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聴くおいしい記憶
聴くおいしい記憶
Author: キッコーマン
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Description
「聴くおいしい記憶」は、キッコーマンがお届けする番組です。
キッコーマングループのコーポレートスローガン「おいしい記憶をつくりたい。」にこめ
た想いを、音声でお届けします。
「おいしい記憶」は、食にまつわる体験を通じて積み重ねられます。
楽しさやうれしさといった食卓での時間や雰囲気。
こころもからだもすこやかになっていきます。
地球上のより多くの人がしあわせな記憶を積み重ね、
ゆたかな人生をおくれるようお手伝いをしていきたい、という想いをこめています。
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14 Episodes
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キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。
今回は、第1回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「ジュウ、ジュウッ。」をお届けします。
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「ジュウ、ジュウッ。」 山本一力
わたしのこども時分のおとなが、繰り返し言っていたことは……。「楽な金儲けはない。汗を流してカネを稼げ」「へとへとになるまで働いたあとなら、塩味だけの握り飯でもご馳走に思える」おとなの諭しに、こどもは深くうなずいた。町のどこにでもたっぷり残っていた原っぱで、身体を使って存分に遊んだ。空腹にまずいものなし、と言う。汗まみれになって遊んだあとは、麦飯混じりの握り飯でも美味かった。こども時代のご馳走はと訊かれれば、わたしは迷わずスキヤキを挙げる。母親の稼ぎでこどもふたりを養う母子家庭では、滅多なことでお肉は口に入らなかった。昭和三十年代初期の高知は、一般家庭にガスは配管されてなかった。焚き付けと消し炭を使っての炭火熾しはこどもの役目だ。火熾しなしでは湯も沸かない。いつもは面倒に感じたこの仕事も、スキヤキのときはうちわをあおぐ手の動きも軽やかだった。竹皮に包まれた牛肉には、白い塊のヘットが添えられていた。菜箸でヘットを掴んだ母は、熱くなった鉄鍋の上を走らせた。ジュウ、ジュウと音を立てて脂が溶ける。その香りをかいだだけで、こどもはゴクンッと生唾を呑み込んだ。脂を敷いたあとは、鍋の黒さが見えなくなるまで砂糖を散らした。「お砂糖をけちったら、せっかくのスキヤキがおいしゅうのうなるき」砂糖が高価だった時代だが、鍋を砂糖で埋めて、その上に牛肉を敷いた。そして間をおかずに醤油をかけた。母の手つきはぶっかける、だった。砂糖と醤油をまとった牛肉は、ひときわ大きな音を立てて焼かれた。頃合いよしと見定めると牛肉を隅に寄せて、東京ネギを加えた。高知でネギといえば分葱をさす。太いネギは東京ネギと呼んでいた。牛肉の旨味を吸ってネギが色づけば、スキヤキの仕上がりである。「もう食べてもえいきに」母の許しを得たこどもは、真っ先に牛肉に箸を伸ばした。東京ネギ。焼き豆腐。糸ごんにゃく。水で戻した麩。これらが常連で、あとの野菜は季節によって顔ぶれが変わった。「水は野菜から出るき、足したらいかん」煮詰まり気味になると、野菜を加えた。そしてその都度、砂糖と醤油で味を調えた。母が没して、はや二十九年。我が家のスキヤキ当番は、わたしの役目となった。砂糖も醤油も目見当でたっぷり使うのは、おふくろ譲りの流儀。長男がこの息遣いを会得しつつあり、当番交代も遠くはない。汗を流してカネを稼いだのは昔。当節では、カネを払って汗を流すひとの姿もめずらしくはない。そんな時代にあっても、砂糖と醤油だけで味つけするスキヤキの美味さは変わらない。
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「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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■コンテストの受賞作はこちらからご覧いただけますhttps://yab.yomiuri.co.jp/adv/oishiikioku/See omnystudio.com/listener for privacy information.
キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。
今回は、第2回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「魔法の一滴」をお届けします。
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「魔法の一滴」 山本一力
初めての米国西海岸単独の添乗は、1972(昭和47年)9月だった。訪れるのはサンフランシスコ、バンクーバー、ラスベガス、ロサンゼルス、ホノルル。空港のあらまし。訪問地の観光名所。ホテル周辺の食事場所。さらにはチップの渡し方と額まで、丸一日かけて特訓を受けた。出発便は午後四時半の羽田発。当時はまだ成田は開港していなかった。旅立ちの朝、午前九時に出社したら先輩に手招きされた。「話は通しておいたから」上野の弁当業者・ハツネさんに行けという。いつも団体旅行の弁当調理をお願いしていたが、今回は国内ではなく米国西海岸行きだ。「行けば分かる」納得できる理由を先輩から聞かされぬまま、上野に出向いた。「これを渡すようにと頼まれていますから」差し出されたのは弁当に添える、魚の形をした容器に詰まった醤油だった。一個は小さいが、なんと五十個。割り箸が二十膳。紙袋がぶわっと膨らんでいた。「受け取ってきましたけど、どうするんですか、こんなモノを」ふくれっ面で問いかけるわたしを見て、先輩は目元をゆるめた。「二日目の朝には、これらが役に立つ」謎めいた言葉を背中に受けて、わたしは羽田から飛び立った。旅はサンフランシスコ二泊から始まった。時差の関係で、出発同日の午前中に到着した。一泊を過ごした翌朝、ホテルで朝飯を摂った。目玉焼きにカリカリ焼きのベーコンとポテトが添えられていた。口に広がったベーコンの塩味を、薄いコーヒーで洗い流して喉を滑らせた。目玉焼きの黄身は大きく、ぷっくりと盛り上がっている。しかし慣れないフォークでは食べにくいこと、おびただしい。それでも米国初の朝食を全員で楽しんだ。翌朝もまた同じ献立である。「うまそうな目玉焼きだけど、塩で食うのは味気ない」「こんなとき、醤油があればなあ」お客様の不満のつぶやきを聞くなり、わたしは部屋へ走った。そしてあの醤油と割り箸を手にして駆け戻った。お客様の顔がいきなり明るくなった。「あんた、若いのに気が利くなあ」醤油と割り箸で、朝食の雰囲気が劇的に変わった。若造のわたしは当時二十四だった。その後は朝食に限らず、食事のたびに魚容器から醤油をひと垂らしした。そしてナイフ・フォークの代わりに割り箸を使った。まだ醤油も割り箸も、西海岸では市民権を得られてない時代である。レストラン・スタッフは不思議そうに客の振舞いを見ていた。六十三のいまも、目玉焼きには醤油を垂らす。ひと垂らしが魔法のごとく美味さを引き出してくれた、あの旅の朝が忘れられなくて。
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「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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今回は、第3回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「おおきに!」をお届けします。
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「おおきに!」 山本一力
「おいしいステーキなら、ブルックリンに行くのが一番です」キタオカさんは標準語で言い切った。日本航空を退職後も、そのまま彼の地に残り、いまに至るほどのニューヨーク好き。彼女の博識と人柄のよさと英語力を評価したメトロポリタン美術館は、ボランティアの案内役に任じていると他のひとにうかがった。兵庫県に生まれ育った彼女は、就職を機に東京に移った。が、言葉遣いは変えずに。「ボランティアで日本語も教えています」生徒はみんな関西弁ですわ……彼女の明るい笑い声まで関西弁に聞こえた。「ニューヨークでステーキを食べるなら、どこがお薦めですか?」2011年の春。雑談のなかで問うたら、即座に冒頭の答えが返ってきた。「地下鉄でも行けますが、昼間に限ります」理由のひとつは治安を考えてである。安全な街だが、夜は暗い。 旅人は昼の方がいいと。「ディナーの予約は、とるのが大変やから」歴代大統領もひいきにしており、夜の予約は至難だというのが理由その二だった。そんな次第で、彼女・カミさん・小生の三人で正午に出向いた。もちろん彼女が事前予約をいれた日の正午に、である。注文したのはトマト、ベーコン、ステーキの三種だ。トマトは直径10センチを超える大型。皿に輪切りを並べたシンプルな一品だが、岩塩との相性が見事。酸味と塩の調和を堪能した。ベーコンは5ミリの分厚さ。注文時に「何切れ?」と問われた意味がよく分かった。そして主役、ステーキの登場である。注文したのは『ステーキ・フォー・ツー』。 三人なら、これで充分だと彼女。ウエイターとやり取りする英語は、流暢なこと至極だ。オーダーを終えた彼女は「醤油はありますか?」と尋ねた。「ノー!」ウエイターは即答した。彼女は得心顔でうなずいた。ピーター・ルーガーは自家製のステーキ・ソースが評判で、販売もしているほどだ。客にはそのソースが供されていた。ウエイターが下がったとき、彼女はバッグをまさぐり、クリーム色の丸大豆しょうゆミニパックを取り出した。「ここのソースもおいしいけど、やっぱりこれが一番ですねん」ウエイターの目に触れぬように、ナプキンの下に袋の山を隠した。運ばれてきたステーキは骨付きで、焼き加減も見事。研ぎのいいナイフで切り分けたウエイターは、三人それぞれにサーブした。ステーキ・ソースの注がれた器と一緒に、彼は同じ形をしたカラの器をキタオカさんの前に置いた。ウエイターの目が、ナプキンの膨らみの下に注がれていた。「おおきに!」キタオカさんの正調関西弁が弾けた。
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忘れられない味、一緒に食卓を囲んだ人、その時の会話……そんな「おいしい記憶」を思い出し、幸せな気持ちになれますように。
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今回は、第4回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「身体がぬくもるきに」をお届けします。
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「身体がぬくもるきに」 山本一力
減塩意識の高まりという、時代の流れに逆行することにもなりそうだが······。興りは半世紀以上の昔にさかのぼる。「ええ塩加減が美味い粕汁を作るコツやきに」亡母は出刃包丁で叩き切ったブリのあらに、気前よく塩をまぶした。「だいこん・ニンジン・コンニャク・油揚げを、あんたが好きなばあ、短冊に刻んでいれたらええきに」それじゃあ、味の決め手となる酒粕は?「灘やら伏見やらと面倒なことは言わんと、酒粕やったらなんでもかまわんがやき」量はどうするのかと問うたら。「あんたが好きなばあ溶かしたらええ」ばあとは「ぐらいに」を意味する土佐弁だ。真新しいブリのあらにまぶす塩以外のことは、酒粕までもすべてばあで片付けていた。鍋の内で煮えたぎっている湯に、ブリをドサドサッ。一気に鎮まった湯が再び沸騰したら、表面に浮いたアクを取り除く。そのあと短冊に刻んだ具をドサドサッ。鍋にふたをかぶせて、ブリと具がほどよく煮えるのを待つ。湯気が立ち始めたらふたを取り、味噌漉しでたっぷりの酒粕を溶かす。「粕の甘みとブリの塩とが、うまいこと混ざりおうてくれるように、あとはいらんことせんと、煮えるがを待つがぞね」頃合いを見て味見をする。「ちょっと味が足らんかなと思うたら、それが一番ええ出来になっちゅうときやきに」おたまに落とした少量の醤油を足して、ゆっくりとかき回せば出来上がりだ。粕汁は上品な椀ではなく、無骨な肉厚のどんぶりによそう。あらが盛り上がるばあに。そしてどんぶりよりもさらに大きな器を、ガラ入れとして使う。「粕汁は出来立てが値打ちやきにねえ。よそわれたら親の仇に会うたと思うて、ものも言わんと食べないかん」親の教えに従い、わたしはハフハフ言いつつ、夢中で食べた。おふくろの味だと思い込んでいた粕汁。なんと親父が母に伝授した一品だったと知ったのは、成人したあとだった。わたしがまだ四歳のとき、両親は協議離婚した。別れた真の理由がなにだったのかは、両親ともに鬼籍に入って久しいいまでは、知る手立てもないのだが……。別れた亭主に教わった粕汁を、おふくろは我が子に伝えていた。大事な一品として。ブリの塩加減が美味さを決めるコツ。思えばこれを言うときの母は、伝授してくれた男に思いを馳せるような表情をしていた。 * いまではうちのカミさんの得意料理だ。ブリを鍋に入れたあとには、亡母よろしく短冊に切った具をドサドサッと。出来上がりはどんぶりで、ものも言わずに。食すれば身体が芯からぬくもるのは、酒粕の効能のみにあらずだ。
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世代を超えて受け継がれる、こころあたたまる一品。あなたにも、そんな「特別な味」はありますか?「おいしい記憶」を思い出し、優しい気持ちで満たされますように。
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今回は、第5回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「半カレー」をお届けします。
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「半カレー」 山本一力
還暦を過ぎて久しい今。食べたい気は充ち満ちているのに、量を食べられなくなってきた。販促企画の売り込みに汗を流していた三十代は、昼飯になにを食うか、どこで食べるかが大きな楽しみだった。ごはんにケチャップが、これでもかとまとわりついたチキンライス。刻みキャベツを下敷きにしたポテトコロッケ。付け合わせはトマト味のマカロニだ。醤油の利いたスープが、どんぶりから溢れ出しそうだったワンタン。定食屋さんのなかには、和洋中なんでもごされの味自慢が何軒もあった。そんな店を昼飯には渡り歩いた。「オムライスにハムカツ」だの「チャーハンにレバ炒め、それにギョウザ」だのと二品、三品を注文する日々だった。いまだ気持ちは、あれもこれも食いたいのに、身体が量を拒んでしまう。半分ずつ、二品を食わせてもらえないものか……こんな切なる願いをかなえてくれる店が、東京にある。『実用洋食』なる耳慣れぬ語が看板に描かれた、江東区白河の「七福」だ。通い始めて20年を超えるが、味はまったく変わらない。美味さが保たれているのだ。お気に入り一番は『半カレー』。通常のカレーの半分の意だが、見た目には充分に一人前がありそうだ。特筆したいのはカレーの色と味。当節はチョコレート色が主流だが、七福は黄色に近い。昔ながらのカレーパウダーと小麦粉の合作だからこそ出せる色と香りだろう。ジャガイモなどの野菜と肉を炒め、スープストックを加えて煮る。そこに、くだんのカレー粉を溶かし、味を調えて仕上がりだ。形の残ったジャガイモの塊と、カレーとを一緒に食べれば、口一杯に至福感が広がる。香りは強いが、味は穏やかだ。その場で、絶妙な加減に煮込まれた野菜と肉が、カレー粉と旨味と香りを出し合った成果に違いない。こども時分のご馳走はと問われれば、迷うことなくカレーと答える。七福のカレーは、遠い昔、親が作ってくれた懐かしい味だ。若い世代には、黄色いカレーは初めて口にする新鮮な味覚かもしれない。半カレーなら、ごはんの量のほどがいい。白いごはんの隅には、真っ赤な福神漬。黄色いカレーには、強くて鮮やかな色の福神漬がお似合いだ。七福のカレーは、卓上醤油の一滴垂らすことで美味さが際立ってくる気がする。白いのれんの下がった普通の定食屋さんだが、七福は時代の先端を行っている。ほとんどのメニューに「半○○」「半々△△」で応じてくれるからだ。おいしい記憶は、食べ物がほどよき量であってこそ胸にも舌にも刻まれる。
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食べると、ふと、こどもの頃を思い出す、そんな懐かしい味。あなたの「おいしい記憶」が、今日の食べるよろこびとなり、明日への力になりますように。
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今回は、第6回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「おぬくとおこげ」をお届けします。
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「おぬくとおこげ」 山本一力
細い稼ぎで妹とわたしを養育していた母は、朝食を大事にした。こどもを学校に送り出すと、自分も仕事に出た。検番(芸者周旋所)の帳場という仕事柄、帰宅は深夜だ。しかも一年を通じて休みは数日だけである。こどもと一緒は朝食だけだ。ゆえに母は毎朝釜でごはんを炊き、おぬく(炊きたて)を一緒に食べた。釜の周りや底にへばりついていた焦げ飯は、おひつにうつしたごはんの上に載っていた。学校から帰ったあとは塩を散らした小さな手で、焦げ飯を握った。毎日の小遣いが5円だった子には、おこげの握り飯はもっとも身近なおやつだった。電気釜(炊飯器)新発売時、家電メーカーは「もうおこげの心配は無用です」と謳った。釜で炊くごはんは、気を抜けばたちまち焦げた。電気釜は家庭からおこげを追い払った。釜にできた焦げ飯の塩おにぎりをもう一度と、願う気を募らせていたら……2014年の年の瀬。3泊した福島県磐梯熱海の宿で、願いがかなった。初日の夕食で、釜炊きのおぬくだと分かった。大きな釜に、ずっしり重たい木のふた。大きさは違うが、こども時分に炊きたてをおひつにうつした、あの釜と同じに見えた。ならばおこげもあるはずだと思い、宿のおねえさんに問うた。「ほかのお客様がよそわれたあとなら、できています」まさにその通りだった。釜の周りや底には、あのおこげがくっついていた。しゃもじで剥がしてくれたおねえさんの手は、水仕事で荒れていた。山の水は飛び切り美味い。そして冷たい。おいしいごはんを供するために、指先が凍えそうになるあの水で、毎日何升もの米を研ぐに違いない。素敵な笑顔は作り物ではないことを、おねえさんの両手が教えてくれた。茶碗によそわれた、焦げ色まで美味そうなおこげ。昔を思い出しつつ、塩をパラパラッ。こどものころに味わえたあの美味さが、茶碗に凝縮されていた。その後は朝食でも夕食でも、塩を散らしたおこげばかりを食していた。様子を見ていたおねえさんが……「塩もいいですが、お醤油もおいしいですよ」言われた通りに醤油を垂らした。焦げたごはんと醤油が絡まり合っている。運んだ口のなかで、互いの美味さが溶け合ったのだろう。塩もいいが、醤油をまとったおこげは、呑み込むことまで惜しまれた。福島県は全国有数の米どころである。山間の温泉地は、雪国となって年を越す。その雪が解けてできた水は、石清水もかくやの美味さである。恵まれた素材の美味さを引き出すのは、宿泊客を大事に思う、おねえさんのあの両手だ。
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食を通して、誰かを大切に想う気持ち、そして感謝の気持ち。そのすべてが積み重なって「おいしい記憶」へと、つながります。そんな「おいしい記憶」を思い出し、明日の笑顔につながりますように。
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今回は、第7回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「よくしみた、いなり寿司」をお届けします。
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「よくしみた、いなり寿司」 山本一力
あれは小6(1960年)の夏休みだった。同じ小学校同級生の順吉と、鏡川まで泳ぎに行った。ともに母子家庭で境遇が似ていた。夏休み中、何度も順吉と鏡川に行った。国体に使った市営プールが鏡川の近くにあったが、5円の入場料が必要だった。川で遊べばタダだ。しかも橋から川面めがけて飛び込むという楽しみもある。多くのこどもはプールではなく川で遊んだ。泳ぎに飽きたら夏日に焼かれた岩に寝そべり、昼寝した。こどもの体力には限りがない。麦わら帽子をかぶったふたりは、昼寝から目覚めたあとも家には帰らず、お城に向かった。順吉もわたしも母親は日曜日もいない。早く帰ったところで、母から「おかえり」を言ってはもらえない。日暮れまで外で遊んで帰るのが常だった。石垣登りを競い合ったあと、お城を出た。700を超える露天商が並ぶ日曜市も、仕舞いどきだ。大半の露店は片付けられていて追手筋の通りは歯抜け状態だった。時計台のある追手前高校の前では、おばやんが露店の片付けに難儀していた。迎えのひとが来ておらず、ひとりでテントを外そうと躍起になっていた。順吉とうなずきあい、片付けの手伝いに入った。小6でも男子ふたりなら役に立つ。テントもパイプの柱も手際よく片付けられた。泳いだあと石垣登りまでして、ひどく空腹だった。パイプを取り外すとき、背伸びした拍子に空腹が鳴いた。おばやんは順吉だと勘違いして、日焼け顔を向けた。順吉は言いわけをせず、腹の虫が鳴いた役をかぶってくれた。手伝いが終わったとき、売れ残りのいなり寿司を一個ずつ駄賃にくれた。三角の油揚げに詰まった五目寿司。これが高知のいなり寿司だ。揚げが大きいので寿司もでかい。「おおきに。おかげで助かったきに」迎えのオート三輪荷台に乗ったあと、見えなくなるまでほころび顔で手を振ってくれた。夕陽を浴びた時計台を見ながら、順吉と惜しみながら食べたいなり寿司。揚げの甘さが五目寿司に染みこんでいた。 * 東京のいなり寿司は五目寿司ではなく、白い寿司飯だ。揚げも三角ではない。が、高知から上京して半世紀を超えたいまは、江戸風いなり寿司に慣れていた。取材で東京スカイツリー周辺を探訪したとき、いなり寿司の老舗『味吟』を知った。ハス、切り昆布、刻みニンジンがごはんに混ざっている。秘伝の煮汁で煮付けられた揚げは、五目ごはんとの相性が見事だ。「大川の花火の日は、ビールにいなり寿司が昔からお決まりでしてねえ……」親方の笑顔に、遠い昔、いつまでも手を振ってくれたおばやんの顔が重なって見えた。
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あなたにも、大切な友人との「おいしい記憶」はありますか?楽しかったあの日の「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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今回は、第8回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「駅前食堂のピーナッツ味噌」をお届けします。
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「駅前食堂のピーナッツ味噌」 山本一力
昭和42(1967)年1月、国鉄(当時)上野駅から石打駅まで、スキー列車に添乗した。スキーバスが全盛期を迎える前だ。石打到着は早朝5時。駅前の提携食堂で朝食休憩のあと、スキー客は夜明け直後のゲレンデに向かった。出払ったあとが添乗員の食事だ。朝食膳の小鉢を見て、思わず声を挙げた。「あっ……ピーナッツ味噌だ」と。「あらまあ。あんた、これを知ってるかね」食堂のおかみさんが驚き顔になった。「新聞配達当時、週に一度は食べてました」「あんた、東京のひとだよねえ?」スキー客が食べ終えた膳の片付けを止めて、おかみさんはわたしの前に座り込んだ。母と妹が働いていた読売新聞富ヶ谷専売店に、わたしも一年遅れで住み込んだ。そして朝夕刊を配達しながら、渋谷区立上原中学に通い始めた。朝刊配達を終えた5日目の朝。得体の知れないおかずが小鉢で供された。「ピーナッツ味噌ぞね」賄い婦で住み込んでいた母の返事である。ごはんは巨大な電気釜のなかで、お代わり自由だ。味噌汁も大鍋にたっぷり残っていた。おかずは日替わりで一品。ピーナッツ味噌は、わたしにはこの朝が初だった。味噌に包まれたピーナッツを口に運んだ。味噌は甘いし落花生は硬い。配達後で空腹の極みだったが、二箸目をつける気にはならなかった。他におかずはない。仏頂面で味噌汁をごはんにかけていたら、母に戒められた。「ご他人様の釜の飯を食べるときは、好きやら嫌いやら言うたらいかん。慣れなさい」長野県出身の店主ご夫妻には馴染みの郷土料理だった。しかし油で炒めたピーナッツを味噌と砂糖で仕上げた味は、高知では食べたことなどなかった。調理を言いつけられた母も、最初は戸惑ったらしい。が、すでにすっかり調理を会得していた。その後も週に一度は朝食に出された。朝刊配達で存分に走ったあとでは、味噌とピーナッツの甘味を、好ましくすら思い始めていた。 * 「都会のひとには受けないと言っても、うちのひとは聞かないから……」おかみさんが片付けている朝食膳には、手つかずのピーナッツ味噌小鉢が幾つもあった。夜行列車下車直後の起き抜けでは、硬いピーナッツなど食べる気にはならないのだろう。「滑ったあとの昼飯に出したらどうですか」朝夕刊配達の経験から提案したら、店主は納得したらしい。朝定食を食べ終えたばかりなのに、熱々のうどんをサービスされた。新聞配達の日々は、すでに半世紀以上もの彼方である。毎日の暮らしの料理が多彩になったら、好き嫌いを言うことが多くなった。そんなおのれを戒めるには、ピーナッツ味噌は良薬かもしれない。
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この料理を食べると、あの日のことを思い出す……。あなたにもそんな「おいしい記憶」はありますか?思い出すことで、笑顔や優しさを与えてくれる「おいしい記憶」。明日への活力に繋がりますように。
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■コンテストの受賞作はこちらからご覧いただけますhttps://yab.yomiuri.co.jp/adv/oishiikioku/
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キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。
今回は、第9回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「麗しや、ネギ」をお届けします。
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「麗しや、ネギ」 山本一力
トモのネギ嫌いは尋常ではなかった。 トモとは二十代からの仕事仲間、朝長一浩だ。かつて東京・晴海には、国際見本市会場のドーム館があった。そこで催される各種展示会のブース(小間) プラン売り込みが、我が仕事。 トモはブース設計のデザイナーだった。限られた人数で、限られた時間内に展示ブースを仕上げるため、徹夜仕事が続いた。現場で食べる昼夜の弁当が、一番の楽しみだ。当番はクルマで築地の弁当屋とラーメン屋から、日替わり弁当を買ってきていた。あるとき、出来たてのチャーハンが晩飯となった。チャーシュウと卵、刻みネギが絡まりあった、弁当を超えた美味さだった。プラスチックのスプーンは食べやすい。だれもが空腹で、たちまち一人前を平らげた。仕事の厳しさを多少でも和らげるため、弁当はひとり二人前が用意されていた。新たなふたを開いたとき、トモはまだ最初のチャーハンを半分しか食べてなかった。 180センチ超のやせ形だが、健啖家なのに。「どうした、チャーハンは嫌いか?」静かに首を振ったトモは、スプーンで刻みネギを一つずつ取り除いていた。「おまえって、そこまでネギが……」この一件以来、だれもトモのネギ嫌いを疑う者はいなくなった。 * 自己都合の転職で、会社に残ったトモとの行き来が途絶えた。20年ぶりに再会できたのは、1997年5月。オール讀物新人賞受賞を喜んでくれての昼飯で、だった。互いに懐かしい築地のあのラーメン屋さんで、ふたりともチャーハンを注文した。驚いたことに、トモは刻みネギも食べた。「なにがあったんだ、トモ?」思わず甲高い声で問い質した。レンゲを置いて、トモは話し始めた。高校時代から慕っていた同郷のエミちゃんの話は、何度も聞かされていた。その彼女と結婚し、すでに息子まで授かっていた。「食べた方がいいって言われたから…」はにかみ顔のトモは、刻みネギを食べていることに、満ち足りている様子だった。結婚後、ネギを食べ始めて20年が過ぎていた。あれほど苦手だった食材を、あっさり食べ始めたほどに、連れ合いを深く想っていた。トモが残った会社は、150人にまで成長していた。が、いまだ現場に出ていた。「弁当のネギが、甘くて美味かったとは」嫌っていた味を美味いと称える口調は、まるでのろけに聞こえた。トモは2017年2月、65歳で逝った。一途に慕い続けてきた愛妻に看取られて。25年間、ネギを苦手として生きていた。惚れ抜いた女性と所帯を構えたあとの40年、トモはネギをも伴侶としていたのだ。よく調理されたネギから滲み出る、甘味すら感じられる美味さ。トモは美味さのみならず愛情までも賞味できた、羨ましき男だった。
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苦手だった食材が、食べられるようになること。「おいしさ」は、大切な人とのつながりによって感じる、喜びや楽しみによって紡がれるのかもしれません。懐かしいあの人との「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。
今回は、第10回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「だらくうどん」をお届けします。
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「だらくうどん」 山本一力
あれを初めて頂いたのは昭和43年正月二日。年賀訪問先の矢矧家(横浜市)だった。喜市・芳子夫妻は共に山形県村山市出身で、自動車部品製造工場を営んでおられた。初詣の話が弾み、思いのほか長居となった。「わたしらが馴染んできた、村山の味を」喜市さんの声がかりで用意された夕食が、村山地方に伝わるだらくうどんだった。大型卓の真ん中にガスコンロと、水を張った大鍋がセットされた。喜市・芳子夫妻と三人のお嬢、わたしで鍋を囲んで座った。銘々がとんすいにカツオの削り節、刻みネギを取り、生卵を割り入れた。そして醤油差しの生醤油を好みの濃さに注ぎ入れた。あとは湯の沸騰を待ちながら、初春の居間でおしゃべりに興じた。三姉妹とも横浜・山手の私立女子校卒だった。長女入学時、学費が高いから三人は無理ではないかと、芳子さんは学校から言われた。が、三人とも卒業させた。学費の心配を三姉妹にさせぬよう、がむしゃらに芳子さんも働いたという。若造だったわたしが聞き入っていたとき、湯が沸騰した。乾麺を投げ入れ、ほどよきところで、とんすいに取った。 銘々がじか箸で。鰹節・生卵・醤油が、熱々のうどんと絡まり合う。食べ進むにつれて味が薄まると、生卵・鰹節を足して、醤油を加えた。刻みネギと、美味さを喜ぶ弾んだ声とが、絶妙なる薬味となった夕餉だった。 * 大正生まれの矢矧さんご夫妻から、昭和生まれのわたしが半世紀も昔に、だらくうどんを教わった。2019年正月。カミさん、平成生まれの息子ふたりと大鍋を囲んだ。初のひと口をすするなり「美味い」「おいしい」の声、声。今年で次男も大学卒業だ。やっと学費の払いから解放されると安堵した刹那、遠い昔にうかがった芳子さんのあの話を思い出した。煮えたぎったひとつの大鍋に、全員で箸を差し入れて取ったうどん。乾麺・鰹節・ネギ・生卵・醤油が、互いに支え合って生み出した素朴な味。されども他では真似のできない、独自の味わいでもある。これこそが家族そのものだ。学費話に込められた、芳子さんの深い情愛。三姉妹のご家族同様、我が家も受け継がせていただいた。やがて来る新しい時代をさして、転がり続ける「家族のおいしい記憶の指輪」となって。
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大切な人たちと一緒に鍋を囲む。おなかだけでなく、こころも満たされる、だんらんのひと時。そんな「おいしい記憶」が、明日への力につながりますように。
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今回は、第11回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「紅茶と海苔トースト」をお届けします。
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「紅茶と海苔トースト」 山本一力
前回の東京五輪は1964年。あの年、東京の夏は猛烈な渇水にあえいでいた。東京沙漠とまで呼ばれていた。わたしは当時、都立工業高校2年生。住み込みで、朝夕刊を配達して通学していた。配達区域の中盤には緑葉を多数の樹木に茂らせた、代々幡斎場があった。敷地内の木造従業員宿舎も、毎日の配達先だった。西日を浴びつつの夕刊配達には、斎場の木陰は東京沙漠のオアシスに思えた。「暑いなか、ご苦労さま」宿舎のおカミさんは、ねぎらいの言葉とともに、甘い紅茶を振る舞ってくれた。「冷たいのがいいのは分かってるけど、汲み置きの生水はよくないから」給水車の水で仕立ててくれた紅茶は、おカミさんの優しさをたっぷり含んでいた。当時の読売新聞社会面には、毎日の小河内ダム貯水率が報じられていた。8月下旬に襲来した豪雨を、都民は慈雨だと大喜びした。大雨でダムは機能を取り戻し、給水制限も段階的に解除された。斎場のおカミさんは厳しい残暑のなか、水道が生き返ったあとも熱くて甘い紅茶を振る舞ってくれた。純白の器には、底まで透き通って見える紅茶がお似合いだった。 * あの五輪から26年が過ぎた1990年10月10日の祝日。ロードタイプの自転車で、赤坂の崖下にあった喫茶店を訪れた。五輪開会式となった10月10日は、晴れの特異日。高い青空の下、都内をロードで走るのが、毎年この日の楽しみだった。「きっと食べたことがないトーストだから」カミさんに従い、崖下に自転車を停めて店に入った。木造の店内は明るさに乏しかった。が、棚に並んだ白磁のカップの美を、薄暗さが際立たせていた。トーストは家内に任せたが、飲み物は迷わず紅茶にした。白いカップを見るなり、 斎場のおカミさんにつながったからだ。耳もついた5枚切りトーストの真ん中には、海苔がかぶさっていた。海苔からはみ出した部分は、美味さ約束のキツネ色だ。スポット照明が、トーストを照らしてくれていた。添えられた紅茶は懐かしや、カップの底まで透き通って見えていた。バターが溶け込んだトーストには、醤油が散らされていた。これが味の決め手だった。バターの塩味と醤油とは競わず、互いに引き立て合っている。その旨味を吸い込んだ海苔と、トーストとを同時に頬張るのだ。呑み込んだあと、口中に留まっている至福感。極上の塩味を、砂糖を加えた紅茶の甘さが、さらなる高みへと持ち上げてくれた。あの日以来、 紅茶こそデカフェに変わったが、自宅の朝食は海苔トーストである。木造宿舎も崖下の喫茶店も失せた。が、紅茶と海苔トーストのおいしい記憶は健在だ。
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あの時の「おいしい記憶」と結びついた味は、一生の宝もの。笑顔や優しさを与えてくれる「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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今回は、第12回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「だれもが初体験の正月」をお届けします。
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「だれもが初体験の正月」 山本一力
昭和20年代後期、こども時代を過ごした町は木造平屋と二階建てばかりで、鉄筋建物はなかった。大晦日には、朝から町はしょうゆとみりんが主役の「おせち作り」の香りに包まれた。当時の木造家屋は気密性からは遠く、隙間だらけと言えた。大半の家には冷蔵庫もなかった。そんな暮らしでも、一夜明ければ元日だ。どこの家も朝から、おせち料理を作り始めた。冷蔵庫はなくても真冬なら、ひと晩を越しても傷みはしない。 しかも濃い味付けだ。八畳ひと間で、天井板も張られていない市営住宅の大晦日。料理の熱源は炭火の七輪と練炭火鉢、焚き口ひとつのかまどだ。それらを総動員し、母は次々と調理を進めた。とはいえ鍋釜の数は限られている。煮物から始めた献立が出来上がると深皿に移し、鍋を洗って次の料理に取りかかった。上がり框に並べられたどんぶりや深皿には、新聞紙がかぶせられた。日常の暮らしにはなかった美味しげな香りは、こどもを激しく刺激した。我慢できず覆いを持ち上げたら。「外で遊んできなさい」の声が飛んできた。どの家の隙間からも漂い出ていた、大晦日のあかし。こどもたちは鼻をひくつかせながら、寒空の下、原っぱで遊んでいた。 * 60年余りが過ぎた、今年の大晦日。我が家は、おせち作りが朝から始まる。が、例年とは大きく様子が異なるだろう。長男も次男も巣立った。高齢者の親父に感染させられぬと、元日も顔を出さぬという。正月はカミさんとふたりで祝う段取りだ。そんななかでも、大晦日の台所周りは、ホウロウのボウルで埋まるはずだ。煮物、焼き物、和え物、酢の物、甘味物。献立に応じて千切りにしたり、塩出しをしたり、角の面取りをしたりと、手前の支度が必要だ。それらの食材がボウルの内で、出番に備えているのだ。高知の大晦日、おせち作りにこどもの出番はなかった。カミさんは巧みにこどもの手を借りてきた。昆布やスルメを鋏で切るのも、出来上がりを重箱に形よく詰めるのも、こどもに委ねた。わたしは遠い昔同様、邪魔せぬように原っぱならぬ、床屋に出かけてきた。丑年を迎えるための、今年の大晦日。故郷には帰らず、実家から離れて新年を迎える方も多々おられよう。我が家とて同様だ。同じ都内にいながらも、親とは別に暮らしている長男も次男も、次の元日には顔を出さぬと伝えてきた。元日を共にできぬと、親父は落胆。「来ないと決めた気持ちを察しなさいよ」きつい一発を女房から食らい、老いては子に従えの箴言が、耳の内でぐわんと響いた。おいしい記憶は時空など、やすやすと越えてしまう。積み重ねてきた正月の記憶は、帰らぬと決めたあなたの脇で息づいている。
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どんな時にも、毎日おとずれる食の機会。2020年は、新しい生活様式が求められ、食をとりまく環境も変化しましたが、あらためて「食」の価値に気づくきっかけにもなりました。あなたの「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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今回は、第13回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「知らんざったけんど、郷里の味!」をお届けします。
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「知らんざったけんど、郷里の味!」 山本一力
2021年5月下旬。郷里のヒロシから、超弩級の宅配便が届いた。前日に電話を受けており、宅配便の中身は分かっていたのだが……。土佐の桂浜は、かつては五色の小石が浜を埋めていた景勝地。月の名所としても知られ、昭和初期建立の坂本龍馬立像が、眼前に広がる太平洋土佐湾を見詰めている。景勝地ながら桂浜に打ち寄せる波濤は、うかつな浜遊びを許してはくれない。波打ち際から一気に落ち込んでいる浜は、昔から遊泳禁止だ。「波打ち際に近寄ったらいかん!」遠足時、先生からこれをきつく言われた。ヒロシはそんな土佐湾に、自家用漁船で出漁。カツオとキハダマグロを一本ずつ。スチロールのトロ箱には収まらず、段ボール箱二つをつないだ、規格外れの荷姿で。丸ごとのカツオが届くと知らされるなり、カミさんはヒロシの奥方かよちゃんに、電話を代わってもらった。そして。「カツオのあら煮はしょうゆと砂糖、日本酒で間違っていませんよね?」と確かめたら。「うちではマダケを一緒に煮ているのよ」家の裏山で採れたマダケを茹でて、同梱してくれていた。細長いマダケは、もちろん見知っていた。が、マダケ入りカツオのあら煮など、あのときまで食べたことはなかった。 * 昭和30年代の高知では町の鮮魚屋の大半が、店先でカツオをさばいていた。真ん中の太い背骨何尾分もを、皿一杯5円~10円で売っていた。身も美味いが骨に残った身は安くてうまいことを、あの時代の客は知っていた。亡母が煮つけてくれたカツオのあら煮は、甘辛いご馳走だった。赤貧の母子家庭では、カツオ身のタタキは手が届かない。が、あらなら毎日でも買えた。両手で骨を持ち、背骨にへばりついた身を食べた。甘味の少なかったあのころ、甘辛い骨の身は飛び切りのおかずだった。皿に残った煮汁は、ごはんにかけた。食べ盛りのこどもは、煮汁だけで一膳のごはんを平らげたものだ。ヒロシが釣り上げたカツオをさばいたのは、プロならぬカミさんだ。嬉しいことに背骨には、たっぷり身がへばりついていた。マダケと合わせ煮したら、さぞかしカツオの旨味がまとわりつくに違いないと思うと、生唾が口に広がった。鍋から噴き出す蒸気には煮ガツオ特有の香りに、しょうゆ・砂糖・日本酒が絡まっていた。が、タケノコ臭は含まれていない。どんな味になるのやらと、不安も感じた。出来上がりに箸をつけるなり、カミさんと顔を見交わし、同時に「美味い!」が出た。初めての賞味だったが、これぞ土佐の味だと身体が騒いだ。海の鰹も山の筍も、あの土佐の空気と水とで育っていたから。
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あなたにも、ふるさとやゆかりの土地での「特別な味」はありますか? 食材や料理、人とのつながりが紡ぎだす「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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今回は、第14回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「ゆげが ごちそう」をお届けします。
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「ゆげが ごちそう」 山本一力
今年も新春早々から、豪雪被害が報じられてきた。地球規模で英知と行動を結集し、牧歌的な四季に戻さねばの願いを込めて。 * 1960年代。高知市内のアーケード繁華街では、方々の店先で湯気が噴き上がっていた。冬場の郷土料理「蒸し寿司」を仕上げる蒸気窯からの湯気だった。「こどもは風の子、外で遊んでこい!」親に言われた子は、商店街を目指した。蒸気の柱が林立したアーケードで、片っ端から蒸し寿司の窯に手をかざして回った。湯気の暖と、甘酸っぱい香り。「おとなになったら、これを食べに来たいにゃあ」と、こどもは生唾を呑み込んだ。 * 東京生まれのカミさんも、真冬の小学校登校時、店先に出ていた暖に触れたという。蒸し寿司ならぬ「肉まん」の蒸かし器だ。時代は1970年代初頭。当節ではコンビニ冬の定番品だろうが、70年代は店先に出して、立ち上る湯気の暖と香りで、誘っていたようだ。つい先日の厳寒日、たまらなく蒸し寿司を食べたくなった。が、いまでは郷里ですら大半の店では、品書きから失せてしまった。幸い、カミさんは冬季高知で、何度も蒸し寿司を賞味していた。「うちで作ってみようか?」異論あろうはずもない。調理道具屋に出向き、小型正方形の蒸籠をふたつ買い求め、調理に取りかかった。五目寿司を下敷きにし、しいたけ・かんぴょう・グリンピース・薄切りかまぼこ・タイそぼろを混ぜ合わせる。錦糸たまごを散らして形が調う。その蒸籠を蒸し器に納め、強い蒸気で蒸し上げる。「しいたけ・かんぴょうは甘がらき味にして、しっかり味を染み込ませるのがコツぞね」蒸し寿司店のおかみさんから教わった。「蒸し上げに、短気は損気やきに」これで仕上がりと思ったあと、さらに追加蒸しを加えなさいとも、教わっていた。蒸し上がるまでを使い、椀を仕立てる。タイそぼろには馴染みの鮮魚屋さんで求めた、新鮮なタイのあらを使う。骨の身を剥ぎ取り、甘がらく煮て、そぼろとする。骨はうしお汁のダシだ。冬の青物(小松菜、三つ葉など)に、薄切りかまぼこの残り、そうめんで、うしお汁を仕上げる。手間さえ厭わなければ、安上がりだ。「あつつッ」と言いつつ蒸し器のふたを取ったとき、内に溜まっていた湯気が、ぶわっと噴き上がってくるが。湯気は冬の魔法使い。恩恵を享受したければ、手間を惜しまぬのが秘訣だ。常温でも美味い五目寿司。蒸し上げられると酢飯も具も、格段に美味さを増してくれる。 蒸し寿司には箸より匙がいい。こんもりすくったほかほか酢飯が放つ「ゆげがごちそう」。
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四季折々の恵みを感じながら、食をたのしむこと。食卓での会話や和やかな雰囲気。そんな「おいしい記憶」を思い出し、あたたかい気持ちになれますように。
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