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ひとりひとりの人生・オンリーワン
ひとりひとりの人生・オンリーワン
Author: Talk Shift
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© Talk Shift
Description
特別な人でなくても、一人ひとりに価値
① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、
だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。
世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。
「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。
② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。
私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。
「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。
③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。
④ さらに、この番組はゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。
⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。
① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、
だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。
世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。
「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。
② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。
私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。
「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。
③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。
④ さらに、この番組はゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。
⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。
110 Episodes
Reverse
今回のゲスト・依田さんは、かつてはバリバリ働くキャリアウーマンでした。「私は大丈夫」みんな、同じことを言いますよね。依田さんも、そう言いながら、休みなく働き続けた結果——自分自身が病気になるという経験をしたのです。全身真っ黒、体重30kg、余命宣告——それでも彼女は立ち上がった「もう家で、一人で死んだ方がマシ」そう思った女性が出会ったのが、何千年もの歴史を持つ「中医学」の知恵でした。奇跡の回復を遂げるまでの人生物語です。元気とは何か?私たちが忘れかけている「生きる」という意味とは?その答えが、この30分の中にあります。PS依田さんのYouTube、インスタライブ、ブログ、LINEなどの情報は下記リンクからチェックしてみて下さい。【LINE】https://lin.ee/xCF4Tf1【Facebook】https://www.facebook.com/yukange#【YouTube】https://m.youtube.com/channel/UCiXxVy2IoyWdOBkM1oVxOCA【Instagram】https://www.instagram.com/yukari.ange【アメブロ】https://profile.ameba.jp/ameba/yukariange/ママズの家 セミナー (蛇窪神社横)2/24 11:00〜 インスタライブ 2回/月3/2511:00〜 インスタライブ 2回/月
「こんな人生、ドラマでも信じてもらえない」徹夜続きのバブル期の電通プロックス。タクシーチケットを振っても、タクシーが来ない時代。 朝3時、4時に家に帰り、シャワーを浴びるだけの日々。そんな激務の中、彼女はCMを作り続けた。電通プロックスを退職した依田さんはドクターデヴィアス化粧品という高級化粧品ブランドで、売上120億を達成。さらにプロデューサーとして独立。 華やかなキャリアの裏で、彼女の身体は確実に蝕まれていった。 今回のゲストは、依田侑香里さん。現在の肩書きは「医学气功師」と「国際中医薬膳師」。でも、そこに至るまでの道のりは、波乱万丈の人生。 1.シャワーのためだけに帰る家――バブル期、彼女の限界点撮影現場に女性がほぼいない中、依田さんは電通プロックスの関連会社でCM制作担当として働いていた。1年目から徹夜の連続。「家に帰るのはシャワーを浴びるため」という日々だった。しかし、会社でも休めない、家でも休めない。当時うつ病だった母親は彼女の帰りを待ってましたとばかりに母親は彼女の部屋に来て、ずっと喋り続ける、怒鳴り続ける。 父親は夜の10時に帰らないと、プロデューサーにまで怒鳴り込む人だった。限界を迎え、電通プロックスは病気が原因で退職することに、、、 2.一流企業から、4万3000円の部屋へ「私の人生、どうなるんだろう」母親から家を出たら「縁を切る」と言われる矛盾。 病気で電通プロックスを退職した彼女は、病気を治すために病气治療を経て月4万3000円のアパートで、ゼロからの人生を始めることを選んだ。 3.派遣から始まった、次の時代派遣社員としてようやく辿り着いたのが、NTTドコモの黎明期。 「携帯なんて売れるか」と言うおじさんたちの中で、彼女は毎月「何万台達成!」という時代の転換点を目撃する。 4.畑違いの挑戦が、会社を急成長させた「もう激務はやめよう」広告業界は好きだけどやめておこうと思っていたのに、やっぱり好きで正社員としてドクターデヴィアス化粧品の広報企画本部に入社。広告の人間なのに、商品開発。でも、それが運命の転機となる。彼女が関わった商品は、会社を20億、40億、80億へと急成長させた。ようやく掴んだ成功。ようやく見えた光。 8.独立し、限界は、静かに近づいていた依田さんはドクターデヴィアス化粧品を退職し、プロデューサーとして独立後はさらに過酷な仕事が加速します。 9.病院で目覚めたら、肌が黒くなっていた3年が経ったある日、彼女の身体は限界を迎える。 突然の入院。パジャマに着替えたところまでは覚えている。次に目が覚めたとき、依田さんは全身が真っ黒になっていた。最初は4人部屋だったはずが、気づけばナースステーション横の特別室に移されていた。 看護婦長さんがずっと付き添っていたという。「先生、これは何なんですか?私は黒人になったんですか?」医師も答えられなかった。 「免疫が間違ったとしか言えない。メラニンを大量に発生してしまったのかもしれない。元に戻るまで、1年はかかると思う」しかし1年では戻らなかった。3年経っても、彼女の肌は真っ黒だった。いや、今も完全には戻っていない。 10.爪、髪の毛がなくなり、老婆のような姿にそれは始まりに過ぎなかった。1日3食きちんと食べても、彼女の体重はどんどん落ちていく。髪の毛が抜け落ちた。爪までなくなった。「爪ってなくなるんだ」と、依田さんは驚いた。体重は30kgまで落ち込み、中の肉がなくなったせいで、座っているだけで骨が痛む。余った皮膚がペロンと垂れ下がる。太ももも、お尻も。顔はシワシワになり、まるで知らない老婆のようだった。トイレに行くたび、鏡に映る自分の姿を見て「誰、これ?」と思う。そして「ああ、私か」と気づく。自分の姿を忘れるほどに、彼女は変わり果てていた。身体だけではない。お金も、人も、すべてが消えていった。 12.もう、この人生を終わりにしてください3年が経ったころ、依田さんは毎晩、天に祈るようになった。全身真っ黒で、髪も爪もなく、体重30kg。お金も人も失い、「もう、この人生を終わりにしてください」「私はもう無理です。この依田侑香里という人生は、もう限界です。このままでは路上生活になる。家賃も払えなくなる。自殺も考えた。でも飛び降りて、もし生き延びてしまったら?半身不随になったら?怖くて、自分では死ねなかった。未来が見えなかった。 今、あなたは「やりすぎ」ていませんか?依田さんの物語は、ただの成功談ではありません。月曜日から金曜日まで毎日終電帰り、土日も休まず働き続ける。栄養ドリンクで身体を騙し、「私は大丈夫、大丈夫、仕事が好きだから、全然へっちゃら」と言っている人たち。 自分のことを後回しにして限界を超えて働いた先に何があるのか?そして、本当に大切なものは何か。その答えが、このエピソードにあります。そして、そこからどうなったのか?どうやって彼女は、「漢方医」という全く異なる世界へと辿り着いたのか? この配信では、依田さんの口から語られる、リアルすぎる昭和と、何度倒れても、立ち上がり続けた女性の物語が明かされる。 彼女は今、穏やかに、そして力強く、漢方医として多くの人を救っている。 人生に「遅すぎる」なんてない。人生に「終わり」なんてない。そう思わせてくれる、圧倒的な物語が、ここにある。
起業する気などなかった青年が、なぜ30億円企業を作れたのか。8年間も影に徹しながら、なぜ4億円を稼げたのか。そして、過疎地域の廃校で、なぜ新しいビジネスを始めたのか。 その答えは、彼の人生そのものの中にあります。起業を考えているあなたへ。逆境をチャンスに変えたいあなたへ。地方創生に興味があるあなたへ。一人ひとりの人生には、必ず学びがある。 1.高校卒業10日前、人生は始まったこの男、ただ者ではない。高校卒業まであと10日。普通なら卒業式の準備をしている時期に、高校を中退し、彼は家を出た。先輩の家に転がり込んで7日。「早く出てけ」と言われ、築地で住み込みの仕事を始める。そして1年後、結婚。さらに3ヶ月後には子供ができていた。20歳で父親になった男、碇さんの物語がここから始まる。築地で働きながら音楽活動を続ける日々。しかし、そこには「遅刻OK」「飲酒運転も薬物使用も黙認」という独特の世界が広がっていた。「ここにいたら人間的にやばい」そう感じた碇さんは、冷凍庫のオペレーター、半導体工場へと転職を重ねていく。 2.理解されない選択を、選び続けた人そんな中、北海道の実家から連絡が入る。父親が病気で手術が必要だと。中学生の弟を残すわけにはいかない。妻子を連れて北海道へ。父親は家業を継いでくれると期待していた。しかし碇さんの答えは違った。「2拠点生活をしよう」墓も2箇所、家も2箇所、仕事も家業と自分のやりたいこと、両方やればいい――。30年以上前、そんな提案をした男がいた。当然、理解されなかった。「お前とは意見が合わない」。再び東京へ。 3.今の若者に足りないのは「行動力」だ碇さんは語る。「今の子たちは頭がいい。でもリスクヘッジばかりで行動が足りない」「リスクヘッジじゃなくて、リカバリーで考える。右に曲がりながら方向修正する方が頭を使った方がいい」「やらない選択肢は誰でもできる。PDCAを1回転目でやめてしまう」この言葉、あなたの心に刺さりませんか? 4.Windows95前夜、パソコンとの出会いが人生を変える碇さんは、元々ミュージシャンを目指していた。しかし、現実は厳しかった。「パソコンで音楽編集しないと、これからのミュージシャンは売れないぞ」Windows95が出るか出ないかの時代。そんな言葉に後押しされ、半導体工場で働きながらパソコンを購入した。音楽の道を諦めた青年が手にしたパソコン。それが、彼の人生を大きく変える「原型」となった。半導体工場では、派遣法の制約で年間10ヶ月しか働けなかった。2ヶ月の空白期間をどう過ごすか。そんな時、中古パソコンのオークション会社のアルバイト募集を見つけた。「パソコンが安く買えるかもしれない」という軽い気持ちで飛び込んだその会社で、碇さんは中古パソコン販売の面白さに目覚める。世の中にほとんど知られていなかった、その可能性に。 5.「絶対に会社なんてやりたくない」と思っていた男実は、碇さんには起業する気など全くなかった。家業が自営業で、人を雇う側と雇われる側の間の苦労話をさんざん聞いていた。「絶対にこんなのやりたくない」。それが彼の本音だった。しかし、運命は彼を起業へと導く。中古パソコン会社で働いていた時、経営者から声をかけられた。「社員になるか、それとも独立して会社を持って、うちの業務を下請けしてくれないか」そして、あの提案が来た。「月額80万円で、アルバイト18人分の仕事をやってくれ」「計算が合わないんです。ちょっと預からせてください」どう考えても無理な話だった。普通なら、ここで断る。しかし、彼は違った。相手の会社の業務と自社の業務をうまく組み合わせる方法を考えた。数日後、彼は「逆提案」を持って再び、その経営者の前に現れる。場所を借りる、リソースを一緒に使う。条件を整えた逆提案を持って行き、「これを飲んでくれるなら80万円で受けます。飲んでくれないなら受けられません」と交渉した。経営者は、その提案を受け入れた。この一手が、のちに年商30億円を超える企業グループへの扉を開くことになる。冷静に考えれば、断るべき条件だった。 6.8年間、影に徹した男起業したものの、碇さんには奇妙な制約があった。「会社名で営業してはいけない。代表の名前も出してはいけない。表に出るな」。オークション会社の事情で、運営を外部委託していることを明かせなかったのだ。会社は立ち上げた。しかし、8年間、彼は影に徹した。インターネット通販だけで販売し、営業活動は一切しなかった。それでも、結果は驚異的だった。初年度で売上4億円。3年で10億円に到達した。「超超ブラック企業スタイル」と彼が振り返る、猛烈な働き方があったからこそ実現できた数字だった。8年後、ようやく碇さんは表舞台に立つことを許された。会社名もリペアシステムサービスから株式会社RSSへ、そして現在の株式会社リングローへと変わっていった。 7.廃校が、ビジネスになる中古パソコン事業を軌道に乗せた碇さんは、次なる挑戦に目を向けた。「中古パソコンは、20代後半から50代の男性には人気がある。でも、それ以外の層にはハードルが高い」。そのハードルをどう下げるか?彼は常に考えていた。ある時、壮大なアイデアが浮かんだ。「ビルを1棟、サーバーにしよう」。パソコン内部のようなサーバー設備を持つビル、アミューズメントパークのような空間。しかし、見積もりを取ると「何億円かかるかわからない」と言われた。資金力が足りない。諦めかけた時、彼の頭に別のアイデアが浮かんだ。「廃校なら、タダで借りられるかもしれない」日本全国で、人口1万人以下の小さな町や村から、企業が撤退していた。携帯キャリアも店舗も閉め、地域の人々は十分な情報を得られず、「別にいらない」「使わなくてもいい」という選択をしている。それは、もったいない。碇さんは、廃校を拠点に、デジタルデバイド対策を始めた。地域全体を顧客化し、ハードウェアのメンテナンスからサポートまで提供する。誰も手をつけていなかった、ブルーオーシャンの領域だった。 8.ブレない軸、柔軟な手段音楽からパソコン、中古パソコン販売から廃校利活用へ。一見バラバラに見える碇さんの選択には、実は一本の太い軸が通っている。目標への圧倒的なコミット力。そして、「手段はあの手この手でいい」という柔軟性。「順調なんてことは全然ない。常に山あり、谷あり」と碇さんは語る。年商30億円を超える企業を築いた裏には、語りきれないほどの苦労があった。今、彼が見据えているのは、リングローをコーポレート化してグループ企業として成長させること。そして、一般社団法人として運営している廃校利活用事業を公益社団法人にして、各拠点を自走させること。「その地域のものにしていきたい」という、彼の想いは揺るがない。 今すぐ聴く 高校中退から始まった型破りな人生。その先に見えてくる、本当に大切な「行動力」とは何か。リスクヘッジではなく、リカバリーで生き抜く。 碇さんの人生哲学が、あなたの明日を変える。「やらない選択肢は誰でもできる」今すぐ聴いて、あなたも一歩を踏み出そう。
ドイツのフランクフルトで、老夫婦に道を尋ねられた。タイでは、現地の女子大生にアンケートを求められた。「いや、俺日本人なんだけど…」英語はろくに話せない。でも、世界中どこへ行っても、人と仲良くなれる碇さんは、2つの会社を経営されています。• リングロー株式会社 代表取締役社長・創業者• 廃校利活用の一般社団法人 代表理事一見、優しく穏やかな表情からは想像できない、波乱万丈の人生。大人を困らせた「めんどくさい子供」が、どのようにして成功企業を築き上げたのか?その答えは、彼の幼少期の経験と、培われた独自の価値観にありました。 ありふれた成功ストーリーではありません。これは、型にはまらない少年が、自分の「欠点」を最大の「武器」に変えて駆け上がった、唯一無二の人生物語です。 1.笑顔の裏に、型破りな子供時代優しい雰囲気の経営者・碇さん。しかし、その印象とは裏腹に、彼の幼少期は「とにかく、大人の揚げ足を取り、めんどくさい子供」だったと本人が語ります。 「社長の親じゃなくて良かった」「こんな子供欲しくない」——今でも社員からそう言われるほどの、型破りな子供時代だったのです。 2.普通じゃない子供時代が、普通じゃない人生を作る「働かざる者食うべからず」碇さんの家には、お小遣い制度はなかった。欲しいものがあれば、交渉する、働く、対価を得る。同級生がお小遣いをもらっているのを見て、羨ましかった。でも今思えば、それが彼の原点だった。小学2年生。150円を握りしめて、勝手にバスに乗った。目的地は親戚の家。親は困惑した。「なんでそこにいるの?」「行きたかったから」見知らぬ土地へ行くこと。見知らぬ人と出会うこと。それが、彼の生き方になった。 3.北海道の自転車旅行者に声をかけ、家に連れて帰る少年学校帰り、北海道の国道沿いで旅人を見つけると、声をかける。「よかったら、うちでご飯食べてって」親は最初驚いたが、やがて慣れた。「またか」赤の他人が1人、2人増えても、誰も気にしない。それが、碇さんの育った環境だった。 4.「厄介な性格」こそが、経営者としての武器碇さんの特異な能力: (1) 恐るべき記憶力飲み会の会話も、面接時のやり取りも、すべて記憶。「その話は忘れてください」と社員に言わしめるほど。(2) 本質を見抜く観察力人の行動、会話、矛盾——すべてを見逃さず、一言一句覚えている。(3) 幼少期からのビジネスマインドお小遣い制ではなかった家庭環境で、小学生時代から自力で稼ぐ術を編み出していた。 5.高校卒業まであと10日を残して、なんと高校中退中学生の頃、音楽に目覚めた。「東京でやりたい」父は最初、理解を示してくれた。東京の専門学校にも泊まってもらった。でも、卒業直前になって、父は言った。「行く必要ねえだろう。早く働け」約束が、覆された。「じゃあもう、高校行くのやめる」卒業まで、あと10日。校長先生まで出てきて説得された。でも、彼の決意は揺るがなかった。「約束を破られたなら、俺も約束を守らない」ギター1本、着替え3日分、現金3万円。それだけを持って、彼は東京へ向かった。 6.有言実行。手段を問わず。高校3年の2月。音信不通で家を出た。ギター1本。着替え3日分。現金3万円。先輩の家に転がり込んだ。捜索願が出るかどうか、というギリギリのライン。でも、彼にとっては当たり前のことだった。「やると言ったら、やる」 7.この男の人生は、まだ序章に過ぎない目的にコミットした時の強さ。周りがドン引きするほどの行動力。それが、会社の立ち上げに。AIの活用に。すべての成功に繋がっている。碇さんの物語は、ここから始まる。常識を超えた人生を生きる男の、本当の話。あなたの人生観が、変わるかもしれない。あなたの「めんどくさい部分」も、実は誰にも真似できない強みかもしれない。碇さんの物語が、あなたの人生の見方を変えるかもしれません。
1.「あ、私それになる」──その瞬間、すべてが動き出した就職へのモチベーションがなかった。専業主婦になるつもりだった。それなのに、慌てて就職活動をして、なんとか福岡の不動産会社に滑り込んだ八起さん。1日100件の営業電話をかける日々。バリバリの営業職。新人賞を獲得するほどの成績を残しながらも、社内のゴタゴタで退職。誰もが「普通の人生」を歩むと思っていた24歳の女性が、ある出会いで、22年続くコーチング人生への扉を開けることになります。その出会いとは、、、 2.変屈な私でも、納得できた「私、結構変屈だと思っていて」八起さんは自分をそう表現します。何かを学ぶとき、いつも心の中で「いや、そうは言っても」「ここが押し付けがましくないか」と疑問を抱いてしまう。素直じゃない、可愛くない。そんな自分に気づいていました。恋人との喧嘩が絶えない。喧嘩をしたくて付き合っているわけじゃないのに、どうしてもぶつかってしまう。どうしたもんか──。そんな悩みを抱えていたとき、朝日カルチャーセンターの新聞広告で「コーチング」という言葉を見つけました。カルチャースクールに通い始めた八起さん。そして、運命の2回目の講座で、講師がこう言いました。「コーチングを専門にして、1対1でコーチをする職業があるんだよ」その瞬間──「あ、私それになる」恋愛の悩みはどこかへ消えていました。 3.高校時代から繋がっていた、見えない糸説明会で提示された会社名は「コーチ21」。スクリーンに映し出された社長の名前を見て、八起さんは息を呑みました。「伊藤 守」高校時代、繰り返し繰り返し読んでいた本の著者。あの伊藤 守さんが作った会社。「絶対間違いない」働いて貯めたお金、約70万円を迷わず即申し込み。福岡から電話会議システムという当時の最新の技術を使って、スクールに通い始めました。 4.「自由」という言葉がポロッと出た瞬間八起さんの口から、何度も出てくる言葉があります。「自由」と「納得」小さい頃から、制約されることが苦しかった。納得しないと前に進めない。そんな変屈な自分でも、コーチングは受け入れてくれました。押し付けない。教えるというスタンスを貫かない。自分に考えさせる。自分に気づかせる。「自由に、自分のペースで成長ができる。そんな変屈な私でもやっていけるっていう確信しかなかった」2005年1月2日。開業届を提出。それから22年間、八起さんのコーチング人生が始まります。 5.売上は好調。なのに、心は地獄だった。「クライアントは目標を達成していく。でも、私には、それがハリボテにしか見えなかった」八起さんがそう語る時、その声には今でも当時の苦悩が滲んでいました。35歳で育児休暇から復帰した彼女が飛び込んだのは、いわゆる「稼げる系コーチングスクール」。売る方法は完璧に教えてくれる。実際、売上は順調に伸びていきました。でも、提供するコーチングの質は「ズタボロ」。目先の目標達成だけを追いかけ、クライアントの本当に大切な価値観、腹の底にある想いには触れることができない。自分が良いコーチングができていないことを、誰よりも自分自身が分かっていたのです。「良くないものを売り続ける苦痛が、きつすぎた」 6.「計画的育児休暇」の5年間実は八起さん、20代でコーチングの道に入り、順調にキャリアを積んでいました。個人クライアントへのコーチング、研修講師。副業もしながら、着実に実績を重ねていた彼女が選んだのは、30歳から35歳まで丸5年間、仕事を完全にストップして育児に専念すること。「保育園に預けるという発想を持っていなかった」と笑う彼女ですが、その5年間は単なる休息ではありませんでした。「毎日トライアスロンをやっているみたい」自分の限界を突破し続ける日々。3人の子どもを育てながら、彼女は"プロの専業主婦"として、自分と向き合い続けていたのです。 7.技術を取り戻す――そして、仲間を救う稼げる系スクールを離れた八起さんは、コーチングのスーパービジョン練習会に通い、徹底的に自分の技術を立て直しました。すると、不思議なことが起こります。かつてのスクール仲間たちが、次々と彼女に相談を持ちかけてきたのです。「コーチングができない」「クライアントからクレームが来た」「キャンセルされてしまった」困っている人たちが目の前にいる。そして、コーチングの契約をもらえるということは、それ自体が奇跡のようなことだと彼女は考えていました。 「お金を払ってまで、1人の人を雇うんです」 その奇跡が、技術不足によって壊れていくのを、業界の一人として放っておけなかった。恐る恐る始めたコーチング指導。でも、彼女が教えた人たちは、どんどんコーチングができるようになっていきました。「私、うまいじゃん」――その瞬間、新しい道が開けたのです。 8.感覚ではなく、エビデンスで伝える八起さんのコーチング指導には、明確な哲学があります。「感覚で伝えない」セッションを文字起こしを行い、エビデンスを示しながら解説する。「ここの関わりが良かった」「この質問はクローズドになっていて相手を追い詰めている」――黒板に書くように、見える化し、スキルとして伝えていく。でも同時に、こうも言います。「それは私の主観であって、唯一の答えではない」極めて冷静に、理論的に。でも、クライアント一人ひとりの心境に寄り添いながら。 9.「労働者」として生きる幸せ今、八起さんは3つの柱で活動しています。ワンオンワンのコーチング、コーチング技術指導、そして企業研修。「事業をもう一回り大きくしたい」と言いながらも、彼女が目指すのは途方もない成功ではありません。「もっと自由に遊びたい。真面目に楽しみたいんです」労働を愛し、腕まくりして「よっしゃ行くぞ」と働く。短時間で集中して働き、自由な時間を生み出す。「私は労働者だと思っていて、そういう自分が好き」等身大。無理に大きく見せない。圧をかけない。それは夏目漱石の言葉「則天去私(天に則り、私を去る)」にも通じる、彼女のコーチング哲学そのものでした。八起さんの人生には、自分らしく生きるためのヒントが詰まっています。
なぜ、彼女は中学時代に「鎧」を着ていたのか?「芸能人に詳しくないと…深夜番組を知らないと…1日3本映画を見に行けないと…」私立女子中学で感じた息苦しさ。周りに合わせるために着ていた見えない鎧。でも、公立高校に転校したその日、彼女は初めて気づいたのです。「あ、自分のままでいいんだ」と。その瞬間、彼女の人生が動き出しました。今回のゲストは、コーチング歴22年のプロのエグゼクティブコーチ、八起(やおき)さん。福岡を拠点にオンラインで全国のクライアントをサポートし、コーチ育成にも携わる業界屈指のベテランです。1.“鎧”を着て生きた中学時代八起さんの原点は意外にも、「大人数が苦手」「女子より男子と遊ぶ方が楽」「自由でいたい」という、少し風変わりな小学生時代にありました。八起さんが語る中学時代の「鎧」事件は、多くの人の心に刺さる物語です。私立女子校で感じた居場所の悪さ。友達と遊びに行けば、休日に3本も映画を見るような派手な遊び方。芸能人や深夜番組の話題についていかなければ、、、「どんだけお金使って遊ぶんだろう」「そんなに何本も映画なんて見たら疲れるよ」と心の中で思いながらも、無意識に合わせていた自分。2.鎧を脱いだ少女の再生物語家族の引っ越しをきっかけに公立高校に転校したとき、世界が一変しました。「裸で運動場を駆け回るみたいな素朴な学校」で、彼女は初めて鎧を脱ぐことができたのです。私立時代には「知らない方」だった自分が、公立では「いろんなことを知ってる人」になった。友達から「そんなに知らなくても全然いいんだって」と言われたとき、彼女は悟りました。「私、努力しなくていいんだ。ついていこうとしなくていいんだ」と。この経験こそが、八起さんの今のコーチング哲学を形作っています。3.人は変わらない。でも“環境”が人を活かす「人は根本では変わらない。でも、それとどう付き合うか」。気を使う性格も、自由を求める心も、大人数が苦手なところも、小さい頃から変わらない。でも、環境によって、その個性が苦痛にもなれば、強みにもなる。両方の学校を経験したからこそ、彼女は「自分にとっての心地よさ」を知ることができました。4.高校時代に見つけた「自分の役割」執行部という部活動。40km遠足の企画運営。文化祭の副運営委員長。表舞台に立つのではなく、裏でゴソゴソと準備をする。当日、みんながスムーズに動いていく様子を見守る。「私がトップの役をやることは違うな」派手な運動会の盛り上げ役には関わらない。でも、行事の裏方では誰よりも輝いていた。彼女は気づいたのです。自分の好きなの裏方。**「人がうまくいくサポートをすること」**だと。5.あなたは、自分の「役割」を知っていますか?大学生の頃、多くの同級生が就職活動に奔走する中、一人の女性は違う夢を描いていました。「私は、有能な専業主婦になりたい」周りからは珍しがられたその夢。でも彼女の中では、すでに明確な人生哲学が確立されていました。6.専業主婦も、コーチも、本質は同じ「専業主婦は家族がうまくいくことをサポートする影の存在」「コーチはクライアントがうまくいくのをサポートする影の存在」主役はあちら。私は裏方。そう語る八起さんの目は、驚くほど澄んでいました。学生時代から一貫して持ち続けてきたこの価値観。それは今も、彼女の人生を貫く一本の軸となっています。7.「やってみる」ことで見えてくる道多くの人が気づかない自分の適性を、なぜ八起さんは早くから理解できたのか?答えはシンプルでした。「やりたいことをやってみる人だったから」合うこと、合わないこと。好きなこと、苦痛なこと。ひとつひとつ試して、確認して、自然と「自分」が見えてきた。父親が会社経営者だったこともあり、就職というレールを意識せずに育った彼女。だからこそ、自分の心に正直に生きられたのかもしれません。8.付け焼き刃の就職活動、そして...「卒業と同時に結婚」の予定が、相手がいないという現実に直面。慌てて始めた就職活動は、企業にことごとく見破られ、内定は一社のみ。でも、そんな中でも八起さんが最初に行動したのは...整理収納アドバイザーへの直接アプローチ飯田久恵さんという著名なアドバイザーの本に心を動かされ、どうにか電話番号を調べて直接連絡。「アシスタントの募集はないですか?」結果は「もっと人生経験を積んでからおいで」という返答。でも、この行動力。このまっすぐさ。「すごく慎重派だけど、静かに行動してます」彼女自身は謙遜しますが、多くの人はこれを「行動派」と呼ぶでしょう。9.自分を知る旅は続く「自分のことは分かってるような、分かってないような」そう笑う八起さん。でも、自分が何に心引かれているか、何に興味があるか。それを慎重に感じ取り、調べて、行動する。この繰り返しの中で、彼女はある出会いを果たします。コーチングとの運命的な出会い—続きは、八起さんの人生物語②で「裏方」という役割に誇りを持ち、人をサポートすることに生きがいを感じる女性。彼女がどのようにしてコーチングと出会い、どんな人生を歩んできたのか。あなたも、自分の「役割」を見つけるヒントが、ここにあります。このエピソードは、自分らしさを見失っている方、周りに合わせて疲れてしまう方、コーチングに興味がある方、そして自分の個性との付き合い方を知りたいすべての方に聴いてほしい内容です。22年もコーチングを続けられる秘訣が、実は自分の個性を受け入れることだったという事実に、あなたも驚くかもしれません。「鎧を脱いだ瞬間、本当の人生が始まる」──あなたも、自分が無意識に着ている「鎧」に気づくかもしれません。八起さんの22年のコーチング人生の原点を、ぜひあなた自身の人生と重ね合わせながらお聴きください。この番組では、ゲストの人生を深く掘り下げ、その人だけの「オンリーワン」なストーリーを配信しています。今すぐ再生ボタンをクリックして、八起さんの物語を聴いてみてください。あなたの「鎧」は、どこにありますか?
うれしーーーーい!なんと北村さんが2度目の登場です! まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。 今回は、新生北村!新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。 成功を恐れる経営者の、誰にも言えなかった本音がここにあります。 あなたは今、何と戦っていますか?その答えが、この配信の中にあるかもしれません。 1.「俺の方がすげえ」あなたは今、何と戦っていますか? 「俺の方がすげえ」 かつて北村さんの心を支配していた、この言葉。 大企業で出世競争に明け暮れ、ベンチャー企業の「C◯◯O」という肩書きを名刺に刻むことが人生のゴールだった男。成功している人を見ては比較し、自分の価値を測り続けていた。 でも今、彼は全く違う戦いをしています。「他人」ではなく「自分」と戦う日々へ。 2.「このままでいいのか?」現在、50社の顧客を抱え、契約率は驚異の30%(業界平均3%)。一件一件の仕事に真剣に向き合い、目の前の人を大切にする。そのサイクルが「あったかい」と北村さんは言います。順風満帆に見えるビジネス。なのに、なぜ彼は不安なのか?「大きな成功を手にした時、また昔の自分に戻ってしまうんじゃないか?」この番組で語られるのは、成功者の華やかな物語ではありません。むしろ、成功を恐れる経営者の正直な葛藤です。 3.「友達不要論」から「大切な人を大事にする」へかつて効率を追求し、人間関係さえもコスパで測っていた北村さん。それが今では「誰かのために何かをする楽しさ」を知り、「酒がうまい」と感じる瞬間を人生の指標にしています。でも、彼はこう言うのです。「油断すると、また変わってしまう気がする」この価値観の転換は、どうやって起きたのか?そして、なぜ彼は「満心」を警戒し続けるのか? 4.一度は全てを失った経営者が、たどり着いた"本当に大切なもの"とは?大きな仕事を取れば取るほど、心は不安になる。成功すればするほど、失うことが怖くなる。「このままでいいのだろうか…」50歳を過ぎ、一度は廃業を経験した北村さん。 再び起業した今も、心の奥底に迷いを抱えていました。 5.成功の裏に隠された"ビビり"の正体個人事業主として、3年半。順調に見える日々の中で、北村さんは大きな矛盾を抱えていました。「大きな仕事は取りたい。でも、取った時にビビってしまう」なぜなのか?それは、太いご縁が切れる恐怖。安定を手に入れた瞬間に、それを失う不安が襲ってくる。そして何より、自分の"器"への自信のなさ。50歳を過ぎて一度失敗した自分に、本当にそれだけの価値があるのか— 6.対話の中で見えてきた"本質"しかし、対話を重ねる中で、北村さんの表情が変わり始めます。「仕事がある喜び」創業時につけた会社名「Work Be」に込めた想い。それを語る時、北村さんの目は自信に満ち、声にはエネルギーが溢れていました。仕事は単なる収入源ではない。人を成長させ、自己実現のツールであり、そこで作られる関係性に人生がある。営業で何度も断られ、「向いていない」と思った日々。それを乗り越えた先にあった、絶大なる成長とやりがい。 7.たどり着いた答えは、驚くほどシンプルだった「それだけでいい」大きい仕事も小さい仕事も、法人化も個人事業も— 実は、それらは本質ではなかったのです。北村さんが本当に大切にしたいもの。 それは「仕事がある喜び」を伝え続けること。成功する前の絆奏が大切。結果が出ないからと辞めてしまう人たちに、働く喜びを伝えたい。対話の最後、北村さんの顔は驚くほどすっきりしていました。 8.50年かけて気づいた"本当の価値"「もっと早く気づけば良かった」そう笑う北村さんですが、50年かけて気づいたからこそ、 その価値観の変化は本物でした。一度は全てを失った経験。それがあったからこそ、仲間のありがたさ、支えてくれた人たちへの感謝、 そして「仕事がある喜び」の尊さに気づけたのです。 9.聞いてください:本音の経営論北村さんの言葉から「結局、正直に自分を見つめた時、良かったかどうか。仕事も人生の一部。分けてないんです」「昨年の自分に勝つ。これが僕なりのゴール」「成功体験に溺れてしまうリスク。大きな仕事が取れた時、また曲がってしまうんじゃないか」 10.聴けば分かる、"本物の気づき"が生まれる瞬間この配信では、リアルタイムで北村さんの表情が変わり、声のトーンが変化し、エネルギーが満ちていく様子が分かります。コーチングの対話を通じて、 一人の経営者が自分の本質にたどり着く17分間。計算された成功ストーリーではない、 生々しい人間の変容の物語がここにあります。 ひとりひとりの人生「オンリーワン」北村さん回 - 50歳からの再起、そして気づき 今すぐ再生して、本物の"気づきの瞬間"を体験してください。「余計なことは考えない。仕事がある喜びを、これからも伝えていきたい」
うれしーーーーい!なんと北村さんが2度目の登場です! まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。 今回は、新生北村!新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。 北村さんの人生物語は、まだ完結していません。法人化という新たなスタートラインに立つ彼が、これまでの3年半の経験をどう語り、そしてどんな未来を選ぶのか── 今回の人生物語で明かされること ― 数千万円を失った絶望からどう立ち直ったのか?― 97%の断りをどう乗り越えたのか?― 「友達不要論者」から「仲間こそ全て」への価値観の大転換― 法人化を前に揺れる本音と、これからの選択そして何より──成功した後に訪れる「本当の迷い」をどう乗り越えるのか 1.二度目の挑戦、それは絶望からのスタートだった北村さんは、かつて数千万円の早期退職金を全て失い、廃業という痛恨の経験をしています。高校時代、うまく陸上で推薦を受けながら、自分のパフォーマンスを発揮できなかった時から、彼の人生は「うまくいった瞬間にこける」パターンを繰り返してきました。愛知県から東京へ、そしてグループ全体の責任者へ ──20年間積み上げたキャリアは、上司との衝突で一瞬にして崩壊。そこから始まった再起への道。それは想像を絶する厳しさでした。 2.97%の「NO」と向き合う日々ゼロから顧客を作る。ペンネーム「Work Be」として活動を始めた北村さんを待っていたのは、月100件のうち、97件に断られるという現実でした。そう97%も断られ続けたのです。普通なら心が折れる数字です。しかし、彼は歩み続けました。Work Be売上推移の数字だけ見れば成功です。でも、北村さんは今、迷っています。 3.「このままでいいのか?」法人化の決断に揺れる心株式会社として正式に歩み出す──人生に一度あるかないかの節目。嬉しいはずのこの瞬間に、北村さんは立ち止まります。「一定作りたい世界は作れた」「でも、過去を振り返ると、そう思った瞬間にこけてる」成功体験がトラウマになる。そんな矛盾を抱えながら、彼は自問します。このやり方を続けることが、本当に正しいのか? 4.3年半で掴んだ「本当の宝物」数字、実績、安定した生活──それらを手に入れた北村さんが気づいたこと。それは、**「仲間の存在」**でした。97%断られる中で出会った仲間たち。一緒に仕事を取りに行く相棒。支えてくれる友人たち。「組織にいた時は、同僚や後輩がいるのが当たり前だった。でも今は違う。1人だからこそ、仲間の存在の大きさが分かる」かつて「友達は踏み台」と言い切っていた男は、今こう語ります。「全ては仲間がいて実現している」 5.80点から90点への挑戦──彼が選ぶ次のステージとは?0点から80点への道のりは険しくとも、確実に前進できました。しかし、80点から90点へ──この10点が、最も難しい。「3年続けることには可能性がある。でも、同じことを10年続けることが正解なのか?」法人化という節目を前に、北村さんは新たな決断を迫られています。 6.人生は、うまくいった時こそ試される仕事がうまくいった日。 北村さんは一人で飲みに行きます。 それは、自分への問いかけの時間。「慢心していないか?」「大切な人を大切にできているか?」 7.かつて「友達不要論者」だった男の告白「なんで分かってくれないんだろう」「自分が正しい、自分が一番できる」北村さんは、そんな風に考えていた時代を振り返ります。 客観的に見ると「つまんないやつだった」と。そこに戻りたくない。その強い思いが、今の彼を支えています。 8.廃業という転機が教えてくれたもの厳しい廃業を経験し、必死で生きていく中で、気づいたら価値観が変わっていた。今、北村さんが大切にしているのは2つ。①大切だと思う人を大切にできること (スターになりたいわけじゃない)②相手を思う気持ち (プレゼントを渡す前に考えている時間が楽しい)50歳を過ぎて気づいた、この喜び。 9.成功の陰にある、静かな悩み「いいやつの後ろには、いいやつがいる」多くの人に支えられ、濃厚な時間を過ごす日々。 でも、人が増えれば一人当たりの時間は減っていく。アクセルを踏むのか ?ブレーキを踏むのか ?次の予定が入ってしまい、ちゃんと御礼を言って、帰れなかった日。振り返って、悔いが残る。成功している人だからこそ抱える、関係性の総量という悩み。 10.3年後も笑顔でいるために「なんで分からないんだろう」と思っていた自分には、油断すると戻ってしまう危機感がある。だから、今日も問い続ける。大切な人を大切にできているか、と。プライベートでも、仕事でも、 疲れた顔ではなく、笑顔でいたい。それが、北村さんの願いです。 11.相手を思う気持ちを忘れてないか?自転車操業から抜け出し、今は多くの人に支えられながら充実した日々を送る北村さん。その言葉の端々には、 失敗を経験した人だけが持つ深みと優しさがあります。「相手を思う気持ち」が何より大切。そう語る彼の笑顔の裏には、戻りたくない過去と、守りたい今があります。 12.今すぐ視聴人生の転機を経験したすべての人へ。 北村さんの率直な語りが、あなたの心に響くはずです。「このままでいいのか?」と悩むすべての人へ贈る、リアルな再起の物語第2回では「油断すると戻ってしまう」という危機感について、さらに深く語ります。お楽しみに。
「辛いからこそ、楽しさが増すんです」42.195kmを走り切る苦しみ。山頂を目指す険しい道のり。それでも、また挑戦したくなる理由。 今回の「オンリーワン」では、 ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて人と人を繋ぎ続ける樫村さんの人生に迫ります。 1.体調不良をきっかけに気づいた「本当の健康」とは?「心臓に良くないと思っていたんですよ」そう語る樫村さんは、かつてランニングを避けていました。体には自信があり、大きな病気もしたことがない。そんな彼の人生が大きく変わったのは、2019年の出来事がきっかけでした。韓国旅行から帰国後、突然襲った「帯状疱疹」。痛くて眠れない夜。「こんなにしんどいのか」と初めて自分の体の限界を知った瞬間でした。医師から告げられた言葉は「ストレスから来ているのでは」。自分は健康だと思っていた。でも、そうじゃなかった―。 2.夏の夜、山下公園で始まった小さな一歩人生の転機は、意外なところから訪れます。ビジネスで交流のあった小池さんが、夜な夜な山下公園でランニングをしていることを知った樫村さん。興味はなかったけれど、「これも何かのご縁かな」と思い、一緒に走ってみることにしました。夏の夜風。汗をかいた後の、立ち飲みの焼き鳥屋でのビール。「ラン後のビールが、めちゃくちゃ美味しくてですね・・」そこから始まった小さな習慣が、やがて450人のコミュニティへと成長していくことになるとは、誰が想像できたでしょうか。 3.「旗の下に人が集まる」―ラン部誕生秘話2人から3人へ。そして徐々に仲間が増えていく中で、樫村さんたちは「グローバル人事塾RAMVE」を立ち上げます。「ラン部だと、よくわかんないから、ローマ字でRANVEにしよう」「RANVEの「V」はビクトリーのVですね」デザイナーに依頼して作ったロゴマーク。そして、人事塾同様のサイズの旗。「旗の下に人が集まるっていう本能を考えて、なんと旗も製作」旗の製作費を捻出するため、小池さん企画:村田さんへ講師を依頼し、ランニングセミナーを開催。コロナ禍の2020年、オンラインで集まった参加費で、ついに旗が完成しました。 4.健康、つながり、そして人生の豊かさ「足は動くんで」右肩を脱臼する自転車の事故に遭われたも関わらず、樫村さんは近くハーフマラソンに出場する予定です。樫村さんがランニングに見出したものは、単なる健康維持だけではありません。・島を走り、山を走り、現地のランナーたちと出会う。・旅先で見る景色。・仲間との語らい。「人生の豊かさを広げてくれる」そして、樫村さんにとっての豊かさとは―「人と人との繋がりの中で生まれるもの。自分から進んで動いた結果として、自然につながっていく関係」 5.フルマラソンの苦しみの先に見つけた、人生の真理「辛いからこそ、楽しさが増すんです」樫村さんは、42.195kmを走り切る苦しみについて、そう語り始めました。フルマラソンを走っている最中は、むちゃくちゃ辛い。めちゃくちゃしんどい。でも、最後まで走り切った時の達成感と楽しさがあるから、やめられない。そして、その感覚はマラソンだけでなく、人生のすべてに通じている。40代で出会ったランニングが、樫村さんの人生を大きく変えました。ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて、新しい出会いが生まれ、その繋がりが次の繋がりを呼び、気づけば出版の話まで舞い込んでいたのです。『「RANVE」に誘った難波さんのご縁で大村さんと出会いました。そこから繋がっていったんです』そう『副業の超基本』です。樫村さんの言葉には、人との出会いへの感謝と、その偶然の連鎖への驚きが込められていました。 6.すべての行動の中心にある、たった一つの軸仕事、出版、ランニングコミュニティ、グローバル人事塾、そして昨年からスタートしたランニングチーム。一見バラバラに見える活動の数々。しかし、それらすべての中心には、たった一つの明確な軸がありました。「繋がりを作る、ということですね」 樫村さんは、自分の人生にとって最も大きなキーワードは「繋がり」だと語ります。それは、マンダラチャートの中心に置かれた言葉のように、すべての活動を支える核となっているのです。 自分自身が繋がりたいという思いもある。でも、それ以上に、誰かと誰かを繋ぐことで得られる喜びが大きい。樫村さんは、繋がりを作るエンジンのような存在として、多くの人々の人生に関わり続けています。 しかし、その繋がりには、大切な条件がありました。「無理しない中で、自然に繋がる人との関係性を大切にしていく。気がついたら一緒にいるよね、という人たちとの関係が、人生にとって一番大事なんです」無理して作った関係ではなく、自然に繋がっていく人たち。そういう人たちとの出会いが、次の扉を開いていく。樫村さんの人生は、まさにその連続でした。 7.60歳までに叶えたい、世界を駆け巡る夢話が進むと、樫村さんの表情が、ふと笑顔に変わりました。その笑顔の意味を尋ねると、樫村さんが60歳までに叶えたい夢を語り始めたのです。世界6大マラソン、アボット・ワールドマラソンメジャーズ。ボストン、ニューヨーク、シカゴ、ベルリン、ロンドン、東京。この6つの大会を完走することで得られる、6つの輪がある星のフィニッシャーメダル。60歳までに、それを手にすることが目標なんです。「海外だと、イタリアとか、ドバイとか、ケニアも走ってみたいですね。世界中のレースに出てみたいという気持ちがすごくあります」樫村さんの目は、まるで既にその景色を見ているかのように輝いていました。そして、その夢は個人的なものだけではありません。ランニングチームで、海外ツアーもやってみたい。仲間と一緒に、世界を駆け巡りたい。そんな未来を描いているのです。 8.今から準備する、もう一つの人生の楽しみ方しかし、樫村さんは同時に、現実的な視点も持ち合わせていました。「今はある程度健康だから継続できているけれど、健康でなくなった時には継続できなくなることもある。だから、体が動かなくなった時に楽しめるものを、今から見つけておくことも、人生において大切なアクションだと思うんです」それは囲碁かもしれない。ゆっくりとしたハイキングかもしれない。あるいは釣りかもしれない。今の激しい趣味の先に、もう一つの人生の楽しみ方を見据える。その先見性こそが、樫村さんの人生を豊かにしている要因の一つなのでしょう。「この先のことは正直わからないですね。でも、どこかのタイミングで、また何か40代でランニングに出会ったような、全く新しい世界に触れるかもしれない。そういう予感はあります」 9.辛さと達成感が織りなす、人生の真理話は再び、マラソンの話に戻りました。フルマラソンを走っている時は、本当に辛い。でも、その辛さがあるからこそ、走り切った後の達成感は格別なのだと。「こんな辛いことに耐えて、まだまだいけるじゃん、って自信に繋がるんですよね」打ち合わせで悩んだり、どんなことをやろうか考えたり、辛いこともある。でも、終わってビールを飲んでいる時に「今日良かったな」という言葉が出てくると、すごく達成感が湧いてくる。「頑張りすぎずに、でもやり切るまでがんばってみる。やりたいことをやるということを、日々積み重ねていきたいんです」樫村さんのこの言葉には、人生を楽しむための絶妙なバランス感覚が表れていました。 10.あなたの人生の中心にあるものは、何ですか?樫村さんの「繋がりをつくる」という軸。その軸があるからこそ、自然と行動が繋がり、人生が豊かになっていく。「自分の中での達成感や満足感も必要だけど、やっぱり、誰かにそこで認められたり、応援されたりすると、より達成感が増すんですよね」樫村さんの最後の言葉は、人との繋がりの本質を表していました。 11.この配信があなたに届けるメッセージ人生は、一つの行動から始まります。そして、その行動が人との繋がりを生み、新しい出会いを呼び、予想もしなかった未来へと導いていきます。樫村さんの人生は、無理しない繋がりと、挑戦し続ける姿勢が、いかに人生を豊かにするかを教えてくれています。40代で出会ったランニングが、出版へと繋がり、新しいコミュニティへと広がっていく。その連鎖は、決して計画されたものではありません。自然に繋がっていった結果なのです。・辛いからこそ楽しい。・苦しみの先に達成感がある。・仲間がいるから頑張れる。そして、その経験が自信となり、次の挑戦への原動力となる。この配信を通じて、あなたも自分の人生の中心にある軸を見つけてみませんか?あなたのマンダラチャートの真ん中に置くべき言葉は、何でしょうか?
記念すべき100回目の配信は、いつも大変お世話になっている樫村さんです。パチパチパチ「今日、生きていてよかった」と思える樫村さんの人生物語を配信しました。1.いじめっ子だった少年が、人と人とを繋ぐリーダーになるまでいつもエネルギーに溢れ、行動力が半端でない樫村さん。ゼスト株式会社代表取締役、一般社団法人グローバル人事塾では、どんな場面でも、優しく場をまとめる“兄貴分”的な存在です。けれど――彼の人生を深く聞いてみると、まったく違う顔が見えてきました。横浜で生まれ、大阪、横須賀と転々としながら、常に「水」がそばにある生活環境で育った樫村さん。子供時代はガキ大将、学生時代は引っ込み思案、そして社会人では独立されて人を導くリーダーへ。55年以上の人生で培われた、**樫村さんの「本当の強さとやさしさ」**を、あなた自身の耳で確かめてください。 2.幼い日のトースター事件「幼稚園の頃、お腹が空いて、自分でパンを焼こうとしたんです。そしたら、トースターが燃えちゃって…」幼い樫村さんは、目の前で火があがるのをただ見ていることしかできなかった。どうしたらいいか、わからなかった。「両親がそばにいない寂しさ。何もできない無力感。」その光景は、50年以上経った今でも鮮明に記憶に残っています。それは、樫村さんの人生に繰り返し現れる「原体験」だったのかもしれません。 3.両親の離婚、そして“何もできなかった”悔しさ小学1年生のとき、両親の喧嘩。父が母に手をあげ、幼い彼はその場に立ち尽くしました。「悲しい。辛い。でも、どうすることもできない。」母をかばいながら、その無力感が胸に焼きつきました。愛情を求めても、うまく届かない。そんな“寂しさ”が、彼の中に静かに根をおろしました。 4.引っ込み思案の学生時代学生時代の樫村さんは、あなたが今見ている姿とは正反対でした。2〜3人の決まった友人としか遊ばない、非社交的な若者でした。 「えっ、あの樫村さんが!?」そう、信じられないかもしれません。毎日ライブハウス・レコード店に通い、音楽に没頭する日々。それは社会への反抗でもあり、現実からの逃避でもありました。「掴みどころのないありふれた人間」――周りから見れば、**「何者なんだ?」**という存在。「自分が好きになれなかった」孤独な人生。深い人間関係を築けない苦しさ。30代半ばまで、そんな日々が続きました。あの人を惹きつける笑顔も、愛嬌のあるトークも、実は“努力の結晶”だったのです。 5.しかし、そんな彼が変わった理由とは?「愛情に飢えていた10代」「寂しがり屋とリーダー、両方の顔を持つ矛盾」「2008年4月、起業という決断」樫村さんの人生には、私たちが学ぶべき**"何か"**があります。それは、過去のトラウマや弱さを抱えながらも、人生を切り開いていく勇気と行動力です。 6.43歳、人生が変わった瞬間「目立つのは嫌いだった。でも、どこか自由なアウトローに憧れていた」今では「とても社交的ですね」「コミュニティづくりが得意ですね」と言われる樫村さん。しかし、20代・30代の彼は、まったく違う人間でした。2013年、樫村さんが43歳のとき、すべてが変わりました。きっかけは、GCDF(グローバル・キャリア・ディベロップメント・ファシリテーター)という国際資格。資格取得後の継続学習プログラムを見て、彼は思いました。「高すぎるセミナー費用。これに毎月何万円も払うのか…?もっと安価で受講できるプログラムはないのか・・?」そして、ある決断をします。「だったら、自分で継続学習の場を作ればいいんじゃないか」 7.「グローバル人事塾」誕生2023年、樫村さんは『人事の力で世界をかえる!』をビジョンに「グローバル人事塾」を立ち上げます。最初はたった3人でスタートし、今では50名の有志・仲間が支えてくれている。月2〜3回、全国で10数年以上継続する人事コミュニティへと成長しました。でも、本業の時間を削って人事塾を存続させる意味はあるのか?と道半ばで自問自答しながらも、樫村さんは続けることができたのでしょうか?理事の松田さん曰く、「気合と根性と樫村の3Kで継続しているのがグローバル人事塾」。そう笑って答える樫村さん。でも、その裏には深い"生きがい"がありました。 8.インテリジェンス(現パーソル)時代に見た"不幸なマッチング"インテリジェンス (現パーソル)での横浜支店長時代、営業をしながら採用も担当していた樫村さん。そこで彼が目の当たりにしたのは——「どんなに優秀な人材を採用しても、すぐに辞めてしまう現実」それは単なる採用ミスではなく、"その人に合う環境設定がなされていなかった" という組織の問題でした。「この不幸なマッチングをなくしたい」その想いが、独立後の人材紹介事業をはじめるきっかけになった。そして人事担当者を育てる「グローバル人事塾」の設立へとつながっています。 9. 「今日、生きていてよかった」と思える瞬間グローバル人事塾の継続の秘訣を聞かれた樫村さんは、こう答えました。「生きている実感がするんです」参加者からの「すごく良かったです」「明日から実践できます」という一言。全国各地で開催しているグローバル人事塾での、参加者の笑顔。利益でも、損得でもない。精神的なご褒美が、彼を突き動かしていたのです。「周りが理解できなくても、自分が使命感を持ってやる。それがものすごく大事なことなんです」「実は永年のビジネスパートナーがきっかけで49歳で出会ったランニングもそうなんですよ」人事を変え、社会を変え、自身も変え続ける樫村さん。利益じゃない。損得じゃない。人を動かし続ける本当の原動力とは——今すぐ視聴して、あなたの明日のヒントを見つけてください。 『オンリーワン』で語られる、“人生の本音”いじめっ子だった少年が、やがて人の心に寄り添うリーダーになるまで。どんなきっかけで、彼は変わったのか?なぜ今、仲間を大切にするのか?そして――彼の中にある“寂しさ”は、どんな形で昇華されたのか?そのすべてが、『オンリーワン』で語られています。聴き終えたあと、きっとあなたも自分の人生を振り返りたくなるはずです。樫村さんの物語は、どこかあなたの心にも“流れ”を生み出してくれます。
1. あの日見つけた父の手紙が、人生を変えた ―「1日1秒を、命だと思って生きている人はどれくらいいるだろう?」会社員として多忙を極め、ストレスを酒で流しながら過ぎていく日々。そんな大村さんの人生が、一通の手紙で一変します。それは、41歳という若さで亡くなった父が、亡くなる数ヶ月前に書いた「最後の手紙」でした。「もっと生きたかった。1秒でも長く…」その言葉を目にした瞬間、彼は初めて“父と繋がった”と感じたと言います。そして気付くのです。自分が浪費してきた時間こそが、父の望んだ“生きたかった時間”だと。その日を境に、彼はお酒を断ち、「命を使う=使命を生きる」という生き方へと舵を切りました。そこから始まった人生の再構築。学び、出会い、コミュニティ、そして――出版。 📘 初著『片付けパパの最強メソッド』は、「部屋から人間関係、そして人生まで整える」というコンセプトで誕生。講演で出会った編集者の一言がきっかけでした。 偶然か、必然か。コロナ禍で空いた時間が、彼の人生の“使命”を形にするために用意されていたように。「命とは時間」「使命とは、命をどう使うか」大村パパさんの言葉には、体験からしか出てこない重みがあります。 2.【命=時間】亡き母が教えてくれた“人生の本質”あなたは、「命とは何か?」と聞かれたら、どう答えますか?大村さんがその答えに出会ったのは、母を看取った日のことでした。病室で、静かに息を引き取る母を前にして——「時間が止まったような空間」がそこにあった。その瞬間、大村さんは悟ったのです。「命って、“時間”のことなんだ。」その気付きが、すべての始まりでした。父、母と相次いで見送った経験。後悔、喪失、そして静かな確信。「命とは時間。そして、時間を大切にすることこそ、人を大切にすること。」それ以来、大村さんの人生は180度変わりました。仕事も人付き合いも、「どう時間を増やせるか」で考えるようになったのです。ある時、ホームページの設定に1日かかりそうな作業を、ITに詳しい友人が30分で解決してくれた。その瞬間、大村さんは気づきます。「あ、人と人が“得意”を分け合えば、時間を増やすことができるんだ。」それ以来、大村さんはこう呼んでいます。お互いの時間を増やし合える人を——「仲間」と。彼の活動はすべて、この哲学に貫かれています。講演も、本の執筆も、そして「まんせきBar」という交流の場も。そこには、単なるビジネスの話ではなく、「どうすれば命(=時間)を豊かにできるか」という問いが流れています。 3.「副業の超基本」──10年前の自分に届けたい1冊「副業を始めたいけど、何から手をつけたらいいのか分からない」「本業が忙しくて、時間もエネルギーも残っていない」そんな方々のために大村さんは、樫村さんと一緒に『副業の超基本』を12月5日に出版されます。3.1 サラリーマンを続けながら、副業を10年大村さんは某大手電機メーカーでマーケティング、そして現在は人材開発を担当。平日は会社員として働きながら、もう10年以上“副業”を続けてきました。言葉で言うのは簡単ですが、現実は甘くありません。時間は限られている。家族との時間、体力、そして心のバランス。それでも彼は、**「副業で人生を整える」**道を歩み続けてきました。それは、単なるお金稼ぎではなく、**「自分の生き方を整えるもう一つのキャリア」**だったのです。3.2 手探りの10年で気づいた“近道”がある「副業を始めた頃、正直、何もわかりませんでした。」と語る大村さん。だからこそ、この本には、**10年前の自分が読みたかった“地図”**が詰まっています。「無駄な時間を使ってほしくない」「遠回りじゃなく、近道を選んでほしい」経験者だからこそ言えるリアルな“超基本”。それはネット検索では手に入らない、実践者の知恵と、誠実なリアルを書かれています。3.3 副業は「がんばる」より「整える」この本は、副業ノウハウ本ではありません。それは、大村さんが“片付けパパ”として提唱してきた哲学とつながっています。「部屋が整えば、人生も整う」「副業も同じ。やみくもに動く前に、自分を整えることが大事」副業は「足し算」ではなく、「引き算」。やるべきことよりも、やらなくていいことを見つけること。その結果、時間が生まれ、人生が動き出す。3.4 読む人へのメッセージ『副業の超基本』は、「副業で人生を変えたい」すべての人へのガイドブックです。・副業を始めたいけど、何からすればいいか分からない人・今の働き方にモヤモヤを感じている人・自分らしい生き方を取り戻したい人そんな方のために執筆されています。📘 『副業の超基本』著者:大村 信(片付けパパ)、樫村 周磨発売日:2025年12月5日今さら聞けない 副業の超基本:知識ゼロ 経験ゼロから始める (今さら聞けない超基本シリーズ) | 大村 信夫, 樫村 周磨 |本 | 通販 | Amazon 10年前の自分に教えたい、最短の道。遠回りしないための“整える副業術”。「遠回りしたくない人」に届きますように。あなたの時間を、大切にするための1冊です。 4.「時間が足りない」と感じたら聴いてほしい、人生の近道の見つけ方今回のポッドキャストでは、大村さんの“人生の軸”がどのように生まれ、どう現在の活動につながっているのか——まるで一冊の自伝のように語られています。「この瞬間、僕らは命を分かち合っているんですよ。」そう語る大村さんの声には、時間の重みと、優しさが滲んでいます。もしあなたが今、「時間が足りない」「やりたいことが進まない」と感じているなら——このエピソードは、あなたの“時間の感覚”を変えるかもしれません。時間は限られていない。私たちは、増やし合うことができるのです。
「マクドナルドに授業を抜け出して行ったのが、人生で一番の悪事かもしれません」そう笑って語るのは、整理収納アドバイザー1級とキャリアコンサルタントの資格を持つ「片付けパパ」こと大村信さん。 部屋を片づけると、人生まで整っていく。そんな話を聞いたことがありますか?ただの整理収納アドバイザーではありません。彼はこう語ります。「物の片付けから、人間関係、そして人生まで整える」 そう、部屋を整えることは、自分の生き方を整えること。そんな哲学を持つ“人生の整理人”です。 1.優しい少年が、静岡の田舎で育った日々父親がいない環境で、おばあちゃん、お母さん、8歳離れたお姉さんに囲まれて育った彼は、「手のかからない子」でした。子どものころの大村さんは、とてもおとなしくて素直。女の子と遊ぶほうが安心する、競争よりも「みんな仲良く」を願う、のび太君のような少年時代。ところが、その背景には深い物語があります。大村さんは幼い頃に父親が白血病で亡くなられ、お母さんとおばあちゃん、そしてお姉さんに囲まれて育ちました。「だから、男性には苦手意識があったんです」——この言葉には、彼の優しさと繊細さがにじんでいます。 2.浪人、挫折、そして母への申し訳なさ──高校時代。時はバブル崩壊直後。「銀座で働くビジネスパーソンの就職は厳しくなる」、「理系なら潰しが効く」という情報を信じ、高3直前に文系から理系へコース変更という無謀な挑戦。成績優秀だった彼は、東京の大学から指定校推薦のオファーまで受けていましたが、「聞いたことのない地味な大学だから」という理由で辞退。猛勉強の末、第一志望の大学を目指して1年間必死に勉強するも、結果は全落ち。浪人するも、皮肉にも、1年前に推薦を断った大学に入学することに、、「推薦で行けるって言われた大学に、1年浪人して結局入学することになった。この1年間の時間とお金は何だったんだ…」普通なら絶望する状況。使った時間とお金は何だったのか──そう母親に謝った大村さんに、母はこう答えました。 「それが運命だったんだよ。この1年間は無駄じゃない。一生懸命勉強して、努力することができたことは、きっと将来のためになる」 しかし当時19歳の大村さんには、その言葉を受け入れる余裕はありませんでした。母子家庭で一生懸命支えてくれた母への申し訳なさ。自分の選択への後悔。大学時代は不真面目に過ごしました。 3.大学での「不真面目」が生んだ、「サバイバルスキル」入学初日こそ出席したものの、1週間後にはほとんど大学に行かなくなった大村さん。バイトに明け暮れる日々。でも、留年はしたくない。そこで彼が身につけたのが──「過去問と資料を集める仲介屋」としてのスキルでした。「これを持ってきたんで、どうですか?」「ギブアンドテイク」「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」競争ではなく、仲間。争いではなく、協力。この「サバイバルスキル」こそが、後に彼の人生を支える核となっていきます。 4.就職氷河期、10月の決断大学4年の10月。周りが内定を決めている中、大村さんはまだ進路を決めていませんでした。大学院に行こうか迷っていた彼に、親戚のおじさんが一喝。「お前の母親、どれだけ頑張ってると思ってるんだ」その言葉でハッと我に返り、就職活動を開始。でも時すでに遅し──1997年の10月、超氷河期です。しかし大村さんは、就職活動の掲示板から1社だけピックアップし、応募。書類選考、1次面接、2次面接、最終面接──すべてパス。SPIも受けず、1社目で内定。「本当に偶然でした」と本人は笑います。 5.「英語喋れます」と言って入社、3週間後に海外出張最初の会社で3年、システムエンジニアとして激務をこなした後、転職。2社目の面接でまた言ってしまいました。「英語、喋れますよ」入社3週間後、いきなり海外出張の辞令。「マジか」と思いながらも、英語メールが半分以上。必死で対応する日々。でも、そこでまた発揮されたのがサバイバルスキル。半年でTOEICが200点近くアップ。海外での仕事もこなせるようになりました。 6.今につながる「仲間づくり」の原点大学時代に培った「みんなで合格すればいい」という感覚。それは今、グローバル人事塾、まんせきBar、さまざまなコミュニティでの活動につながっています。出版、コミュニティ運営、そして20年以上続く会社員生活──。すべての原点は、「留年しないため」に編み出した「みんな仲良く」「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」というサバイバルスキルでした。 7.現在ー「部屋から人生まで整える」という使命挫折と葛藤を経験した大村さんは今、大手電機メーカーでマーケティングから人材開発へ。そしてパラレルキャリアとして「片付けパパ」として活動しています。物の片付けから、人間関係、人生までを整える。 「物が散らかっていると、生活も散らかる」子ども時代の"整えられない感情"、受験失敗という"整理できなかった選択"、母への想いという"片付けられなかった気持ち"ーそれらすべてが、今の彼の使命に繋がっています。 優しすぎた少年は、どのようにして「人生を整える専門家」になったのか。 ぜひ大村さんの本を読んでみて下さい。彼の物語は、失敗や挫折を経験したすべての人への、温かいメッセージです。Amazon.co.jp: 大村 信夫: 本、バイオグラフィー、最新アップデート
挫折、絶望、そして再起。何度も壁にぶつかりながら、自分の道を切り開いてきた柳沼さんの人生ストーリー。✅ 失敗を恐れず挑戦する勇気 ✅ どん底から這い上がる強さ ✅ 本当の「自立」とは何かこの物語は、あなたの人生にも勇気と希望を与えてくれるはずです。
高卒・学歴なし。体力だけが武器。22歳の彼が、なぜ今「幸せな働き方」を企業に教える存在になったのか? 1.「お前、元気そうだな」──たった15分の面接が運命を変えた高校卒業間際。就職活動もせず、進路が決まらないまま焦る日々。そんな時、友人の父親の紹介で出会った電気工事会社の社長。「体を動かすのが好きか?」「はい、それしかできません」「よし、合格」わずか15分。歩いて2分の距離にある会社で、彼の職人人生が始まった。 2.東京ビッグサイト、幕張メッセ──2〜3ヶ月に1回の休み?戦場のような現場展示会の仮設電気工事。スポットライトを設置し、コンセントを這わせ、1〜2日でブースを完成させる。会期が終われば即日には撤去。深夜から次の展示会の準備。徹夜は月に何度も。休みは2〜3ヶ月に1回。「見て覚えろ」の世界で、気性の荒い職人たちと肩を並べ、見えない電気と格闘する日々。給料は20万、30万──。大学に行った同級生より稼いでいた。でも、それが「幸せ」だったのか? 3.「このままでいいのか?」──22歳、心も体もヘトヘトだった月100〜200時間の残業。体は悲鳴を上げ、心は疲弊していく。職人たちも疲れきっている。不平不満が飛び交い、職場の空気は重い。転職したくても、学歴もスキルもない。辞めたくても、次の仕事が見つかる保証もない。「一体この先、どうしたらいいんだ…?」希望の見えない日々の中で、彼は大きな決断を迫られていた。 4.そして今──「真逆」を生きる選択あの地獄のような日々があったからこそ、彼は今こう語る。「働きがい、やりがい、生きがい──当時の僕には何もなかった。だから今、真逆のことをやりたいと思ったんです」現在、柳沼さんは「Well-being HR」という事業を立ち上げ、企業に「幸せに働きながら、利益を上げる経営」を支援している。かつて自分が苦しんだからこそ、伝えられることがある。誰もが幸せに働ける社会を作りたい──その想いが、今の彼を動かしている。 5.「もう、飛び出すしかなかった」— 後がない状態から始まった、人生の大逆転劇あなたは、人生で何度「ゼロ」になったことがありますか?多くの人は、一度もないかもしれません。 しかし、柳沼さんは違いました。25歳までに、2度も会社を変わる経験をにし、その度に、人生のすべてを失いかけた男。電気工事の現場で朝から晩まで働き詰め。深夜まで荷物を仕分けし、朝8時にまた出社。「ウェルビーイング?そんなもの、考える余裕すらなかった」彼が経験したのは、ただ働くだけの人生。やりがいも、未来への希望も見えない日々。 6.就職先も決めずに退職 —「追い込まれた」からこその決断電気工事会社で4年間、必死に働いた柳沼さん。 しかし、心の中のモヤモヤは募るばかり。「今のままでは耐えられない」相談できる人もほとんどいない中、 彼が選んだのは、就職先も決めずに会社を辞めるという危険な賭けでした。普通なら、絶対にやってはいけない選択。 でも、それしか道がなかった。 7.祖母の家庭料理屋で運命の出会い人生のどん底にいた柳沼さんに、一筋の光が差し込みます。祖母が営む家庭料理屋の常連客。 その人が、偶然にも車の運転手を探していたのです。「お前、仕事決めないで 辞めるなよ」怒られながらも、その人の紹介で会った社長は、 柳沼さんの人生を変える存在になります。お抱え運転手として1年間、毎日送り迎え。そして、社長が独立を決意したとき—「お前も、一緒に来ないか?」仕事もない。行く場所もない。 だからこそ、彼は迷わず答えました。「行きます」 8.4人から始まった会社が、3年で売上10億円へ倉庫を借りるところから、トラックの手配、営業活動— すべてがゼロからのスタート。25歳の若さで、柳沼さんは**「0→1」の起業の現場**を体験します。トラックの運転手でありながら、営業もこなし、マネジメントも担当。 部下は20人。アルバイトも含めれば、さらに多くの人を束ねる立場に。会社は急成長を遂げ、 たった3年で従業員25人、年商10億円という驚異的な成長を実現。「やっと、報われる」そう思った矢先— 9.突然の撤退決定。すべてが水の泡に3年半、必死に働き続けた柳沼さん。 しかし、ある日突然のトラブルが発生します。経営方針の変更。 事業部ごと、撤退。物流事業に関わる全員が、リストラ対象に。「どうしようもなかった」深夜まで働き、朝8時に出社する日々。 それを3年以上続けて、最後に残ったのは—「人に人生を振り回される」という、無力感だけでした。 10.2度の挫折が教えてくれた、本当の「働く意味」電気工事会社での4年間。 物流会社での3年半。合計7年半。柳沼さんは「やりがい」を感じられない日々を過ごしてきました。でも、だからこそ彼は気づいたのです。「自分の人生は、自分でコントロールしなければならない」 そして今、彼は新たな挑戦を始めています。どん底から這い上がった男の、リアルな人生ストーリー。あなたの人生にも、必ず響くものがあるはずです。最終回の第3話もお楽しみに!
初対面の印象は「真面目で優しい人」。 でも話を聞けば聞くほど、柳沼さんの中には誰もやっていない道を選ぶ勇気がある。彼自身は「アウトロー的なところがある」と笑う。 小学3年生で野球の仲間集めに成功し、チームを0から立ち上げた。その経験が、今の柳沼さんを作っている。3つの会社を経営し、ウェルビーイングという大きなテーマで事業を展開する。常に「誰もやっていないこと」に0から挑戦し続ける彼の原点は、あの小学校時代の成功体験にあった。「なんかこう、成功体験として今も残ってるような感じがします」柳沼さんはそう語る。話を聞いていると、その語り口の上手さにも驚かされる。まるで映画のワンシーンを見ているかのように、情景が目に浮かぶ。 1.「なんとなく」から始まった野球人生柳沼圭佑さんは1985年生まれ。今は 3つの会社の代表として「ウェルビーイング」をテーマに事業を展開している。しかし、彼の人生は決して順風満帆ではなかった。山あり谷ありの波乱万丈な道のりを歩んできた。その原点は、小学校時代にある。父親に「野球を習いなさい」と言われて始めた野球。正直なところ、最初は「なんとなく」だったと柳沼さんは振り返る。学校から帰ってきては、グローブとバットとボールを持って友達と練習する日々。少年野球のチームに入り、同級生がまだ野球を習っていない中、2つ年上のお兄さんたちと一緒にプレーしていた。でも、小学3年生の時、何かが変わった。 2.チームを「0から作る」という経験小学3年生の時、柳沼さんの中にある想いが芽生えた。「同級生として大会に出たい」。でも、それを実現するには自分が友達を誘ってこないといけない。そこで彼は動き出した。クラスメートや他のクラスの友達で「いいな」と思う子を見つけると、「野球習わない?」とスカウトしに行った。そう野球チームを0から作り始めたのだ。 3.小学3年生の前歯にボールが直撃事件「本気で投げてこい」クラスのガキ大将がそう言った。でも、小学3年生の柳沼圭佑さんは躊躇した。怪我をさせたくなかったから。けれど相手は引かない。「そんなんじゃ物足りない。本気で投げてこい」仕方なく、本気でビュンと投げた。次の瞬間、ボールは彼の前歯を直撃した。「最悪だ!」柳沼さんは頭が真っ白になった。同級生を集めて野球チームを作りたかった。そのキーマンとなる彼を、自分の手で怪我させてしまった。その日、前歯を折られた少年は帰っていった。柳沼さんは「もう終わった」と思った。しかし、翌日──「やっぱり野球やるわ」前歯を折られたはずの少年が、そう言って戻ってきた。しかも、彼の周りには5人から6人の仲間がいた。ガキ大将が放った一言が、すべてを変えた。「お前ら、野球やれ」。その言葉で、一気にチームメンバーが増えた。そして前歯を折られた彼は、後にエースピッチャーとなる。 4.『自分で作る喜び』が人生を変えた──起業家の原点1人、2人と増やしていき、最終的に11人ほどの同級生を集めることに成功した。そこでは、チーム名を決めるところから、ユニフォームのデザインまで、すべてを自分たちで決めることができた。同級生がいない中、2つ年上の先輩たちと、わずか10人から11人というギリギリの人数で始まったチーム。振り返ってみれば、これが柳沼さんの「チームってこうやって出来上がるんだ」という原体験になった。そして今、3つの会社を立ち上げた彼は言う。「0から1を作るのが好きなんです」誰もやっていないことをやりたい。自分だからこそできることに、やりがいを感じる。その根底には、小学3年生で味わった「自分で作っていく喜び」があった。これが、現在40歳で3つの会社を経営する男の、原点の物語だ。 5.負けたら坊主。だから、彼は野球をやめた——中学2年生の柳沼さんは、顧問の先生にこう告げられました。「試合に負けたから、お前ら全員 坊主だ」チームメイトは従った。でも、彼は違った。納得できない。一生懸命やったのに、なぜ負けたら坊主なんだ?「じゃあ、野球をやめます」その日、彼は9年間続けた野球から離れることになります。 6.父子家庭、東京の団地、買えないもの小学1年生で両親が離婚。父親と2つ年上の姉、3人での生活が始まりました。経済的に豊かではない日々。買いたいものも買えない。野球部の月謝も払えない。母親もいない寂しさを紛らわすように、ただひたすら野球に没頭しました。地域のオールスターチームのキャプテン。小学校では仲間を集め、チームを作る才能を発揮。野球は彼の居場所でした。 7.「お前、才能あるんだから、もう1回、野球をやれ」先輩だった中学3年生を送り出す卒業式の日。やめたはずの野球部の顧問が、彼を呼び止めました。いつものように耳を引っ張りながら。「お前才能あるんだから、もう1回、野球をやれ。俺もいなくなるから」先生も、学校を去るタイミングでした。葛藤の末、彼は決断します。最後の夏、ピッチャーとして戻ることを。 8.不真面目だった自分が、ピッチャーで試合に出ていいのか?真面目に続けてきた仲間たちの中で、ピッチャーマウンドに立つ。3回戦で敗退。「こんな自分がピッチャーをやっていいのか」今でも心に残る、複雑な思い。でも、チームは彼を受け入れました。戦力として、仲間として。 9.そして高校へ——野球を続けるか、やめるか有名な高校からの誘いもありました。でも、経済的な余裕はない。私立という選択肢は選べない。中学3年、千葉県の拓大紅陵高校のグラウンドで、選抜メンバーとして他地区の強豪と対戦した時——全然通用しなかった。体格も実力も、圧倒的な差。胃の中がひっくり返るような衝撃。「これはダメだな」自分に言い訳しながら、彼は野球から離れる決断をしました。 10.40歳で、まだ「0→1」は終わらない今回のポッドキャスト番組「人生配信オンリーワン」では、柳沼圭佑さんの人生を配信しています。小学校時代の「0→1」成功体験から、3つの会社を経営するまでの「山あり谷あり」の人生。ウェルビーイングを広める理由。仲間を集め、チームを作る極意。そして40歳で「誰もやっていないこと」に挑戦し続ける理由。前歯を折ってしまった相手が、エースピッチャーになった。小学3年生で11人のチームを作り上げた。その経験が、今も彼を動かし続けている。起業を考えている人、チーム作りに悩んでいる人、0から1の仕事に興味がある人、人生の転機を迎えている人、誰かの人生に勇気をもらいたい人。このエピソードは、あなたの心に響くはずだ。選択と葛藤の連続が、人を作る高校時代、野球をやめた彼はアルバイトと友達との時間に没頭します。そこから彼の人生は、どう展開していくのか——?第2話もお楽しみに! PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。
1.まず自分自身が”プロとして生き残ること”そう本音で語るのは、ドバイでグローバルキャリアを支援する藤井さん。彼女の声には、理想と現実の狭間で戦う“プロの覚悟”がにじむ。かつて、人材育成からキャリア開発までを一貫して支援してきた藤井さん。彼女の中にはずっと変わらない軸がある。それは――**「多様性に満ちたキャリアの選択肢を広げ、人の可能性を世界に繋げたい」**という想い。しかし、いま彼女が立つ場所は、世界で特に競争が激しい街・ドバイ。LinkedInに求人を出せば、500通以上の応募が届く。採用の現場では、AIが候補者を自動でマッチングする時代がすぐそこまで来ている。「このままでは、生き残れない。」彼女はそう痛感した。だからこそ、今はしゃがむ。教育ビジネスも、一時的に脇に置いた。再び“プロの人材紹介の現場”で勝負するために。そして彼女が見据える次のステージは――「クロスボーダーのエグゼクティブサーチ」。世界をまたぎ、国境を越え、リーダーたちの未来を繋ぐ挑戦だ。 2.ドバイに飛び込んだ、日本人女性の挑戦― 誰もいない場所で、オンリーワンになるために ―「日本人の人材コンサルタント?この国にはまだいないよ。」その一言が、藤井薫さんの心に火をつけました。北京で教育に携わり、数多くの若者のキャリアを支えてきた彼女。“挑戦し続ける人であれ”と生徒たちに語ってきた言葉を、今度は自分自身に向けて証明する時が来たのです。舞台はドバイ。世界中から才能が集まり、AIが採用を変えようとしている超競争市場。それでも「本当に必要な一人」は、簡単には見つからない。AIでも探せない人材を、国を超えてつなぐのが彼女の仕事。――そう、“人”の心と“可能性”を見抜く力が、藤井さんの武器です。今、彼女は新しい山を登っています。新しい世界を舞台に、挑戦し続けるプロフェッショナルとして再び立ち上がったのです。「夢は簡単に叶わない。でも、挑戦し続けること――その繰り返しが人生だから。」いつも教え子にそう語った言葉を胸に、藤井カオルさんは今日も異国の地で、自らの言葉を生きています。 「やはり、どの国でも、プロとして良い仕事がしたい」その言葉に、彼女の“今”が凝縮されている。崇高な夢を持ちながらも、現実を直視して進化し続ける。まさに“しゃがんで、ジャンプする時期”。 3.『止まって、退化するのが怖い』― ドバイで挑み続ける、日本人女性・藤井薫の生き方 ―「安定してる場所にいると、急に不安になるんです。だから、また挑戦してしまう。」藤井薫さんは笑いながらそう話します。けれど、その言葉の裏には、何度も“破壊と創造”を繰り返してきた人生がありました。そして今、舞台はドバイへ――。そこは、世界中から才能が集まる競争の街。文化も価値観も、何もかもが違う場所で、彼女はまたゼロから積み上げを始めています。「止まるのが怖い。でもそれ以上に、“挑戦しない自分”になるのが怖いんです。」リスクを取らないことが、最大のリスク。その選択を、何度も繰り返してきた藤井さん。彼女の生き方には、「挑戦する人だけが見える景色」があります。ただのキャリア論ではありません。それは、“自分という人間を生きる覚悟”の物語。 「挑戦が好きなんです」と、少し照れながらも本気で言える人。そんな彼女の姿に、きっとあなたも心を動かされるはずです。 『人生配信オンリーワン』今回のゲストは、ドバイから挑戦を続けるグローバルキャリアコーチ・藤井さん。彼女の「生き残るための挑戦」と「未来を繋ぐ想い」を、どうぞ耳で感じてください。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。#BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment
1.離婚、オーストラリア、そして東京。― 一度しゃがんで、大きく跳ぶ―人生が思い通りにいかないとき、それは“しゃがんでいる時間”なのかもしれません。ファッションデザイナーとしてキャリアを歩み始めた藤井さん。しかし、人生の流れは静かに、けれど確実に方向を変えていきました。転職、タレント事務所での新しい仕事。そしてオーストラリアでのワーホリは単なる「語学留学」では終わらなかったのです。 2.結婚したまま、オーストラリアへ行く前から、離婚の予感はあった。それでも夫は言いました。「行っておいで。結婚したままでいいから。」ブリズベンとシドニー、2つの家庭でのホームステイ。どちらも離婚を経験したシングルファミリー。彼女たちは、悲しみよりも「たくましさ」で生きていました。――その姿を見て、藤井さんは気づきます。「あ、離婚してもいいんだ。人生はそこで終わらない。」そして日本に戻り、離婚。けれど、そこからが藤井さんの“人生の再スタート”でした。 3.大阪を出たからこそ、東京に行けた離婚したから、自由になれた。自由になったから、挑戦できた。挑戦できたから、東京へ行けた。――そして、世界最大級の人材会社「ランスタッド」でキャリアを積み上げていく。ファッションデザイナーから人材ビジネスへ。まったく異なる世界で、ゼロから山を登るように挑戦を重ねた日々。その頂上で、彼女は確かに“見たかった景色”を見たのです。 4.登りたい山を、見つけていますか?藤井さんの人生は、まるで登山のよう。一度しゃがんで、大きく跳ぶ。そして登った先で、次の山が見える。「どの山に登りたいのか?」「その山の頂上から、どんな景色を見たいのか?」キャリアに悩む人へ、藤井さんが語る言葉には、“等身大のリアル”と“希望の手ざわり”が詰まっています。 5.みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る― 人生のリセットを繰り返しながら、見える景色を変えていく ―人生は“登山”のようなものかもしれません。登る山が変われば、見える景色も変わる。そしてその景色が変わるたびに、「生きてるって、こういうことなんだ」と感じられる瞬間がある。藤井さんの人生は、まさにその連続でした。5.1 ファッションデザイナーから、キャリアの大転換最初の山は「ファッションデザイナーの世界」。華やかな業界の中で、キャリアを積み上げていく日々。けれど、ふと気づいた。「私が登りたい山は、本当にここなのかな?」そうして彼女は、勇気を持って一度しゃがみ、全く新しい山――人材ビジネスの世界へ飛び込みました。5.2 離婚、オーストラリア、そして中国・深圳へ留学、離婚、転職、海外。誰もが迷い、立ち止まるような岐路を、藤井さんは何度も越えてきました。でも、彼女にはひとつの哲学があったのです。「次の山を登るときは、いま持ってる成功をいったん捨てる。」それは、自分を軽くして、もっと高くジャンプするための「リセット」でした。そうして彼女は、東京・深圳・北京・ドバイへと舞台を変えながら、自分だけの“登山ルート”を切り拓いてきたのです。5.3 「みんなが登る富士山じゃなくて、私は“藤井山”を登る」ある日、お母さんが言いました。「あなたは特別な才能があるわけじゃない。だからみんなが登る富士山の頂上は難しいかもしれない。でも、自分の“藤井山”なら、登れるはずよ。」その言葉が、藤井さんの人生の軸になりました。他人と比べるのではなく、自分の登りたい山を見つける。それこそが“自分らしく生きる”ということ。5.4 今、あなたの登っている山は「誰の山」ですか?エベレストを目指す必要なんてない。評価されるための山でもなくていい。あなたが「この景色を見たい」と思える山を見つけたとき、人生は驚くほどクリアに、そして力強く動き出します。 6.何を捨てて、何を残すか?― キャリアのリセットで人生をワープさせた、藤井さんの挑戦 ―「捨てなきゃ、掴めない。」ファッション業界から人材業界へ。日本からオーストラリア、中国、そしてドバイへ。そのたびに、彼女は“何かを手放す決断”をしてきました。彼女が大切にしているのは、ただの“転職”ではありません。それは、“生き方を更新する”という選択。「人間のキャパには限界がある。だから、次に欲しいものを両手で掴むためには、まずは今の荷物を降ろす必要があるんです。」クライアントとの関係も、積み上げた実績も、すべて一度リセットして、新しいステージへ挑む。その潔さが、彼女のキャリアをワープさせてきました。 7.捨てた先に見えた“想定外の景色”深圳に渡ったとき、藤井さんは学生ビザ。中国語も話せず、仕事のツテもゼロ。それでも、「英語でできることをやろう」と決めて一歩を踏み出した。すると、Forbes JAPAN公式コラムニストへの抜擢、現地の経営者たちとの出会い、そして日本と中国をつなぐヘッドハンティング事業の成功へ。「学生ビザで始めた1年後には、クライアントと一緒にロサンゼルスにいたんです。」まさに“想定外の成長”。環境を変えることで、人生は一気にワープできる。藤井さんはそれを体現していました。 8.能力は同じ。でも、場所を変えると価値が上がる印象的だったのは、この一言。「私の能力は日本にいたときと何も変わってない。でも、場所を変えたら“希少価値”が上がった。」つまり、“自分の才能を活かせる市場を選ぶ”という発想です。彼女はそれを戦略的に実践し、“自分の価値を最大化する生き方”を選びました。 9.あなたに問いかけたい今のあなたのキャリアは、本当に自分の価値が輝く場所にありますか?もし少しでも「違うかも」と感じたら、藤井さんの言葉を思い出してください。「次に掴みたいものが大きいほど、手放す覚悟も大きくなる。」 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。 #BridgingEastAsiaAndDubaiAbuDhabi#DiverseCareerDesign #GlobalCareerCoaching#CrossBorderRecruitment
「結婚も出産も、無理にしなくていい。あなたは、あなたの人生を生きなさい。」「女の子だから」「周りに合わせなさい」そう言われるのが当たり前だった時代に、たったひとり、娘に“逆のこと”を言い続けた母がいました。母にそう言われて育った少女は、やがて世界を舞台に“自分の道”を切り拓いていく。彼女の名は――藤井薫さん。20年以上にわたり、企業と人をつなぐ仕事に没頭。日本で会社を立ち上げた直後には、中国・深圳へ単身移住。さらに北京で教育事業を展開し、今はドバイに拠点を構え、「日本×中国×UAE」を結ぶクロスボーダーキャリア支援を行っています。けれど、彼女の人生は決して“順風満帆”ではなかった。岡山の田舎で生まれ、「女性はこうあるべき」と言われる時代に、“自分の人生を自分でデザインする”という生き方を選んだ彼女。小さいころからの夢であったファッションデザイナーを5年間経験した後に、全く違う業種への転職。オーストラリアへのワーホリ、離婚、東京進出のための転職、起業など、数多くの困難に立ち向かい、藤井さん自身が日々もがき苦しみながら、数多くのキャリア支援をされています。まさに「グローバルキャリアの先駆者」。そんな藤井さんが赤裸々に語られた人生物語は、新しいキャリアに向けて、捨てる勇気など数多くのことを学ぶことができます。 1.“みんなと同じ”じゃなくていい —母がくれた人生の軸 藤井さんは岡山の田舎で育ちました。当時の地域性や時代背景を考えると、「自分の意見を持つ」とか「個性を大事にする」という考え方は、ほとんどありませんでした。まわりの同級生も、きっとそうだったと思います。「みんなと同じように」「ちゃんとした大人になりなさい」——そんな空気が当たり前の時代でした。でも、うちの母だけは違いました。「自分がどうしたいのか、ちゃんと考えてごらん」「夢があるなら、自分の言葉でプレゼンしてみなさい」まるでコーチみたいに、子どもの私に“自発性”を促してくれたんです。だからこそ私は、幼いころから「こうなりたい」「だからこう頑張る」という感覚が自然に身についていた。それは今の私の“人生の軸”にもなっています。たぶん、普通の小学生だったら、そんなことを言われるとプレッシャーを感じたり、戸惑ったりするかもしれません。でも私にとっては、それが当たり前の環境でした。だから他の家庭と違うことを言われている、なんて感覚もなかったんです。今振り返ると、母は私に“枠”をはめなかった人でした。「周りがこうだから、あなたもそうしなさい」——そんな言葉を一度も言われた記憶がありません。たとえば田舎では、「この年齢になったら結婚」「このくらいで子どもを持つ」という暗黙のルールがありました。でも母は、そんな価値観に縛られることを望まなかった。むしろ、「あなたはあなたでいい」と言ってくれた。そのおかげで私は、“枠にはめられない生き方”を、心から心地よく感じられるようになりました。 2.夢を手放した日、私は“本当の自分”に出会った—藤井さんの転職物語子どもの頃からの夢は、ファッションデザイナーになること。その夢を追いかけ、必死で学び、ようやく憧れの仕事に就いた藤井さん。最初の数年は苦労の連続。それでも5年目にはようやく“形”になってきた——周囲からも認められ、生活も安定し、夢は叶ったはずでした。でも、心のどこかでずっと聞こえていた小さな声。「この道では、一流になれない気がする」その気づきは痛みとともに訪れます。そして彼女は、**「夢を叶えたのに、満たされない自分」**と向き合うことになります。ある夏の日、デパートの水着売り場で自分のデザインを販売していたときのこと。お客様と直接話し、笑い合い、感謝される時間が——どんなデザインよりも楽しかった。先輩に言われた言葉が心に刺さります。「藤井ちゃん、販売とか営業のほうが向いてるんじゃない?」その瞬間、彼女は悟りました。自分の中に流れる“人と関わる仕事”へのDNA。そう、両親もまた営業職。血の中に流れていたものを、ようやく自分で見つけたのです。 3.5年間のデザイナーという経験と夢を捨てる勇気悩みに悩み、藤井さんは、ファッションデザイナーという安定を手放し、人材ビジネスの世界へ転職するという大きな決断をします。人と人をつなぎ、誰かの人生の転機を支える仕事でした。かつて布をデザインしていた藤井さんが、今度は「人のキャリアをデザインする」ようになったのです。「私にとって、マッチングの仕事は“究極のクリエイティブ”。だから今も“デザイン”という言葉を会社名に入れています。」自身の会社「ダイバースキャリアデザイン」には、そんな想いが込められています。多様性を受け入れ、自分らしい生き方をデザインする。それは、藤井さん自身の生き方そのもの。「人と人をつなぐ仕事」は、まさに彼女の天職。 4.「一生かけられる」と思えた瞬間ファッションデザイナーから人財ビジネスへ転職を決めたとき、正直、ものすごく悩みました。「これだったら、一生かけてもいい」と思えるものに出会えたからこそ、決断は重かったんです。子どものころから夢見てきたデザイナーの道。そのために努力を積み重ね、時間もお金も注いできた。でも、その夢を手放さなければ次の一歩に進めない——。そんな覚悟が必要でした。一度やめたら、もう戻れない。その怖さを感じながらも、「今の自分を生きる」という想いの方が強かった。だからこそ、あの時の決断は、私の人生の転機になりました。正直に言えば、「これまでの努力を無駄にしたくない」という気持ちもありました。親への感謝や、学費への申し訳なさもあった。「せっかくここまで来たのに、もったいない」周囲からもそう言われました。でも、私は思ったんです。——“もったいない”って、誰の基準なんだろう。結局のところ、自分の人生は自分で選ぶしかない。その時の私は、すべてを手放してでも「無の状態からもう一度、自分が本当に欲しいものを掴みに行こう」と決めました。 雑音に惑わされず、自分の心の声だけを信じた。あの瞬間を思い出すたびに、「あの決断があって本当に良かった」と今も心から思います。過去を捨てる勇気は、未来をつかむ第一歩なんですよね。 5.人生のリセットは、次のジャンプの始まり「一度、人生をまっさらにして世界を見たい」誰もが不安で足を止めるその瞬間、彼女は“しゃがむように”一度下がり、そしてさらに高くジャンプしました。「今思えば、ファッションデザイナーから人材ビジネスというリセットがあったからこそ、その後も挑戦し続けられたんです。」夢を叶えた後に訪れる「空白の時間」。誰もが恐れる“しゃがむ瞬間”を、藤井さんは、逃げずに受け止めました。そして、ジャンプするためにしゃがむ勇気を持ったからこそ、今、人の人生を支える立場に立っているのです。一度しゃがんだからこそ、今こんなに高く跳べている。 夢を叶えたあと、“もう一度”自分を探したくなったあなたへ。あなたの中にも、もう一度ジャンプしたい気持ちはありませんか?藤井さんの言葉には、その勇気をくれる力があります。人生をデザインし直すヒントが、ここにあります。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。
「過去は変わる。全然変わるの。」そう断言する一人の男性がいます。多くの人が「過去は変えられない」と諦める中、彼は空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去をポジティブに書き換えてしまうのです。甲子園を夢見ていた野球少年が、なぜリーゼントパーマをかけてソフトボール部に入り、国体選手になったのか。そして就職活動もせずに入った会社で、なぜ取締役まで上り詰めることができたのか。その答えは、彼が持つ独特の人生哲学にありました。 1.野球少年がリーゼントでソフトボール国体選手に?!甲子園を夢見ていた一人の野球少年がいました。しかし高校に入学する頃、時代は不良ブーム真っ盛り。横浜銀蝿やシャネルズに憧れた彼は、野球部に入って坊主頭になることよりも、リーゼントパーマをかけることを選んだのです。そんな彼が見つけたのが、なんと「男子ソフトボール部」でした。野球に似ているけれど、髪の毛を伸ばしていてもいい。真面目な高校生だった彼は、憧れのリーゼントパーマをかけながらも成績優秀で、ソフトボールでも才能を発揮します。そしてついに、千葉県選抜として国体出場という快挙を成し遂げました。行進で手を振る自分の姿が、今でも鮮明に記憶に残っているそうです。 2.お風呂なし→トイレ付き→完備→彼女欲しい!「大学生の立身出世の夢」大学時代は、まさに昭和の青春そのものでした。最初はお風呂なし、トイレ共同の下宿からスタート。でも彼には明確な夢がありました。「立身出世」という、今では死語になってしまった言葉を純粋に信じていた時代です。2年生でトイレ付きの部屋。3年生でついにお風呂もトイレも完備した部屋を手に入れます。そして今度は「彼女が欲しい」と、段階的にステップアップしていく大学生活。現代のように最初から満たされていない時代だからこそ、一つ一つの成長に純粋な喜びを感じることができたのです。彼はこれを「立身出世の夢」と表現し、その輝かしい思い出が今でも走馬灯のように蘇ってくると語ります。 3.悪魔のささやきがくれた最適解そして4年生。就職活動の季節がやってきます。マスコミやテレビ局への憧れはあったものの、何十社も回って挫折を味わうのは嫌だと思っていた時、またしても「悪魔のささやき」が現れました。高校時代の大学推薦に続いて、今度はゼミの教授からの紹介です。「佐藤君、金融系会社はどう?」金融業界なんて全く興味がなかったのに、「まあ、いいかな」という軽い気持ちで就職活動もせずに入社。それが現在の取締役という地位につながったのです。当時は「推薦なんか受けなければ、もっといい大学に入れたのに」「もっとちゃんと就職活動していれば、もっとすごい企業に入れたのに」と思う時期もありました。しかし今振り返ると、「人生万事塞翁が馬」。すべてが最適解だったと確信しています。大手企業に勤める友人たちを見ていると、50歳を過ぎれば出向の現実が待っています。どんなに楽しくても、残りの10年間を屈辱的な思いで過ごす可能性が高い。そう考えると、教授の「悪魔のささやき」に素直に従ったあの判断は、まさに大正解だったのです。会社からは様々な投資をしてもらい、海外研修なども経験し、多くのことを学ぶ機会に恵まれました。そして何より、自分なりの「逆転の美学」を身につけることができたのです。 4.過去は変えられる――全部ポジティブに書き換える人生哲学この物語の真の魅力は、彼の独特な人生哲学にあります。「過去は変わる。全然変わるの」多くの人が過去を後悔する中、彼は「過去なんてそもそもない。あるのは捉え方や記憶だけ」と断言します。そして捉え方を変えれば、「過去なんてゴロゴロゴロゴロ全部ポジティブに変わっていく」のです。あの時振られた彼女への憎しみも、今では「振ってくれたから今の家族ができた。すごいありがたかった」に変わります。空港の案内板がパタパタと変わるように、すべての過去がオッケーサインに変わっていく。この発想の転換こそが、彼の人生を輝かせ続ける原動力なのです。 5.誰も褒めてくれない大人へ――“大人の通信簿”がくれる成長の力さらに興味深いのは、彼が持つ「大人の通信簿」という概念です。郷ひろみをアイドルとして掲げ、「他人と比べても無意味。つまらない優越感しか生まれない」という信念を持ちながらも、実は心の奥底で「大人の通信簿」を求め続けています。「誰も褒めてくれない大人になったけれど、僕の中でやっぱり通信簿っていう概念がずっとあって、いい通信簿を取りたい」この純粋な気持ちが、彼を常に成長させ、新しい挑戦へと向かわせるのです。人から「ダンディだね」と言われることを「おじさんみたいで嫌」と言いながらも、それが自分への評価だと受け取り、さらに磨きをかけていく。「常に今がピークなんだよ。それを更新していってるの。どんどんどんどん」だからこそ、暗い過去も全部明るく思える。今の自分に5をつけられるから、今を肯定できるのです。昔の写真を見せて「かっこいいだろう」と自慢する先輩を見て感じた違和感から、「今を見てもらって、今かっこいいって言ってもらう方がいい」という哲学が生まれました。この男性の人生は、現代を生きる多くの人にとって大きな示唆を与えてくれます。挫折を恐れることの意外な効用、過去の捉え方を変える力、そして「大人の通信簿」を求める純粋な気持ちの大切さ。 6.「毎日がハッピーバースデー」を実践する人生哲学雨の日曜日の夜。5歳の少年は窓際に膝をついて外を眺めていました。曇った窓ガラスに一滴の雨水が右上から左下へとすーっと流れ、窓を二分割したその瞬間、彼は悟ったのです。「人は死ぬんだな」と。それから小学校まで続いた死の恐怖。特に日曜の夜、テレビが終わる時間になると死ぬことばかり考えてしまう少年は、やがて一つの答えにたどり着きました。「100歳まで心も体も元気良くかっこよく家族と幸せにいる」という人生の目標です。これは、野球少年からリーゼント国体選手、そして現在は取締役まで上り詰めた一人の男性の、30分間にわたる人生の全てを語った物語です。 7.影を見るだけで生まれ変わる男の秘密毎朝、ジムでトレーニングを終えてサウナに入り、髭を剃ってシャンプーを済ませる。そして洋服を着替えて飯田橋駅へと向かう途中、アスファルトに映った自分のシュッとした影を見た瞬間、彼は思うのです。「ああ、また生まれ変わった」と。これが彼の言う「毎日がハッピーバースデー」の正体でした。筋トレで充実感を得て、サウナで汗を流して代謝を良くし、身だしなみを整えて颯爽と歩く。その影を見るだけで、毎日新しい自分に生まれ変わったという実感を得られるのです。 8.「株式会社自分」の経営哲学「大半の人は赤字決算で年を重ねている。どんどん負債が増えて、それは経営努力してないから」彼が語るのは、人生を「株式会社自分」として経営するという革新的な考え方です。キャリアという陳腐な言葉ではなく、自分という会社をどう経営していくか。赤字にならなければいい、黒字なら最高だと割り切る潔さがありました。そして彼は「大人の通信簿」を常に意識しています。誰も褒めてくれない大人になったけれど、心の奥底では「いい通信簿を取りたい」という純粋な気持ちを持ち続けている。だからこそ、常に自分を磨き、新しい挑戦を続けているのです。 10.マンダラチャートで描く100歳への道のり大谷翔平が作ったマンダラチャートを使って、真ん中に「100歳まで」を目標に設定。周りに8個、その周りにさらに8個ずつ、全部で64個の項目を埋めて、時々見直しながら評価しています。「言ってるだけじゃ無理だよね。100歳で元気にかっこよくなって。そのためにやっぱり構成するものを一個一個やっていかないと」この計画性と実行力が、彼を常に成長させ続けているのです。 11.家族への感謝と自己受容しかし、彼は決して完璧な人間ではありません。家のことは妻に任せきりで、大学生のような一人下宿人状態。DIYなどの家庭的なことは一切できない。それでも彼は自分の限界を受け入れ、家族への感謝を忘れません。「そういう家族との接し方を犠牲にしてる部分もある。いいことばっかりじゃ実際はないよね。でもそれを分かるようにしてるから、また感謝できるし」この自己受容と感謝の気持ちが、彼をより魅力的にしているのかもしれません。 あなたの人生も変わる30分間昭和から令和まで生き抜いた一人の男性の証言は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。「満たされた」現代では味わえない、純粋な向上心と成長への渇望。そして何より、「運命」や「縁」を信じることの大切さを教えてくれるのです。そして何より、5歳で感じた死の恐怖を100歳への目標に変え、毎朝の影を見るだけで生まれ変わりを実感する。過去を全てポジティブに変換し、「大人の通信簿」を求めて常に成長し続ける。 この30分間の物語は、あなたの人生観を必ず変えるでしょう。人生に迷いを感じている方、過去を後悔している方、自分の可能性を信じたい方。そして何より、毎日を生き生きと過ごしたい方にとって、この男性の人生哲学は宝物のような示唆に満ちています。 「今がピーク。それを更新していってるの。どんどんどんどん」そう語る彼の声には、確固たる自信と温かい人間味が溢れています。きっとあなたも「毎日がハッピーバースデー」の意味を理解し、明日からの生き方が変わるはずです。
太っていて、暗くて、親は離婚、母親は水商売...普通なら「どうせ俺なんて」と諦めてしまいそうな環境。夜中に勉強していると、酔っ払いが外階段をドンドンと登ってきて、部屋のドアを叩く音が響く。そんな日常が当たり前だった少年時代。でも、サトウくんは違った。テレビに出る子役として華やかな世界を経験しながらも、家に帰れば複雑な家庭環境。コンプレックスの塊のような毎日を送っていたはずなのに、彼の心の奥底には不思議な確信があった。「俺は大丈夫だ」「きっとできる」という、根拠のない自信。普通なら心が折れるような状況で、なぜ彼は自分を愛し続けることができたのか? 1.吃音と孤独に向き合った少年の記録小学校低学年のサトウくん。太っちょで、しかも吃音症でした。国語の時間になると、教科書の音読が回ってこないかと油汗を流しながらビクビクしていました。「男」も「赤」もうまく言えない。そんな彼が編み出したのは、「うお」と小さく言ってから「男」と発音する独自の裏技でした。必死に、必死に自分のハンディキャップと向き合っていたのです。しかし、試練はそれだけではありませんでした。小学6年生の時、両親の不仲が原因で祖父母の家に預けられることになります。夜になると、狭い部屋におばさんとおばあさんの母親への悪口が響きます。幼い彼は枕を耳に当てながら、その辛い時間をただただ耐えるしかありませんでした。体は痩せて格好良くなりつつあるのに、心には新たなコンプレックスが芽生えていたのです。 2.コンプレックスを力に変えたサトウくんの逆転人生ところが、ここで人生の不思議が起こります。その辛い1年間が、なぜか彼にとって最高に幸せな時期となったのです。野球が上手になり、クラスの人気者になり、まるで別人のような輝きを見せ始めました。まさに「人生はプラスマイナス」を体現する瞬間でした。しかし、再び試練が襲います。中学に戻ると両親は結局離婚。当時はまだ珍しかった「片親の子」というレッテルが、新たなコンプレックスとなって彼を苦しめました。そんな彼を救ったのは、ピンクレディのミーちゃんでした。テレビで「頬の肉をなくすには叩くといい」と言っているのを見て、彼の「頬を叩く人生」が始まったのです。継続的な努力、強い意志、そして明確な目標。これらが彼を今の姿に変えていきました。今では信じられないかもしれませんが、あの饒舌で自信に溢れたサトウくんの頬がこけているのは、実はこの努力の結果なのです。彼は語ります。「努力が必要だよね、継続的な。なりたいっていう強い思いがね」と。片親だからこそ勉強を頑張り、公立高校から大学へ。運動も継続し、常に何かの目標を持ち続けました。コンプレックスを原動力に変え、逆境を乗り越えてきた彼の人生は、まさに現代人への希望のメッセージなのです。 3.「ある心理学理論」との出会い数十年後、キャリアコンサルタントとして活動していたサトウくんは、カナダの心理学者バンデューラが提唱した理論と出会う。その瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が走った。「あ、これだったんだ」自己効力感。自分には「できそうだな」という感覚を持つこと。多くの日本人が苦手とするこの感覚を、彼は無意識のうちに身につけていたのだ。子役時代の成功体験、テレビで見るかっこいい大人たちへの憧れ、周りからの「サトウくんは大丈夫だよ」という言葉。そして何より、自分で自分を褒め続けてきた習慣。これらすべてが、バンデューラの理論が示す「自己効力感を高める4つの要素」と完全に一致していた。 4.「自分をけなす人生」か「自分を褒める人生」か「自分と一緒にいる時間が一番長いんだから、自分をけなす人生と自分を褒める人生、どっちを選ぶ?」サトウくんのこの言葉に、多くの人がハッとする。日本人は謙遜を美徳とし、減点主義で育てられる。でも、それでは自己効力感は育たない。海外で活動することが多いリスナーは、日本人の元気のなさを痛感している。「だからこそ、僕たちが変えていけばいい。周りの人に自己効力感を教えてあげればいい」サトウくんの人生は、まさに希望の光だった。どんなにコンプレックスがあっても、どんなに困難な環境でも、自分の中に「できそうだな」という感覚を育てることができれば、人生は必ず好転する。 5.マネジメントの本質も、子育ての秘訣も、すべてここにある部下に成功体験を与える、自分がお手本を示す、褒めて認める、体調を気遣う。これらはすべて、自己効力感を高めるための4つの要素そのものだ。優秀なマネージャーが無意識にやっていることを、理論として体系化したとき、その威力は何倍にもなる。子育てでも同じ。「あなたはダメな子」ではなく「あなたはできる子」と伝え続けることの大切さ。それは単なる励ましではなく、科学的根拠に基づいた人間育成の方法論なのだ。今、草野球で最年長選手として記録を更新し続けているサトウくん。大谷翔平やイチローの試合を見ると「打てそうな気がする」と笑う。この感覚こそが、自己効力感の真髄だ。 今すぐ、この物語を体験してくださいコンプレックスに悩んでいる人、自分に自信が持てない人、部下や子供をどう励ませばいいかわからない人。大丈夫です。サトウくんの実体験が証明しています。人は本当に変われるのです。すべての人に聴いてほしい、特別な20分間がここにある。理論だけではない、リアルな体験に裏打ちされた智慧。今日から使える具体的な方法。そして何より、「自分も変われるかもしれない」という希望の光。彼の率直で感動的な体験談は、あなたの心に勇気の火を灯すはずです。あなたの中に眠る「できそうだな」という感覚を呼び覚ます物語が、ここから始まります。聴き終わった後、きっとあなたは鏡の中の自分に「大丈夫だよ」と言いたくなるでしょう。 PSあなたの“スキ”が、もっと誰かの人生の灯になるかもしれません。共感していただけたら、お気軽にポチッと押していただけると嬉しいです。





