Discoverリジョイス聖書日課
リジョイス聖書日課
Claim Ownership

リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

Subscribed: 17Played: 687
Share

Description

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
3703 Episodes
Reverse
ダビデは…言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。」 (サムエル記上21章3節) ダビデは、祭司アヒメレクから助けを受けるに際して、サウルから追われていることを隠し、サウル王から「お前に命じる事を、だれにも気づかれるな」と命じられたと語り、自分の命を守るために嘘をつきました。その結果、ダビデは本来祭司しか食べることが許されていない聖別されたパンと、ゴリアトの剣を受け取りました。さらにダビデは、サウルから逃れるために、ガトの王アキシュのところに身を寄せようとしました。ダビデは、自らの身分が明らかになることを非常に恐れ、アキシュの家臣にダビデの身分が明らかになったとき、ダビデは、気が狂ったようにふるまいました。 ここには、逃亡生活の中であらゆる手段を用いて、必死に身を守ろうとするダビデの姿が描かれています。 後に主イエスがこの出来事に触れておられます(マタ12章3、4節参照)。神の掟も緊急の場合には破られることもあるという特例としてではありません。御言葉に聴き従って生きるダビデを、主が守り、危険から救ってくださったということ、神の憐れみを証しする出来事とされています。ダビデを救ったのはダビデの必死さでなく、神の憐れみです。きょう、私たちにも、この神の憐れみは注がれています。 【祈り】 すでに救いをお与えくださった神の恵みに感謝して、きょうも生きることができるようにしてください。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」 (マタイによる福音書24章42節) 主イエスは、世の終わりに起こる出来事について弟子たちに語られた後、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と忠告されました。「目を覚ましている」とは、居眠りをしているところを見つかったらどうしようと、びくびくしながら主人の帰りを待つことではありません。花嫁が花婿の到着を心待ちにするように、主イエスが再びこの世に来てくださるという約束を信じて、喜びと希望を抱いてその日を待ち望むこと、それが「目を覚ましている」ということです。 目の前に辛い現実がある中で、最後まで希望を失わずに「目を覚まして」主を待ち続ける信仰は、与えられたきょう一日を神の御言葉と約束に信頼して大切に生きる姿勢へと向かわせます。神に従うことを明日に先延ばしにせず、悔い改めるべき罪をきょう悔い改めて、赦すべきことをきょう赦し、隣人を精いっぱい愛して生きる。そうして与えられた一日を神の御言葉と共に生きるなら、毎日が主を待ち望み、主と共に生きる一日となります。 待降節を迎えて、私たちは、再び来られる主を目を覚まして待ち望む信仰を新たにしたいと思います。 【祈り】 主よ、きょう一日を精いっぱい主に仕えて、喜びと希望をもって主を待ち望むことができますように。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。…絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 (エフェソの信徒への手紙6章17節~18節) この手紙の最後となる6章は、子と親、奴隷と主人という当時の社会における身近な人間関係において、信仰者としてふさわしく生きることを教えます。立場や身分の違いはあっても、同じ主を信じる者たちは、主が求められる善いことを行っていきます。 そうした身近な教えに続いて、手紙は最後に私たちを霊的な世界へと導きます。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)。信仰者は、罪の中にある人間の背後に、「暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」(12節)といった存在があることを認め、それらと戦わなければなりません。そのために身に着けるべき神の武具がいくつも挙げられます。その中で特に重要なものは、御言葉と祈りです。手紙の著者パウロ自身も、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください」と教会に願っています(19節)。 御言葉を読み、語り、また祈るということは、信仰生活における日常的な営みです。しかし、そのささやかな営みこそが、大きな戦いのための武具となります。日々、御言葉と祈りによって歩んでいきましょう。 【祈り】 神よ、あなたの武具を身に着けて、悪と戦うことができるように、日々の信仰生活をお導きください。
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章8節) 5章は、キリストによる救いへと招かれた者の新しい生き方をさらに教えていきます。それは、神に倣う者となることであり、聖なる者にふさわしい生き方をすることです。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けて生きていきます。 その変化はまた、暗闇から光へと言うことができます。かつての罪に満ちた生き方は、暗闇の中を歩いているようなものでした。それは、周りの環境が暗闇だったということではありません。「あなたがたは以前には暗闇でしたが」と言われているとおり、自分自身が暗闇そのものだったのです。しかし、世の光であるキリストと出会い、暗闇から光へと変えられました。「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と言われているとおりです。こうして自分自身が光となるなら、もはや暗闇の中を歩くことはありません。 そして、光はすべてのものを照らし、隠れているものを明るみに出します。暗闇の業である罪も、光によってあらわにされるでしょう。しかし、それもまた暗闇が光へと変えられるためです。私たちの光の子としての歩みが、暗闇の中にいる人たちにキリストの救いを届け、新しい生き方へと招くのです。 【祈り】 神よ、キリストの光に照らされて、光の子として歩むことができるように導いてください。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ…体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 (エフェソの信徒への手紙4章16節) 4章は、神の招きによって信仰を与えられ、救いにあずかった者たちが、その招きにふさわしく歩んでいくことの大切さを教えます。その歩みの中で、信仰者は「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」していきます(13節)。成長とは、子どもや若い人たちだけのことではなく、生涯にわたって続く歩みです。 また、この成長は個人的なものではありません。キリストの体である教会を造り上げることで、その体全体が成長していくものです。そのために、一人ひとりが与えられた賜物を用いて奉仕します。体にはさまざまな部分があるように、それぞれが異なる役割を果たすことで、体全体が造り上げられていきます。そこでは、無駄になる奉仕は何一つありません。小さな奉仕を通しても、キリストの豊かさへと成長していくことができます。 そして、この成長のための秘訣は、愛です。私たちは「愛に根ざして真理を語り」(15節)、教会は「愛によって造り上げられてゆくのです」。食べ物がなければ体は成長しないように、愛がなければ教会は健やかに成長することができません。キリストの愛の豊かさを知った者こそ、その愛によって成長していくのです。 【祈り】 神よ、与えられた賜物を用いて主と教会に仕え、キリストに向かって成長していくことができますように。
あなたがたが…キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり… (エフェソの信徒への手紙3章18節~19節) 2章の終わりで、異邦人にも救いが与えられたことが述べられました。それを受けて3章は、その異邦人に福音を伝える働きのためにパウロが召されたことを教えます。エフェソ教会もパウロの伝道によって生まれた異邦人教会でした。神の大きな救いの計画と、そのための働きにあずかることの光栄が記されます。 そして、パウロは御父への祈りをささげながら、私たちが「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」することができるようにと願います。広さや長さという言葉は、本来この世界の大きさを表現するための言葉ですから、キリストの愛はこの世界をも満たすということです。ユダヤ人だけでなく異邦人も救う愛の広さ、永遠に変わることのない愛の長さ、私たちを天にまで引き上げてくれる愛の高さ、そして私たちのために命をささげてくださった十字架の愛の深さを、この御言葉から思い巡らすことができるでしょう。 これほどの大きさですから、私たちはどこにいても、いつでも、喜んでいるときも、悲しんでいるときも、キリストの愛に包まれています。そして、生涯をかけて、人の知識をはるかに超えたこの愛を知り、理解していくのです。 【祈り】 神よ、キリストの愛に満たされ、その愛の豊かさを知ることができますように。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。 (エフェソの信徒への手紙2章10節) 2章では、罪の中で死んでいた私たちを、神はキリストと共に生き返らせてくださったこと、またその救いがイスラエルの民だけではなく異邦人にも与えられたということが教えられています。 死んでいた者が生き返ると言われることからも分かるとおり、この救いは私たち人間の努力で手にできるものではなく、ただ神の恵みによって与えられるものです。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」とあるとおりです(8、9節)。行いによらず、ただ信仰によって救われるという教えは、宗教改革者たちが強調し、私たちの教会も大切にしている教えです。 もちろん、信仰さえあれば行いは必要ないということではありません。私たちは「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」。私たちが造られたのは、善い業のためでした。信仰によって救われることで、その本来の目的に生きることができるようになります。そして、その善い業もまた神が恵みによって備えてくださっています。感謝して善い業に励んでいきましょう。 【祈り】 神よ、救われた恵みに感謝し、創造されたときの本来の目的のために生きることができますように。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 (エフェソの信徒への手紙1章4節) 使徒パウロによるエフェソの信徒への手紙は、全体で6章から成ります。他のパウロの手紙と同じように、おもに前半で救いについて、後半で生き方について教えています。パウロと親しい関係にあったエフェソ教会へ宛てられた手紙ですが、その内容はすべての教会へと向けられた神ご自身からのメッセージです。 1章では、神の恵みがキリストにおいて満ちあふれているということが伝えられます。そのことを特に、天地創造の前に神は私たちを愛して、選んでくださっていたという言葉に見ることができます。自分が造られる前から選ばれていたというのは不思議なことですが、そこに神の恵みがあります。私たちが何かよいことをしたので選ばれたのではありません。そうであれば誰も選ばれることはないでしょう。また、私たちは自分から聖書の神を選んで信じるようになったと思っているかもしれませんが、神が選んでくださったので、私たちは信じることができるようになったのです。 このようなわたしがなぜ選ばれたのかは分かりません。ただ、何のために選ばれたのかは分かります。「聖なる者、汚れのない者」(4節)となるためです。神に選ばれた喜びと感謝をもって歩んでいきましょう。 【祈り】 神よ、天地創造の前に選んでくださった愛によって、これからも私たちを導いてください。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 (ルカによる福音書23章41節) 「議員たち」と「兵士たち」は、主イエスに向かって「自分を救え」と嘲り、罵りました。「犯罪人の一人」は「我々を救ってみろ」と言いましたが、この言葉もまた罵りの言葉であって、救い主に対する懇願の言葉ではありません。 ここで彼らが考えていた「救い」とは、一体どういうものだったのか、それが問題です。主イエスを嘲り、罵った者たちは皆、都合よく状況を変えること―すなわち十字架から降りること―が救いだと思っていました。 ところが、ただ一人、そうではなかった人がいました。それは、自分の罪を認め、その罪の罰として与えられた十字架の刑罰もまた当然の報いとして受け入れた、「もう一人の犯罪人」です。彼だけは、罪深い者を赦す神の憐れみを信じて、とても控えめな言葉ながら、十字架の向こう側にある救いを求めたのです。 私たち罪人にとって必要なことは、自分の罪がなかったことにして、都合よく十字架を免れることではありません。自分の罪を認めて十字架を通して救われることです。罪人の十字架は当然の報いです。しかし、「何も悪いことをしていない」主イエスの十字架は、罪人を赦す神の憐れみを信じるすべての人のための身代わりであったのです。 【祈り】 十字架の向こう側にこそ救いがあることを信じます。
主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された。 (詩編103編7節) 作者は、主をたたえるように自らを強く促します。「わたしの魂よ、主をたたえよ」と言って、賛美へと招きます(1節)。主は、罪を赦し、病を癒し、死から贖い出し、良いものに満ち足らせてくださる方だからです。 自分たちには主に対する背きの罪がある。作者はそれを十分自覚しています。だからこそ、主には赦しの道があり、それが大いなる主の憐れみによることを知っているのです。 主は罪を曖昧にして見逃すことはなさいません。ところが、永久に御自分の民の罪を責めることがない。それは天の高さにたとえるほどの慈しみと、父の子に対する深い憐れみが主のもとにあるからです(11、13節)。その主を畏れ敬う人にはその憐れみが与えられるのです。 私たち塵に等しい者は、主の大いなる憐れみと慈しみを受けるに値するのでしょうか。私たち人間が塵に過ぎず、野の花のように咲くけれどもたちまち消え失せるものだと、主はご存じです。そうであるのに、私たちを御心に留めてくださいます。 私たちの思いを遥かに超える主の御心と限りない憐れみは、御子キリストという道によって示されました(ヨハ14章6節)。だから、それをいただいた私たちも主をたたえよ、と呼びかけるのです。 【祈り】 主よ、私たちに真の命に至る道である主イエス・キリストをお与えくださった恵みに感謝します。
「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合った…。」 (サムエル記上20章42節) 互いの存在を賭けた、緊張感に溢れる魂のつばぜり合いをなす箇所です。ダビデとヨナタンは、友情を確かめ合います。そして同時に、駆け引きし、家族一族に関わる安全の保証(16節「家の契約」)まで結びます。そのようにして、ダビデの危機回避の綿密な計画を立てます。しかし、それは、二人にとっての王、ヨナタンにとっては父であるサウルをだます計画です。その上ダビデは、サウルを欺くために、神への献げものを偽りの言い訳にするという計画です。 ヨナタンは、単に親の愛を捨て、友の愛を選んだのではありません。ダビデが、あの宿敵ゴリアトを倒したとき、すでに「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」のです(18章1節)。一介の羊飼いの少年が、神への崇高な畏敬の心を持っていることに、ヨナタンは激しく同調したからです。ヨナタンもおそらくダビデと同じ信仰、神を畏れる信仰を持っていたに違いありません。 だから、二人の緊張の対話の中にも、「主は生きておられ」「主の御前で」「主が共におられるように」「主は生きておられ」「主がとこしえにおられ」「主の御名によって誓い合った」という言葉がほとばしるのです。 【祈り】  神の御心のままに、御言葉どおりになりますように。
彼の上にも神の霊が降り、…着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。 (サムエル記上19章23節~24節) 父サウルを説得する子ヨナタン。友ヨナタンと友情を深めながら、王サウルに真摯に仕えるダビデ。悪霊により、猜疑と妬みを深めて殺意を持つサウル。父サウルと夫ダビデの間で葛藤しながらも、偶像テラフィムを手離さず、結局わが身を守るミカル。預言者集団を導きながら、しかし、ダビデへの力強い助言も、サウルへの研ぎ澄まされた叱咤もない預言者サムエル。死すべき人間の思いが交錯する中で、自ら油を注いだことに忠実に責任を負われる神、その神の慈しみだけが際立っています。 神はダビデを愛し守られます。しかし、かつて油を注がれたサウルにも、確かに神のまなざしが注がれています。「主からの悪霊がサウルに降った」(9節)とあるように、神は悪霊にサウルを試すことを許されました。そして、今ダビデが身をよせるサムエルのもとにサウルが向かうときに、「彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になった」のです。どうして神は、王として退けたサウルにここまで関わられるのでしょうか。神は、ご自身がかつて油注いだサウルへの慈しみを消すことのできない、憐れみの主だからです。神がサウルを王として退けられても、神の愛が消えることはありません。悪霊の誘惑に負けず、試練を乗り越えることを切に願っておられるのです。 【祈り】 自分に固執する思いを捨て、ただ神のみを仰ぐことができますように。
サウルは、主がダビデと共におられること…を思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。 (サムエル記上18章28節~29節) サムエルによってダビデが次の王としての油注ぎを受けた日から、主の霊が激しくダビデに降るようになりました(16章13節)。18章では、「主がダビデと共におられ」ることが三回も繰り返されます(12、14、28節)。一方、「神からの悪霊が激しくサウルに降り」ました(10節)。 確かに、サウルが王としての資質に欠けていたことは事実でしょう。そして、ダビデが誰からも愛される魅力ある人であることも事実でしょう。しかし、聖書の神は、すでに備え持った性格や外見やその他の良い点によってダビデを立てられたのではありません。神の選びの理由は、私たちが知る由もありません。敢えて言うなら、最も小さい者や誰も目に留めていない者を選ばれるのが聖書の神のなさり方です。ダビデは七人の兄を持つ末の弟でした。まだ、戦列に加わる年齢になる前に、羊の番をしていた少年のダビデを、神は王としてお選びになったのです。 何よりも神ご自身が共におられることを望む者を、神は憐れみ愛してくださるのです。そして、ダビデは、神に顧みられる自分を恐れ、敵意を抱くサウルの卑劣な仕打ちに、仕返しの邪念すら持ちません。一途に神を信頼しているからです。そのような心を神は喜ばれるのです。 【祈り】 どのような境遇にあっても、神にのみ依り頼む真っ直ぐな信仰を失うことがないようにお守りください。
「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。…この戦いは主のものだ。」 (サムエル記上17章45節,47節) サムエル記の中で最も長いこの章は、ダビデの輝かしい戦績を語ります。そして同時に、真の主権が神にあることを鮮やかに描きます。生ける神を侮り、その戦列に挑戦するペリシテ人の巨人ゴリアト。対するは主の霊が激しく降るダビデ(16章13節)。手に汗握る一騎打ちです。 イスラエルの神の別名「万軍の主」は、イスラエルの軍勢の神を示し、かつ全被造世界に対する神の主権を指す壮大な呼び名です。ダビデは神の御前に敵と対峙して、その神による全地のご支配を、高ぶるペリシテと怖気づくイスラエルの両軍に宣するのです。その潔いダビデの言葉に嘘はないことを、長じて彼自身が証ししています。「主はわたしの光、わたしの救い…彼らがわたしに対して陣を敷いても、わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても、わたしには確信がある。…心よ、主はお前に言われる、『わたしの顔を尋ね求めよ』と」(詩27編)。 闘う前からゴリアトは、この少年がただならぬ者であると感じて、「身構え」立ち上がりました(サム上17章48節)。 そして誰よりも、ダビデが神に召された王にふさわしい者であることを、主の霊の離れたサウルが察知したことでしょう。 【祈り】 どのような困難の中にあっても、万軍の主に依り頼む信仰を失うことがないようにお守りください。
「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」 (サムエル記上16章3節) 主なる神がダビデに油を注がれる、神の主権が描かれる章です。 イスラエルの民は、サムエルに不満を抱き、周辺諸国のような王を求めました。それは、神を否むに等しい悪でしたが、神は民の求めに応じて、最初に立ててくださったのがサウルでした。サウルは、神に徹底的に従う信仰の試み(13章のペリシテ人との戦い、15章のアマレク人との戦い)を乗り越えることができませんでした。 しかし、この神への従順を求められるのは、民とサウルだけではなく、預言者サムエル自身への試みでもあったのです。サムエルは、神に従順な預言者として描かれますが、2節では弱音を吐いています。御言葉を伝えることに伴う危険を恐れたのです。 主の御言葉はいつも簡潔です。その御言葉を受けとめ、たとえ自分の思いに反しても、どこまでも従おうとすることが信仰です。その素直さは、何に起因するでしょうか。元来の性格の良い者が従順さを持つのではありません。信仰の従順は、神の賜物でしかあり得ません。 油注がれた日からダビデに降る「主の霊」(13節)に支えられるダビデと、主の霊が去って、かわりに「悪霊」(14節)にさいなまれるサウルがそれを明らかに示しています。 【祈り】 頑なで不従順な者に、主を信じ受け入れて依り頼む心を与えてくださる、尊い主の恵みに感謝します。
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 (ルカによる福音書21章19節) 主イエスは、終末の時を見分ける「徴」について尋ねる弟子たちに、お答えくださいました。主イエスによれば、偽キリストが現れ、戦争や暴動が起こり、地震や飢饉や疫病などが起こる、とのことでした。 戦争や地震や疫病…、そのようなことが起これば多くの人は不安になります。そうすると、その不安に付け込んで惑わす者が現れるものです。しかし、冷静に考えてみれば、こうした出来事は、世界中のどこかで、いつでも起こっていることです。 ここで教えられている大切なことは、「世の終わり」には前兆があるから、その出来事に注目していなさい、ということではありません。ここで教えられている大切なことは、「惑わされないように気をつけなさい」、惑わされて「ついて行ってはならない」ということです。 ですから私たちは、たとえ何が起こっても不安に駆られて惑わされることなく、「忍耐によって…命をかち取」りましょう。「忍耐」が命じられているのは、確かな希望が与えられているからです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主は言われます(33節)。やがては過ぎ去るこの世の有り様に気を取られることなく、主の御言葉に信頼し希望を置いて生きる生き方こそ、私たちにふさわしい生き方なのです。 【祈り】 あなたに希望を与えられ、命をかち取る者とされたことを感謝します。
それらが滅びることはあるでしょう。 しかし、あなたは永らえられます。 (詩編102編27節) 表題には、「心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」とあります。作者は自分の生涯のともし火が消えかかっているような状態にあります。 作者の苦しみは、敵や嘲る者がいるからというだけではなく、それが主の怒りのゆえだからです。エルサレムが悲惨な状態にあるのは、主の懲らしめを受けているからでした。 それでも主の恵みの時が来ると作者は信じています。そして自分はいかにも小さな者と自覚しているが、天地を造られた主に目を上げます。 人は弱く衰えるが、主は変わることなく、御前にその民を立ててくださるという信仰がここにはあります。すべては朽ち果てるが、主は変わらず永らえられる。そこにのみ信仰者のよりどころがあるのです。 自分が主の前に正しく歩むことは大事なことではありますが、人は小さな者で移ろう影のようです。しかし、主が顧みてくださるなら、たとえ大地が滅びたとしても、主が祈りと賛美を献げる者を御前に立たせてくださるのです。 苦難や喪失のゆえに呻く者の祈りを聞き、罪と死から解き放ってくださる主は、永遠に変わらないイエス・キリストとして現れてくださいました(ヘブ13章8節)。 【祈り】 永遠に変わらぬ主よ、移ろう影のような私たちの祈りを聞き、御前に歩ませてくださり、感謝します。
「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。」 (サムエル記上15章22節) アマレク人との戦いで、主は敵を幼児に至るまで滅ぼすこと、家畜も容赦なく撃ち殺すことを命じます。サウルは勝利を収めますが、捕虜を残し、上等な家畜を惜しみ隠しておきます。預言者サムエルは、サウルのこの振る舞いを厳しく指摘します。サウルは配下に責任転嫁し、主のための献げ物だと言い訳します。しかし、もちろん罪を免れることはできません。サムエルは主がサウルを退け、王国を取り上げることを宣告します。サウルはサムエルに縋り付いて罪を悔いますが、手遅れでした。 敵を滅ぼし尽くせという指示も、罪を犯したサウルに対する裁きの言葉も、主の厳しさを印象づけます。聖書の神は異教徒や罪人を容赦なく滅ぼす恐ろしいお方だと言われるのは、こんなところかもしれません。 しかし、サムエルは、主が恐ろしい方でいけにえを求めているのではなく、主に聞き従う人の心を求めておられることを教えています。主ご自身が変わることなく人を顧み、命を与えてくださるお方です。だから、私たちに対しても、変わることなく主の言葉に耳を傾け続けることが求められているのです。 誠実な主に対して、人は誠実をもってはじめて応えられるのです。主への誠実を求め続けましょう。 【祈り】 主よ、私たちを顧みてくださり感謝します。私たちも変わることなく主に従えるようにしてください。
「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」 (サムエル記上14章6節) サウル軍は、ペリシテ軍との戦闘で大勝利を収めます。勝利の要因はヨナタンの活躍でした。しかし、ヨナタンの行動はずいぶん型破りです。王に知らせずに従卒一人と敵陣に攻め込んだり、王が立てた誓約を破って蜂蜜を食べたりと、軍人としては決して誉められたものではありません。 一方、サウル王の行動も何か的外れです。敵陣に攻め込むべきか、主の御心に聞こうと祭司に要求しておいて、すぐ諦めます。断食の誓いも結局兵士たちは家畜を食べてしまい、かろうじて血を避けるために屠り場を設けています。しかもさらにその後、主の応答が与えられないことで、改めて断食の誓いを破った犯人を探そうとするのです。 サウルの行動も、一つ一つは決して悪い動機ではありません。しかし、ヨナタンの言葉には、彼が一貫して神の計らいを信頼していることが表れています。またヨナタンはまずは仲間のことを考え、仲間を守るために行動しています。ヨナタンに比べると、サウルの行動は自分の思いに振り回された場当たりな行動であることがわかります。 不安の中でも、確かな神様の計らいを信頼し、隣人を思いやれるように願いましょう。 【祈り】 主よ、私たちを苦難の中でお守りください。主を信頼する心を与えてください。
「あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。」 (サムエル記上13章13節) 主なる神によって、イスラエルの王に選ばれたサウルでしたが、早速自らその選びを無にしてしまう過ちを犯してしまいます。彼は、戦争に際して、主がお命じになったとおりに献げ物をささげませんでした。 サウルの気持ちが想像できないわけではありません。敵は自軍の十倍以上、鉄製の武器を備えていました。さらに先にサウルによって守備隊を打ち破られたことで憎しみに燃えていました。イスラエルの兵たちはおののき、サウルのもとから散り始めました。軍を率いる王としては、不安を取り除き、士気を挙げる必要がありました。それにも関わらず、サムエルは約束の日に現れません。 しかし、サウルが忘れていたことがありました。もし主が私たちの思惑どおりに応えてくださらなかったとしても、それは見捨てられているのでも、忘れられているのでもありません。ましてや助けることがおできにならないわけではありません。 主は決して忘れることなく、足りないことなく、最も相応しいときに必ず私たちを救ってくださいます。私たちはその神の御手の働きを確信することができるのです。力強い神が傍らで見守っていてくださることを信頼できる幸いを感謝します。 【祈り】 主よ、いつもわたしを守ってくださることを感謝します。どんなときでも主が共にいてくださることを確信できるようにしてください。
loading
Comments 
loading