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おやすみまえの癒しチャンネル

Author: オフィス・るん/ヒューマンセラピー研究所

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Description

就寝前の数分、悩み事や心配事が少し軽くなって心地よい眠りにつける、生きるヒントをお話ししています。

語り手:心理療法家・セラピスト 古川貴子
オフィス・るん/ヒューマンセラピー研究所:https://www.office-lun.com/
オフィス・るんStores/jp店:https://office-lun.stores.jp/
30 Episodes
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「正直さ」をどう使う?「自分に正直である」ということは、幸せに生きるために不可欠なことです。なぜなら、自分の本当の気持ちを無視すると、心のなかにある違和感に気づくことができなくなり、軌道修正のチャンスを失ってしまうからです。正直であることは、自分の心に耳を澄まし、余計なものを手放し、本来の自分として軽やかに生きるための道具です。しかし、多くの人が「正直さ」を誤解しがちです。  「正直さ」とは、思ったことをズバズバ言うこと?あるクライエントのA子さんは、「思ったことをすぐ口にすることが正直さだ」と信じていました。「私は本音で生きたいから、遠慮せずに何でも言う」と考えていたのです。確かに、自分の感情を押し殺してしまうのは苦しいものです。けれど、感じたことをそのまま口にすれば、それが「正直な生き方」になるのでしょうか?実際には、そうした態度が人間関係の摩擦を生み、「私って正直なのに、なぜか人間関係がうまくいかない」と悩むことも少なくありません。なぜなら、「正直さ」とは「思ったことをそのまま外にぶつけること」ではないからです。むしろ、自分の心の内側を正直に見つめることが、本当の意味での「正直さ」なのです。  「正直さ」を使って自分のエゴを見抜くたとえば、誰かの言葉に傷ついたとき。「今のひと言、すごく嫌だった!」そんな気持ちがわきあがったとします。このとき、正直になるとは「相手に怒りをぶつける」ことではありません。「あなたのせいで傷ついた!」と責めるのは、一見「素直な反応」のように思えますが、実は「自分の傷を相手のせいにする行為」になってしまいます。そうではなく、正直さを自分の心のために使うなら、こうなります。「なぜ、私は今のひと言でこんなに傷ついたのだろう?」「もしかすると、私は『価値のない人間だ』と思われるを怖れているのかもしれない」「その怖れの根源はどこにあるのだろう?」「私は小さい頃から、自分が尊重されていないように感じてきたため、自分には価値がないと信じ込んできた」「しかし、価値がないと信じたのは自分だ・・・」このように、自分の心を深く掘り下げていくと、過去の経験や思い込みに行き着きます。そして、気づいたとき、すでに心の癒しは始まっています。  「正直さ」は武器ではなく、癒しのために使う誰かに対して文句を言いたくなったときも、同じことが言えます。「なんであの人はこうなの?」「もっと○○してくれればいいのに!」こうした不満が湧いてきたときこそ、まずは自分の心に目を向けてみましょう。「私はなぜ、これにこんなに反応しているのだろう?」「この人が変われば、私は本当に心地よくなれるの?」私たちはつい、「この人さえ変われば、私は楽になる」と信じてしまいます。けれど、心の奥にある「自分の不安や怖れ」を見ないままでは、たとえ環境が変わっても、また同じような問題に直面することになるのです。つまり、「正直さ」とは、外側に向けて発するものではなく、まずは自分の内側を見つめるためのもの。そこに気づいたとき、自分の心も、そして人間関係も自然と穏やかになっていきます。  正直に向き合うことで、安らぎの扉が開く心は、つい「外側の世界」に向かおうとします。「あの人が悪い」「あの状況さえなければ」と、目の前のものをどうにかしようとします。でも、その手には乗らず、まずは「自分の心の中」に戻ってきましょう。そこにある思い込みやエゴに気づいたとき、世界や人を裁くことをやめ、また戦いからも自由になることができ、平和で穏やかな気持ちになれるからです。どんなときも、自分の心に正直でいること。それが、安らぎへの鍵であり、本当の幸せへとつながる扉なのです。
感情を手放すことは本来の自分に戻る旅私たちの心は、本来の自己へと向かう旅の途中にあります。その旅路で私たちは、さまざまな経験を通して「自分ではないもの」を少しずつ手放しながら、ありのままの自分を取り戻していきます。  痛みは「ニセモノの自分」からのサイン本来の自己を解放するためには、まず「自分ではないもの」に気づくことが大切です。特に、心の痛みや違和感は大切なサインと言えます。痛みは、「まだ手放せていないものがここにあるよ」と教えてくれる合図。怖れや怒り、罪悪感などの感情が浮上するとき、それはまさに解放のチャンスなのです。しかし、私たちはつい「こんな感情を持ってはいけない」と思い込み、それを無視したり、抑え込もうとしてしまいます。けれど、感情を抑圧すればするほど、心の奥深くにたまり、やがてコントロールできない形で表面化してしまうのです。  映画やドラマを活用する人生の中で体験できる出来事は限られていますが、映画やドラマを通じて、私たちはさまざまな感情を疑似体験することができます。登場人物に共感しながら、自分の中にある未解決の感情を浮上させることができるのです。その未解決な感情は、いつのまにか自分の目にする世界をぼやけさせたり、モノトーンのような色褪せたものにしていたかもしれません。感情を感じること自体を「良くないこと」と思っていると、せっかくの解放の機会を逃してしまいます。大切なのは、感情が湧き上がることを怖れず、ただそれを眺めて流してあげることです。  感情を手放すコツ感情は本来、ただ「さらさらと流れていくもの」です。しかし、感情を怖れると、まるでスポンジのようにすべて吸収し、自分自身がその感情に支配されてしまいます。では、感情をためこまずに流すにはどうすればいいのでしょうか?1. 判断しない:感情に「良い・悪い」のラベルを貼らず、ただそこに現れているエネルギーとして感じ、受け入れる。2. ストーリーを作らない:感情が湧いたとき、「これは過去のせい」「誰々のせい」とストーリーに逃げ込まず、そのままの状態で見つめる。3. 呼吸を意識する:深呼吸しながら、感情が体の中を通り抜けていくのをイメージする。4. 身体の感覚に注意を向ける:感情が湧いたとき、胸のあたりが締めつけられる感じがするなら、その感覚にやさしく寄り添いながらリラックスする。このシンプルなステップを繰り返すことで、感情は自然と解放され、心は軽くなっていきます。  感情を解放すると世界が変わる感情を押し戻さず、あるがままに感じて流すことができるようになると、自然と心の静けさ、安らぎが訪れます。そして、心が穏やかであればあるほど、目に映る世界も優しく安らかなものになっていくのです。さらに、世界が鮮やかにいきいきと感じられるようになり、心の余裕が生まれることで今の自分にふさわしい新しい出会いやチャンスが増えていきます。思いがけない幸運が舞い込んだり、シンクロニシティが起こったり、直感が冴えることもあるでしょう。あなたの中にあるネガティブな感情を、怖れずに感じ、手放してみましょう。きっと、今よりもっと自由で軽やかで、ワクワクするような世界が広がっていくはずです。
「誰かに優しくしたとき、思わぬ形で優しさが返ってきた」という経験をしたことはありませんか? 「自分が与えるものこそが、自分が受け取るもの」という言葉を、耳にしたことがあるかもしれません。 一見シンプルですが、人間関係や日常の出来事でもこの法則はよく見られるもので、実はとても深い真理を含んでいます。今回は、この言葉が意味するものと、そこから生まれる気づきについてお話しします。 自分が与えるものこそが、受け取るものこの言葉は、私たちの生きる世界で働いている不動の法則を表しています。つまり、自分が与えたものしか受け取ることができないということです。あるいは、与えてしまったのなら、それを受け取らざるを得ないということでもあります(それが苦痛や痛みであっても、です)。 これを聞いて「じゃあ、たくさんモノを与えれば、さらにたくさん戻ってくるのか!」と考えがちですが、実はそう単純な話ではありません。  動機が結果をつくるここで言う「与えるもの」とは、個体のモノではなく、それを与える「こころの姿勢や動機」を指しています。 例えば、たくさんのプレゼントを友人に贈ったとしても、その背景に「相手の注意をひきたい」という気持ちがあると、逆に不安な気持ちが増してしまうことがあります。 一方、「笑顔であいさつをする」というような小さな行動でも、その背後に感謝の気持ちや優しさがあると、相手からも自然と笑顔がかえってきたりします。すべてはひとつで、つながっているからこそ、自分で自分に与えていることになるのです。 欠乏感を受け入れて解放する 欠乏感や怖れ、罪悪感を抱えたままでは、いくら外側に与えても、その気持ちを強める体験を引き寄せてしまいます。 こうした感情があるときには、忙しく外側の行動に走るよりも、まず「自分の内側に目を向ける」ことが大切です。自分の中にある欠乏感や怖れを、避けたり無視したりせず、正面から向き合い、「この感情を感じても大丈夫」と優しく声をかけ、無条件に受け入れてみましょう。そうすることで、その感情は少しずつほぐれていきます。 安らぎの心が世界を変える欠乏感や不安をやわらげたら、次は「自分のこころの中にある安らぎ」を意識してみるようにしましょう。心を凪のように静かに穏やかに落ち着かせることで、安らぎの視点から世界を見ることができるようになります。 安らぎの心は、すべての源である内なる平和とひとつであることを思い出させてくれます。その状態で世界に向き合うことで、自分が世界から受け取るものもそのような安らぎに満ちたものになることでしょう。  実践の提案 3分間、自分の心の声に耳を傾ける時間を作ってみましょう。どんな感情も否定せずに、胸に手を当てて、深呼吸を3回しながら、自分の中の小さなこどもに寄り添うようなイメージで、ただ静かに感じてみましょう。 そのまま受け入れることで、その感情はしだいに治まっていきます。そして、心を静かにすることに意識を向けてみましょう。そうすることで、豊かな与える存在になる第一歩を踏み出すことができるでしょう。 ♪ まとめ ♪ 安らぎの心を持つことは、与えたものが豊かに返ってくる鍵となります。「自分が与えるものこそが、自分に戻ってくる」という法則を思い出し、安らかなこころで自分の目にする世界を変えていきましょう。それは、あなた自身への最高の贈り物でもあるのです。 安らぎの心を持つことで、あなたの世界は自然と豊かさに満ちていきます。あなたの日々が、少しづつ変化していくことを感じとってみましょう。
1. 朝から始まる心のおしゃべり目覚めた瞬間から、心のなかはおしゃべりでいっぱいです。「もう朝?二度寝しちゃった…私ってダメだな」 「鏡を見たら、なんだか冴えない顔色…」 「この服って、太って見えない?」こんなふうに、自分にダメ出しのオンパレード。ひとつひとつに反応していると、気持ちがどんどん沈んでしまいます。そこで提案したいのが、「心のおしゃべりをスルーする」習慣です。  2. 心のおしゃべりに振り回されるとき私たちが問題に直面しているとき、それはたいてい心の声を真に受けているときです。「そんなのダメでしょ?」 「失敗したらどうする?」 「恥ずかしいな、みんなに笑われるよ」こんな声が聞こえてきたら、ちょっと立ち止まってみましょう。この声、本当に正しいのでしょうか?よくよく吟味してみると、実はほとんどが思い込みだったり、ただの心のクセだったりします。ところが、私たちは無意識にこの声を「真実」として受け入れてしまいがちです。その結果、「どうしよう!大変なことになった!」 「早くなんとかしなきゃ!」と焦り、どんどんネガティブなループに陥ってしまうのです。  3. 心の声をテレビのBGMのように流す心のなかに、さまざまな不安やネガティブな思いが浮かんだとき、それをいちいち相手にしないようにしてみましょう。たとえば、テレビやラジオがつけっぱなしになっているときのことを思い出してください。番組の音は聞こえていても、意識していなければ気になりません。それと同じように、心のおしゃべりも「ただの雑音」として流してしまえばいいのです。「またウソつきラジオが勝手にしゃべってるな~」と軽く流してみましょう。  4. 静けさのなかに、本当の自分がいる心のおしゃべりが静まってくると、そこに現れるのは本当の自分です。高い自己であるハイヤーセルフの声は、とても優しく、穏やかで、決して私たちを煽ったりしません。リラックスして、心の静けさを感じることで、まるで霧が晴れたように目に映る世界がクリアになり、・「あれ?さっきまで悩んでいたことって、そんなに大したことじゃなかったかも?」と気持ちが軽くなる。  ・ ふと「これやってみよう!」と直感が湧いて、行動がスムーズに進み、前向きになる。  ・ 人の言葉に過剰に反応せず、穏やかに受け流せるようになり、人との関わりがラクになる。  ・ まるでピタッとタイミングがあうように、必要な情報や人との出会いが訪れる。そんな変化が自然と起こります。心のおしゃべりをスルーすることで、世界はもっと穏やかで、優しく、そしてワクワクするものに変わっていくのです。【まとめ】✔️ 心の声は、たいてい思い込みやクセでできている ✔️ その声を「テレビのBGM」のように聞き流す ✔️ 静けさのなかに、本当の自分の声がある ✔️ 余計な心のおしゃべりがなくなると、人生がスムーズに流れ始める心の声に振り回されることなく、軽やかに生きる習慣を始めてみましょう♪
ふだんの生活の中で、自分がどのような態度で世界や人々にかかわっているか、気にしたことはありますか?私たちは、世界や人々に対して「優しく受け入れよう」とするよりも、無意識のうちに緊張を感じながら戦闘的な態度で向き合ってしまっているかもしれません。それは、もし何か不都合なことがあれば、決して自分の不利にはならないように、損害を被ることがないように、ものごとを有利にすすめたいと警戒してるからです。私たちにとって「この世界」は安全で安心な場所ではなく、気を緩めれば簡単にやられてしまう厳しい世界だと信じているからです。誰もがリング上のファイターのようにファイティングポーズを緩めることができず、安らかにくつろぐことができないのです。  そんな世界の中で、幸せを感じる方法はあるのでしょうか?安らぎを感じたいのであれば、「自分」と「世界」を切り離して考えるということをやめなければなりません。「自分」と「世界」を二つのものだと捉えている限り、そこには摩擦が生まれ、対立することになってしまうのです。世界とは自分の外側にあるように見えますが、それは自分の心が映し出されている映像であり、まさに自分の心そのものなのです。心が変わればその映像は変わるので、心とともに目にしている世界は変化します。しかし、自分の心が変わらなければ、見ている世界は変わることはありません。つまり、自分を脅かしているのは世界や人々ではなく、自分の心のなかにある考えそのものなのです。心が裁きや罪の思いを握りしめていることにより、つねに裁きや罪という出来事に出くわすことになります。裁きや罪の思いを手放せば、世界も人々も安らかに知覚されるようになり、自分が脅かされているように感じることはなくなります。世界と自分のこころが連動しているという、このメカニズムに気づくことが大切です。  自分にとって不都合なことを目にする原因は、心の中に同様のものを抱えこんでいるからです。それは、世界や人々にに対する不信感や罪を信じる思いかもしれません。外の世界に見える不快なものごとはまさに自分の心の中に存在し、こころはそれを抱えこみつづけることに耐えかねて、外へ外へと投棄するということが起こります。しかし、いくら投棄をくりかえしても、またふたたび元の場所に戻ってきてしまうのです。まるでソンビのごとく再生し、また心の中に存在しているのです。それは心のなかで消滅させない限り、消え去ることができないからです。不快なものを外へと投棄することは、内側においても外側においても不快なものを体験することになり、むしろ問題を増やしてしまうだけなのです。  この悪循環から解放されるためには、自分が外へと不法投棄した問題を、クロからシロへと変えることです。それは、「これは間違っている、罪があるというクロ」から、「これでOK、何も罪がないというシロ」へと認識を変える、ということです。自分が投棄したものに対して大騒ぎするのではなく、何を目にしても「ただシロを見よう!」、何も問題がない、これで大丈夫なのだと決める、ということです。そして、「一度見ようと心に決めれば、それを必ず目にできる」というのも心の素晴らしい力なのです。「シロを見よう!」と心に決めることは、まさに「私はシロです!」、「これで大丈夫、何も問題がない」と言っているのと同じことです。なぜなら、私たちは常に心の中にあるものを外に見ているからです。「もしシロが見えるのならは、自分もシロであるに違いない」ということになります。自分が外に投棄したすべてに対して、もれなく「シロにしてしまう」「シロだけを見ようとする」というゲームを始めることです。「自分が与えたものは、自分が受け取る」ことになるので、世界や人々に対してシロを与える、何も問題がなく罪がないことを与えることとは、自分ももれなくシロを受け取ることになるのです。このゲームは、オセロのコマを返すようにどんどんシロを増やして、最後には勝利をおさめることができます。シロであることは、何も問題がなく、罪がないこと。罪がないのなら、自分がどんなリスクや危険、苦しみからも無縁で、自分で自分を防御する必要がなくなるのです。守る必要がなければ、そこは安全な場所のはずです。リラックスできるはずです。シロを増やしてゆくことで、世界も自分も安らかに鎮ってゆくのです。そして、この世界で闘いつづける必要ななく、愛し愛される世界の中で安心してくつろいでいる自分に気づくことができることでしょう。
「人の反応や外側のことが気になり、あれこれ考えては疲れてしまう」というA子さん。 私たちが「あれこれ考えてしまう」とき、「外側の状況に悩まされている」というよりは、「自分の空想に悩まされている」ということが起きています。 「これはひどいことだ」とか、「大変なことになる」とか、その状況に対して自分なりの意味づけや価値判断を下しており、その結果「きっとこんなことが起こるに違いない」と考えることで疲れてしまうのです。 しかし、それらは空想なのです。事実とは関係ありません。 それならば、まず空想をストップするためにアタマのおしゃべりを鎮めてみましょう。 出来事に対する、意味や意見、判断、解釈、ストーリーを停止してみます。 この空想さえなければ、ものごとの意味や解釈、価値判断もやんでくるのです。 ものごとはまっさらな状態になります。  私たちが動揺しているとき、「その出来事や状況そのものに混乱させられている」と感じがちですが、動揺の原因は「自分の考え」であり、空想にホンロウされている、ということなのです。 私たちは状況を目にしたとき、瞬時にそれが自分にとってどういう意味があるのか、ストーリーを決めつけてしまいます。 あまりに瞬時のことなので、自分で決めつけをしていることにさえ気づきません。 そして、それを何の疑いもなく信じこんでしまいます。 それらはたんに、「自分の勝手な空想だ」「でっちあげだ」ということがわかりません。 それは実際、事実とは違うイメージや予測であり、決してほんとうのことではないのです。 真実ではないことを信じることによって、自分で自分を苦しめてしまいます。  ものごとにはもともと、「意味」というものはついてはいません。「ただ、そのように起こっている」だけなのです。 「意味」とは誰かによって与えられるものであり、ものごとを解釈するモノサシとなります。 そのモノサシが悲惨であれば、ものごとは悲惨なものとなり、モノサシが楽観的であれば、楽観的なものとなるのです。 つまり、自分で自分を怯えさせることもできれば、自分を希望で満たすこともできるのです。 どちらを選ぶこともでき、自分のこころが取り入れた考えを私たちは目にすることになります。 それが、私たちのこころのパワーです。 それならば、見たいものだけを自分の判断として選ぶことです。  自分で自分を混乱させたり、怯えさせないための解決策は・・・つねに「こころを安らかに保っておくこと」です。 といっても、考えは良いものも悪いものも次から次へと勝手に浮かんでくることでしょう。 ただ、勝手に湧いてきては消えゆくものに対して、積極的に関わることはやめましょう。 考えが現れたことに気づいたら、即座に反応することはせず、ただほっておきます。それらを通りすぎさせてあげるのです。 「それは問題だ!」と大騒ぎしないかぎり、それは問題とはなりえないのです。 湧いてきた考えに反応せず、さらなる思考に巻きこまれることがなければ、それらはただ静かに消えて行きます。 あることをずっと考えつづけることの方が努力のいる作業であり、相当なエネルギーを消費するものなのです。 どうしても自分の思考が気になってしまうのなら、ラジオやテレビのボリュームを下げるように、イメージで思考の音量ツマミを回すか、あるいはリモコンのボタンを下げるなど、実際にその動作をしてみましょう。 自分がその「音」を調整していることを思い描くことで、実際に思考の音量を下げる感覚が得られます。  目のまえのものごとに対して、自分自身が川縁に立って、静かに流れを眺めているようなイメージをしてみるのもいいでしょう。 目の前の流れにただ身を任せるように、ものごとを受け入れ、過剰に反応しないこと。これによって、あなたのこころは次第に静けさを取り戻します。 自分が見ている画面から数歩後ろにさがるようなイメージをしてみます。古い映像を眺めているように、少し俯瞰して見るのです。 自分が出来事に積極的に関与し、右往左往するのではなく、ものごとが自然と流れゆき、いちばんよい落としどころにおさまってゆことをイメージし、信頼してみましょう。 それは、誰にとってもベストな落としどころなのです。 そして、こころに静けさをとりもどすことで、この静けさがものごとすべてに反映されます。そして、それらを正しく解決してくれることを信頼してみましょう。くつろいで成り行きにまかせるだけでよいのです。 かならずや、「これがいちばんよかった」という納得の結果を目にすることができるはずです。
私たちの目にするすべて、体験するすべては、私たちのこころが紡ぎ出している映像の世界です。   私たちは自分のこころの中から投影された世界を生きているのです。   しかし、自分が生み出しているものを目にしているわりには、気に入らないものばかりだ・・・と感じてしまうかもしれません。   それは、こころのなかの癒されていない怖れや罪悪感を、外へと映し出してしまうからなのです。   さらに、その映し出されたものに対して自らが抵抗して闘ってしまうとき、私たちはそれらをさらにリアルでパワフルなものにしてしまいます。自分で自分を脅かすということが起こってしまうのです。   抵抗するということはまさに、抵抗している対象にエネルギーを注入することになるので、それは自分にとってまぎれもなく現実と感じられ、支配力があるように思われるのです。   その不快さから逃れるため、それらを変えようと頑張るとき、その好ましくない状況にさらに力を与えることになってしまいます。すると、その状況からなかなか脱することができなくなってしまうのです。   好ましくない状況に消え去って欲しいのであれば、取るべき行動はただひとつだけです。   それは、目のまえで扉をバタンと閉めてしまうこと。それとかかわらないこと。無視してしまうことなのです。   無視することで、それらをリアルにしていた抵抗のエネルギーが断ち切られ、エネルギーを失ったものは目のまえから消えてゆくことになります。   私たちはついつい、気に入らないものに対して闘ってどうにかするという姿勢をとりがちです。コントロールこそが解決策だと信じているからです。   ほんとうの解決策は、それを存在させている注意というエネルギーのコンセントをただ抜いてしまうことなのです。   気に入らないものに対して、ドアをぴしゃりと閉めてかかわらないこと、反応しないこと、注意を向けないことが大切です。     赤ちゃんがなかなか泣きやまないとき、くるくる回る玩具やヘンな音が出るもので気をひくと、赤ちゃんの注意は即座にそれらにクギづけになり、ピタリと泣きやむということが起こります。   注意は、中途半端に分散しておくことができないのです。向けられる先は、ひとつだけなのです。   大人でも、体に痛みを感じているとき、思わず引きこまれるような映画を観たり、美味しいものを口にしたりすると、痛みのことはすっかり忘れてしまったりします。   自分が望まないものは、抵抗や闘いによってどうにかしようとするのではなく、ただこのような注意の転換を使うことがポイントになります。   望まないことに対する注意を遮断すべく、ただ注意のコンセントを抜いて無反応状態を作り出しましょう。すると、それらはしだいに消えてゆくことができるのです。     ふだんの生活のなかでも、目のまえにあらわれるものごとに対して次から次へと反応するのではなく、少し身を引いて画面全体をふんわりとながめることが大切です。   世界や出来事に対していちいち意見をしたりジャッジしたりしないで、無反応を作り出します。   それは、穏やかで安らかな無関心の状態です。ひとつを掴むことなく、全体をふんわりと見ているだけです。   自分というエゴが世界に反応して、抵抗したり、コントロールしようとしなければ、人生にはある流れが存在していることに気がつくかもしれません。   それは、もともとそこにある法則であり、宇宙の秩序そのものです。   その法則は、自分ひとりで頑張る必要はなく、すべてのことにおいて面倒を見てくれる愛そのものなのです。   どんなふうに面倒を見てもらえるかは、それを体験してみないことにはわかりません。必ずやその答えやそのなりゆきに、ちょっとびっくりしながらも、満足することになるでしょう。   私たちが何かに反応して、それを掴んだり取っ組み合ったりしなければ、その愛の法則が現れて、解決に向かって穏やかにリードしてくれます。   私たちがするべきことは、ただ安心してリラックスしてながら画面の後ろに下がり、「いったいこれはどのように解決されるのだろう?」と面白がりながら、静かに見守っていることです。   毎回示されるその結果そのものが、ゆるぎない流れへの信頼を培ってくれることでしょう。
ちょっとオシャレをしてお出かけしたいとき、ふだん開けることのないアクセサリーの引き出しをゴソゴソします。   すると、「こんなの持っていたのね!あんなのも!」と、お蔵入りしてすっかり忘れ去られていたアクセサリーの数々に出会います。   「こういうの、買おうと思っていた♪」「これも使えるし、あれも使える♡」」と、引き出しを開けるまでは「無かった」はずのものに驚かされ、豊かさを感じることができます。   しまっておくと目につかなくなり、目につかなければ無きものとなります。それらを「もっていない人」になってしまうのです。   しまっておいて使わないことは、それらを失うことと同じなのです。   これは、私たちのこころのなかにある「贈りもの」の引き出しについても言えることです。   私たちはこころのなかに、すでに十分な「贈りもの」が与えられています。贈りものはそこに存在しているのです。   しかし、取り出して使うことがなければ、それは「まったく存在しないもの」になってしまうのです。   実際、私たちの人生における宝探し、それは豊かさであったり、才能であったり、幸せであったり、愛であったりさまざまですが、つねに外の世界へと取りに向かいます。   引き出しのなかにあるものを忘れて「足りない、足りない!」とお店へ走るのと同じように、私たちはつねに「不足」の思いを抱えて外へと調達に走るのです。   しかし、「足りない」と大騒ぎをするまえに、まずはいちばん身近なところ、それは自分自身のこころそのものなのですが、そこをオープンにすることが最善策である、ということを忘れています。忘れているというよりは、知らないのです。   自分のこころの深いところにある引き出しは、自分が望むすべてで満たされ、輝き出すのを待っています。   それらは宇宙とひとつなので無尽蔵です。 自分が望むあれこれについて、つい外へ外へと走り出す衝動をおさえてみましょう。そして、それがすでに自分の内側に存在していることを信頼してみましょう。   そこにはあらゆる「贈りもの」が眠っていて、それらは引っ張り出せば出すほど無限に供給されるのです。   しかし、自分で気づかなければ、それを「無きもの」にすることもできます。   その引き出しの存在に気づき、中身をひっぱり出すこと、つまり「表現する」ことによって、自分でもはじめて「私にはある!」という体験、「私はすでに大丈夫だ!」という気づきをえることができます。   それらを表現することは、すでに持っていることを知る作業なのです。   「私にはない」と決めてしまえば、自分のその決断によって「ない」私になることもできます。あるいは、「ある」という確信とともにそれを表現すれば、「ほんとうにあった!」と実感することもできるのです。 「いつか、こんな私になりたい!」とこころに決めるとき、それはポジティブな決意のように聞こえますが、足りないという自分から出発するため、どこまでいっても足りない自分から脱することができません。   また、未来に期待しているので、すべてを解決することができる「今」のちからをないがしろにしています。   「今はないけれど、頑張っていつかは手にする」という考えは、たった今、自分のこころのなかに存在している宝ものをなきものにしてしまう考えなのです。自分が「ない」と決めたものは、どこまでいっても「ない」からです。   それならば、「それらはすでにある!」と信じて(実際そうなのですから)、そうなった自分を表現し、そうなった自分から周りに与えてみましょう。   愛がほしいなら、自分が愛になってみる。優しさがほしいなら、自分が優しさになってみる。豊かさがほしいなら、自分が豊かさの源であるように表現してみる。   そうしているときに、即座に自分がそうであることを実感することができます。   私たちは引き出しにしまいこんだものはやすやすと忘れ去り、欲しいものを求めて外へとまっしぐらに走りだします。それが欲しいものを得るためのたった一つの方法だと信じているからです。   そして、自分の引き出しのことは一生思い出さないのです。   ただまっすぐに内側へ向かい、「すべてがしまいこまれている引き出しから、表現してみる」・・・ほんとうは、それだけでよいのです。   表現することそのものが呼水となり、自分のなかにある豊かさの記憶がよみがえりはじめます。   そして、自分の気持ちや、目に映る世界が、自分が望んだ色合いに変わっていくことに気づくことでしょう。
どのような状況でも長くつづくと、それが「ふつう」になってしまいます。 人には高い適応能力があるので、たいていのことには慣れることができるのです。 しかし、「慣れる」というのは、じつは本来の自分ではない状態になることを意味しています。   なんとなくイライラする、もやもやする、どよよ~んとする・・・そんなときは「自分ではないものになっていますよ」ということを、心地悪さという感覚を使って知らせてくれているのです。   本来の自分とは、こころ安らかで幸せな状態です。それは、頑張ってなるのではなく、もともと自分に備わっている本質そのものです。澄みきった湖のように、静かで穏やかで平和なこころなのです。   イライラ、もやもやを感じるのは、本来の自分からずれている状態なので、何を手に入れようとも、どんなことをしようとも、幸せは感じられません。状況がどう変わろうとも、ずれていれば本来の自分の安らぎを感じることはできないからです。   つまり、幸せとはこの世界の物事、出来事とは関係がないということです。自分のこころの土台にある、安らかで幸せな状態を取り戻すことこそが大切なのです。 イライラやもやもやという警報サインを感じたならば、こころを訂正する方向へと進みましょう。   サインを無視して頑張っても、こころの警報は鳴りやむことはなく、さらにイライラ、もやもやは増していきます。   イライラもやもやサインを認識したら、まずはいったん「立ち止まり」、「なぜイライラ、もやもやしているのか?」と自分に尋ねてみましょう。   すると必ず、自分のなかに「被害者意識」があることに気づくはずです。   「私がイライラ、もやもやしているのは、あのせいだ!」「あれが悪い」「これが間違っている」と、「外側にこそ原因があり、だから私は被害者なのだ」と主張していることに気づくと思います。その被害者意識こそが、問題なのです。   被害者意識をもてばもつほど、さらに被害者になってしまうからです。   被害者意識は、ほんとうの原因から目を背けようとするエゴの企みです。その企みにのれば、状況は解決することなく、さらに悪化してしまいます。 イライラもやもやは、目のまえにある出来事から引き起こされているのではありません。   それらは、長年こころのなかに抱えてきた裁きの思いが引き起こします。   自分のなかにある裁きの思いは、目にするものに投影され、それらがまるで自分を攻撃しているような錯覚を引き起こします。   大切なのはイライラもやもやを感じたならば、ただ素直に手放してあげることが必要なだけなのです。   私たちは、イヤな感情を感じると、状況自体の分析に走るか、あるいはイヤな感情を無視するか、抑圧してしまいます。   そのイヤな感情は、放置されたままなのです。しかし、不快感として自覚されたのなら、ただその感情を手放すことで、ほんとうの自分を取り戻す、浄化の機会とすることができます。 処理することなくためこんだ裁きの思いのせいで、被害者意識が強くなり、その結果、怖れや怒りを引き起こしていました。そんな不快感に気づいたときにこそ、こころの断捨離のための絶好のチャンスだと気づきましょう。   断捨離は、いらないものを一回手にとって「これを私は望まないのだ」と意識的に決断するプロセスが欠かせません。   イライラ、もやもやという不快感を認識したら、高い自己であるハイヤーセルフに「私は、これらの感情を望みません」と宣言して、こころのなかから廃棄してもらいましょう。すみやかにお願いして、自分を幸せにしない不快感に「さよなら」するチャンスを逃さないことです。   ハイヤーセルフは、本来の自分である安らかで澄み切ったこころを取り戻すために、私たちが差し出すものはすべて取り去ってくれます。   自分に害を及ぼす不快感から目をそむけたり、放置したり、被害者になることなく、潔く取り去ることで、本来の澄んだ湖のような穏やかなこころを取り戻すことができます。そして、この澄んだ穏やかなこころこそが、自分の目にする世界に同じ性質をもたらしてくれるのです。 私たちは幸せになるために、つねにこころを風通しよくしてあげる必要があります。何もためこまなければ、ただそこには愛と安らぎだけがあるからです。   こころを風通しよくするためには、ハイヤーセルフの手をかりて、奥深くまでその光をさしこませて、安らぎや喜びや愛以外の感情をきれいさっぱり手放してしまうことです。   衣替えの時期に、押し入れのものをあらいざらい引っぱり出して、風をとおして、必要なものだけを収納するように、こころもハイヤーセルフとともに光をあてて天日干しをし、自分を幸せにしない感情をきれいに手放すという習慣をつけたいものです。   自分の正しいこころにこそ、幸せの土台があります。そして、正しいこころは、努力せずともただ幸せを映しだしてくれるのです。   自分を幸せにしない愛以外の感情には、すみやかに気づいて、ハイヤーセルフに手渡し、こころから除去してもらう習慣をもちましょう。
新年の抱負として、クライエントのA子さんがこのように語っていらっしゃいました。「すぐにイライラして人にあたってしまう私ですが、今年は人を責めたり、裁くことなく、こころ安らかな日々を過ごしたいと思っています」。   ついつい人にイヤミを言ったり、あげ足をとったり、攻撃してしまうクセがあり、それは相手だけでなく自分もイヤな気持ちになることに気づいたからです。   その後、その新年の抱負についてうかがってみると、このように仰っていました。「人にあたらないように気をつけたのですが、じつはさらにイライラすることが多くなり、安らかさとは程遠いのです」。   また、体調が悪くなったり、予期せぬ出来事が起こったり、人との関係もぎくしゃくして、以前よりも苦しく感じる、というのです。   「人を責めず、裁かず、いい人でいよう!」と決めたのに、これはどうしたことでしょうか?   じつは、これはよく起こることなのです。   自分の怒りや攻撃の想いを外にバラまかないように、責めず、裁かず・・・   でも、いくら責めるのをやめても、裁くことを我慢しても、ただ外側へとその想いを投げつけていないだけで、その想いはすでに自分の内側で起こってしまっているのです。瞬時に、こころのなかでとがめているし、裁いてもいるのです。   着火されてしまってた爆弾を外に投げるのをやめたとき、何が起こるでしょうか?・・・それは手元で爆発し、自爆することになります。   人に攻撃的な想いをぶつけない分、それは自分の内側で自分自身を傷つけてしまうのです。   その結果、体調不良やら、メンタル不調、イライラを招いてしまいます。また、こころのバランスが崩れた状態を外側の世界へと映し出し、それが問題となって目に入るのです。   つまり、いつもは外を攻撃していた爆弾が、自己攻撃に転じてしまったというわけです。   責めないでいよう、裁かないでいようとする努力は、安らぎを感じるための解決策とはなりえませんでした。   まずは、すでに自分自身が抱えている爆弾にしっかりと気づいてみましょう。それは、すでにそこにあるのです。そして、それこそを取り除かなえればならないのです。   爆弾はもう抱えてしまっているのですから、ないフリをしても決して安らかにはなりません。   自分のなかに人を責めてイライラしている気持ちがある、裁いて腹を立てている気持ちがある、不平不満を並べたい気持ちがある・・・たしかにあるのです。そして、あっても構わないのです。   むしろ「ないフリをしようとする」ことが、それを外側へとこっそりとぶちまける原因となるからです。   攻撃にしろ、怒りにしろ、自分のなかにある悪意は、「気づき」の光をあてることで解消することができます。   それは、「ああ、今、私のなかに怒りが湧いてきている」「相手を責めたいと思っている」「不平不満でいっぱいになっている」・・・   「でも、これらは私の望まない感情だ」と客観的に気づき、観察してみましょう。   「私は、このように悪意を感じてもかまわない・・・なぜなら、これらの気持ちは私の本心などではなく、どうせ捨て去ってしまうものだから」。   それらに「気づく」ということは、手放すことへの第一歩なのです。「こういう気持ちがあるのだ」と認めることで、はじめて自分のこころから手放すことが可能になるからです。   「自分が感じたくない気持ちだ」と気づいたら、それらを消滅させることができる自分自身の高い自己、ハイヤーセルフに、悪意のある考えのひとつひとつを渡してしまいましょう。   「私は、これらの気持ちを望みません。私を本来の愛と安らぎと喜びに戻してください」とお願いします。   ハイヤーセルフは、まさに危険物処理班です。お願いすれば、迅速に、かつ安全に完璧に、それらを取り去ってくれます。それも、即刻、24時間対応です。   大切なことは、それらの感情を人に投げつけたり、自分のなかで隠しもって爆発させてしまうまえに、それらの感情に気づいて、「手放そう」という意志をもつことです。   「よい人になろう!」と努力することは、しばしば爆弾をかかえたままで違う自分を演じようと試みることです。   見た目だけ「よい人」に整えようとしても、自分の内側に隠している悪意という爆弾は、結局自分自身を傷つけてしまうことになります。   その爆弾は遅かれ早かれ爆発し、自爆というかたちをとり、体調不良やメンタル不調、さまざまな問題として自分を苦しめます。   そうなるまえに、自分のなかの攻撃的な想いは「廃棄すべきもの」として、隠すことなくハイヤーセルフとともに処理を行いましょう。   いさぎよく捨て去る意志をもてば、有能な危険物処理班であるハイヤーセルフが怒りや罪悪感、怖れという爆発物をすみやかに取り去ってくれます。   どのような悪意を感じても、恐れる必要はありません。そのように感じても構わないのです。   それを感じて、それが自分のなかにあることを認めるからこそ、それと永遠に決別する一歩を踏み出すことができます。   よい人になる努力をしなくても、こころに危険な想いを温存せず、気づくたびに処理をすれば、自然と自分も世界も平和に包まれ、穏やかさのなかですべてがいちばん良いように進んでゆきます。   自分のなかの悪意という爆発物に敏感になり、危険物処理班であるハイヤーセルフに通報して、すみやかに処理をする習慣をつけて、安らかに過ごすようにいたしましょう。
渦のなかにいると、目がまわってしまいます。   目がまわれば、具合が悪くなります。正気を失います。できるはずのこともできなくなります。   以前、たけしさんの番組で、回転椅子でぐるぐる回されてからゴルフをする、という企画がありました。誰ひとりとして立っていることはおろか、地面にはいつくばってふだんの実力を発揮することができませんでした。     私たちが問題のなかにいるとき、それはまさに渦に呑まれて正気を失っているときなのです。   ふらふらになってゴルフに挑んでいたように、私たちもすでに問題を解決できるポジションにはいません。   それでも平静を装って、問題を解決しようと試みてはみます。またそうできる、と信じているからです。   冷静な状態だったらすんなりできることも、渦のなかにいては状況に対してコントロールを失い、怖れから反応するため、さらに混乱が深まります。   渦のなかでは問題は解決できないし、そもそも解決すべき場所にはいない、ということです。   解決を望むなら、まずは渦を離れてみること、解決が可能な場所へと移動することが先決なのです。     渋谷のスクランブル交差点を渡っているとき、あちこちから人が押し寄せてきます。そっちに行きたいわけではないのに、あれよあれよというまに人混みに流されてしまいます。   しかし、いったんそこから離れれば、さきほどの雑踏がウソのように平静さを取り戻すことができます。   問題が起きているときも、その状況という渦から離れてみましょう。   目にしている画面全体から数歩、感覚的に退いてみるのです。カメラが引きのショットになるように、少し距離をとって俯瞰してみます。   目にしている画面全体に気づいてみることで、こころのスクリーンに映っているもの全体を見渡すことができます。   すると、止まることを知らないように見えたアタマのなかのセリフや考え、ストーリーがしだいに静かになってきます。   目にしている場面も、少し距離ができて、まるで過去の物語を見ているような人ごと感が生まれてくるのです。   この渦の外側の静かなところから眺めることで、さきほどまで「これは大変なことだ!」と深刻モードにおちいっていたことが、さほどでもないと感じられてくるのです。   この静けさのなかにとどまっていると、思考や感覚が落ち着いてきて、それにともなって怖れや不安も鎮静化してきます。     私たちは問題という渦に遭遇すると、あわててそれに抵抗したり、闘おうとしたり、排除しようともがいてしまいます。決して渦から逃げてはいけないと思っているのです。真正面からぶつかって行くべきだと信じています。   そのため、簡単に渦のなかに呑み込まれてしまいます。   じつは、渦のなかには答えがありません。なぜなら、そこは自分がいるべきところではないからです。正解など見つからないのです。   だから、問題という渦に遭遇したら、目にしている世界から数歩下がって、全体を俯瞰するようにし、静かなスペースから眺めてみましょう。   この渦から離れた静かな空間には、あらゆる答えが存在しています。そこのみが、答えが受け取れる場所なのです。   私たちが問題の答えを受け取りたかったら、問題という渦から脱して、静かなスペースにとどまり、そこにチューニングする必要があります。   ただ渦から距離をとってみましょう。そして、その静けさと一体になってみましょう。   こころはすぐに、怖れや焦りから開放されはじめ、穏やかでくつろいだ状態になってきます。   そのスペースとひとつになり、そのスペースとして呼吸し、ただ深くくつろぎ、とどまってみましょう。   あとは、ただ静かな安らぎのなかで過ごしてみます。すでに渦から脱して、解決の流れに乗っている状態です。   やってくる直感や感覚にまかせて、こころが広がる感じがする方向へと舵をきってみましょう。   こころの混乱が鎮まり、答えの源とつながることで、ものごとは自然に流れはじめます。これで、必ずうまくいきます。     私たちは外側に答えを探しているだけで、ぐるぐる目がまわってしまうのです。なぜなら、そこはいろいろなものがせめぎあう渦そのものだからです。   渦の外に出るというのは、混乱が混乱を呼んだ状況のなかから距離をおき、静けさのなかで正気を取り戻すことです。   そして、答えを受け取りたいという意志をもって、答えそのものである叡智(静けさ)とつながることで、答えが自然と目のまえに映し出されるのをゆるすこができます。   難しいことはありません。ただ、見ている画面から少し離れて俯瞰して、こころに安らぎを取り戻し、静けさのなかにとどまってみましょう。
「大学生の息子さんの恋愛や行動に、つい口を出しすぎて煙たがられてしまう」というA子さん。   としごろの息子さんに限らず、私たちはコミュケーションにおいて相手の言葉や態度のみに気をとられ、抵抗したり、拒絶したりして、なかなかそこにある「想い」を受け取ることができません。   親が口にする「頑張りなさい!」は「あなたならきっとできるから、頑張りなさい!」であり、「気をつけるのよ!」というひとことも、「今日もあなたに安全に過ごしてほしいから、気をつけてね」という愛や励ましがこめられていたりします。   しかし、こどもにとってはそれを圧力と感じ、「わかっているよ!」「それ以上言わないで」と抵抗や怒りを感じてしまうのです。   それは、受け取る人のなかにある被害者意識や、自信のなさによって、その言葉を自分なりに解釈してしまうからです。   もし、自分を信じることができ、安心しきっていたならば、きっと「お母さん、大丈夫だから!心配しなくていいよ」と穏やかに伝えたことでしょう。   こころが不安定だと、相手から愛を伝えられたとしても、それを素直に受け取ることができません。自分の怖れが愛を帳消しにし、攻撃に置き換えてしまうのです。   怖れや心配、疑いがこころにあると、つねに自分の体験を歪めてしまうことになりかねません。そのため、自分のまわりからたくさんの愛を送られていようとも、それを感じとることができず、自分は愛されていないという被害妄想に陥ってしまうのです。 このようなコミュニケーションの歪みは、誰もが経験することです。   自分のこころのなかにある痛みのせいで、私たちはなにひとつ正しく知覚することができないのです。そして、安全な環境のなかにいようとも、くつろいで幸せを感じることができません。   ここで大切なことは、「自分が知覚するすべては、自分のこころが選んでいる」ということを認識することです。   心地よくない体験をしているのなら、体験そのものが間違っているというよりも、自分のこころが間違っているため、正しくものごとを認識できていない、ということです。   自分の体験していることが気に入らないなら、いったん立ち止まってみましょう。   「私のこころこそが動揺していたたため、不安な世界を目にしたに違いない。こころを落ち着ければ、別な世界を見ることができるのだ」と気づいてみましょう。   そして、軌道修正のために仕切りなおします。   「私が見たいのは、このようなものではない。安らぎと完全さだけを目にしたい」と決め直し、ものごとをもういちど見てみましょう。   たとえば、息子さんんに「あなた、そんなことで大丈夫なの?」と声をかけたくなるとき、   「あ、これは自分のなかにある怖れを息子のなかに見て、自分で心地よくないストーリーをでっちあげている。間違っているのは彼ではなく、私なのだ」と気づくことです。   そしてこころを落ち着けて、「私が見たいのは、完全さ、安らぎだ」と決め直します。   さらに、自己の高い意識であるハイヤーセルフに「今の状況を愛のなかで見られるように助けてください」とお願いしてみましょう。   愛をもって見ているとき、怖れや不安、疑いは姿を消し、安らぎのなかでものごとの意味が変化してゆくのがわかります。   意味が正されれば、こころは穏やかさを取り戻し、その穏やかさが自分の目にする世界、体験へと広がって、安らぎの世界を見せてくれます。   今まで握りしめてきた怖れや心配の想いは、とりあえずハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、ここからは愛のなかで完全さだけを見るのだ、と決め直しましょう。   息子さんに対しても、心配からたくさんの言葉をかけるよりも、ただ信頼し、安心のなかで見ようとすることで、なによりも自分自身が落ち着くことができます。そのスペースのなかで、息子さんも自信を取り戻し、心地よくものごとを進めることができるようになります。   自分自身が「見たい!」と決めたものは、必ず見えてきます。それが自分の世界となるのです。それこそがこころの力です。   だから、自分が喜べるものだけを見るのだ!と決めましょう。   怖れや疑いに呑まれそうになったら、ぜひこの歌を口ずさんでみましょう。それは、「これでいいのだ~♪」というバカボンの歌です。   すべてはそのまま放っておいても大丈夫なのです。必要なのは、安らぎのなかでハイヤーセルフとともにものごとを味わい愛でること。それだけです。   もし、何かすべきことがあれば、そのためのインスピレーションは必ずやってきます。あるいは、気づかないうちに、自動的に必要な行動を起こしているかもしれません。   ハイヤーセルフにつながって、安心して過ごしましょう♪ きっと、たくさんの愛や安心が見つかるはずです。
こころが怖れや不安を感じているとき・・・その原因とはいったい何なのでしょうか? 「もちろん、今起きている状況、あるいはこれから起きるかもしれない状況です!」と言われるかもしれません。 仕事がうまくいかない、人間関係で問題が起きている、体調が思わしくない、先行きに不安を感じる・・・というように。 私たちはこのような状況に対して、環境を変えたり、能力向上をはかったり、相手をどうにかしようとしたり、健康対策をとったり・・・改善をはかる努力をします。 そうすることに問題はないのですが、これらが怖れや不安の原因であり、解決策もここにあると信じてしまうと、結局同じ問題をくりかえすことになってしまいます。ほんとうの原因が放置されたままだからです。 そもそも、怖れや不安を感じているのは「自分」なので、たとえものごとや人が変わろうとも、怖れや不安は新たな状況のなかでも簡単に姿を現すことになります。処理しないかぎり、いつまでもどこまでもつきまとってくるのです。   怖れや不安はもともと自分のこころにあるもので、ものごとと結びつくことでそれが原因のように感じられてしまうのです。 では、なぜ自分はこんなに怖がりで、不安を感じてしまうのでしょう? それは、自分で自分を脅すのをやめられないからなのです。 そもそも、その状況そのものが怖いのではなく、自分の「その状況に対するでっちあげ」こそが怖いのです。 私たちはいつもこころのなかで、自分自身を脅すのをやめることができません。     一日のうちにアタマに浮かんでくる思考の数は、数万個という膨大なものです。そのほとんどが日々、同じセリフのくりかえしです。さらに、思考の80%は、自分を幸せにしない否定的な内容となっているのです。 ということは、年がら年中飽くことなく、自分の考えで自分を攻撃していることになります。それなら、怖れや不安を感じてあたりまえです。 「最近太ってしまった醜い私」 「過食や飲み過ぎをやめられない意志の弱い私」 「友人との会話でバカみたいな発言をしている私」・・・ダメな私、みっともない私、価値のない私。 一日のうち、アタマに現れる意識的、無意識的な思考をチェックしてみると、他の人に対しては決して口にしないような辛辣なセリフであふれています。 このような否定的な思考のオンパレードは、何ら検閲もされず、無条件に丸ごと信じられてしまっているのです。 だからこそ、そこからネガティブな妄想が発展し、怖れや不安がふくらんでいってしまうのです。     はっきりしておかなければならないことは、「思考はただ浮かんでくるものであって、自分自身ではない」ということです。 自分が考えているように感じていますが、そもそも「考えを止めることができない」ことを考えると、自分でもコントロールがきかない思考は勝手に湧いてくるものにすぎません。 たった3分後にさえ、どのような考えが浮かぶのかさえも予測することができません。また、内容のほとんどが否定的となれば、それは事実ではないし、簡単に受け入れるべきものではないのです。 このような得体の知れないものはそのまま放っておくことで、タバコの煙のようにふわふわと消え去ってゆきます。大切なのは、「かかわらない」、「うのみにしない」ことです。 わざわざその煙にまかれる必要はありません。煙にまかれれば、具合が悪くなってしまうのです。     自分ではない思考に影響されてしまわないように、浮かんでくる思考に気づいて、モニタリングしてみましょう。モニタリングとは、離れて眺めることです。 眺めているとき、そこに距離が生まれ、巻き込まれてしまうことを防ぐことができます。 放っておけば、それはただ消え去ってゆくのです。 このように自分のなかに現れてくる思考を客観的に気づくことで、クレー射撃をしているように自分にとって有害な思考を退治することができます。 気づきというビームを照射するだけで、それらの思考を見抜き、撃破することができるのです。     まずは、自分だと信じていた思考から距離をとりましょう。 いままで、無条件に受け入れてきた否定的で有害な思考に気づき、眺めてみることです。 それらに対して、「いったい何を言っていることやら・・・私は信じません」と、ひとごとのように観察してみましょう。 思考の支配から逃れることこそが、怖れや不安から解放されることであり、自然と安らぎを感じることができるようになります。 そして、怖れや不安が邪魔しないからこそ、ものごとに対する解決策が直感的にやってくるのです。 すべては安らぎのなかで手放しておくことで、正しい方向へと導かれてゆきます。 怖れや不安を手放すために、思考に気づき、静かにながめる習慣をもってみましょう。
私たちは興味がそそられるものに、自分が引っぱられてゆきます。 好きとか嫌いとか、楽しいとか怖いとかに関係なく、ただそれに興味があるので引き寄せられ、アタマから離れなくなってしまうのです。 そして、そのことについていつも考えをめぐらせ、こころのなかでそれを大切にします。 善くも悪くも、それを愛してしまっているのです。 自分にとって好ましくない状態、痛みや苦しみ、恐れなどが長くつづくとき、じつは無意識のうちにそのことにいつも注意が注がれ、愛してしまっているのです。 痛いところをいつも気にしていませんか? 苦しい状況について、そのことばかりを考えていませんか? 恐ろしい状況がもたらす結果について、あれこれ空想していませんか? 私たちは気がかりなことがあると、そのことばかりに気をとられて、いつも考えつづけ、大切にこころに抱いているのです。そのことを愛してしまっているのです。 「好ましくない状態を愛してしまっている」、それゆえに「こころがその状況を選択しつづけている」。このことに気づけていないので、その状況を変えようともがいてもなかなか変化を起こすことができません。 対処法としては、まず「無意識のうちに、この状況に注意を注ぎ愛してしまっていた」ことに気づきましょう。いつも考えつづけることで、その状況が自分にとってより現実味のあるものとなっていたのです。 気づいたら、ただこころを変えましょう。「私は今の状況を好みません。もうこれをやめたいです」と、こころに決めることです。 そして、新たに何を大切にするのかを決め直してみましょう。たとえば、「私の完全さ、豊かさ、愛からすべてのものを体験したいです」というように。 このように、好まない状況をキャンセルすることは簡単なのです。その状況と闘う必要はありません。ただ、こころのなかで間違って選択していたことを認め、決め直すだけよいのです。 手順としては、 1、「私は無意識のうちにこの状況を大切にしてしまい、自分に体験させつづけてきたようだ」と気づきます。 2、「でも、もうこの状況を私は望みません。私が望むのは、⚪︎⚪︎です(完全な私を体験することです・・・etc)」 3、そして、すべてにおいて完全さだけを見ることができる高い自己(ハイヤーセルフ)に、「私とともにこの状況を見てください。完全さを見ることができるように助けて下さい」とお願いしましょう。 ほんとうのところ、私たちはすでに完全な存在であり、大丈夫な存在なのです。 しかし、私たちがそれを忘れてしまうことで、どのような存在にでもなり変わることができます。小さな存在にも、惨めな存在にも、価値のない存在にも・・・それは自分のこころしだいなのです。 自分の完全さを忘れないためには、常にそれを表現してみようとすることです。 「私が完全な自分だったら、今どのように振る舞うだろう?」「豊かで愛にあふれた自分だったら、何ができるだろう?」 これは自分の完全さ、愛、豊かさを愛している状態です。いつもそのことを考えているからです。そして、愛され大切にされたものは、どんどんその存在を大きくしてゆきます。 好ましくない状況と闘いつづけるよりも、まずは自分のこころが間違った方向を向いていたことに気づき、本来の自分の完全さに注意を向け変えてみましょう。そして、それを思い切り表現することから始めてみましょう。 表現すればするほど、その確信が深まってゆきます。また、目にする世界にもその証拠が見つかるようになるのです。 自分の完全さを認めているときには、自分ひとりで頑張らなくてもすべてのことが流れるように進んでいくことに気づくかもしれません。
あなたの今年の目標は何ですか? 幸せになるために、今年は何をすることを決めましたか?   今年こそ、「こんな経験をしてみよう!」「あの場所に出かけてみよう!」、あるいは「この習慣はやめよう!」など、目標の多くは自分の行動を変えるためのものが多いのではないでしょうか?   そんななか、ぜひとも「自分のこころを変える」ための目標、つまり「自分のこころを正す」という目標もつけ加えてみましょう。   「こころを正す」ことは、じつは自分の幸せと直結しています。・・・そう言われても、なかなかピンとこないかもしれません。   自分の住んでいる世界は、自分のこころによって知覚されている世界です。だから、自分にとって世界とこころは同じものなのです。   みんなが同じ世界に住んでいるように感じていますが、一人一人に見えている世界はまったく別のものです。一人一人の世界は違うのです。   そして、その自分の幸せな世界は、自分のこころの幸せから生まれるのです。   いつか世界にステキなものが現れて自分を幸せにしてくれるだろうと思っていても、こころが間違っていればステキな経験はありえないのです。すさんだこころには、決して安らかな世界は知覚できません。   平和で安らかで愛のある世界を見たいのであれば、自分のこころの間違いに気づいて、それを正してあげることで、世界を正しく知覚できるようにしなければならないのです。 自分のこころが間違っていると、たとえ人生に何をつけ足そうとも決して満足も幸せも感じられません。   いっときは楽しいことを追求していい気分になるかもしれませんが、どんな経験を差し出そうとも、結局はこころのうちに潜む怖れや不安感によってすべてが曇りはじめます。   こころが間違っていれば、自分の人生も目にする世界も、不安定なものに感じられてしまうのです。   こころが正しい状態であるというのは、恐れや罪悪感をいだくことがなく、何かを責めたり裁いたりする必要がないので、いつも安らぎと喜びに満たされています。   そして、その平和なこころから世界を知覚することで、まったく同じ平和と安らぎを見出すことができます。   平和な世界は全員のためにすでにここにあるのですが、正しいこころからでなければそれは知覚できないのです。   だからこそ、幸せな世界で生きてゆくためには、まずは自分のこころを正すことからスタートしなければなりません。 「こころを正す」とは、どういうことでしょうか?   それは、自分のこころが裁きや責め、疑いや怖れの気持ちをいだいたときに、すぐにそれに気づくようにし、見逃さないことです。そのためには、イライラや落ち着かない感じ、不安感、怒りに注意していましょう。   なぜなら、このような気持ちを感じる直前にこそ、「正されるべき間違った考え」が存在しているからです。その考えをいだいたがゆえに、イライラや不安、怒りという気持ちが引き起こされたのです。   たとえば、「こんなことは起こるべきじゃない」と考えればイライラしますし、「これで大丈夫なのだろうか?」と考えれば不安になります。   自分の感じる感情のすべては、自分の考えから生みだされています。自分がイヤな気持ちを感じているのなら、それよりもまえにどのような考えがこころをよぎったのか、しっかりと自覚してみましょう。その考えこそが正すべきポイントなのです。   それらの考えが自分の見る世界にすぐさま投影されて、裁きや責め、疑いや怖れの世界をつぎつぎに見せている原因そのものなのです。   自分の考えこそが自分の世界を染めあげ、自分はその世界に巻き込まれてあたふたする・・・という、それはまさに自作自演のドラマなのです。 自分のこころに注意を払うことで、間違った考えが世界に影響を及ぼすまえにそれらをこころから排除することができます。   たとえば、「このままじゃダメだ・・・」と自信をなくすとき、それらの考えが自分の世界に影響を及ぼすまえに、それらに気づいて、信憑性をしっかりと疑ってみることです。 「このままじゃダメ・・・って、絶対に絶対、ほんとうのことなのか?」自分に問いただしてみましょう。 答えは、100%本当か、100パーセント嘘か、ふたつに一つです。中間地点はありません。 混乱して自分ではわからなくなってしまったら、まわりの人に聞いてみるのもいいでしょう? きっと、「そうとは言えないのではないですか?」とか、「こんな別の見方もあるのでは?」と、他の可能性を教えてくれるかもしれません。 あるいは、こころのなかで高い自己であるハイヤーセルフに、「私はこのような考えを持っています。それは絶対に真実なのでしょうか?」と尋ねてみましょう。そして、こころを鎮めて答えを感じてみましょう。 一つ一つの自分の考えに対して真正面から疑問をもつことで、いかに自分勝手に「ものごとはこのようになるのだ!」と決めて譲らなかったのかに気がつきます。まるで自分には予知能力があるかのように、他の可能性を排除してしまっていたのです。 それらに気がついたら、優しく自分をなだめてあげましょう。 「私は、自分の限られた考えと経験から答えを導き出そうとしていました。けれど、それは過去についての考えであり、今の自分にはふさわしくありません。すべてのものごとは私を守ってくれている高い存在によって幸せへと導かれているので、私は今このままで大丈夫であることを信頼します。今の状況はプロセスにすぎず、結果ではありません。このプロセスを信頼して、大いなる力にすべてを導いてもらうことにします」 自分がよい気分でないのなら、必ず役に立たない考えがこころのなかではばをきかせています。それこそが正されなければなりません。   役にたたない考えを見つけたら、「この考えは本当のことではありません。なぜなら、私は全体を把握していないからです。これはまだ良い方向に向かうプロセスであり、私はただ安心して見ていることにします」と自分に言い聞かせてあげましょう。   そして、裁きの思いや、疑い、怖れなどの役に立たない考えや感情のすべてを、自分を守り導いてくれる存在であるハイヤーセルフに渡してしまいます。   「私は自分の考えに欺かれて意気消沈していました。しかし、この考えはほんとうのことではありません。私のこころから役に立たない考えを取り去ってください」とお願いします。ハイヤーセルフに渡されたものは、こころから消去されます。   自分に悪影響を及ぼす役に立たない考えを手放すことこそが、こころを正すことなのです。   こころを正してゆくことで、自然に安らぎとか喜びが自分のものになります。なぜなら、それがこころの自然な状態だからです。   安らぎと喜びが自分にはないと思えるようなときには、少し立ち止まってこころを調べてみるようにしましょう。否定的な考えはすべて真実ではなく、まったく役に立たないからです。自分にとって有害なものは、ただちにこころから取り去ってしまいましょう。 このように、間違った考えを取り去りこころを正すことは、汚れによって正体不明になってしまったダイヤモンドをきれいに洗い清めてあげる作業です。間違った考えさえなければ、こころは自然に光を放つようになります。   そして、その光こそが自分の見る世界を照らし、ものごとを平和で穏やかで安全に見せてくれるのです。   この光はそれぞれのこころのなかにすでに眠っています。、改めて獲得するものではありません。ただ自分のこころの間違った考えを取り去るだけで十分です。それが幸せに向かうために必要なことなのです。   きれいになったあなたのダイヤモンドは、天からあなたをめがけて降り注く愛や喜び、豊かさという恵みの光をあますことなく受け止めることができます。そして、その光で満たされながら、光のすべてを自分の目にする世界へと放ちます。   この源からの光をしっかりと受けとめることで自分自身が輝き、さらにダイヤモンドのように自分を通してその光を増幅することで、自分や世界に愛や安らぎ、喜び、豊かさなどをもたらすことができるのです。
運命とは、決まっているのでしょうか? それとも、自由に選べるのでしょうか?   決まっている・・・と考えると、落ちつかない気持ちになるかもしれません。自分はどんな運命にさらされているかわからないし、その運命から逃れることもできない、と感じてしまうからです。   そして、運命が決まっているのなら、これまで自分の人生の最高指揮官として采配をふるってきた自分自身にとって、その権力を丸ごと奪われ、なすがままにされてしまうというような無力感も感じられます。   「自分の人生を好きなように生きている」と信じてきたのに、まるで両手両足をもぎ取られたように感じてしまうのです。   しかし、運命が決まっていることに対して、別の見方で見ることもできます。   もしも大いなる存在、それは宇宙でも、神でも、源でもかまいません、その大いなる存在にすっぽりと護られて、自分の幸せにプラスになることしか起こらないとしたら、どのようなことが起きていても最終的にはいちばん良い結果になるとしたらどうでしょう?    そうであるなら、不確かな未来に怯え、道に迷わないように必死で人生をコントロールしようとするよりも、大いなる存在におまかせしてしまう方がずっと安全でラクで確実だといえます。 私たちがいくら固い決意をして人生をコントロールしようと試みても、結局起こることは勝手に起こってしまいます。   雨が降るときには、いくら「てるてる坊主」をたくさん並べても雨を止めることはできません。それと同じように、何かが起こるときには起こらざるをえないのです。   しかし、その起こることを自分への「攻撃」や「罰」と捉えるのか、それとも自分への「愛」や「恩寵」と捉えるのかで、その意味は大きく変わってしまいます。   もし「起こること全体が愛の法則に支えられている」ということがわかったとしたら、もっとリラックスして安らかに過ごすことができることでしょう。実際、私たちは大いなる愛の法則に完全に護られているのです。   どうしても抗うことができなかった出来事を長い目で見たとき、自分にとっても周りにとっても「あのことが起こってよかった」と思える善きこととして経験されたことは誰にでもあると思います。   起こることはしっかりと見届けさえすれば、すべては善きことであることがわかるかもしれません。   実際、私たちは「自分が見ようとしているもの」だけを目にしています。なぜなら、「自分」こそが見るためのフィルターだからです。   こころが怖れでいっぱいであれば、怖しいものばかりが目に飛びこんでくるであろうし、こころに愛や穏やかさがあれば、愛や穏やかさにあふれた世界を目にすることができます。   まさに、世界はこころのあわせ鏡といえます。そうであるなら、たとえ運命がどうであろうと、愛に満たされた穏やかなこころで出来事を見ることこそが、自分が護られているという愛の法則を確信することになり、それが幸せへのカギとなります。   「私は是非とも、愛の法則に支えられた世界を目にしたい」とこころに強く決めてみましょう。 「運命は決まっている」というとき、私たちはまったく変更不可能で逃げ道のないガチガチに固まった一本道を想像してしまうものです。   しかし、「決まっている」というのは、「たくさんの可能性がすでに存在していて決まっている」という意味であり、たったひとつの道だけが与えられている、というわけではありません。   起こっていることに対して不平不満を言いつづければ、私たちは不平不満の世界を目にすることが可能です。自分のこころを変えるまで、同じ状態を見つづけることでしょう。   しかし、こころがいったん自分の運命を受け入れ、愛や穏やかさを取り戻すことで、目にする世界は穏やかで愛のある世界へと進路を変えてゆくことができます。   運命は決まっているといえども、自分のこころの状態によっていつでも変更が可能なのです。自分のこころの状態は、まさに自分の目にする世界を変容させるパワーそのものだからです。自分のこころの状態にみあった世界へと、即座にチューニングされます。   そして、いつでもこころの状態を変えることによって、運命に変化をもたらすことができるのです。 また、運命をよきものにしたいとき、自分を守り導いてくれる存在であるハイヤーセルフにこころを開いてみましょう。ハイヤーセルフのちからを借りることも、運命の軌道を変化させる大きなちからとなります。   叡智そのものであるハイヤーセルフは、どんなときにも私たちの幸せのみを願ってくれています。しかし、そのちからを借りるには、自分からハイヤーセルフにつながる必要があります。   どんなときでも「助けてください」とハイヤーセルフに導きを求めることで、自分自身がハイヤーセルフのちからにつながることができます。   助けを求めさえすれば、ハイヤーセルフはすぐさまレスキューに飛んできてくれます。そのレスキューはまさにミラクルであり、「こんなことが起こるなんて!」と驚くような、私たちにとって予想できないような道を示してくれるのです。   なぜなら、ハイヤーセルフのレスキュー方法は運命という時間のなかから私たちを救出し、ハイヤーセルフ独自の時間のなかへとシフトさせてくれるからです。通常の時間からワープして、問題を回避させてくれるのです。   ハイヤーセルフの助けをえるためには、ハイヤーセルフとこころをひとつにする必要があります。   「ハイヤーセルフ、この問題を私とともに見て、ハイヤーセルフの見方ができるように助けてください」とお願いしてみましょう。ハイヤーセルフには問題という概念がないため、ハイヤーセルフとともにその状況を見ることによって自分自身も問題というものを認識しなくなることが可能なのです。   こころを開いて助けを求める気持ちさえあれば、私たちは時空を超越したハイヤーセルフの知覚とともにラクな道を進むことができるようになります。 ハイヤーセルフとともにものごとを見られるようになると、ものごとと闘うよりも安心して受け入れることができるようになります。   起こることをそのままに受け入れることは、運命というカルマを解消することであり、自分に災をもたらしていたカルマのストーリーを終わりにすることです。   ものごとを抵抗せずに無条件に「受け入れる」とうことは、そのものごとを支えていたエネルギー全体がゆるみ、カルマとして存在していた出来事を消滅に向かわせることができるのです。   どのようなことが起きていても、「もう金輪際、このような問題はくり返さない」とこころに決めて、ただリラックスして状況を「受け入れる」という姿勢をもつようにしてみましょう。そうすることによって、すべての出来事を「カルマを終わりにする」という目的のために使うことができるのです。   私たちはいつでも、自分にとってより幸せな世界に住むことは可能です。自分のこころのちからを使って、またハイヤーセルフの超越したちからにつながることによって、運命の道筋を幸せへと導いてゆきましょう。   「人生のなかで、いったい何が起こるかわからない」とこころを暗くするのではなく、自分のこころを愛と穏やかさで満たし、自分をつねに助け導いてくれるハイヤーセルフという存在にこころを開いて助けを求めてみましょう。   すると、愛という法則に支えられ安全に護られている運命という道を、ハイヤーセルフという頼もしい存在に導かれながら、安全に軽やかに旅をすることができることに気づくでしょう。
ものごとをそのままに、「あるがまま」見ることが幸せにつながります。 そこに自分自身の考えを何もつけ足さないとき、 安らかさや平和が存在するのです。 さて・・・私たちは日々、どれだけものごとをあるがままに、まっさらな状態で見ることができているでしょうか?  あるいは、自分独自のでっちあげである妄想劇場にハマって、自分自身を怯えさせてしまっているでしょうか?  まっさらに見るということは、「あるがまま」に受けとめることです。それは、自分勝手な価値判断やでっちあげをせずに「素のままで見る」ということです。それをただそのままにしておくのです。 「そんなこと、あたりまえじゃないですか? 」と言われそうですが ・・・ あるがままに、でっちあげなしでものごとを見ている人はあまりいません。 それをそのままにして、自分の空想や妄想にひっぱりこまないでいる人は少ないのです。無意識のうちに、私たちはものごとを自分の妄想劇場へとひっぱりこんでしまっています。 たとえば、「今朝、パートナーがとても不機嫌だった。私が何か気に入らないことをしてしまったのだろうか?」、あるいは「さっき同僚に話しかけたのに、無視されてしまった。私は嫌われているのだろうか?」 ・・・ これらはすでに、勝手な「妄想(でっちあげ)」です。 「パートナーの不機嫌」も「私が気に入らないことをした」というのも本当のことではないし、「同僚に無視された」「私は嫌われている」というのも自分が作り出したストーリーにすぎません。  まっさらな見方というのはこんな感じです。「今朝、パートナーはいつもと違うように私には感じられた」、とうことであり、「さっき同僚に話しかけたが、私には彼女の答えは聞こえなかった」ということです。違いがわかるでしょうか? 後者は、そのときに起こった事実のみであり、自分の推測や憶測・でっちあげは含まれていないのです。  私たちにとってものごとを「見ること」ということは、「妄想すること(勝手なでっちあげをすること)」とイコールになってしまっているようです。 なにかを目にするたびに、自分にとっての意味や価値判断を勝手にくっつけて、自分独自のストーリーをでっちあげてしまうことで、妄想劇場が始まってしまいます。 その妄想劇場はたいてい、見捨てられたり、攻撃されたり、拒絶されたり、という悲しいストーリー展開が待ち構えています。  幸せを感じられない人、喜びや安らぎの感覚が乏しい人、不安に支配されている人は、決まって妄想劇場の住人であり、悲しいストーリーの主人公になるのが得意なのです。 何かを目にしようものなら、そこから怒濤のように自分のでっちあげがはじまり、そのストーリー自体に自らが呑み込まれてしまうのです。 ひとつでっちあげをしたら、そこからまた別の架空のストーリーが生まれ、さらにそこからも・・・というように、アタマのなかは事実ではないストーリーでいっぱいになってしまいます。 そうなると、最初に自分が目にしたものごとから、とんでもなくかけ離れたストーリーが捏造されてしまうのです。 そして、その捏造したストーリーについて悩みはじめます。なぜなら、でっちあげ劇場はいつも悲しくつらいストーリーが展開し、そのストーリーがこころを釘づけにするからです。 「私がこんなに悲しいのは、これらのものごとが起こっているせいに違いない?!」と、架空のストーリーを信じてこころを痛めます。 しかしこころが痛むのは、自分が作りあげたストーリーを信じているせいです。自分で自分の首をしめて苦しがっているのです。それしか理由がありません。 不幸の原因は、つねに自分勝手なものごとへの価値判断であり、でっちあげストーリーなので、原因は自分以外にはありえないことになります。 自分のでっちあげ・妄想こそが、自分を傷つける凶器となってしまっているのです。 このような妄想によって自分を痛めつけないために、ものごとを「あるがままに見る」ことを学ばなければなりません。 「あるがままに見る」とは、文字通りまさに「あるがまま」。ものごとについての「解釈」や「価値判断」の一切を停止して、それらを空欄のままにしておくことです。ただ事実だけにとどめておくのです。 つまり、「見る」ということは、そこに何かをつけ加えるのではなく、見たらそれで「はい!おしまい」。それ以上なにも必要はありません。そのままにしておく、ということです。 それが、「あるがまま」を受け入れること、味わいめでること、正しく見ることです。 あるがままに受け入れ、味わいめでることができると、ものごとと自分との間に対立が生まれることがなくなるので、摩擦が起こることもなく、自分自身が安らかで平和になります。 何に対しても「ものを申したい」「コメントしたい」「解釈したい」という気持ちは手放して、すべてをそのまま、「あるがままに」とどめおきましょう。 そのままにすることによって、目のまえのことはただ流れてゆき、自分がありもしない複雑なストーリーに巻きこまれて、あれこれ考え悩むことがなくなります。ムダなエネルギーを消耗することがなくなるのです。 それはまるで、自分自身は岸辺に立って、ただ静かにものごとという川が流れてゆくのを眺めているような感じです。 わざわざ自らが川に飛びこんで、バシャバシャと溺れそうになりながら川の流れと取っ組みあいをする必要はないのです。 川岸に佇んで、ただ静かに流れを見守るという穏やかなこころの状態から、安らかな自分の世界が広がってゆきます。安らぎとは、まさに自分の世界の静けさです。 すべてを安らかに、そのままにしておきましょう。ものごとが流れて行くままにしておきましょう。 そして、そのままものごとに手をふれないでいるとき、宇宙の秩序がすべての面倒を見てくれます。自然にすべてのピースがきれいにおさまり、たんたんと正しく進んで行くというような完全さを見ることができるでしょう。 その安らかさと完全さを体験するために、自分の妄想で自分を混乱させることなく、ものごとをただ起きている事実として「あるがまま 」に見る、という練習をしてみましょう。
自分の顔は、自分のものでありながら自分自身で直接見ることができません。 鏡という道具を使って、はじめて顔を見ることができます。 そして、私たちは鏡に映し出されたその顔を、自分の顔そのものとして受け入れ、信頼しています。 もしその顔に吹き出ものがあればすぐに治療をしますし、顔色が悪ければそれを改善しようと試みます。 顔と同じように、自分のこころも自分では目にすることができないものです。やはり、なにか見るための道具を必要とします。 では、自分のこころを見るためには何を使えばよいのでしょう? それは、顔を見るときと同様に、やはり鏡を使います。鏡を見ることで、その状態を知ることができるのです。 自分のこころを見るための鏡とは何でしょうか? それは自分の外側の「世界や人」という鏡なのです。 自分と向かいあっている世界や人は、まさに自分のこころの状態をそっくりそのまま映しだしてくれる鏡そのものです。 自分が気づいているこころも、気づくことがない無意識のこころも、丸ごと正直に映し出します。 気づいているこころはまだしも、無意識のこころのなかには自分が拒絶してきた怖れや怒り、罪悪感、傷ついた痛みなどが温存されているために、それが鏡に映し出されるとまるで自分とは関係ないもののように感じてしまうこともあるかもしれません。そして、それを嫌悪し、遠ざけてしまうこともあるかもしれません。 なぜ外側の世界や人が自分のこころのすべてを映し出しているのかというと、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じて、「自分」こそがそれを解釈しているので、それはまさに自分自身のシンボルであり、自分が自分そのものを見ていることになるからです。 「人のふりみて、我がふりなおせ」という古くからの教訓がありますが、まさにそういうことなのです。 この世界・人という鏡があり、私のこころのすべてを映し出してくれるからこそ、私たちは自分の顔の吹き出ものに気づいて治療するがごとく、こころの間違に気づいて、それを正すためにこころを変えることができるのです。 そうでないならば、私たちがこころを正すための手がかりがなくなってしまうことになります。 また同時に、私たちのこころにはすべてのものごとに対する答えも存在しています。 それは、自分や人にかかわるすべての問題の解決策となる万能の答えです。 この答えを受け取るためにも、世界や人という鏡を必要とするのです。 直接自分のこころから答えを受け取ろうとしても、「そんなはずはない」「間違っているに違いない」と、疑いや怖れなどの癒されていない考えにすぐさまブロックされ、素直に答えを信頼することができなくなっています。 キラキラと輝くインスピレーションは、すぐさま却下されてゴミ箱に捨てられてしまうのです。  せっかく浮かんできた解決策も、「いや、それはダメだ」「できるはずがない」という否定的な思いに阻まれてしまえば、その導きはまったく無きものになってしまうのです。 自分を確実に導き、問題から救ってくれる答えはすでにそこにあります。 それを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って、確実に受け取ることができるのです。 ところが、私たちは自分の癒しに役立ち、難関から救ってくれる答えを映し出す鏡そのものをあまり信頼していません。自分とは関係のないものとして扱っているからです。 世界や人という鏡を信頼できないのなら、そこからは信用できないような導きしか見つけることができないのです。 「与えるものは、受け取るもの」。私たちはいつでも、自分のこころが決めたものだけを受け取るからです。 自分にとってまさに助けとなる答えを受け取るためには、世界や人という鏡への無条件の信頼が欠かせないことになります。 それは、世界や人を自分勝手な価値判断で歪曲して見ることなく、まっさらな無垢のままに見ようとすることです。鏡をねじ曲げずに、きれいなままにしておくことです。 こころを空っぽにしてそのまま受け入れることは、それをあるがままに味わいめでること、愛することにつながります。 この無防備な信頼があってこそ、同じような信頼度で自分を導き救ってくれる答えが自分に返されてくることに気づくようになります。まさに、世界・人という鏡を通して、必要な答えがタイムリーに映しだされるのです。 安らぎのなかで世界や人を味わいめでるとき、自分のなかにあるすべてに対する答えが鏡のなかにしっかりと知覚されるようになります。 信頼を与えられた鏡は、しっかり正しい答えを輝きかえしてくれるのです。 こころを映し出してくれる鏡をきれいにするというこは、世界や人を価値判断することなく無条件に受け入れて、安らかなおもいであるがままに味わいめでることです。 愛して受け入れることで、まったく同質の贈りものが自分に豊かにもたらされるのに気づきます。 自分の優しさと安らぎのなかで、世界や人という鏡が確かな答えを輝きかえしてくれるのを受け取ってみましょう。
私たちは日々、自分に「つけ足す」ことに忙しくしています。 もっと美しく、もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに、もっと楽しく、もっと充実を・・・もっと、もっと、もっと・・・と。 この世界では「つけ足す」ことこそが幸せをもたらすと信じられているので、人生を通してつねに何かを「つけ足すこと」「補うこと」に労力を費やすことになります。 こどもの頃から、生きるための道具として国語や算数などの知識をつけ足すことにはじまって、今では生きるために必要な知識は十分に身につけたはずなのに、生涯を通通じてつけ足す作業は終わることがありません。 一般教養や趣味の知識にはじまって、マネ活、美容、副業、あの人は知っているのに私は知らないことについてなど・・・つけ足すものにはこと欠きません。 このように、つねに「つけ足す」ことに注意が向いているということは、それはまるで「私はこのままでは足りない不十分な人です」と自分自身に暗示をかけているようなものです。 足りないと信じていれば、何をしても、どこまでいっても結局は足りないということになってしまいます。つけ足そうとする努力は、さらなる不足感を生みだしてしまうのです。 セラピーにおいても勘違いされがちなのは、不十分な「足りない」自分に対して、セラピーを受けて「つけ足す」という考え方です。 しかし、そもそも幸せを感じることができない原因が「足りない」という不足の考えから生じているのであれば、修正するポイントはその「足りない私」「つけ足す必要がある私」という「不足の誤解」をただ取り除いてあげることだけなのです。 私たちのこころというのは、自分が目にするものすべてに魔法をかけてしまうほどの強力な力があります。 まさに、私たちは自分のこころが信じたものを目にするのです。そしてその力は、自分自身さえも欺いてしまうことができるのです。 だから、自分がある考えをいったん受け入れてしまえば、すぐさまそれは自分にとって真実となり、その考えが自分の体験を決定するようになります。 「私は足りない」と信じこんでいれば、どこまでも足りない状況を目にすることになり、足りない体験を楽しみつづけられる、ということなのです。 ものごとは、自分の決意ひとつにかかっているので、「自分が何を信じているか」ということはとても大切なことなのです。 それなのに、私たちは自分がどのような考えを信じているのかについて無頓着になっているがために、自分にかけてしまった不都合な魔法に気づくことがなく、そこから抜け出すことができません。 足りない体験をしているのなら、「足りない」と信じて、自分がそれを紡いでいることにまず気づいてみましょう。 すべての原因であるこころを修正することを忘れてしまうと、自分が生み出した結果にふりまわされ、その結果を補うことに忙しくしてしまうことになります。 このように自分で自分を不自由にしてしまう考えを手放すためには、その考えが「真実であるのか」「絶対にほんとうのことであるのか」をしっかりと見極めることが必要です。 たとえば「足りない」という考えに囚われているならば、ほんとうに自分の人生全般が足りていないのか、あるいは見落として忘れ去られている豊かさはないのか調べてみましょう。 完璧に100% 不足しているということは考えられないので、きっと「この部分は恵まれている」「この部分は豊かだ」という点をいくつか見つけられるはずです。 そうしたら、不足よりも、そのような満ち足りている部分をしっかりと味わい、感謝のこころをもってみましょう。感謝をすることで、「足りている」という感覚を呼び起こすことができます。  先ほども書いたように、自分自身の癒しは「何かをつけ足して欠陥を修正する」ことではなく、「もともと足りなくなどないから、なにひとつ頑張ってつけ足す必要はない」という、自分に対する「完全さ」に気づき、それを受け入れることなのです。 目を閉じてリラックスし、深い呼吸をしながらこころを鎮めてあげると、不思議とこころはなにも欲しがらなくなります。外へ外へと向かうことをやめ、自分のホームへと戻ってきた安心感で、こころろは安らぎのなかで本来自分に備わっている満たされた状態を取り戻すことができるからです。 「満たされた感覚」はすでにこころの中に存在しているのです。外に探しに行くことがなければ、それに気づくことができます。  こころが「足りない」という思いを信じなくなることで、自然と「足りない」という現象は解決されてゆきます。 また、日々の生活のなかで、感謝できることを見つけようとする姿勢によって、自分に与えられている豊かさを受け入れてゆくことができるようになります。 そうするうちに、「足りない」とか「足りてる」という考に囚われることなく、すでにこころのなかに存在する「満ち足りた感覚」とつながることができるようになります。 また、自分自身を豊かさの源として自覚し、自分の持てるもの、たとえば知識とか笑顔とか、優しさ、人への奉仕などを、自分からまわりに与えることで、自分自身が「十分に足りている」ということを受け入れることができるようになります。 よく「being」と「having」は同じことを意味するといいますが、まさに自分が存在としての豊かさを表現するとき、自分はすでにそれを持っていることを知ることができるのです。 何かをつけ足すことに忙しくして外へ外へと走りまわることよりも、まず内側へと向かい、静かに自分のこころとつながり、自分の中にすでに存在している「満ち足りている安らぎの感覚」を取り戻し、それをまわりと分かち合ってみましょう。 きっと、自分の being が豊かな having を生みだしてくれるのを目にすることができることでしょう。
不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはそのことばかりについて考えてしまう傾向があります。 「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・云々」「身体の調子がおかしい。これ以上ひどくなってしまったら、将来はどうなる・・・云々」 私たちは考えていれば問題を放置することなくかかわっているように感じるので、少し安心できるのです。 しかし、考えは未来へ未来へと前のめりに広がり、ありもしないストーリーを紡ぎだすことで不安をさらに増大させてしまいます。 ということは、「あれこれ考える」ことじたい解決にはまったく役立っておらず、逆に不安だけをあおってしまっている、ということになります。 そもそも不安な気持ちがこころに浮上してきたということは、それをそのまま感じて、受けとめて、終わりにしなければならないのです。 それらの感情は、自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、こころの奥深くに抑圧されて無きものにされてきました。 しかし、これらの感情こそが自分が目にする世界へと投影され、自分にとって障害物となる問題へと姿を変えてしまいます。 まさに、自分の人生の流れをはばんでしまう原因となるのです。 これらの拒絶されてきた感情は、何度々々も浮上することによって受けとめてもらうことを求めています。 それら受けとめることこそが、自分の目のまえに立ちはだかる問題を消滅させることにつながるからです。 感情を受け止めるとは、あれこれの価値判断やストーリーをくっつけることなしに、ただそのままの感じを受けいれて感じてあげることです。 そもそも私たちは、「感じる」ということに慣れていないようです。 なぜなら感じはじめると、その感じに呑みこまれてしまうような怖れを感じるので、それをさけるためにすぐさま感情を思考へとすり替えてしまいます。 あまりにも思考依存症に陥っているので、あるがままの感情を受けいれることをすっかり忘れてしまっているのです。そのために、強い感情が浮上するとキケンきわまりないことが起こっているように感じて、あるがままに感じるこころはすぐに閉じてしまいます。 いつも考えでアタマをいっぱいにすることで感じる余地を残さずにいれば、何も感じることがなく安全でいられる!と信じてしまいます。たとえ、その思考が自分を幸せにしないものであっても、感じるよりは思考する方が安全だと勘違いしてしまうのです。 しかし、ある感情を感じることをさけるということは、幸せを感じることもできなくなってしまうのです。 先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。 彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去って行きました。そして、五回めの結婚にいたりました。 そんな彼のひとことは、「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!自分の気持ちを感じてしまったらおしまいだ」という感じのものでした。 止まることを知らない回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまって安らかな時間をもつことはないのです。 立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならなくなるのです。 ただただ動き回る状態はある意味、薬物中毒のような状態であり、自分をフラフラにすることによって何もわからなくして、感じていることを誤摩化してしまいます。 ほんとうの意味での幸せとは、こころが静かに安らいでいることです。 安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分をフラフラにしていては見ることができない世界です。 そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱してしまうこころのなかの抵抗勢力である強い感情を無効にしてゆくことが必要となります。 そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力である感情を受けいれて、消し去ります。無条件に受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失って、ただ消滅してゆくからです。 自分のなかにどのような感情が湧きあがってきたとしても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめてみましょう。 不安や怖れ動揺が顔をだすと、私たちはすぐにそれらに言葉をくっつけることで、感じることをやめて考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」「何が間違った」というように・・・。 これは、脇道にそれてしまっているのです。「感じる」のではなく「考える」というルートに入ってしまいました。 そうではなく、なにひとつ言葉をつけることなく、ただその感情をありのままにして、感情に感電するがごとく感じることを自分にゆるしてみましょう。ただ、その感情とともに存在してみましょう。 言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でも「動揺」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・とう感じだけなのです。怖いものではありません。 言葉というものに逃げこまずに、正面から正々堂々と、丸ごと感情に自分を開いて感じてみましょう。 抵抗なく受けいれたものは、自分自身のなかでひとつになり、ようやく姿を消すことができるようになります。 そのためには、言葉を減らして静かになり、いったい自分がなにを感じているのかに敏感になってみましょう。 これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、安らかさや穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。 こころが静かだと、目にうつるものも穏やかになってくることでしょう。こころと世界の良い相関関係が起こるので、こころも世界もともに癒されてゆきます。 感情に怯えて逃げていたときとは違う世界、もっと穏やかで、安らぎに満ちて、安心できる、優しさにあふれた世界、それを自分も目にすることができることを知って、自分の感情と向きあうことをはじめてみましょう。
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