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高千穂さんのご縁です。
高千穂さんのご縁です。
Author: RKKラジオ
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© RKK Kumamoto Broadcasting Co., Ltd.
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仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。 出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。
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★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。
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🔶お釈迦さまと乳粥にみる食の原点仏教において「食」は命の根源であり、悟りへの道とも深く関わっています。かつて過酷な苦行で命を落としかけたお釈迦さまを救ったのは、村娘スジャータが捧げた一杯の「乳粥(ちちがゆ)」でした。この供養によって体力を回復されたお釈迦さまは、極端な苦行では真の悟りを得られないと気づき、中道の教えを見出されました。乳粥という一つの料理こそが、仏教の歴史を大きく動かす原点となったのです。🔶「醍醐味」の語源と仏教の深い縁私たちが日常的に使う「醍醐味(だいごみ)」という言葉は、仏教経典の『涅槃経(ねはんぎょう)』に由来しています。経典では、牛乳を精製する過程を五段階(乳・酪・生酥・熟酥・醍醐)で示し、最後に出来上がる最高級の乳製品を「醍醐」と呼び、それを仏の教えに例えました。また、カルピスの名称も、この最高級の乳漿を意味するサンスクリット語「サルピル・マンダ」を参考にして生まれたといわれており、仏教と食には意外な繋がりがあります。🔶浄土真宗における肉食と親鸞聖人の歩み仏教では不殺生戒(ふせっしょうかい)に基づき肉食を避ける文化がありますが、浄土真宗では伝統的に肉食を禁じてきませんでした。これは、自らの修行や功徳によって仏になるのではなく、阿弥陀さまの無差別な救いの中に生かされているという教えに基づいています。親鸞聖人ご自身も「非僧非俗(ひそうひぞく)」として一般の人々と同じ生活を送り、食の制限を設けませんでした。ちなみに、聖人が好まれたのは「小豆(あずき)」であり、現代でも「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)」などの法要では伝統的な小豆粥が振る舞われています。🔶仏事の食事「お斎」に込められた意味法事などで供される食事を「お斎(おとき)」と呼びますが、これは本来、僧侶が食事を摂る決まった時間を指す「斎時(さいじ)」に由来しています。私の祖父である高千穂正史(たかちほ まさふみ)は、法事の席で「亡き人の思い出を語り合うことこそが、何よりのご馳走である」と説いていました。形としての料理だけでなく、共に亡き人を偲び、命の繋がりを確認するその豊かな時間が、私たちの心を育む糧となるのです。🔶命をいただく感謝の作法と追憶私たちは日々、多くの命に支えられて生かされています。浄土真宗では、食前には「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうを恵まれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」と唱え、食後には「尊いいのちを、おいしくいただきました。御報謝(ごほうしゃ)に努めます。おかげでごちそうさまでした」と合掌します。飽食の時代だからこそ、食前食後の言葉を通じ、命への感謝と亡き人への追憶を大切にしていきたいものです。🔶今週のまとめ仏教と食には密接な関係があり、お釈迦さまを救った乳粥は仏教の原点ともいえます。「醍醐味」という言葉は、牛乳の精製過程で最高の味を仏の教えに例えた経典の言葉が語源です。浄土真宗では修行による制限を設けず、ありのままの生活の中で命をいただく感謝を説きます。法事の食事「お斎(おとき)」は、亡き人の思い出を分かち合う「心のご馳走」をいただく場です。食前食後の言葉を通じて、多くの命に支えられている事実を喜び、感謝を深めることが大切です。次回テーマは「仏教と桜」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶お彼岸の由来と波羅蜜多の心3月20日の「春分の日」は、お彼岸の中日です。お彼岸の語源は、サンスクリット語の「パーラミター」を音写した「波羅蜜多(はらみった)」であり、「悟りの岸へ至る」ことを意味します。太陽が真東から昇り、真西に沈むこの時期、私たちは西に沈む太陽の姿に「西方浄土(さいほうじょうど)」を想います。科学的な目線を超えて、阿弥陀さまの限りない命と光の救いに心を寄せる、それが浄土真宗のお彼岸の歩みです。🔶外陣の広さにみる「聴聞」の精神浄土真宗の本堂には、阿弥陀さまを安置する「内陣(ないじん)」と、参拝者が座る「外陣(げじん)」があります。特徴的なのは、参拝者が座る外陣が非常に広く造られている点です。これは、お救いの話を聞く「聴聞(ちょうもん)」を何よりも大切にするためです。多くの人が集まり、共に教えを聞くための場所が、お寺の設計そのものに組み込まれているのです。🔶お寺から生まれた落語の伝統お寺の本堂には、僧侶が教えを説くための「高座(こうざ)」や、話を補足するための黒板、マイクが備えられています。実は、日本の伝統芸能である「落語」の起源は、お坊さんの法話にあります。江戸時代の僧侶で「落語の祖」と呼ばれる安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)上人は、法話を基に滑稽な話を生み出しました。寄席の用語である「前座(ぜんざ)」も、法話の前に司会を務める若い僧侶が由来となっています。🔶蓮如上人が説く「聴聞」の極意浄土真宗の中興の祖である蓮如上人は、『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中で「仏法は聴聞に極まることなり」と説かれました。聴聞とは、阿弥陀さまの救いのお話を、そのまま真っ直ぐに聞き届けることです。「なぜこの私が救いの目当てとされたのか」という慈悲の物語を繰り返し聞かせていただく「法座(ほうざ)」は、お寺にとって最も重要な場なのです。🔶お墓参りから法話への一歩お彼岸といえばお墓参りですが、それだけでなく、ぜひお寺の本堂で開催される「法話」にも足を運んでいただきたいのです。最近ではお寺の掲示板やSNSで情報を発信する寺院も増えています。亡き人を偲ぶお墓参りという尊いご縁をきっかけに、仏さまの心を聞かせていただく。それが、自分自身の命を見つめ直し、豊かな人生を歩むためのお彼岸の本来の過ごし方といえます。🔶今週のまとめお彼岸はサンスクリット語の「波羅蜜多」を語源とし、悟りの世界であるお浄土を想う期間です。浄土真宗のお寺は教えを聞く「聴聞」を重視するため、参拝者が座る外陣が広く造られているのが特徴です。落語の祖とされる安楽庵策伝上人は僧侶であり、落語の形式や「前座」などの用語はお寺の法話が由来です。蓮如上人は「仏法は聴聞に極まる」と示され、仏さまのお救いをそのまま聞くことの大切さを説かれました。お彼岸はお墓参りだけでなく、お寺で法話を聞くことを通じて仏さまの心に触れる尊いご縁の場です。次回テーマは「仏教と料理」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶震災から15年、記憶と現実へのまなざし2011年3月11日、午後2時46分。宮城県三陸沖を震源としたマグニチュード9.0の巨大地震は、津波や震災関連死を含め2万2,000人以上の尊い命を奪いました。震災から15年が経過した今なお、福島県の大熊町や双葉町など7市町村には帰還困難区域が残り、避難生活を余儀なくされている方々がおられます。仙台市立荒浜小学校の跡地のように、校舎の2階まで津波が押し寄せた記憶を留める遺構は、私たちに自然災害の脅威と命の重さを静かに語り続けています。🔶心の傷「PTSD」とサバイバーズ・ギルト被災された方々が抱える苦しみは、目に見える被害だけではありません。死の危険に直面した体験が強烈なストレスとなり、悪夢や不安、現実感の喪失を引き起こす「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」に苦しむ方が多くおられます。また、「なぜ自分だけが生き残ってしまったのか」と自らを責める「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」という心の痛みもあります。こうした心の傷は、生活基盤が整い、日常を取り戻し始めた頃に、ふとした拍子に表面化することが少なくありません。🔶臨床宗教師の誕生とその役割震災をきっかけに、公共空間で心のケアを担う「臨床宗教師(りんしょうしゅうきょうし)」という存在が注目されました。これは欧米の「チャプレン(宗教を背景に施設等でケアを行う専門職)」をモデルに日本で生まれたものです。布教や伝道を目的とするのではなく、相手の価値観を尊重しながら、被災された方の悩みや孤独に寄り添います。宗教者の本来の役割は、何かを教え導くこと以上に、苦悩の中にいる方と同じ場所で「ただ、そこにいる」ことにあるのです。🔶「ただ聴く」という寄り添いのかたち被災地における宗教者の主な活動は、相手の話を丁寧に聴く「傾聴(けいちょう)」です。家族を突然失った悲しみ、伝えられなかった後悔、あるいは日常の些細な愚痴。誰にも言えずにいた思いを言葉にすることで、整理のつかない感情が少しずつ和らいでいくことがあります。災害がいつどこで起き、いつ命を落とすかわからないという人間のありのままの現実に直面したとき、宗教者は共に立ち止まり、その苦悩を分かち合う「聴き手」としての役割を担います。🔶カフェ活動を通じた安らぎの提供臨床宗教師の実践の一つに、被災された方々の集いの場となる「カフェ」の活動があります。温かいコーヒーやお菓子を囲みながら、宗教者と住民が肩を並べて語らう場です。つらい記憶を無理に引き出すのではなく、安心して集まれる場所を提供し、対話のきっかけを作ります。誰かに思いを打ち明けられる場があることは、明日を生きていくための小さな、しかし確かな支えとなります。15年という月日が経っても、失われたものは戻りませんが、悲しみを抱えたまま共に歩む営みは続いています。🔶今週のまとめ東日本大震災から15年が経ちますが、今なお震災の記憶と帰還困難区域という現実が残されています。被災地では震災による直接的な被害だけでなく、PTSDやサバイバーズ・ギルトといった心のケアが重要です。臨床宗教師は、布教ではなく公共空間で人々の苦悩に寄り添う、日本版チャプレンとしての役割を担っています。宗教者の役割は、何かを説くこと以上に「そこにいる」こと、そして相手の話を丁寧に聴くことにあります。カフェ活動などの集いを通じて、つらい記憶や孤独を抱える人々の心が和らぐ場を支援し続けることが大切です。次回テーマは「春のお彼岸(おひがん)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶日本における大学制度の変遷と起源日本の大学の起源は、701年の「大宝律令」にまでさかのぼります。当時は貴族の子弟を対象とした官吏養成機関でしたが、その後、日本最古の総合大学といわれる「足利学校」や、弘法大師空海にゆかりのある「種智院(しゅちいん)」など、多様な教育の場が生まれました。近代に入り、明治19年の「帝国大学令」によって西洋式の大学制度が整えられ、大正7年の「大学令」を経て、現在の私立大学を含む高等教育の枠組みが確立されていきました。🔶現存する最古の大学としての龍谷大学日本に現存する最古の大学は、京都にある「龍谷大学」です。その歴史は江戸時代の1639年(寛永16年)、西本願寺に設けられた「学寮(がくりょう)」に始まります。以来、学林、大教校と名を変えながらも一度も途切れることなく継続され、すべての記録が現存しています。重要文化財に指定されている大宮キャンパスの本館などは、幕末から明治にかけての面影を今に伝えており、学生たちは歴史的な重みを感じながら学問に励んでいます。🔶善導大師の説く「学仏大慈心」の教え浄土真宗の学問の根底には、中国の高僧・善導(ぜんどう)大師が『観経四帖疏(かんぎょうしじょしょ)』の中に記された「学仏大慈心(がくぶつだいじしん)」という言葉があります。これは「仏さまの大慈悲心を学ぶ」という意味です。仏さまの慈悲とは、すべての命を慈しみ、煩悩から解き放って仏にしようと願う心です。この尊いお心を学び、自分自身の指針としていくことこそが、仏教を学ぶ真の意義であるといえます。🔶「学ぶ」の語源に見る真似ることの大切さ「学ぶ」という言葉の語源は、真似をするという意味の「まねぶ」にあるといわれています。私たちは最初から仏さまのような慈悲の心を持つことはできませんが、そのお姿や教えを「真似る」ことから始め、少しずつ自分の中に吸収していきます。これは仏教に限らず、あらゆる学問や技術の習得に通じる姿勢です。先人の知恵や真理を敬い、自らの肉体や行動を通して実践していくことに、学びの本質があります。🔶大学生活という人生のかけがえのない経験大学は単に知識を得る場所だけではありません。親元を離れた一人暮らしや、社会の仕組みを知るアルバイトなど、学生時代のすべての経験がその後の人生の財産となります。仲間と語り合い、汗を流し、時には失敗しながら学んだ人間関係や社会経験は、教室での講義と同じくらい貴重なものです。これから大学を目指す方々には、学問はもちろん、その時期にしかできない多様な経験を宝物にしてほしいと願っています。🔶今週のまとめ日本に現存する最古の大学は、1639年に始まった本願寺の学寮を起源とする龍谷大学です。龍谷大学の大宮キャンパスには、重要文化財に指定された歴史ある学舎が今も残っています。善導大師は「学仏大慈心」と説き、仏さまの慈悲の心を学ぶことの大切さを示されました。「学ぶ」の語源は「まねぶ(真似る)」にあり、仏さまのお心を真似て実践することに学びの意義があります。大学生活における学問や様々な社会経験は、その後の人生を支えるかけがえのない財産となります。次回テーマは「3.11(東日本大震災)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶卍の語源と世界共通の吉兆の印地図記号でお寺を表す「卍」は、単なる記号ではなく「万」という漢字でもあります。そのルーツはインドのサンスクリット語「スヴァスティカ」にあり、幸福や幸運を意味します。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の胸の瑞毛(ずいもう)に由来し、仏教ではお釈迦さまの胸に現れた「吉兆の印」とされています。実はその歴史は極めて古く、ウクライナのメジリチ遺跡(旧石器時代)で発見されたものが最古といわれ、宗教の枠を超えて世界中で用いられてきた根源的な形なのです。🔶日本における歴史と地図記号への定着この印が中国へ伝わると、693年に武則天(ぶそくてん)によって「万(まん)」と呼ぶことが定められました。これは「あらゆる吉祥が集まる」という意味が込められています。日本では、奈良・薬師寺の薬師如来像の足の裏に刻まれているものが現存する最古の例といわれ、1300年以上も前から幸福の象徴として親しまれてきました。明治13年(1880年)には、国土地理院によって正式に寺院を表す地図記号として定められ、今日に至ります。🔶時代を越えて人々を惹きつける形卍は、古今東西を問わず人々を惹きつける魅力を持っています。江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎は、晩年に「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」と号しました。また、現代の若者の間でも「マジ卍」という言葉が流行したように、その形や響きには理屈を超えて心に訴えかける力があるのかもしれません。特定の宗派の紋(浄土真宗の「下がり藤」など)とは異なり、卍はお寺全体の共通の印として、世界中の人々に「ここは聖なる場所である」ことを伝えています。🔶「四つのL」で味わう仏さまの働き私の祖父である高千穂正史(たかちほ まさふみ)は、卍の形を「四つのL」が組み合わさったものとして味わっていました。一つ目はLove(慈悲)。すべての命を救うという阿弥陀さまの慈愛。二つ目はLife(限りない命)。いつでもどこでも私を支える命。三つ目はLight(限りない光)。どんな暗闇にいても届く仏さまの知恵の光。そして四つ目はLiberty(自由・解放)。迷いやとらわれから解放され、真実の道へと導かれる自由です。🔶仏さまの働きを象徴する卍卍という形には、これら「Love、Life、Light、Liberty」という仏さまの命の働きが凝縮されています。それは私たち一人ひとりに向けられた、限りない救いのエネルギーの象徴です。お寺の門前で卍のマークを見かけたときは、それが単なる記号ではなく、太古の昔から人類が願い続けてきた「幸福への祈り」であり、今ここにある私を包み込む「仏さまの慈悲の働き」そのものであることを思い出していただければと思います。🔶今週のまとめ卍はお寺の地図記号であるだけでなく、サンスクリット語の「幸運」を語源とする漢字です。その歴史は古く1万年前の遺跡からも発見されており、世界中で吉兆の印として用いられてきました。日本では薬師寺の如来像に刻まれたものが最古とされ、1300年以上前から幸福の象徴とされています。高千穂正史和上は、卍をLove(慈悲)、Life(命)、Light(光)、Liberty(自由)の「四つのL」として味わいました。卍の形には、私たちを救いへと導く仏さまの多面的な働きが象徴されています。次回テーマは「学問(日本最古の大学)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶浄土真宗における呼び名と学階制度浄土真宗では、僧侶を「和尚(おしょう)」と呼ぶことは少なく、一般的には「住職」や「ご院家(ごいんげ)」、親しみを込めて「おっさん(御師さん)」などと呼びます。また、お寺の跡継ぎのことは「新発意(しんぼち)」と呼ぶ独特の習慣があります。こうした呼び名の一方で、学問を深く修めた僧侶には「学階(がっかい)」という位が授けられます。最高位の「勧学(かんがく)」やそれに次ぐ「司教(しきょう)」といった方々は、教えを導く立場として「和上(わじょう)」と敬称されます。本願寺派の僧侶約3万人の中で、この高位にある方はわずか30数名という、非常に厳しい研鑽を積まれた方々です。🔶勧学・山本仏骨和上の歩み今回ご紹介する山本仏骨(やまもと ぶっこつ)和上は、1910年(明治43年)に石川県の一般家庭に生まれました。お寺の出身ではないながらも、最終的には龍谷大学教授を務め、最高位の「勧学」にまで昇り詰められた、現代浄土真宗を代表する高僧の一人です。しかし、その人生は波乱に満ちたものでした。正規の教育は小学校までという厳しい逆境の中から、仏道への道を切り拓いていかれたのです。🔶スペイン風邪の惨禍と母の遺言山本和上が幼い頃、世界中で「スペイン風邪」が猛威を振るい、当時の世界人口の約3分の1が感染するという未曾有のパンデミックが起こりました。和上の家庭も例外ではなく、父と5人の兄弟を次々と亡くし、最後には母も病床に伏しました。見舞いに訪れた人々が、残される幼い我が子を案じて涙する中、お母様は「私は死んでもこの子から離れません。お浄土へ参らせていただき、そこからこの子を生涯守り続けます」と、明るい声で言い残されたといいます。🔶逆境の中で支えとなった母の眼差し母を亡くした後、和上は親戚の家に預けられ、子守などの奉公をしながら少年時代を過ごしました。同年代の子供たちが中学校へ通う姿を見て、進学できない自分を嘆き、悔し涙を流す日々もありました。しかし、そんな時にいつも思い起こされたのが、死の淵にありながら「お浄土から見守っている」と語った母の言葉でした。その言葉が、絶望の淵にあった和上の心を支え、学問の道、そして仏道へと突き動かす大きな力となったのです。🔶終わりなき命の繋がりと念仏の喜び山本和上の人生を導いたのは、極限の状態にあってもお念仏を喜び、救いの中に生きたお母様の姿でした。死は決して断絶ではなく、阿弥陀如来のお浄土において「仏」となり、今を生きる私たちを支え続ける働きとなる──。このお母様の確信は、まさに浄土真宗が説く「あらゆる命を救い取って捨てない」という阿弥陀如来の慈悲そのものでした。和上の功績は、この温かな命の繋がりを、自らの生涯をかけて証明し続けた点にあるといえるでしょう。🔶今週のまとめ 山本仏骨和上は、一般家庭の出身から本願寺派の最高学階「勧学」に至られた、近代を代表する高僧です。 浄土真宗では師弟子という壁を作らず、学問を修め教えを導く指導者を「和上」と敬意を持って呼びます。 幼少期にスペイン風邪で家族のほとんどを失い、小学校卒という境遇から苦学の末に龍谷大学教授となられました。 死を目前にしたお母様の「お浄土から生涯守り続ける」という言葉が、和上の生涯を支える光となりました。 お母様が示された念仏の姿は、死を超えて続く阿弥陀如来の救いと命の繋がりを物語っています。次回テーマは「卍(まんじ)の意味」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶涅槃会の由来とニルヴァーナの意味2月15日は「涅槃会(ねはんえ)」です。これは、仏教の開祖であるお釈迦さまが入滅(にゅうめつ)、すなわちその生涯を終えられた日の法要を指します。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」といい、もともとは「火を吹き消すこと」を意味します。私たちの迷いである「煩悩の火」を吹き消した悟りの境地のことであり、中国では「滅度(めつど)」とも訳されました。🔶お釈迦さまのご生涯と最後のお食事お釈迦さまは29歳でご出家(しゅっけ)され、35歳で悟りを開かれました。それから45年間にわたり「み教え」を説き続け、80歳で入滅されました。今から約2,500年前、日本でいえば縄文時代のことです。お釈迦さまが亡くなられた原因は食中毒であったといわれ、経典『涅槃経』には「スカーラ・マッダヴァ(柔らかい豚、あるいはキノコ料理の意)」を召し上がったと記されています。当時の僧侶は、信徒から供えられたものは肉であってもいただくのが作法であり、その伝統は現在も東南アジアの上座部仏教などに引き継がれています。🔶涅槃図にみる「北枕」と約束事お釈迦さまが入滅される様子を描いた「涅槃図(ねはんず)」には、いくつもの約束事があります。お釈迦さまは頭を北にし、西を向き、右脇を下にして横たわっておられます。これを「頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)」といい、現代の「北枕」の由来となりました。本来、これはお釈迦さまの尊いお姿に倣ったものであり、決して縁起が悪いものではありません。また、図には満月と8本の沙羅双樹(さらそうじゅ)が描かれ、教えが不滅であることを象徴しています。🔶生きとし生けるものとの別れと摩耶夫人涅槃図にはお弟子さんだけでなく、馬、猿、象といったありとあらゆる生き物たちが集まり、お釈迦さまの死を嘆き悲しむ姿が描かれています。一説に「猫」が描かれないのは、お釈迦さまへの薬を運ぶネズミを猫が捕まえてしまったからだという逸話もあります。また、空の上からはお釈迦さまの母である摩耶夫人(まやぶにん)が、天女とともに亡き息子のもとへ駆けつける姿が描かれており、一切の命がお釈迦さまを慕う様子が表現されています。🔶入滅という「方便」が示す導きお釈迦さまが亡くなられたことは、単なる命の終わりではありません。仏教ではこれをお釈迦さまが私たちに示された「方便(ほうべん)」、つまり救いのための導きであると捉えます。生死(しょうじ)を超えた悟りの境地を、自らの生涯をもって示されたのです。涅槃会という日は、お釈迦さまを偲ぶとともに、時代や宗派を超えて、私たちが本来出会うべき「救い」と「命のありよう」を改めて見つめ直す大切なご縁となります。🔶今週のまとめ 2月15日は涅槃会。お釈迦さまが80歳で入滅された日を偲ぶ、仏教において極めて大切な法要です。 涅槃(ニルヴァーナ)とは「煩悩の火を吹き消した状態」を指し、仏さまの悟りの境地を意味します。 涅槃図に描かれたお釈迦さまのお姿は、現代の「北枕」の由来となった尊い形です。 涅槃図にはあらゆる動物や天界の摩耶夫人までが登場し、お釈迦さまとの別れを惜しむ姿が描かれています。 お釈迦さまの入滅は、私たちに命の真実と救いのかたちを指し示す尊い「方便」でもあります。次回テーマは「山本仏骨(やまもと ぶっこつ)和上」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶ペットという身近な命とのご縁現在、日本で飼育されている犬猫の合計数は約1,600万頭にのぼり、15歳未満の子どもの数(約1,435万人)を上回っています。それだけ動物という存在は、私たちの日常生活において身近な「命のご縁」となっているのです。仏教の視点から動物を考えるとき、そこには「迷いの中に生きる存在」という厳しさと、「尊い平等な命」という慈しみの両面が見えてきます。🔶六道輪廻における畜生道という世界仏教には、迷いの世界を六つに分けた「六道輪廻(ろくどうりんね)」という教えがあります。動物は「畜生道(ちくしょうどう)」に分類され、本能(欲)のままに生き、楽しみが少なく苦しみが多い世界とされています。これを「愚鈍(ぐどん)に生きて真理を知らない」という意味で「愚痴(ぐち)」とも呼びます。人間とは異なる迷いの形を生きる存在として、まずはその違いを見つめる立場があります。🔶シビ王の物語にみる命の平等一方で、動物を人間と「同じ救いの対象」として尊ぶ見方もあります。古くから伝わる「シビ王(しびおう)」の物語では、タカに追われたハトを救うため、シビ王が自らの肉を切り、ハトと同じ重さ分をタカに与えて両者の命を救いました。これは「命の重さに人間も動物も区別はない」という仏教の平等観を象徴しています。命に優劣をつけない、慈悲のまなざしがここにあります。🔶親鸞聖人が説く命の繋がり浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、著書『歎異抄(たんにしょう)』の中で「一切の群生(ぐんじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)兄弟(きょうだい)なり」と述べられました。生きとし生けるものは、幾度も生まれ変わりを繰り返す中で、かつて自分の父母であり兄弟であったかもしれない存在だという教えです。目の前の動物を、他人事ではない深い縁(えにし)ある命として受け止める姿勢を説いています。🔶他の命に支えられているという自覚私たちは、他の命をいただくことで生かされています。詩人の金子みすゞさんは、その詩「大漁」の中で、浜が祭りのように湧く一方で、海の中では何万ものイワシの弔いがあるだろうと詠みました。近年注目される「アニマルウェルフェア(動物福祉)」の考え方も、単なる愛護にとどまらず、私たちの生活を支えてくれる動物たちのストレスを減らし、尊厳を守る取り組みです。こうした具体的な配慮の中に、平等を育てる一歩があります。🔶今週のまとめ現代社会において、動物は子どもより数多く存在するほど、人にとって身近な命のご縁となっています。 仏教では動物を「畜生道」という迷いの存在と見る一方で、等しく尊い平等な命としても捉えます。 親鸞聖人は「すべての命はかつての父母兄弟である」と説き、命の境界を超えた繋がりを示されました。 私たちは他の命に支えられて生きていることを自覚し、動物への配慮や制度づくりに関心を持つことが大切です。 阿弥陀如来の救いはすべての命に届いており、共に仏となる道を歩む「いのち」であることを忘れてはなりません。次回テーマは「繁栄(はんえい)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶宮型霊柩車の激減とその背景 かつて葬送の象徴だった、金飾りの施された「宮型霊柩車」が姿を消しつつあります。2003年には全国で2,000台以上が走っていましたが、現在は10分の1の220台ほどにまで激減しました。その背景には、近隣住民から「自宅の前を通るのは縁起が悪い」という苦情が寄せられるなど、死を忌み嫌い、遠ざけようとする意識の変化があります。現在では全国150以上の自治体で、火葬場への宮型霊柩車の乗り入れが制限されるようになっています。🔶葬儀の場と家族のかたちの変遷 葬儀の簡素化は、社会構造の変化と深く結びついています。かつては自宅で執り行われ、地域住民が列をなす「葬列」がありましたが、明治時代に葬儀社が誕生し、やがて葬儀会館での式が一般的となりました。三世代同居から核家族化、そして単身世帯が約半数を占める現代において、住環境(マンションなど)の変化もあり、葬儀のかたちが変化していくのは時代の必然とも言えます。🔶死を「縁起」で捉える心への問い 霊柩車を「縁起が悪い」と避ける心理の根底には、死を恐れ、穢れ(けがれ)として遠ざけたいという人間の感情があります。しかし、仏教(浄土真宗)では、死を穢れとは捉えません。そのため、葬儀の後に「清めの塩」をまく習慣もありません。亡くなった大切な方を穢れとして扱うのではなく、最後までその命の尊さに敬意を払い、感謝の心で送ることを大切にします。🔶葬送儀礼が持つ本来の意味 葬儀や通夜、火葬といった一つひとつの儀礼には、深い意味が込められています。霊柩車のルーツが「葬列」にあるように、それは亡き人を丁寧にお送りする真心のかたちでした。形式が質素になること自体は時代の流れですが、その奥にある「意味」まで失われてはなりません。儀礼を簡略化する現代だからこそ、私たちが何を大切にすべきかを改めて見つめ直す必要があります。🔶死別を「自己の命」に向き合うご縁に 仏教において葬儀とは、単なる別れの儀式ではありません。亡き人が「仏さま」となられ、新たなる関係が始まる場です。死を終わりと見るのではなく、死別という出来事をご縁として、今を生きる私が「自らの命」を見つめ直す。死を恐れるだけでなく、自分もいつか終わりゆく命であることを受け入れていく。そのまなざしを持つことが、亡き人への敬意となり、私たちの生きる力となります。🔶今週のまとめ宮型霊柩車は全盛期の10分の1に激減。死を遠ざける社会心理や自治体の規制が影響しています。社会や家族のあり方が変化し、葬儀の場は「家」から「会館」へと移り、簡略化が進んでいます。浄土真宗では死を穢れと見ないため「清めの塩」は使いません。命の繋がりを尊びます。葬送儀礼の形式が変わっても、そこに込められた「亡き人を送る意味」を忘れてはなりません。葬儀は死別を機に、自分自身の命のあり方に向き合う大切な「ご縁」の場です。次回テーマは「動物と仏教」です。どうぞお楽しみに。 お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶 今回のテーマ今週は「迷信」を取り上げます。なかでも話題に上がりやすい丙午(ひのえうま)と出生数の揺れ、その背景にある物語、そして仏教的な受け止め方を整理します。🔶 丙午とは何か十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせでできる六十通り(六十干支)のうちの一つが丙午です。六十年で一巡するため、干支が生年に戻る年を「還暦」と呼びます。🔶 なぜ「丙午の女は強い」という話が広まったのか江戸期に広まった八百屋お七の放火事件を素材にした芝居や読み物が、後世の想像と結びついて「丙午生まれの女性は気性が激しい」といった根拠の薄い俗信を後押ししました。物語上の極端な行為が、出生年一般の性格づけに飛躍して結びつけられたのが問題の核心です。🔶 数字が示す「迷信の社会的影響」1966年(昭和41年)は丙午に当たり、前年に比べ出生数が大幅に減少した事実があります。個人の決断に社会的な思い込みが影響し得ることを示す一例です。令和の現在は状況が変わりつつありますが、不確かな通念が行動を左右する危うさは教訓として残ります。🔶 親鸞の視点:日柄や占いに振り回される私浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、良し悪しの日取りや占いに執着する人の姿を「悲しいありさま」として嘆いた和讃を残しています。要点は明快です。いい日・悪い日という恣意的な物差しに生き方を明け渡すのではなく、煩悩を抱えたままの自分が阿弥陀如来のはたらきに遇うことこそ肝要、ということです。🔶 どう受け止めるか(実践のヒント)迷信は「蓋をして無視」よりも、由来を知って距離を取るのが有効です。出所と論理の飛躍を知れば、必要以上に怯えたり他者を傷つけたりせずに済みます。人生の大切な選択は、確かな情報と自分たちの意思で決める。そこに仏教でいう「今、この身に届いているはたらき」を聞きひらく姿勢が重なります。🔶 まとめ丙午の俗信は、物語が独り歩きした歴史的産物です。数字が示す影響を教訓に、思い込みよりも事実、そして念仏の教えに立ち返る心を大切にしたいものです。誰かの人生や尊厳を、根拠の薄い通念で狭めない——それが今年のはじめに確認したい「迷信との付き合い方」です。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂 光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井 純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶 今回のポイント親鸞聖人の御正忌にあわせて、御正忌報恩講の意義をたどりながら、「いただくいのち」と「生かされる私」を見つめ直します。ゲストは、海の卸売を担う 大海水産株式会社(熊本市・くまもと田崎市場) で働く幼なじみ、豊増 琢真(とよます たくま)さんです。🔶 報恩講とは浄土真宗の宗祖 親鸞聖人のご遺徳を偲び、阿弥陀如来の救いに遇う中心法要。起点は第3代宗主 覚如上人の『報恩講式』にさかのぼり、のちに第4代 存覚上人が整備。700年以上続く“報恩”の実践です。🔶 “いのち”を直視する親鸞の眼他のいのちをいただかずには生きられない私、煩悩に満ちた私。そのありのままを見つめ、「その私こそ救いの目当て」とする阿弥陀如来の本願を確かめます。科学が進んでも、生と死の根源的な問いは残ります。🔶 田崎市場の現場から見える循環豊増さんによると、魚は可食部が概ね半分。骨や頭など未利用部位は肥料へリサイクルして「捨てずに次のいのちへつなぐ」ルートを構築。海洋プラスチック対策にも関与し、行政と連携しながら地域発のSDGsを進めています。🔶 三方よし × いのちの礼儀漁師が命がけで獲った魚を卸が預かり、食卓へ届ける。売り手・買い手・世間がともに良しとなる関係は、仏教が説く「いのちが縁で支え合う」世界観と響き合います。食べられない部位も無駄にしない——それが“いのちへの報恩”です。🔶 まとめ御正忌報恩講は、私が他のいのちに生かされている事実を思い起こす場。海の恵み一皿にも無数のはたらきが通っています。無駄にせず次へ渡す。日常の小さな選択に、報恩は宿ります。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂 光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井 純子(まるい じゅんこ)。ゲストは 大海水産株式会社(熊本市・くまもと田崎市場) の 豊増 琢真 さんでした。
新年最初の放送は、海の卸売を担う「大海水産株式会社」(熊本市・くまもと田崎市場)で働く幼なじみのゲスト、豊増琢真さんを迎え、「海と仏教」を語りました。仏教には海をめぐる二つのイメージがあります。ひとつは尽きない迷いを示す煩悩の海。もうひとつは、限りなく広がる阿弥陀如来の大いなる慈悲をたたえる海。相反するようでいて、実は同じ海の比喩であり、清濁を抱きとめる大きなはたらきの中に、迷いも救いも包まれていくと考えます。🔶田崎市場から食卓へ——“いのち”を受け渡す現場大海水産は熊本の台所・田崎市場で、県内外や海外から届く魚介を見極め、飲食店や家庭へ届けています。豊増さんの実感として、近年は海水温の上昇により水揚げの時期や漁場のずれが目立ち、北海道でブリが上がるなどの変化も体感しているとのこと。漁師が命がけで獲った魚を預かり、消費者に手渡す——現場はいつも“いのち”の重みと向き合っています。🔶海を守ることは、いのちを守ること海洋プラスチック問題など、海の環境悪化は魚の生存そのものを脅かします。会社としては寄付や行政との連携に取り組み、廃棄物の抑制や啓発にも協力。仏教が説く「私たちは他のいのちに生かされている」という視点に立てば、環境保全は信仰や倫理の実践とも重なります。🔶「いただきます」の意味をもう一度パックの切り身の向こう側には、海のいのち、漁の危険、流通の労苦、数えきれない人の手があります。「いただきます」は、その総体へ向けた感謝の言葉。仏教の言葉でいえば、煩悩の海を生きる私が、慈悲の海に照らされて「いのちの縁」をいただく営みです。🔶今日のひとこと広大な海に生かされる私たち。迷いも救いも同じ大海に抱かれている——そう受け止めると、目の前の一皿が少し違って見えてきます。🔶今週のまとめ海は迷いの比喩でもあり、慈悲の比喩でもあります。田崎市場の現場から見える環境変化は、海を守る責任を私たちに突きつけます。「いただきます」は、いのちの受け渡しに対する感謝の宣言です。来週は「いのち」をさらに掘り下げます。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂 光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井 純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶大晦日・晦日・つごもり「晦日(みそか)」は本来、月の30日を指しましたが、のちに月の最後の日という意味になりました。「大晦日」は年の最後の日、12月31日です。「つごもり(晦)」は太陰太陽暦で月末に月が隠れることから生まれた語とされます。🔶「師走(しわす)」の語源(諸説)「僧が走るほど忙しい」という説が知られますが定説ではありません。「年が果てる(年果つ)」が変化したという説、四季が極まるを語源とする説など、いずれも年の瀬の慌ただしさを映す説明です。🔶除夜の鐘と「除夜会(じょやえ)」「除夜」は大晦日の夜のこと。古い年を除き新しい年を迎える意です。浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、除夜会や元旦会などの法要が営まれます。寺院によっては鐘を撞きます。🔶なぜ108回なのか有名なのは四苦八苦の合計という説明です。4×9+8×9=108もう一つの説明は次の組合せです。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に三つの受(楽、苦、不苦不楽)と二つの状態(染、清)と三つの時(過去、現在、未来)を掛け合わせ、六×三×二×三=108とする考え方です。ただし浄土真宗の自覚としては、煩悩は108で数え尽くせません。人は煩悩具足の凡夫であり、いのちが終わる時まで煩悩は尽きない存在です。だからこそ鐘の響きに自分のありのままを聞き、新しい一年に念仏のご縁を結び直します。🔶年末の寺の景色十二月は各家で営むお取越報恩講などがあり、僧侶も慌ただしくなります。帰省に合わせた墓参や寺参りも増え、師走の空気が境内に満ちます。🔶今週のまとめ晦日、大晦日、つごもりはいずれも月や年の締めを示す言葉です。除夜会は古い年を除く法要で、108という数え方には複数の説明があります。真宗の立場では、数え切れない煩悩を見つめ直す機縁として受けとめます。鐘の音を縁に、悔い改めと感謝で一年を締め、新たな年に念仏の一歩を踏み出しましょう。来年最初のテーマは「海と仏教」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶今週のテーマ12月24日の「クリスマス・イブ」を手がかりに、日本人の宗教行動、科学と宗教の関係、そして“人間はなぜ信じるのか”を考えます。🔶「イブ」は“前夜祭”ではなく「その夜」「イブ(Eve)」は evening(夕べ) の古い形に由来し、12月24日の夜 を指します。日本では“前夜祭”的に受け止められがちですが、本来は「クリスマスの夜」という意味です。🔶日本人の宗教行動の特徴クリスマスを祝い、結婚式はチャペルで、葬儀は仏式、正月は神社へ――複数の宗教文化が生活の中で共存しています。文化庁『宗教年鑑』や統計数理研究所の調査でも、「自分は無宗教」と感じながら 宗教的行事には親しむ 傾向が示唆されます。これは「特定宗教への強い帰属」より、行事や文化を通じて“宗教性”に触れる日本的なあり方と言えます。🔶科学と宗教――二項対立ではなく並び立つもの科学は「どう働くか」「何が起きているか」を説明し、人類の知を拡張してきました。しかし 「なぜ生まれ、死んだらどうなるのか」 といった究極の問いは、科学の方法だけでは答えきれません。だからこそ、科学の営みと宗教の応答は並び立つ。両者は互いの領分で人間を支えます。🔶“人間は苦悩する管”という比喩パスカルが「人間は考える葦」と語ったように、別の言い方をすれば人間は悩まずにいられない存在。欠けやすく、揺れやすいからこそ、人は何かを信じ、寄る辺を求める。この“信じる力”が文化や祈りを生み、季節の行事を温めてきました。🔶仏教から見た“平等”の眼差し先週までの流れとも響き合いますが、仏教は すべてのいのちは等しく尊い と観じます。「信じる」という営みは、弱さの証明ではなく、人間らしさのあかし。そこに救いの道が開かれます。🔶今週のまとめ「イブ」は24日の“その夜”。日本の宗教行動は多宗教的で、無宗教と宗教性の両立が日常に見られます。科学と宗教は対立ではなく相補。人は究極の問いに向き合うとき、信じる力を必要とします。だからこそ、季節の祈りを大切に――「揺れる私を支える“よりどころ”」として。次回のテーマは「大晦日のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
終活を仏教の視点で見直します🔶終活の目的を整理します終活は、人生の終わりに向けて準備する活動です。残される人への負担を減らし、自分自身の不安を和らげ、人生の集大成を整える時間でもあります。🔶終活で整える主な項目物や人間関係の整理(片づけ、連絡先の整備)財産の整理(相続・生前贈与・口座や保険の確認)医療・介護の意思表示(延命の可否、在宅/施設の希望など)葬儀・埋葬の方針(形式・喪主・菩提寺・お墓/納骨堂/合葬墓/散骨 など)書面の準備(エンディングノート、遺言書)🔶変わる葬儀・お墓のかたち家族葬、直葬、1日葬など多様化が進み、墓所も合葬墓や納骨堂など選択肢が広がっています。背景には、同居の減少や住居事情(仏壇を置きにくい間取りなど)といった社会構造の変化があります。🔶「伝える」終活――情報共有が要です菩提寺(ぼだいじ)の所在・連絡先、先祖の墓所・納骨先葬儀社の希望、喪主・連絡リスト、形見分けの意向エンディングノートに書くだけでなく、家族と対話して共有しておくことが大切です。書面に残らない「経緯・思い」も会話で伝わります。🔶浄土真宗から見た核心――『白骨の御文(はっこつのごもん)』蓮如上人(れんにょ しょうにん)の『御文(=本願寺派では『御文章(ごぶんしょう)』)』は、いのちの無常を静かに示します。「朝には元気な人が、夕べには白骨となる身」――だからこそ、阿弥陀如来(あみだ にょらい)の救いに遇(あ)い、念仏を申す道を聞き開いていくことが肝要だと説きます。終活は手続きや物の整理にとどまらず、「いのちの行方」を聞き、今を生き直す仏縁の機会でもあります。🔶実践のヒント(チェックリスト)菩提寺・墓所・過去帳の確認/連絡先を家族で共有した医療・介護・葬儀の希望を書き出し、家族と話し合った財産目録・重要書類の所在を一箇所にまとめたエンディングノートと遺言書(必要なら公正証書)の使い分けを理解した仏事の基本(枕経・通夜・葬儀・年忌法要の流れ)を菩提寺に相談した仏さまの教えを聞く場(ご法話・報恩講など)に足を運ぶ予定を入れた🔶今週のまとめ終活は「残すための整え」と同時に、「今を生き直す学び」です。社会の変化で葬送の形は多様化。だからこそ情報共有と対話が重要です。浄土真宗の要は、無常に目覚め、阿弥陀如来の救いを聞き開くこと。手続きの準備と、ともに歩む心の準備を両輪にしましょう。🔴次回のテーマは「クリスマス・イブに寄せて」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶世界人権デーの由来を押さえます12月10日は世界人権デーです。これは1948年(昭和23年)12月10日、パリで開かれた国連総会で「世界人権宣言」が採択されたことに由来します。宣言は前文と30条から成り、「すべての人は法の下に等しく保護される」ことなど、基本的人権の尊重という原則を国際的に掲げました。第2次世界大戦下の迫害や人権侵害の反省から、「人権の保障は世界平和の基礎である」という考えが広がったのです。🔶仏教の平等観をたどりますお釈迦さまは、すべての命は等しく尊いと説きました。これは、身分差を前提にした古代インド社会において画期的な教えでした。生まれや地位に関わらず、人はみな苦(生老病死)を生きる同じ存在であり、そこに差を設けない――それが仏教の平等です。🔶カーストと「無差別」の教えを照らします当時のインド社会には、バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王侯・武人)・ヴァイシャ(庶民)・シュードラ(労働者)等の身分秩序(のちにカーストと呼ばれる)がありました。お釈迦さまは、その区別を超えて出家者の集いを開き、身分や出自で価値を量らない「無差別」の実践を示しました。🔶念仏と平等──法然・親鸞の転換を押さえます時代が下ると、学識や財力に依る修行が重んじられ、宗教世界にも階層差が生じました。これに対し、法然上人・親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と念仏を申す道こそ、誰にでも開かれたすぐれた行であると示しました。能力や功徳の“量”で救いが分かれるのではなく、阿弥陀如来の本願によって、どの命にも等しくはたらきが届く――ここに仏教の平等が具体化します。🔶『仏説阿弥陀経』の蓮の喩えを味わいます経典には「青色は青光、黄色は黄光、赤色は赤光、白色は白光を放つ」と説かれます。蓮はそれぞれの色のまま光を放ちます。仏の光に照らされた命は、ありのままの個性のまま尊く輝く、という譬えです。だれかと同じになることではなく、「違いのまま等しく尊い」――それが仏の平等です。🔶人権と仏のまなざしを重ねます世界人権宣言は「人間の平等」を掲げます。仏教はそこへ、さらに「いのち全体」への視野を重ねます。人も他の生き物も、互いに命をいただき合って生きる存在です。仏のまなざしに学ぶなら、差別や排除を退け、違いを違いのまま尊重する具体的なふるまい(言葉づかい、配慮、制度づくり)へと私たちの実践は導かれます。🔶今週のまとめ12月10日は世界人権デーで、人権尊重を国際社会が確認した日です。仏教の平等は「仏のまなざし」に立ち、出自や能力によらず、すべての命が等しく尊いと見る立場です。法然・親鸞は念仏の道を、誰にでも開かれた救いとして位置づけました。『仏説阿弥陀経』の蓮の喩えは、「違いのまま等しく光る」平等のかたちを示します。人権の実践に、仏のまなざしを重ねて、日々の言葉と行為に平等を育てていきます。次回テーマは「終活」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶成道会(じょうどうえ)特集|今回の放送でお伝えしたこと12月8日の成道会に合わせて、お釈迦さまが悟りに到るまでの道のり(四門出遊→出家→苦行と中道→スジャータの乳粥→菩提樹下の成道→初転法輪)を、できごとの順にたどりました。物語としての面白さだけでなく、「いま私がどう生きるか」へつながる視点も添えて解説しています。🔶放送の流れ(ダイジェスト)出発点:王子シッダールタの不安・豊かな生活を送りながらも、心は満たされなかった——ここに「苦(ドゥッカ)」の自覚が芽生えます。四門出遊:老・病・死・出家者との遭遇・老い・病い・死の現実に直面し、「苦を超える道」を探す決意が生まれます。出家と6年の苦行・ストイックな苦行を徹底するも、「苦行そのものでは悟れない」と見切りをつけ、中道へ。転機:スジャータの乳粥・心身を整え、再び“見る力”を取り戻す準備段階。成道:菩提樹下の瞑想・煩悩(誘惑)を見極め、明けの明星のころ「目覚め(ブッダ)」に到達。初転法輪:鹿野苑で五比丘に説く・四諦と八正道を示し、仏教の車輪が回り始めます。🔶放送で押さえたキーワード・ブッダ=「目覚めた人」:新発見ではなく、元からある真理への到達。・中道:快楽と苦行の両極端を離れた実践の道。・四諦と八正道:苦の事実と、その終息に向かう具体的な実践指針。・臘八会(ろうはちえ):多くの寺院で12/8に営まれる成道の法会名。🔶エピソードの読みどころ(番組の視点)・「なぜ“苦行”ではなく“中道”なのか?」——身体をすり減らす修行から、心身を調える実践へ。・「最初に説いた相手が“かつて去った五比丘”である意味」——関係の修復と普遍性の示し。・「科学的知見と信仰的伝承の重ね合わせ」——史実(地名・人名・法要)と伝承(明星・49日瞑想など)を区別して紹介。・「現代への置き換え」——“目の前の苦をどう見るか”“中道を日々の選択にどう落とすか”。🔶放送内の具体例(こんな話をしました)・老・病・死を「見ないままにしない」ことの効用。・SNS時代の“過剰な苦行”と“過剰な快楽”——心身のバランスを取り戻す「中道」のヒント。・仕事・家庭・介護など、揺らぎの中で「いま取れる最善」を選ぶ視点。・“悟りは遠い理想”ではなく、「苦を正しく見る」小さな実践の継続だという提案。🔶今回のまとめ成道会は、「苦」を避けずに見つめ、中道を実践へつなげる日です。四門出遊から初転法輪までの道のりを、歴史と伝承の双方から確認し、今日の暮らしの“選び方”に落とし込みました。🔶次回予告次回は「仏教と人権」。尊厳・平等・差別観と、仏教の視点を重ねてお届けします。🔶出演お話:熊本市中央区京町(きょうまち)・仏嚴寺(ぶつごんじ) 高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん 進行:丸井純子(まるい じゅんこ)
浄土真宗で最も大切な年中行事が報恩講です。宗祖・親鸞(しんらん)聖人のご命日にちなみ、仏さまのご恩、そして教えを伝えてくださった先人のご恩に「報(むく)いて恩に謝する」法要として営まれます。🔶日にちと暦を整えます親鸞聖人のご命日:旧暦11月28日(新暦換算では1月16日)。本願寺派(西本願寺)では、宗祖のご命日に合わせて御正忌(ごしょうき)報恩講を1月16日前後に厳修します。真宗大谷派(東本願寺)では、11月21日〜28日に報恩講を営むのが通例です。旧暦(太陰太陽暦)は月の満ち欠けを基本とするため年日が短く、閏月で季節のずれを調整してきました。明治以降は太陽暦(新暦)へ移行し、法要日程の運用に両派の伝統が残っています。🔶報恩講のはじまり第3代本願寺門主・覚如(かくにょ)上人(親鸞聖人の曾孫)が、法要の次第を整えた『報恩講式(ほうおんこうしき)』を撰述。その子の存覚(ぞんかく)上人が内容を整備・普及に尽力しました。第8代・蓮如(れんにょ)上人の時代には、全国の寺院・道場へと広く定着していきます。500年以上に及ぶ歴史をもつ行事です。🔶報恩講で何をするのかお勤め:正信偈(しょうしんげ)などをお唱えします。ご法話:阿弥陀如来の本願と親鸞聖人のご遺徳に学び、念仏の道を確かめ合います。趣旨:供養中心ではなく、恩を知り、恩に報いる仏事として、今を生きる私の聞法(もんぽう)の場であることが要点です。🔶歎異抄の一節を手がかりに親鸞聖人の言行を伝える『歎異抄(たんにしょう)』には、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一念一度も念仏申したること候はず」とあります。念仏は誰かのために「してあげる供養」ではなく、阿弥陀如来の働き(本願力)に遇(あ)った私の口からおのずとあふれる称名である、という核心が示されています。生死は無常。だからこそ本願に身をまかせ、今ここで聞法し念仏申す。報恩講は、その原点に立ち返るご縁です。🔶旧暦と新暦のミニ知識旧暦(太陰太陽暦)は1か月を約29.5日と数えるため、354日ほどで1年になり、季節とずれます。ずれを補うため閏月(うるうづき)を置きました。新暦(太陽暦)移行後、本願寺派は新暦1月、大谷派は新暦11月にそれぞれの慣行で報恩講を営んでいます。🔶今週のまとめ報恩講は、親鸞聖人のご命日にちなむ「恩に報いる」法要。起源は覚如上人の『報恩講式』、整備は存覚上人、全国的な普及は蓮如上人。趣旨は供養中心ではなく聞法中心。阿弥陀如来の本願に遇い、念仏の道を確かめるご縁です。暦の違いにより、西本願寺は1月(御正忌報恩講)、東本願寺は11月に営むのが通例です。来週のテーマは「お釈迦さまのお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶「お布施(その二)」をやさしく読み解きます今週は、仏教の実践「布施(ふせ)」を前回につづいて深めます。ことば・人名・仏教用語を正しながら、日常に落とし込める形で整理します。🔶布施の語源を正します布施はサンスクリット語 dāna(ダーナ) の意訳です。「自分の持ち物・力・心を惜しみなく分かち合い、互いに助け合い喜び合うこと」を指します。なお、日本語の「旦那/檀那(だんな)」は仏教語で、施主・パトロンの意から来ました(関連語:檀家(だんか)・檀越(だんおつ))。浄土真宗では一般に「門徒(もんと)/門信徒」と呼び、「檀家」は用いないのが通例です。🔶六波羅蜜における布施菩薩の六つの修行 六波羅蜜(ろくはらみつ:布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の第一が布施です。布施は次の三つに大別されます。財施(ざいせ):金品・物品・時間・労力などを分かち合います。法施(ほうせ):教え・知恵・気づきを分かち合います。無畏施(むいせ):恐れや不安にある人を安心へ導く支え(傾聴・付き添い・安全の提供など)です。いずれも見返りを求めない「贈与の心」が核です。🔶お金がなくてもできる「無財の七施」財産がなくても今日から実践できる布施が、**無財の七施(むざいのしちせ)**です。眼施(がんせ):温かなまなざしを向けます。和顔施(わがんせ/和顔悦色施):にこやかな表情で接します。言辞施(ごんじせ):やさしい言葉をかけます。身施(しんせ):体を使って手助けします。心施(しんせ/慈心施 じしんせ):思いやりを向けます。床座施(しょうざせ):席や場所を譲るなど、居場所を提供します。房舎施(ぼうしゃせ):雨宿りの軒を貸す・休ませるなど、憩いの場を与えます。🔶「床座施」を日常に生かしますバスや電車での席を譲ることは床座施の代表例です。要点は次の三つです。・相手の状況(高齢・妊娠・体調等)に気づく眼施をもつ。・和顔+言辞(やわらかな表情と一言)で申し出る。・断られても気を悪くしない(見返りを求めない)。さらに、職場などで役割やポジションを後進に譲る姿勢も、広い意味での床座施です。執着から一歩離れる修行といえます。🔶執着から離れるヒント地位・所有・席へのしがみつきは、怒りや不満の芽になります。小さな一歩(席を譲る・順番を譲る・発言枠を譲る)を日々の習慣にすると、心の柔らかさが育ちます。できない日があっても構いません。続けようとする志が、布施のいのちです。🔶今週のまとめ・布施は dāna の訳で、「惜しみなく分かち合う」実践です。・六波羅蜜の第一で、財施・法施・無畏施の三施を含みます。・無財の七施(眼施・和顔施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施)は、誰でも今日から始められます。・とくに床座施は、席や役割を譲る実践。執着を離れる小さな歩みが、やさしい社会の土台になります。来週のテーマは「報恩講(ほうおんこう)」のお話です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
🔶「お布施(その一)」をやさしく整理します「お布施=お金や物を渡すこと」と思われがちですが、仏教でいう**布施(ふせ)**はもっと広く深い実践を指します。今週は、用語を正しつつ、日常で生かせる形にまとめます。🔶布施の本来の意味布施はサンスクリット語 dāna(ダーナ) の意訳で、「自分の持ち物や能力・心を惜しみなく分かち合い、互いに助け合い喜び合うこと」を意味します。見返りや取引ではなく、純粋な贈与の心が要です。🔶六波羅蜜と三種の布施菩薩の修行である**六波羅蜜(ろくはらみつ)**のはじめに置かれるのが布施です。布施には大きく三つあります。財施(ざいせ):金品・物品・時間・労力を分かち合います。法施(ほっせ):教えや知恵・気づきを分かち合います(僧侶だけでなく、学んだことをやさしく伝える行為全般を含みます)。無畏施(むいせ):不安・恐れにある人を安心へ導く支え(傾聴・寄り添い・安全の提供など)。いずれも「相手の利益(やすらぎ)を願う心」が中心にあります。🔶布施の心得は「見返りを求めない」「これをしたから、相手は返してくれるはず」という計算は布施の心から離れます。結果や評価に執着せず、ただ相手のためにおこなう——その自由さが布施のいのちです。🔶お金がなくてもできる「無財の七施」財産がなくても実践できる布施として、仏教には無財の七施(むざいのしちせ)が説かれます。眼施(がんせ):温かいまなざしを向けます。和顔施(わがんせ)(和顔悦色施):にこやかな表情で接します。言辞施(ごんじせ):やさしい言葉をかけます。身施(しんせ):体を使ってできる助けをします(手伝い・介助など)。心施(しんせ/慈心施 じしんせ):思いやり・祈りなど心からの善意を向けます。床座施(しょうざせ):席や場所を譲るなど、快適な居場所を提供します。房舎施(ぼうしゃせ):雨宿りの軒を貸す・玄関先で休ませるなど、憩いの場を与えます。どれも「今日から・ここで」実践できます。🔶「和顔愛語(わげんあいご)」を合い言葉に和顔愛語とは、柔和な顔(和顔)と愛ある言葉(愛語)で人に接すること。対面でもオンラインでも、誹謗や刺々しさが生まれやすい時代だからこそ、表情と言葉に温度を取り戻すことが無畏施にもつながります。・まずは深呼吸→和顔→ひと言目をやさしく。・相手の事情を慮(おもんぱか)る一拍を置く。小さな実践が、身の回りの空気を確実に変えます。🔶今週のまとめ・布施は贈与の心であり、六波羅蜜の第一。・財施・法施・無畏施はいずれも「相手の安楽」を願う実践です。・結果を求めずおこなうのが布施のいのち。・無財の七施(眼施・和顔施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施)は、誰でも今日から始められます。・合い言葉は和顔愛語。顔と言葉から、やさしさを広げましょう。来週も引き続き、「お布施(その二)」をお届けします。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。



