談でしか会話が出来ませんでした。そしていよいよ限界が来て、大きな病院を救急で受診して検査をすると、白血球の数値が20,000を超える危険な状態ということで、緊急入院となりました。 翌朝、痛み止めの薬を飲み、何とか3日ぶりに食事がとれたのですが、さっそく午前中に扁桃腺を切開する手術のような処置がされました。診断名は「扁桃周囲膿瘍」という扁桃腺に膿がたまる症状で、切開で膿を排出することが必要でした。 その処置の痛いの何の! 処置の後も痛み止めを飲んだのですが、あまりの痛さに昼食は一時間かけても口に入らず、結局ほとんど残すことになってしまいました。 このような苦い体験を末娘に説明しながら、私は5日間の入院中、大勢色んな人たちがおさづけを取り次ぎに来てくれて嬉しかったことや、その時にみんながたくさん神様のお話を聞かせてくれて有難かったことなどを伝えました。 とりわけ面白くて心に響いたのは、私の母、娘にとってはおばあちゃんの話。「おじいちゃんとおばあちゃんと、ととの妹がすぐに岡山から駆け付けてくれて、やっぱり神様のお話をしてくれてね。最後におばあちゃんが、『あ んたはいっつも返答せんから、扁桃腺が悪くなるんやで』って言ったんで~」と言うと、それまで辛そうにしていた娘も、ようやく笑顔になりました。 病気や困りごとは神様からのお手紙だと聞かせて頂きます。当時の私は実際に親から、教会の月次祭へ参拝するよう、信仰姿勢を問いかけられていたのに、仕事の忙しさを理由に返答できていなかったのです。 毎日、当たり前のように会話ができ、ご飯が食べられ、お水が飲めたこと。この当たり前の中にどれほど神様のご守護があふれていたかを思い知らされた私は、日々感謝の心を忘れず、しっかりと参拝をしなければならないと決心したのでした。 さて、小5の娘には早すぎるかなぁと迷いましたが、思い切って彼女に尋ねてみました。 「あんたは今回、お口のことで神様からお手紙をもらいました。ととと同じようにご飯が食べられなくて困っているけど、どんなお手紙やと思う?」 普段から勘の鋭い彼女は、すぐに何かを察したようです。そして照れくさそうに、「口が悪い」と呟いたのです。我が娘ながら、お見事です。 そうなんです。5人兄弟の末娘なので、彼女はいつまで経っても一番下です。なので、何とかお兄ちゃんやお姉ちゃんに対抗しようとするあまり、ここ数か月、彼女の言葉遣いの悪さは目に余るものがあり、幾度となく私たち夫婦から「最近、口が悪いで」と注意されていたのでした。 あまりにも注意され過ぎて、さすがに心当たりがあったのでしょう。いいチャンスだと思って問いかけてみると、彼女も笑いながら反応してくれたので、ホッとしました。 「じゃあ、神様のお手紙にお返事を書いて喜んでもらうには、どうしたらいいかなぁ?」と、一緒に考えようとすると、「ありがとうをいっぱい言う!」と、素敵なアイデアを出してくれました。 「いいねぇ!アリガトウ大作戦やね!」 翌朝、無事に痛みも引いた娘は、有り難さを噛みしめながら、朝ご飯を食べることが出来ました。 大人の私もそうですが、誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れます。でも、親神様は365日24時間、休むことなくご守護下さいます。だからこそ、毎朝、毎夕のおつとめで「ありがとうございます」という感謝の気持ちを届ける必要があると思うのです。 どうか、娘の大作戦が一日でも長続きしますように…。 だけど有難い「非常識」 初めに、少し頭の体操をしてみたいと思います。まず、数字の一から九までのうち、どれか一つを選んで、頭のなかで思い描いてください。次に、その数字に三を足してください。それに二を掛けてください。そこから四を引いてください。そして、二で割ってみてください。最後に、その数字から、自分が最初に頭に思い描いた数字を引いてください。いくつになりましたか? 答えは一です。 実は、どの数字を選んでも答えは一になるのです。面白いですね。なぜ面白いのかといえば、選んだ数字は違うのに、結果は全部一つになる。常識を少し覆しているからです。 考えてみると、私たちが信仰しているお道の教えも非常識です。「身上・事情は道の華」と先人たちは言いました。けれども、病気や事情のもつれで悩んでいる人にとってみれば、とんでもない話です。身上・事情は不幸の種というのが常識であって、それを「華」などというのは、全くの非常識なのです。 徳積みや伏せ込みで運命が変わる。「人たすけたら我が身たすかる」とも教えられます。でも常識では、人をたすけたら人がたすかるのです。わが身がたすかるわけがない。非常識なのです。こうしてみると、お道の話はどれも非常識なのです。そして、この非常識が正しいかどうかは、実はやってみないと分からない。ですから教祖は、わざわざ五十年も自ら「ひながたの道」を通られて、私たちが分かるようにお遺しくださったのです。 どんなに美味しい物も、食べてみないと分からない。どんなに楽しいスポーツも、やってみないと分からない。お道の教えも、まさに「やってみないと分からない」のです。 今年も年の瀬が迫ってきました。お集りの皆さんは、今日ここに参拝させていただける体力があって来られたわけですから、病気で苦しんでいる人も含めて、私はまだまだ結構だと思います。 世間には、果たして新年を迎えられるだろうかと、病気に苦しんでいる人や、諸々の事情を抱えて悩んでいる人がたくさんいると思います。さらに本人だけでなく、家族、親族、友人など、一緒に悩んでいる人がいることでしょう。どうか、そんな人にもぜひ、たすけの手を差し伸べていただきたい。 自分はこうして元気に、教会に参拝してお礼をさせていただける。それで良しとせずに、そうした人たちに、たすけの手を差し伸べていただきたい。たすけるのは神様ですから、「とても自分はおたすけなんてできない」というような心配は要らないのです。神様にお任せして実行していけば、やがて気がついたら、自分も神様から大きなご褒美を頂戴していたということになってくるのです。 「人たすけたら我が身たすかる」という教えは、いま世の中の常識ではありません。しかし、お道を通る私たちは、この教えが〝世界の常識〟になるように、教祖のご期待にお応えする働きをさせていただきましょう。 (終)
たすけてもらう力 埼玉県在住  関根 健一 ある日の朝、テレビの情報番組で「受援力」というテーマを特集していました。 援助を受ける力と書いて「受援力」。地震大国と言われる日本ですが、その名の通り阪神・淡路大震災以降、全国各地で数年おきに大規模災害が起こっていて、そのたびに支援の仕組みが見直されてきました。受援力とは、そんな背景の中で注目され始めたキーワードだそうです。 災害対策の取り組みの中で「自助、共助、公助」という考え方があります。東日本大震災のように広範囲で大規模な災害が発生した時、いくら準備をしていたとしても、行政の支援である「公助」はすぐには機能しないことが多いのです。 ですから、まずは自分の力で自分の身の安全を確保するための「自助」。次に、行政の支援が届くまで身近な人とたすけ合う「共助」という考え方を元に、万が一の時に備えておくことが一般的になってきました。 そうした流れの中で、共助、公助を行う際には、誰にどんな支援が必要なのかを把握することが必要になりますが、実際は自分の困った状況を伝えられない人がたくさんいるという現状に直面するそうです。 「たすけてください」「こんなことで困っています」。言葉にすると簡単に言えそうですが、命からがらたすかった後の極限状態では、混乱しているのは当然です。しかも周囲にもたくさん困っている人がいる中で、「私より困っている人がいるのに、この程度のことでたすけてとは言えない」と思ってしまうのも無理はありません。 さらにその番組では、「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されることも要因の一つではないか?」と投げかけられ、生活保護を受けられるのに受けない人がいることなども、同じような問題ではないかと触れられていました。 テレビを観ながら、娘が通う特別支援学校のPTA会長をしていた頃に依頼され、「障害のある子供たちの『たすけてもらう力』を育む」というテーマで、教育委員会の機関誌に寄稿したことを思い出しました。 その内容は、「一般の小学校で、教育方針に『生きる力を育む』と掲げているのをよく目にします。でも、特別支援学校に通う児童・生徒の中には、食事や排泄など、生きるための必要最低限の行為にも人の手を借りなければならない子供が多いのです。彼ら彼女らが『生きる』には、『たすけてもらう』ことが欠かせないのです。だから、生きる力を育むことは、「たすけてもらう力を育む」こととも言えるのです」 大体こんな感じの内容でした。また、この時に「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されること」の弊害について言及したことも覚えています。 発達障害のある人は、あいまいな言葉のニュアンスを読み取ることが苦手です。「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」と声をかけたとしても、「その〝何か〟が何を指すのか分からない」となってしまうことがあります。 「お腹が空いてますか?」「夜眠れますか?」など、具体的に聞いてくれればイメージ出来るのですが、支援者や相談者が必ずしもそうした配慮をしてくれるとは限りませんし、すべての行為を例に挙げて聞いていくわけにもいきません。 災害時に限らず、障害のある人たちは日常からそうしたコミュニケーションによる弊害を抱えているのです。裏を返せば、障害のある人たちにも理解しやすいように、たすけてもらう力を引き出す問いかけが出来るなら、災害に直面した時にもスムーズなコミュニケーションが期待出来るのだと思います。 その番組を観た日の夕方、夕づとめで「おふでさき」を拝読し終えると、ふと、   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) というおうたが浮かびました。テレビで「たすける」「たすけられる」という言葉を耳にしていたせいかもしれません。 私たち天理教の「ようぼく」は、「つとめ」と「さづけ」の実践を通して、親神様のご守護、教祖のお働きを頂くことが使命です。この行いを私たちは「おたすけ」と呼びますが、人間をたすけるのは、あくまでも親神様のご守護であり、私たちようぼくはおたすけの主体ではありません。 言い換えると、私たちようぼくが行うおたすけとは、「親神様にたすけてもらうための手段を伝えることである」とも言えると思います。 敢えておたすけを先ほどの災害の例に重ねるならば、 「自助」は、おつとめやひのきしんを自らつとめること。 「共助」は、教会に運んで教理にふれたり、会長さんのお諭しを聞いたり、信者同士で研鑽を積むこと。 そして、その先に「公助」として親神様のご守護、教祖のお働きがあるのだと思います。 ですから、「たすけるもよふばかりをもてる」と仰る親神様のご守護を頂くために、私たちは自らおつとめやひのきしんに励み、教会に尽くし、運ぶことが大切なのだと、テレビの話題から改めて教えて頂いた気がします。 教祖140年祭のこの旬。「親神様にたすけてもらうための手段」を自ら実践し、広めていけるように心がけたいと思います。 手の使い方 神様が私たち人間にお与え下された身体の働きの中でも、手は特別に優れた器官です。実に器用で重宝で、何でもすることが出来ます。そして、そこに心を込めることで、その仕事がさらに生きてくるというのが肝心な点です。手作り、手当て、手料理、手縫い、手加減などの言葉は、いずれも心を込めて手を使っている姿を表しています。 教祖中山みき様「おやさま」は、幼少の頃から大変手先が器用で、月日のやしろとなられて後、五十歳を過ぎた頃からはお針の師匠をなされ、近所の子供たちに裁縫を教えられました。 明治十六年頃のこと。梶本ひささんは、ある晩、一寸角ほどのきれを縫い合わせて、袋を作ろうと、教祖の手ほどきを受けていました。そうして袋は出来上がったのですが、この袋に通す紐がありません。すると教祖が、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられ、器用にそれを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下さいました。 教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へちょいちょいお越しになり、その度に、家の子や近所の子にお菓子を入れて持って来て下さったのです。(教祖伝逸話篇124「鉋屑の紐」) また、そのように器用に手先を使われることは、監獄署に拘留されている時でも変わることなく、不要な紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。 そして、お供の者にそれをお渡しになり、「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ」と仰せられました。(教祖伝逸話篇138「物は大切に」) どれだけ手に心を込めているかは、ほんのちょっとした動作にも表れるものです。教祖は、お屋敷にいる者に糸紡ぎの用事を出した時、その出来上がったものを三度押し戴かれるなど、そのお手はいつでも心と共にありました。 そして、よろづたすけの手立てとして教えられた「おつとめ」の手振りに関しては、しっかりと手に心を込めるように、特に厳しくお諭し下されています。 「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで」(教祖伝 第五章 たすけづとめ) 普段からいかに心を込めて、大事に手を使わせて頂いているか。それが、「命の切換」とまで言われるおつとめのつとめ方にも、大いに関わってくると言えるのではないでしょうか。 (終)
たすかるとは? リキゾウさんとの日々 千葉県在住  中臺 眞治 今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。 昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。 10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に4度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる?」と声をかけられます。 私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。 到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。 リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。 元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。 一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。 扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。 そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。 帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。 リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。 余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。 リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く言葉はありませんでした。 そんなある日、リキゾウさんは倒れ、救急車で運ばれたのです。脳梗塞でした。幸い一命は取り留めたものの、歩くこともしゃべることも出来なくなってしまいました。 私は何とか元のような状態にご守護を頂きたくて、毎日入院している病院へおさづけに通いましたが、容態は変わりませんでした。それから二週間ほど経った頃、看護師さんから「病院として出来る治療はここまでですので、退院の準備を進めてください」と言われました。 治療はして頂きましたが、リキゾウさんは寝たきりで起き上がることが出来ず、口はろれつが回らず、なかなか言葉を聞き取れない状況でした。 一番不安なのはリキゾウさん本人のはずですが、当時の私はそのようなリキゾウさんを教会で受け入れる覚悟が出来ず、父に電話で相談をしました。すると「とにかく明日おさづけを取り次ぎに行くから」と言って、翌日千葉の教会まで来てくれました。 おさづけの直前、父がリキゾウさんに「今、修養科に行かせてあげたい人が二人いるんだけど、二人ともお金がないから、代わりにその費用を出してあげてくれませんか?」と尋ねました。するとリキゾウさんは、うんうんと二回うなずき了承したのでした。 父がおさづけを取り次ぎ、少し話をして帰った後、私はリキゾウさんに「なんで費用を出してあげようと思ったの?」と尋ねました。その費用は、リキゾウさんの貯金からすればかなり大きな金額だったからです。するとリキゾウさんは声をふり絞って、「本当は自分がおぢばに帰りたいけど、もう帰れないから」と答えてくれました。 自分自身が苦しい中で、おぢばを思う気持ち。人のたすかりを願う気持ち。そのリキゾウさんの気持ちに私は感動しました。そして、これからどんな生活になってしまうのだろうかという不安でいっぱいでしたが、病院からの帰り道で父に電話をし、「できるところまでリキゾウさんの介護をさせてもらおうと思う」と伝えました。 翌朝、病院から電話がかかってきました。「急に容態が良くなったので、家には戻らずリハビリ病院に転院しましょう」とのことでした。 驚いて病院に行くと、そこには元のように立って歩いているリキゾウさんがいました。しかも言葉も元通り話せるようになっていました。私は感激し、「神様だね」と伝えると、リキゾウさんは大きく何度もうなずきながらボロボロと涙していました。 その後、数カ月間のリハビリ病院での生活を経て、教会に帰ってきたのですが、教会に着いた途端に号泣。おぢばがえりをした際には、神殿を見ただけで号泣。私にとっても忘れられない思い出です。 退院後のリキゾウさんは、すっかり別人のように変わっていました。以前のように腹を立てる姿はなく、「ありがとうございます」とお礼を言ったり、「どうもすいません」と相手を思いやる言葉を使うようになりました。私が神様の親心について話をすると、いつも大きくうなずきながら涙する、涙もろくて穏やかなおじいちゃんに変わっていったのでした。 以前のリキゾウさんは、とても苦しい人生を生きてきたせいか、「神様なんていない」と空しく語る人でした。 ですが、病と不思議なご守護を通して、「この世は神様の慈愛に満ちている」と感じるようになり、その思いに心が満たされていったのだと思います。 リキゾウさんは5年前、78歳で出直しましたが、生まれ変わったリキゾウさんとどこかで出会い、また一緒に一杯飲みたいな、と願う今日この頃です。 調和とバランス 私たちが生きていく上で必要不可欠なことは、何ごとによらずバランスを保つことです。 たとえば、健康に暮らすということは、身体の中の働きのバランスが、ほどよくとれているということですね。食べ物を体内に取り入れ、体内のあらゆる臓器がうまく機能して、取り入れたものをエネルギーにする。そのエネルギーを消費して、運動をしたり勉強をしたり、働いたりする。その出し入れのバランスがうまくとれている状態が、健康であることの証しです。 家庭で言えば、家族がお互い仲良くたすけ合い、支え合って暮らすのが、まさしく健康的な家庭、調和の保たれたバランスのよい家庭です。 そして生きていく上で大切なのは、目に見えるものと、目に見えないものとのバランスです。ところが私たちはややもすると、目に見えるもの、形あるものにしか価値を見いだせずに、目に見えない「心」や「精神」といったものを軽く見てしまいがちです。 それはひと言で言えば、「自分さえ良かったら、今さえ良かったら」というエゴ・利己心からくるものです。しかし世の中の調和を保ち、また自分自身が幸せの道を歩むためには、自らのエゴを抑えて、人様のため、社会のためという選択肢を選ぶことが、バランスを保つために必要なことなのです。 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、  「人をたすけてわが身たすかる」 と教えてくださいました。 まさにこの教えこそ、調和とバランスの大切さを教えてくださっています。私たちが目指すべき「陽気ぐらし」の世界は、人をたすける精神がなければ成り立たない、ということであって、これが揺るぎない天の理だと思うのです。 (終)
心の姿勢を正そう 東京都在住  松村 登美和 先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。 女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。 すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。 その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。 ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。 記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。 自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。 しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。 人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。 人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。 以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか?」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。 そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか? では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。 先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。 天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。 人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、他の考え方が出来にくくなる。切符の間違いに気づかないのは、自分は常に正しいという心の使い方が染みついた結果、と言えるかもしれません。 また、教祖はある日、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰ったことがあります。 伊蔵さんというのは、後に親神様のお言葉を伝える立場になられた、飯降伊蔵という方です。伊蔵さんは大工を生業としていたので、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を作りました。すると教祖は「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と仰せられ、続いて「隙がありませんか」と、仰せになりました。 伊蔵さんが定規にあててみると、果たして隙があります。「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下されたというお話です。(教祖伝逸話篇 31「天の定規」) 人間の目では真っ直ぐだと思っていることでも、神様から見れば、必ず狂いがある。自分はいつも正しいと思っていても、神様から見ればそうではない。 自分の身体を鏡に映して姿勢を正すように、自分の考えが本当に正しいのか、親神様の教えに自分を照らし合わせて考えてみる。それができれば、人はお互いにもっと幸せになれるはずだと思います。 徳の器を広げる 日常の行動に、その人の癖・性分が現れるのは当然の営みです。例えば、地域のごみ出しの現場においても、その行動は実に十人十色。ごみ袋をポーンと投げるように置いていく人もいれば、後から来て、人が置いていった袋をきちんとネットに被せる人、回収された後にごみ捨て場を掃除する人など様々です。 よその家のごみ袋を整理したり、ごみ捨て場をきれいに掃除する人などは、まさに教祖が教えられた「見えない徳」を積んでいる姿だと言えるかも知れません。 『教祖伝逸話篇』に、次のような逸話があります。 「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな』と、仰せになった。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』と、お答え申し上げた」(教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」) 徳には「目に見える徳」と「目に見えない徳」があります。見える徳は物などの形として、あるいは現象を通して知ることができます。欲しい物が思いがけず手に入ったり、お店でサービスをしてもらったりすれば、誰でも得した気分になりますよね。 しかし、この逸話では、その時だけの見える得よりも、見えない「徳」を頂く方が余程ありがたいのだとお教え下さいます。 では見えない徳は、どうしたら積めるのか。それは、いつでもどこでも人様に喜ばれるように一生懸命努めることではないでしょうか。先の身近なごみ捨て場の行いもそうですが、たとえ人目にふれない目立たないようなことでも、心を込めて行うこと。そうすると神様は必ず見ておられますから、少しずつ徳を与えてくださいます。 そして、さらに徳の器を広げる方法は、教祖のお心を学ぶことです。 教祖は、立教当初「貧に落ち切る」道中を歩まれる中、娘さんの「お母さん、もう、お米はありません」との訴えに、 「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」 と諭されました。 教祖は、無かったらすぐに買っておいでとか、近所から頂いてきなさい、というようなことは一切仰いません。ただ親神様からのお与えを、深くひたすらに喜ばれたのでした。 無いことを嘆いたり、「あれが欲しい、これが欲しい」とむやみに求めたりせず、「与えを喜ばせて頂こう。これで結構、結構」こういう気持ちに心底切り替わることで、徳は増えていくのではないでしょうか。 (終)
「TENRI」文化を世界へ              フランス在住  長谷川 善久 最近、私が住むフランスでも日本の移民政策について良く耳にする機会が増えました。これから日本社会が、話す言葉が必ずしも同じではない人々をどのように受け入れていくのか、興味深く見守っているところです。 私が日本人からよく受ける質問に、「フランス語は難しいですか?」というのがあります。私はいつも決まって一言だけ「難しいです」と答えるのですが、すると大概の人が「そうだろうな」と残念そうな表情をします。 そこで私はひと呼吸おいて、「けど、フランス人とコミュニケーションを取るのは楽なものですよ」と続けます。そして「日本人以外の人でも、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣きますから」と、分かり切ったことを、あえて深い真理かのように伝えます。 ある研究によると、他者とのコミュニケーションで伝わることを全部で100%とすると、そのうち口から出る言葉自体が伝達できるのは、約10%だといいます。つまり、言葉の内容以外の表情、身振りや手振り、話し方や口調などが九割を占めるということになります。 実際私自身も、その割合はともかく、言語コミュニケーションの有効性に限りがあるという説には、経験からしても確かに一理あると思っています。 かくも人間関係とは、コミュニケーションに依存する度合いが高いのですが、その関係が良好であれば、人は他者に対する恐怖心が薄くなり、安心感、幸福感が高まります。その上で、海外生活において言語能力以上に大切だと思う点をあえて二つ挙げるなら、それは相手との違いに興味を持つこと。そして先入観を捨ててオープンに相手を理解しようとする姿勢です。 そこに教祖から教えて頂いている「誠真実」の実行があれば、たとえ外国人との間で、少々言葉による障壁や誤解などがあっても、全く恐れるには足りません。 天理教の『信者の栞』には、このようにあります。 「誠真実というは、たゞ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません」。 積極性をもった対人関係、人と自分を区別しない心。自己の利害や保身を捨て去った行動は、間違いなく言葉のやり取りを超えた万国共通の心のつながりをもたらしてくれます。 フランス・パリの中心地に、天理教本部によって設立された「天理日仏文化協会」があります。現地では利用者から「TENRI」と呼ばれ、親しまれている文化センターです。 現在は、活動の中心である日本語教育以外にも、日本の伝統文化や美術、音楽などの紹介もしており、年間の会員数は1000名を超え、民間の日本文化関連団体としては、フランスで最も知られている団体です。 この「TENRI」センターの運営は、現地の布教所長3名が中心となっており、20名を超える未信者の職員を抱えています。それに加えて現場実務の上で重要な役割を担う存在として、天理教本部の青年会、婦人会が実施する「海外日本語教師派遣プログラム」で、日本語教師として二年間派遣されてくる若者たちがいます。 授業は全て日本語で行われるものの、フランス語が決して上手ではない派遣生らは、授業外での学生との意志の疎通に苦心しているのが現状です。それでも不思議なことに、出張所で信仰生活をしながら文化協会で教師として勤める彼らのクラスでの評判は、いつの時代の派遣生もトップクラスなのです。 フランス語が上手く話せないことへの不安に対して、私がいつも彼らに話すことがあります。 「君たちはフランス語が上手く話せるわけではない。上手い人をうらやましいと思うかも知れない。しかし、言葉がよく出来ることが悪く作用することだってある。それは、言語能力が高ければ高いほど、自分の本心を隠して、相手をごまかすことが出来るという点だ。君たちは言葉が上手く話せないのだから、真実の心一つで対応するしかない。否が応でも心を磨かせてもらえる、こんなチャンスはないよ」。 日本にいれば言葉巧みにごまかせるようなことも、フランスではそれが出来ないのですから、精一杯心を尽くして誠実な対応をするしかないのです。 こうして、今まで味わったことのない環境に戸惑いながらも、彼らが自分自身の内面性について深く見つめ直し、心を鍛える努力を続けるうちに、人間として大きく成長していく姿をこれまで幾度も見てきました。不自由さに負けない努力を積んだ先で、自然と心に力がついていったのです。 また、外国で暮らしていると、それまで考えても見なかったことに気づかされることが多々あります。 例えば日本語の特性についてもそうです。ある時友人から、他人をけなしたり非難するフランス語の日本語訳を聞かれたことがありました。友人は次から次へとフランス語の単語を出してくるのですが、私の日本語訳は五つもすれば、あとは毎回同じものになってしまいました。日本語には、人を非難する語彙が少ないのです。 また、会社に勤めながら日本語を学んでいる女性に、「なぜ日本語を勉強しているのですか」と聞いたところ、「日本語で話をしている時の方が、普段フランス語で生活している自分よりも、穏やかで優しい人になれている気がするんです」と、全く予想もしない答えが返ってきたこともあります。 非難する言葉が少ないことや、話すだけで気持ちが優しくなるなど、日本語の新しい面が感じられ、誇らしく思いました。 天理教の教祖「おやさま」はいつどんな時も、子供に対しても、どのような人に対しても、いつも優しい言葉遣いであったと聞きます。日本語自体が持つ特性がどうあれ、私たちはいつ誰に対しても優しい言葉を投げかけ、自分の心にも優しさが満ちていくように努めたいものです。 ある日、文化協会の来館者の一人から、「TENRIセンターに入ると、何だか空気が澄んでいるような気がする」と言われたことがありました。不意な言葉にその場は聞き流してしまいましたが、後からじわじわと喜びが湧いてきました。 これからも天理日仏文化協会は、教内の理解と支援を頂きながら、もっともっと心に安らぎと優しさが湧きあがる「陽気ぐらしの場」であり続けたいと願っています。 だけど有難い「心の健康」 平成二十九年の総務省の発表によると、日本で九十歳以上の人が初めて二百万人を超えて二百六万人になったそうです。これはすごい数字ですね。いまから十三年前の平成十六年に、初めて百万人を超えました。それからわずか十三年で百万人増えて、ほぼ倍になったことになります。 さらに遡って昭和五十五年、いまから約四十年前に、九十歳以上の人がいったい何人いたと思いますか。わずか十二万人です。それがいまは二百六万人。ものすごい増え方だと思いませんか。私たちの世代からすると、生きている間の出来事です。その間に、十二万人が二百六万人になったのですから、すごい変化です。 平均寿命も延びて、厚生労働省の発表では、男性は約八十一歳、女性は八十七歳。どちらも世界第二位とのことです。第一位は両方とも香港ですが、人口が少ないですから、実質は日本が〝世界一〟と言えるでしょう。 しかし、喜んでばかりもいられません。寿命には「健康寿命」というものがあります。これは、健康で元気に暮らせる平均年齢です。日本人では男性七十一歳、女性七十四歳。ということは、単純に男性は平均寿命の八十一歳までの十年間、女性は八十七歳までの十三年間は、病気をしているという話です。つまり、長生きになったけれど、その分、病気をしている期間も長いということが言えそうです。 元気で長生き、これは結構です。病気で長生き、果たしてこれはどうなのか。九十歳以上の人が増えたといっても、そのなかには、ベッドの上でただ死ぬのを待っているような状態の人、大変な病気を抱えて長年苦しんでいる人、周りの人の介護のおかげでなんとか生きている人、あるいは体は元気だけれども、家族に先立たれ、友人や知人もみな先に逝ってしまい、孤独で嘆き悲しんでいる人など、さまざまな人がいると思います。ですから、二百六万人が九十歳を超えたのは確かにすごいことですが、必ずしも喜んでばかりはいられないのです。 二、三日前に、ガンの患者が百万人を超えたと発表がありました。同時に、日本人の二人に一人はガンになるとも述べられていました。九十歳以上の二百六万人のなかにも、ガンで苦しんでいる人はかなりいるのではないでしょうか。そう考えると、二百六万という数字は、表面上は幸せな数字であるけれど、悲しい数字も含まれているということになります。 私が今日お話ししたいのは、「心の健康」についてです。健康寿命というけれど、それは体の話です。一番大事なのは心の健康です。九十歳まで、いきいきとした心で生きているかどうか。実は、これが一番大事なのです。私たちは、どんななかも喜んで通ることのできる「陽気ぐらし」の心づかいを知っています。こんな有難いことはないのです。九十歳まで長生きする人が増えたといっても、それを「有難い」「結構や」と喜んで通っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。これには統計がありません。 有難いことに、私たちは、心いきいきと生活させていただける術を教えていただいている。そのことを、しっかり喜ばせていただいて、報恩感謝の実践に励ませていただきましょう。(終)
親孝行ってありがたい 福岡県在住  内山 真太朗 以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学3年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドOBの私に連絡をしてきてくれたのです。 しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか?」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。 その年の5月、親子3人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで3人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。 次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます!」と二つ返事で参加してくれることになりました。 本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。 天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。 9月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。 え?あれだけ感動してたのに、どうして?と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。 「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。 私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。 私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。 「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。 「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」 正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。 よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、神様にお喜び頂ける道を通ろう。たとえこの子がおぢばの高校に行かなくても、せっかくつながったこの道から切れないように願い、まずは自分が親の思い、神様の思いに添わせて頂こうと、思い定めることが出来ました。 結果的に彼女は天理教校学園へは行かず、神奈川県にあるマーチング強豪校に進学、卒業後はアメリカのマーチングバンドに所属し、数年間活躍しました。 それから数年が経ち、久しぶりに彼女から連絡がありました。 「お久しぶりです。実はこのたび日本に帰ってきて、結婚することになりました。相手は、同じようにアメリカのマーチングバンドで活動していた日本人の男性です。 一緒に日本に帰ってきて、結婚を約束して、彼の両親のいる埼玉の実家にご挨拶に行ったんですが、その彼の家が天理教の布教所だったんです!」 お相手の彼も実家が天理教の布教所だということを、家に行くまで話していなかったそうですが、いざ来てみると、彼女は参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来る。少年ひのきしん隊で教わった女鳴物も出来る。彼の両親もびっくりしていたそうです。 この教えでは、「親への孝行は月日への孝行と受け取る」と言われます。私自身が親へ、神様へと真剣につなごうと心を入れ替えたら、神様が彼女をこの道につながるように導いて下さったのです。 その後、彼女は別席を運び、天理教の布教所子弟の彼と結婚しました。そして数年後、彼女から連絡がありました。「お久しぶりです。実は今月から修養科に入りました」と言うのです。 話を聞くと、結婚生活の中で色んな葛藤や戸惑いが出てきた。そんな時、かつて参加したこどもおぢばがえりや少年ひのきしん隊での楽しかったことや、そこで神様の教えを学んだ思い出がよみがえってきた。そんなおぢばで3カ月間勉強出来たら、自分の中で何かが変わるかも知れない。そう思って修養科を志願したと言います。 「私がこんな思いになれたのは、中学3年生のあの時、おぢばに誘ってくれたお蔭です。いま修養科でとっても充実した日々を送っています。本当にありがとうございます」と言ってくれました。 お礼を言いたいのはこっちだよ。よくぞ修養科に行ってくれた。よくぞそのように思ってくれた。 人をたすけよう、導こうとするならば、直接手を差し伸べることはもちろん、まずは自らができる親孝行に励み、神様の思いに添わせて頂くことが大切なのです。根っこを疎かにしては、花は咲きません。 私は、彼女との関わりを通して、そのことを実感させて頂きました。 忘れていいこと悪いこと 物事には、忘れた方がいいことと、決して忘れてはならないこと、この二通りのものがあります。 忘れた方がいいのは、人のためにしてあげたことや、反対に人から不愉快な目にあわされたことなどです。他方、忘れてはならないのは、神様や自然から頂いている豊かな恵み、人から頂いた恩恵などです。 これは簡単なことではありません。日常生活を省みると、私たちは案外この反対のことばかりやっているような気がします。人を少しばかり手助けしてあげたことをいつまでも心に留めて、「あいつはお礼の一つもしない」と、恩着せがましいことを言ったりする。また、人に対する恨みがましい気持ちを、長年持ち続けたりするものです。 そして一番いけないのは、神様や自然から頂いている恩恵を忘れ、さらには人から受けた恩まで忘れてしまうこと。たすけてもらった時だけ感謝しても、すっかり忘れてしまい、知らぬ顔をしてしまうのはよくあることです。 神様は、そのような私たちの忘れやすい習性を、お言葉によって表されています。 「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」(M31・5・9) それ故に、 「日が経てば、その場の心が緩んで来るから、何度の理に知らさにゃならん」(M23・7・7) と仰せられ、心の成人を促される上から、病気や事情によってお手引き下さるのです。 さらには、教えを筆に記し、「おふでさき」という書き物に残されたことに関しても、 「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」(M37・8・23) と、耳で聴くだけでは、とかく忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられています。 忘れるべきことを忘れずに覚えていると、それは心の濁りとなり、忘れてはならないことを忘れては、恩知らずとなってしまいます。どちらにしても、心を澄ます道ではありません。物事の「忘れ方・覚え方」というのは、かくも難しく、それでいてとても重要なことなのです。 (終)
おじいちゃんの種 兵庫県在住  旭 和世 親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。 子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。 そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。 ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの?」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。 私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。 私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。 そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子3人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。 その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。 毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。 それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。 そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。 現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。 姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね~」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。 長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る!」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。 こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。 そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。 「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小さな音楽隊をつくって、若いお道の青年さんを集めて活動しとったんや。そこで音楽に長けた矢野清先生も一緒に活動してはって、演奏も上手になって活動がどんどん広がってな。その後、その小さな音楽隊は船場大教会の音楽団になって、当時盛んだった徒歩団参の先導をしたり、おぢばがえりされる方を演奏で迎えたりして、活躍するようになったんや。 だけどそのあと戦争になってなあ、青年さんたちも兵隊に行ってしまって、楽団の活動が出来なくなった。その時、当時の船場の大教会長さんが二代真柱様にご相談されて、楽器すべてを天理中学に譲渡される事になったんや。 そうしたら二代真柱様が、『楽器だけではあかん』と仰ったそうや。そこでおじいちゃんは『矢野さんしかおらん』と言って、矢野先生を推薦して天理中学に指導に行かれることになった。それが天理の吹奏楽部の始まりなんやで。 その後、矢野先生は天理高校の吹奏楽部を指導されて、何年も連続で優勝するような日本一のバンドに導かれたんや。その矢野先生の声から、天理教の鼓笛隊が生まれたんやで」 私は、「へえ~、そうだったの? 私、矢野先生のご活躍は知っていたけど、おじいちゃんが音楽を通してお道の若い人たちを育てる音楽隊を作っていたなんて知らなかった~」と驚いてしまいました。 そして、この話を聞いて、「みかぐらうた」のお歌が浮かんできました。 『まいたるたねハみなはへる』(七下り目 八ッ) 「あ~、そうだったんだ。おじいちゃんがちゃあんと、何十年も前に種を蒔いてくれてたんだ。だからこうやって巡り巡って恩恵を受けて、私たちの家族も鼓笛隊の先生方にお世話になってるんだなあ。決して偶然ではない、親々のお蔭なんだ」としみじみ思えてきました。 天理教の教祖「おやさま」のお言葉に、『道というものは、尽した理は生涯末代の理に受け取りある』(M33.4.16補遺)とあります。 神様の御用のために尽くした理は消えることなく、子や孫の代、そして末代までもその恩恵を受け取らせてもらえるというお言葉です。私たちは、今まさにその恩恵を受け取らせて頂いているという事だったのです。 この事を通して、子供たちは私たち親だけでなく、まわりの方々や親々が蒔いてくれた種の芽生えを受け取りながらお育て頂いているのだと実感しています。 けれども、これを「ありがたい」で終わらせるのではなく、この恩恵をまた子孫末代へと引き継いでいけるように、私もおじいちゃんが蒔いてくれたような種を蒔いていきたいと思っています。 自分一人で 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、   きゝたくバたつねくるならゆてきかそ  よろづいさいのもとのいんねん (一 6) とのお歌があります。 元のいんねんとは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいと思召され、人間とこの世界をお創りになった。私たち一人ひとりは、その親神様の思いが込められた可愛い子供であり、きょうだいとしてつながり合って生きているということです。 そして、その詳しい元を聞きたければ自ら訪ねて来るようにと仰せられます。自ら教えを求めていくことの大切さを諭されているのです。 手振りと共に教えて下さる「みかぐらうた」に、    むりにどうせといはんでな   そこはめい/\のむねしだい (七下り目 六ッ)    むりにこいとハいはんでな   いづれだん/\つきくるで (十二下り目 六ッ) とあります。信心するしないは、銘々の胸次第、心次第。親神様は決して無理強いはされず、私たちが自ら道を求める心になるまで、辛抱強くお待ち下されているのです。 教祖をめぐって、次のような逸話が残されています。 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々が、二、三人連れを誘って行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常でした。 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話を聞かせて下さいました。尚その上で、「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いともねんごろにお仕込み下された、と伝えられています。(教祖伝逸話篇116「自分一人で」) 教会本部の教祖殿では、教祖の御前で、長い時間拝礼している信者さんの姿が見られます。様々な事情を抱え、まさに自分一人で教祖との対話に臨んでいるように見受けられます。きっと教祖は、にっこり笑っていともねんごろにお諭し下されていることでしょう。 (終)
低いやさしい心

低いやさしい心

2025-10-1713:59

低いやさしい心  兵庫県在住  旭 和世 私には「こんな人って本当にいてるんや~」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。 私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです! 父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか~?と、いまだに衝撃を受け続けています。 父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。 父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう!」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。 天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。 「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。 父がある時こんな事を聞かせてくれました。 「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな~」 そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。 「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。 「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。 というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。 そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです! すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ~!じぃじ~!」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな~、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。 当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや~」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。 今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。 それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました。 子供は親の思い通りには全く行動してくれません。予想をはるかに超える行動力をもつ息子を追いかけ、おっとりしている長女はほったらかし、次女はいつもおんぶされた状態でバタバタと、子育てを楽しむ余裕なんて到底ありませんでした。 優しいお母さんになるつもりが、全く予定通りにいかない事にジレンマや自己嫌悪を感じる毎日でした。有難いご守護をたくさん頂いていながらも、感謝の心を持てていなかったのです。 そんなある日、教祖が梅谷四郎兵衛先生にお聞かせ下さったお言葉を思い出しました。「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。 若い頃、実家の母がよくこのお言葉を聞かせてくれていました。 「人様をおたすけするには、まず『低いやさしい心』になって、人様の事を一生懸命させて頂く中に、だんだんと自分の癖性分を取って頂けるんだよ」と。 それを思い出し、私は「低いやさしい心」になれていない事にはたと気がつきました。自分の思い通りにならないからと、喜べなかったり心がいづんでしまうのは、まさに自分が「こうまん」で、こうであってほしいという「よく」の心の表れだと気づいたのです。 これは神様に申し訳ない! 教祖のお言葉通り「低いやさしい心」になるためには、人様をたすける事、つまり「にをいがけ」しかない!と思い当たりました。 教会に嫁ぎながらも、子育てを理由に全くにをいがけが出来ていなかったことを、近くにある教会の同世代の奥さんに打ち明けると、「私も子供が小さいし、なかなか出来ないから、和世ちゃん一緒ににをいがけしない?」と誘って下さいました。 願ってもない提案に「ぜひ!」という事で、お互い子供を連れて、にをいがけに歩かせて頂くことになりました。ドキドキしながら拍子木をたたき、近くの商店街で神名流しをさせて頂きました。久しぶりににをいがけが出来た喜びで胸がいっぱいになった事を、今でも鮮明に思い出します。 それからというもの、教祖のお供をさせてもらえている! と思いながらにをいがけに歩かせて頂く度に、自分の埃だらけの心が少しずつ澄んでいくような気がしました。すると、それまで喜べなかった事がとても小さな事に感じられたり、にをいがけで断られるたびに、こうまんだった心を低くして頂いているように思い、有難い、喜びいっぱいの毎日になっていきました。 「人たすけたら我が身たすかる」というお言葉通り、にをいがけに歩く事で、自分のこうまんな心に気づかせて頂き、人様のたすかりを願う中に、自分の心もたすけて頂いていると実感しています。 自分の埃だらけの頑固な癖性分はまだまだ取れていませんが、父のような「低いやさしい心」を目指して、少しずつでも歩みを進めていけたらと思っています。 父母に連れられて この信仰は、親から子へ、子から孫へと、代々語り継ぐことが大切であると教えられます。このような神様のお言葉があります。 「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。」(「おさしづ」M33・11・16) ゆえに、天理教の教会では、個人で参拝するのはもちろん、家族ぐるみで参拝したり、行事に参加したりする姿が多く見受けられます。 教祖をめぐって、このような逸話が残されています。 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衛さんが、当時五、六歳の三男・梅次郎さんを連れて、教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。ところが梅次郎さんは、赤衣を召された教祖のお姿を見て、当時煙草屋の看板に描かれていた姫達磨を思い出したのか、「達磨はん、達磨はん」と言いました。 それに恐縮した四郎兵衛さんは、次にお屋敷へ帰らせて頂いた時、梅次郎さんを連れて行きませんでした。すると教祖は、 「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」 と仰せられました。 このお言葉を頂いてから、梅次郎さんは、毎度両親に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いたのでした。(教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」) 四郎兵衛さんにすれば、たすけて頂いたご恩のある教祖に対して、失礼だという思いが強かったのでしょう。しかし、子供可愛い一条の教祖は、むしろそのような幼子の無邪気な様子を大層お喜びになったのではないでしょうか。そして、親子がこの道の信仰を共にすることの大切さをお諭し下さったのです。 しかしながら、子供に道をつなぐのは容易なことではありません。そのために、各地の教会では、日頃から子供たちに信仰を伝えるべく、様々な少年会活動がさかんに行われています。そして、その総決算として、毎年夏休みには、全国各地から大勢の子供たちが親里に帰り集う「こどもおぢばがえり」が開催されます。 子供の素直な心は、この道の宝です。むしろその子供の純真無垢な姿が、親が自身の信仰を見つめ直す契機となることもあるのではないでしょうか。 かつて教祖を「達磨はん、達磨はん」と呼んで親を困惑させた梅次郎さんは、後に海外布教に尽力するなど、道を弘める上で大いに心を尽くしました。 (終)
最後のギュー

最後のギュー

2025-10-10--:--

最後のギュー 岡山県在住  山﨑 石根 私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。 信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。 私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。 さて、その報せは記念のお祭りの二日前の5月8日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。 報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。 ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。 賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。 その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。 私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。 今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。 すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。 父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。 さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。 6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。 しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。 お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。 母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。 また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。 さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。 「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。 さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き!」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな?」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。 「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」 今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、5月5日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き!」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や~」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。 妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。 妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし!」と姉と妹から異議が唱えられました。 「ホンマやね。みんな、ありがとう」 今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。 なにかなハんとゆハんてな 教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。 三下り目に、  六ツ むりなねがひはしてくれな    ひとすぢごゝろになりてこい  七ツ なんでもこれからひとすぢに    かみにもたれてゆきまする とあります。 このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。 それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。 しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。 では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。 直筆による「おふでさき」に、   月日にハなにかなハんとゆハんてな  みなめへ/\の心したいや  (十三 120) とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。 「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。 「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。 (終)
記憶に残る活動を 埼玉県在住  関根 健一 2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。 長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。 小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。 長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。 一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。 2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。 たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。 こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。 「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか?」 野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。 そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。 「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」 私はこの言葉に深く納得しました。 どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。 さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。 プログラムの中で、教祖が現身を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。 その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。 上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Aさんと、私より少し年上と思われる女性Bさん、そして私の三人でした。 AさんもBさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Aさんはこうおっしゃいました。 「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」 その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。 「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」 するとAさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。 そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。 その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。 残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。 だけど有難い「ノミのジャンプ」 ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。 ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。 人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。 私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。 最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。 そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。 そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。 それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族はどうなるのだろうと思ったら、なんとしてもたすけていただきたいという気持ちになって、「生涯、神様の御用一筋につとめます。おたすけをして通ります」と決心したのです。「ひのきしん隊に行くのは無理だ」と考えていた人が、生涯、神様の御用一筋に通る決心をしました。 十日後に再度、診察がありました。検査の結果、ガンが消えていたのです。彼は喜びいっぱいに修養科へ行って、教祖百三十年祭をおぢばで元気に迎えさせていただいたということです。 ノミの話に戻りますが、コップの高さまでしか跳べなくなったノミは、いったいどうすれば元に戻るか。自分の体の五十倍、百倍跳ぶノミのなかに入れたら、すぐに跳べるようになるそうです。私は、これが教会だと思います。教会へ行けば、自分の枠や殻でなく、神様を目標に歩んでいる人たちがいます。その人たちは、いわば五十倍、百倍跳んでいるノミの仲間です。そこへ入ることによって、すぐに自分も跳べるようになる。これが教会だと思うのです。また、そんな教会でありたいと思います。 (終)
砂を噛む日々(後編) 助産師  目黒 和加子 商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。 空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90%の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。 理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。 実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。 そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。 「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」 新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。 ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。 実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが3才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。 参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。 京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。 「あ~よかった!」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。 その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。 そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。 空ちゃんの3才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。 「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」 下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク&バッグせえへんかったん?」 マスク&バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。 「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」 「もし院長さんを呼んでたら、マスク&バッグしたと思うか?」 「はい、100%したと思います」 「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク&バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外! やったらあかんのや。 肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク&バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」 瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。 「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク&バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」 噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。 空ちゃんが3才になるまで勤め続けていなかったら、A先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、A先生の前でわんわん泣きました。 数日後、空ちゃんは3才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。 すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。 また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って!』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。 そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。 壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。 クサはむさいもの 人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。 しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。 むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。 明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。 教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、 「おタネさん、クサは、むさいものやなあ」 と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。 タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにしてはがれていました。頭の地肌にはすでに薄皮ができていて、すっきりとご守護頂いたのです。(教祖伝逸話篇107「クサはむさいもの」) この教祖の逸話は、人をたすける上では、言葉より、まずは真心を込めてお世話をすることがいかに大切であるかを、教えられているのではないでしょうか。そして教祖は、それに加えて、ほんに短いお言葉でタネさんに心の治め方をお諭し下されたのです。 (終)
砂を噛む日々(前編) 助産師  目黒 和加子 ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。 今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。 担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。 薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空(そら)ちゃんと名前がついています。 胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後2時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。 しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。 空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90%。保育器に入れ、酸素を与えると94%まで上昇しました。 「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95%になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64%まで低下したのです。 「64%!ありえない!」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。 しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。 「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。 出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。 「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」 空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。 「こうなったら神さんしかない!」 家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。 24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。 「やっぱり神さんしかない!」 家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。 その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。 72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。 院長は「酸素飽和度が64%まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。 それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので3歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。 しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。 私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。 その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。 早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。 思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ!」と気づいたのです。 リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で。 人の目と神様の目 私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。 お言葉に、   このせかい一れつみゑる月日なら  とこの事でもしらぬ事なし (八 51) とあります。 この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。 親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。 教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。(教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」) このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。   なにもかも月日しはいをするからハ  をふきちいさいゆうでないぞや (七 14) 親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、人の目先の評価にも一喜一憂することなく、親神様の思いに近づくことが出来るのではないでしょうか。 (終)
人生100年時代

人生100年時代

2025-09-12--:--

人生100年時代 千葉県在住  中臺 眞治 5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか?」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。 最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。 元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。 こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。 厚生労働省が発表した令和6年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。 高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。 例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。 その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。 急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。 困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。 この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。 また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。 少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。 また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。 天理教の原典「おふでさき」では、   このたすけ百十五才ぢよみよと  さだめつけたい神の一ぢよ (三 100) と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。 昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。 私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。 行いに表してこそ 思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。 そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。 親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。 しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ!」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。 教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。   月日にハたん/\みへるみちすぢに  こわきあふなきみちがあるので (七 7)   月日よりそのみちはやくしらそふと  をもてしんバいしているとこそ (七 8)   にんけんのわが子をもうもをなぢ事  こわきあふなきみちをあんぢる (七 9)   それしらすみな一れつハめへ/\に  みなうゝかりとくらしいるなり (七 10) この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。 信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。 (終)
タイでひろがるたすけ合いの輪 タイ在住  野口 信也 私はタイへ赴任して14年目になります。教祖140年祭に向け、皆が心を一つにして、病気の方や困っている方の力になってもらいたいとの真柱様の思いを少しでも実現するため、教友の方々と様々な取り組みをしてきました。そうした中、身近な方々が重病を発症されたり、急にお亡くなりになるなど、心を倒しそうになることもありましたが、大きなたすかりを頂戴することも多くあり、教祖の年祭へ向けた活動の大切さを改めて感じる毎日です。 そうした活動の中でのことをお話したいと思います。友人の誘いで信仰を始め、母親の大けがを通して親神様の大きなご守護を体験したチューンさんという方がいます。私の住むタイ出張所の近くで小さな料理屋を経営し、そこに妹さんと住んでおられました。 チューンさんの妹さんは優しくてとても温厚な方でしたが、病弱で心臓病や重度の糖尿病など様々な病気を併発していて、私は病気の平癒を願い、何度かおさづけをさせて頂いていました。かいさ しかしその後少し遠方に引っ越され、コロナ禍もあり思うようにお会いできなくなってしまいました。 チューンさんは以前から、自分も人類のふるさとである天理で教えを学ぶべく修養科を志願し、おさづけの理を拝戴して、一日も早く妹におさづけを取り次ぎたい、と話していました。 そして、2020年5月から開始予定の修養科タイ語クラスに志願するため、料理屋を辞め、日本のビザを取得し、後は出発を待つのみでしたが、コロナ禍の影響で二年に一度開催されるはずのタイ語クラスが急遽中止となってしまいました。そして、あらためて開催されることになった2022年の修養科タイ語クラスへの志願を目前に、妹さんは残念ながらお亡くなりになりました。 私は、チューンさんは修養科を辞退されるのでは、と思いましたが、「神様との約束ですから」と初志貫徹。修養科にて三か月間学び、自身の悩みの種であったひざの痛みも完治のご守護を頂き、勇んでタイへ戻ってきました。 そして、知り合いや近所に病気の方やケガ人がいると、自身の学んできたことをお伝えし、妹さんに出来なかった思いも込めて、おさづけの取り次ぎを続けておられました。 「これまでおさづけを取り次がせて下さいとお願いして、一度も断られたことはありません」と、チューンさんは嬉しそうに話していました。 そんなある日、今年の一月のことです。チューンさんを信仰に導いたBさんから連絡があり、チューンさんから緊急のラインが入ったとのこと。現在、バンコクから約400キロ離れたブリラム県の病院で母親の看病をしているが、膀胱炎で血と膿が止まらず、心臓肥大に末期の腎不全など様々な症状を併発している。94歳という年齢も考え、延命治療は断っているが、検査のための採血などで腕は青あざだらけで、可哀そうで仕方がない。お母さんが安らかな最期を送れるようお願いして欲しい、とのことでした。 お母さんは家庭の事情から、チューンさんの兄嫁の実家へお兄さんと一緒に引っ越しておられたので、10年ほどお会いできていませんでした。私は何とかもう一度お会いしたいと思い、すぐに車を運転してBさんと現地へ向かいました。 到着後、病室へ入ると、お母さんはとても苦しそうで話が出来る状態ではなく、すぐにおさづけを取り次ぎました。すると、たちまちいびきをかいて気持ち良さそうに眠ってしまいました。 私が来るのを待って下さっていて、このままお亡くなりになるのでは、という不安が頭をよぎりました。その横でチューンさんとBさんは、「お母さんはこの辺りに知り合いがいないので、葬儀はバンコクでやりたい」など、今後のことについて相談をしていましたが、夜間の地方道路での運転は危険を伴うため、15分ほどの滞在ですぐにバンコクへとんぼ返りしなければなりませんでした。しかし帰りの運転中も、バンコクへ到着してからもお母さんの容態が気になって仕方がありませんでした。 翌日、Bさんからチューンさんのラインが転送されてきました。そこには、「お母さんの病状がとても良くなり、表情も明るくなり、呼吸器も簡易のもので事足りるようになりました。家族みんなで喜んでおり、お医者さんは二日後には自宅療養できると言っています」と書かれていました。 私はそれを見て大変驚きましたが、事情を知っている出張所の事務員も、この話を側で聞いていて、「鳥肌が立った」と言ったほどでした。チューンさんの献身的な看病と、心を込めたおさづけの取り次ぎにより、本当に鮮やかなご守護を頂戴しました。 10日後、私は再度ブリラム県へお見舞いに行くことにしました。この時はバンコクに戻っていたチューンさんと、Bさん、そして長距離を運転する私を手伝うためにと、Bさんの娘さんも同行してくれました。 元気なお母さんにお会いできることを楽しみにお宅を訪問すると、とても苦しそうなお顔で眠っておられました。チューンさんが食事をさせようと起こしましたが、目もほぼ開けることが出来ず、顎が外れたようにぽっかりと口が開いていて、チューンさんがご飯を口元まで運んでも、とても食べられる状態ではありません。 お兄さんたちの話では、昨日まで元気に食事もとっていたとのこと。そこで、すぐにおさづけを取り次ぎました。チューンさん、Bさん、そしてBさんの娘さん、全員修養科を修了したばかりですから、私に続いて順番におさづけを取り次いで神様にお願いしました。 すると、いつの間にかお母さんの顔がいきいきと明るくなり、ぽっかり開いていた口もしっかり動き、おかゆのご飯を美味しそうに食べ始めました。あまりのことに、今度はこちらがぽかんと口を開けたような状態になりました。 帰りには、お母さんの隣のベッドで治療していた方のお宅を訪問しました。病院でのお母さんの回復した姿を目の当たりにし、是非自分も神様にお願いして欲しいと依頼されたのです。この方は若い頃から心臓の病気を患っておられ、またその方の母親も膝に痛々しい傷を持っていたため、そのお二人におさづけを取り次ぎ、バンコクへ戻りました。 それから20日後、お母さんはご自宅で静かに息を引き取られました。お母さんの御霊をタイ出張所の祖霊舎(みたまや)へお遷しするため、再度ブリラム県へ行き、また帰りには心臓病の方のお宅を訪問しました。チューンさんも葬儀を終えた後、このお宅へ行き、お二人におさづけを取り次ぎましたと報告をくれました。 チューンさんの真心と、お母さんが自身の病気を通して導いて下さった新たなたすけ合いの輪です。大切に育んで、バンコクから遠く離れたこの町にも、教祖の教えでたすかる方が少しずつでも増えることを楽しみにしています。 だけど有難い「三つの『元』」 「幸せの元」は何でしょう。お道を信仰している方であれば、お金や物の豊かさではないということはお分かりだと思います。実際、お金や物の豊かさというのは、「幸せの元」ではなくて「生活の元」です。全くないと生活できませんから、お金も物も必要です。では「幸せの元」とは何か。いったい人間は、どんなときに幸せを感じるのでしょうか。 あるアンケート調査によれば、「自分が人から愛されている、大切にされていると感じたとき」「人から信頼されている、頼りにされているというとき」「世の中、社会のために役に立っていると感じたとき」という答えが多いそうです。これらはいずれも、人のために動いたときに得られるものばかりです。自分が何もしなければ、人から愛されたり、大切に扱われたり、信頼されたり、頼りにされたり、また世の中や社会の役に立ったりすることはありません。 「人たすけたら我が身たすかる」という教祖の教えは、このことからもよく分からせていただけます。「幸せの元」は、人をたすけるところから生まれるのです。 もう一つ、大事なものがあります。それは「命の元」です。これは誰しも察しがつくでしょう。健康であるということです。 この「命の元=健康」というものは、自分ではどうにもなりません。これをご守護いただこうと思ったら、どうすればいいのか。それは「幸せの元」である、人をたすけること、そして「生活の元」である、お金や物を人だすけに使わせていただくことです。普通、人間は、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいと考えて、「生活の元」であるお金や物を自分のために使うのです。そうではなく、人のために使わせていただくのです。 「生活の元」に困っている、生きていくのが大変という人は、どうしたらいいのか。「命の元」である健康を頂戴しているこの体を使って、人をたすけさせていただく。そうすることによって、生きていく糧をお与えいただけるのです。 こう考えると「幸せの元」「生活の元」「命の元」というのは、それぞれ大いに関わりのあるものです。そして、おたすけの実践こそ、そのすべてを頂く本元なのです。 (終)
共に栄える理

共に栄える理

2025-08-2912:00

共に栄える理  東京都在住  松村 登美和 今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。 3月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。 6月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を5キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。 その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。 番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は?」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。 私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。 その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。 天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。 ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。 ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。 「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。 男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。 私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。 天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。 ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。 問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。 しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。 自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。 親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。 つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。 さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。 おふでさき御執筆 ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。   このよふハりいでせめたるせかいなり  なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)   せめるとててざしするでハないほどに  くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)   なにもかもちがハん事ハよけれども  ちがいあるなら歌でしらする (一 23) この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。 そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」(M37・8・23)と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。 さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」(M37・8・23)と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。 さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。 「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。 書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」   だん/\とふてにしらしてあるほどに  はやく心にさとりとるよふ (四 72) とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。 (終)
心を込めたサービス券                 大阪府在住  山本 達則 日々の街角での布教活動では、沢山の方々との出会いがあります。その中のお一人とのお話です。 いつも布教活動をしている駅周辺で、自転車整理の仕事をされている70代のAさんが、いつ頃からか声をかけて下さるようになりました。「おはよう。今日も頑張ってるな」と、いつも気持ちの良い笑顔で声を掛けて下さいました。 そのAさんが、ある時から「はい、これご褒美」と言って、新聞の切り抜きの餃子のサービス券を私の手に握らせて下さるようになりました。それはいつの間にか、毎週月曜日のルーティンのようになって、私が駅前に行くとすぐに満面の笑顔で近寄って来られ、餃子のサービス券を下さいました。 ある日のこと、いつもは裸のサービス券が、その日は小さなポチ袋に入っていました。私が「わざわざ入れて下さったんですか?」と聞くと、「これでちょっとはいい事あるかな」と、少し照れながら手渡して下さいました。 私が「きっとあると思います」と言うと、びっくりしたような顔で「ほんまか?なんでや?」と言われるので、「僕が喜んでいるからです」と答えると、「そうか、そういうもんなんや」と嬉しそうに言われました。それからは、餃子のサービス券は、必ずポチ袋に入れて渡して下さいました。 ところが半年ほど経つと、ある日を境に、ぱったりとAさんと出会わなくなりました。心配になり、同僚の方に聞いてみると、身体を壊して休んでおられるということでした。 住所は個人情報なので教えられないという事でしたが、いつもの雑談の中で聞いていた辺りを何となく探していると、意外と簡単にお宅が見つかり訪ねてみました。 インターホンを押すと中からAさんが出てこられ、少し驚いた様子でしたが、心配になって訪ねた事を説明すると、快く迎えて下さいました。聞くと、持病の腰痛がひどくなり、一日中立ちっぱなしの仕事が難しくなったとの事でした。 それより私が驚いたのは、「腰がましになったら、持っていこうと思ってたんや」と言って、5枚のポチ袋に入ったサービス券を下さった事でした。 それから、しばらくお話を聞かせて頂くことが出来ました。Aさんには娘さんが一人おられ、数年前に結婚されました。 しかし、一年ほど前から夫婦仲がうまくいっておらず、実家に帰ってきては愚痴や不満をこぼすことが多くなってきました。最近では離婚についても言い始め、孫の事を思うと何とかならないものかと、夫婦で心配ばかりしているという事でした。 「でもな…」とAさんは続けて話して下さいました。 「あんた、前に自分が喜んでるから、自分を喜ばしてくれたから、餃子のサービス券でもいい事あるって言うてくれたな。だから、娘のことも自分ら親だけは喜んでやろうと思って、娘にも話してみたんやで。世の中には結婚したくても出来ない人もいるし、子供を欲しいと思っていても授からない人もいる。旦那さんに対しても、不満や愚痴をこぼしたくなるような事があるにせよ、それは旦那さんがいるからで、いなければそんな事も出来ないもんなって、そう話してみたんや。娘は黙って聞いておった。親である自分だけは、心配するだけでなくて、喜んでやろうと思ってんねん。これでええんやろ、天理さん」 Aさんは満面の笑顔で話して下さいました。 「そうなんですよ。私たちの日常の中では、自分にとって都合のいい事、悪い事、喜べる事、喜べない事、楽しい事、腹立たしい事、色んな事がありますが、それは私たちがそう判断しているだけなんです。それらすべては、私たちが陽気ぐらしをするために神様が与えて下さっている姿ですから、それをどう喜ぶか。そのための努力を、神様は私たちに期待されているんだと思います。 だから、あまり面白くない事が起きても、その中で喜びを見つける努力をする。そうすると、次に何が起きても、それまでよりも喜べる心になるというのが、天理教の教えの一つなんですよ」 私がそう言うと、Aさんは、「うん、うん、ほんまやな」とうなずきながら聞いて下さいました。 それからしばらくして、Aさんは仕事に復帰されました。そして、「今日もいい音してるな」と拍子木の音を褒めて下さった後で、「はい、これ」と言って、ポチ袋に入れた餃子のサービス券を下さいました。 日常生活での「家族円満」への道は、喜べないような中であっても、少しでも喜ぶ努力をすることが一番の近道なのではないかと改めて思いました。 梶本宗太郎さん 小さい頃から、教祖のお屋敷へ引き寄せられ、その教祖の温かい親心にふれ、生涯を信仰にささげた者は数多くいます。 教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんも、その一人です。小さい頃の教祖との思い出を、このように語っています。 教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。 それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。 櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。 私は、曾孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、  「早う、一人で来るようになったらなあ」 と、仰せ下された、という。(『教祖伝逸話篇』193「早う一人で」) 教祖の懐に抱かれながら成長し、家族共々お屋敷へ入り込み、教会本部に長らく務めた宗太郎さんは、後年、このようなお話をしています。 このお屋敷に連れ帰られたみなさまこそ、まことに幸福な方々であります。 だれ一人として不足な心づかいで帰りている者がありましょうか。病気をたすけてもらったうれしさとか、今までは内々も、親子、兄弟、夫婦の中をむつまじく暮らせなかったが、教えの理を聞かしていただき、内々が互い互いの心の改良ができて円満に通させていただいているとか、そのうれしさを神様に報告申し上げるとか、親神様のひざ元に参りて心のさんげをさせていただきたいとか、今後は道の上で働かせていただく決心を告げ奉るとか、でありまして、何万の人々は和気藹々のうちにお屋敷にお帰りになったのであります。 お言葉にも、   をもしろやをふくの人があつまりて   天のあたゑとゆうてくるそや   (四12)   にち/\にみにさハりつくまたきたか   神のまちかねこれをしらすに   (四13) とお諭しありますごとく、喜び勇んで帰るみなさまを、神様は日々にお待ちかねておいでになります。 まさに、教祖に引き寄せられた喜びそのままに、宗太郎さんは生涯をこの道の信仰に捧げたのでした。(終)
心コロコロ

心コロコロ

2025-08-15--:--

心コロコロ 岡山県在住  山﨑 石根 一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。 私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。 3月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。 そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。 また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。 つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。 おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。 さて、月が変わり4月1日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。 私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。 「え、どういうこと?」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう? 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。 こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。 そして、三男は次のように続けたのです。 「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ!」 子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。 すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。 妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。 「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」 と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。 なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。 嬉しい出来事はまだまだ続きます。 我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。 さらに中3のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。 もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。 しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は3月で、つい二週間ほど前だったのです。 「あれあれ? よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで~」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。 「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」 これには一本取られました。 続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。 そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。 今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。 御退屈でございましょう 教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。 井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、 「ここへ、一寸顔をつけてごらん」 と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。(教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」) また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、 「幻を見せてやろう」 と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。 というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。 もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。(教祖伝逸話篇97「煙草畑」) さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、  「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。(教祖伝逸話篇168「船遊び」) 教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。 (終)
待ちに待ったカラオケ                埼玉県在住  関根 健一 小学生のあこがれの職業に「YouTuber」がランクインした時、ニュースがこぞって取り上げて話題になったことは記憶に新しいですが、今ではランキングに並んでいても、特に話題にならなくなってきました。さらに時代は先に進んで、動画配信サービスやAIなどが日常にあふれて、人々の娯楽というものは多岐にわたっています。 私が小学生の頃はというと、専らテレビが娯楽の中心でした。その頃、同級生の間では戦隊ヒーローやアニメが流行っていましたが、印象的な子供向けのドラマもたくさんあったと記憶しています。 中でも「あばれはっちゃく」というドラマが、私にとっては毎週の楽しみの一つでした。やんちゃで情にもろい昔ながらのガキ大将の主人公を同世代の男の子が演じ、5代目まで続いた人気シリーズで、児童向け小説が原作でした。 各回の細かい内容は覚えていませんが、学校から自宅へ帰った主人公がランドセルを放り投げて一目散に遊びに出かけていくシーンや、主人公の破天荒ぶりに「父ちゃん、情けなくて涙が出てくらあ!」と父親が叱りつけるシーンなどが大好きで、放送された次の日に学校で友達とモノマネをしたことを今でもしっかり覚えています。 その頃の私は、あばれはっちゃくの主人公の性格とは真逆で、外で活発に遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、木登りや虫取りなど、当時の男の子達が夢中になっていた遊びがどちらかというと苦手でした。 自分が出来ないからこそドラマの主人公に憧れを抱き、毎週楽しみにしていたのかもしれません。そんな子供の頃の思い出もあってか、「元気に遊ぶ子供」のイメージは、いつもランドセルを放り投げて遊びに行くあばれはっちゃくの主人公の姿です。 やがて生まれてきた我が家の子供たちは、二人とも女の子だったので、あばれはっちゃくとはちょっと違いましたが、長女が特別支援学校に通うことになり、障害のある子供たちの「遊び」の環境には別の問題も多いことを教えてもらいました。 遊びは、子供たちに多くの学びを与えてくれます。小学生になると、ほとんどの子が、親がいなくても子供同士で約束して公園で待ち合わせをしたり、お互いの家を行き来したりするようになりますが、障害のある子供たちはそのようなことが出来ません。 そんな自分たちで遊ぶことが難しい子供たちのために、平成24年度から「放課後等デイサービス」という制度ができました。 一般の学童保育は保護者が働いていて不在の時間、子供を預かることが目的ですが、放課後等デイサービスは、障害があって支援が必要な子供に対して、様々な体験を提供し、健全な育成を保障していくことが目的です。 我が家の長女も、制度が始まった当初からこのサービスを利用してきました。放課後の時間、必要な支援を受けながら、本を読んだりゲームをしたり、同級生だけでなく、小学生から高校生までの幅広い年代の子供たちとの交流を通じて、色々な体験をさせてもらいました。この場で培われた感受性は、彼女の現在にまでとても大きな影響を与えています。 高校を卒業すると放課後等デイサービスの制度は使えなくなり、今度は成人向けの福祉サービスの中で暮らすことになります。長女は現在、生活介護サービスという制度を利用して、日中を事業所で過ごしています。 働くというよりも、日中を穏やかに過ごすことが目的ですが、ここでは最高65歳までの方がサービスの対象となるため、放課後等デイサービスの頃よりも、さらに幅広い年代の利用者さんと関わることになります。 人と関わることが好きな長女は、行き始めてすぐに施設の雰囲気に馴染みました。それと同時に、先輩たちが長年の経験から様々なサービスを使って充実した生活を送っていることを見聞きして、大いに刺激を受けました。 そのうち、自分から「お出かけに行きたい」などと言い出しました。施設の職員さんに聞いてみると、「この前、〇〇さんがお出かけした話を聞いたから、自分も行きたいと思ったのかもしれません」と教えてくれました。 そこで、長女にどこに行きたいのか聞いてみると、「Kさんとカラオケに行きたい」と言うのです。Kさんとは、おしゃれな服を着て、ピンクの可愛い車に乗って週に何度か送迎の介助に来ている女性のヘルパーさんのことで、いつも長女の話し相手になってくれるので、一緒に行きたいと思ったようです。 長女の希望を叶えるべく、Kさんの所属している事業所とも相談して、二か月後に移動支援サービスを使って、Kさんご指名でカラオケに行くことが決まりました。 長女にそのことを伝えると、翌朝、起きて着替える時から「Kさんとカラオケに行くんだ~」「嵐の歌を一緒に歌うんだ~」と、家を出るまでずっとその話をしています。帰宅しても、寝るまでの時間、思い出すと「Kさんとカラオケに行くんだ~」と二か月の間、ほぼ毎日繰り返し言っていました。 普段送迎に来てくれるKさんも、「当日は車で3時に迎えに行くね」とか、「カラオケは車椅子が入れるお店を予約したよ」と声を掛けてくれて、益々楽しみになっていったようです。 やがて当日を迎え、移動も含めて3時間を過ごして帰宅しました。大好きなKさんと大好きなカラオケに行って、本人はご満悦の様子で、目をキラキラさせながら「楽しかった~!」「また行くんだ~!」と話してくれました。 そんな長女の姿を見て、次女がボソッと「教祖がおっしゃる『たんのう』の意味が少し分かった気がする」と言いました。それを聞いた私は「なるほど!」と膝を打つ思いでした。 自分で考えて自由に行動できる身で考えると、たった3時間、移動してカラオケに行くだけなら、今すぐにでも出来ます。しかし、障害のある長女は、海外旅行にでも行くかのように、数か月前から待ちわび、準備をして、当日、その時間を精一杯楽しんできました。 「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも聞かせて頂きます。たんのうすることはなかなか難しいことだと常々思っていましたが、出来ないことに目を向けるのではなく、出来る中で精一杯楽しむ長女の姿に、たんのうすることのヒントをもらえた気がします。そして、そこに気づいた次女の素直さにも頭が下がります。 私たちの幸せは、どこかから持ってこなければ存在しないものではなく、今の自分の中に十分にあるのだと思います。心の中にある幸せをたくさん見つけられるように、長女の姿と次女の素直さをお手本にしていきたいと思います。 真実の願いは埋もれない 人間には誰しも欲があります。「よくのないものなけれども」と、みかぐらうたにあるように、欲のない人間はいないと親神様は仰っています。生きるうえで必要な欲もありますから、ある程度は許されていると考えても良さそうです。 ところが、人間というものはいかにも欲深くて厚かましい。おつとめで親神様に拝礼をしている時、どんなことを願っているでしょうか。自分の健康な身体にお礼を申し上げる、今日も結構な目覚めを頂けた、あるいは身近な家族か親戚が病気で臥せっているのでたすけて欲しい、上司との関係で悩んでいる友人の気分が少しでも晴れますように…。このような謙虚なお願いなら親神様はお受け取り下さるでしょう。 ところが、なかには「もっとお金が儲かりますように」だとか、努力もせずに「テストの点数が上がりますように」なんていうお願いをする人もいるでしょう。親神様も、時に何千、何万ものお願いを一度に聞かれるわけですから、そんな自分勝手なお願いまでは手が回らないかも知れません。 親神様は、そんなたくさんのお願いの中でも、「私のことはどうでもいいのです。困っているあの人のことを、どうかたすけてください」という声を、スーッと聞き入れて下さるのではないでしょうか。 「ほしい、ほしい」と求めてばかりいる人と、「あの人をたすけてください」と真剣に祈りを捧げている人とでは、神殿で額づく際にも、おのずと醸し出す雰囲気が違ってきます。ですから、後者のような真実の願いは、どんなに大勢の人の中でも埋もれず、確実に親神様の元に届くのです。 「おふでさき」に、   をやのめにかのふたものハにち/\に  だん/\心いさむばかりや (十五 66) とあります。 人様のことを考え、そのたすかりを祈る時間が長いほど、心はますます勇んできます。そうして自らの欲の心は自然に取り払われ、親の思いに近づいていくことが出来るのです。 (終)
まいたる種は…

まいたる種は…

2025-08-0113:38

まいたる種は… 福岡県在住  内山 真太朗   にち/\に心つくしたものだねを  神がたしかにうけとりている   しんぢつに神のうけとるものだねわ  いつになりてもくさるめわなし   たん/\とこのものだねがはへたなら  これまつだいのこふきなるそや 今日は、この三首のお歌に込められた神様の親心を悟った話。結婚14年目に突入し、現在教会長をつとめている私と妻との、ちょっと甘酸っぱい話をお聞き頂きたいと思います。 私と妻との出会いは今から20年前、お互いハタチの時です。私は天理大学の学生、妻は静岡県在住のOLで、当時はまだSNSもなかった時代、インターネット上の音楽系サイトで知り合い、未信仰だった彼女を初めておぢばに案内したことをきっかけに、交際が始まりました。 6年間にも及んだ遠距離恋愛の中で、何度もおぢばを案内し、お道の話をする機会も増え、別席も運んでくれました。私にとっては初めてお連れする別席者で、交際相手とあって丹精に熱が入っていました。 交際して6年の月日が流れ、「この人となら」と思い、お互い結婚を決意しました。しかし、私は福岡県の天理教の教会長後継者、妻は静岡県でお茶工場を営む社長の一人娘。あまりにも境遇がかけ離れていて、反対されるのを覚悟で妻のご両親へ挨拶に伺いました。 新調したスーツを着て、ご両親を前に、緊張しながら「どうか、娘さんと結婚させてください…」しばらく沈黙がありましたが、「二人で決めたことなら」と、ご両親とも快く結婚を承諾して下さいました。 すると妻のお母様から、「結婚の前に天理教の勉強をさせたい」との思いがけない申し出があり、妻は教えを学ぶため、結婚前に修養科を志願してくれました。さらに三か月間の修養科修了後には、教会生活を学ぶため、半年間大教会の住み込み女子青年としてつとめてくれました。 天理教のことを全く知らなかった妻は、結婚前に多くの教友と出会い、導いて頂き、お互い26歳の秋、大勢の方々に祝福されながら、大教会で結婚式と披露宴を挙げさせて頂きました。 世界中の人とつながれるインターネット上で、偶然出会った素敵な女性との結婚。私にとってこんなにありがたい事はありませんでした。 さて、話は結婚式の数日前に遡ります。教会の前会長夫婦である祖父母から「話がある」と、妻と二人で呼び出されました。80歳を超えて尚、誰よりも信仰に厳しい祖父母。よもや結婚を反対されるのでは? そんな不安をもって祖父母のもとへ行くと、祖父がこのような話を聞かせてくれました。 「今回の結婚、本当に嬉しく思う。実は、おじいちゃんは今から60年前、戦争が終わってハタチの時、確かな信仰をつかむために、当時出来たばかりの天理教校専修科に入学したんだ。二年間色んなことを経験して学んだが、この信仰を信じ切ることが出来ず、神様をつかみ切ることが出来なかった。これではいけない、どうしても神様をつかみたいと思って、専修科を卒業してすぐに福岡から横浜へ単独布教に出ようと決意したんだ。でも当時お金がなくて、片道切符で横浜まで行こうとしたけれど、お金が足りずに静岡駅で下車して、その周辺を布教に歩いていたんだよ」 妻の実家であるお茶工場は静岡駅から徒歩10分ほど。何と、60年前に祖父が布教に歩いた地域とは、妻の実家がある場所そのものだったのです。 祖父は続けて、「60年前に布教した時は大した成果は見せて頂けず、あの時の布教は無駄だったと思ったし、今までずっとそう思っていた。でも、静岡の地で伏せこんだ種を神様はちゃんとお受け取り下さって、60年後に今こうして、お前のお嫁さんという形で芽を吹いて帰ってきた。私たちにとって、これほどありがたく、嬉しいことはない。本当にありがとう」と涙ながらに話してくれました。 話を聞いて鳥肌が立ちました。妻はインターネットでたまたま私と出会い、お道を知り、修養科を修了し教会の住み込みをつとめ、結婚して教会へ来ることになった。それはすべて自分の成したことだと思っていました。しかしそれは大きな間違いで、その背景には60年前の祖父の真実の伏せこみがあり、今にして思えば、妻との出会いは偶然ではなく、すべては親神様が出会わせて下さった必然だったのです。 天理教では「まいたる種はみな生える」と教えて頂きます。日々にまいた種、つまり自分の日々の行いは、やがては自分や子孫に返ってくるのです。 まいた種によっては一日で生えてくる種もあれば、一か月で生えてくる種もある。一年、二年で生えてくる種もあれば、このように60年経ってようやく生えてくる種もある。いずれにしても、真実の種をまけば親神様はお喜び下さり、いつか必ず素晴らしい形で芽吹かせて下さる。そのことを身をもって実感した妻との結婚でした。 私たち夫婦は4人の子供たちを授かっています。祖父をはじめ親々の伏せこみのおかげで今の自分達があるということを肝に銘じ、今度は私たちが子供達のため、そしてまだ見ぬ孫達のために、親神様、教祖にお喜び頂ける種をまくことを目標に通っていきたいと思います。 だけど有難い「『感謝』から『報恩』へ」 最近、親による子供の虐待や育児放棄が社会問題になっています。それに伴い、「親は子供を育てる責任と義務がある」とか、「子供には育てられる権利がある」というようなことが言われます。私は、この「責任」や「義務」「権利」というようなものからは、「感謝」の心は生まれないと思うのです。「責任があるから」「権利があるから」といった感覚では、子供は親に「育ててもらって当たり前」であって、そこに感謝の心の生まれる余地はありません。 お道では、そうしたことに気づいていただきたいとの思いから、「感謝 慎み たすけあい」という標語を作って、教会の前などに横断幕を掲げてきました。 「感謝」という言葉は、一般社会でもよく使われます。「親に感謝しています」「お世話になって大変感謝しています」などと言いますね。しかし本当に大事なのは、その先だと思うのです。それは「報恩=恩を報じる」ということです。「感謝」は、いわば「報恩」への入り口なのです。 三代真柱・中山善衛様は、教会巡教などの際に、よく「報恩感謝」とご揮毫くださいました。三代真柱様が真柱をお務めの時代は、真柱様が「報恩」とお書きになって、継承者であられた善司様が「感謝」と続けられました。善司様が跡をお継ぎになってからは、真柱様が「報恩」とお書きになって、三代真柱様が「感謝」とお書きになりました。 私は「感謝」という言葉は、「報恩」という言葉と結びつかないことには、あまり意味がないと思うのです。たとえば「親に感謝します」と口にするだけでなく、親に育ててもらった「恩」、産んでもらった「恩」を感じることが大切だということです。 「恩」には「返す」という行為が伴います。そう言うと、嫌々させられると感じる人もいるかもしれません。しかし実際には、恩を感じたら返したくなるものではないでしょうか。たとえば恩師に贈り物をするときに、嫌々する人はないでしょう。何を贈ったら喜んでくれるだろうかと、品物を選んでいるときからうれしいものです。恩返しというのは、そういうものだと思います。 親に恩を感じると、それを返したくなる。これは親孝行です。親孝行というのは、しなければならないからするのではなく、せずにおれないからするのです。 親神様のご恩も同じだと思います。この道は「ご恩報じの道」ともいいますが、ご恩を感じなければ通れないのです。親神様のご守護を有難いと思う心があればこそ、「させてもらいたい」「やらずにおれない」という気持ちになるのです。 私たちが毎日こうして元気でいられるのは、第一に親神様のご守護のおかげです。そして、産み育ててくれた親のおかげ、周囲の人たちのおかげ、学校の先生のおかげもあれば、仲間のおかげもあるでしょう。実は、人間はこうした「おかげ」を感じ、「恩」を感じて、それに応えようとするなかに、「生き甲斐」や「喜び」を見いだし、「幸せ」を味わうことができるのです。 私たちは、一人でも多くの人をおぢばへ連れ帰らせていただき、別席を運んでもらおうと努めさせていただいています。それは、私たちの親である教祖に、お喜びいただきたいからです。さらに一層、声掛けに努めて、教祖のご恩に、親神様から頂戴している限りないご恩に応えさせていただきましょう。 (終)
令和元年台風15号 千葉県在住  中臺 眞治 今から6年前、令和元年9月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。 夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。 被災から6日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか?」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。 聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。 早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。 私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。 「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」 ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。 その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか?」と相談の電話があったのです。 しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。 そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか? 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う?」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。 今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。 さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、4か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。 どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。 こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。 「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。 天理教の原典「おふでさき」では、   だん/\になにかの事もみへてくる  いかなるみちもみなたのしめよ (四 22) と記されています。 このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。 少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。 「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。 ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。 令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。 いんねんというは心の道 病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。 たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ!」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。 これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。 「いんねんというは心の道」(M40・4・8) このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。 「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。 意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。 お言葉にも、 「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」(M28・7・22) と、はっきりと示されています。 いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。 (終)
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