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きくタビ
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3月 17 日(日)に開催されたタビラジ初のバスツアー
「ABC ラジオ・タビラジ × ひすとりぃわん! ミニツアー」の模様をOA!
多聞城~東大寺大仏殿~信貴山城…と廻った今回のツアー。
臨場感たっぷりにお届けします~!See omnystudio.com/listener for privacy information.
都市大阪の歴史を古代から現代まで紹介しています。9階には
江戸時代の曽根崎新地を描いた「浪華曽根崎図屏風」が展示され、
蜆川での船遊びや木造の梅田橋の様子を知ることができます。
「浪花まちめぐり」展示とあわせて「水の都」の景観を
追体験してみてください。博物館の建物の平面形は船を、
隣のNHKは帆をイメージしています。See omnystudio.com/listener for privacy information.
大阪城は豊臣秀吉が築城し徳川秀忠が再建した城郭ですが、
その縄張りには自然の地形が利用されたと推測されています。
そのうち西側の外堀は天満橋の東側に下る谷筋を利用しており、
これにより大阪歴史博物館南側で発見された5世紀の大型倉庫群と
古代の難波津が結ばれていた可能性があります。See omnystudio.com/listener for privacy information.
八軒家浜に接する土佐堀通りに建つ老舗の昆布店。創業は1873(明治6)年。See omnystudio.com/listener for privacy information.
古代、海のない奈良に代わって国内外との人・物資往来の玄関口となったのが
難波津です。その場所は江戸時代の川港があった八軒家浜一帯と推測されます。
八軒家浜は大阪と京都を結ぶ川船のターミナルとして旅籠が建ち並び、
幕末には坂本龍馬、西郷隆盛らも利用しました。
船の利用者の安全を確保するために建てられた燈籠が復元されています。See omnystudio.com/listener for privacy information.
中之島の東端に架かる橋。大川(正式には旧淀川)はここで堂島川(北側)と
土佐堀川(南側)に分かれます。最初の架橋年代は不明ですが、
1594(文禄3)年には架けられたとの説があります。
難波橋・天満橋とならぶ江戸時代の大阪を代表する三大橋のひとつで、
もっとも長い約250mを誇りました。See omnystudio.com/listener for privacy information.
毎年7月24日・25日には大阪を代表する天神祭が開催されます。
24日の宵宮祭におこなわれる鉾流神事ではここから神鉾(かみほこ)が
流されます。元来は神鉾が流れ着いた場所を御旅所とし、
そこで神事が執り行われたのち神霊を迎えたのが船渡御(船行列)でした。
現在の御旅所(行宮)は西区千代崎にあります。See omnystudio.com/listener for privacy information.
蜆川の最上流部、堂島川から分かれる地点に架けられていた橋です。
近松門左衛門の浄瑠璃『心中天の網島』で小春・治兵衛が心中のため
曽根崎新地から網島に向かう途中に渡った橋のひとつです。
1909(明治42)年の北の大火後、蜆川が埋められて廃橋となりました。See omnystudio.com/listener for privacy information.
曽根崎変電所は1936(昭和11)年に竣工し、現在の建物は二代目です。
開業当時は大阪市電への給電施設で、地下鉄の開業当初は停電時の
給電を担いましたが、現在では御堂筋線へ電気を供給しています。
全体に巨大な船のようなデザインであり、南側壁に細かく張り出した
窓の小壁が特徴的です。See omnystudio.com/listener for privacy information.
蜆川にちなむ蜆楽筋はありし日の新地の面影が偲ばれる路地として貴重です。See omnystudio.com/listener for privacy information.
堂島の北に位置する曽根崎は、18世紀初めに堂島から色町が
移転することで開発が本格化しました。そのためここは新地(北の新地とも)
と呼ばれ、現在にいたるまで多くの飲食店でにぎわっています。See omnystudio.com/listener for privacy information.
堂島の地名は15世紀までは確実にさかのぼりますが、一説に
聖徳太子が四天王寺を造営した際に当地にもお堂を建てたことが語源とも、
川に挟まれて鼓の筒に似ていることが語源ともいいます。
ここはかつて東西にも南北にもずれながら交差する「卍字辻」という四つ辻で、
本尊の薬師如来像(室町時代)は1909年の大火でも被害を免れました。See omnystudio.com/listener for privacy information.
蜆川に架けられていた橋。曽根崎堤に立っていた桜の大樹が
風によって倒れ、自然と丸木橋になったものを後に
架け換えたものといわれています。
1909年の大火で被災し再建されませんでしたが、
現在は交差点の名前として道路交通情報などでしばしばその名が聞かれます。See omnystudio.com/listener for privacy information.
出入橋の近くにある老舗の和菓子(きんつば)屋。
創業は1930(昭和5)年。See omnystudio.com/listener for privacy information.
1907(明治40)年から1908年にかけて堂島川とかつての大阪駅を結ぶ
掘川が完成し、それと蜆川が交差する地点に架けられたのが出入橋です。
掘川は現在なくなりましたが1935年竣工の石造の出入橋は残り、
大阪市内では珍しい石畳の光景が見られます。
阪神電車は1905(明治38)年の開業時点は起点がここにありました。See omnystudio.com/listener for privacy information.
梅田橋はかつて蜆川に架けられていた橋のひとつです。
蜆川の埋め立てによって廃橋となりました。現在では
その北東に位置するこのビルが唯一橋の名前を伝えています。
1980年の定礎と刻まれています。近松門左衛門が著名作
『曽根崎心中』のお初がいた茶屋はこの付近だったようです。See omnystudio.com/listener for privacy information.
かつて堂島の北側を蜆川(曽根崎川)が流れていました。
淀川の分流のひとつで、名の由来は蜆が採れたためなど諸説あります。
1684(貞享元)年からはじまった淀川治水工事にともない整備され、
9つの橋が架けられました。1909(明治42)年の北の大火後、
瓦礫の捨て場となって東半分が埋立てられ、
1924(大正13)年にはすべて姿を消しました。See omnystudio.com/listener for privacy information.
江戸時代に各藩の蔵屋敷が立ち並んだ堂島の一角に朝日放送があります。
敷地南側の玉江橋北詰には慶応大学の創始者福沢諭吉が生まれた
中津藩(大分県)蔵屋敷がありました。堂島川に架けられた玉江橋からは
かつて南方5㎞にあった四天王寺の五重塔を見通すことができ、その光景は
絵にも取り上げられ大阪の名所のひとつになっていました。See omnystudio.com/listener for privacy information.












