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PLENUS RICE TO BE HERE

PLENUS RICE TO BE HERE

Author: J-WAVE

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この番組は作家・文献学者の山口謠司が、日本の食文化を通して全国各地で育まれてきた“日本ならではの知恵”を紐解くポッドキャストです。(FMラジオ局 J-WAVE 81.3FM では毎週月曜日から木曜日 15:10〜15:20にオンエア中。)



526 Episodes
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仙台でいただいたのは、七ヶ浜産のハマグリを使ったお椀。春のイメージが強いハマグリですが、「浜の栗」という名のとおり、秋のハマグリもまた格別の味わい。「煮ハマグリ」のお寿司も美味しいですが、若き寿司職人たちが握る、力のこもった一貫と、修行のために“握らない”という覚悟。それぞれの形で「寿司」と向き合う姿に、食の奥深さと人の温かさを感じます。お昼こそ寿司!シャリの量に込められた小さな工夫にも、江戸前の知恵と粋が息づいています。
仙台というと「夏目漱石」を思い浮かべます。なぜか…? 実は東北大学に漱石の膨大な蔵書や資料が「漱石文庫」として所蔵されているからです。 東北大学の図書館の館長であった愛弟子の小宮豊隆が、漱石の功績を残そうと、東京の漱石宅から搬入し、それによって戦災での消失を免れたのです。そんな東北大学の創立100年を記念して「吾輩は羊羹好な猫である」という漱石にちなんだ羊羹も発売されました。私の大好物の「唐墨のお茶漬け」と漱石の大好物だった羊羹。この組み合わせで食べると漱石の文学がサラサラっと入ってくるような気がします。
仙台の人にとって、なくてはならない食材「芋がら」。里芋の茎の部分を干したものです。これを煮物、酢の物にします。若い頃、医学を学ぶため仙台に住んでいた中国の文学者・魯迅(ろじん)は、この「芋がらの汁」を食べたがのどを通らなかったと書き記しています。魯迅は、仙台で人生の師に出会い、医療の最先端を学びます。医療で中国を近代化するためでした。しかし、その授業の最後に見た「日露戦争の映像」で衝撃を受け、そのまま文学に転向します。芋がらの汁の味は苦難の味となり、魯迅を世界を変える文学者へと進ませたのでした。
仙台で「フカヒレスープ」を頂いて来ました。美味しいですね。宮城県の気仙沼は、昔からサメ・フカ漁が盛んでした。フカのヒレを乾燥すると最高級の「フカヒレ」になります。江戸時代、仙台藩は、この「フカヒレ」を中国に輸出して、莫大な利益を得ていました。そんなフカの中でも、ずっと泳ぎ続けていなければいけないホオジロザメを見ていると、ココ・シャネルのこんな言葉を思い浮かべます。『翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんなことでもしなさい』
兵庫県豊岡市、ここで育まれた但馬牛は、赤身の柔らかさと、口の中で柔らかく溶ける脂の甘みで知られます。そんな豊岡の象徴のひとつ「玄武洞」は、五角形の玄武岩柱が並ぶ神秘的な洞窟です。後にこの地の岩石を研究した松山基範博士が、「地球磁場の逆転」という世界的発見を発表しました。たとえ磁場が変わっても、北を守る玄武のように、変わらぬ食の力が、私たちの暮らしを静かに支えてくれています。
豊岡市を含む兵庫県北部は、かつて「但馬」と呼ばれ、金・銀・銅をはじめ多種の鉱物が採掘できるエリアで、日本の歴史に深く関わりながら発展しました。古くは奈良の大仏を作るために銅やすずを献上し、明治時代以降は、国の近代化を支えた科学技術の原材料となりました。江戸時代までは、箸だけを使って食事をしていましたが、近代化によって、西洋からナイフ・フォーク・スプーンが入ってきます。その原材料にもなりました。そうした鉱山は「鉱石の道」として日本遺産にもなっています。
豊岡には、「杞柳細工」という伝統工芸があります。たくさん自生しているコリヤナギという柳の一種を使って、さまざまなカバン、お弁当箱が作られています。もともと、豊岡を流れる円山川の氾濫が多く、米が収穫できなくなり、生活のため始められたものでした。 明治以降は「行李」が生まれました。市内にある販売店を訪ねると、様々なお弁当箱かばんが置かれていて、選ぶのに迷ってしまいます。 自分で作ることのできる講習もあるので、参加してみてはいかがですか。
豊岡市で、特別栽培米「コウノトリ育むお米」というおいしいお米を食べて来ました。一度絶滅したコウノトリを再生するために作った田んぼで育ったお米です。コウノトリが生息していくために、田んぼの周りにいる生物が30種類以上できれば50種類ぐらい生息していることが必要と言われていますが、そんな田んぼで作られたお米はやっぱり美味しいんです!
兵庫県の「城崎温泉」は、1300年もの歴史を誇る日本有数の古湯。奈良時代、コウノトリが傷を癒したという伝説をきっかけに発見されたと伝わっています。明治以降は海軍や陸軍の療養地としても発展し、人々の体と心を癒してきました。文豪・志賀直哉も滞在した老舗旅館「三木屋」では、かつて宿泊客が自炊をして過ごしたという、温泉本来の“湯治”文化の名残が今も息づきます。温泉街に佇む「温泉寺薬師堂」には、薬師如来が祀られ、湯そのものが“薬”として人々を包み込みます。体を温め、薬膳を味わい、病を遠ざける——。古来より続く癒しの知恵が、今日も静かに湯けむりの中に漂っています。
冬になると全国から「カニ好き」が集まってくる城崎温泉。城崎のある日本海西部は「ズワイガニ」の宝庫です。それぞれの地域でブランド付けられています。城崎で提供されるのも「津居山ガニ」「香住ガニ」「柴山ガニ」と3種類。これを「お刺身」「茹でる」「焼く」「鍋にする」とカニの代表的な4つの味わい方で一日一回食べるとしたら3✕4で12日必要です。さらに城崎温泉の人気の「外湯」6つを巡りながら食べるとすると、さらに6をかけて72日。城崎温泉はそのくらい湯治に行きたいと思わせてくれます。
『城の崎にて』 志賀直哉の短編小説です。山手線にはねられ怪我をした志賀が、療養のため訪れた城崎温泉での様子を描いた「私小説」の代表的な作品です。志賀が定宿にしていたのは「三木屋」という旅館でした。現在は旅館として営まれていますが、志賀がやってきた1913年頃は、食事は自分で作って泊まるという「湯治宿」です。そんな宿の女将に志賀直哉は、「ぼくは朝食にパンが食べたい」と言います。女将は「パン」という言葉さえ知りません。果たして、志賀の要望はどうなったのでしょうか。
京都・舞鶴の港に並ぶ「赤レンガ倉庫群」。明治時代、欧米の港町文化とともに全国へ広まったレンガ建築は、日本の蔵とは異なる、どこか温かみのある佇まいを見せます。その赤褐色は、まるでチョコレートのよう。舞鶴のレンガ倉庫には、かつて海軍の食料だけでなく、甘い菓子やビールのように心を和ませる品々も保管されていたのかもしれません。カカオ色の壁が並ぶ港町で、人々の暮らしと味覚の記憶が静かに息づいています。
舞鶴市内には縄文時代から人々が豊かに暮らしていた痕跡があり、それは市内各地の遺跡で確認されています。弥生時代に入ると「稲作」も始まります。舞鶴の海・山の恵みは、飛鳥時代になると庶民が味わうだけでなく、天皇へも献上されるようになります。持統天皇のいた「藤原京」へは、「カワハギの干物」が貢がれたことが記録に残っています。対馬海流が運ぶ舞鶴の海の幸は、古来から天皇さえ納得させるおいしさだったのです。
舞鶴港は、第二次大戦後13年間にわたり、シベリアなどに抑留された多くの人々の引揚者を受け入れました。戦後歌い継がれてきた歌謡曲『岸壁の母』。シベリアで抑留された息子の帰還を信じ、舞鶴港に立ち続けた母親の心情を歌った曲です。港の近くには、その姿をモチーフにした「母の像」が佇んでいます。抑留された人々も極限状態の中で思い出したのは、こうした母親の姿だったでしょう。母親からかけられた言葉、作ってくれた温かい食事を思い浮かべながら、必死に生き延びたのではないでしょうか…。
京都・舞鶴にある松栄館。昔は旅館でしたが、今はレストランだけの営業をしています。こちらの大広間には、明治時代の元帥・東郷平八郎が書いた 大きな掛け軸が飾られています。「天地正大氣」という文字、東郷の満ち溢れる気迫と優しさを感じることができます。この松栄館では、当時の味を復元した「海軍カレー」や 東郷が留学先のポーツマスで覚えた味と言われている「シチュードビーフ」などを食べることができます。
京都・天橋立の端にある「智恩寺」の門前に、335年もの歴史を持つ「四軒茶屋」があります。 そのはじまりは、智恩寺の住職が四人の弟子に「茶屋を開け」と命じ、それぞれに違う団子とあんこの作り方を授けたこと。以来、四軒は互いに客を「次はお隣へ」と勧め合い、共に繁栄を続けてきました。智恩寺に祀られるのは、知恵の仏・文殊菩薩。“知”は的を射抜く矢、“恵”は切れずにつながる糸を表すように──人と人、知恵と知恵が結び合うことで、天橋立の文化は、今も息づいています。
天橋立のある阿蘇海の入江に「与謝野町」というまちがあります。与謝野といえば、与謝野鉄幹・晶子夫妻。そして与謝といえば、与謝蕪村を思い出します。実際、蕪村は3年ほど天橋立のある宮津に住み、俳句を作り、絵を描いていました。画人としては人々の描写に「音が聞こえてくる」ような独特の味わいを絵にし、俳人としても、情景が目に浮かぶような句を詠みました。「のたりのたり」と、蕪村は穏やかな海を表現します。それは干満の少ない天橋立あたりの海の様子を的確に表現したものでした。
日本三景の一つ「天橋立」。古事記にも登場します。「国生み」「神生み」を行ったとされるイザナギノミコトとイザナミノミコトは天橋立と関連が深いとされています。神生みの途中で命を落とし、黄泉の国に行ってしまったイザナミにどうしても会いたいと思ったイザナギ。地上で会うためにはしごを用意します。しかし、寝ているうちに倒れてしまい、それが天橋立になったと言われています。またこのあたりでは「グジ(甘鯛)の松かさ焼き」が名物になっています。
天橋立で有名なのが「股のぞき」。その始まりは、明治時代と言われています。まるで「龍が天に昇るように見える」そんな謳い文句で観光地「天橋立」を全国に知らしめたのです。同じく観光地に人を集めると言えば、松尾芭蕉の句碑。全国、色々な所にありますが、天橋立にも、「一声の 江に横たふる ほととぎす」という芭蕉の句を刻んだ句碑が建てられています。でも、実は、松尾芭蕉が天橋立を訪れた記録はありません。一体なぜ、ここに芭蕉の句碑があるんでしょうか?
「無関心」を英語では「nonchalant(ノンシャラン / ノンチャラン)と言います。ランチミーティングなどで、会議に夢中になって無意識にランチを食べていませんか? そんな食べることに無関心なランチを「ノンチャランランチ」=「ノンチランチ」と名付けてみました。フランスを代表する小説家のバルザックも「食」に対して、無関心、無頓着な「ノンチランチ」の人でした。小説を書くことに全てを注ぎ、そのエネルギーを満たすために、ひたすら食べる、そんな生活から生み出されたフランス文学の金字塔とも言える名作が「人間喜劇」という作品です。
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