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天理教の時間「家族円満」
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天理教の時間「家族円満」

Author: TENRIKYO

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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。
414 Episodes
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サードマン現象(後編)       助産師  目黒 和加子 リスナーの皆さん、NHK総合テレビで人気だった『爆笑問題のニッポンの教養』という番組を覚えていますか? これは、お笑いコンビ・爆笑問題の二人が大学教授や研究者をはじめ、その道のプロフェッショナルの現場を訪問する番組でした。 あの日の主役は、著名な心臓外科医A先生。タイトルは『天才心臓外科医の告白』。 A先生は、最新の医療機器を見せながら手術方法を爆笑問題の二人に説明しつつ、「実はね。手術中、僕の中に神様が降りてくる時があるんですよ」と言ったのです。そして、その意味を説明し始めました。 「手術前の検査データから手術の難しさを予想して臨むんですが、切開して心臓を見ると想定外に状態の悪い時があります。『これはマズイ、自分には無理かもしれない』と頭の中は真っ白になり、もう祈るしかないという心境になるんです。 そういう時に神様が降りてくる。神様が降りてくると頭の中は冴え渡り、普段の手術の時よりも手先がシャープに動く、というか動かされている。もはや自分の手という感覚ではない。 さほど重症でなく手術した患者さんよりも、想定外に状態が悪く神様が手術した患者さんの方が術後の回復が早く、退院後も良好に過ごしておられます」。そう笑顔で語っていました。 「私と同じような経験してる医療職者がいてはる。しかもあのA先生やん」と嬉しい反面、「不思議を感じているのは私だけで、周りの人と共有したことはないよなぁ」と、何かすっきりしません。 そんなある日、サードマンの存在を決定づけるお産に当たるのです。 その日は夜勤。出勤すると、初産婦の田辺さんが分娩室に入るところでした。日勤からの申し送りでは、胎児の推定体重は3500グラムとかなり大きく、産道を下りれずに途中で停滞しているとのこと。それから一時間息み続けましたが、胎児は産道の途中で止まったまま。田辺さんは力尽きて言葉も出ません。 すると胎児心拍が一気に低下。この医院には、吸引分娩や鉗子分娩の器械も装置もありません。手術室もないので帝王切開もできません。産婦のお腹を押すしかないのです。 体重100キロを超える巨体の院長が、全力で田辺さんのお腹をグイグイ押しますが、全く動きません。院長の汗が田辺さんのお腹に滴り落ちています。「トン……、トン……、」胎児心拍は今にも止まりそう。15分後、とうとう心拍が停止してしまいました。 「もうこれ以上、力が出ません。ご主人さん代わりに押して!」パニックになる院長。 「何を言うんだ、それでも医者か!」怒り出すご主人。分娩台の上の産婦を挟んで言い合いになっています。 分娩室が修羅場と化す中、オロオロする私に院長が「そうや、目黒さん押してみて」と言ったのです。 「相撲取りのような院長が15分押しても動かへんのに、私が押して出るわけないやん」と思いつつ、出来ませんとは言えない雰囲気。産婦の息みに合わせて全力でお腹を押しましたが、胎児は微動だにしません。 「心拍停止して5分、もうダメや」と諦めかけた時、田辺さんが「助産師さん…赤ちゃんをたすけてください」と、か細い声を発したのです。 「こうなったら神さんしかない!」自分の寿命を差し出す覚悟を決めました。 「次の陣痛で底力出して息むんよ。私も命がけで押すからね!」 精魂尽き果てる寸前の田辺さんと自分に喝を入れ、全力でお腹を押しました。すると、拍子抜けするぐらいスルスルッと出てきたのです。しかし、出てはきたものの赤ちゃんの全身は群青色で心拍は停止したまま。ぐったりして産声をあげません。 「ここで諦めてなるものか!まだ間に合う!」がっくり肩を落とす院長に喝を入れました。 再び身を捨てる覚悟を決め、あらゆる蘇生処置を施すと心拍が戻ってきたのです。「ふんぎゃ~」と呻くような産声をあげ、自発呼吸が始まりました。 弱々しい産声はだんだん力強くなり、身体の色も群青色から紫色、紫色からピンク色へと変化していきました。手足を動かし始め、筋肉の緊張もしっかりしてきたのです。 3750グラムの男の子。この赤ちゃんの、へその緒と胎盤の中に流れる血液、臍帯血のpH値は6.89。見たことのない数字です。pH値が7.0を下回ると限りなく死に近づきます。pH値が書かれた紙を持ったまま、全身の毛が逆立つのを感じました。 廊下から蘇生の様子をガラス越しに見ていたご主人に、「状態は安定しました。もう大丈夫です」と伝えると、「ありがとうございます! 目黒さんにたすけて頂いたことは一生忘れません」私の腰にしがみつき、泣き崩れています。 「私がたすけたように見えるけど、それは違う。お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててくれはる?」 「約束します、約束します! この子の名前は浩(ひろ)です。ありがとうございます…」 ご主人の泣き声が、夜の廊下に響いていました。 それから二年が経ち、二人目を妊娠中の田辺さんが、里帰り分娩で実家に帰る前に私に会いに来られました。 「お産のことは怖い思い出になってしまって、夫婦の間で話すことはなかったんですが、浩の一歳の誕生日の日に主人が、『浩は社会の役に立つ人に育てる』と言い出したんです。訳を聞くと、『お産の後、目黒さんが、私がたすけたのと違う、お産の神さんがたすけてくれはったんよ。神さんがたすけたんやから、社会の役に立つ子に育ててねって言わはった。だから約束したんや』って。それを聞いて私、やっぱりって納得したんです。 目黒さんが一回目に私のお腹を押した手は、冷たい手でした。喝を入れられて二回目、目黒さんの冷たい手の他に温かい二本の手、合計四本の手が私のお腹を押してたんです。温度差があったのではっきり分かりました。 本当にお産の神様がたすけてくれたんですね。浩はお約束通り、社会の役に立つよう育てていきます」 ニコニコしながら、そう言ってくれたのです。 「手が四本って…。あの時、教祖も一緒にお腹を押してはったんや…」 サードマンの存在を産婦さんと共有し、あの時も、この時も、教祖が側にいて加勢して下さっていたことを確信したのでした。 水にたとえて 教祖は、私たち人間が得心しやすいように、生活に根差したあらゆる例えを用いて教えを説かれています。例えば、人の心は「水」に例えられています。   これからハ水にたとゑてはなしする  すむとにごりでさとりとるなり (三 7) 透き通るように澄んだ水もあれば、濁っている水もある。それに例えて話しをするから、しっかり悟りとるようにと仰せられます。 『天理教教典』には、 「人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁っているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた」 と記されています。 また、親神様の思いに添わない、自己中心的な心遣いを「ほこり」に例えて戒められ、         せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ  神がほふけやしかとみでいよ (三 52) と、そうした「ほこり」の心遣いを払うためには、親神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をすることが大切であると諭されています。 水や箒など、誰もが生活に必要なものに例えてお教えくださるのは、水槽に少しずつ水を蓄える如く、徐々に私たちに深い思わくを理解させていこうとの親心からなのです。 それと同様に、直筆による「おふでさき」では、親神様の呼び方、「神名」についても、最初は「神」といい、次に「月日」と呼び、更には「をや」という呼び方を用いて、徐々に身近な存在として理解できるようにご配慮下さっています。   にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもふてしやんしてくれ   (一四 34)   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる   (一四 35) 人間も子供が可愛くて仕方がないであろう、神もそれと同じであると、私たちが我が子を慈しむ親心によせて、お教え下されています。 親神様はすべてにわたりご守護下さる絶対的な神であると同時に、ただ仰ぎ見るばかりの遠い存在では決してないということ、日頃のささいな喜びや悲しみまでも、すべてを打ち明け、すがることの出来る親身の親であり、どこまでも身近な存在であることを教えられています。 たとえそのお姿は見えなくとも、日常の暮らしにおけるどんな場面においても、親神様は私たちのすぐそばにおられるのです。 (終)
サードマン現象(前編) 助産師  目黒 和加子 「勝手に促進剤を中止するとは、どういうことだ!」 「夜通し促進剤を続けるなんてありえません。子宮筋が疲労して子宮破裂の可能性があります! 母と子に危険が及ぶと判断し、中止しました!」 職員通用口を開けるなり耳に飛び込んできたのは、大声で怒鳴り合う声。院長と夜勤助産師の池田さんが、休憩室で大ゲンカの真っ最中です。 「すぐに促進剤を始めるぞ!」と言い放ち、部屋を出ていく院長。その背中を睨みつける池田さん。一体、何があったのでしょう。 その二日前、破水で来院した初産婦の原さんは丸一日待っても陣痛が来ず、前日の朝から分娩促進剤の点滴を始めました。胎児を取り巻く卵膜が破れ、羊水が漏れ出すことを破水といいます。破水すると細菌が子宮内に侵入し、胎児が感染の危険にさらされます。自然に陣痛が来なければ薬で陣痛を起こし、お産を進めます。 17時の時点で子宮口は半分の5センチ開大。通常はここで点滴を止め、夜は子宮を休ませます。子宮は促進剤で強制的にギュッと縮んだり戻ったりをさせ続けられるので、疲れてくるのです。 院長は「20時まで点滴を続けよう」と言いました。20時になり内診しましたが、子宮口は5センチと変わりません。今度は「23時まで続ける」と言い、車で外出。23時に外出先から電話で、「明日の朝まで点滴続行しておいて」と指示を出しました。この時も子宮口は5センチのまま。 池田さんは、「子宮が疲労して分娩が停止しています。促進剤を中止して子宮を休ませてください」と上申しましたが聞き入れてもらえず、中止を自分で判断しました。 翌朝、院長が来てみると促進剤は前日の23時で中止されていて、バトルとなったようです。 申し送りを受けた日勤の私。怒りが治まらない池田さんに、「今日のところはゆっくり休んで」と声をかけ、原さんのいる陣痛室に行くと、とんでもないことになっていました。 引きつった顔の原さんがお腹を抱えて息み、強烈な痛みで言葉も出ない様子。促進剤の点滴量を調整するポンプの設定が、なんと通常の倍の量になっているではありませんか。院長が早くお産にしようと量を多くしたので、子宮の収縮が強くなり過ぎ、過強陣痛となっているのです。 すぐに促進剤を中止。分娩室に入れて内診すると、子宮口はほぼ全開大。このままお産になると判断し、病衣をめくるとお腹に薄茶色の縄のようなものが浮かび上がっています。 「まさか、これって…。バンドル収縮輪や!」 助産学の教科書でしか見たことのない、子宮破裂の前に現れる「バンドル収縮輪」が目の前に。 「まずい。このままでは子宮が破裂して母児共に命がない!」 バンドル収縮輪を見た院長は青ざめ、「T病院に搬送をお願いしてきますッ!」と大慌てで電話をしています。 すぐに救急車が到着。原さんとご主人を乗せ、T病院へ出発するその時、「僕は外来診療があるので、目黒さんが乗って行って」と院長。 「何言うてるんですか! ドクターが行かないと途中で何かあったらどうするんですか!」 「日勤の医者は僕一人やし、外来の患者さんを待たせてるので」と、立ち去ってしまったのです。 そのやりとりを聞いていた救急隊員が、偶然にも私が以前に分娩介助した秋本さんのご主人でした。 「目黒さん、どうする?」 「押し問答してても時間のムダや。秋本さん、突っ走って!」 「任せてください!」 救急車は原さんとご主人と私を乗せ、飛ぶようにT病院へ。この車中で私は不思議な体験をしたのです。 震える原さんの手を握り、「すぐに着くからね」と励ましつつも、バンドル収縮輪は一層くっきりと浮かび上がり、破裂寸前。 「神さん、私の寿命、好きなだけ差し上げます。原さんと赤ちゃんをたすけてください!」と身を捨てる覚悟を決めました。 「あ、T病院が見えた」。一瞬気が緩んだその時、気づいたのです。誰かが私の背中をさすっていることに…。 振り返ってみると、ご主人は椅子に腰かけて震えています。 「ご主人と私との間に誰かいてる…。これは何?」 不思議に包まれると同時に、T病院に到着。分娩室に運び入れ、3分後に出産。子宮破裂はギリギリのところで回避されました。 T病院からの帰りのタクシーの中。ドキドキが治まらず、深呼吸すると背中がスースーするのに気づきました。 「あれ、ブラジャーのホックが外れてるわ。なんで外れてんのやろ?」 ブラジャーのホックは簡単に外れません。なぜ、外れているのか。女性のリスナーさんは分かりますよね。背中を強くさすられたから外れたのです。 頭の中がザワザワしながら、思い出したのは、数か月前にNHK教育テレビで見た「地球ドラマチック」という番組。テーマは「サードマン現象」。第三の存在という意味です。 「サードマン現象とは、遭難や漂流、災害現場などで絶体絶命の極限状態に置かれた時、奇跡の生還へと導いてくれる目に見えない第三者の存在を感じること」と説明されていました。 その時は、「なんやそれ。根拠のないこと言うて」と流していたのですが、「けど、スースーする背中は現実や。私の背中をさすっていたのはサードマンなんやろか?」と思案をめぐらせていると、過去に同じような経験を何度もしていることに気づいたのです。 「子宮が収縮せず胎盤剥離面から大出血したMさんの時、産道から子宮の中に手を入れて圧迫止血する私のそばに誰か居てた。息遣いを感じたよな」 「へその緒が四重に巻きついて産道で動けなくなったYちゃんの時、誰かが私の背中にくっついて、二人羽織状態で赤ちゃんを取り上げたっけ」 「薬剤性ショックで血圧低下したFさんの時は、頭の中がコンピューターのようになって、優先順位をはじき出して抜かりなく処置できた。あの時は自分の頭の中が自分じゃないみたいやった。危機一髪の時に出てくるのは、いったい誰なんやろう?」 そんなある日、私の周りに現れるサードマンが分かったのです。それを教えてくれたのは、これまたNHKのテレビ番組。 その正体は…来週の後編で。 夫婦揃うて 大阪で左官業を営んでいた梅谷四郎兵衛さんは、入信して間もない頃、教祖から「夫婦揃うて信心しなされや」とのお言葉を頂きました。四郎兵衛さんは早速、妻のタネさんに「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ」と話したところ、タネさんはこれに素直に従い、夫婦で熱心に信仰を始めました。(教祖伝逸話篇92 「夫婦揃うて」) 信仰の先人の中では、おしどり夫婦の代表のような四郎兵衛さんとタネさん夫妻。四郎兵衛さんはおたすけに出向く際には、タネさんに場所や人物、お願いの筋を必ず詳しく伝え、タネさんもそれを一心に受け、留守番をしながら必死にたすかりを願ったと伝えられています。 明治十五年、教祖が奈良監獄署へ拘留された時の話です。この時、四郎兵衛さんはお屋敷に滞在しながら、朝暗いうちから起きて、奈良までの約12㎞の道のりを差し入れのために通っていました。 奈良に着く頃に、ようやく空が白み初め、九時頃に差し入れ物を届けてからお屋敷へ戻る毎日でした。ある時は、監獄署の門の中へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん」と警官に脅かされたり、帰ったら帰ったで、お屋敷の入り口では張り番の警官にとがめられ、一晩中取り調べを受けるなど、毎晩二時間ぐらいしか寝る間がない有様でした。 十二日間の拘留の末、教祖は大勢の人々に迎えられ、お元気にお屋敷へ帰られました。すると教祖は四郎兵衛さんをお呼びになり、 「四郎兵衛さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」 と仰せられました。 四郎兵衛さんは不思議に思いました。監獄署では、差入れ物をするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかっていないのです。それに、自分のそのような行動を、他の誰かが申し上げているはずもありません。 ところが、その頃、大阪で留守番をしていた妻のタネさんが、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をしていたのです。(教祖伝逸話篇106「蔭膳」) 四郎兵衛さんとタネさんが、夫婦で心を一つに合わせ、教祖を思うその真実を見抜き見通され、教祖はそのようにお声を掛けられたのです。 お言葉に、   ふたりのこゝろををさめいよ  なにかのことをもあらはれる(四下り目 二ッ) とあります。 どんな中でも夫婦が心を一つに治め、一すじ心で通る中に、陽気ぐらしへの道が開かれることをお教え下されています。 (終)
ピンポンが押せなくて… 兵庫県在住  旭 和世 ある日、中学生の娘が「今日友達に天理教の布教してきた~」と言います。「ええ?そうなん?どんな布教したん?」と聞くと、 「うちの家は、普通の家と違ってお寺っぽいから不思議がられるねん。だから、うちは天理教の教会やで~って紹介したら、友達が『私のおばあちゃん家の近くにも天理教あるわ~』とか、『結構色々な所にあるよな~』って盛り上がってさ~」と嬉しそうに話しています。 若い人達の間で、自分の推しや好きなものを友達に紹介したり広めることを「布教」と言うのが流行りのようで…。道を伝える「伝道」とはまたちょっと違った意味にはなりますが、娘がそうやって教会について楽しく紹介してくれたことを嬉しく思いました。 私自身も天理教の教会で生まれ、育てて頂いたので、友達が家に来ると、神殿のぼんぼりなどを見て「大きいお雛さんやな~」とか、「広くていいなあ」などと言われてちょっと嬉しかったことを思い出します。 でも、だんだん成長するにつれて、友達に説明したり、天理教について話したりすることが難しいなあと思うようになりました。時々、親について行って神名流しをしたり、戸別訪問をすることがありましたが、特に母は電車に乗っていても、病院や買い物に行っても、隣にいて仲良くなった人にいつでも神様のお話をするような人でした。内心、「お母さんすごいな~。私は恥ずかしくてそんな話できないわ~」とずっと思っていました。 そんな中でも、教会に出入りされる方が、神様のお話を聞いて心の向きが変わり、幸せになっていく姿をたくさん見せて頂いてきたので、「やっぱり神様はおられるんだ。これは真実の教えなんだ」と実感することも度々でした。 その後、私は教会の後継者さんとご縁があり、教会に嫁がせてもらいました。ところが、育児や日々の生活に必死で、布教・にをいがけに出ることがほとんどなくなっていました。「こんなことでいいんだろうか」と思いながらも、外に出ずにいると、どんどん気持ちが沈んでいって、喜べない自分に自己嫌悪がつのる毎日でした。 そんな時、近くの教会の同年代の奥さんにその悩みを打ち明けたことがきっかけで、「一緒ににをいがけをしよう!」となり、近隣の奥さん達にも声をかけ、月に数回にをいがけに回らせて頂けるようになりました。みんな子育て道中で、それぞれ悩みや事情を抱えながらも、子供達を連れて神名流し、路傍講演、戸別訪問が出来るようになりました。 中でも、私が緊張するのは戸別訪問です。インターホンを押すのに勇気が要って、「もし出て来られたら何て言おう…」とドキドキしながら回っていました。 そして、ドキドキしながらも思い出したのは、若い頃、大阪にある「花園布教修練所」で三カ月間、布教の勉強をさせてもらっていた時のことでした。寮生活をしながら、毎朝にをいがけに出る時にみんなで掛け合う言葉がありました。 匂いが掛からなんだら掛からんでよろしい お救けがあがらなんだらあがらんでよろしい 食えなんだら食わんでよろしい そんなこと神様のなさる事や あんたはただ歩いたらええのや 雨の日も風の日も毎日な 歩けんようになったら座ったらええ 神様の領分と人間の領分 はっきり分けることが肝心や 賢うなったら道は通れん 喜び湧いてこん 神様の邪魔をしているようなものや この道は実行 ひながたの道通るより他に道はない この言葉が頭に浮かんできました。 そうか、自分に何が出来るのか、何を話すのかとオロオロしていたけれど、そうじゃなかった! 神様の領分! 神様のなさること! だから私は、教祖のお供をさせてもらったらいいんだと、心が軽くなり、勇気が湧いてきました。 すると、嫌そうな顔をされたり、ちょっと怒られたりしながらも、頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言って、そのお家の幸せを祈りながら回れるようになりました。 そして不思議なことに、普段の生活の中でも、それまで喜べなかったことがとても小さなことに感じられたり、にをいがけで断られる度に、知らず知らずのうちに高慢になっていた自分の心を低くして頂いているなあ、ありがたいなあと、喜びがどんどん増えていきました。 そんなある日、大教会の団参を控え、一人でも多くの方におぢばに帰って頂きたいと、教会につながる方や、まだおぢばに帰ったことのない方に声をかけていました。もう一人、もう一人と思っても、なかなかいい返事はありませんでした。 そんな中、花園布教修練所で教えて頂いた言葉がまた浮かんできました。 「信仰は裏付けが大切。ご守護頂くには、理づくりや伏せ込みが大切だよ」と聞かせて頂いていたので、とにかく理づくりのために歩かせてもらおうと、時間を見つけては歩いていました。 そして、いよいよ団参の前日です。その日もお誘いに歩いていました。けれど、いつものようにお断りばかり…。もう少し、もう少しと歩きましたが、とうとう時間が来て、肩を落としながらトボトボと坂道を歩いて帰ろうとしていました。 すると、坂の途中で一本の電話がかかってきたのです。以前、団参にお誘いしていた未信者のおじさんでした。 「旭さん、明日、なんか天理に行く言うてはりましたなあ。ぼく、それ行きますわ」とのことです。 私はとても驚き、「あ~、親神様が働いて下さったんだ、教祖が導いて下さったんだ」と胸が熱くなりました。その方はその後、別席を運ばれ、ようぼくになって下さいました。 「どんな所にをい掛かるも神が働くから掛かる」(M26.7.12) というお言葉がありますが、私のこんなつたない「理づくり」にも、神様のお働きを見せて頂けたことに、心から喜びを感じました。そして、神様に受け取って頂けるための理づくりの大切さを、実感した出来事でもありました。 「自分の智恵や力には限界があるけど、神様のご守護は無限大だよ」と、よく母が言っていた意味がようやく理解できた気がしました。 インターホンがなかなか押せず悶々としていたあの日のことを思うと、またこうやって、にをいがけに歩けるようになって本当に良かった。今でもインターホンを押す時はドキドキしますが、あの頃のドキドキとは少し違って、「この扉の向こうには、どんな方が待っていて下さるのかな。教祖が導いて下さる方だから、きっと前生からご縁のある方だろうな」と思えるような、楽しみなドキドキに変わっています。 そして、私が連れて一緒に歩いていた子供達はと言うと…。今では成長し、にをいがけに出る私に「よくやるわ~」と言います。 かつて私が母に抱いていた気持ちと同じだなあと、微笑ましく思いつつ、一緒に歩いた日々は、子供たちにとってきっと無駄にはならないと信じて、先を楽しみにしています。 だけど有難い「初詣はするものの…」 年の初めに、大勢の人が初詣に行きます。そして「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」などをお願いします。なぜ、そうしたことをお願いするかというと、自分の力では実現できないからです。その際、大半の人はタダでお願いはしないものです。お賽銭を上げます。「良い年=一一一四円」、あるいは「福来い=二九五一円」などと縁起の良い数を金額にしてお願いするのです。それくらいのお供えでたくさんお願いするのは、ちょっと厚かましいのではとも思いますが、それはさておき、一生懸命にお願いをします。 しかし、どうでしょう。年末になって「おかげで家内安全で過ごせました」とお礼に来る人で神社が溢れ返るといった話を聞いたことはありません。毎年ひっそりと年の瀬を迎えます。そして新しい年を迎えると、いきなり大勢の人が初詣に訪れて、また「家内安全」「家運長久」「商売繁盛」を願うのです。要するに、願いっ放しなのです。お願いが叶っても、お礼はしない。 私たちは、親神様のご守護のおかげで生きているということを知っています。一年間、家族が元気に過ごさせていただけたこと一つをとっても、どれほど有難いことかと思わずにいられません。そうしたことを忘れることなく、お礼をさせていただかなければならないと思います。 今年一年、家族のうえに、自分自身のうえにお見せいただいたこと、頂戴したご守護をしっかりと噛み締める。そして、ご恩を感じたなら、ご恩報じの道を歩ませていただく。実はそうすることが、いま頂戴している幸せを深く味わい、さらに次の幸せの種を蒔くことになるのです。 世界では大きなテロ事件がたびたび起こり、ずいぶん警戒しているという話を聞きます。自爆テロをする人たちは、自爆すれば死んで天国へ行けると教えられているのです。イスラム教だけではありません。キリスト教も仏教も皆、死後の安寧、死んで天国や極楽へ行く道を説いています。 教祖は、「こゝはこのよのごくらくや」と教えてくださいました。人間は、この世で陽気ぐらしを味わわせていただくのであり、死んでから行く天国はないのです。出直してもまた、この世に生まれ替わってくるのです。そのことが分かれば、自爆テロをするような人は出てこないはずです。 私たちは、陽気ぐらし世界実現の御用にお使いいただくようぼくです。一日も早く、一人でも多くの人に、この道を伝え、そして、生きて極楽を味わえる世界に立て替わるよう、共に働かせていただきたいと思います。 (終)
心の生活習慣

心の生活習慣

2025-12-26--:--

心の生活習慣 福岡県在住  内山 真太朗 近年、生活習慣病になる人が増えているようです。これは日々の食生活や生活リズムなど、何気ない小さな事の毎日の積み重ねが大きな要因の一つと言われていますが、人間関係で起こってくる事情も、これと同じ事なのかもしれません。 ある教会月次祭の日、おつとめも終わり、参拝者も帰られ、ひと息ついていた時、自転車に乗って教会に入ってくる人がいました。見れば、ついさっきまで一緒に月次祭を参拝していた信仰熱心な75歳の女性、タカコさん。 よく見ると、自転車に荷物をいっぱい積んでいるので、てっきりバザーに出す品を何か持ってきてくれたのかと思い、声をかけると「ちょっとしばらく教会に泊めてほしい」と言います。突然のことで驚きましたが、話を聞くと、夫婦げんかをしたとのこと。 タカコさんは、80歳になるご主人と夫婦で二人暮らし。ご主人は、若い頃は銀行マンとして支店長まで勤め上げ、社会的な信頼も非常に厚く、地域でも色んな役をつとめておられた方です。しかし、家庭では厳しく、ちょっと気に入らない事があると奥さんに当たり散らし、ひどい時には手が出てしまうこともあると言います。 教会月次祭のこの日、予定していた時間よりタカコさんの帰りが遅かった事にご主人は腹を立て、「だいたいお前は嫁としてのつとめが全く出来ていない!もう出ていけ!」と大激怒。そこまで言われると、売り言葉に買い言葉で、タカコさんは「出ていけと言われるなら出ていきます!」と言って、荷物をまとめて家を出て、行くところもないから教会に来た、ということでした。 まあ、せいぜい2、3日もすれば気持ちも落ち着いて帰るだろうと、最初は軽い気持ちで見守っていました。ところが、それから一週間経ち、二週間、三週間経っても一向に帰る気配はありません。 タカコさんは教会に来てからというもの、朝づとめ前から起きて、お掃除や洗濯、子供の世話まで、教会の用事は何でもやってくれるので助かりはしますが、ご主人の事が心配じゃないのかと尋ねると、「あの人は家事も自分でするし、一人で生きていけるから大丈夫」とキッパリ言います。 教会に来て一か月が経ち、ご主人から電話が掛かってきました。「もう帰ってきてくれ」と。私は内心、「あー良かった。これで治まる」と思い、タカコさんに電話を変わると、「あなたはこの前、私の事を全否定しましたね。私にあなたの嫁はもう務まりませんから、帰るつもりはありません」と平然と言ってのけ、電話を切ってしまいました。 これ以降も、何回もご主人から電話がありましたが、頑なに同じ返事を繰り返します。とうとう、事情を聞いたご主人の親族から連絡があり、「教会にご迷惑をおかけして申し訳ありません。ついては本人と一緒に教会に行って、タカコさんと話し合います」とのことで、早速来て頂きました。 あんなにお元気だったご主人がげっそり痩せて、歩くのもやっとの状態。奥さんに出て行かれてから一か月、まともな食事をしていなかったそうです。 教会で、一か月ぶりの夫婦再会。タカコさんと顔を合わせた瞬間、ご主人はボロボロ涙を流され、「私が悪かった。申し訳なかった。この一か月、お前のいない生活で、いかに自分が一人で生きていけないかが分かった。頼む、この通りだから帰ってきてほしい。もう一度、私にやり直すチャンスを下さい」。 大の男の魂のさんげ。それに対してタカコさんは、「私の事は先立ったと思って一人で生きて下さい。世の中には独り身の男性は大勢いますから。私はもうあなたの元には帰りません」とキッパリ言います。そこから一時間、話は平行線のままでその日は終わりました。 これはさすがに放っておく訳にはいかんと思い、とにかく私は第一にげっそり痩せたご主人が心配でしたので、それから毎日、タカコさんには内緒で、教会から食事を持って自宅にうかがい、ご主人と色々話をしながらご飯を食べることを続けました。 そして肝心なのは、タカコさんの心の向きを変えることだと思い、本人とねりあいを重ねました。しかし「ご主人も反省されているし、一度帰ったらどうでしょう」といくら説得しても、全く動く気配はありません。 タカコさんは教会生まれ、教会育ちで、おぢばの学校も卒業しており、教理や夫婦についての教えをしっかり理解しています。その上で、「私はね、結婚して40年以上、主人に何とひどい事を言われようが、ずーっと我慢して、夫を立てて通ってきました。おかげで家も建ち、たった一人の息子も立派に独り立ちしてくれました。夫婦二人になった今、もう余生は生まれ育った実家の教会で過ごしたいんです」と、年を重ねたご婦人の切実な思いを語ります。 「みかぐらうた」に、「ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんものなるぞ」とありますが、人の心、気持ちを変えるという事は実に難しいものです。 これはまず神様に働いてもらうより他ないと思い、私はその日から毎日、一日6回のお願いづとめ、そして12下りのてをどりをつとめさせて頂きました。それに加えて思案したのは、息子さんにこの事情をきっかけに、信仰に目を向けてもらいたいということでした。 私とは幼馴染で、当然両親の状況も知っている彼ですが、国立大学の先端技術研究者として日夜研究に励みながら、授業も担当して多忙を極め、しかも遠方に住んでいるのでどうすることも出来ないとのこと。 そこで私は、「自分たちではどうにもならない事を神様にお願いする以上は、自分たちが今まで出来なかったような事を神様に約束したいんだ。是非とも、久しぶりにおぢばがえりをして、別席を運ぶという約束をしてもらえないだろうか」と彼に話をしました。 すると彼は、「自分も何とか両親には仲直りしてもらいたいと思っている。実は大学の隣りに天理教の教会があって、お昼休みに毎日参拝に行っているんだ」と。彼は子供の頃、教会の鼓笛隊に入っていたので、参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来るのです。 そして、「別席もずっと声を掛けられていたけど、なかなか気持ちも向かなかったし時間も取れなかった。でも、こういう時に折角声を掛けてもらったから、久しぶりにおぢばがえりをしよう」と、別席を運ぶことを約束してくれました。 さて、それから3日後、約二か月近く教会にいたタカコさんが突然、「うちに帰ります」と言い出しました。え?突然どうして?と驚いて話を聞くと、「やっぱり自分の家と主人が気になるから、もう一度やり直してみます」と言って、いともあっさり帰って行きました。 数日後、さっそくご夫婦で教会にお礼に来られました。夫婦でたくさん話し合ったそうで、ご主人も笑顔を取り戻しておられました。息子さんが日々、時間を作って参拝していた真実、そして別席を運ぶと心定めをした真実を、神様がお受け取り下さった姿だと思いました。 夫婦や親子関係、仕事場での人間関係のトラブル、または借金などの金銭トラブル。これらは「心の生活習慣病」と言えるのかもしれません。 普段の家族や周囲の人たちに対する何気ない心遣い、心の生活習慣を、お道では「ほこり」と教えて頂きますが、それが積もり重なると、さまざまなトラブルや事情が起こってきます。 タカコさんとご主人のトラブルも、40年間もの日々の「心の生活習慣」がもたらした出来事だったのです。 教祖は、様々なお言葉や行いによって、日々の通り方の大切さを教えられています。教えを自らの心のほこりを払う箒として日々を通り、それによって家族がたすかり、周りの人がたすかるご守護を頂けるように、これからもつとめさせて頂きたいと思います。 尽くした理は末代 日ごろ私たちは、どれくらいの時間の幅を意識しながら生きているでしょうか。理想と情熱に燃える若き時代は、何十年先の将来を見つめていたこともあるでしょう。仕事や子育ての慌ただしさの中で、今日明日のことしか考えられない時期もあるかも知れません。その状況や年齢によって、時間の価値や感じ方が違うのは当然のことです。 いずれにしても、総じて人の視野には、自分の一生という限られた時間しか映ってこないのが普通のことのようです。人生八十年、九十年は当たり前、百年時代の到来とも言われる昨今ですが、その年月の中で、自ら成したことの結果を求めるのが人間というもの。 この教えを聞き、人間の魂は生き通しで、生まれかわり出かわりをするという「出直し」の教理を信じる者でさえ、一生の枠を超えて思案をめぐらすのは容易なことではありません。前生や来世のことは、私たちには分からない神様の領域の話です。 しかし、神様の教えの中には、「末代」という言葉がしばしば出てきます。一代、二代、三代と世代を重ね、いのちが途切れず続いてゆく。それは私たち人間にとっては大きな慶び事です。そうした視点で神様のお言葉を味わってみると、そこには悲観的な未来よりも、より発展的な未来を想像することができます。 「尽した理は一代やない、二代やない。末代捨てさしゃせん」(M28・5・16 補遺) 「人間は一代、一代と思えば何でもない。なれど、尽した理働いた理は、生涯末代の理である」 (M37・3・3) 道の上に尽くした理は、これから先、代々、いついつまでも消えることはない。目先にとらわれがちな私たちの人生観を、根本から変えるお言葉であり、まさに生き方の大転換を迫られているようです。 日々の心を尽くす行いを、必ず神様がお受け取り下さり、末代にわたって消えることのない理として残る。そのことが、どれほどの安心と救いになるでしょう。精一杯の努力をして、たとえその場は報われなくとも、まいた種が後々に芽を吹くのだと知れば、心は大いに勇み立ってきます。ともすれば、心を倒しそうになることの多い私たちを、これほど励まして下さるお言葉はないと思うのです。 (終)
あるタイ人の若者と天理教の出会い タイ在住  野口 信也 タイにはラームカムヘーン大学という、高校卒業資格を持つタイ人であれば誰でも入学できる大学があり、40万人を超える学生が学んでいます。ただ、入学が簡単で学生数が多いため、講義はモニター越しで行われることがほとんど。やる気のある者には広く門戸を開いて受け入れるが、真剣に学ばない者は卒業できないという、日本にはないタイプの大学です。 ある時、この大学に通っていたK君と知り合いになりました。彼は、私が再留学した時に住んでいたアパートの駐車場にある店舗で雑貨を販売していました。K君はとても気のいい人で、アパートの住人や警備員など、誰とでも気さくに話し、私もすぐに彼と仲良くなりました。 K君は人付き合いが良く、友達も多いのですが、勉強が少し苦手なようで、大学卒業は難しいかな、といった感じでした。 K君は私と仲良くなるにつれ、タイ出張所へ参拝に来たり、子供会などの行事に参加したり、時には友人を誘って参拝に来るなど、次第に天理教に関心を持ってくれるようになりました。そこでK君には、大学を卒業出来なくても、仕事を始める前に、少しでも天理教のことを学んでもらいたいと思うようになりました。 天理教には、人生で本当の幸せをつかむための心の使い方と身の行い方を、人類のふるさと「ぢば」で3カ月間学ぶ「修養科」という所があります。たすかりたいという心から、たすけたいという心、人のために尽くす心に生まれ変わる場所です。 1988年から、修養科にも隔年でタイ語クラスが開催されるようになり、K君にもぜひ修養科に入ってもらいたいと思っていました。しかし、修養科の費用や日本での滞在費、航空券代など、とても当時の彼にはそうした費用は捻出できません。また、私が費用を出してまで行ってもらう意味があるのかどうかと悩んでいました。 そうした時、ある先生から、「子供が成人するまで面倒を見るのが親の役目。費用は親の立場である導いた者が負担させてもらう。そうすることで、導かれた信者さん自身はおぢばで伏せ込んだ徳を頂き、費用を出し導いた者は半分徳を頂くことになります」とのお話を聞きました。それで決心がつき、K君に話をしてみると、大学のことも気にかかっていたようですが、日本へ3か月間行けるという楽しみが勝り、すぐに承諾してくれました。 そうしてK君は、翌年の5月から開催された修養科タイ語クラスに入学しました。一か月が経った頃、K君の関係者から、大学での試験にパスして卒業に必要な単位を取得できたとの連絡があり、K君は涙を流して喜びました。彼にとっては、本当に人生のいい分岐点になったのだなと感じました。 さて、修養科を終えタイへ戻ったK君、次は就職です。悩んだ末、高校時代から付き合っている彼女の勧めで公務員の試験を受けました。9年かかってようやく大学を卒業した彼はすでに29歳、何とかギリギリの点数で採用され、雑用係からのスタートとなりました。 その2年後、タイ出張所で行われた、修養科に志願する人たちの事前研修会でK君に修養科の感想を話してもらいました。彼は、授業はタイ語だったので問題はなかったけれど、生活する詰所ではタイ語が通じなかったことや、日本人の修養科生との共同生活での苦労などを語り、「でも、私の人生にとってはよい経験になりました」と話してくれました。 そして35歳の時、レクリエーション課長に就任した彼は、ようやく高校時代から付き合ってきた彼女と結婚しました。タイ出張所で天理教式の結婚式を挙げ、その後、タイ式結婚式、披露宴と続きました。 K君の田舎から、彼の母親と家族がバンコクへやって来ました。彼は「僕は9番目の子供で、一番の問題児だった。その僕がこんなに盛大な式を挙げられて本当に嬉しい」と話しました。また、K君の奥さんと家族からは、「天理教のおかげで彼は変わりました」と、お礼を言って頂きました。 それもそのはず、就職してからのK君は、何か思うことがあったのか、大学の土曜日、日曜日コースへ通い始め、就職前に取得した経営管理学士の他、政治学士の資格を取得しました。その後、超難関のチュラロンコン大学の法学部も卒業し、バンコク都内の病院の法律顧問を始めたりと、仕事も順調なようでした。 そして2011年、私がタイ出張所へ赴任してからは、修養科の費用やその時の滞在費、航空券代などを返済したいと、私の銀行口座に毎月少しずつ振り込みをしてくれるようになりました。それは、教祖140年祭へ向けてのお供えと併せて、現在も続いています。 その後も彼は時間を惜しんで勉強し、法学修士、政治学修士の資格を取得しました。さらに大学院で環境開発管理博士号を取得、バンコク都庁の広報室長を経て環境局長に就任し、メディアにも登場するようになりました。まさに昇り竜の如き出世です。 異例の速さの昇進で、コネもなく、権力にも興味のないK君自身が不思議がっているほどでした。ただ、一番下っ端の雑用係からスタートした彼は、どの立場の人に対しても気さくに声をかけるなど、優しくて人望があり、それが一つの大きな要因になったのかもしれません。 私がタイ出張所に赴任してから、ひのきしんデーなどの対外行事では、K君は関係者に連絡を取り、適切な場所や人を紹介してくれています。彼が環境局長の時には、天理大学から、国際交流プロジェクトに参加する学生に向けた研修を開きたいとの依頼がありました。早速彼に連絡をすると、バンコクのチャオプラヤー川という大きな川での清掃作業の企画が立ち上がり、26名の学生らに対して、15台の船と約80名ほどのスタッフでサポートしてくれました。 また、2024年9月、天理教の青年会本部がタイへの布教キャラバン隊派遣を検討するため、真柱継承者の中山大亮様を筆頭に、青年会委員のメンバーが来訪した際には、青年会とタイの天理教信者が共に活動を行えるように尽力してくれました。 この時は、バンコク都内の係官たちも準備段階から快くお手伝い下さり、電車公園という大きな公園で、子供たちの遊具のペンキ塗り作業を約120名の方々と共に行うことが出来ました。 するとその直後、2024年10月1日付で、K君はバンコク都庁事務次官に任命されました。バンコク都庁職員10万人を指揮する最高指導者の数名の中に選ばれたわけですから、一般採用の彼にすれば、ほぼ最高到達点といっても過言ではないでしょう。タイの信者さんたちもそうですが、K君本人が一番驚いたようでした。 K君とは月一回の割合で二人っきりで飲みに行きますが、何よりも一人息子が医者になってくれたことが嬉しいと話してくれます。仕事でも、これまで自分が要職につけたことを大変不思議に感じ、喜んでいるようですが、家族のことが彼にとっては特に嬉しいようです。 彼自身は大きな声で「天理教の信仰のおかげです」とは言わないのですが、言葉や態度の端々に神様への感謝が感じられます。退官後は病気がちな妻と一緒に、もう一度修養科へ行きたい、そう言ってくれています。どんな言葉より彼の信仰に対する思いが伝わってきました。 これが天理や 教祖はよく、お屋敷へやってきた若者と力比べをすることがありました。そうして神の厳然たる力を示されるとともに、信仰の要諦についてお教え下されています。 明治12年秋、大阪の中川文吉さんが、突然眼を患い、失明寸前の状態となりました。近所に住む井筒梅治郎さんのおたすけにより、三日のうちに鮮やかな御守護を頂いた文吉さんは、翌明治十三年、お礼詣りに初めてお屋敷へ帰らせて頂きました。 教祖は、文吉さんに親しくお会いになり、「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう」と仰せになりました。 日頃から力自慢の文吉さんは、このお言葉に苦笑を禁じ得ませんでしたが、拒むわけにもいかず、たくましい両腕を差し出しました。すると教祖は、静かに文吉さんの左手首を握られ、次いで文吉さんに、右手で教祖ご自身の左手首を力の限り握り締めるようにと、仰せられました。 文吉さんは仰せ通り、力いっぱい教祖の手首を握りました。すると不思議なことに、反対に自分の左手首が折れるかと思うほどの痛みを感じたのです。 文吉さんは、思わず「堪忍して下さい」と叫びました。すると教祖は、 「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」 と仰せになりました。(教祖伝逸話篇75「これが天理や」) スポーツにおけるトレーニングでも、力を入れ、負荷をかけることによって体力はついていきます。信仰において鍛える部分は、唯一自由に使うことを許されている「心」。この信仰は「願い通りの守護」ではなく、「心通りの守護」であると教えられます。子供の方から力を入れるとは、即ち親神様にもたれて精一杯信仰の実践に努めることです。 親神様は、私たちが日常、どれほど真実を尽くし、心を尽くして働いているか、その力の入れ具合をご覧下さっています。「この人はこれだけの基礎体力があるはずなのに、まだまだ出し惜しみ、使い惜しみをしているな」と判断されれば、親神様も力をフッとゆるめてしまわれるかも知れません。 日々、信仰実践によって基礎体力をあげながら、いざという時は、力の限りを総動員して親神様にもたれ切る。その時親神様は、ビックリするほどのご守護をお見せ下さるに違いありません。 (終)
陽気ぐらしの扉は自分で… 大阪府在住  山本 達則 家族の存在は当たり前で、それ自体に幸せを感じることを、忘れがちになってしまうことが多いように思います。それどころか、時には煩わしい存在になったりする事も少なくないと思います。 家族だからこそ言えること、言ってもらえることがある。それは本当は、自分自身にとってとても大切な存在のはずですが、かけがえのないものなのだと気づく時は、それを失った時だということもあるのではないでしょうか。 でも、それは「当たり前だ」という思いがもたらすのです。全ての人が、当たり前に与えられるわけではありません。 ある家族の話です。 会社員のAさんは、奥さんとの間に高校生の男の子と中学生の女の子、二人の子がいるごく普通の家庭を築いています。Aさんのお母さんは91歳で亡くなりましたが、そのお母さんが晩年に、とても趣深いお話しを聞かせて下さいました。 お母さんは、戦後の混乱期に、実に数奇な人生を歩まれた方でした。彼女は長崎で生まれ、幼い頃に被爆し、その影響で視覚に障害がありました。戦後、一人の男性と出会い、子供を授かります。しかし、男性の家族から厳しい反対にあい、結婚どころか、子供の認知もしてもらえませんでした。彼女はそれでも子供を産み、育てて行くことを決意しました。 今以上に私生児に対する風当たりの強かった当時、その厳しい視線にさらされ、視覚のハンデを背負いながらも、必死にAさんを育てました。 そんな時、お母さんは天理教の教えに出会い、教会に足を運ぶようになりました。そして、会長さんに諭された言葉によって、大きな勇気を得ました。 「あなたもあなたの子供さんも、決して不幸ではなく、ましてや神様から罰を与えられている訳でもありません。『お父さんがいない』というご守護を頂けたんですよ。 父親がいて母親がいて子供がいる、というご守護ももちろんあって、それが当たり前だと思ってしまいがちだけど、決してそうではない。世の中には結婚どころか、出会いすらないという方もいるし、いくら子供が欲しいと思っても、授からない人もたくさんいます。目が普通に見えるのは、当たり前ではない。見えない方もたくさんおられる中で、あなたは見えにくいというご守護を頂いたんです。その上であなたは子供を与えて頂いた。素晴らしいご守護ですよね。 でもね、そのような現実を喜ぶのは言葉で言うほど簡単ではありません。けれど、それを喜べるように心を切り替えて、生活していくのが天理教の教えなんです。今の状況を心の底から喜べるようになったら、きっと神様が次の喜びを下さいますよ」 そして会長さんは、「だから、二人で教会においで」と優しく言って下さったそうです。 それから、二人は教会に住み込みました。お母さんは教会で教えを学び、ひのきしんに励みながら、昼間は外で働いて必死にAさんを育てました。教会には8年間住み込み、その後、お母さんを応援して下さる方が現れ、教会を出て親子二人での生活が始まりました。 親子は本当に仲良く、いつもお互いを労わり合い、教会にもしっかりとつながりながら、日々を過ごしました。 お母さんは、「私は周囲の人から『大変ね』とか『頑張ってね』と励まされることが多い人生でしたけど、実は私自身は大変だと思ったことはないんですよ」と笑顔で話して下さいました。 そしてAさんは、高校卒業後、公務員として務めることになりました。Aさんは真面目に働き、親子でコツコツ貯めたお金で念願のマイホームを手に入れ、その数年後、Aさんは一人の女性と出会い、結婚することになりました。 ほどなく子供も授かり、親子3代仲睦まじい家族の形ができました。お母さんの喜びようは、例えようのないものだったと思います。 そしてお母さんは、息子さん家族の幸せな姿を見ながら、91歳の長寿を全うし、出直しました。自分自身が心から望んだ「家族」に見守られながら、安らかな最期を迎えることが出来たのです。 お母さんは生前、Aさん家族の姿を見ながら、いつも「凄いね、凄いね」と口癖のように言っていたそうです。Aさんが「何がそんなに凄いの?」と聞くと、「二人が出会って、結婚して、子供も授かって、一つ屋根の下で仲良く生活出来るって、凄いことよ。お母さんは、それをあなたにしてあげられなかったもの」と。 そして、お母さんの出直す直前の言葉をAさんが教えて下さいました。 「お母さんは、もしかしたら人と比べて大変な人生だったかも知れないけど、人よりたくさんの喜びもあったのよ。だって、人が当たり前に手にしているものでも、無いことが多かったから、それが得られた時の喜びはとても大きかったの。 お母さんは、あなたにたくさんいい思いをさせてもらって、嬉しいことの多い人生だった。ありがとう」 「当たり前」だと思っている姿に、心の底から感謝の気持ちが湧いてきた時。それが、陽気ぐらしへの扉を、自ら押し開けようとしている時なのかも知れません。 人を救けるのやで 欲の心を取り払った捨て身の覚悟が大きなご守護につながるというお話が、『教祖伝逸話篇』には数多く残されています。 明治15年3月頃のこと。胸を病んで医者から不治と宣告された小西定吉さんは、近所の人からにをいをかけられ、病身を押して、夫婦揃っておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂きました。妻のイエさんは、この時二人目の子供を妊娠中でした。 イエさんが安産の許しである、をびや許しを頂いた時、定吉さんが「この神様は、をびやだけの神様でございますか」とお伺いすると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と仰せられました。そこで定吉さんは、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」とお尋ねしました。すると教祖は、「心配いらんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を下さいました。 このお言葉が強く胸に食い込んだ定吉さんは、心の中で堅く決意をしました。家へ帰ると、手許にある限りの現金をまとめて、全て妻のイエさんに渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊(てんりおうのみこと)」と書いて床の間に張り、「なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと」と、一心に神名を唱えてお願いしました。 部屋の外へ出るのは、用を足す時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いをしました。すると不思議にも、日ならずして顔色も良くなり、咳も止まり、長い間の苦しみからすっかりお救け頂いたのです。 また、妻のイエさんも楽々と男の子を安産させて頂いたので、早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖にお礼を申し上げると、「心一条に成ったので、救かったのや」と仰せられ、大層喜んで下さいました。 定吉さんが、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。そこで再び定吉さんが、「どうしたら、人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」とお諭し下さいました。(教祖伝逸話篇100「人を救けるのやで」) 「みかぐらうた」に、   よくのないものなけれども  かみのまへにハよくはない(五下り目 四ッ)   なんでもこれからひとすぢに  かみにもたれてゆきまする (三下り目 七ッ) とあります。 私たちに欲の心のあることを、親神様は重々ご承知です。その上で、「神の前」で真剣にたすかりを願う時、欲の心は自然に取り払われるのだと教えて下さいます。定吉さんの捨て身の覚悟の一すじ心の祈りを、親神様はお受け取り下さったのです。 その後、定吉さんが教祖の仰せ通りに、自分の救かった話を取り次ぎながら、人だすけの上に邁進したことは言うまでもありません。 (終)
アリガトウ大作戦 岡山県在住  山﨑 石根 今年の夏休みに、小学5年生の末娘が歯医者で舌の手術をしました。きっかけは舌小帯と呼ばれる、舌の裏側についているヒダが短いと、小学校の健診で指摘をされたことでした。 歯医者を受診すると、確かに舌を前に出そうとしても口からあまり出ておらず、これから学校で英語などを学ぶ際に発音が難しくなるだろうからとの理由で、手術することを勧められました。 さて、彼女の手術は朝イチでしてもらいました。もちろん麻酔をしているので手術中は痛くないのですが、「麻酔が切れると今日一日は痛いでしょう」とのことで、痛み止めの薬と抗生剤を処方して頂きました。また、食事は刺激のあるメニューは避け、柔らかいものを食べるように助言を受けました。 ところが、彼女は昼食も夕食も痛くて何も食べられなかったのです。 昼には妻がフレンチトーストを作ってみましたが、本人は口を動かすのも痛いようで昼食はあきらめました。夕食では、「それを牛乳に浸しながら食べたら飲み込めるかも?」と挑戦しましたが、やはり無理でした。お腹が空いているのに食べることが出来ず、とても辛そうで、私たち夫婦も切なくなりました。 その日の夜、私は末娘に、病の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぎました。神殿の参拝場にて妻も一緒にお願いをさせて頂いた後、私は娘に「かりもの」の話をしました。 天理教では、誰もが自分のものであると思って使っているこの身体は、親神様のご守護と共に私たち一人ひとりに貸し与えられた「かりもの」であると教えられます。そして、心だけが自分のものであり、自由に使うことをお許し下さっているので、神様にお喜び頂ける心遣いが大切になります。 私はこの大事な教えを末娘に分かるように伝えた上で、「こうして身体が自分の思い通りに使えなくなった時こそ、普段、当たり前のようにご飯が食べられていたことの有り難さを確認して、感謝したいよね。実は、ととも今から20年以上前に、ご飯が食べられなくなった時があるんで~」と、自分の体験を話しました。 平成13年6月17日、私は人生で初めて入院を経験しました。その2、3日前から発熱と喉の痛みがあって、次第に声が出なくなり、食べ物や飲み物が喉を通らず、ついには唾すらも飲み込めなくなりました。 当時、妻とはすでにお付き合いしていたのですが、心配して一人暮らしの私の住まいに看病に来てくれた彼女とは、筆談でしか会話が出来ませんでした。そしていよいよ限界が来て、大きな病院を救急で受診して検査をすると、白血球の数値が20,000を超える危険な状態ということで、緊急入院となりました。 翌朝、痛み止めの薬を飲み、何とか3日ぶりに食事がとれたのですが、さっそく午前中に扁桃腺を切開する手術のような処置がされました。診断名は「扁桃周囲膿瘍」という扁桃腺に膿がたまる症状で、切開で膿を排出することが必要でした。 その処置の痛いの何の! 処置の後も痛み止めを飲んだのですが、あまりの痛さに昼食は一時間かけても口に入らず、結局ほとんど残すことになってしまいました。 このような苦い体験を末娘に説明しながら、私は5日間の入院中、大勢色んな人たちがおさづけを取り次ぎに来てくれて嬉しかったことや、その時にみんながたくさん神様のお話を聞かせてくれて有難かったことなどを伝えました。 とりわけ面白くて心に響いたのは、私の母、娘にとってはおばあちゃんの話。「おじいちゃんとおばあちゃんと、ととの妹がすぐに岡山から駆け付けてくれて、やっぱり神様のお話をしてくれてね。最後におばあちゃんが、『あ んたはいっつも返答せんから、扁桃腺が悪くなるんやで』って言ったんで~」と言うと、それまで辛そうにしていた娘も、ようやく笑顔になりました。 病気や困りごとは神様からのお手紙だと聞かせて頂きます。当時の私は実際に親から、教会の月次祭へ参拝するよう、信仰姿勢を問いかけられていたのに、仕事の忙しさを理由に返答できていなかったのです。 毎日、当たり前のように会話ができ、ご飯が食べられ、お水が飲めたこと。この当たり前の中にどれほど神様のご守護があふれていたかを思い知らされた私は、日々感謝の心を忘れず、しっかりと参拝をしなければならないと決心したのでした。 さて、小5の娘には早すぎるかなぁと迷いましたが、思い切って彼女に尋ねてみました。 「あんたは今回、お口のことで神様からお手紙をもらいました。ととと同じようにご飯が食べられなくて困っているけど、どんなお手紙やと思う?」 普段から勘の鋭い彼女は、すぐに何かを察したようです。そして照れくさそうに、「口が悪い」と呟いたのです。我が娘ながら、お見事です。 そうなんです。5人兄弟の末娘なので、彼女はいつまで経っても一番下です。なので、何とかお兄ちゃんやお姉ちゃんに対抗しようとするあまり、ここ数か月、彼女の言葉遣いの悪さは目に余るものがあり、幾度となく私たち夫婦から「最近、口が悪いで」と注意されていたのでした。 あまりにも注意され過ぎて、さすがに心当たりがあったのでしょう。いいチャンスだと思って問いかけてみると、彼女も笑いながら反応してくれたので、ホッとしました。 「じゃあ、神様のお手紙にお返事を書いて喜んでもらうには、どうしたらいいかなぁ?」と、一緒に考えようとすると、「ありがとうをいっぱい言う!」と、素敵なアイデアを出してくれました。 「いいねぇ!アリガトウ大作戦やね!」 翌朝、無事に痛みも引いた娘は、有り難さを噛みしめながら、朝ご飯を食べることが出来ました。 大人の私もそうですが、誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れます。でも、親神様は365日24時間、休むことなくご守護下さいます。だからこそ、毎朝、毎夕のおつとめで「ありがとうございます」という感謝の気持ちを届ける必要があると思うのです。 どうか、娘の大作戦が一日でも長続きしますように…。 だけど有難い「非常識」 初めに、少し頭の体操をしてみたいと思います。まず、数字の一から九までのうち、どれか一つを選んで、頭のなかで思い描いてください。次に、その数字に三を足してください。それに二を掛けてください。そこから四を引いてください。そして、二で割ってみてください。最後に、その数字から、自分が最初に頭に思い描いた数字を引いてください。いくつになりましたか? 答えは一です。 実は、どの数字を選んでも答えは一になるのです。面白いですね。なぜ面白いのかといえば、選んだ数字は違うのに、結果は全部一つになる。常識を少し覆しているからです。 考えてみると、私たちが信仰しているお道の教えも非常識です。「身上・事情は道の華」と先人たちは言いました。けれども、病気や事情のもつれで悩んでいる人にとってみれば、とんでもない話です。身上・事情は不幸の種というのが常識であって、それを「華」などというのは、全くの非常識なのです。 徳積みや伏せ込みで運命が変わる。「人たすけたら我が身たすかる」とも教えられます。でも常識では、人をたすけたら人がたすかるのです。わが身がたすかるわけがない。非常識なのです。こうしてみると、お道の話はどれも非常識なのです。そして、この非常識が正しいかどうかは、実はやってみないと分からない。ですから教祖は、わざわざ五十年も自ら「ひながたの道」を通られて、私たちが分かるようにお遺しくださったのです。 どんなに美味しい物も、食べてみないと分からない。どんなに楽しいスポーツも、やってみないと分からない。お道の教えも、まさに「やってみないと分からない」のです。 今年も年の瀬が迫ってきました。お集りの皆さんは、今日ここに参拝させていただける体力があって来られたわけですから、病気で苦しんでいる人も含めて、私はまだまだ結構だと思います。 世間には、果たして新年を迎えられるだろうかと、病気に苦しんでいる人や、諸々の事情を抱えて悩んでいる人がたくさんいると思います。さらに本人だけでなく、家族、親族、友人など、一緒に悩んでいる人がいることでしょう。どうか、そんな人にもぜひ、たすけの手を差し伸べていただきたい。 自分はこうして元気に、教会に参拝してお礼をさせていただける。それで良しとせずに、そうした人たちに、たすけの手を差し伸べていただきたい。たすけるのは神様ですから、「とても自分はおたすけなんてできない」というような心配は要らないのです。神様にお任せして実行していけば、やがて気がついたら、自分も神様から大きなご褒美を頂戴していたということになってくるのです。 「人たすけたら我が身たすかる」という教えは、いま世の中の常識ではありません。しかし、お道を通る私たちは、この教えが〝世界の常識〟になるように、教祖のご期待にお応えする働きをさせていただきましょう。 (終)
たすけてもらう力 埼玉県在住  関根 健一 ある日の朝、テレビの情報番組で「受援力」というテーマを特集していました。 援助を受ける力と書いて「受援力」。地震大国と言われる日本ですが、その名の通り阪神・淡路大震災以降、全国各地で数年おきに大規模災害が起こっていて、そのたびに支援の仕組みが見直されてきました。受援力とは、そんな背景の中で注目され始めたキーワードだそうです。 災害対策の取り組みの中で「自助、共助、公助」という考え方があります。東日本大震災のように広範囲で大規模な災害が発生した時、いくら準備をしていたとしても、行政の支援である「公助」はすぐには機能しないことが多いのです。 ですから、まずは自分の力で自分の身の安全を確保するための「自助」。次に、行政の支援が届くまで身近な人とたすけ合う「共助」という考え方を元に、万が一の時に備えておくことが一般的になってきました。 そうした流れの中で、共助、公助を行う際には、誰にどんな支援が必要なのかを把握することが必要になりますが、実際は自分の困った状況を伝えられない人がたくさんいるという現状に直面するそうです。 「たすけてください」「こんなことで困っています」。言葉にすると簡単に言えそうですが、命からがらたすかった後の極限状態では、混乱しているのは当然です。しかも周囲にもたくさん困っている人がいる中で、「私より困っている人がいるのに、この程度のことでたすけてとは言えない」と思ってしまうのも無理はありません。 さらにその番組では、「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されることも要因の一つではないか?」と投げかけられ、生活保護を受けられるのに受けない人がいることなども、同じような問題ではないかと触れられていました。 テレビを観ながら、娘が通う特別支援学校のPTA会長をしていた頃に依頼され、「障害のある子供たちの『たすけてもらう力』を育む」というテーマで、教育委員会の機関誌に寄稿したことを思い出しました。 その内容は、「一般の小学校で、教育方針に『生きる力を育む』と掲げているのをよく目にします。でも、特別支援学校に通う児童・生徒の中には、食事や排泄など、生きるための必要最低限の行為にも人の手を借りなければならない子供が多いのです。彼ら彼女らが『生きる』には、『たすけてもらう』ことが欠かせないのです。だから、生きる力を育むことは、「たすけてもらう力を育む」こととも言えるのです」 大体こんな感じの内容でした。また、この時に「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されること」の弊害について言及したことも覚えています。 発達障害のある人は、あいまいな言葉のニュアンスを読み取ることが苦手です。「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」と声をかけたとしても、「その〝何か〟が何を指すのか分からない」となってしまうことがあります。 「お腹が空いてますか?」「夜眠れますか?」など、具体的に聞いてくれればイメージ出来るのですが、支援者や相談者が必ずしもそうした配慮をしてくれるとは限りませんし、すべての行為を例に挙げて聞いていくわけにもいきません。 災害時に限らず、障害のある人たちは日常からそうしたコミュニケーションによる弊害を抱えているのです。裏を返せば、障害のある人たちにも理解しやすいように、たすけてもらう力を引き出す問いかけが出来るなら、災害に直面した時にもスムーズなコミュニケーションが期待出来るのだと思います。 その番組を観た日の夕方、夕づとめで「おふでさき」を拝読し終えると、ふと、   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) というおうたが浮かびました。テレビで「たすける」「たすけられる」という言葉を耳にしていたせいかもしれません。 私たち天理教の「ようぼく」は、「つとめ」と「さづけ」の実践を通して、親神様のご守護、教祖のお働きを頂くことが使命です。この行いを私たちは「おたすけ」と呼びますが、人間をたすけるのは、あくまでも親神様のご守護であり、私たちようぼくはおたすけの主体ではありません。 言い換えると、私たちようぼくが行うおたすけとは、「親神様にたすけてもらうための手段を伝えることである」とも言えると思います。 敢えておたすけを先ほどの災害の例に重ねるならば、 「自助」は、おつとめやひのきしんを自らつとめること。 「共助」は、教会に運んで教理にふれたり、会長さんのお諭しを聞いたり、信者同士で研鑽を積むこと。 そして、その先に「公助」として親神様のご守護、教祖のお働きがあるのだと思います。 ですから、「たすけるもよふばかりをもてる」と仰る親神様のご守護を頂くために、私たちは自らおつとめやひのきしんに励み、教会に尽くし、運ぶことが大切なのだと、テレビの話題から改めて教えて頂いた気がします。 教祖140年祭のこの旬。「親神様にたすけてもらうための手段」を自ら実践し、広めていけるように心がけたいと思います。 手の使い方 神様が私たち人間にお与え下された身体の働きの中でも、手は特別に優れた器官です。実に器用で重宝で、何でもすることが出来ます。そして、そこに心を込めることで、その仕事がさらに生きてくるというのが肝心な点です。手作り、手当て、手料理、手縫い、手加減などの言葉は、いずれも心を込めて手を使っている姿を表しています。 教祖中山みき様「おやさま」は、幼少の頃から大変手先が器用で、月日のやしろとなられて後、五十歳を過ぎた頃からはお針の師匠をなされ、近所の子供たちに裁縫を教えられました。 明治十六年頃のこと。梶本ひささんは、ある晩、一寸角ほどのきれを縫い合わせて、袋を作ろうと、教祖の手ほどきを受けていました。そうして袋は出来上がったのですが、この袋に通す紐がありません。すると教祖が、「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられ、器用にそれを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下さいました。 教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へちょいちょいお越しになり、その度に、家の子や近所の子にお菓子を入れて持って来て下さったのです。(教祖伝逸話篇124「鉋屑の紐」) また、そのように器用に手先を使われることは、監獄署に拘留されている時でも変わることなく、不要な紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。 そして、お供の者にそれをお渡しになり、「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ」と仰せられました。(教祖伝逸話篇138「物は大切に」) どれだけ手に心を込めているかは、ほんのちょっとした動作にも表れるものです。教祖は、お屋敷にいる者に糸紡ぎの用事を出した時、その出来上がったものを三度押し戴かれるなど、そのお手はいつでも心と共にありました。 そして、よろづたすけの手立てとして教えられた「おつとめ」の手振りに関しては、しっかりと手に心を込めるように、特に厳しくお諭し下されています。 「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで」(教祖伝 第五章 たすけづとめ) 普段からいかに心を込めて、大事に手を使わせて頂いているか。それが、「命の切換」とまで言われるおつとめのつとめ方にも、大いに関わってくると言えるのではないでしょうか。 (終)
たすかるとは? リキゾウさんとの日々 千葉県在住  中臺 眞治 今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。 昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。 10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に4度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる?」と声をかけられます。 私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。 到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。 リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。 元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。 一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。 扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。 そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。 帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。 リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。 余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。 リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く言葉はありませんでした。 そんなある日、リキゾウさんは倒れ、救急車で運ばれたのです。脳梗塞でした。幸い一命は取り留めたものの、歩くこともしゃべることも出来なくなってしまいました。 私は何とか元のような状態にご守護を頂きたくて、毎日入院している病院へおさづけに通いましたが、容態は変わりませんでした。それから二週間ほど経った頃、看護師さんから「病院として出来る治療はここまでですので、退院の準備を進めてください」と言われました。 治療はして頂きましたが、リキゾウさんは寝たきりで起き上がることが出来ず、口はろれつが回らず、なかなか言葉を聞き取れない状況でした。 一番不安なのはリキゾウさん本人のはずですが、当時の私はそのようなリキゾウさんを教会で受け入れる覚悟が出来ず、父に電話で相談をしました。すると「とにかく明日おさづけを取り次ぎに行くから」と言って、翌日千葉の教会まで来てくれました。 おさづけの直前、父がリキゾウさんに「今、修養科に行かせてあげたい人が二人いるんだけど、二人ともお金がないから、代わりにその費用を出してあげてくれませんか?」と尋ねました。するとリキゾウさんは、うんうんと二回うなずき了承したのでした。 父がおさづけを取り次ぎ、少し話をして帰った後、私はリキゾウさんに「なんで費用を出してあげようと思ったの?」と尋ねました。その費用は、リキゾウさんの貯金からすればかなり大きな金額だったからです。するとリキゾウさんは声をふり絞って、「本当は自分がおぢばに帰りたいけど、もう帰れないから」と答えてくれました。 自分自身が苦しい中で、おぢばを思う気持ち。人のたすかりを願う気持ち。そのリキゾウさんの気持ちに私は感動しました。そして、これからどんな生活になってしまうのだろうかという不安でいっぱいでしたが、病院からの帰り道で父に電話をし、「できるところまでリキゾウさんの介護をさせてもらおうと思う」と伝えました。 翌朝、病院から電話がかかってきました。「急に容態が良くなったので、家には戻らずリハビリ病院に転院しましょう」とのことでした。 驚いて病院に行くと、そこには元のように立って歩いているリキゾウさんがいました。しかも言葉も元通り話せるようになっていました。私は感激し、「神様だね」と伝えると、リキゾウさんは大きく何度もうなずきながらボロボロと涙していました。 その後、数カ月間のリハビリ病院での生活を経て、教会に帰ってきたのですが、教会に着いた途端に号泣。おぢばがえりをした際には、神殿を見ただけで号泣。私にとっても忘れられない思い出です。 退院後のリキゾウさんは、すっかり別人のように変わっていました。以前のように腹を立てる姿はなく、「ありがとうございます」とお礼を言ったり、「どうもすいません」と相手を思いやる言葉を使うようになりました。私が神様の親心について話をすると、いつも大きくうなずきながら涙する、涙もろくて穏やかなおじいちゃんに変わっていったのでした。 以前のリキゾウさんは、とても苦しい人生を生きてきたせいか、「神様なんていない」と空しく語る人でした。 ですが、病と不思議なご守護を通して、「この世は神様の慈愛に満ちている」と感じるようになり、その思いに心が満たされていったのだと思います。 リキゾウさんは5年前、78歳で出直しましたが、生まれ変わったリキゾウさんとどこかで出会い、また一緒に一杯飲みたいな、と願う今日この頃です。 調和とバランス 私たちが生きていく上で必要不可欠なことは、何ごとによらずバランスを保つことです。 たとえば、健康に暮らすということは、身体の中の働きのバランスが、ほどよくとれているということですね。食べ物を体内に取り入れ、体内のあらゆる臓器がうまく機能して、取り入れたものをエネルギーにする。そのエネルギーを消費して、運動をしたり勉強をしたり、働いたりする。その出し入れのバランスがうまくとれている状態が、健康であることの証しです。 家庭で言えば、家族がお互い仲良くたすけ合い、支え合って暮らすのが、まさしく健康的な家庭、調和の保たれたバランスのよい家庭です。 そして生きていく上で大切なのは、目に見えるものと、目に見えないものとのバランスです。ところが私たちはややもすると、目に見えるもの、形あるものにしか価値を見いだせずに、目に見えない「心」や「精神」といったものを軽く見てしまいがちです。 それはひと言で言えば、「自分さえ良かったら、今さえ良かったら」というエゴ・利己心からくるものです。しかし世の中の調和を保ち、また自分自身が幸せの道を歩むためには、自らのエゴを抑えて、人様のため、社会のためという選択肢を選ぶことが、バランスを保つために必要なことなのです。 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、  「人をたすけてわが身たすかる」 と教えてくださいました。 まさにこの教えこそ、調和とバランスの大切さを教えてくださっています。私たちが目指すべき「陽気ぐらし」の世界は、人をたすける精神がなければ成り立たない、ということであって、これが揺るぎない天の理だと思うのです。 (終)
心の姿勢を正そう 東京都在住  松村 登美和 先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。 女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。 すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。 その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。 ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。 記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。 自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。 しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。 人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。 人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。 以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか?」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。 そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか? では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。 先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。 天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。 人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、他の考え方が出来にくくなる。切符の間違いに気づかないのは、自分は常に正しいという心の使い方が染みついた結果、と言えるかもしれません。 また、教祖はある日、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰ったことがあります。 伊蔵さんというのは、後に親神様のお言葉を伝える立場になられた、飯降伊蔵という方です。伊蔵さんは大工を生業としていたので、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を作りました。すると教祖は「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と仰せられ、続いて「隙がありませんか」と、仰せになりました。 伊蔵さんが定規にあててみると、果たして隙があります。「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下されたというお話です。(教祖伝逸話篇 31「天の定規」) 人間の目では真っ直ぐだと思っていることでも、神様から見れば、必ず狂いがある。自分はいつも正しいと思っていても、神様から見ればそうではない。 自分の身体を鏡に映して姿勢を正すように、自分の考えが本当に正しいのか、親神様の教えに自分を照らし合わせて考えてみる。それができれば、人はお互いにもっと幸せになれるはずだと思います。 徳の器を広げる 日常の行動に、その人の癖・性分が現れるのは当然の営みです。例えば、地域のごみ出しの現場においても、その行動は実に十人十色。ごみ袋をポーンと投げるように置いていく人もいれば、後から来て、人が置いていった袋をきちんとネットに被せる人、回収された後にごみ捨て場を掃除する人など様々です。 よその家のごみ袋を整理したり、ごみ捨て場をきれいに掃除する人などは、まさに教祖が教えられた「見えない徳」を積んでいる姿だと言えるかも知れません。 『教祖伝逸話篇』に、次のような逸話があります。 「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな』と、仰せになった。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』と、お答え申し上げた」(教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」) 徳には「目に見える徳」と「目に見えない徳」があります。見える徳は物などの形として、あるいは現象を通して知ることができます。欲しい物が思いがけず手に入ったり、お店でサービスをしてもらったりすれば、誰でも得した気分になりますよね。 しかし、この逸話では、その時だけの見える得よりも、見えない「徳」を頂く方が余程ありがたいのだとお教え下さいます。 では見えない徳は、どうしたら積めるのか。それは、いつでもどこでも人様に喜ばれるように一生懸命努めることではないでしょうか。先の身近なごみ捨て場の行いもそうですが、たとえ人目にふれない目立たないようなことでも、心を込めて行うこと。そうすると神様は必ず見ておられますから、少しずつ徳を与えてくださいます。 そして、さらに徳の器を広げる方法は、教祖のお心を学ぶことです。 教祖は、立教当初「貧に落ち切る」道中を歩まれる中、娘さんの「お母さん、もう、お米はありません」との訴えに、 「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」 と諭されました。 教祖は、無かったらすぐに買っておいでとか、近所から頂いてきなさい、というようなことは一切仰いません。ただ親神様からのお与えを、深くひたすらに喜ばれたのでした。 無いことを嘆いたり、「あれが欲しい、これが欲しい」とむやみに求めたりせず、「与えを喜ばせて頂こう。これで結構、結構」こういう気持ちに心底切り替わることで、徳は増えていくのではないでしょうか。 (終)
「TENRI」文化を世界へ              フランス在住  長谷川 善久 最近、私が住むフランスでも日本の移民政策について良く耳にする機会が増えました。これから日本社会が、話す言葉が必ずしも同じではない人々をどのように受け入れていくのか、興味深く見守っているところです。 私が日本人からよく受ける質問に、「フランス語は難しいですか?」というのがあります。私はいつも決まって一言だけ「難しいです」と答えるのですが、すると大概の人が「そうだろうな」と残念そうな表情をします。 そこで私はひと呼吸おいて、「けど、フランス人とコミュニケーションを取るのは楽なものですよ」と続けます。そして「日本人以外の人でも、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣きますから」と、分かり切ったことを、あえて深い真理かのように伝えます。 ある研究によると、他者とのコミュニケーションで伝わることを全部で100%とすると、そのうち口から出る言葉自体が伝達できるのは、約10%だといいます。つまり、言葉の内容以外の表情、身振りや手振り、話し方や口調などが九割を占めるということになります。 実際私自身も、その割合はともかく、言語コミュニケーションの有効性に限りがあるという説には、経験からしても確かに一理あると思っています。 かくも人間関係とは、コミュニケーションに依存する度合いが高いのですが、その関係が良好であれば、人は他者に対する恐怖心が薄くなり、安心感、幸福感が高まります。その上で、海外生活において言語能力以上に大切だと思う点をあえて二つ挙げるなら、それは相手との違いに興味を持つこと。そして先入観を捨ててオープンに相手を理解しようとする姿勢です。 そこに教祖から教えて頂いている「誠真実」の実行があれば、たとえ外国人との間で、少々言葉による障壁や誤解などがあっても、全く恐れるには足りません。 天理教の『信者の栞』には、このようにあります。 「誠真実というは、たゞ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません」。 積極性をもった対人関係、人と自分を区別しない心。自己の利害や保身を捨て去った行動は、間違いなく言葉のやり取りを超えた万国共通の心のつながりをもたらしてくれます。 フランス・パリの中心地に、天理教本部によって設立された「天理日仏文化協会」があります。現地では利用者から「TENRI」と呼ばれ、親しまれている文化センターです。 現在は、活動の中心である日本語教育以外にも、日本の伝統文化や美術、音楽などの紹介もしており、年間の会員数は1000名を超え、民間の日本文化関連団体としては、フランスで最も知られている団体です。 この「TENRI」センターの運営は、現地の布教所長3名が中心となっており、20名を超える未信者の職員を抱えています。それに加えて現場実務の上で重要な役割を担う存在として、天理教本部の青年会、婦人会が実施する「海外日本語教師派遣プログラム」で、日本語教師として二年間派遣されてくる若者たちがいます。 授業は全て日本語で行われるものの、フランス語が決して上手ではない派遣生らは、授業外での学生との意志の疎通に苦心しているのが現状です。それでも不思議なことに、出張所で信仰生活をしながら文化協会で教師として勤める彼らのクラスでの評判は、いつの時代の派遣生もトップクラスなのです。 フランス語が上手く話せないことへの不安に対して、私がいつも彼らに話すことがあります。 「君たちはフランス語が上手く話せるわけではない。上手い人をうらやましいと思うかも知れない。しかし、言葉がよく出来ることが悪く作用することだってある。それは、言語能力が高ければ高いほど、自分の本心を隠して、相手をごまかすことが出来るという点だ。君たちは言葉が上手く話せないのだから、真実の心一つで対応するしかない。否が応でも心を磨かせてもらえる、こんなチャンスはないよ」。 日本にいれば言葉巧みにごまかせるようなことも、フランスではそれが出来ないのですから、精一杯心を尽くして誠実な対応をするしかないのです。 こうして、今まで味わったことのない環境に戸惑いながらも、彼らが自分自身の内面性について深く見つめ直し、心を鍛える努力を続けるうちに、人間として大きく成長していく姿をこれまで幾度も見てきました。不自由さに負けない努力を積んだ先で、自然と心に力がついていったのです。 また、外国で暮らしていると、それまで考えても見なかったことに気づかされることが多々あります。 例えば日本語の特性についてもそうです。ある時友人から、他人をけなしたり非難するフランス語の日本語訳を聞かれたことがありました。友人は次から次へとフランス語の単語を出してくるのですが、私の日本語訳は五つもすれば、あとは毎回同じものになってしまいました。日本語には、人を非難する語彙が少ないのです。 また、会社に勤めながら日本語を学んでいる女性に、「なぜ日本語を勉強しているのですか」と聞いたところ、「日本語で話をしている時の方が、普段フランス語で生活している自分よりも、穏やかで優しい人になれている気がするんです」と、全く予想もしない答えが返ってきたこともあります。 非難する言葉が少ないことや、話すだけで気持ちが優しくなるなど、日本語の新しい面が感じられ、誇らしく思いました。 天理教の教祖「おやさま」はいつどんな時も、子供に対しても、どのような人に対しても、いつも優しい言葉遣いであったと聞きます。日本語自体が持つ特性がどうあれ、私たちはいつ誰に対しても優しい言葉を投げかけ、自分の心にも優しさが満ちていくように努めたいものです。 ある日、文化協会の来館者の一人から、「TENRIセンターに入ると、何だか空気が澄んでいるような気がする」と言われたことがありました。不意な言葉にその場は聞き流してしまいましたが、後からじわじわと喜びが湧いてきました。 これからも天理日仏文化協会は、教内の理解と支援を頂きながら、もっともっと心に安らぎと優しさが湧きあがる「陽気ぐらしの場」であり続けたいと願っています。 だけど有難い「心の健康」 平成二十九年の総務省の発表によると、日本で九十歳以上の人が初めて二百万人を超えて二百六万人になったそうです。これはすごい数字ですね。いまから十三年前の平成十六年に、初めて百万人を超えました。それからわずか十三年で百万人増えて、ほぼ倍になったことになります。 さらに遡って昭和五十五年、いまから約四十年前に、九十歳以上の人がいったい何人いたと思いますか。わずか十二万人です。それがいまは二百六万人。ものすごい増え方だと思いませんか。私たちの世代からすると、生きている間の出来事です。その間に、十二万人が二百六万人になったのですから、すごい変化です。 平均寿命も延びて、厚生労働省の発表では、男性は約八十一歳、女性は八十七歳。どちらも世界第二位とのことです。第一位は両方とも香港ですが、人口が少ないですから、実質は日本が〝世界一〟と言えるでしょう。 しかし、喜んでばかりもいられません。寿命には「健康寿命」というものがあります。これは、健康で元気に暮らせる平均年齢です。日本人では男性七十一歳、女性七十四歳。ということは、単純に男性は平均寿命の八十一歳までの十年間、女性は八十七歳までの十三年間は、病気をしているという話です。つまり、長生きになったけれど、その分、病気をしている期間も長いということが言えそうです。 元気で長生き、これは結構です。病気で長生き、果たしてこれはどうなのか。九十歳以上の人が増えたといっても、そのなかには、ベッドの上でただ死ぬのを待っているような状態の人、大変な病気を抱えて長年苦しんでいる人、周りの人の介護のおかげでなんとか生きている人、あるいは体は元気だけれども、家族に先立たれ、友人や知人もみな先に逝ってしまい、孤独で嘆き悲しんでいる人など、さまざまな人がいると思います。ですから、二百六万人が九十歳を超えたのは確かにすごいことですが、必ずしも喜んでばかりはいられないのです。 二、三日前に、ガンの患者が百万人を超えたと発表がありました。同時に、日本人の二人に一人はガンになるとも述べられていました。九十歳以上の二百六万人のなかにも、ガンで苦しんでいる人はかなりいるのではないでしょうか。そう考えると、二百六万という数字は、表面上は幸せな数字であるけれど、悲しい数字も含まれているということになります。 私が今日お話ししたいのは、「心の健康」についてです。健康寿命というけれど、それは体の話です。一番大事なのは心の健康です。九十歳まで、いきいきとした心で生きているかどうか。実は、これが一番大事なのです。私たちは、どんななかも喜んで通ることのできる「陽気ぐらし」の心づかいを知っています。こんな有難いことはないのです。九十歳まで長生きする人が増えたといっても、それを「有難い」「結構や」と喜んで通っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。これには統計がありません。 有難いことに、私たちは、心いきいきと生活させていただける術を教えていただいている。そのことを、しっかり喜ばせていただいて、報恩感謝の実践に励ませていただきましょう。(終)
親孝行ってありがたい 福岡県在住  内山 真太朗 以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学3年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドOBの私に連絡をしてきてくれたのです。 しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか?」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。 その年の5月、親子3人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで3人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。 次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます!」と二つ返事で参加してくれることになりました。 本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。 天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。 9月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。 え?あれだけ感動してたのに、どうして?と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。 「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。 私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。 私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。 「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。 「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」 正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。 よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、神様にお喜び頂ける道を通ろう。たとえこの子がおぢばの高校に行かなくても、せっかくつながったこの道から切れないように願い、まずは自分が親の思い、神様の思いに添わせて頂こうと、思い定めることが出来ました。 結果的に彼女は天理教校学園へは行かず、神奈川県にあるマーチング強豪校に進学、卒業後はアメリカのマーチングバンドに所属し、数年間活躍しました。 それから数年が経ち、久しぶりに彼女から連絡がありました。 「お久しぶりです。実はこのたび日本に帰ってきて、結婚することになりました。相手は、同じようにアメリカのマーチングバンドで活動していた日本人の男性です。 一緒に日本に帰ってきて、結婚を約束して、彼の両親のいる埼玉の実家にご挨拶に行ったんですが、その彼の家が天理教の布教所だったんです!」 お相手の彼も実家が天理教の布教所だということを、家に行くまで話していなかったそうですが、いざ来てみると、彼女は参拝の仕方も知っているし、おつとめも出来る。少年ひのきしん隊で教わった女鳴物も出来る。彼の両親もびっくりしていたそうです。 この教えでは、「親への孝行は月日への孝行と受け取る」と言われます。私自身が親へ、神様へと真剣につなごうと心を入れ替えたら、神様が彼女をこの道につながるように導いて下さったのです。 その後、彼女は別席を運び、天理教の布教所子弟の彼と結婚しました。そして数年後、彼女から連絡がありました。「お久しぶりです。実は今月から修養科に入りました」と言うのです。 話を聞くと、結婚生活の中で色んな葛藤や戸惑いが出てきた。そんな時、かつて参加したこどもおぢばがえりや少年ひのきしん隊での楽しかったことや、そこで神様の教えを学んだ思い出がよみがえってきた。そんなおぢばで3カ月間勉強出来たら、自分の中で何かが変わるかも知れない。そう思って修養科を志願したと言います。 「私がこんな思いになれたのは、中学3年生のあの時、おぢばに誘ってくれたお蔭です。いま修養科でとっても充実した日々を送っています。本当にありがとうございます」と言ってくれました。 お礼を言いたいのはこっちだよ。よくぞ修養科に行ってくれた。よくぞそのように思ってくれた。 人をたすけよう、導こうとするならば、直接手を差し伸べることはもちろん、まずは自らができる親孝行に励み、神様の思いに添わせて頂くことが大切なのです。根っこを疎かにしては、花は咲きません。 私は、彼女との関わりを通して、そのことを実感させて頂きました。 忘れていいこと悪いこと 物事には、忘れた方がいいことと、決して忘れてはならないこと、この二通りのものがあります。 忘れた方がいいのは、人のためにしてあげたことや、反対に人から不愉快な目にあわされたことなどです。他方、忘れてはならないのは、神様や自然から頂いている豊かな恵み、人から頂いた恩恵などです。 これは簡単なことではありません。日常生活を省みると、私たちは案外この反対のことばかりやっているような気がします。人を少しばかり手助けしてあげたことをいつまでも心に留めて、「あいつはお礼の一つもしない」と、恩着せがましいことを言ったりする。また、人に対する恨みがましい気持ちを、長年持ち続けたりするものです。 そして一番いけないのは、神様や自然から頂いている恩恵を忘れ、さらには人から受けた恩まで忘れてしまうこと。たすけてもらった時だけ感謝しても、すっかり忘れてしまい、知らぬ顔をしてしまうのはよくあることです。 神様は、そのような私たちの忘れやすい習性を、お言葉によって表されています。 「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う」(M31・5・9) それ故に、 「日が経てば、その場の心が緩んで来るから、何度の理に知らさにゃならん」(M23・7・7) と仰せられ、心の成人を促される上から、病気や事情によってお手引き下さるのです。 さらには、教えを筆に記し、「おふでさき」という書き物に残されたことに関しても、 「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」(M37・8・23) と、耳で聴くだけでは、とかく忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられています。 忘れるべきことを忘れずに覚えていると、それは心の濁りとなり、忘れてはならないことを忘れては、恩知らずとなってしまいます。どちらにしても、心を澄ます道ではありません。物事の「忘れ方・覚え方」というのは、かくも難しく、それでいてとても重要なことなのです。 (終)
おじいちゃんの種 兵庫県在住  旭 和世 親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。 子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。 そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。 ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの?」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。 私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。 私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。 そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子3人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。 その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。 毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。 それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。 そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。 現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。 姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね~」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。 長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る!」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。 こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。 そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。 「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小さな音楽隊をつくって、若いお道の青年さんを集めて活動しとったんや。そこで音楽に長けた矢野清先生も一緒に活動してはって、演奏も上手になって活動がどんどん広がってな。その後、その小さな音楽隊は船場大教会の音楽団になって、当時盛んだった徒歩団参の先導をしたり、おぢばがえりされる方を演奏で迎えたりして、活躍するようになったんや。 だけどそのあと戦争になってなあ、青年さんたちも兵隊に行ってしまって、楽団の活動が出来なくなった。その時、当時の船場の大教会長さんが二代真柱様にご相談されて、楽器すべてを天理中学に譲渡される事になったんや。 そうしたら二代真柱様が、『楽器だけではあかん』と仰ったそうや。そこでおじいちゃんは『矢野さんしかおらん』と言って、矢野先生を推薦して天理中学に指導に行かれることになった。それが天理の吹奏楽部の始まりなんやで。 その後、矢野先生は天理高校の吹奏楽部を指導されて、何年も連続で優勝するような日本一のバンドに導かれたんや。その矢野先生の声から、天理教の鼓笛隊が生まれたんやで」 私は、「へえ~、そうだったの? 私、矢野先生のご活躍は知っていたけど、おじいちゃんが音楽を通してお道の若い人たちを育てる音楽隊を作っていたなんて知らなかった~」と驚いてしまいました。 そして、この話を聞いて、「みかぐらうた」のお歌が浮かんできました。 『まいたるたねハみなはへる』(七下り目 八ッ) 「あ~、そうだったんだ。おじいちゃんがちゃあんと、何十年も前に種を蒔いてくれてたんだ。だからこうやって巡り巡って恩恵を受けて、私たちの家族も鼓笛隊の先生方にお世話になってるんだなあ。決して偶然ではない、親々のお蔭なんだ」としみじみ思えてきました。 天理教の教祖「おやさま」のお言葉に、『道というものは、尽した理は生涯末代の理に受け取りある』(M33.4.16補遺)とあります。 神様の御用のために尽くした理は消えることなく、子や孫の代、そして末代までもその恩恵を受け取らせてもらえるというお言葉です。私たちは、今まさにその恩恵を受け取らせて頂いているという事だったのです。 この事を通して、子供たちは私たち親だけでなく、まわりの方々や親々が蒔いてくれた種の芽生えを受け取りながらお育て頂いているのだと実感しています。 けれども、これを「ありがたい」で終わらせるのではなく、この恩恵をまた子孫末代へと引き継いでいけるように、私もおじいちゃんが蒔いてくれたような種を蒔いていきたいと思っています。 自分一人で 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、   きゝたくバたつねくるならゆてきかそ  よろづいさいのもとのいんねん (一 6) とのお歌があります。 元のいんねんとは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいと思召され、人間とこの世界をお創りになった。私たち一人ひとりは、その親神様の思いが込められた可愛い子供であり、きょうだいとしてつながり合って生きているということです。 そして、その詳しい元を聞きたければ自ら訪ねて来るようにと仰せられます。自ら教えを求めていくことの大切さを諭されているのです。 手振りと共に教えて下さる「みかぐらうた」に、    むりにどうせといはんでな   そこはめい/\のむねしだい (七下り目 六ッ)    むりにこいとハいはんでな   いづれだん/\つきくるで (十二下り目 六ッ) とあります。信心するしないは、銘々の胸次第、心次第。親神様は決して無理強いはされず、私たちが自ら道を求める心になるまで、辛抱強くお待ち下されているのです。 教祖をめぐって、次のような逸話が残されています。 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々が、二、三人連れを誘って行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが常でした。 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話を聞かせて下さいました。尚その上で、「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いともねんごろにお仕込み下された、と伝えられています。(教祖伝逸話篇116「自分一人で」) 教会本部の教祖殿では、教祖の御前で、長い時間拝礼している信者さんの姿が見られます。様々な事情を抱え、まさに自分一人で教祖との対話に臨んでいるように見受けられます。きっと教祖は、にっこり笑っていともねんごろにお諭し下されていることでしょう。 (終)
低いやさしい心

低いやさしい心

2025-10-1713:59

低いやさしい心  兵庫県在住  旭 和世 私には「こんな人って本当にいてるんや~」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。 私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです! 父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか~?と、いまだに衝撃を受け続けています。 父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。 父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう!」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。 天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。 「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。 父がある時こんな事を聞かせてくれました。 「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな~」 そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。 「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。 「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。 というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。 そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです! すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ~!じぃじ~!」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな~、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。 当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや~」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。 今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。 それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました。 子供は親の思い通りには全く行動してくれません。予想をはるかに超える行動力をもつ息子を追いかけ、おっとりしている長女はほったらかし、次女はいつもおんぶされた状態でバタバタと、子育てを楽しむ余裕なんて到底ありませんでした。 優しいお母さんになるつもりが、全く予定通りにいかない事にジレンマや自己嫌悪を感じる毎日でした。有難いご守護をたくさん頂いていながらも、感謝の心を持てていなかったのです。 そんなある日、教祖が梅谷四郎兵衛先生にお聞かせ下さったお言葉を思い出しました。「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。 若い頃、実家の母がよくこのお言葉を聞かせてくれていました。 「人様をおたすけするには、まず『低いやさしい心』になって、人様の事を一生懸命させて頂く中に、だんだんと自分の癖性分を取って頂けるんだよ」と。 それを思い出し、私は「低いやさしい心」になれていない事にはたと気がつきました。自分の思い通りにならないからと、喜べなかったり心がいづんでしまうのは、まさに自分が「こうまん」で、こうであってほしいという「よく」の心の表れだと気づいたのです。 これは神様に申し訳ない! 教祖のお言葉通り「低いやさしい心」になるためには、人様をたすける事、つまり「にをいがけ」しかない!と思い当たりました。 教会に嫁ぎながらも、子育てを理由に全くにをいがけが出来ていなかったことを、近くにある教会の同世代の奥さんに打ち明けると、「私も子供が小さいし、なかなか出来ないから、和世ちゃん一緒ににをいがけしない?」と誘って下さいました。 願ってもない提案に「ぜひ!」という事で、お互い子供を連れて、にをいがけに歩かせて頂くことになりました。ドキドキしながら拍子木をたたき、近くの商店街で神名流しをさせて頂きました。久しぶりににをいがけが出来た喜びで胸がいっぱいになった事を、今でも鮮明に思い出します。 それからというもの、教祖のお供をさせてもらえている! と思いながらにをいがけに歩かせて頂く度に、自分の埃だらけの心が少しずつ澄んでいくような気がしました。すると、それまで喜べなかった事がとても小さな事に感じられたり、にをいがけで断られるたびに、こうまんだった心を低くして頂いているように思い、有難い、喜びいっぱいの毎日になっていきました。 「人たすけたら我が身たすかる」というお言葉通り、にをいがけに歩く事で、自分のこうまんな心に気づかせて頂き、人様のたすかりを願う中に、自分の心もたすけて頂いていると実感しています。 自分の埃だらけの頑固な癖性分はまだまだ取れていませんが、父のような「低いやさしい心」を目指して、少しずつでも歩みを進めていけたらと思っています。 父母に連れられて この信仰は、親から子へ、子から孫へと、代々語り継ぐことが大切であると教えられます。このような神様のお言葉があります。 「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道付き難くい。」(「おさしづ」M33・11・16) ゆえに、天理教の教会では、個人で参拝するのはもちろん、家族ぐるみで参拝したり、行事に参加したりする姿が多く見受けられます。 教祖をめぐって、このような逸話が残されています。 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衛さんが、当時五、六歳の三男・梅次郎さんを連れて、教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。ところが梅次郎さんは、赤衣を召された教祖のお姿を見て、当時煙草屋の看板に描かれていた姫達磨を思い出したのか、「達磨はん、達磨はん」と言いました。 それに恐縮した四郎兵衛さんは、次にお屋敷へ帰らせて頂いた時、梅次郎さんを連れて行きませんでした。すると教祖は、 「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」 と仰せられました。 このお言葉を頂いてから、梅次郎さんは、毎度両親に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いたのでした。(教祖伝逸話篇117「父母に連れられて」) 四郎兵衛さんにすれば、たすけて頂いたご恩のある教祖に対して、失礼だという思いが強かったのでしょう。しかし、子供可愛い一条の教祖は、むしろそのような幼子の無邪気な様子を大層お喜びになったのではないでしょうか。そして、親子がこの道の信仰を共にすることの大切さをお諭し下さったのです。 しかしながら、子供に道をつなぐのは容易なことではありません。そのために、各地の教会では、日頃から子供たちに信仰を伝えるべく、様々な少年会活動がさかんに行われています。そして、その総決算として、毎年夏休みには、全国各地から大勢の子供たちが親里に帰り集う「こどもおぢばがえり」が開催されます。 子供の素直な心は、この道の宝です。むしろその子供の純真無垢な姿が、親が自身の信仰を見つめ直す契機となることもあるのではないでしょうか。 かつて教祖を「達磨はん、達磨はん」と呼んで親を困惑させた梅次郎さんは、後に海外布教に尽力するなど、道を弘める上で大いに心を尽くしました。 (終)
最後のギュー

最後のギュー

2025-10-10--:--

最後のギュー 岡山県在住  山﨑 石根 私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。 信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。 私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。 さて、その報せは記念のお祭りの二日前の5月8日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。 報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。 ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。 賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。 その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。 私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。 今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。 すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。 父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。 さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。 6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。 しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息を引き取った」との連絡が入りました。おつとめが途中でしたので、そこから私たち二人はおつとめを最後まで続けました。それは、もちろん「生き返って欲しい」という祈りではなく、約一か月、命をつないで下さったことへの感謝のおつとめでした。 お葬式は「待ったなし」とよく言われます。諸般の事情から、亡くなったその日にみたまうつし、翌日に告別式が行われることになり、私たちは大急ぎで家族揃って奈良へと出発しました。また、天理にいる息子二人も会場に合流して、無事にお葬式が始まりました。 母の亡骸を見た妻の父は、その顔が本当に安らかな笑顔だったので、「この顔を見てたら、何も言うことあれへん」と口にしていました。 また、お葬式の斎主をつとめて下さった妻の里の教会の会長さんが、母の道すがらを偲ぶ諄辞という祭文を奏上して下さいました。その中で、母が父と苦楽を共にした大教会での伏せこみのくだりでは、会長さん自身が言葉を詰まらせ、涙声で読み上げて下さったことも、本当にありがたいなあと感じました。 さらに、教会の前会長の奥さんが弔辞を送って下さいました。それこそ奥さんも、父と母と苦楽を共にし、支えて下さいましたので、涙なしでは聞くことが出来ませんでした。 「えらい急いで、親神様のもとに抱きしめられに行っちゃったんやね。二人が毎朝、大教会の朝づとめに参拝する姿を見て、大教会の信者さんがみんな『ようぼくのお手本やな』って言って下さってたんだよ」と、本当にありがたいお手紙を届けて下さり、母をみんなで見送ることが出来たステキなお葬式になりました。 さて、我が家の三男は昔から日常的に「お母ちゃん大好き!」と妻をハグしています。三男が成長するにつれて、「そろそろお年頃だけど、大丈夫かな?」と妻は心配になる一方で、素直にそれが嬉しいという気持ちもあり、「いつまでやってくれるかな」と、普段から思っていたようです。その上で、「よく考えたら、私は自分の母親にこんなことしたことがあるかなぁ」と思うようになったのです。 「もちろん子どもの頃にはあったかも知れないけど、してあげたこと、言ってあげたこと、もう随分ないなあ…」 今年のゴールデンウィーク、妻はちょうど実家に泊まる機会があり、5月5日に出発する朝、妻は「お母さん、大好き!」と言いながら、ギューッと母を抱きしめたのでした。母は、「や~」と驚いて高い声を出しながら、照れた様子で、とても嬉しそうにしていたそうです。結果的に、それが妻と母の最後のやりとりとなりました。 妻にしてみれば、もっともっと親孝行したかったかも知れませんが、図らずもこの機会に改めて親からかけて頂いた親心を知ることが出来ました。それは、親神様が約一か月命をつないで下さったからこそで、私たちに心の準備期間を与えて下さったようにも感じます。それにしても、親神様の懐に抱かれる前に最後のハグが出来たなんて、何だか親神様も粋な計らいをされるなぁと感じました。 妻が三男に、「ありがとう。おかげでお母ちゃんも最後にギュー出来たわ」とお礼を言うと、「私たちも、いっつもギューしてるし!」と姉と妹から異議が唱えられました。 「ホンマやね。みんな、ありがとう」 今日も朝夕に、ご先祖様に、そしてお母さんに、妻と共にお礼を申し上げたいと思います。 なにかなハんとゆハんてな 教祖が教えられた「みかぐらうた」は、手振りと共に日々唱える中で、私たちに様々な気づきを与えて下さいます。 三下り目に、  六ツ むりなねがひはしてくれな    ひとすぢごゝろになりてこい  七ツ なんでもこれからひとすぢに    かみにもたれてゆきまする とあります。 このお歌が作られたのは慶応3年、1867年のことですが、この年にお屋敷へ参拝した人々のことを記録した「御神前名記帳」という資料が残されています。 それによると、当時の人々が「眼病、足イタ、カタコリ、痔」などの身体に関する願いにとどまらず、「縁談、悪夢、物の紛失」など、実にさまざまな願い出をしていたことが分かります。 しかし教祖は、どんな願い出に対しても、「無理な願いはしてくれな」とは、仰せにならなかったのではないでしょうか。むしろ、誰に対しても、母親が子供を迎え入れるように、「よう帰ってきたなあ」と、大きな親心で迎えられ、どのような病気や事情もお引き受け下さったのだと想像できます。だからこそ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、たすけてくださる」との噂が広まり、この道が徐々に進展していったのです。 では、一体何を「無理な願い」だと仰せになっているのでしょうか。それは願う内容よりも、願う人の心について仰せ下さっているのだと思います。 直筆による「おふでさき」に、   月日にハなにかなハんとゆハんてな  みなめへ/\の心したいや  (十三 120) とあるように、親神様は私たちの心次第でどのような願いも叶えて下さるのです。 「無理な願い」とは文字通り、受け取って頂けるような「理」が無いまま願うということ。心のどこかに、「本当にたすけて頂けるのだろうか」と少しでも疑う心があるなら、到底親神様には受け取って頂けないでしょう。 「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の切なる願いに対して、「かみにもたれてゆきまする」と私たちはお答えしている訳ですから、これは大変な宣言をしていることになります。まさに、何が起きても揺らぐことのない確かな信仰が、試されていると言えるのではないでしょうか。 (終)
記憶に残る活動を 埼玉県在住  関根 健一 2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。 長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。 小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。 長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。 一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。 2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。 たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。 こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。 「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか?」 野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。 そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。 「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」 私はこの言葉に深く納得しました。 どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。 さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。 プログラムの中で、教祖が現身を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。 その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。 上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Aさんと、私より少し年上と思われる女性Bさん、そして私の三人でした。 AさんもBさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Aさんはこうおっしゃいました。 「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」 その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話しました。 「野球が好きでプレーしている人の多くは、大谷選手のようにはなれません。でも、大谷選手のように打てないからといって、野球をやめてしまうのはもったいないですよね。多くの人にとって、野球は趣味。だからこそ、自分に見合った場所で、それに合わせた努力をすることが大切です。信仰も同じだと思います。私たちも、先人の先生の姿を見習いながら、今、置かれた場所、職場や教会で、出来ることをさせて頂けばそれでいいのだと思います」 するとAさんは、「なるほど。そのとおりですね」と、にっこり微笑んで下さいました。Bさんも横で静かにうなずいて下さいました。 そのお二人の姿を見ていたら、ふと、「このお二人の所属する教会の会長さんが、この様子をご覧になったら、きっと大層喜ばれるだろうなあ…」と思いました。私自身も教会長として、信者さんが教えを通して前向きに勇む姿を見るのは、何よりも嬉しいことだからです。 その時、年祭活動一年目に、この「家族円満」の原稿依頼を頂き、大教会長様にご相談した際に、「関根さんにしか出来ない年祭活動だから、勇んで勤めてください」と声をかけて頂いたことを思い出しました。あの時の大教会長様も、私が前向きに取り組もうとする姿を喜んで下さっていたのだと思います。 残りわずかな年祭活動。目に見える結果が出ずに焦る気持ちがあったのですが、まずは自教会につながる信者さんの勇んだ姿を喜び、「140年祭の年祭活動は、教会につながる皆が勇んでつとめさせてもらった」という記憶を胸に刻めるように、前向きに歩んでいこうと決意を新たにしました。 だけど有難い「ノミのジャンプ」 ノミという虫がいます。先日、この虫にまつわる面白い話を聞きました。 ノミというのは非常に小さいものですが、自分の体の五十倍から百倍くらいジャンプするのです。すごいですね。そのノミを、コップを裏返して中に閉じ込めてしまうと、当然、高く跳ぶことはできません。どうなるかというと、コップの底に当たって落ちるを繰り返すのです。そして、そのままにしておくと、コップを外しても、その高さまでしか跳べなくなるそうです。 人間も、神様から授かった能力は無限でも、嫌なことやつらいことがあると、自分で「これが限界」と枠や殻を作って、コップのなかのノミのように、そこまでしかジャンプしなくなることがあるのではないでしょうか。 私は、病気や事情は、私たちが自分で「もうここまで」「自分の能力はこんなもの」と決めてかかっている壁を突き破るチャンスとして、親神様が与えてくださっているのではないかと思うのです。病気になったら、普段は当たり前にできていることができなくなると考えがちですが、心の持ち方によっては、普段できないことができるようになる。私は、それが「ふし」だと思うのです。 最近、ある三十代の男性の話を聞きました。彼は、父親が末期の胆嚢ガンの宣告を受けました。家族はとてもショックを受けました。ところが、その直後、自分自身も肝臓ガンのステージⅡだと分かったのです。父親のことだけでも家族は大変なのに、自分の病気のことはとても言い出せないと、彼は悩みました。 そこへ教会の人がやって来て、「親神様、教祖にもたれさせてもらおう」と彼を励ましました。しかし、その言葉にも勇めず、教会やお道に対する不足を並べ立てて、その人を追い返してしまいました。あとで冷静になってみて、自分は何も実行しないで文句ばかり言っていたと、少し反省したそうです。 そこへまた教会の人がやって来て「十月のひのきしん隊に行かないか」と声を掛けました。前回のことがあったので、彼は一応「はい」と返事をしました。しかし、内心では「この体でつとめさせていただくのは、とても無理だ」と思っていたそうです。 それから二週間後、病院の診察がありました。検査の結果、「リンパ節に転移している。余命は二カ月」と宣告を受けました。彼には、男の子が二人いました。こんなに小さいうちに父親がいなくなると思うと、不憫でなりません。残った家族はどうなるのだろうと思ったら、なんとしてもたすけていただきたいという気持ちになって、「生涯、神様の御用一筋につとめます。おたすけをして通ります」と決心したのです。「ひのきしん隊に行くのは無理だ」と考えていた人が、生涯、神様の御用一筋に通る決心をしました。 十日後に再度、診察がありました。検査の結果、ガンが消えていたのです。彼は喜びいっぱいに修養科へ行って、教祖百三十年祭をおぢばで元気に迎えさせていただいたということです。 ノミの話に戻りますが、コップの高さまでしか跳べなくなったノミは、いったいどうすれば元に戻るか。自分の体の五十倍、百倍跳ぶノミのなかに入れたら、すぐに跳べるようになるそうです。私は、これが教会だと思います。教会へ行けば、自分の枠や殻でなく、神様を目標に歩んでいる人たちがいます。その人たちは、いわば五十倍、百倍跳んでいるノミの仲間です。そこへ入ることによって、すぐに自分も跳べるようになる。これが教会だと思うのです。また、そんな教会でありたいと思います。 (終)
砂を噛む日々(後編) 助産師  目黒 和加子 商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。 空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90%の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。 理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。 実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。 そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。 「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」 新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。 ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。 実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが3才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。 参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。 京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。 「あ~よかった!」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。 その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。 そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。 空ちゃんの3才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。 「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」 下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク&バッグせえへんかったん?」 マスク&バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。 「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」 「もし院長さんを呼んでたら、マスク&バッグしたと思うか?」 「はい、100%したと思います」 「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク&バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外! やったらあかんのや。 肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない症例やから、新生児蘇生法の講義でも『肺出血は例外ですよ。マスク&バッグはしないように』とは教えてないからな。サラッとした出血を見抜けんかったって自分を責めるけど、出血の性状だけで肺出血と判断するのは俺でも無理やで」 瞬きもせず聞き入る私に、先生はさらに続けました。 「結論はな、今回に限って院長さんを呼ばんかったことが正解やったというこっちゃ。マスク&バッグをせえへんかったから命がつながった。しんどい思いをさせたと自分を責めんでいい。要するに、赤ちゃんをたすけたのはあんたや。その子にとってあんたは命の恩人やで。今日で辛い修行は終わり。ご苦労さん」 噛んで含めるように優しい言葉を下さったのです。 空ちゃんが3才になるまで勤め続けていなかったら、A先生との出会いもなく、私は自分を責め続けていたでしょう。教祖から、「誓いを守り切ったから、ほんまのこと教えてあげる」とご褒美をもらったようで、A先生の前でわんわん泣きました。 数日後、空ちゃんは3才になりました。上野さんに電話をすると、「保育師さんが手を焼くほど元気に走り回っています。歌も上手なんですよ。後遺症もなく、すくすく成長しています。目黒さん、安心して下さいね」と嬉しい言葉。 すると、同僚の助産師が「三年間逃げないでよう辛抱したね。目黒さんのど根性を讃えるわ。はい、ご褒美。みんなで食べよう」と冷蔵庫から出してきたのは大きなケーキ。 また、別の助産師は「スーパーで空ちゃん見かけたよ。お菓子売り場で『買って、買って!』って駄々こねてたわ。元気に育ってたで」と教えてくれました。スタッフみんなが見守ってくれていたことを知り、感謝、感謝で涙がとまりません。 そして、何ということでしょう。商店街のポスターの前で願った通り、天理看護学院助産学科の学生さんにこの話をする機会がきたのです。平成23年から閉校までの三年間、非常勤講師として授業を持たせて頂きました。教祖は、あのつぶやきを聞いておられたのですね。 壮大で綿密、そして深い教祖の親心を噛みしめた、苦しくもありがたい三年の日々でした。 クサはむさいもの 人に教えを説く時に、私たちは言葉を必要とします。そして、人をたすけ、教えに導く上で言葉を必要不可欠なものであると考える人は多いと思います。天理教では人を諭すことから、これを「お諭し」と呼んでいます。 しかし、教祖の逸話篇をひもといてみると、長々とお諭しをしている場面というのは、あまり見受けられません。 むしろ、「よう帰って来たなあ」「難儀やったなあ」「御苦労さん」「危なかったなあ」「さあ、これをお食べ」など、親心いっぱいに実に簡素なお言葉でお迎え下さるのが常でした。そして、ここ一番という大事な時に、その人の心の状態を見定めて、教えに則した大事なお言葉を下さるのです。 明治十五年、梅谷タネさんが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊だった長女のタカさんを抱いて、教祖にお目通りさせて頂きました。赤ん坊の頭には、膿を持ったクサという出来物が一面に出来ていました。 教祖は、早速、「どれ、どれ」と仰せになりながら、赤ん坊を自らの手にお抱きになりました。そして、その頭に出来たクサをご覧になって、「かわいそうに」と仰せられ、お座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いていた紙切れを取り出し、少しずつ指でちぎっては唾をつけ、一つ一つベタベタと頭にお貼り下さいました。そして、 「おタネさん、クサは、むさいものやなあ」 と仰せられました。タネさんは、そのお言葉を聞いてハッとしました。「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう」と、深く悟るところがあったのです。 タネさんは、教祖に厚くお礼申し上げて、大阪へ戻りましたが、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、赤ん坊の頭には、綿帽子をかぶったように、クサが浮き上がっていました。あれほどジクジクしていた出来物が、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにしてはがれていました。頭の地肌にはすでに薄皮ができていて、すっきりとご守護頂いたのです。(教祖伝逸話篇107「クサはむさいもの」) この教祖の逸話は、人をたすける上では、言葉より、まずは真心を込めてお世話をすることがいかに大切であるかを、教えられているのではないでしょうか。そして教祖は、それに加えて、ほんに短いお言葉でタネさんに心の治め方をお諭し下されたのです。 (終)
砂を噛む日々(前編) 助産師  目黒 和加子 ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。 今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。 担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。 薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空(そら)ちゃんと名前がついています。 胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後2時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。 しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。 空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90%。保育器に入れ、酸素を与えると94%まで上昇しました。 「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95%になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64%まで低下したのです。 「64%!ありえない!」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。 しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。 「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。 出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。 「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」 空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。 「こうなったら神さんしかない!」 家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。 24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。 「やっぱり神さんしかない!」 家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。 その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。 72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。 院長は「酸素飽和度が64%まで低下したんやから、脳の障害は避けられないな」と暗い顔でつぶやき、私も覚悟を決めました。 それから数週間後、新生児内科の部長から興奮した声で電話があり、「MRIで低酸素性脳障害は認められませんでした。後遺症が出るかもしれないので3歳までは経過を見ますが、あんなに重症だったのに不思議ですね。脳出血を覚悟していたのですが、脳内はクリアで驚いています。数日中に退院しますのでご安心ください」と言うのです。 しばらくして、空ちゃんはNICUを退院。上野さんはその足で空ちゃんを連れて医院に来て下さいました。ミルクの飲みも良く体重も増え、あの時のことが嘘のように元気いっぱい。 私は空ちゃんを抱きしめ、「強い子や。偉い子やなぁ」と命の重みを噛みしめました。この子の頑張りと、泊まり込みで治療にあたって下さったNICUのドクター、ナース、そして神様への感謝の思いがこみ上げ、泣けて、泣けて。 その日から、夏の暑さを感じる余裕もなく、重い荷物を背負ったまま、祈り、願う日々。何を食べても砂を噛んでいるようで、丸々とした空ちゃんとは逆に頬はこけ、げっそり痩せていました。 早速、神様にお礼を申し上げようと天理に向かったのですが、「空ちゃんの命がたすかってよかった、有り難い、だけではないような…。口の中がジャリジャリするのも続いてるし…。神さん、私に言いたいことがあるんとちゃうかなぁ」と、心がざわざわするのです。 思案を巡らせつつ天理駅に到着。モヤモヤしたまま神殿に向かって商店街を歩いていると、壁に貼ってある「天理看護学院助産学科」のポスターが目に留まりました。そのポスターの前でこの度のことをクールに振り返っていたその時、電気が走ったように「ハッ!」と気づいたのです。 リスナーの皆さん、私は何に気づいたのでしょう。続きは来週の後編で。 人の目と神様の目 私たちは普段、とかく人の目を気にし、世間体を気にしながら日々行動しています。それはある意味、社会常識としては当然のことのようにも思います。しかし、そこから一歩進んで人として成人を遂げるには、「人の目」と共に「神様の目」があることを知らなければなりません。 お言葉に、   このせかい一れつみゑる月日なら  とこの事でもしらぬ事なし (八 51) とあります。 この世界と人間をお創り下された親神様は、世界中の隅々に至るまでを隈なく見渡し、さらには私たち一人ひとりの心の内までご覧下さっています。そして、いつでも私たちが考えているさらにその一歩先まで成人することを、ご期待下さっています。 親神様の目を意識できるようになると、人の見ていない所での行動が変わります。たとえば、公共のトイレを使った後、次の人が使いやすいようにさりげなくきれいにしたり、外食をして食べ終わった後に、テーブルをそっと拭いたり。それは決して人からの評価にはつながりませんが、親神様は大きく評価をして下さいます。いわゆる「徳」を積むという行いです。 教祖・中山みき様は、山中こいそさんというご婦人に、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。こいそさんは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」とお答え申し上げました。(教祖伝逸話篇63「目に見えん徳」) このこいそさんの返事に対する教祖のお言葉は残されていません。しかし、これ以上の答えはないのではないでしょうか。目に見えない徳を積むことで、我が身思案を捨てた人だすけの精神は益々高まっていくことでしょう。   なにもかも月日しはいをするからハ  をふきちいさいゆうでないぞや (七 14) 親神様がすべてをお計らい下さり、お見守り下さっている。日頃からそう意識できれば、何事も形の大小にこだわらず、人の目先の評価にも一喜一憂することなく、親神様の思いに近づくことが出来るのではないでしょうか。 (終)
人生100年時代

人生100年時代

2025-09-12--:--

人生100年時代 千葉県在住  中臺 眞治 5年ほど前、世の中がコロナ禍となって間もない頃、地域の社会福祉協議会の職員さんから相談の電話がありました。「お一人暮らしの高齢者で困っている方がいるので、そうした方の支援を天理教さんでして下さいませんか?」とのことでした。コロナ禍で私自身は時間を持て余していましたし、困っている人がいるならばという思いで、その依頼を受けることにしました。 最初の依頼は70代の男性からで、ゴミだらけになってしまった自宅の清掃でした。お話をうかがうと、「人間関係が煩わしくなり、10年前に引っ越してきたんだけど、地域に親しい人がいない。この何日間も人と話をしていないんだ」と言います。 元々は釣りや家庭菜園に精を出すなど、活動的な方だったのですが、コロナ禍で外出が出来ず、孤立した状況が浮き彫りになる中、片付ける気力も湧いてこなくなってしまったのです。なので、手を動かすことよりもまずは口を動かしておしゃべりすることを意識しながら、何日もかけてゆっくりと作業を行いました。 こうした高齢者の困りごとの依頼は、社会福祉協議会以外にも地域包括支援センターやケアマネージャーさんから教会へ届くのですが、対応出来ないほどの数の相談があるため、お断りせざるを得ない事も多く、地域には一人暮らしの高齢者の方が大勢おられるのだなと感じています。 厚生労働省が発表した令和6年の国民生活基礎調査の概況によると、65歳以上の単身世帯の数は900万世帯以上あり、この数は平成13年、2001年と比べ2.8倍になったとのことでした。 高齢になり、身体が不自由になってくると自分では解決しづらい困りごとが増えていきます。家族が近所にいれば色々と頼ることも出来ると思いますが、それも難しいという場合に、ご近所さん同士でたすけ合っているという方は少なくないと思います。 例えば運転出来る人に病院まで送迎してもらい、お礼にランチをご馳走したり、安否確認のためにお互いに声をかけ合ったりしている方もおられます。とても素敵なことだと思います。 その一方で、先ほどの男性のようにご近所付き合いが苦手な方もおられます。その男性からある日、「身体の調子が悪い」と電話がありました。 急いで自宅に駆け付けると、「二日前から起き上がれなくて、ご飯も食べていない。しんどいけど、救急車を呼んでいいのかどうかが分からない」と言うので、すぐに救急車を呼び、入院となりました。入院すると、病院生活に必要なものが色々と出てきます。私は看護師さんに「用意してください」と言われたものを買って届けました。 困った時に「たすけて」と言える相手がいない。そういう方は少なくないのではないかと感じています。いま紹介した男性も決して世間離れした方ではなく、至って真面目に生きてきた方で、人柄も良く、優しくて穏やかな方です。ただ、一つ二つ、ちょっとした不運な状況が重なってしまい、孤立し、困った状況になってしまったのです。こうした状況には自分も含め、誰もがなり得るのだと思います。 この活動は、ちょっとした困りごとのお手伝いを通じて、地域に新たな人間関係を増やしていくことを目的にしています。そのため、近所に住む信者さんや、教会で一緒に暮らしている方にも協力して頂いているのですが、活動を通じて地域に親しい人が増えていくことが、お互いの安心につながっていることを感じます。 また、戦争の体験を聞かせて頂くなど、自分とは世代も違い、違う価値観を持ち、違う体験をしながら生きてきた方と接することは、自分自身の視野を広げることにもつながっていくのだなと感じています。 少し話は変わるのですが、出会った高齢の方々が暗い顔をしながら、「長く生き過ぎた」とか「人に迷惑をかけてしまっているようで辛い」などとこぼされる場面が度々あります。健康面やお金のことなど、日々様々な不安を抱え、孤立感を感じながら生きてらっしゃるのだなと思います。 また、テレビでも日本が高齢化社会となり、様々な課題を抱えているという報道がなされるなど、長寿がネガティブな事柄であるかのように捉えられてしまう情報が度々流れてきます。 天理教の原典「おふでさき」では、   このたすけ百十五才ぢよみよと  さだめつけたい神の一ぢよ (三 100) と、115才を人間の定命としたいという神様の思召しが記されています。 昨今、「人生100年時代」という言葉を度々耳にしますが、その長寿を憂いていては、神様は残念に感じられてしまうのではないでしょうか。 私自身も何歳まで生かして頂けるかは分かりませんし、今のような健康な状態がいつまで続くのかも分かりません。ですが、長寿を喜び合い、たすけ合い、神様のご守護に感謝をしながら過ごせるお互いでありたいと願っています。 行いに表してこそ 思えば、私たちは同じ人間でありながら、百人が百人、異なる運命を持っています。どの時代に、どの場所で、どの親から生まれるかは、自分の意志とは全く無関係です。その後も、家族に恵まれ、経済的にも恵まれて順風満帆な人生を送る人もいれば、若い頃から病を患ったり、家庭にトラブルを抱えて辛い人生を歩む人もいます。個人の能力や健康、性格的なことなども、自分の理想通りに与えられる人はそうそういないでしょう。 そうした運命的なものが、人間にとって大きな問題になると考える時、神様と向き合う心、すなわち信仰がいかに大事なものかが実感されます。信仰によって、与えられた自分の人生を真正面から受け入れることが出来れば、いたずらに他人と比較することなく、自分だけのかけがえのない道を歩む力が湧いてきます。 親神様は、人間が互いにたて合いたすけ合って、陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたいとの思いから、この世界と人間をお創り下さいました。親神様はすべての人々の親ですから、私たち可愛い子供一人ひとりに公平に、陽気ぐらしへと向かう道をご用意下さっています。 しかし私たちはそれぞれ、基礎体力も違えば、背負う荷物の重さもバラバラです。しっかり進む気力がなければ、途中のデコボコ道やぬかるみに足を取られるかもしれない。「こんな所を歩くのはもう嫌だ!」と、横道へそれてしまう人も出てくるでしょう。 教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、そんな私たちの歩み方に警告を発しておられます。   月日にハたん/\みへるみちすぢに  こわきあふなきみちがあるので (七 7)   月日よりそのみちはやくしらそふと  をもてしんバいしているとこそ (七 8)   にんけんのわが子をもうもをなぢ事  こわきあふなきみちをあんぢる (七 9)   それしらすみな一れつハめへ/\に  みなうゝかりとくらしいるなり (七 10) この、ついうっかりと、何の注意も払わずに何となく暮らしている私たちのために、万人のお手本として進むべき道をお示し下されているのが、教祖の五十年にわたる「ひながた」です。 信仰とは「信じて」「仰ぐ」と書きますが、ただお手本たるひながたを仰ぎ見ているだけでは、運命を好転させるのは難しいでしょう。教祖のひながたを頼りに、教えを素直に実行してこそ、人生の限りない充実感を味わうことが出来るのです。 (終)
タイでひろがるたすけ合いの輪 タイ在住  野口 信也 私はタイへ赴任して14年目になります。教祖140年祭に向け、皆が心を一つにして、病気の方や困っている方の力になってもらいたいとの真柱様の思いを少しでも実現するため、教友の方々と様々な取り組みをしてきました。そうした中、身近な方々が重病を発症されたり、急にお亡くなりになるなど、心を倒しそうになることもありましたが、大きなたすかりを頂戴することも多くあり、教祖の年祭へ向けた活動の大切さを改めて感じる毎日です。 そうした活動の中でのことをお話したいと思います。友人の誘いで信仰を始め、母親の大けがを通して親神様の大きなご守護を体験したチューンさんという方がいます。私の住むタイ出張所の近くで小さな料理屋を経営し、そこに妹さんと住んでおられました。 チューンさんの妹さんは優しくてとても温厚な方でしたが、病弱で心臓病や重度の糖尿病など様々な病気を併発していて、私は病気の平癒を願い、何度かおさづけをさせて頂いていました。かいさ しかしその後少し遠方に引っ越され、コロナ禍もあり思うようにお会いできなくなってしまいました。 チューンさんは以前から、自分も人類のふるさとである天理で教えを学ぶべく修養科を志願し、おさづけの理を拝戴して、一日も早く妹におさづけを取り次ぎたい、と話していました。 そして、2020年5月から開始予定の修養科タイ語クラスに志願するため、料理屋を辞め、日本のビザを取得し、後は出発を待つのみでしたが、コロナ禍の影響で二年に一度開催されるはずのタイ語クラスが急遽中止となってしまいました。そして、あらためて開催されることになった2022年の修養科タイ語クラスへの志願を目前に、妹さんは残念ながらお亡くなりになりました。 私は、チューンさんは修養科を辞退されるのでは、と思いましたが、「神様との約束ですから」と初志貫徹。修養科にて三か月間学び、自身の悩みの種であったひざの痛みも完治のご守護を頂き、勇んでタイへ戻ってきました。 そして、知り合いや近所に病気の方やケガ人がいると、自身の学んできたことをお伝えし、妹さんに出来なかった思いも込めて、おさづけの取り次ぎを続けておられました。 「これまでおさづけを取り次がせて下さいとお願いして、一度も断られたことはありません」と、チューンさんは嬉しそうに話していました。 そんなある日、今年の一月のことです。チューンさんを信仰に導いたBさんから連絡があり、チューンさんから緊急のラインが入ったとのこと。現在、バンコクから約400キロ離れたブリラム県の病院で母親の看病をしているが、膀胱炎で血と膿が止まらず、心臓肥大に末期の腎不全など様々な症状を併発している。94歳という年齢も考え、延命治療は断っているが、検査のための採血などで腕は青あざだらけで、可哀そうで仕方がない。お母さんが安らかな最期を送れるようお願いして欲しい、とのことでした。 お母さんは家庭の事情から、チューンさんの兄嫁の実家へお兄さんと一緒に引っ越しておられたので、10年ほどお会いできていませんでした。私は何とかもう一度お会いしたいと思い、すぐに車を運転してBさんと現地へ向かいました。 到着後、病室へ入ると、お母さんはとても苦しそうで話が出来る状態ではなく、すぐにおさづけを取り次ぎました。すると、たちまちいびきをかいて気持ち良さそうに眠ってしまいました。 私が来るのを待って下さっていて、このままお亡くなりになるのでは、という不安が頭をよぎりました。その横でチューンさんとBさんは、「お母さんはこの辺りに知り合いがいないので、葬儀はバンコクでやりたい」など、今後のことについて相談をしていましたが、夜間の地方道路での運転は危険を伴うため、15分ほどの滞在ですぐにバンコクへとんぼ返りしなければなりませんでした。しかし帰りの運転中も、バンコクへ到着してからもお母さんの容態が気になって仕方がありませんでした。 翌日、Bさんからチューンさんのラインが転送されてきました。そこには、「お母さんの病状がとても良くなり、表情も明るくなり、呼吸器も簡易のもので事足りるようになりました。家族みんなで喜んでおり、お医者さんは二日後には自宅療養できると言っています」と書かれていました。 私はそれを見て大変驚きましたが、事情を知っている出張所の事務員も、この話を側で聞いていて、「鳥肌が立った」と言ったほどでした。チューンさんの献身的な看病と、心を込めたおさづけの取り次ぎにより、本当に鮮やかなご守護を頂戴しました。 10日後、私は再度ブリラム県へお見舞いに行くことにしました。この時はバンコクに戻っていたチューンさんと、Bさん、そして長距離を運転する私を手伝うためにと、Bさんの娘さんも同行してくれました。 元気なお母さんにお会いできることを楽しみにお宅を訪問すると、とても苦しそうなお顔で眠っておられました。チューンさんが食事をさせようと起こしましたが、目もほぼ開けることが出来ず、顎が外れたようにぽっかりと口が開いていて、チューンさんがご飯を口元まで運んでも、とても食べられる状態ではありません。 お兄さんたちの話では、昨日まで元気に食事もとっていたとのこと。そこで、すぐにおさづけを取り次ぎました。チューンさん、Bさん、そしてBさんの娘さん、全員修養科を修了したばかりですから、私に続いて順番におさづけを取り次いで神様にお願いしました。 すると、いつの間にかお母さんの顔がいきいきと明るくなり、ぽっかり開いていた口もしっかり動き、おかゆのご飯を美味しそうに食べ始めました。あまりのことに、今度はこちらがぽかんと口を開けたような状態になりました。 帰りには、お母さんの隣のベッドで治療していた方のお宅を訪問しました。病院でのお母さんの回復した姿を目の当たりにし、是非自分も神様にお願いして欲しいと依頼されたのです。この方は若い頃から心臓の病気を患っておられ、またその方の母親も膝に痛々しい傷を持っていたため、そのお二人におさづけを取り次ぎ、バンコクへ戻りました。 それから20日後、お母さんはご自宅で静かに息を引き取られました。お母さんの御霊をタイ出張所の祖霊舎(みたまや)へお遷しするため、再度ブリラム県へ行き、また帰りには心臓病の方のお宅を訪問しました。チューンさんも葬儀を終えた後、このお宅へ行き、お二人におさづけを取り次ぎましたと報告をくれました。 チューンさんの真心と、お母さんが自身の病気を通して導いて下さった新たなたすけ合いの輪です。大切に育んで、バンコクから遠く離れたこの町にも、教祖の教えでたすかる方が少しずつでも増えることを楽しみにしています。 だけど有難い「三つの『元』」 「幸せの元」は何でしょう。お道を信仰している方であれば、お金や物の豊かさではないということはお分かりだと思います。実際、お金や物の豊かさというのは、「幸せの元」ではなくて「生活の元」です。全くないと生活できませんから、お金も物も必要です。では「幸せの元」とは何か。いったい人間は、どんなときに幸せを感じるのでしょうか。 あるアンケート調査によれば、「自分が人から愛されている、大切にされていると感じたとき」「人から信頼されている、頼りにされているというとき」「世の中、社会のために役に立っていると感じたとき」という答えが多いそうです。これらはいずれも、人のために動いたときに得られるものばかりです。自分が何もしなければ、人から愛されたり、大切に扱われたり、信頼されたり、頼りにされたり、また世の中や社会の役に立ったりすることはありません。 「人たすけたら我が身たすかる」という教祖の教えは、このことからもよく分からせていただけます。「幸せの元」は、人をたすけるところから生まれるのです。 もう一つ、大事なものがあります。それは「命の元」です。これは誰しも察しがつくでしょう。健康であるということです。 この「命の元=健康」というものは、自分ではどうにもなりません。これをご守護いただこうと思ったら、どうすればいいのか。それは「幸せの元」である、人をたすけること、そして「生活の元」である、お金や物を人だすけに使わせていただくことです。普通、人間は、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいと考えて、「生活の元」であるお金や物を自分のために使うのです。そうではなく、人のために使わせていただくのです。 「生活の元」に困っている、生きていくのが大変という人は、どうしたらいいのか。「命の元」である健康を頂戴しているこの体を使って、人をたすけさせていただく。そうすることによって、生きていく糧をお与えいただけるのです。 こう考えると「幸せの元」「生活の元」「命の元」というのは、それぞれ大いに関わりのあるものです。そして、おたすけの実践こそ、そのすべてを頂く本元なのです。 (終)
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