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田舎坊主の読み聞かせ法話
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田舎坊主の読み聞かせ法話

Author: 田舎坊主 森田良恒

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田舎坊主の読み聞かせ法話
田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです
和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー
もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。
人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
163 Episodes
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檀家さんにとって私のような小坊主でも、寺の跡継ぎができた安心感やもの珍しさもあり、法事も新鮮な感じがするとかで、案外歓迎されているように思います。 しかし法事の後、「斎(とき)」とよばれる食事の席につきますが、食事をいただいていて皆さんだんだんお酒が回ってると、法衣を着て上座に座っている坊主であっても、参列者から 「今の若いもんは・・・」という話になることがたびたびあります。 昭和50年ごろ、法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりで、小学校の校庭にまでサツマイモを植えてそれを主食とした世代です。 しかしイモだけでは足らずイモの蔓まで食料にしたという飢えた時代を体験した人の、食べ物に限らず、なによりも物の大切さを話す言葉には大きな説得力がありました。 それに比べて、私は高野山の宿坊で小坊主時代を過ごし、ご馳走と呼べるものは食べられていなかったとはいえ、白いご飯だけはタップリあったし、おかずはなくても空腹になることはありませんでした。 ですからほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがないのです。 そんな私がひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、法衣を着て法事を勤めるためには、せめてほんとうの空腹感を経験する必要があると思い始めました。 そこで断食です。 私がお世話になった断食道場には、多くの人が内臓の調子を整えるために来られていました。 そこでは最長の断食期間が一ヶ月で、そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっています。 しかし私はこれを修行と思い、どんなことが起こっても自分が責任をとるということで、無理にお願いして本断食を二週間にさせてもらうことになりました。 これで、はじめの一週間が減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まりました。 本断食中には夜、布団に入ると空腹にさいなまれ、部屋の天然木の天井板がまるでお肉が並んでいるように見えるといった妄想にかられました。 ようやく本断食が終わり、減食開始から22日目に復食が始まりました。久しぶりに食べものを口にすることができる日が来たのです。 食べものといっても一日二杯のおも湯です。 ところが、このただのお粥の汁のようなおも湯が、なんと美味しいこと!美味しいこと! 涙が出るほど、おいしいのです。 このときに思いました。 おなかが空っぽだったからこそ、おも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。 そして足らないことを経験してみないと、豊かなものを感じることができないのだと、そのときつくづく思い知らされました。 この断食を終えて家に帰ったとき、一ヶ月で10キロ近くやせた私を迎えてくれた母が、「痩せてかわいそうに」と、号泣するのです。 はじめて母を泣かせてしまいました。 思い出の断食道場は先日の火事で焼け落ちてしまいました。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
親の心子知らず 結局、高校、大学と高野山で過ごし僧侶になる修行は済ませたものの、大学卒業後の進路は寺の跡継ぎではありませんでした。 というのも私が高野山大学で専攻したのは当時新設された社会福祉学科だったため、大学としても社会福祉学科第一期生としてできるだけ多くの卒業生を社会福祉関連に就職先を決定させるという目標を掲げていたのです。 そのためいくつかの施設で実習や研修をおこなったうえで、私は大阪のある介護老人保健施設に就職を決めていました。 しかし、当然ながら父親は私の就職を受け入れず、みずからが役場つとめをしながら住職をしていたことから、自分と同じような役場つとめをするか、または坊主をしながら学校の先生になるか、執拗に兼業をすすめてきたため、かえって反抗し続けた私がいました。 このときには、父親が兼業だったからこそ私たち兄弟3人を育て上げ、大学までいかせることができたのだということを考える余裕などまったくありませんでした。 父親に対する反抗心が、“どうせお寺を継ぐのであれば専業でやっていく”という意地のようなものを私に芽生えさせたのです。 しかし現実はきびしいもので、お寺にいても仕事がないのです。 若いのにぶらぶらしているように思われるのがいやで、朝8時から夕方5時まで紀ノ川で魚釣りをして時間をつぶす日が続きました。 そんななか一番心癒やされたのは、共働きの兄夫婦にできた姪っ子の子守でした。 かわいい姪っ子が私を慕ってくれ、子守は日々の唯一の楽しみでもありました。 父親は兼業のため日行参りはいってませんでしたので、私は坊主専業でいくならこれではいけないと、昭和49年、古い過去帳を整理し、お参りカレンダーをつくり日行参りを始めるようにしました。 毎日、檀家さんに「お参りさせてもらってもよろしいでしょうか?」と電話をかけ、少しずつ仕事をつくっていったものの、あるときには、「若いのにあまり仕事がなかったら、体がなまってしまわないかい?」と、皮肉をいわれることも二度や三度ではありませんでした。 檀家さんの目を気にしながらも、ほんとうの空腹を知るために断食道場にいき、帰ってきてからはご詠歌も習い始め、専業坊主めざし五里霧中のなか、私は何かを探すように坊主が手探りで歩き始めたのです。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
私は、坊主には絶対なりたくないと思っていました。 男兄弟3人の末っ子で、普通高校に行き、普通大学に行き、普通のサラリーマンになると思っていたのです。 しかし兄2人が早々に普通高校、県外の大学に行き、普通のサラリーマンになったため、あわてた父親は私を高野山高校に入れようと中学校の先生に協力を求め、説得にかかったのです。 しかし、私の坊主への拒否反応はその話があった中学3年生の2学期の終わりごろから現れ、その後のテストというテストはすべて白紙で提出し、しまいには担任から怒られるだけではなく、職員室に連れていかれた上、職員会議の席ですべての先生に土下座をさせられる羽目と遭いました。 この時のみじめさと悲しさは、私の脳裏から離れることはありませんでした。 しかし、結局、高野山高校を受験することになり、入学試験は1泊2日で高野山の宿坊に宿泊することになっていて、私の説得にあたった先生が付き添ってくれることになりました。 この期に及んでもまだ受験を受け入れることができず、高野山行きの南海電車に乗ったときから体が拒否反応を起こし、電車のなかでなんども吐いてしまったほどです。 あとから気づいたのですが、受験の際宿泊した宿坊が私が高校大学と七年間お世話になる師僧のお寺でした。 そこまで父親は段取りをつけていたのです。 残念ながら、高野山高校に合格してしまい、それとともに師僧の宿坊で小坊主として住み込むことになってしまいました。 入学当初は、はじめての下宿生活で、15歳になったばかりの少年は突然「他人の飯を食う」ことになり、しかも朝早くからの勤行、宿泊客の布団あげ、朝食の配膳、食事中のお味噌汁やご飯のおかわりの賄い、お膳の片づけ、お客さまの見送り、掃除などで強烈なホームシックにかかったこともありました。 当時の私の日記には「おかちゃんの卵焼きが食べたい。足袋を縫ってもらいたい。」などとつづられていました。 お客さまを送り出してやっと自分の朝食をとることができます。 寺に古くからいる執事さんや古老などから食事をとるため、一番若手は最後の方になります。おかずはそれぞれ個別に盛られているわけではないので、どうしてもお味噌汁やおかずは残りわずかになり、ただ漬け物とご飯だけは十分にあったので空腹になることはありませんでした。 このことが良かったのか悪かったのか高校2年生になったころには私の体重は80キロを超えていました。 そしてこのころになると、後輩も入ってきて、それまで猫をかぶっていた私も本性が少しずつ現れてきたというか、反抗の芽が再び頭を持ち上げてきたのです。 昭和42年当時、高野山ではお寺から出るゴミは個別に焼却場へ持っていかなければなりませんでした。軽四貨物車に積み込み先輩と二人一組で運ぶのですが、私はときどき先輩にすすめられて運転をしていました。当然無免許です。 これが私の運転欲に火をつけたのです。 軽四貨物車だけではなく乗用車にも乗ってみたいと思い始め、目をつけたのが住職の自家用車でした。 もちろん車のキーはありませんから作らなければなりません。当時の車のキーは部屋のドアキーなどとよく似ていたので、五寸釘をたたいてつぶせばそれらしきものを作れるような気がしたのです。そうしてできたのが五寸釘キーでした。 お客さんのいない夏の夜、パジャマのまま部屋を抜け出し、住職の車に近づきドアに五寸釘キーを挿しました。ところがドアには鍵がかかっておらず、そのまま開き、あとはエンジンがかかるかどうかです。というより問題はキーが入るかどうかです。 ・・・・なんとキーはスムーズに入り、エンジンがかかったのです。 このときの私の心臓は肋骨の隙間からはみ出しそうな鼓動を打っていました。 わたしは静かに寺の門を開け、住職の自家用車を門の外に出し、外から門を閉め、誰にも知られないうちに帰ればいいと奥の院方面へ車を走らせたました。 奥の院入り口の一之橋に近づいたところで1台のパトカーに出会いましたが、まだ自分を探しているとは思わず、取りあえず脇にそれた路地に車を止め、知らん顔をして同級生のいる宿坊に向いました。 ところがすでにこのとき、住職から私が無免許で自家用車を運転して寺を出たと警察に電話が入っていたのです。 そうとも知らず私は、同級生のいる宿坊入り口に着くと、ただ警察官を見るとやはり悪いことをしているという思いから、とっさに宿坊入り口近くの太鼓橋の下に隠れました。するとその太鼓橋の上で、「こちらは高野山警察の○○、車発見。犯人いまだ逃走。橋本署応援頼む・・・」と、無線でやりとりしているではありませんか。 犯人の私はもうパニックです。逃げられません。石垣を這い上りあえなくご用となりました。 高野山警察署では平身低頭ただただ謝るばかりです。 住職は私を破門したいくらだった気持ちをおさえ、 「弟子の行動は私の責任です。どうか寛大なる措置を。どうか穏便に。」と、警察に訴えてくれました。 おかげさまで、私は何のおとがめもなく再び寺の生活に戻ることができたのです。 この一件は私にとって反抗期から抜け出す大きな転機となりました。 救いようのないやんちゃな小坊主も師僧のおかげで少しは心を入れかえ、高野山高校卒業時には高野山真言宗管長賞に次ぐ宗務総長賞という栄誉を賜り、高野山大学へは推薦奨学金もいただくことができました。合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
はじめに しかたなくいやいや寺の後を継ぎ、必死で駈けぬけた40年、いや50年でした。 最初は、坊主をするかぎりは専業でという意地がかえって自分を追いつめ、毎日もがいていたように思います。 しかし、少し前向きに歩み始めて十年ほどたつと不思議なもので、一から始めた日行参りも軌道にのり、習いはじめたご詠歌はもともと学生時代には声明が得意だったこともあって習得が早く、師範を許され、習いたいという生徒も出てました。最盛期には七カ所で教室ができるほどになりました。 その上、独学で練習していた津軽三味線も習いたいという生徒ができ、三味線森田会として三つの教室をもつことになったのです。 そのころは週のうち5日はご詠歌と三味線の教室で教えていました。 また、ある私立の進学高校から非常勤講師で招かれ、先生として七年勤務し、さらに35歳のときには和歌山県内でも最年少の公民館長を拝命することになったのです。 そして公民館長を10年つとめると、役場からも声がかかり、これも非常勤で教育委員会に勤務することになりました。 難病の次女が五歳で亡くなったことから、患者会の全国副代表をつとめることにもなり、毎月出張で上京していました。 人生は不思議なもので、何もすることがなった若いころがうそのように、多忙を極めるようになっていたのです。 その間、時代とともに私をとりまく状況は大きく変化し、昔は嫌がっていた坊主も、役場つとめも、学校の先生もみな経験し、はじめに自分が決めたものとはまったくちがった人生を歩んでいたのです。 この本は、私の小坊主時代や、坊主となって本来のつとめである法事、お盆、お葬式という行事のなかで経験したこと、印象的に記憶に残っていることなどのエピソードをしたためたものです。 お聴き戴いている皆さまには、田舎寺の縁側で住職の四方山話を聞いているつもりで、楽しく気楽に聴いていただければなにより幸いです。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
いつもお聴きいただきありがとうございます 5月3日(金)からはシーズン5に入ります 今度の本は2015年に出版した「田舎坊主の七転八倒」という本です この本の内容は、私個人のいわばカミングアウトバージョンです 引き続きぜひお聴きください --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
2010年の12月クリスマスのころ、ある児童施設にランドセルが送られ、「伊達直人からの善意の贈り物」としてメディアに大きく取り上げられた。 その後、全国各地で次々と同様の施設に贈りものが届くようになり、 「日本人も捨てたものじゃない」 「新たな寄付の形態が現れた」 など、巷間喧しく論じられるようになった。 「伊達直人」名で届けられた贈りものは、2011年1月には物品や金銭を含め47都道府県すべてに同様の寄付が寄せられたそうだ。 メディアはこれを「タイガーマスク現象」と名付けた。 最近、駅前や繁華街などで街頭募金が行われているのをよく見かけるようになったが、それでも日本の寄付文化はあまり成熟しているとは言えないだろう。 * 私は毎年1回、JR和歌山駅前で署名と募金活動をおこなっている。もう20年以上になるが、気持ちよく署名や募金をしてくれる方々のすがたに、いつも感謝の気持ちでいっぱいになる。 なかでも若い学生や子どもたちがなけなしのお小遣いから寄付してくれるすがたにはほんとうに頭が下がるのだ。しかもその際、「がんばって下さい」と言葉をかけてくれるのには、いつも胸が熱くなる。 私が経験するかぎり、募金や署名に協力してくれるのは、概して若者が多い。むしろ大人というか中年の人は、いかにも“私はいま忙しいの”といわんばかりに無視していく人が多いのも事実だ。 なかには無視するのではなく、「この募金はどのように使われるのですか?」と、その使い道を確認した上で募金する、堅実型の人も増えてきた。 いずれにしても、募金することを恥ずかしがっている人は確かに多いように思う。この日本人らしさともいうべき謙虚さが財政基盤の弱い難病患者団体などの募金活動において充分な資金を得られない理由でもある。 アメリカなどでは政治にしても慈善事業にしても個人・団体にかかわらず、日本とは比べものにならないほど日常化しているという。寄付をすることが「照れくさい」「恥ずかしい」「いい格好をしているように思われないだろうか」など、日本人独特の文化ともいうべきものが、寄付文化の成熟を阻んでいるように思うのだ。 しかし「タイガーマスク現象」が報道されて以来、多くの人が「この方法だったら自分にもなにかできるのではないか」「この現象に便乗して恵まれない人たちのために何か役に立ちたい」と、実際に行動を起こした人が多く出現したのではないだろうか。 * この「タイガーマスク現象」華やかなりしころ、1月15日に私の住む和歌山県紀の川市に、「難病患者のために使って下さい」 と100万円が寄付されたのだ。この時の寄付者の名前は「華岡青洲」だった。 添えられた手紙には、「同封のお金を難病患者の会へきふして下さい。ある病院で『田舎坊主の愛別離苦』をよんで私の人生と重なり共感しました。難病の方の役に立てて下さい。華岡青洲」と書かれていた。 市の方は早速、私が事務局長をつとめるめる「紀の川市難病患者家族会きほく」に届けて下さった。 華岡青洲は、アメリカ人モントルのエーテル麻酔の成功からさかのぼること42年、1804年世界ではじめて全身麻酔薬「通仙散」による乳ガン摘出手術を成功させた「医聖」とよばれる人で、私の寺から1㎞ほど北に生誕地がある。 当時、華岡青洲のもとには全国から最新医学を学びたいと多くの医学生が集まり学業と実験に励んだ。 そしてやがて修学を終え春林軒を卒業して故郷に帰る弟子たちに、免状とともに自筆の漢詩をしたためた一幅の掛け軸を贈った。その一編の詩には次のように書かれていた。  竹屋簫然烏雀喧(ちくおくしようぜんうじやくかまびすし)  風光自適臥寒村(ふうこうおのずからかんそんにがすにてきす) 唯思起死回生術(ただおもうきしかいせいのじゆつ)  何望軽裘肥馬門(なんぞのぞまんけいきゆうひばのもん) この意味は、住まいの家はそんなに立派ではないが、鳥のさえずりが聞こえ、さわやかな風が吹く、豊かな自然に恵まれた田舎に住んでいる。 私は、富も地位も栄誉も望まない。ひたすら思うことは、病人を回生させる医術の奥義を極め、難病患者を救いたいのだ。 お金を儲けて絹の着物を着たいとか、立派な馬に乗りたいとか、決して思わない。 100万円という大金を、言わば匿名で寄付してくれたその方も、華岡青洲の精神に通じるものがあったのだと思う。 タイガーマスク現象はほとんどが施設の子どもたちなどのために寄付されたものだった。しかし、難病患者のためにと寄付されたのは全国的にも初めてのことで、このことは一部の全国紙でも報道された。 それにしても、私の患者会に寄付されたことと、その理由が私の拙書「田舎坊主の愛別離苦」を読んで共感してくれたことに驚きとともに「大切に使わせて頂きます」との思いが強かったことを今でも鮮明に覚えている。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
人は必ず、あっちへ行く。 あっちはとは、だれひとり帰ってきて現地報告したことのないところだ。 そんなことは分かっていても、自分はまだあっちへは行かないと多くの人は思っている。 どちらかというとあのお年寄りが先で、自分はまだ。 あの病院通いばかりしている人が先で自分はまだ。 そう思っている。  「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」という句がある。 この句には二つの意味を含んでいる。 ひとつは、 「海水の中で水に濡れなければ仕事にならない海女でさえ、時雨に濡れて体調を崩すことのないように、死を説き、死を厭わない僧である私でもほんとうの悟りを得て仏さまのところにいくまでは体調に配慮して薬も飲むんだよ。」という意味だ。 ふたつは、 「海女さんは海にもぐって貝などを採ってそれを生業にしている。例外なく海にもぐればそのからだを濡らすことは分かっていても、その海に入るところまでの浜で時雨が降ってくれば、それには濡れないように蓑を着るものだ。人も例外なく死がやってくることはみんな知っているが、いよいよそのときが来るまで自分の死を考えないものだ。」という意味だ。 このふたつの意味はどちらかというと対照的だが、後者の意味の方が深いような気がする。 お釈迦さまは「匙の 汁に浸って その味を知らず」と説いた。 香り高いコーヒーにシュガーやミルクを入れ、スプーンでひと混ぜしてもそのスプーンはコーヒーの味も香りも分からないように、私たちは生きてるあいだに自分の周囲で、突然の事故や災害、病気などで亡くなる人を常に目や耳にして知っているのに、そのスプーンのようにいつまでも自分のこととして考えないというのだ。   あっちへ行くのは「あすかも知れない」と思い生きることで、どれだけ大切に生きることができるのだろうか。  いま険悪中の友人と仲直りしとかないと・・・・  借りた義理は心を込めて返しておかないと・・・・ あやまる機会を逸している人は早めにあやまっとかないと・・・・  何かの役に立ちたいと思っているならすぐ実行しないと・・・・  いまあなたが必要とされているならそのために尽くさないと・・・・  さあ、すぐ実践してみてはどうだろう。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
私が町役場で社会同和教育指導員という辞令をいただいていた1994年11月のことである。 人権週間にあわせて人権教育講演会を開催することになった。担当者はそれぞれ意見を出して講演者の選定に当たった。 とりわけ人権の話となれば聴衆者も少なく、ときには難解な講義形式で話される先生もあることから町民から敬遠されることが多かったのだ。 私は予算の関係もあるが、人権と言えども楽しく話してくれる人はいないかと考え、最終的にタレントのレオナルド熊さんに決めたのである。 レオナルド熊さんといえば、1980年ごろ、いま名脇役の渋い俳優として活躍する石倉三郎氏とお笑いコンビを組んで大活躍し、ニッカポッカのズボンに腹巻き、チョビ髭をつけた格好でおおいに笑わせてくれた。 レオナルド熊さんに、「講演テーマを何にしましょうか」と聞いたところ、「いまを生きる」にして下さいといわれた。 失礼だと思ったがもう一度聞き直した。テレビに出てくる熊さんと「いまを生きる」がピンと結びつかなかったのだ。やはり、 「『いまを生きる』でお願いします」と、念を押された。 このテーマについては講演会の当日、控え室で次のようなこと聞かせていただいた。 「先月のことなんだけど、医者に行ったら末期の膀胱ガンだっていわれたのよ。いつまでの命かは医者は言わなかったけどさ、あんまり長くないんだよ、っていうかそう思ってるの。ちょうど和歌山に来る前に友だちが『ガン祝いの会』ってのを開いてくれてさ、励ましてもらったっていうか、みんなに笑わせてもらってきたのよ。この講演会の話があったときテーマを何にするか聞かれて、俺にゃあ似あわねえけど『いまを生きる』しかないと思ったんだ。」と、話してくれた。  私はもちろんそんなことは知るよしもなかったから、その話に驚かされるとともに、末期ガンの体で和歌山に来てくれたことも「いまを生きる」に含まれていることにはじめて気がついた。   講演会には多くの町民が来てくれた。 講演では熊さんは元気いっぱい話してくれた。 ・テレビで売れるようになる少しに結核で入院していて、ほんとうは病弱なこと。 ・笑いが止まらないほどテレビの出演が多くなってきたこと。 ・社会をいじくって笑いを作ってきたこと。 ・売れてくるとコマーシャルの出演要請が来て、そのなかでも社会をいじくるセリフが大うけとなって、当時そのセリフがはやり言葉となったこと。 ・そうなればさらに仕事がどんどん増えてきたこと。 ・ギャラはどんどん上がり、お金がばっさばっさ入ってきたこと。 ・収入は銀行に貯金しないでタンス預金だったこと。 ・タンスがいっぱいになって入らなくなったので、押し入れ預金になったこと。 ・その押し入れもいっぱいになって、タンスの戸を開けたらお金があふれ出てきたこと。 ・お金が邪魔になって面倒くさくなってきたこと。  人権講演会場はおおきな笑いに包まれた。 最後に熊さんは、 「もともとからだが弱かったから、ほんとうに一生けんめいがんばりましたよ。 いつ死ぬかも分からなかったからね。 そのときそのとき手をぬかず、やってきたからよかったんだね。 いましかないと思って生きること。それしかないね。 ありがとう。」 そう言って壇上を降りた。 もちろん自分が末期ガンであることは話さなかった。 私は熊さんの笑顔に一抹の寂しさのようなものを隠せないことに気がついていた。 それから10日ほど経った日、テレビでレオナルド熊さん急死のニュースが流れていた。 そのときの驚きとともに、講演会のテーマを「いまを生きる」としたレオナルド熊さんの熱い思いと、あらためてそのテーマの重みを考えさせられた。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
私たちは食事の前に「いただきます」、食後は「ご馳走さまです」という。 ある中学校の講演で「いただきますはだれに言いますか?」という質問をした。 子どもたちに「きのう何を食べましたか?」と聞くと、「おでん」と答えてくれた。 「おでんの中の何を食べましたか?」 と聞くと、「たまご、ダイコン、牛すじ」と答えてくれた。 私たちは誰かのために働いたり、誰かの役に立つ作業をすれば報酬がいただける。会社に行って働けばお給料がいただける。 でも、たまごやダイコンや牛すじを食べればあなたの栄養となりエネルギー となり命になるのに、鶏や牛やだいこんに報酬は渡らない。 お父さんが働いたお給料で、お母さんが鶏や牛やダイコンなどのお買い物をしてお金を支払っても、それはお店や卸業者や生産者に手渡されて、鶏や牛やだいこんには渡らない。 それどころか牛が解体処理場にいくとき涙を流すといい、鶏は狭いケージの中を精一杯羽ばたいて出ようとしないという。 すでに彼らは殺されることを悟っているのだ。 ダイコンは花を咲かせ種を蓄えるまで、大地に精いっぱい根を張ってなかなか抜かれまいとふんばるのだ。 これらの命をいただくのだから、自然に「いただきます」とでてくるのだ。 そして食べ終わればわざわざ「いただいた命で馳せ走ることができます」という意味の 「ご馳走さま」と言って、感謝の言葉で締めくくるのだ。 以前は「たべる」を「喰」とも書いた。この字は人がひざまずいて食べものを口に運んでいるようすからできた象形文字だそうだ。 人が食べものを口にすることによって「𠆢」の下に「口」がとり込まれ、この文字が変化して「命」という文字ができている。 仏教では、鶏や牛やダイコンのようにその命を提供し、人はそれを食しその命をつないでいる行為を、インドの古い言葉、梵語で「ダーナ(布施)」というのだ。「ダーナ」は日本では「檀那」となり、寺に布施する人を意味し、布施する家は「檀家」ということになる。 さらに「ダーナ」は英語圏では「ドナー」と変化する。 今では医療用語の「ドナー(提供者)」として普及しているが、本来はなんの報酬も求めず、他を生かすことが語源なのだ。 私たちは日々無数の食べものの「ダーナ(布施)」という行為で自分の命を生かさせてもらっているのだ。 だから「いただきます」は毎日の食卓にのぼる食べものに対して言っているのであって、お父さんやお母さんに言うのではないのだ。 * 私の娘が胆道閉鎖症という難病で死んだ四年後、平成元年に世界で四例目、日本で初めての生体肝移植がおこなわれた。ドナーは父親で、レシピエントとして手術を受けた子どもの病気は同じ胆道閉鎖症だった。 日本で脳死移植が認められるまでの緊急避難的に実施された手術であったが、各方面から「あなたは、やらないのか」という同病患者家族へのプレッシャーが社会に生まれるなどとして「問題がある」との声が多くあがったのを覚えている。 しかし、そのときの執刀医は、「このような状況のなかで、肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した。」 と、日本初の手術に対する決意を述べていた。 結局、その子は術後280日間生きぬき、翌年8月24日のお地蔵さまのご縁日に亡くなった。 葬儀に参列した執刀医は、「助けてあげられなくてごめんね、先生はこれからももっと勉強してYちゃんから教えてもらったたくさんのことを生かして、病気の子どもたちを一人でも多く救いたいと思います。あなたの死を絶対むだにはしません。」 と、涙ながらに弔辞を述べられた。 いま生体肝移植は一般保険治療対象の手術となっている。手術例も5000例を超えるという。 このドナーとなった尊い父親の行為と、亡くなっていったレシピエントであるYちゃんがのこしたものは、たくさんの命の贈りものとなって今多くの患者を救っているのだ。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
学生のころ中村久子さんの『こころの手足』(春秋社)を読んだ。 中村久子さんは幼いころの凍傷が原因で脱疽(体組織が壊死していくこと)となり両手両足を切断することになる。 母の深い愛情で育てられ、残った短い手で編み物もできるまでになった。 成人したころ実母は再婚したが、再婚相手の継父に興行師に身売りされてしまうのだ。 日々の生活は、両手両足のない姿を見世物として舞台に上がらされ、母から教わった生きる手立ての裁縫や編み物などは哀しい哉、皮肉にも見世物として役に立ったのである。 自分の体は仏からいただいたもので、なにひとつ恨んでいないと語り、むしろ手足のない不自由な体であるからこそ強く生きることができたと述懐されている。 『こころの手足』のなかに次のような詩がある。 さわやかな 秋の朝  「タオル 取ってちょうだい」  「おーい」と答える   良人(おっと)がある  「ハーイ」という   娘がおる   歯をみがく   義歯の取り外し   かおを洗う   短いけれど   指のない   まるい   つよい手が   何でもしてくれる   断端(きれはし)に骨のない   やわらかい腕もある   何でもしてくれる   短い手もある   ある ある ある   みんなある   さわやかな   秋の朝 何もなくても、幸せを感じることができるのだ。 しかし何もないと思っているのは私の方であり、中村久子さんにはいっぱいあるのだ。 「無一物 無尽蔵」とはこのことなのだ。 この本を泣きながら読んだころ、そう思った。 私の祖母も両手は中村久子さんのようだった。手首の10㎝位下から、断端(きれはし)に骨のないやわらかい腕だった。 私が生を受け、物ごころがついたころから祖母は手がなかったのでまったく違和感もなくその姿を受け入れていた。 中学に上がったころ父から祖母の手がなくなった理由を聞かせてもらった。 私の自坊、不動寺は50mほどの急坂を上がったところにある。 寺の敷地内の北側に大岩盤が地表に現れ、その岩盤を基礎石に利用して本堂は建てられている。 あるとき、熱を出した父を祖母が背負って紀ノ川沿いの診療所へ行くとき、寺の近くの坂道で父を背負ったまま倒れたそうである。 その当時はもちろん舗装されているわけではなく、牛にくびきをつけた荷車がその地道の坂道を行き来していた。 そんな急な坂道で子どもを背負ったまま倒れ、両手をついた傷口からばい菌が入ったのだ。 祖母は自分は大丈夫とばかり、ろくに医者に診てもらうこともなく、子どもである父のことを気づかい、診療所をあとにしたのである。 その後、医者に診せたといっても、まともな抗生物質も薬剤も十分ではない時代のこと、やがて祖母の両手は腫れあがってきた。 ついには両手とも脱疽となり、全身に壊死が広がる前に手首から一〇センチくらいのところから両方切断しなければならなくなったのである。   しかし、私の知っている祖母は、いつも着物を着て、長火鉢にすわり、キセルできざみの煙草をふかしていた。 断端に骨のないやわらかい手でキセルにうまくきざみの煙草をつめるのである。もちろんマッチも上手に使った。 長火鉢の端には針山もついていて、自分の着物の繕いは全部自分でこなしていた。 食事のとき、小皿に盛ったおかずを左手のひじを曲げたところにうまくのせ、右ひじに箸をはさんで美味しそうに食べた。 とくに不安定なお粥さんの入ったお茶碗を左ひじにのせ、梅干しの種を出して上手に食べていたのをいまも覚えている。   祖母が両手を失って以来、すべてがあたりまえのようにできるようになるまでどれだけの時間がかかったことだろうか。 そしてどれほどの試行錯誤に悩んだだろうか。どれほどの試練を乗り越えたのだろうか。 多分その苦しみは祖母にしか分からなかったと思う。 * 私がいやいや高野山にのぼり(いやいやだったことは『田舎坊主のぶつぶつ説法』(文芸社)に詳しく書いた)、小坊主として師僧の寺から高野山高校に通った。 一年生のとき担任の先生に勧められ校内弁論大会にでた。 そのときのテーマは「僕のおばあちゃん」だった。 15歳で家を出て高野山にのぼり、いつも家族みんなのことばかり考えていた。なかでも四年前に亡くなった両手のない祖母のことは、私には見慣れたすがたで、どんなしぐさも普通であっても世間的にはそうではなかったのだ。 いまひとりになって考えてみると、祖母は「不自由であっても努力すればできるようになる。なにもなくなっても決して不幸ではない。恵まれないなかでこそ努力するのだ」と教えてくれているように思った。 そのとき優秀賞をいただけたのは、祖母という強い生き方をしたお手本が身近にいたからだった。 この祖母も自分は何も持たず、逝ったのは81歳だった。もちろん持つ手もなかったが・・・。 私には多くのものを残してくれた祖母だった。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
田舎坊主の寺、不動寺が建立されたのは、慶長六年(1601年)開山と伝えられている。 1700年頃に本堂が焼失し、その後、宝永三年(1706年)、現在の本堂が再建された。この年は、西国霊場で有名な粉河寺の山門が建立される前年のことになる。 不動寺はその名の通り本尊は不動明王だ。 正式本尊名は「大日大聖不動明王」といい、真言宗の本尊である「大日如来」の化身といわれていて、続日本書記には高名な仏師「小野篁(おののたかむら)作」と記されている。 本来、不動明王を本尊とする本堂の内陣には「護摩壇」が据えられていて、もちろん不動寺にもあるのだが、残念ながら護摩を焚くことができなかった。 というのは、今から約70年前、護摩を焚く鉄製釜が大戦時中に強制的に供出され、現在まで釜のない状態が続いていたのだ。 * 今から35年前、現住職の田舎坊主が副住職に任命された際、護摩焚き法要再開のため、老朽化した護摩壇を修復新調することを願い見積もりをおこなったところ、最低500万円という高額費用がかかることが分かり、総代等に相談するも断念を余儀なくされた経緯があったのだ。 ところが幸い、娘の旦那さん和道師が副住職に就いたことを機に、再度見積もりしてもらったところ修復技術も進化し、老朽化した護摩壇はほとんど新品同様になるという。 しかも35年前の見積額のほぼ半額で修復できることがわかり、70年ぶりに護摩壇が修復されるとともに護摩釜が据えられるようになった。 ちなみに今回の修復で分かったことだが、不動寺の護摩壇は、寛政五年(1793年)、今から219年前、住職宥全師の代に寄進されたことが護摩壇の裏書きの寄進控えから判明した。 平成23年12月22日に護摩壇の修復が完成し、新たに護摩天蓋が新調されるとともに、この際、灯籠などその他の堂内備品も塗り替え修復や花瓶の新調もされ、見違えるほどの護摩堂として完成したのだ。 護摩を焚くには前方便から入壇し、護摩木を炊きあげるまで約2時間を要する長座となる。そのため午前中に前方便に入り、必要な作法を済ませた上で午後の本護摩壇に入壇するのだ。 護摩法要では参詣者に祈願を書き添えた護摩木が導師の読み上げとともに焚きあげられ、開壇、慰霊とともに息災護摩としていとなまれる。 私は修復完成の落慶法要ではどうしても祈願したいことがあった。 それは東日本大災害で被災した御魂(みたま)に対する慰霊と、紀南地方に甚大な被害をもたらした台風12号被災者の慰霊をつとめたかったのだ。 * 平成23年12月28日終い不動の縁日に、東日本大震災及び台風12号被災者慰霊の特大塔婆を奉供(ほうぐ)し、修復完成した護摩壇の開壇をかねた護摩焚き法要が70年ぶりに副住職和道師の行者作法のもと、多くの参詣者が見守るなか厳粛に奉修された。   護摩の炎が上がると同時に護摩壇の周囲に陣取った参詣者は合掌しながら約1時間の間、熱心に般若心経、不動真言を唱え続けた。 護摩法要が終われば、参詣者は護摩釜の周囲に寄り添い、護摩の法煙(いわゆる護摩の灰)を身に浴びて、さらなる息災厄除け、身体健康などを祈願するのだ。 そのあと庫裡では大根炊きのお接待があり、本堂での長座を労い「おいしいね」といいながら、熱々の大根を頬張っていた。 この修復に際しては、各方面から浄財、布施をご喜捨いただいた。この尊い浄財があればこそ70年ぶりの護摩法要を厳修することができたのだ。 ありがたいの一言に尽きる。 ちなみに、最近スポーツに関連したテレビ番組で阪神タイガースの新井貴浩選手が毎年シーズン前に法衣を着て護摩祈祷をしていると、そのようすが報じられていた。法衣は飛び火で穴が空き、顔にはやけどの跡がいくつも残るそうだが、厳しい護摩法要の中で心を集中し、迷いをなくし、シーズンを通してがんばれる精神力を養うのだそうだ。 この護摩焚き法要は護摩祈祷(きとう)とも呼ばれ、弘法大師が日本に伝えたものである。護摩の火は悪魔を降伏し、悪意のある人の心をきよめ、戒め、また悩める人の心の迷いを取り除くとされている。 このたびの修復護摩開壇の落慶法要は、慰霊と祈り、感謝と喜捨が重なりあい、自他ともに救わんとする熱い行でもあった。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
特別養護老健施設でヘルパーとして働いていた娘が2003年1月、突然「私、高野山尼僧学院に行く」といって剃髪得度した。 本人にとっては突然ではなかったのかも知れないが、娘一人しかいない私にとってこの寺は私の代で最後と、腹をくくっていたのでほんとうに驚いた。 娘は得度に先立って剃髪をしたのだが、案外「つるつる頭」に落胆はしていないようすだった。そのことがかえって私の胸を熱くした。 しかし高野山での一年間がほんとうにつらかったであろうことは、面会に行ったとき、しもやけで両手両足両耳がまっ赤に腫れているのをみて容易に想像できた。 一年間の尼僧修行すべて卒業成満し、2004年から自坊での日行や法事などを手助けしてくれるようになった。 その娘は配管職人の在家に嫁ぎながらも寺の手伝いを続けていたが、ありがたいことにやがて娘の旦那さんも出家という重い決断をしてくれたのだ。 自坊不動寺は私の代で縁者が住職を務めることはないと思っていたのが、今は二人も副住職ができたことになる。 しかも寺の近くに新居を構えてくれるというのだから、これはもうありがたいの一言に尽きるのだ。 そこで、田舎坊主としてやっと貯まった貯金のほとんど1000万円を新築の援助として足してやることを宣言したのだ。 2011年2月のことだった。 というのもちょうど新築資金として親から1000万円援助しても贈与税がかからないという特例が認められていたからである。 ありがたいのであればやはりお金でその気持ちを表さないと・・・。 その翌月、3月11日に東日本大震災が発生したのだ。 テレビの午後の情報番組を見ていたとき、突然、「いまスタジオが揺れています。地震です。」 その後、各地の震度がテロップに表示され東北地方で大きな地震が発生したことを伝え、特別番組に切り替わった。 テレビは未曾有の大津波を生中継した。 それは身震いのするほど恐ろしい光景が映し出されていたのだ。 津波は防波堤を乗り越え、車が流され、家が流され、大木がなぎ倒され、田畑をのみ込んでいる。 まるで映画の「日本沈没」や「デイ・アフター・ツモロー」と重なり、単なる映像としてみている自分が、 「あの車は水が入ってしまったからもうだめかなあ」「あの家の家具はどうなるのだろう」などと、最初は的外れな心配しか思いつかなかった。 しかしふと現実に戻れば、未だ経験したことのない大災害が目の前で起こっていたのだ。 テレビ画面は仙台空港を撮しだしていた。 みるみるうちに濁流が滑走路に進入し車も飛行機までもが押し流され、空港ターミナルが浸水している。 この瞬間、わが子を助けたいとの一心で、はじめて飛行機に乗って降り立ったのが仙台だった、という記憶が私の頭をよぎった。 そして、1年半入院してお世話になった東北のために、仙台のために何かしなければという思いが沸々とわき上がってきたのだ。 翌日の3月12日、子どもたちの新築に足してやりたいと思っていた1000万円を寄付する決心をした。 早速、妻や子どもたちにこのことを話すと、皆快く承諾してくれた。 私の心は有難いと思う気持とすまない気持ちが交錯していた。 休み明け3月15日、銀行から1000万円をおろし、その手で地元の紀の川市に「大震災で困っている方に使って下さい」と持参した。 紀の川市ではまだ募金の窓口はできていない状態だったので保留となり、その後、紀の川市長さんから直接電話が入った。 それは、「紀の川市の名前で合算した募金として報告するにはあまりにも高額なので、あなたの名前を出して日本赤十字和歌山支部に持参してもいいか?」 ということだった。 私は、「紀の川市に寄付したものですからお任せします」 と返事した。 これが私の人生最大の財施となった。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
私が1951年に生を受けてから、60歳の還暦になるまで、日本は幾多の自然災害に見舞われてきた。 私が記憶しているものだけでも、次のようなものがある。 1983年、日本海中部地震(秋田,青森)、 1990年、雲仙岳噴火(長崎)、 1993年、北海道南西沖地震(北海道)、 1995年、阪神・淡路大震災(兵庫)、 2008年、岩手・宮城内陸地震(東北)。 そして2011年3月11日に東日本大震災が発生した。 大地震と巨大津波はそれら全てを根こそぎ奪ってしまった。努力の末、得てきたもの全てを、です。 家を流され、職場を流され、生活の道具を流され、ふるさとを流され、家族を流され、すべてが無に帰した。 助かった人は文字どおり「命からがら着の身着のまま」で、残ったのは命だけという人がほとんどなのだ。 大震災の前日、新築に引っ越したという若いご夫婦が、コンクリートの基礎だけ残ったその場所を指さしながら、 「ここが両親の部屋だった」と、泣き崩れながらも、「家族がたすかっただけでもありがたい」と、話していたのが印象的だった。 この大震災において奇跡的に助かった人たちの話には枚挙に暇がない。と同時に自然の驚異にただただ驚愕するばかりだ。 しかし絶望の淵になんとか踏みとどまった人たちの口から出る言葉は、 「命があっただけで、しあわせです」と。さらに避難所で家族が見つかった時、「生きててよかった。それだけで充分です」 という人もいた。 たった1杯の温かい飲み物や食べ物が差し入れられれば、「本当にありがたいです」と話す。そして、「まだ見つからない人も多いなかで、これ以上のことは贅沢です」とも話されるのだ。 当初、避難所などにいる被災者から聞こえてくるのは「感謝です」「ありがたいです」という言葉であふれていた。 ある避難所のなかにいた中学1年生くらいの女の子が「今までどれだけしあわせだったか、はじめて気がつきました」と話していたことが、私の脳裏から離れなかった。 ひるがえって、大震災を経験しない私は毎日温かいご飯やお味噌汁をいただいている。 はたしてその温かいご飯やお味噌汁に「ああ、ありがたい」と深い感謝でいただいているだろうか。大きなおかげを感じているだろうか。 そしていま「あたりまえ」の生活が、どれだけ幸せなことかと感じているだろうか。 「あたりまえ」という環境ほど人間の心を麻痺させてしまうものはないように思うのだ。 そしてまた大きな地震が発生しました。能登半島地震です。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
「布施」には財施と無財施がある。 ミャンマーなど上座部仏教で僧侶の托鉢に入れるものはいわゆる財施である。生活必需品であったり、お金であったり、食品類などだ。まさにこれはインドで経験した「バクシーシ(喜捨)」で、人々は喜んで布施し捨てているのだ。鉢に入れたもので喜んでもらえると思い、そのことで心が満たされ平安になり、その功徳により後生さえも幸せになれると考えられているのだ。 しかし財施できるということは、捨てるものがあるからこそであって、なかにはそれすらない人たちだって多くいる。 はたしてそのような人たちにそれに代わる功徳があるのだろうか。 仏教ではすべての人たちに、もちろん財施できない人たちにも功徳ある布施の方法を説いている。 それが「無財施」なのだ。 一般的に「無財の七施」としてよく知られているのがこれだ。 「眼施」いかなる人にも温かいまなざしを忘れず接すること 「和顔施」なごやかな笑顔で接すること 「言辞施」相手を思いやる言葉で満ちていること 「身施」あなたの力でつねに人の手助けをすること 「心施」うれしいときも悲しいときも相手の心に寄り添うこと 「座施」相手の疲れを察し席を譲るように自分の立場を差し出すこと 「舎施」雨に濡れてる人に軒を貸すように温かく迎え入れること お金のある人はお金でできます。お金がなくてもあなたの笑顔や言葉や振る舞いなどでも布施はできるというのが無財施の教えなのだ。 しかも仏教では笑顔や言葉でもって表現できない人でも「祈る」ということで布施できるとするのだ。言いかえると人はすべて布施できる立場にあるということになる。 ちなみに「座施」や「舎施」には、粗末な布を巻いただけの修行者が法を説きながら歩いた、古代インドの仏教者に対する接し方というものが色濃くのこされているように思う。 それは、広い大地を歩きまわり、疲れきった修行者の体をこころよく休めさせることは、尊い布施であったのだ。 田舎坊主の自坊にも私が子どものころ、みすぼらしい姿の行者のような人が、「本堂の軒でもいいから泊めて下さい」 と、よくやってきた。 母は毛布と枕を差し出し、本堂で一夜の宿を貸していたが、私はただただ怖さが先立っていた。 翌朝には、母がその行者におにぎりを持たせ、旅の無事を告げて見送っていたのを今でも覚えている。 考えてみるとこれこそ、「舎施」であったのだ。 * 1978年来日したマザーテレサは東京での講演で、 「貧困であること、障害があること、病気であることは決して不幸でも悲しいことでもない。人間にとって一番不幸で悲しいことは、だれからも必要とされず、認められず、孤独であること。しかもそういう人が先進文明諸国の都会にたくさんいる」 との主旨の話をした。マザー・テレサに会いたいと思った。 1989年5月、難病の人たちの患者会である和歌山県難病団体連絡協議会を設立した私は、その年の八月から九月にかけてはじめてインドへ行った。 ベナレス(バナラシ)の「死を待つ人の家」に行けば、会えるかも知れないという期待をもっていたのだ。 そこは正式には「カルカッタ公社ニルマル・ヒルダイ」と呼ばれていた。 「カルカッタ」という地名の語源となった、カーリーガート寺院の一部に、マザー・テレサが市に依頼して提供されている施設である。通りの角にあるこの建物は、二階正面に聖母マリア像が掲げられている。三段くらいの階段を上がり、戸を開けると左手に30台ほどの粗末なパイプベッドが並んでいる。 紺色の毛布だけが敷かれた上に、手足は細り、おなかを異常に腫らした老人や、口を開け、今にも息を止めてしまいそうな人たちが、甲斐甲斐しく動きまわるシスターたちとは対照的に、静かに横たわっていた。 私はふと入り口のすぐ横に小さな花の山に気がついた。 小さな箱の上にブーゲンビリアやストレチアなど色とりどりの花が盛られ、二本の担ぎ棒のようなものが箱の下に敷かれていた。 イギリスから奉仕に来ているシスターに、「これは?」と聞くと、ついさきほど小さな子どもが息を引きとって、これからガンジス河で火葬にするというのだ。 私は、難病で亡くなった娘の死と重なり胸が熱くなった。 ここに収容されるのは、老人だけではないのだ。家もなく身寄りもない小さな子どもが道ばたからひん死の状態で運ばれてくるのだ。 今、自分にできることはなんなのか? なにがしかの布施をすることしか思い浮かばなかった。その時の手持ち分、3000ルピーをシスターに手渡して「死を待つ人の家」をあとにした。 日本ではお布施をいただいて生きている私にとって、このときの3000ルピーが初めての布施だった。 結局、私はマザー・テレサに会うことも顔を見ることもできなかった。 その一生を弱い立場の人を孤独にさせる「社会」というものと闘っていたマザー・テレサの偉大な人生に、只ただ頭が下がるばかりである。しかも心臓病が悪化し体調を崩したとき、周囲の手術のすすめに対し「貧しい人と同じように死にたい」といって特別扱いを拒否したのだ。 1997年9月6日、人生そのものを「布施」したマザーテレサは一般人としてはじめて国葬で送られた。87歳だった。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
むかし、中井貴一が主演した『ビルマの竪琴』という映画を見た。 ビルマ(現在のミャンマー)で戦死していった戦友を供養するため、現地で出家した水島上等兵が日本に帰還する部隊の戦友たちにビルマの竪琴で『埴生の宿』を奏でるという内容だと記憶している。 そのなかでのある場面を印象的に覚えているのだ。 その場面は正確ではないと思うが、垣根越しに日本兵が托鉢を持ったビルマの僧にお布施(お金か物か定かではないが)を鉢に入れたときに、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」という主旨のセリフがあった。 托鉢は本来、生産活動を行わない僧が毎日街を歩いて信者から米やお金などの生活必需品を鉢の中に入れてもらうことだ。 とくに現在でも東南アジアの上座部仏教とよばれる仏教圏では日常的に行われている。 この托鉢の鉢は「捨て鉢」であり、信者など人々は「捨てさせてもらっている」のだ。 僧の方は「捨てさせてあげている」ので、お礼を言うのは僧ではなく鉢に物を入れる方なのだ。 僧に供養することが最高の功徳と考えられているのだから「捨てさせてもらう」ことによって幸せな心になれるのである。 僧にとって生活必需品とはいえ、鉢の中身については何らのこだわりも執着もない。 だから、ときにはお金の上に汁物が入れられる場合も少なくない。 きれいや汚いの判断もしなければ、ただありのままに受け入れるのだ。「捨て鉢」なのだから。 映画「ビルマの竪琴」のなかで、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」というセリフがあったのも、当然といえば当然なのだ。 こう考えてみたらどうだろう。 私たちは週に何回かゴミ収集のサービスを受けている。 もちろんゴミだからそれに執着をしていない。というよりむしろ早く手放したいと思っている。 ゴミ収集のパッカー車に乗ってくる人には「ご苦労さま。ありがとう。」という。 礼をいうのは捨てた私たちの方だ。 一概に托鉢とゴミ収集を同列に語るのも問題はあるが、しかし、心の持ちようは信者の方は「自分のもの」という執着をはなれて「捨てる」。僧は捨てられるものに執着せず、ありのまま、あるがままに受け入れて生活の糧にするのだ。 私はいつも法事などでよく話すのだ。 「しっかり坊主に捨てて下さい!」 「包んだお布施の割りにはお経が短いなどと言わないように!」 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
ある檀家さんの奥さまからお手紙をいただいた。 内容は、三回忌に嫁ぎ先の両親のお墓を建てることをご主人と相談して決め、墓地を整え法事を済ませたとき、いろいろなことが脳裏をめぐったことなどその日の気持ちがしたためられていた。 とにかくお墓を建てることができて嬉しかったこと。そしてとてもありがたく思ったこと。自宅で90歳の天寿を全うし息をひきとった義母に添い寝したこと。 体の冷たさを感じながら実母よりはるかに多くの時間をともにし、味わった辛さ、悲しさ、喜び、優しさ。 いまもそのときの義母の冷たさを思い出し、はかなさや無常を実感しながら「今日一日無事に過ごさせてもらってありがとうございました」といつも言えるよう、優しい気持ちで暮らしたいと心に刻んだこと。しかもそれは不思議なやすらぎだったこと。 そのことをどうしても田舎坊主に聞いてもらいたいと、美しい字で書かれていた。 さらには実家の父親の死、出産途中で亡くなって逝ったわが子、そして兄、義姉など愛しい人たちとの別れの時の気持をダブらせながら、拙書「田舎坊主の愛別離苦」を読んだことが書かれていた。 生きているということは多くの愛しい人たちを見送ることでもあるのだ。 実父を送り、嫁ぎ先の両親を送り、兄姉やさらに子どもまでも見送った。 彼女にとって得られたものといえば、今日一日無事に過ごせたことに感謝できる心と、優しく日々暮らしていこうと誓う心の温かさだった。 もちろんいうまでもないが、見送られた人たちは何一つ得たものはなく、生きているうちに大切なものをただ与え続け、いまは墓石の下でしずかに眠っている。 ところで最近、火葬後の葬送の方法が変わってきている。 テレビでは自然に包まれ四季に咲く花や木の下に遺灰をまく樹木葬のコマーシャルが流れ、インターネットでは「手元供養」とかで遺灰をさまざまに加工する業者がホームページを公開している。 身寄りのない独り身だけではなく、家や家族に縛られることを嫌い墓石を建てることにこだわらず、自然界に散骨をしたり、遺された者もペンダントなどに加工して身につけ供養する人も多くなってきた。 本来、仏壇にせよ墓石にせよ、それはご先祖さまの居ます場所、依り代であるとともに、生きている者にとっての心の拠り所でもあった。 僧侶である私自身も仏壇や墓石を整えたときには不思議な安らぎを感じたことをいまも覚えている。 私たちには人生において突如として予期せぬ災難や苦労が降りかかってくることがある。 そんな時、信仰を持っていようがいまいが、自然に手を合わせ心から祈りたいと思うときがある。そのさきにご先祖がいる場合、相手が墓石になっていようが自然界の花や木の下であろうが、関係はない。 先立っていった愛しい人に「見守っていてね」「助けてあげてね」「力を与えてね」などと手を合わせる姿には、深い魂のつながりを感じずにはいられないのだ。 * 最近、形式や祀り方を事細かに押しつける人がいるのも事実だ。 しかしとりわけ宗教者がこういうことに固執し、お説教と称して檀家さんや信者さんに畏怖心をうえつけるのもどうかと思う。 「ほとけ」は「ほどける」から生まれた言葉だと聞いたことがある。 仏教の行事が人の心を窮屈にし、縛ってしまうようなことがあるならば本末転倒である。 ましてや般若心経の説いている「空」や「無」を理解し、法事などで読経している宗教者が押しつけているのならばなおさらのことだ。 さて先の手紙の「不思議な安らぎ」の具体的な心のうちは知るよしもないが、先ずは嫁ぎ先の両親のことを第一に思い、決断したことが正しい判断だったのだろう。 そのことがもつれていた心の糸を静かにほどき、何ものも縛らず、何ものにも縛られない穏やかな安らぎを感じたのではないかと、私は彼女の心の置きどころを勝手に想像している。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
ある人がいってたのだが、「きれい」と「美しい」は違うそうだ。 きれいは表面上見た目だけであって、美しいは内面的なものをいうのだそうだ。 たしかに「わあーきれい!」では内面まで判断していないような気がする。 しかしこの「きれい」や「汚い」についても勝手な判断を加えているのが人間なのだと思う。 たとえば、一度オシッコを入れられたグラスは、どんなにたくさんの洗剤を使って洗われたうえに煮沸を施しても、オシッコを入れられたことを知ってしまうとなかなか気持ちよくそれにビールをついで飲めない。というか拒否してしまう。 たとえそれが完全滅菌され電子顕微鏡で菌が見受けられないほどきれいでもだ。 反面、自分の手にオシッコがかかっても石けんで洗えば「煮沸」をしなくても、その手を使っておにぎりをつかんで食べることができる。 電子顕微鏡的には雑菌満載の手でも自分の手はきれいと思っている。 * 目の前にフランス料理のコースが運ばれてきた。 最後のメインディッシュは牛フィレステーキだ。 大きめの真っ白いお皿にフィレステーキ、ニンジンのグラッセ、皮付きポテトが盛られている。 ステーキの上にはきつね色に焼いたニンニクの薄切りが載せられ、まわりには煮詰められたソースがあしらわれ、緑濃いクレソンがいっそうメインディッシュを引き立てている。 それは実にきれいで食欲をそそるのだ。 さて、ステーキにナイフを入れソースを絡めニンニクとともに口に頬張る。このまま食べてしまえば美味しい。 でもちょっと待っていただきたい。 口に頬張ったステーキとニンニクを20回ほど噛んで、そのままきれいなお皿のあいた場所に口から出して置いてみる。  これはきれい?  それとも汚い?  もう一度それを頬張れる? もし「汚い」と思うのであれば、汚いものを口にしてということなのだろうか? 違います。きれいと思って、美味しそうと思ってお口に入れたんだから。 だのに20回程度のそしゃくでそれは汚くなってしまう。 たとえ自分の口のなかから出たものであっても・・・。 目で見て「汚い」と脳に教えてやると、もう融通はきかなくなって「生ゴミ」以外の何ものでもなくなるのだ。 あえて正しい判断をするならば、皿の上に出したものは咀嚼途中のご馳走であって、決して「生ゴミ」なんぞではない。もう一度口にしてもそれは人間の生命を維持してくれる大切な栄養源になりうるのだ。 それにしてもきれいなものを汚いと思い、汚くても自分のものならこだわらず、かといって自分のものでも汚く感じてしまうこともある。 この違いはなんだろう。 正しい判断とはいったいどういうことなのだろう。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
最近、ものの片付けや人生の片付けについてたくさんの書籍が出版されている。 タンスの中の衣類の整理や台所の収納からはじまって、財産の整理の仕方、自分の葬儀の段取りまで、片付けなければならないことは多岐にわたるようだ。   私も還暦を過ぎたころから少しずつ身のまわりを片付けはじめている。 初歩の「死に仕度」でもある。 私の父は大好きなお風呂のなかで心不全で急死した。(このことについては「田舎坊主の愛別離苦」にも詳しく書いた) 私も同じ心疾患を持っている。しかも35年間薬漬けのからだでもある。病気に限らずいつなんどき無常の風に連れて行かれるとも限らない。 そう考え、そろそろ片付けはじめなければと思ったのだ。 いまのところ私が片付けているのはまさに身のまわりのものだ。 片付けの基準は、次の4点である。  1.必要ないものは捨てる。 2.やがて必要になるかも知れないと思われるものも捨てる。 3.捨てるときは「おもいっきり」捨てる。  4.死んでからも必要かと考えてみる。 はじめてスーツを捨てたときのことだ。 私は役員として長く難病患者団体に関わっているが、なかでも全国レベルの役付の際は、毎月のように上京していた。しかし今はそれも退役しほとんどスーツを着る機会もなくなっている。さらにそのときから10㎏ほどダイエットしたこともあってほとんど身に合わなくなっているのだ。 もともと2着なんぼのスーツだ。そんなもの古着として着てもらえそうもないので思いきって捨てることにした。 捨ててみて考えてみると、坊主の衣装というのは便利なもので、葬式にはもちろん出席できるが、結婚式にもその衣装で出席することができる。 スーツを捨ててもそれほど困らないことに気がついた。 私はどちらかというと靴を大事に履く方だが、さらにその際に履いた靴もすべて捨てた。 * ちなみに靴を大事にするにも程があるのだ。 もっと早く捨てておけばよかった、ということもあった。 その靴は私のお気に入りで、よく履いた。何度も東京へお伴してもらった。 すでに東京へはあまり行かなくなっていたが、地元で設立した難病患者会役員として県庁へ要望書を提出するため、他の役員を乗せ車で出張したときのことだ。 途中役員の一人を拾うためある駅前に車を止め降りようとしたとき、ブレーキペダルの下をふと見ると黒いボロボロとしたゴミがかなりの量落ちているのだ。手で拾ってみるとゴムのようなプラスチックのようなもので、はじめは何かまったく分からなかった。 確かめようと車を降りたそのとき、私のお気に入りの靴の底が完全に脱落し、一歩踏み出したときには靴底は移動せず地面についたままで、靴をかぶった私の足は裸足で直接アスファルトを踏みしめていた。 そのときの情けなかったこと、恥ずかしかったこと。目から火とはこのことか。 結局、私は県庁に行って役を果たすことができず、その日は他の役員に頼まざるを得なかったうえに、みんなでお茶することもできなかった。 帰宅してからその靴を捨てるとき、私は靴にあやまった。 「そこまでくたびれていたのか、申し訳なかった」と。 * 靴の底では忘れられない想い出もある。 私は5歳の次女を胆道閉鎖症という難病で亡くしたあと、ある種の虚無感にとらわれた。 そんな折り、ある養護施設の先生から、ショートホームステイ事業のステイホームとして子どもを預かってほしいという話があったのだ。 わが家に来たA子ちゃんは中学校卒業後、その施設を出るという。その巣立ちの前に私の家にやってきた。 先生と2人でやってきて、玄関でピョコンと頭を下げて、 「よろしくお願いします。A子です。」 と、可愛く挨拶した。同行の先生は、 「それじゃ、お願いします。」 と言って帰っていった。 A子ちゃんは黒色の靴を玄関出口の方向に向きを変え、二つそろえて部屋に上がっていった。 「よくしつけられた子だな」と思ったが、そのそろえられた靴を見て、私はその靴のかかとの部分が踏まれていたのが気になった。 というのも私は靴を大事にする方だし、履き方にしても靴のかかとを踏むのは大変嫌いなのだ。靴はちゃんとかかとを立てて履くものなのだと思っているし、かかとを踏むならサンダルでいいではないかと思っている。 大げさに聞こえるかもしれないが、靴を作った人のことを考えたとき、それは大変失礼なことだと思うのだ。 しかも、かかとの部分は製造過程でも一番心を込めて丹念に作らなければならないとも聞いたことがあるからだ。 靴のかかとの部分を踏んで粗末に扱っては申し訳ないような気がするのだ。 しばらく私の子どもとして家にいるあいだに「これだけは言っておかなければ」と、私は彼女の踏まれた靴のかかとを静かにめくりあげて・・・・。 その時、私は思わず、「あっ!」と、息をのんだ。 なんと、めくりあげた靴底はすり減り、ヒール部分を強化するための格子状のものだけをわずかに残して、見慣れた玄関のタイルが見えているのだ。 私は間を置かず、めくりあげたかかとを押し倒し、元の踏まれた状態に戻した。 そのとたん私は胸が熱くなり、涙がこみ上げてきた。 「この子にはこの靴しかないのだ。はじめて行く家で、しかも他人の家に二週間ほど泊まるのに、履いてくる靴がこれしかないのだ。この子には身寄りがないかもしれないし、もちろん小遣いをくれる家族もいないのだ。」 そう思うと、この子が無性にいとおしくなった。 「これだけは言っておかなければ」という思いはすでに消えていた。 この子はもう15歳、花も恥じらう立派な乙女なのだ。 靴のかかとを踏んでいるのは、 「底に穴のあいた靴を見られたくない」という恥じらいもあったのだろう。 「こうすれば、もう少し長く履ける」という思いもあったかも知れない。 あとで彼女からいただいた手紙ではじめて知ったのだが、その靴は離ればなれになったお姉ちゃんからもらった「宝もの」だったそうだ。 それを大切に大切にしているすがたでもあったのに、坊主という立場で、老婆心ながら偉そうに説教しようとした己を心から恥じた。 しかも「宝もののだったのに、かかとを踏んでいてごめんね」 と、お姉ちゃんにあやまったそうだ。 これほどものを大切にする子どもが今いるだろうか。 人生において、捨てるには「捨てどき」があり、大切にするにはそのものの向こうにいる人の心を大切にする深い愛情が必要なのだ。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
私、田舎坊主の誕生日は卯(うさぎ)年の2月22日。 平成22年2月22日と並びのいい59歳も過ぎ、今は還暦も過ぎてしまった。 還暦は文字どおり暦が還ると書く。いわば「もう一度、再スタート」ということなのか。 子どものころ、40歳を過ぎた大人を見て、 「ええ年のおっさんやなあ」と思ったものだ。 そのころは、自分が40歳になるのは、はるかはるか遠い将来のことのように思っていた。 たしかに年月の経過も、今よりずっと遅かったように思うのだが、ところが日々の経過は「加速」されることに気がつきだした。 つまり同じ速さで経過しないのだ。 実際にはそんなことはあり得ないのだが、確かに加速されて日々は過ぎ去っていく。 そのことが分かったのは「ええ年のおっさんやなあ」と思った40歳を過ぎたころからだ。つまり厄年ころからということになる。 人間の生理活動というか生命活動はそのころが頂点なのかも分からない。だからあとは下り坂を転げ落ちるのみ。 おのずと地球上では下りは加速されるので、当然日々の経過は速くなるのだ。 そうあきらめかけたころに還暦がやってくる。 昔は赤いじんべ(チャンチャンコ)と帽子のようなものを贈られて身につけたようだが、私にはまったくそのようなものは届かなかった。 というより、人間というのは幸せな動物で自分が還暦を迎えてみても、どうもそんなに年寄りのような気がしないのだ。 いまだに似たような年の人の方が「自分よりおっさん」と思っている。 還暦とはこの「下りの加速」にブレーキをかけ、一旦止まって「もう一度、再スタート」ということを考えさせてくれる先人の知恵なのかも知れない。 ただ再スタートするにはくたびれすぎていて、うさぎ年といいながらすでに飛び跳ねられず、歩いていてもよくつまずく。それもあまり段差がないにもかかわらずだ。 * 兎にも角にも、還暦を過ぎてしまった。 ちなみに「兎に角(とにかく)」という言葉は「兎角亀毛」という中国の古い言葉から来ているようで、「うさぎに角、亀の甲に毛がはえる」という、「あり得ないこと」を言ったものだそうだ。 これから先、暦は折り返しても新しくなるものは何もなく、今までどおりどんどん古くなるばかりで、ましてや突飛ないいことは起こらないのである。 無常の風が吹いてくるころになっても「あれがほしいこれがほしい」、「俺のものだ」と、しがみついた生き方だけはしていたくないのだ。 とりあえず還暦は、地道に生きる愚直さを怠らないようにせよという、戒めと受け取ることにしている。 ところで、東京聖路加病院理事長の日野原重明さんは現在100歳(当時)だ。 いま取り組んでいることは自著の絵本から生まれたミュージカルを監督指揮し、子どもたちとともに世界の舞台で上演すること。 もう一つは憲法九条を守る運動だ。 もちろん「いのち」や「生きること、老いること」についての啓蒙は数えきれないほどあるが、この人にしか言えない言葉「100歳からの人生」にはただただ驚かされる。 日野原重明さんの声が聞こえそうだ。 「還暦? 若い!若い!」 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
こんな笑い話がある。  ある男性の人生は「金、銭、カネ、ゼニ」の一生だった。 若くして大金持ちになることを望み、ただただ金儲けのために必死に働き続けたのだ。 ついには周囲の人々から「金の亡者」「あの人はカネしか頭にない」などと言われるようになってしまった。 しかしこの金の亡者も寄る年波には勝てず、自分が動けなくなってきた頃に、儲けたお金も、手に入れた高価な品々もすべてこの世に残していかなければならないことに気づいたのだ。 何一つとして手に握りしめていくことができないことにやっと気づいたのだ。 そこで家族に、「最期に、金の亡者と呼ばれたわしにもみんなに伝えたいことがある」といって、家族にこういい遺した。 「わしが死んだら棺には両脇に手が出るように穴を開けてくれ。そこからわしの手を出してくれ。そうしてみんなに伝えたいのじゃ。 わしは金の亡者とまで呼ばれたが、これこのとおり、何も手にしないであの世に行く。 生きているうちに人に喜ばれるようなカネの使い方をしてほしいのじゃ。元気なころからこれに気づいて、人のために使ってくればよかった。 みんなにしっかりと見てもらってくれ。なにひとつ手にしていないことを・・・」 葬式の日、約束どおり、棺箱の両脇に穴を開け、手を出した姿でみんなとお別れとなった。 会葬に参列した人たちに棺から両手が出た異様なすがたを見てもらった。 遺族は、「お父さんはみんなに金の亡者といわれたけれど、あの世に何も持っていけないことをこうして見てもらって、生きているうちに大事な使い方をするようにみんなに伝えたかったそうです。」と、父の遺言を伝えた。 果たして参列し別れを告げた人たちは故人の遺言どおり受け取ってくれたのだろうか? 残念ながら、お別れをした人たちから口々に話された言葉は、 「金の亡者だけあって、死んでもまだ金が欲しいようで、棺から手を出していたなあ」だった。 * いくら最期に悟った真理であっても、素直に受け取ってもらえないのは淋しいことだ。 その原因はいったい何なのか。 いうまでもなく、それは彼の人生そのものが「捨てる人ではない」生き方だったからだろう。 笑い話とはいえ、「生き方」こそ大切だという戒めでもある。 自分ががんばって一生懸命必死にはたらいて得たものはすべて「自分のもの」と誰もが思っているが、結局それも「空」なるものなのだ。 しかし「空」なるものとはいえ、お金はなかなか「捨てる」事はできない。 * しかし人は人生においてときどき「捨てる」練習をしているのではないだろうか。 それは寺や神社での「さい銭」だ。 寺や神社に投げ入れるさい銭は決められた金額でもなければ価格表もない。人に強要されたものでもない。 願いを込め感謝の心を込め、それまでは「自分のもの」であったお金に対する執着をはなれ、「捨てる」ことを練習していることにほかならないのだ。 しかも「捨てる」のだから、ゴミ出しをしたゴミの原価を考えないように、本来「いくら」捨てたのか忘れてしまう必要がある。 ところがそれでも、 「おい、神さんか仏さんよ、いつもなら100円のところ、きょうは太っ腹で1000円もさい銭入れたぞお。しっかりご利益くれよお!」 と、捨てたものの額にこだわり、捨てながら欲深いことをついつい叫んでしまうのだ。 私を含め凡人は、「自分のもの」となかなか執着を断つことはできないのだ。 だからこそ、人生の折々に「捨てる」練習を続けないと、なかなか上手に捨てられない。 ましてや「喜んで捨てる」ことができるようになるためにはなおさら練習が必要なのだ。 合掌 --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
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