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リジョイス聖書日課
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ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。
(サムエル記下6章7節)
エルサレムを都に定めたダビデは、早速そこに神の箱を搬入することを試みます。しかし、そこで思いもよらぬアクシデントが起こりました。神の箱を載せた車を引く牛がよろめいたので、傍らにいたウザという若者が、神の箱が落ちないようにとっさに手で押さえたのです。この行為に神は怒りを発し、ウザを打たれました。当然、彼は善意で行ったのに、どうして神の手にかかり命まで絶たれてしまったのでしょうか。それは、神にお節介はいらないからです。主なる神は、人が手助けしなければ起き上がれない偶像ではなくて(サム上5章2~4節参照)、全知全能の生けるまことの神なのです。ウザはまるで偶像を運んでいるかのように神の箱に寄り添っていたのです。
再度、神の箱をエルサレムに運ぶときには、先頭に立って「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」と聖書は記します(14節)。それは妃であるサウルの娘ミカルが蔑むほどでした(16節)。そのダビデの姿は民全体に波及し、「ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げ」ました(15節)。
主の御前で大切なのは、お節介ではなくて、ただ信じて力の限り賛美することです。主なる神を私たちの物差しで測ってはならないのです。
【祈り】
私たちの思いを遥かに超えた主のご存在を力の限り賛美いたします。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
(マタイによる福音書3章17節)
罪のない神の御子がなぜ、悔い改めの洗礼を受ける必要があったのでしょうか。主イエスはためらっている洗礼者ヨハネに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言いました。
主イエスの洗礼は、神の御子としての栄光を放棄して、律法のもとに生きる者となられたことを意味しています。苦難の僕として、私たち罪人の側に立たれたのです。こうして、主イエスは罪人の一人となり、アダムができなかった従順の道を全うし、義をすべて成就するために、この世に遣わされたお方です。
苦難の僕である主イエスは、預言者たちの預言に従ってユダ族のダビデの子孫として生まれ、律法のもとにご自身を置き、生まれて八日目に割礼を受けられました。そして三十歳になった頃、公的な生涯を歩み始めるにあたって、罪がないにもかかわらず、悔い改めの洗礼をお受けになりました。父なる神は、その従順な姿を喜びとして、「わたしの心に適う者」と言われました。
私たち罪人に寄り添い、私たちと一つになってくださるお方、この主イエスがまさに私たちの王であり、私たちを贖ってくださる唯一の仲保者であられます。
【祈り】
罪人の場所に降りてこられ、私たちの代わりに律法の義を一つひとつ満たしてくださった主に感謝します。
わが主に賜った主の御言葉。
「わたしの右の座に就くがよい。
わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
(詩編110編1節)
110編は、荘厳な宣言をもって始まっています。神ご自身が王を即位させ、ご自分の右の座に座らせます。右の座は、王が神の恵みの支配を民のために実行することを意味します。この王の支配は、敵、つまり逆らう者への勝利において具体的にあらわされます。逆らう者は、神ご自身によって王の足元に置かれるからです。勝利は神ご自身によるものですが、王もまたこの勝利にあずかり、神の力が証しされます。
ここは、新約聖書に最も多く引用されている旧約聖書です。いわゆるメシア預言として読まれ続けている個所です。主イエスご自身、メシアがダビデ以上のものであり、ダビデの主であることを示すために、この御言葉を引用されています(マタ22章41~45節)。ペトロも、聖霊降臨の説教で引用しています(使徒2章29以下)。ペトロは、キリストの復活によってこの王の即位が実現し、これからはキリストが神の右の座に着かれ、世に対する神の支配をなさることを告げ知らせました。
今、キリストは王座に就かれ、王として私たちが生きるこの世を支配しておられます。キリストこそまことの王です。悪しき力、死、あるいは運命が私たちを支配しているのではありません。この福音に生きましょう。
【祈り】
主イエス・キリストよ。あなたこそ王なる方です。あなたの御名を賛美しあなたに感謝をささげます。
ダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。
(サムエル記下5章10節)
サウル王家の実権を握っていたアブネルと、名目上は王であったイシュ・ボシェトを失った今、イスラエルは、ダビデに頼る以外ありませんでした(1、2節)。ペリシテという外敵は容赦なく襲ってくるからです。
ダビデは、ユダだけではなく、イスラエル全部族の王になると、当時エブス人の支配下にあったエルサレムを難なく攻略し(6~8節)、ここに都を築きました。その直後、聖書は「万軍の神、主は彼と共におられた」と語ります。これはダビデの生涯の縮図とも言えます。少年の日々から、イスラエル全体の王となるまで、さらに、死の床に至るまで、常に「万軍の神、主は彼と共におられた」のです。
その上で、大切なのは、ダビデがその現実に生かされたということです。ダビデは、王になっても奢ることなく、主なる神の御心に謙虚に従いました。ペリシテ全軍が攻め上ってきた時、ダビデは、自らの判断ではなく、主なる神に託宣を求めて、これを打ち破ったのです(17~25節)。
キリスト者である以上、私たちの歩みにも、「万軍の神、主は彼と共におられた」というこの約束が常に与えられています。私たちも、自分の都合ではなくて、御言葉と祈りによって、主が共におられる、この現実に生かされる者とされたいと願います。
【祈り】
「万軍の神、主は彼と共におられた」という現実に生かされている恵みを感謝します。
「かつてサウルの死をわたしに告げた者は、自分では良い知らせをもたらしたつもりであった。」
(サムエル記下4章10節)
アブネルの死がサウル王家側にもたらした影響は甚大で、傀儡の王イシュ・ボシェトは力を落とし、国全体がおびえました(1節)。国家がその機能を失うと、無政府状態という最悪の事態が起こります。まさに、その通り、名目上は、一国の主人とも言えるイシュ・ボシェトは、その配下によって、いとも簡単に暗殺されてしまいました(5~7節)。イシュ・ボシェトを手にかけたレカブとその兄弟バアナは、その首を持って急いでダビデのもとに駆けつけ、報告しました。厚顔にも彼らは、「主は、主君、王のために、サウルとその子孫に報復されました」、と自分たちの殺人をダビデに対する主なる神の報復である、とさえ言う始末でした(8節)。
ダビデは、以前、同じように、報酬目当てに偽ってサウルの死を告げたアマレク人を引き合いに出し(10節)、それ以上に卑劣な行為であることを明確にして(11節)、この二人を死刑に処しました。ダビデが王となる過程において、多くの血が流されました。神の民の中で「殺してはならない」という神の大切な戒めが、全く機能しなくなっていたからです。
やがて、主イエスは、律法を守れない神の民のもとに来られ、十字架で血を流して彼らの罪を贖います。機能しなくなった律法は、主イエスによって再び機能し、実現したのです。
【祈り】
律法を守れない私たちを贖ってくださった十字架の主に感謝します。
「主はダビデに、『わたしは僕ダビデの手によって、わたしの民イスラエルをペリシテ人の手から、またすべての敵の手から救う』と仰せになったのだ。」
(サムエル記下3章18節)
サウル王家とダビデ王家の争いは続き、次第にダビデは勢力を増し、サウル王家は衰えていきました(1節)。
サウル王家側の実力者であったアブネルは、その状況をいち早く把握して、各部族の長老たちを説得し(17~19節)、ダビデに和解を申し出ました。ところが、彼の優れた手腕によって、両家の和解が進展したとき、戦いから戻って来たダビデ側の司令官ヨアブが、以前アブネルに殺された弟アサエルの仇を討つ目的でアブネルを暗殺してしまいました。
ダビデが知らないうちに実行されたこの復讐劇に、ダビデは悲しみ、哀悼の歌を詠みました。そのダビデの姿を通して、両軍のすべての兵士が、アブネルの暗殺がダビデと無関係であることを認め(37節)、これを契機にダビデは、イスラエル全体の信頼を得ることになりました。アブネルの和解交渉はヨアブの刃によって砕かれたかのように見えましたが、イスラエルの統一はさらに実現に近づいたわけです。
アブネルが長老たちを説得するときに使ったカードは、「わたしは僕ダビデの手によって、わたしの民イスラエルをペリシテ人の手から、またすべての敵の手から救う」という主なる神の言葉でした。彼は息絶えましたが、神の言葉は生きていて、さらに輝きを放つことになったのです。
【祈り】
私たちを主なる神様の命の言葉によって生きる者とさせてください。
「いつまで剣の餌食とし合うのか。悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい。いつになったら、兄弟を追うのはやめよ、と兵士に命じるのか。」
(サムエル記下2章26節)
サウルの死後、ダビデは、ユダの王とされました(4節)。しかし、ユダ以外のイスラエル部族の実権を握っていたアブネルは、サウルの子であるイシュ・ボシェトを擁立し、イスラエル全体には、二人の王が並立するという異常な事態になりました。
そこで起こったのは内戦だったのです。それは、両軍の一騎打ちで幕が開かれ(15節)、十二名の若者がそれぞれの陣営から選ばれ、刃を交えましたが、すべて相打ちに終わり、これを契機に、本来、愛し合い、助け合うはずの同じ民族の中で、血で血を洗う凄惨な争いが始まったのです。
この戦いがこう着状態になったとき、アブネルは、ダビデ側の司令官であったヨアブにこの戦いの無意味さを訴えます。「いつまで剣の餌食とし合うのか。悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい」。こうして、かろうじて一時的に休戦が成立しました。この争いは、戦死者の数から見ればダビデ陣営の圧勝で終わりましたが、司令官ヨアブの実弟であるアサエルが戦死したことで、痛み分けとも言える愚かな結果でした。
主イエスが、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と十字架の直前に言われたことは、いつの時代にあっても変わることのない真実です(マタ26章52節)。
【祈り】
主イエスよ、私たちを御言葉と祈りをもって戦う者に変えてください。
ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」
(サムエル記下1章14節)
サムエル記下は、「サウルが死んだ後のことである」と始まり(1節)、7章まででダビデが王になり、その王国が安定していく過程を描きます。
サウル王の死の知らせは、ダビデにとって、客観的には決して悪い話ではなく、むしろ二つの点で有利な面さえ持っていました。それはまず、常に命を狙っていたサウルからの解放であり(サム上24章、26章参照)、もう一つは、すでに油を注がれていた(同16章13節参照)ダビデが王になるための道が開かれた点にあります。アマレク人は、それを見越してダビデの機嫌をとり、相応の報酬を期待して自らの手柄のように作り話までしてサウルの死を告げたのでした(2~10節)。
しかし、計らずも、それがそのまま罪の自白となり、このアマレク人は打ち殺されてしまいました(15節)。それは、サウルが「主が油を注がれた方」であったからです。
人間の価値は、私たちが決めるのではなくて、神が決めるのです。大切なのは、その人がどんな人であるかではなくて、神の御前にどう生きたかであり、神がどのように用いられたかなのです。その基準に立ってダビデは、自分の命を狙っていたサウルにさえ復讐を願わないどころか、哀悼の詩を詠んだのです。
【祈り】
主なる神さま、自分を中心に人を評価してしまうわたしを赦してください。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(ヨハネによる福音書1章14節)
ユダヤ人にとって、神の知恵である言は神の創造の力であり、神の力強い行為の源でありました。成ったもので言によらず成ったものは一つもありません(3節)。この言の内に命がありました。言はまさに命の根源であったわけです。それゆえ、「万物は御子において造られた」と言われます(コロサイ1章16節)。
ところが、アダムとエバによって罪がこの被造世界に入り込み、被造世界は決して中立な状態ではなく、罪によって腐敗した世界、暗闇の世界になってしまいました。そこで言はご自身の被造物を贖い出すために、私たちの間に宿られました。そして、宿るという言葉には臨在するという意味があります。ヨハネは、御子イエスの受肉に、あたかも雲の柱、火の柱として神の言が臨在するような栄光を見たと証言しているのです。
かつて解放者モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し(使徒7章35)、モーセを通して神の御言葉である律法が与えられました。民は律法を通して神を知るようにされました。今や贖い主イエス・キリストは、御自身の民を罪の奴隷から解放し、御自身、神の御言葉そのものとして、恵みと真理そのものとして、民の前に現れてくださいました。何と幸いなことでしょう。
【祈り】
罪人である私たちが、御子を通して神を知る者とされ、神との交わりが回復されたことを感謝いたします。
わたしはこの口をもって
主に尽きぬ感謝をささげ
多くの人の中で主を賛美します。
主は乏しい人の右に立ち
…救ってくださいます。
(詩編109編30節~31節)
人生では、なぜこのようなことを言われなければならないのかとか、なぜ、このような仕打ちを受けなければならないのかという、不可解な謎に遭遇することがあります。いわれもない悪口を浴びせられ、思いがけない敵意や悪意を身に受けることもあります。そのようなとき、私たちは、ただただ途方に暮れるばかりです。詩編の作者もそのような逆境のただ中で、この詩編を詠んでいます。
そのような逆境の中で、この信仰者は主なる神に近づき、現代のわれわれには抵抗を感じる表現の数々で神に訴えかけます。徹底的に敵対する者に対して、そこまで神の裁きを求めるのかと、身を引いてしまうような表現を大胆に用います。
これはこの信仰者が持つ、神への全き信頼から出てくる率直な表現なのでしょう。そこまで信頼して、父である神に訴えてよいのだと、詩編は私たちに教えています。
同時に、新約時代に生きる私たちは、主イエスによってさらに深い神信頼へと導かれます。主イエスは教えられます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と(マタ5章44節)。復讐は一切、神に任せる。そのような全幅の信頼を持って、父なる神にすべてをお任せする祈りを主イエスは教えておられます。
【祈り】
いわれなき悪意や敵意を身に受けるときも、あなたへの全き信頼の中で祝福を祈る者とならせてください。
神よ、わたしの心は確かです。
わたしは賛美の歌をうたいます。
「わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。」
(詩編108編2節~3節)
詩編の作者は、「神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます」と、心を定めて神をほめたたえます。その揺るぎない確信と感謝が、賛美となり歌となっています。
私たちは、ともすると主なる神をほめたたえることよりも、自分の願いが先に口から出てきます。そのような私たちを主なる神は受け入れて、祈り願いに耳を傾けてくださいます。
しかし、私たちにとっての最大の喜び、ほまれ、光栄は、「我らの神こそがほめたたえられますように」と賛美できることです。私たちが、どんなに失敗しても、また、罪深くても、主なる神の「慈しみは大きく、天に満ち…雲を覆います」(5節)。私たちの罪と汚れがいかに悲惨でも、神の栄光と誉れはみじんも揺らぎません。この神を「わたしの神」として信じる幸いこそ人間の誉れ、また光栄です。
人間が作り出す成功や発展は、限りのあるものです。人間の知恵でいっとき救われたと思えても、それは決して揺るがぬものではありません。
まことの救い、解決、平安を与える実力は、主なる神だけが持っておられます。この神を「わたしの神」として信じている者は、神の全能の力に依り頼みます。そして「神と共に我らは力を振るい」、全力で生きることができるのです(14節)。
【祈り】
真の勝利を与えてくださる神よ。あなたに信頼し、力を尽くしてあなたと共に歩ませてください。
主は御言葉を遣わして彼らを癒し
破滅から彼らを救い出された。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
(詩編107編20節~21節)
この詩編では、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」(6節。13、19、28節も同様)、そのような「主に感謝せよ」(8、15、21、31節)というフレーズが繰り返されます。
3節に、「東から西から、北から南から」とあります。捕囚によって離散したユダヤ人たちを救い出し、一つにお集めになった主なる神の御業が、念頭にあるのかもしれません。私たちは、アッシリア、バビロンによる捕囚は経験していません。しかし、自分の罪が原因で、何らかの苦境に追い込まれることはあります。決して自分の罪が原因でなくても、病気や怪我、仕事や家庭の中で、困難にあえぐこともあるでしょう。そのようなとき、食べ物がのどを通らない経験をされた方もおられるでしょう(18節)。
そのような私たちに、主は「御言葉を遣わして…癒し」てくださいます。苦難の中にあるときに、主は聖書の言葉や人々の励ましや祈りの言葉を送ってくださいます。そして、私たちを一つ一つの苦難から折にかなった方法で助け出してくださいます。 私たちは、主に向かって何度も感謝をささげます。「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と。
【祈り】
主に感謝します。あなたの慈しみをほめたたえます。
戦士たちは…サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、…ヤベシュのぎょりゅうの木の下に葬り、七日間、断食した。
(サムエル記上31章12節~13節)
一年の最後に、なんとも辛い記事が与えられました。サウル王の無残な最期について記されています。すでに28章で告げられていたように、サウルとその息子たち、またイスラエルの軍隊はペリシテ人の手に渡され、蹂躙されます。サウルの遺体は徹底して辱められ、城壁にさらされます。これは偶然に起こったことではなく、預言者が語った神の掟を軽んじた罪の結果でありました。この出来事に示された神の裁きの御手を思う時、深い恐れに立ち止まらざるを得ない思いになります。自らのこの一年の歩みを省みたいと思います。
まことに救いようがない結末で、サムエル記上は終わろうとしていますが、その最後の記事に注目しましょう。ヤベシュの戦士たちはサウルとその子らの遺体を取り下ろしたと報告しています。これは命がけの行動です。この背景には、11章に記されていた出来事があります。イスラエル全体から見放されていたようなヤベシュの人びとを、サウルが助けて、アンモン人の手から救いました。彼らはその恩義に応えるために、勇気を奮ってサウル王への忠誠を表したのです。若き日のサウルの純真がこうして思い起こされます。サウル自身が見失ってしまったものをも、神は覚えておられるのです。
【祈り】
この一年の歩みの中で、私たちが見失ってしまったものを取り戻してください。恵みの日々に感謝します。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」
(マタイによる福音書24章42節)
主イエスは、世の終わりに起こる出来事について弟子たちに語られた後、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と忠告されました。「目を覚ましている」とは、居眠りをしているところを見つかったらどうしようと、びくびくしながら主人の帰りを待つことではありません。花嫁が花婿の到着を心待ちにするように、主イエスが再びこの世に来てくださるという約束を信じて、喜びと希望を抱いてその日を待ち望むこと、それが「目を覚ましている」ということです。
目の前に辛い現実がある中で、最後まで希望を失わずに「目を覚まして」主を待ち続ける信仰は、与えられたきょう一日を神の御言葉と約束に信頼して大切に生きる姿勢へと向かわせます。神に従うことを明日に先延ばしにせず、悔い改めるべき罪をきょう悔い改めて、赦すべきことをきょう赦し、隣人を精いっぱい愛して生きる。そうして与えられた一日を神の御言葉と共に生きるなら、毎日が主を待ち望み、主と共に生きる一日となります。
待降節を迎えて、私たちは、再び来られる主を目を覚まして待ち望む信仰を新たにしたいと思います。
【祈り】
主よ、きょう一日を精いっぱい主に仕えて、喜びと希望をもって主を待ち望むことができますように。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。…絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
(エフェソの信徒への手紙6章17節~18節)
この手紙の最後となる6章は、子と親、奴隷と主人という当時の社会における身近な人間関係において、信仰者としてふさわしく生きることを教えます。立場や身分の違いはあっても、同じ主を信じる者たちは、主が求められる善いことを行っていきます。
そうした身近な教えに続いて、手紙は最後に私たちを霊的な世界へと導きます。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)。信仰者は、罪の中にある人間の背後に、「暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」(12節)といった存在があることを認め、それらと戦わなければなりません。そのために身に着けるべき神の武具がいくつも挙げられます。その中で特に重要なものは、御言葉と祈りです。手紙の著者パウロ自身も、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください」と教会に願っています(19節)。
御言葉を読み、語り、また祈るということは、信仰生活における日常的な営みです。しかし、そのささやかな営みこそが、大きな戦いのための武具となります。日々、御言葉と祈りによって歩んでいきましょう。
【祈り】
神よ、あなたの武具を身に着けて、悪と戦うことができるように、日々の信仰生活をお導きください。
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
(エフェソの信徒への手紙5章8節)
5章は、キリストによる救いへと招かれた者の新しい生き方をさらに教えていきます。それは、神に倣う者となることであり、聖なる者にふさわしい生き方をすることです。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けて生きていきます。
その変化はまた、暗闇から光へと言うことができます。かつての罪に満ちた生き方は、暗闇の中を歩いているようなものでした。それは、周りの環境が暗闇だったということではありません。「あなたがたは以前には暗闇でしたが」と言われているとおり、自分自身が暗闇そのものだったのです。しかし、世の光であるキリストと出会い、暗闇から光へと変えられました。「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と言われているとおりです。こうして自分自身が光となるなら、もはや暗闇の中を歩くことはありません。
そして、光はすべてのものを照らし、隠れているものを明るみに出します。暗闇の業である罪も、光によってあらわにされるでしょう。しかし、それもまた暗闇が光へと変えられるためです。私たちの光の子としての歩みが、暗闇の中にいる人たちにキリストの救いを届け、新しい生き方へと招くのです。
【祈り】
神よ、キリストの光に照らされて、光の子として歩むことができるように導いてください。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ…体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
(エフェソの信徒への手紙4章16節)
4章は、神の招きによって信仰を与えられ、救いにあずかった者たちが、その招きにふさわしく歩んでいくことの大切さを教えます。その歩みの中で、信仰者は「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」していきます(13節)。成長とは、子どもや若い人たちだけのことではなく、生涯にわたって続く歩みです。
また、この成長は個人的なものではありません。キリストの体である教会を造り上げることで、その体全体が成長していくものです。そのために、一人ひとりが与えられた賜物を用いて奉仕します。体にはさまざまな部分があるように、それぞれが異なる役割を果たすことで、体全体が造り上げられていきます。そこでは、無駄になる奉仕は何一つありません。小さな奉仕を通しても、キリストの豊かさへと成長していくことができます。
そして、この成長のための秘訣は、愛です。私たちは「愛に根ざして真理を語り」(15節)、教会は「愛によって造り上げられてゆくのです」。食べ物がなければ体は成長しないように、愛がなければ教会は健やかに成長することができません。キリストの愛の豊かさを知った者こそ、その愛によって成長していくのです。
【祈り】
神よ、与えられた賜物を用いて主と教会に仕え、キリストに向かって成長していくことができますように。
あなたがたが…キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり…
(エフェソの信徒への手紙3章18節~19節)
2章の終わりで、異邦人にも救いが与えられたことが述べられました。それを受けて3章は、その異邦人に福音を伝える働きのためにパウロが召されたことを教えます。エフェソ教会もパウロの伝道によって生まれた異邦人教会でした。神の大きな救いの計画と、そのための働きにあずかることの光栄が記されます。
そして、パウロは御父への祈りをささげながら、私たちが「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」することができるようにと願います。広さや長さという言葉は、本来この世界の大きさを表現するための言葉ですから、キリストの愛はこの世界をも満たすということです。ユダヤ人だけでなく異邦人も救う愛の広さ、永遠に変わることのない愛の長さ、私たちを天にまで引き上げてくれる愛の高さ、そして私たちのために命をささげてくださった十字架の愛の深さを、この御言葉から思い巡らすことができるでしょう。
これほどの大きさですから、私たちはどこにいても、いつでも、喜んでいるときも、悲しんでいるときも、キリストの愛に包まれています。そして、生涯をかけて、人の知識をはるかに超えたこの愛を知り、理解していくのです。
【祈り】
神よ、キリストの愛に満たされ、その愛の豊かさを知ることができますように。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。
(エフェソの信徒への手紙2章10節)
2章では、罪の中で死んでいた私たちを、神はキリストと共に生き返らせてくださったこと、またその救いがイスラエルの民だけではなく異邦人にも与えられたということが教えられています。
死んでいた者が生き返ると言われることからも分かるとおり、この救いは私たち人間の努力で手にできるものではなく、ただ神の恵みによって与えられるものです。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」とあるとおりです(8、9節)。行いによらず、ただ信仰によって救われるという教えは、宗教改革者たちが強調し、私たちの教会も大切にしている教えです。
もちろん、信仰さえあれば行いは必要ないということではありません。私たちは「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」。私たちが造られたのは、善い業のためでした。信仰によって救われることで、その本来の目的に生きることができるようになります。そして、その善い業もまた神が恵みによって備えてくださっています。感謝して善い業に励んでいきましょう。
【祈り】
神よ、救われた恵みに感謝し、創造されたときの本来の目的のために生きることができますように。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
(エフェソの信徒への手紙1章4節)
使徒パウロによるエフェソの信徒への手紙は、全体で6章から成ります。他のパウロの手紙と同じように、おもに前半で救いについて、後半で生き方について教えています。パウロと親しい関係にあったエフェソ教会へ宛てられた手紙ですが、その内容はすべての教会へと向けられた神ご自身からのメッセージです。
1章では、神の恵みがキリストにおいて満ちあふれているということが伝えられます。そのことを特に、天地創造の前に神は私たちを愛して、選んでくださっていたという言葉に見ることができます。自分が造られる前から選ばれていたというのは不思議なことですが、そこに神の恵みがあります。私たちが何かよいことをしたので選ばれたのではありません。そうであれば誰も選ばれることはないでしょう。また、私たちは自分から聖書の神を選んで信じるようになったと思っているかもしれませんが、神が選んでくださったので、私たちは信じることができるようになったのです。
このようなわたしがなぜ選ばれたのかは分かりません。ただ、何のために選ばれたのかは分かります。「聖なる者、汚れのない者」(4節)となるためです。神に選ばれた喜びと感謝をもって歩んでいきましょう。
【祈り】
神よ、天地創造の前に選んでくださった愛によって、これからも私たちを導いてください。



