Discover聞くだけで心が晴れる🌱仏教入門ラジオ
聞くだけで心が晴れる🌱仏教入門ラジオ
Claim Ownership

聞くだけで心が晴れる🌱仏教入門ラジオ

Author: よしおか@仏教の専門家

Subscribed: 185Played: 2,388
Share

Description

現代科学に欠けているものを
埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、
それは「仏教」です。(アインシュタイン)

日本は「仏教」の国なのに、
どうしてこんなにもよくわからないのでしょう?

私は、浄土真宗の講師として、
日本の裏側、ブラジルで仏教を伝えている布教使です。

《ブッダの智慧に生きる意味を学ぶ》
https://buddha-wisdom.localinfo.jp/

《note・動画講座あります》
https://note.com/buddha_wisdom

ブラジル人は、日本から仏教を伝えにきた私に
目を輝かせ「どんな教えか、すごく関心があります」と
聞いてきます。

ブラジルだけでなく、海外に行けば
自分の宗教は何か?ということは
当り前のように聞かれますが、
日本人ほど、宗教に無関心で、無知である人は
いないのではないでしょうか?

だけど、安心して下さい。
私もそうでした。

18才までは、「仏教って死人の後始末でしょ」
「宗教は危ない、近寄らないようにしよう」と
思っていた私が、

仏教を体系的に学ぶことで、こんなにも
論理的かつ実生活に密着した教えであり、
世界に誇る教えが、日本に存在していたのかと
感動し、それから20年以上学んできたことを
少しずつなりと伝えていけたらと、
ラジオを始めました。
46 Episodes
Reverse
お釈迦様は、 「怒らないことによって怒りにうち勝て 良い事によって悪いことにうち勝て 分かち合うことによって物惜しみにうち勝て」と仰っています。 腹を立てて攻撃してくる人に、こちらも怒りの炎を出してぶつかると、 更に大きな怒りとなり、手が付けられなくなります。
2019年の大ベストセラーとなった 「ファクトフルネス」の翻訳者の一人である 人気翻訳家の関美和さんは 同じ年に「EQ 2.0」という本も翻訳しています。 この二つの本に共通しているのは 「ありのままに正しく見る」ことだと 翻訳者の関さんは言っています。 仏教では、このありのままに正しく見ることを 「諦観」と言います。 諦観の諦は諦めると読みます。 あきらめるときくと、今日では、 とても見込みがない、仕方がないと断念する 意味でしか使われませんが、明らかに見るとも読み、 「物事を正しく明らかに見る」ことを諦観といわれます。
ある女性が、周りに自分を合わせてばかりいることに悩んでいました。 人から嫌われるような言動を取らないように 自分の意見はなるべく言わないようにしていると言います。 周りからどう思われているかに縛られて 自分らしい生き方ができていないのでは勿体ないことです。 私たちは誰かに期待されるために、 誰かの願いに応えるために生きているのではありません。 自分の人生ですから、自分の気持ちを大切にしたいものです。 そんな私たちにお釈迦様は 「皆にてほむる人はなく、皆にてそしる人もなし」と言われました。
良い行いをすれば幸せになるし、 悪い行いをすれば不幸になるというのは 誰でも納得していますし、 みんな信じて生きていることです。 しかし現実には、正しいことをした人があっけなく殺されてしまうことや、 凶悪犯が裁かれることなく、天寿を全うしていることがたくさんあります。 善人が必ず幸せになるとは限らない、 あるいは悪人が必ず不幸になるとも思えない。 昔から言われるように 「正直者はバカを見る」のではないか? そんなことを思うことはないでしょうか。 今から2000年前に書かれた 史上最高の歴史書といえば 中国の『史記』です。 この本は、司馬遷という歴史家が書いたものです。
お釈迦さまの誕生日を「花祭り」といって祝っています。 お釈迦さまは、どんな人の命にも、同じ価値がある。 肌の色も、生まれた場所も、障害があるとか無いとか、関係ありません。 全ての人間に共通した生きる目的、命の使い道があることを明らかにされています。
「あれは偶然起きた」「たまたまだった」と言われていることは、 実際にはごくごく小さな原因が大きな結果を引き起こしているのであり、 原因がないのではなくて、あまりにも小さくて分からないだけなのです。 小さな原因が予測もつかない大きな結果を生み出すことを 「Butterfly Effect バタフライ効果」と言ったりします。 小さな原因による小さな結果が、次の結果を起こし さらにそれが次の結果を引き起こすことで 思いもよらない結果を生み出すことがあります。
仏教から出たことわざに 「袖振り合うも多生の縁」という言葉があります。 多生の縁の「多生」とは、 私達が生まれてから死ぬまでは一生ですが、 生まれては死んで生まれては死んでと、 果てしない過去から何生もあって、というのが 多生ということです。「縁」とはつながりのことです。 隣に座って肩が触れ合うだけでも、果てしのない遠い過去から 何回も何回も生まれたり、死んだりを繰り返してきた中で 結びつきがあった人なのだよと言われている言葉が 「袖振り合うも多生の縁」という言葉なのです。
親鸞聖人は、今から800年前、京都に お生まれになっておられます。 親鸞聖人の教えは、唯一つ、なぜ生きるの答えでした。 なんのために生まれてきたのか、 何のために生きているのか、 どんなに苦しくても生きねばならないのはなぜか。 人はなぜ生きるか、という問いに ハッキリと答えられた方が親鸞聖人です。 親鸞聖人は、苦しみの絶えない人生を 荒波の絶えない海に、たとえられています。
努力の量は同じでも、縁(環境や条件)が変われば、成果も変わる。 この「縁」の大切さを知らないと、 「こんなに頑張っているのに報われない」という不平不満が出てきます。 仏教では、どんな結果も、私の行いという原因と縁が結びついて 起きるのだと教えられています。 同じ商品を作れば、売り上げが同じになるかといえばそうではありません。 同じ商品をつくるという原因は同じでも売上という結果が変わってくるのは、 それがどんな人に届くか、どんな環境で販売されるかによって 結果は大きくかわってきます。 「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」 ゴッホとピカソといえば、誰もが知る天才画家ですが、その生活には、 天と地ほどの差がありました。
浄土真宗の葬儀や法事で 読まれるお言葉に「白骨の章」といわれるお言葉があります。 今から500年前、室町時代の後期に活躍された、 蓮如上人という方の書かれたお言葉です。 銘文として教科書にも紹介されています。 「白骨の章」を蓮如上人はどんな理由で、お書きになられたのか。 また「白骨の章」に何を込められてお書きになられたのかを知ることで、 なぜ葬儀の時に読まれるのか、理解されると思います。
お釈迦様は、浄飯王という王様の子供として生まれられ、 幼い頃はシッダルタ太子と呼ばれていました。 カピラ城という城で、一人息子として、 将来は王になることが約束されており、 才能や、健康にも恵まれていました。 そんな何不自由のない太子でしたが、 成長するにつれて深い悩みをもたれるようになりました。 心配した浄飯王は、太子が19歳の時に その国一番の美女と言われた ヤショダラ姫と結婚をさせますが、 太子の暗い表情は晴れませんでした。 私たちの望むようなものは、何もかも手に入れていた太子が、 やがて出家を決意されるのです。 そのきっかけが四門出遊と言われる出来事です。
お釈迦さまは、今から2600年前、 インドで活躍された方です。 カピラ城に住んでいた浄飯王という 王様の太子として生まれられました。 幼い頃はシッダルタ太子といわれ、 文武ともに抜群で並ぶものは誰もいなかったと言われます。 そんなシッダルタ太子でしたが、 成長するにつれて、深刻に悩まれるようになり、 父親は太子のことを心配していました。
「仏説玉耶経(ぶっせつぎょくやきょう)」というと、 江戸時代までは上流家庭で、嫁入り前に娘に持たせたといわれるお経です。 主人公の玉耶(ぎょくや)は、大変、立派な女性でした。 その玉耶のような奥さんになりなさいよと娘に与えたお経だと言われます。 しかし、この玉耶は、始めから良い奥さんではありませんでした。 それが、お釈迦さまのお導きにより、生まれ変わったことがお経の中にでています。
私達は知恵がないために、 どれだけ愚かな失敗を繰り返しているか分かりません。 仏教は、目に見える、形のある財産を手に入れるためではなく、 目に見えない、無形の財産を手にするために教えられたものです。 一言の知恵があれば、私の行動が変わり、 金では手に入れることのできない幸せを手にすることができると お釈迦さまは、教えていかれています。
私たちの目は他人のことはよく気がつきますが、 自分のこととなると案外わからないものです。 目はその睫(まつげ)を見る能わず、という 言葉もあります。 今から500年前、室町時代の有名な僧侶に とんちで有名な、一休さんがいます。 一休さんは禅宗の僧侶でしたが、 浄土真宗の蓮如上人と仲が良く 色々なエピソードが残っています。
怒りの心を、さらに怒りで返すことで、 恐ろしい結果をまねきます。 「売り言葉に買い言葉」といわれるように やられたからにはやり返さなければおさまらないと いう気持ちがおきても、 怒りに怒りで返す、恨みは恨みを持って返すでは、 無限に苦しみがつづくことになります。 お釈迦様は怒りの心に対して、怒りで勝つことはできない。 怒りに勝つのは 慈しみの心、慈悲の心であると教えられています。
責任感が強く真面目な人ほど、 自分を追い込んでしまいます。 何もかも一人で抱え込み、 すべてを完璧にこなそうとする。 お釈迦さまのお弟子にもそのようなお弟子があり、 お釈迦さまがアドバイスをされました。
身近な人を亡くした時に死に驚くのはなぜか。 もう会えないという悲しさもありますが、 一番は、自分の死を意識することになるからです。
仏教は、包み隠さず人間のありのままの姿を 明らかにしています。時にそれは、強烈で 認めたくないこともあるかもしれませんが、 本当のことをズバリ言われています。 仏教から見て、無慈悲な人はどんな人か? それは「思考停止」している人です。 なんの疑問ももたず、なにも考えずに まわりに従っていわれるままにやっている人、 これが一番恐ろしいといわれます。 そんな人が無慈悲といわれると特定の人を 思い浮かべ、私はそうではないと思うかも しれませんが、すべての人間が思考停止していると 仏教では明らかにされています。
仏教に語殺という言葉があります。 語殺とは「言葉で相手を殺す」ということです。 手にナイフを持ち、相手を刺すことはなくても、 舌一枚で相手を切りつけることができる。 言った方には自覚がなくても、 言われた人は死ぬまで忘れられないという一言があります。 お釈迦様のお弟子の車匿(しゃのく)という人は、 悪口をやめることができず、 お釈迦さまから厳しい罰を受けています。 これは、悪口を言う人がどうなるか、 今も昔も変わらない教訓です。
loading
Comments 
Download from Google Play
Download from App Store