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小山ナザレン教会

Author: 小山ナザレン教会

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栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。
163 Episodes
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2026年3月15日 四旬節第4主日説教題:香油の香りで満たしてください聖書: ヨハネによる福音書 12:1–8、イザヤ書 43:16–21、詩編 126、フィリピの信徒への手紙 3:4–9説教者:稲葉基嗣 -----マリアの行動は当時の人々にとっても異様で、いくつもの点で驚くべきものでした。彼女が用いた油は、ナルドの香油と呼ばれています。それは、およそ1年分の賃金に相当するものでした。彼女はそんな貴重な香油をイエスさまの足に注ぎ出しました。その際、彼女は髪をおろし、その髪でイエスさまの足についた香油を拭い始めます。彼女の行動はまるで、奴隷のような行動でした。なぜマリアはこのような行動を起こしたのでしょうか。やはり関係があるのは、この出来事の前に起こったことです(11章参照)。彼女の兄弟であるラザロが病気で亡くなったからです。イエスさまは、死者の中からラザロをよみがえらせてくださいました。きっとマリアは、イエスさまへの感謝をどうにかして伝えたかったのでしょう。それは、その場にいる人たちにとって、無駄なことのように見えたと思います。実際、イエスさまの弟子のひとりである、イスカリオテのユダは言いました(5節)。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」そんな正論を耳にし、イエスさまは彼女の行動をどのように受け止めたでしょうか。イエスさまは言います。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。」(7節)イエスさまは、自分の死にマリアが備えてくれたと受け止めました。葬りの準備のために油が注がれる時、そこに居合わせるのは家族や親戚だけです。そう、イエスさまは、血縁や社会的な立場を越えて、その場に集まっていた人たちを家族として受け止める宣言をされたのです。マリアも、マルタも、ラザロも、弟子たちも、そして、あのイスカリオテのユダさえも。主イエスにあって、家族とされている。それは何よりも、私たち、教会の姿です。主イエスにあって、結ばれて、私たちは共に生きることができる。家族のように、時には家族以上に、助け合って生きることができる。私たちは何よりも、イエスさまから損得勘定抜きの愛情や恵みを受けています。罪を赦され、救いの希望を与えられ、復活の命に生きる望みを与えられています。ですから、マリアが注いだような高価な香油をイエスさまから既に注がれているのは、何よりも、私たちの側です。ですから、私たちは主イエスにあって、愛や憐れみを共に生きる人たちに、ナルドの香油のように注ぐことができるはずです。イエスさまが愛に満ちたナルドの香油の香りをみなさんを通して、みなさんの日常に満たしてくださるはずです。
2026年3月8日 四旬節第3主日説教題:この口から呪いの言葉を消してください聖書: 哀歌 1:12–22、ガラテヤの信徒への手紙 3:6–14、詩編 79、ルカによる福音書 6:43–45説教者:稲葉基嗣 -----この詩には、希望に溢れる言葉はほとんどありません。詩人が綴るのは、エルサレムの都がバビロニアの軍隊に攻め落とされた経験です。なぜ自分たちの都は破壊され、命を踏みにじられることになったのか。詩人にとって、自分たちの神に対する罪が原因だと思えてなりませんでした。その一方で、そんな風には受け止めきれない。複雑な感情を詩人は抱えました。だから自分たちの過ちを認めながらも、詩人は神に向かって訴えました(20節)。詩人は最後に、呪いの言葉を添えることで、最初の詩を終えています。彼らも懲らしめてください。私の背きの罪すべてについて私を懲らしめられたように。(22節)この呪いの言葉を発した詩人自身は、エルサレムの破壊を経験した被害者です。破壊と殺戮の記憶が鮮明すぎて、希望の言葉など紡ぐことができない。何とか乗り越えていくために、この詩人がたどり着いたのが、神に向かって哀しみを率直に伝え、敵への呪いの言葉を吐くことでした。哀歌に記されているこの呻きや叫び声に似たこの祈りは、耐え難い出来事を経験した時に人間誰もが経験するような現実といえるでしょう。この世界には、呻きや嘆きといった叫び声を引き起こすことが数多くあります。そして、呪いの言葉を引き起こすような出来事が悲しいほどにたくさんあります。哀歌の詩人は、私たちが心で覚える怒りを、沸き起こってくる呪いの言葉を神の前で吐き出し、枯れ果てさせる。そのような形でこの詩人の祈りは、私たちに寄り添おうとしています。「神に向かってその呪い言葉を吐き出せ。その怒りを、呻きを吐き出せ。神はあなたの抱えるそのすべてを受け止めてくれるに違いないから。」哀歌を後の世代へと受け渡してきた人々の切実な声が聞こえてくるかのようです。もちろん、この口に呪いの言葉が湧き上がらないことこそ多くの人の願いでしょう。でも、私たちの抱える罪や悪が原因となって、共に生きる人たちの間に、そしてこの世界に、嘆きや哀しみ、呻きや呪いの言葉を引き起こしています。使徒パウロはイエスさまが十字架にかけられて死んだことについて、キリストは、私たちのために呪いとなった(ガラテヤ3:13)と書いています。イエスさまが呪われた者とみなされ、十字架の上で死んだのは、私たちのこの口に呪いの言葉を引き起こす、あらゆる罪や悪の支配から、私たちを救い出すためでした。この世界全体から、人類全体から、神は呪いの言葉を消すために、イエスさまを私たちのもとに送ってくださったのです。
2026年3月1日 四旬節第2主日説教題:傷ついた私たちを見てください聖書: 哀歌 1:1–11、ヘブライ人への手紙 2:10–18、詩編 86、マタイによる福音書 9:35–38説教者:稲葉基嗣 -----この哀歌という作品には、瓦礫の山となったエルサレムを見つめ、哀しみ、嘆く、生き残った人たちの声が記錄されています。その際、詩人は擬人化表現を用いてエルサレムの都を人間のように描いています。エルサレムの都や、そこに住む人々がどれほど深く傷つき、打ちのめされ、蹂躙され、破壊されたのかを描こうとしています。エルサレム崩壊の出来事の原因は一体どこにあるのでしょうか。哀歌を綴った人々は、因果応報的に自分たちに原因があると考えました(5, 8節)。もちろん、因果応報的思考に哀歌が完全に支配されているわけではありません。自分たちが神の前に罪を犯したことを悲しみながらも、心では納得がいきません。色んな感情が沸き起こっています。だからでしょうか。エルサレムの人々の叫び声を詩人は記録しました。今、どれほど自分たちが全く無価値な存在になってしまったのか(11節参照)。その姿を見てください。傷ついた自分を見つめて、心に留めてください(9, 11節)。そして、助けてください。慰めを与えてください。詩人は神に訴えています。尊い人間の命を無価値にし、哀歌に記録されているような叫び声を生み出す。そんな人間の悪意や罪、過ちは、今も私たちの世界の現実に、横たわっています。だから、哀歌の言葉に耳を傾ける時、私にはこの世界が求めている、神への訴えに聞こえてなりません。暴力によって命が無価値にされているこの世界を憐れみ、見つめてください。傷ついた私たちや、この世界を見つめる時、神は一体何をされたのでしょうか。ヘブライ人への手紙が伝えるのは、イエスさまが傷ついている姿です。命を蔑ろにし、無価値なものとして人を取り扱ってしまう、私たちの抱える罪に終止符を打つために、傷つき、命を失ったイエスさまの姿をこの手紙は伝えます。十字架にかけられたイエスさまこそ、究極的に、すべての人のために無価値な者とされた存在でした。それは、神の側が自分の価値のすべてを捨て去ってまで、私たちを愛し抜き、救いの手を伸ばし続けていることを逆説的に伝えるものでした。無価値ではない。いや、決して無価値なものにさせない。神は、身を挺してまで、私たちにその事実を告げてくださっています。そんな力強い神の声は、決して私たちが独占すべきものではありません。神は全世界に対して、すべての人に対して、この強い願いを持っているのですから。誰も無価値にはさせない。誰の価値も奪わせない。それは私たちの信仰の旅路の大きな指針であり続けます。
2026年2月22日 四旬節第1主日説教題:主にある謙遜に生きる聖書: フィリピの信徒への手紙 2:1–11、イザヤ書 45:23–25、詩編 98、ヨハネによる福音書 13:12–17説教者:稲葉奈々 -----パウロがフィリピの教会へと宛てた手紙は、フィリピ教会との連携による深い喜びと励まし溢れた文章です。日本では謙遜の姿勢がある種の美徳と捉えられていますが、当時のローマ社会では、むしろへりくだる姿勢を見せるときに弱さや敗北の象徴と認識され、避けられる傾向がありました。しかしパウロはキリストにあるへりくだりの姿を私たちに示し、自らも獄中にありながら、キリストにならった生き方を勧めます。2章6~11節の「キリスト賛歌」においては、神であられたキリストが、その在り方に固執せず、ご自分を無にして人の姿となられ、十字架の死に至るまで己を低くしたことが語られます。十字架刑はただの処刑ではなく、ローマ帝国において最も屈辱的で残酷な刑罰であり、一連の刑罰が見せしめの要素も含んでいたことから、社会的に抹殺されることをも意味していました。当時の人々が思い描く威厳ある神とはかけ離れた救い主の姿でしたが、パウロはむしろ、これが私たちのあるべき姿だと語ります。パウロ自身もまた、投獄という苦難の中にありながら、それを福音の前進の機会として受け止め、今できることを全力で行い、喜びをもって教会を励まし続けました。そんなパウロの語るへりくだりとは、私たちが思い描くような自己否定や、消極的な姿勢ではなく、むしろ自分たちの賜物を用いて、愛をもって他者に仕える姿勢です。見返りや評価を求めず、キリストにならって己を低くするとき、私たちは心から他者を愛するものへと変えられていきます。そして教会が、思いをひとつにして他者に仕える共同体となっていきます。世の価値観とは異なる、キリストの光を現す存在となるのです。だから私たちは徹底的なへりくだりを持って、与えられた賜物を用いて互いに仕えてゆきましょう。私たちのために最も低くなられたキリストが私たちを常に励ましておられます。
2026年2月15日 公現後第6主日説教題:主イエスの死は誰のため?聖書: ヨハネによる福音書 11:45–57、イザヤ書 49:6–13、詩編 95、コロサイの信徒への手紙 1:18–20説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまの行いのすべては、人びとの間に命を吹き込むものでした。けれども、中には正反対の反応をする人たちもいました。最高法院の人びとは、イエスさまの行動が原因となって、ローマ人が自分たちを滅ぼすことになるのではないかと、恐れています。大祭司カイアファは、「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(50節)と言って、イエスさまを排除することを提案します。カイアファによれば、暴動を防ぎ、平和を保つためには、この排除は、必要悪だというわけです。人々はイエスさまの命を奪い、自分たちの滅びを免れようとしました。ヨハネは、カイアファの言葉を預言として受け止めて紹介しています。イエスさまの死は、国家や民族を救うためのものではありませんでした。そうではなく、一人ひとりが主イエスにあって神と結びつき、命を得るために、イエスさまは命を落とされました。民族という枠に捕われない。性別も、年齢も、社会的な立場も関係ない。政治的な主張や信念も関係ない。能力や財産も関係ない。文字通りすべての人が主イエスによって実現した、神の救いの対象です。一部の力ある人たちだけが得をすれば良いというような考えの下で、弱い立場に立たされている人たちが切り捨てられていく。すべての人に、命を吹き込み、救いの道を開くために、イエスさまは十字架の上で息を引き取り、犠牲となられました。何かを犠牲にすれば、すべてが丸く収まる。そういったあらゆる犠牲に対して、イエスさまは終わりを告げておられます。命を奪い合う構造に終わり告げようとしておられます。そんなイエスさまが、私たちに向かって手招きしている道は、私たちが豊かな命に生きることを選び取ることができる道です。まさに主イエスの死は、きょうを生きる私たちのためにあります。
2026年2月8日 公現後第5主日説教題:「出て来なさい」と主イエスは叫ぶ聖書: ヨハネによる福音書 11:38–44、創世記 8:13–19、詩編 42、ローマの信徒への手紙 6:4–11説教者:稲葉基嗣 -----「ラザロ、出て来なさい」(43節)。イエスさまが叫んだ先は、ラザロのなきがらが収められているお墓です。ラザロの姉妹であるマルタは、「もう臭います」とイエスさまに伝えます。マルタにとって、ラザロの死こそが決して覆ることのない現実でした。お墓に向かって叫ぶイエスさまの姿は、そんなマルタとは対照的でした。死の先に、復活の命がある。イエスさまはそのような確信をもち、お墓の前で神に感謝の祈りをし、ラザロの名前を呼びました。聖書が希望として証言し、教会が信じていることは、身体の復活です。私たちの常識では、死を乗り越えることは不可能です。けれども、神の愛が私たちの生涯を死に至るまで包み込み、死を迎えてもなお、神の愛と憐れみはすべての人に注がれ続けます。「出て来なさい」と呼びかけられ、私たちは復活の命を与えられる。そんな日がすべての人に訪れることをラザロの復活を通して、イエスさまは私たちに示してくださいました。また、将来の希望は、今を生きる私たちに命をもたらします。私たちの人生に、私たちの行動に、この世界を見つめる私たちの存在に、神によって与えられる命が入り込んできています。主イエスの十字架によって、神の愛を受け、罪を赦されている私たちは、主イエスにあって、死から命へと既に移されています。死から命へと移り、主イエスにある命をしっかりと掴んでほしいと、神は願っています。お互いの命を喜び、慈しみをもって見つめる。良いものを分け合い、与え合う。そのために、イエスさまは「出て来なさい」と呼びかけておられます。主イエスにあって、復活の命を手にし、その命の豊かさを分かち合うために、「出て来なさい」。これがイエスさまがきょうも、私たちに向かって叫び、呼びかけていることです。
2026年2月1日 公現後第4主日説教題:イエスと共に作り変える聖書: マルコによる福音書 11:15–19、イザヤ書 56:1–8、詩編 146、コロサイの信徒への手紙 2:9-11説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 2年) -----「宮きよめ」と呼ばれる今日の聖書箇所は、イエスの怒れる姿が印象的に描かれています。10章から読んでみると、イエスはエルサレム入城の翌日ではなく、その前日にすでに神殿の様子を見ており、一晩考えたうえで翌日に宮きよめを行っていました。このことから、宮きよめは感情的な暴力ではなく、理性的で意図的な行動であったことがわかります。イエスの批判の対象は、神殿で行われていた商売そのものではなく、それを正当化していた神殿の制度と権力構造でした。献金や捧げ物のために特定の貨幣への両替や動物の購入が強いられ、利益を生み出す仕組みが出来上がっていたために、「すべての民の祈りの家」であるはずの神殿が、一部の人々の利益のために利用されていたのです。イエスはイザヤ書の言葉を引用し、神の家の本来の姿を人々に思い起こさせようとしました。この出来事に対し、祭司長や律法学者といった権力者たちは、自分たちの立場を揺るがすイエスを恐れ、排除しようとします。一方で群衆は、イエスの教えを即座に受け止めました。私たちもまた、不公平や理不尽を含んだ社会の「当たり前」に慣れ、それに加担してしまうことがあります。しかしイエスは今も、私たちの内面に宮きよめを起こし、この世界でどのように生きていくのかを問い直し続けておられます。今この社会で生きる私たちは、キリストにならう生き方に招かれています。神の愛を根底に据えながら、弱い立場に置かれた人々と共に生き、ときには理不尽に声を上げていく存在として今も常に招かれているのです。恐れや戸惑いが伴うとしても、私たちは今日開いた御言葉に立ち返りましょう。イエスさまの宮きよめの姿を思い起こすとき、主に従ってまっすぐに行動したイエスさまの姿が、私たちをいつも励ましてくださるはずです。
2026年1月25日 公現後第3主日説教題:主イエスの涙はどこで流れる?聖書: ヨハネによる福音書 11:28–37、イザヤ書 25:6–10、詩編 70、ローマの信徒への手紙 12:9–15説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまが訪れたベタニアの村は、大きな悲しみに包まれていました。その原因は、イエスさまの友人である、ラザロが4日前に亡くなったことでした。このような人々の悲しみやそれを引き起こしたラザロの死に触れた時、イエスさまは涙を流しました(35節)。人々がラザロの死を悲しむ様子を見て、イエスさま自身も様々な思いを抱き、心をかき乱されて、涙を流したのではないでしょうか。涙を流すマルタやマリア、そしてベタニアの人々に復活の希望を抱いてほしいと願いながらも、イエスさまは彼らの悲しみに共感を覚え、涙を流しました。この時、涙を流したイエスさまが見つめる先にあったのは、ラザロの墓です。それは、人々が「来て、ご覧ください」と言って、イエスさまを案内したからです。そこはまさに、その時の彼らにとって、深い悲しみと苦しみのある場所でした。そして、諦めと敗北の象徴のような場所でした。どうかそのような場所に来て、見てくださいと、彼らはイエスさまに伝えています。イエスさまが流した涙は、悲しみだけに支配された涙ではありません。また、諦めや落胆の涙でもありません。ラザロの命を諦めることができない。そんな愛情に溢れた涙でした。その生命が損なわれることを悲しみ、苦しむほどに愛してやまないラザロに命をもたらすために、イエスさまは来て、ラザロの墓を見つめました。「来て、見てください」と、涙を流しながら、悲しみ、悩みながら、イエスさまにお願いするのは、私たちだって同じです。私たちが涙を流し、失望する場所に、イエスさまが訪れてくださることは、私たちの心からの願いだからです。けれど、それは私たちの願いである以上に、イエスさまの願いです。私たちが涙する場所は、私たち以上に、イエスさまが愛を注いでおられる場所でもあるからです。けれども、その一方で、イエスさまが涙を流していることを私たちが気づいていないことだってたくさんあるでしょう。私たちが気づかないでいる、誰かの悲しみや苦しみがあります。そんな場所にも、イエスさまは来て、一緒に涙を流しておられます。神が私たちに勧めていることは、泣く者と共に、泣くことです(ローマ12:15)。きょう、イエスさまの涙は、どこで流れているのでしょうか。どうかイエスさまが誰かと共に涙を流していることに気づいたとき、勇気をもって一歩踏み出し、共に泣く道を選ぶことができますように。
2026年1月18日 公現後第2主日説教題:過去が及ぼすもの、未来が与えるもの聖書: ヨハネによる福音書 11:17–27、イザヤ書 43:16–20、詩編 121、ペトロの手紙 一 1:3–9説教者:稲葉基嗣 -----過去は、私たちに大きな影響を与えます。私たちがそれぞれ過去に経験したことは、私たちの人格や生き方、そして物の考え方などを大きく形作っています。でも、過去の出来事や経験が常に良い形で働くわけではありません。過去の辛い出来事は、人の心を暗くします。時には、長い間消えない傷を与えます。それは、ヨハネ福音書の物語の中に登場する人々の間でも見られることです。ベタニアの村とマリアとマルタが、ラザロの死に悲しむ様子をヨハネは描きます。ベタニアに到着したイエスさまの顔を見ると、マルタはイエスさまに言いました。「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)もしイエスさまが早く来てくれたならば、状況は変わっていたのではないだろうか。それは、自分の兄弟であるラザロを失った、マルタの悲しい叫び声でした。イエスさまは、そんな彼女の視点を別の場所に移そうとされました。イエスさまはマルタに「あなたの兄弟は復活する」(23節)と語りかけます。イエスさまは、過去ではなく、また現在の悲しみでもなく、未来に目を向けるようにと、マルタに促しました。過去の後悔、苦悩、悲しみが私たちのすべてを決定づけるのではありません。私たちは復活の命にあずかる日、天のみ国へとたどり着く日へ向かっています。復活の命は何よりも、神が私たちを愛し、決して見捨てないという、神からの永遠の愛のしるしです。「あなたは神に心から愛されている、尊い神の子どもだよ。」復活の命にあずかり、天のみ国に生きる希望は、そんな風に未来から現在の私たちに向かって、力強く語りかけています。そんな未来の希望にしっかりと目を向けるために、イエスさまは自分を見つめるようにと、伝えました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(25節)それは、復活の命を私たちに与え、私たちの命を豊かなものとするために私たちのもとに来てくださった、イエスさまを信頼してくださいということです。この希望を受け止める時、私たちを規定するものは過去だけではなくなります。復活の命にあずかる希望こそが、私たちを決定づけます。それは、私たちが過去に経験した、どんな傷も、悲しみも、悩みも、すべて主キリストにあって、回復へと向かっていく希望となっているからです。ですから、私たちは過去の出来事に留まり続ける定住者ではありません。神に愛されながら、天に目を向けて、天の御国を目指して歩き続ける旅人です。
2026年1月11日 公現後第1主日説教題:希望なき場所に訪れる友聖書: ヨハネによる福音書 11:1–16、ヨブ記 2:11–13、詩編 133、ヤコブの手紙 2:21–23説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまにはベタニアに、マリアとマルタ、ラザロという友人たちがいました。ある時、イエスさまはラザロが病気であるという知らせを受けましたが、イエスさまはベタニアへすぐに旅立たず、同じところにとどまったままでした。でも、その2日後に、イエスさまは弟子たちにラザロのもとへ行くと言い始めます。イエスさまは思いもよらぬことを口にしました。「ラザロは死んだのだ」(15節)。この物語は、病気で亡くなったラザロをイエスさまが生き返らせて終わります。ラザロのもとへ行って、彼を生き返らせて、命を与えることがイエスさまの心のうちにあったのでしょう。でも、それなのになぜイエスさまは、すぐさまラザロを失って悲しむマリアやマルタもとへ出向くことを選ばなかったのでしょうか。それは、ラザロの家族や友人たち、またベタニアの村の人たちがラザロの死をきちんと受け止める時間を作るためだったのではないでしょうか。イエスさまは、マルタやマリア、ラザロの友人たちやベタニアの人たちがラザロの死を悲しむ時間を奪いたくなかったのかもしれません。出発を2日間遅らせることによって、誰もが逃れることができない死を突きつけられる期間をイエスさまは延ばしたといえます。でも、そんな死に対する恐れや、死の前に対する無力感を味わったからこそ、ラザロの復活に大きな喜びと慰めを彼女たちは見出すことができたと思います。この物語は、死という圧倒的に希望がなく、悲しみや絶望にあふれている場所に、イエスさまが復活の命を携えて、訪れてくださったことを伝えています。その際、イエスさまはラザロにとって、またマリアやマルタにとって、彼らを心から愛する友として、ベタニアへと向かっています。イエスさまは、すべての人の友となるために、私たちのもとに来てくださいました。それは、私たちにとって、大きな驚きです。神の子であるイエスさまが、私たちの友となってくださっているのですから。死が圧倒的に支配している場所に、命をもたらすために訪れてくださったように、イエスさまは私たちが希望を失う場所に訪れ、共にいてくださる友です。イエスさまは私たちにとって、どんなに希望のない場所であっても、決して見捨てずに一緒にいてくださる友です。それは、私たちがこの地上で経験する、あらゆる苦しみや悲しみにおいても、そして死の瞬間においても、共にいてくださることを意味します。イエスさまは、私たちといつも一緒にいて、希望のない場所でこそ、希望を手渡してくださる友です。
2026年1月4日 降誕節第2主日説教題:ナザレのイエスと共にある旅聖書: マタイによる福音書 2:13–23、創世記 26:15–25、詩編 46、ローマの信徒への手紙 12:17–18説教者:稲葉基嗣 -----私たちの会は、ナザレン教会という名前の世界教会に所属しています。ナザレン教会は、ナザレ出身のイエス・キリストの教会という意味です。社会の中で苦しみ、弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、手を差し伸べたこのナザレのイエスのように、自分たちも、人を愛したい。そんな願いがこのナザレン教会という名前には込められています。イエスさまは、ベツレヘムで生まれましたが、すぐにナザレには戻れませんでした。ユダヤの王ヘロデが、イエスさまを殺そうとしていたためです。そのため、イエスさまの家族は、難民としてエジプトに身を寄せました。彼らは安住の地を持たずに生活をしていたといえます。先の見えない旅をイエスさまはその誕生の時から強いられていました。ある程度時間が経ってから、イエスさまの家族はナザレの村へやって来ました。マタイにとってナザレは、ようやく身を寄せることができた安全な場所でした。けれども、ナザレが永遠の住まいになるなんて保証はどこにもありません。そう思うと、故郷のナザレだって、一時的な住まいともいえます。イエスさまの家族は安心した居場所を持たない、旅人のような家族でした。それは何も、イエスさまやイエスさまの家族だけの経験というわけではありません。誰もが、この地上においては、彼らのような旅人であるはずです。だって、私たちの故郷は天の御国にあるからです。今はまだたどり着かないけど、やがて必ずたどり着く天の御国に、私たちは思いを寄せながら、この地上での旅を続けています。イエスさまはその生涯の初めから、まさに旅人でした。不安定で、行き先の見えない日々をイエスさまは家族と一緒に過ごしました。イエスさまがそのような境遇を経験したのは、イエスさまがまさに、すべての人と共にあろうとしたからです。私たちが天の御国へと向かう、この旅の途中で経験する、あらゆる困難を私たちと共にするためにイエスさまは私たちのもとに来てくださいました。この一年も、私たちの地上での旅は、良いことも悪いこともあるのでしょう。そんな私たちにとって、確かなことがふたつあります。ひとつめは、私たちの旅は天の御国へと必ずたどり着く旅であるということです。ふたつめは、その旅の同伴者はイエスさまと教会に集う仲間たちであることです。イエスさまは私たちとどんな時も一緒にいるために来てくださいました。そして、私たちはイエスさまが私を愛し、慈しみ、憐れんでくださっているように、愛し、慈しみと憐れみの心をもってお互いに手を取り合って旅を続けましょう。
2026年1月1日 元旦礼拝説教題:主イエスの焼き印を帯びて聖書: ガラテヤの信徒への手紙 6:17–18説教者:稲葉基嗣
2025年12月28日 降誕節第1主日説教題:笑い声が響く世界であるように聖書: マタイによる福音書 2:13–18、出エジプト記 1:15–22、詩編 146、コリントの信徒への手紙 二 1:3–7説教者:稲葉基嗣 -----イエスさまの誕生は、ヘロデ王には喜ばれませんでした。彼は自分の地位が失われることを人一倍恐れていた人でした。彼はユダヤの王として生まれた、という幼子を探し出して殺そうとしました。彼は、ベツレヘムとその周辺から2歳未満の男の子を探し出します。そして、自分の兵に命じて、その子たちを一人残らず殺してしまいました。愛する子どもたちを失ったことで、その親たちは泣き、叫んでいます。マタイは預言者エレミヤの言葉を用いて、彼らが悲しむその様子を描いています。聞こえてくるのは、親たちの悲しむ泣き声。神よ、なぜですかと叫ぶ声。感情の行き場のない怒りを必死で押し殺すようなうめき声でした。この時、イエスさまの家族はこのような泣き声を上げる必要はありませんでした。神が天使を用いて、エジプトへ逃げるようにと彼らに伝えたからです。果たしてこれで物語はハッピーエンドなのでしょうか。そんなことありませんね。だって、何の罪もない子どもたちが殺されてしまったのですから。マタイは、幼子が虐殺されるこの出来事に関してはあくまでも報告に留めています。そこに、神の積極的な介入をマタイは認めていません。エレミヤの語ったことが起こってしまったのは、神が願ったからではありません。人の命を奪ってまで自分の地位を守ろうとする、ヘロデの罪こそが原因でした。この出来事のように、人間の罪や過ちが、この世界に悲しみの声を広げていくことは、今も変わらずに起こり続けています。クリスマスの物語は、イエスさまの誕生の後に、このような悲しみの物語を紹介することを通して、私たちのことを単に喜ばせてはくれません。この世界に悲しむ声や涙に溢れた叫び声が溢れている現実を思い起こさせます。私たちが抱える悲しみのただ中に、イエスさまが来たことをマタイは伝えます。それは、悲しみを引き起こしてしまう、私たち人間の罪を赦すために他なりません。私たちの日常に、主キリストにあって、喜びと感謝と笑顔を与えるためです。クリスマスを迎えた後だからこそ、私たちはより一層強く願いたいと思います。私たちの日常も、私たちの生きるこの世界も、人間の罪や過ちによって、たくさん傷つき、損なわれ、歪みを持ち、悲しみに溢れているかもしれません。でも、そのようなところにこそ、イエスさまが来て、神が共に居てくださっている。このことが私たちにとっての大きな希望であり、慰めです。だって、私たちが涙を流し、悲しむ場所が広がっていく以上に、主キリストにあって、癒やしや喜びや平和が広がっていくのですから。笑い声が主イエスにあって、与えられていくのですから。
2025年12月24日 イブの祈り説教題:主イエスを王として迎える聖書: マタイによる福音書 2:1–3説教者:稲葉基嗣
2025年12月21日 待降節第4主日説教題:あの夜、輝く星が示したように聖書: マタイによる福音書 2:1–12、創世記 1:14–19、詩編 100、ヘブライ人への手紙 1:1–4説教者:稲葉基嗣 -----古代の人々にとって、夜空の月や星は、様々なことを教えてくれました。旅人たちにとって、夜空の星は方角を知る上で重要なしるしでした。また、星の動きは月や太陽と共に、時間の流れを教えてくれました。きっと現代に生きる私たちよりも、星の動きが日常に与える影響に対して、古代の人々はより敏感であったと思います。夜空の星が人々の日常に大きな影響があると考えたからこそ、占星術の専門家たちが古代世界には存在しました。彼らは星を観察し、様々な文献を紐解きながら、星の位置を解釈しました。星の動きや配置が、自分たちや国の運命を伝えると、彼らは考え、研究をしました。こういった占星術が盛んに行われていた地域から、1,400km以上もの旅をして、占星術の学者たちはユダヤにまでやって来ました。なぜ彼らはユダヤ人の王の誕生をお祝いしに行ったのでしょうか。小国の王の誕生のお祝いに、片道1ヶ月半以上の時間や旅のために必要な財力を費やそうとするでしょうか。きっとユダヤの王の誕生を知らせる星の輝きやその星の配置が、彼らの探究心を刺激するような、とても目立つものだったのでしょう。この星の輝きの意味を知るために、彼らはユダヤの新しい王に会わなければいけないと思ったのでしょう。古代の人々にとって、王の誕生は時代の移り変わりを示すものでした。ユダヤ人という力のない、目立たない人たちの王として生まれてくる子ども。そんな子どもが、もしも時代の移り変わりを示すのであれば、驚くべきことです。事実、博士たちがこの時に出会った、主イエスの誕生は、大きな時代の変化でした。でも、それはわかりやすく見える形で訪れたものではありませんでした。神の子であるイエスさまが人となって、私たち人間の間で生活をしました。それは、イエスさまのそのような姿を通して、神が私たちといつも共にいることを神が教えるために、神の側が引き起こした変化でした。遠くの方で輝く星のように、神は遠い場所にいる方ではありません。イエス・キリストの誕生を通して、神が明らかにしたのは、神が私たちと共にいるということです。神が私たちのことを遠くから眺めているのではなく、近くで、一緒にいてくださる。神は人生のあらゆる瞬間を分かち合ってくださる。喜ばしい時も、苦しい時も。そんな私たちやこの世界の傷ついている部分に目を向ける度に、私たちは思い起こしたいと思います。神が共にいて、私たちの暗い部分を照らすために、主イエスは来てくださいました。
2025年12月20日 キャンドルサービス説教題:旅する主イエス聖書: マタイによる福音書 1:22-23, 2:1–12説教者:稲葉基嗣
2025年12月14日 待降節第3主日説教題:声なき声を受け止めるために聖書: マタイによる福音書 1:1-17、サムエル記 下 11:1-27、詩編 56、ヘブライ人への手紙 5:7–10説教者:稲葉基嗣 -----イエス・キリストの系図を眺めてみると、実にたくさんの名前が並んでいます。この系図にはたった一人だけ、きちんと名前が紹介されていない人がいます。そこには「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書かれています。彼女の名前がバト・シェバであることは、旧約聖書の物語に馴染みのあるユダヤの人々にとっては、実に明白なことだったと思います。そこには、ダビデの大きな過ちが記錄されています。ダビデはウリヤの妻であるバト・シェバを寝取ります。ダビデはそんな自分の罪を覆い隠すために、バト・シェバの夫のウリヤが戦場で命を落とすように働きかけました。マタイはバト・シェバの名前のみを「ウリヤの妻」と書いてあえて隠すことによって、このようなバト・シェバの物語をより目立たせています。物語において、彼女はとても受動的です。そんな彼女とは対極的に、ダビデからバト・シェバに向けられた行動が、物語の中では矢継ぎ早に紹介されています。男性優位の社会において、彼女は王をはじめ、男性たちの前で力を持ちません。彼女にはダビデの呼び出しに応じるしか選択肢がありませんでした。現代的に表現するならば、この出来事は、バト・シェバがダビデから性暴力の被害を受けたとも表現できるでしょう。彼女は受動的に描かれているだけでなく、声も奪われています。彼女の発言は、「私は子を宿しました」のみです。被害者である、バト・シェバがどれほど言葉を奪われているのか。彼女がどれほど主体性を、自分の意思で決定し、行動する力を奪われているのか。そのような暴力の被害者であるバト・シェバの物語としても読めてきます。彼女の夫である、ウリヤもまた、ダビデの暴力の前に、声を奪われた被害者です。バト・シェバやウリヤのように、自分よりも大きな力による暴力に晒される。このような被害者の声なき声は、この世界のあらゆるところで聞こえます。キリストの系図に記された「ウリヤの妻」という言葉はまるで、私たちが生きる世界のこのような現実を指摘しているかのようです。もちろん、キリストの系図でバト・シェバの名前が伏せられているのは、私たちの生きるこの世界の現実を指摘するためだけではありません。あらゆる暴力によって声なき声を生み出してしまっている、私たちの世界に平和をもたらす方が、訪れることを指し示すためです。イエスさまは、私たちの声に耳を傾け、声なき声さえも受け止めてくださる方です。この暴力の連鎖を止めるために、イエスさまは来てくださいました。
2025年12月7日 待降節第2主日説教題:広い場所へと導くために聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、ヨシュア記 2:1-24、詩編 4、フィリピの信徒への手紙 2:6–8説教者:稲葉基嗣 -----イスラエルの人々にとっては、ラハブは英雄のような存在です。ただ、エリコの人々にとってはどうでしょうか。彼女は自分の命が助かるために、エリコの町を引き渡した裏切り者だといえます。ラハブはなぜエリコの町を裏切ったのでしょうか。ヨシュア記の物語は、ラハブを誰の保護の下にもない遊女として紹介しています。彼女は、社会の当たり前から外れて、社会の片隅で生きていました。彼女の家は城壁の中にあったように、彼女は社会の片隅で生きていました。皮肉なことに、ラハブの名前はヘブライ語で、「広い」という意味です。自分の名前とは真逆の環境で、彼女は窮屈さを感じながら、生活をしていました。このような自分の境遇に望みを見いだせないため、彼女はエリコの町を裏切る道を選んだのでしょう。そんなラハブがエリコの町の中で経験していた息苦しさや窮屈さは、形が違えど、私たちが経験するものともいえます。私たちはきょうは礼拝のはじめに、詩編4篇を声を合わせて読みました。詩人は、「あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました」と祈っています。直訳すると、「狭いとき、あなたは私に広いスペースを与えてくださった」。私たちを窮屈にする、あらゆる苦しみ、生きにくさから解放され、私たちを取り囲む世界が広々としたものとなる。それは、この詩編を受け止め、祈ってきた、あらゆる時代の人々の祈りです。広い場所へ行くことを願って、狭い場所を抜け出したラハブの物語は、そんな私たちの叫びを思い起こさせる物語です。だからこそ、マタイ福音書の系図にラハブの名が記されているのでしょう。窮屈さを感じているあなたの叫びを神は確かに聞いておられる。だから、神はイエスさまを私たちのもとに与えてくださったと、系図の中に入れられたラハブの名前は、私たちに伝えているかのようです。ただ、神はイエスさまを通して、すぐさま窮屈さや息苦しさを感じないような、広い場所へと私たちを移すことはしませんでした。神が選んだのは、私たちが息苦しさを感じる場所へとイエスさまを送ることでした。窮屈さを私たちと一緒に味わい、一緒に広い場所を目指して歩み続けるために、イエスさまは来てくださいました。それは、私たちの狭き所を広い所へと変えていくためです。愛の欠けた所、憐れみのない所、命が蔑ろにされる所、争いのある所、私たちが窮屈さや息苦しさを感じる、あらゆる所に、どうか希望の源であるキリストがきょう、訪れてくださいますように。
2025年11月30日 待降節第1主日説教題:誠実さをもって生きる聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、創世記 38:12–26、詩編 122、ローマの信徒への手紙 13:11–14説教者:稲葉基嗣 -----詐欺師やいたずらする人という意味の、トリックスターという言葉があります。物語に登場するトリックスターは、誰かを騙したり、出し抜いたりすることによって、物語に転換点を提供するような重要な役割を担います。タマルは、そのひとりです。二人の夫を亡くしたタマルは、古代イスラエルの制度に従って、死んだ夫の弟である三男が彼女の新しい夫となるはずでした。しかし、義理の父であるユダは、タマルが三男と結婚することをゆるしません。ユダの決断は、ユダの家の保護の外にタマルが置かれることに等しいことでした。自分の置かれている辛い状況を何とか改善し、未来を切り拓いていくために、タマルは遊女のふりをしてユダの前に現れ、自分の身体を差し出すことによって、彼女はユダとの間に子どもを得ました。ユダを騙し、出し抜き、ユダの子どもをお腹に宿すことによって、彼女はユダの家族の中に自分の居場所を確保し、将来の安全を勝ち取りました。正直、タマルについてのこの物語は、現代に生きる私たちにとって、「倫理的にどうなの?」と、問いかけたくなる物語です。けれども、力のない人たちにとって、トリックスターの物語は現実へのささやかな抵抗と希望を与えるような物語でした。すべての人の救い主として私たちのもとに来てくださった、イエスさまの系図の中に、トリックスターであるタマルの名前があります。彼女の目の前に、誠実さを選び取るというような選択肢はありませんでした。騙し、出し抜き、自分を犠牲とするしか、彼女が生き抜く道はありませんでした。本当は、誰も騙さず、出し抜くことなく、誠実に生きたい。でも、誠実には生きられない。それがタマルが歩んでいた道です。このタマルの物語はまるで、この世界の罪や人間の悪に、何とかもがいて生きている私たちやこの世界を映し出しているかのようです。マタイ福音書の系図は、タマルの名前の先に、イエス・キリストがいます。それはまるで、イエスさまが、そんな私たちの思いや嘆きをすべて受け止めてくれることを描いているかのようです。この社会の悪や、人間の罪に翻弄され、誠実に生きる道を選び取りきれない。そんなタマルや私たち一人ひとりをイエスさまは受け止めてくださっています。誠実さを失い、罪にまみれた状況の中で生きる私たちを救い出すために、イエスさまは来てくださいました。イエス・キリストは私たちにとっての希望です。私たちが誠実さをもってこの世界で生きる道を備え、いつも指し示してくださっているからです。
2025年11月23日 三位一体後第23主日説教題:キリストをかしらとする共同体聖書: コロサイの信徒への手紙 1:11–20、エレミヤ書 23:1–6、詩編 46、ルカによる福音書 22:31–34説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 2年生) -----コロサイの信徒への手紙は、パウロからコロサイの信徒たちへ、彼らを励ますために書かれた手紙です。多様な文化の混ざり合う社会に置かれていたコリントの教会では、知らず知らずのうちに、教会の中に異なった思想や宗教が入り込んで、ただキリストを頭とすべきはずが、他の色々なものを同様に頭に据える生活を送ってしまいました。そうしてコロサイの人々は、自分の力では抗えない闇の中に入り込んでしまったのです。私たちも同様に、知らず知らずのうちに、キリストと同じくらい他のものを頭として、そのかしらに支配され、闇にのまれる生活を送っていることがあるのではないでしょうか。その結果犯してしまう罪の一つひとつに、一体どれほどの実感を伴って生活しているでしょうか。私たちはどうしようもないくらい自分の罪に無自覚です。闇の中をさまようしかない、そんな私たちを、神さまはなんとかして自分の元へと引き上げたいと思いました。その愛の行いを見える形にしたのが、地上に生まれたイエスさまなのです。イエスさまの生涯は、ただの一人の青年のライフログにとどまりません。ご自身の死によって私達の罪のすべてを担い、その結果私達と神が和解することを叶えてくれました。そうやって私たちは、喜びの中で生きるものになったのです。イエスさまの物語は十字架での死のさらに先まで続いています。イエスは墓に葬られた3日後によみがえり、弟子たちの前にあらわれてともに過ごしたあと、世界中に福音を述べ伝えなさいという命令を私達に下し、天にのぼられました。キリストのこの地上での生涯は、降誕から、十字架、そして復活、さらにその先の世界中への宣教まで、一本の線で繋がっているのです。時を隔ててもなお、教会の頭はイエスさまに他なりません。私たちの活動のすべては、イエスさまによらないと虚しくなってしまいます。人として生きることによって、私たちのすぐそばで笑い怒り悲しんでくださったイエスさまが教会のかしらとして私たちを力強く導き、進むべき道を明るく照らしてくれるとしたら、何と心強く、幸いなことでしょうか。来週から教会の暦ではアドベントを迎えます。この季節にこそ、私たちは十字架で死なれたイエスさまの姿を思い起こし、そのために与えられる希望を握っていきましょう。私たちは喜びにあふれてアドベントを迎えましょう。キリストの誕生を待ち望むこの季節に、キリストをかしらに据えた共同体を用いて、神様から受け取った愛をますます広げてゆきましょう。キリストの平和がみなさんと共に豊かにありますように。
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