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リジョイス聖書日課
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エステルは後宮の監督、宦官ヘガイの勧めるもの以外に、何も望まなかった。エステルを見る人は皆、彼女を美しいと思った。
(エステル記2章15節)
王宮に連れてこられたエステルは、監督へガイの目に留まり、特別な扱いを受けました。王妃候補者として王宮に集められた女性たちに求められたのは、美しくあることでした。そのためならば、娘たちが望むものは何でも与えられました。
エステルは、へガイの勧めるもの以外は何も求めませんでした。裏を返せば、他の女性たちはたくさんの物を要求し、それらが与えられていたということです。男性は自らに都合の良い美しさを女性に求め、女性は多くのものを手に入れようと躍起になっている。そのような利用し利用される関係が、王宮では当たり前でした。そのなかで、神の民であるエステルは特異な存在でした。皆、彼女を美しいと思いました。見栄えだけでなく、神の民としての生き方も好意的に受け止められたのです。
彼女の生き方には、彼女を心配しながら見守るモルデカイの存在が強く影響しています。二人の関係は、相手から得られる利益に基づくものではありません。真の愛の関係が結ばれています。その関係に神の民の生き方が示されています。
キリストはこのような愛の関係で、主を信じる者どうしを結んでくださいます。その姿は、主を信じていない人びとからも美しく映るのです。
【祈り】
利害を超えた真の愛の関係の中に、私たちが生きることのできる恵みに、感謝します。
ところが、王妃ワシュティは宦官の伝えた王の命令を拒み、来ようとしなかった。
(エステル記1章12節)
クセルクセス王はインドからクシュに至るまで、非常に広い土地を支配していました。この王が酒宴を催します。この酒宴には、大臣や家臣など国の中枢を担う人びとが招かれました。自らの偉大さを熱心にアピールする王の姿を見ることができます。さらに王宮の庭園で催された酒宴には、要塞の町スサに住む者が皆、身分の上下を問わず招かれました。王は自らの寛大さをも示そうとしたようです。
この酒宴に参加した人びとの大半は、偉大さと寛大さという面において、この王を理想的な支配者として讃えたことでしょう。一方で、王妃ワシュティは、王の思いどおりには行動しませんでした。広大な領土も多くの人びとも思いのままに統治しているように見える王ですが、最も身近な存在である妻が思いどおりになりません。しかしながら、彼女の行動をとおして後にエステルが王妃として見出され、神の救いの御業がなされていくことになります。
私たちは誰しも、自らの思いどおりにならないことに恐れを感じます。しかし、神はそのようなところから御業をなされます。だからこそ自らの力の及ばないことを恐れるのではなく、そこでなされる神の御業に目を向けようではありませんか。
【祈り】
力及ばないことを恐れるのではなく、そこでなされるあなたの御業を待ち望む者とならせてください。
すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
(マタイによる福音書17章5節)
高い山での主イエスの変貌の出来事は、弟子たちにとって驚くべき体験でした。主イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったからです。さらに、そこにモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合うという出来事が導かれたからです。ペトロは興奮して三つの仮小屋を建てることを提案しましたが、そこで、光り輝く雲が彼らを覆い、雲から声が響き聞こえました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。
この父なる神の声は、主イエスがまさに神の子であることを明確に示すものでした。主イエスと語り合う、モーセは律法を、エリヤは預言者を代表していました。しかし、主イエスは彼らを超えた存在であられます。雲からの声が、「これに聞け」と言われるように、私たちがいつも心を尽くして、主イエスの言葉に従うことの重要性を教えています。
この出来事は、私たちにとって信仰の確信を与えます。主イエスこそが神の子であり、私たちが聞き従うべきお方です。日常の中で迷いや困難に直面するとき、この神の子の声に耳を傾け、従うことが私たちの恐れを取り除きます。
【祈り】
天の父よ、あなたの愛する子イエスを通して示された栄光を感謝します。私たちがいつも主イエスの言葉に従って歩むことができますように。アーメン
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
(詩編114編8節)
かつてエジプトの奴隷だったイスラエルの民は、モーセによってエジプトから脱出し、神の聖なる民、神が治められる神の所有とされました。その際に、海はまるで逃げ去るように分かれて道をつくり、カナンに入る際にはヨルダン川は退くように壁となって干上がり、神の民はその間を進んで行きました。またシナイ山で十戒を授かった際には、山々はまるで踊るように震えました。
海や山のような自然の大きさ力強さに比べれば、人間は本来弱くて小さな存在です。その無力さを嘆くことしかできない者です。しかし全能の神を知り、神の所有となるとき、神はその全能の御力を、神の民の救いの実現のために用いてくださるのです。ですから、自分たちもそのような出エジプト以来の神の民なので、その特権を喜び誇りつつ、自分たちを飲み込もうとする暗闇の力に対して恐れることなく「どうしたのか」(5節)と胸を張ることができるのです。
硬い岩から水を溢れさせ、砂漠を泉としてくださった神は、今も生きて、私たちと共にいてくださいます。主イエスが与えてくださる命の水を飲む者は、その人自身が泉となり、永遠の命に至る水が涌き出て(ヨハ4章)、荒れ野のようなこの世をうるおすのです。
【祈り】
主よ、頑なな私たちの心を砕き、荒れ野のようなこの世の中で、命の水が湧き出る泉とならせてください。
主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。
(サムエル記下24章1節)
ダビデが国の人口を数えてしまいます。霊的なことにあまり鋭くない将軍ヨアブさえダビデを引き止めようとしたほど、この調査が罪であることは明らかでした。しかし、王には聞く耳がありません。
何が罪なのでしょうか。ダビデは、神よりも馬や軍人の数を頼りにしたのです。彼は「名前」よりも「数」を愛したのです。前章でダビデの勇士たちの名前が挙げられていました。対照的にここでは数字です。「剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万」(9節)。悪魔は物事を抽象化して、まるで人間に力があるように錯覚させることがあります。
神はダビデの罪を裁かれます。三日間、国に疫病が起きたのです。ダビデはすぐさま自分の責任から行動します。心からの悔い改めを祈り、次に民のために執りなし祈りました。そしてダビデは麦打ち場を買い取り、祭壇を築き、神に献げ物をささげます。そうして疫病は止みました。後にこの場所に神殿が建てられます(代上22章1節)。大切なこの土地の獲得は、ダビデの功績ではなく、神が与えられたものです。
ダビデの回心は具体的でした。ダビデは「心を打たれ」(10節の直訳)、数を愛したことを悔い改めます。「羊の群れ」(17節)と、親密な言葉で民を呼ぶようになったのです。
【祈り】
お金や力ではなく神に頼る素直な信仰をどうかお与えください。
神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光、雲もない朝の光、雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。
(サムエル記下23章3節~4節)
人生の最後に語る言葉。どうしても伝えなければならないことをよく考えてから語るはずです。ダビデは何を語ったのでしょうか。
第一に、彼は自分が何者であったかを語ります。自分は「エッサイの子」で身分の低い羊飼いでしたが、神が選び、「油を注」ぎ(1節)、王にまで「高く上げ」てくださいました。
第二に、彼は働きを語ります。ダビデは神に召されて王として仕えました。そのとき、彼の舌には「主の言葉」がありました。聖霊がダビデを導き御言葉を与えてくださいました。
またダビデは神を畏れる王でした。困難の中、いつも力を与えてくださる神の憐れみを信じていたからです。4節に「太陽の輝き出る朝の光」とあり、ダビデは後に来られる救い主を遥かに望み見ていたのでしょう。
だから第三に、眼差しは遠い将来に向かいます。「神は永遠の契約」(5節)をくださいます。ダビデは世界には自分の後があることを知っています。しかしそれよりも、神の恵みこそ自分を越えてずっと将来に広がっていくことを人生から学びました。
言葉が人生と矛盾していれば虚しいでしょう。ダビデの人生には罪もあり破れもありましたが、ダビデの遺言に脚色はありません。一方的に祝福してくださった神の恵みをダビデは率直に語ったのです。
【祈り】
あなたは愛によっていつまでも導いてくださることに感謝します。
エルサレムよ、あなたの城壁の上に、わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。…決して沈黙してはならない。
(サムエル記下62章6節)
2月11日は、国の法律では「建国記念の日」です。しかし、私たちキリスト者にとっては「信教の自由を守る日」です。なぜなら、「建国記念の日」は、戦前、日本書紀などの天皇神話に基づいて定められた「紀元節」(初代天皇が即位して国が始まったとされる日)の復活だからです。
戦前、天皇を「現人神」とする国家神道が、国民全体に、また日本軍が占領したアジア諸国に強制されたとき、日本の多くの教会は、それに抵抗することができず、天皇崇拝や神社参拝に迎合しました。また、自由を奪われ、虐げられている人びとを見ながらも沈黙し、勇気を持って声を上げることができませんでした。
戦後、日本の多くの教会は、その罪を神の御前に告白しました。そうであるからこそ、敗戦によって一度は廃止された二月11日の「紀元節」が、1966年に再び「建国記念の日」と名前を変えて復活した時、教派を超えて教会はそれに抗議し、反対したのです。そのとき以来、日本の多くの教会では、二月11日を「信教の自由を守る日」として覚え、各地で二・11集会を開催してきました。
私たちは、決して沈黙してはなりません。信教の自由を守るために声を上げることは、主イエスから託された大切な見張りの務めなのです。
【祈り】
主よ、どんなときも黙することなく、勇気を持って語ることができますよう、力を与えてください。
彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。
(サムエル記下22章19節~20節)
詩編の詩人たちは神の介入を求めて祈ります。しかし、きょうの箇所は、ダビデの詩がサムエル記全体の締めくくりにありますので、祈りに先立って神がまずダビデの人生を確かに導かれたことを教えています。神がダビデより先に動いてくださいます。
ダビデは王であり、詩人でもありました。天と地をつなぐ言葉を紡ぎ出します。「主はわたしの岩」と賛美します(2節)。もちろん神は岩そのものではありません。しかし、人生の多くの時間を戦いに費やしたダビデにとって神のご存在は彼をかくまい守る岩そのものだったでしょう。
またダビデは詩人として聖書の現実の中に入り込んでいきます。シナイ山で十戒を与えてくださった時のように「主は天を傾けて降り」(10節)、モーセのようにダビデを「大水の中から引き上げてくださる」のです(17節)。ダビデにとって聖書は、その中を生きる現実でした。
神はダビデを「陰府」(6節)という低さの極みから救い、「国々の頭」(44節)としてくださいました。この圧倒的な救いに感謝して、ダビデは自分の言葉で賛美します。
ダビデは人生を十分に生きました。ダビデにとって人生とは神と共に生きること。その現実をダビデは歌にしました。神を受け入れる人生こそ、神に認められた広く大きな人生です。
【祈り】
あなたの与えてくださる救いを新しい言葉で賛美させてください。
アヤの娘リツパは粗布を取って岩の上に広げた。…サウルの側女、アヤの子リツパのこの行いは王に報告された。
(サムエル記下21章10節~11節)
ダビデの治世に三年続けて飢饉が起こりました。ダビデは主に祈り、原因を知ります。昔、イスラエルの民はギブオン人と互いに平和に生きる契約を結んでいたにも関わらず(ヨシュア9章)、サウル王が契約を破りギブオン人を殺害したためです。
そこでダビデは、神ではなくギブオン人に「どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか」と尋ねます。彼らはサウルの子孫から七人を殺して「さらし者」にすることを願います(6節)。ダビデはためらいつつも彼らの要求に応えました。
さて、リツパはこの事件で自分の愛する息子を奪われ、母として大胆な行動に出ました。「粗布を取って岩の上に広げた。収穫の初めのころから、死者たちに雨が天から降り注ぐころまで、リツパは昼は空の鳥が死者の上にとまることを、夜は野の獣が襲うことを防いだ」のです。
彼女は殺害を止められませんでしたが、沈黙の内になされた勇気ある行動が一国の王まで動かします。リツパの行動はダビデの目を開きます。ダビデも心動かされサウル家を丁重に葬りました。リツパの深い愛情からの行動によって、「神はこの国の祈りにこたえられた」(14節)のです。国を危機から救ったのは犠牲ではなく、心からの愛情でした。
【祈り】
神よ、人ではなくあなたを恐れ、愛において大胆に行動できる者にしてください。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(マタイによる福音書5章16節)
山上の説教で主イエスが弟子たちに語られた「塩」と「光」の比喩は、クリスチャンの本質的アイデンティティを明確に示しています。塩は古代社会において貴重な物でした。食べ物の味を付け、保存する役割を果たし、清めの意味も持っていました。主イエスは弟子たちを「地の塩」と呼ばれました。これは、腐敗しゆく世の中で腐敗を防ぐ役割を果たし、神の御言葉によって世に真の味わいをもたらす存在であることを意味します。
しかし、塩が塩気を失えば何の役にも立ちません。同様に、クリスチャンが世と区別されず世俗化すれば、神の前でその存在意義を失います。私たちは絶えず神の御言葉の中で新しくされ、聖い生活を通して塩の役割を果たさなければなりません。
「世の光」という言葉はより積極的な意味を含んでいます。光は闇を追い払い、道を照らし、隠すことのできない存在です。山の上の町が隠れることができないように、燭台の上に置かれたともし火が家を照らすように、私たちの生活は自然に神の栄光を現す道具となるべきです。光を輝かせる目的は、人びとが私たちの行いを見て天の父をあがめるようになることです。私たち自身を現わすためではなく、神の栄光のためです。
【祈り】
父なる神よ、私たちを塩と光として召してくださり感謝します。私たちの生活と行いをとおして神の栄光が現わされますように。アーメン
弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ
自由な人々の列に
民の自由な人々の列に返してくださる。
(詩編113編7節~8節)
詩人は主の僕らに向かって「主の御名を賛美せよ」と呼びかけています。主は時間的には永遠に、空間的には地の果てから果てに至るまで、ほめたたえられるべきお方です。なぜなら主は天をご覧になるのにさえ身を低くしなければならないほど高くにおられる至高の神であられます。そして同時に、低く下って地をご覧になり、弱い者、乏しい者を顧みてくださるお方だからです。
ほかに並ぶものは一切ない、高きところに御座を置きつつ、その遥か彼方から天地を見下ろすのではなく、低く下って天地をご覧になる主。そのまなざしは、塵の中に座すしかない貧しく差別された者や、悲しみを担う女性にも注がれます。このような憐れみ深い主こそ、永遠に全地で賛美されるべきです。
最も高きところに御座を置きつつ、最も低いところにまで下ってくださり、弱き者、乏しき者を慰めたもう主。そのまなざしを、私たちは、受肉と十字架を通して最も低く下られた、御子を通して鮮やかに知らされています。私たちがこのイエス・キリストを心からほめたたえつつ、その御声に聞き従うときに、最低、最悪と思えるような苦難の中からも、主の憐れみ深いご計画が動き始めるのです。ハレルヤ。
【祈り】
主よ、どんなに厳しい試練の中にあっても、なおそこにまで下り、慰めたもう、あなたを賛美します。
女は知恵を用いてすべての民のもとに行き、ビクリの子シェバの首を切り落とさせ、ヨアブに向けてそれを投げ落とした。
(サムエル記下20章22節)
ダビデの将軍ヨアブは怒りました。これまで忠実にダビデに仕えてきたにも関わらず、ダビデの意に反して王子アブサロムを殺したため将軍の地位から下ろされたからです。
ダビデはヨアブに代わってアマサに反乱者シェバの討伐を命じます。元々アマサは敵軍の将軍でした。ヨアブもシェバを追うため出軍を共にし、表面的には従ったように見えます。しかし、ギブオンで事件が起きます。ヨアブは、アマサに挨拶をすると見せて、隠していた剣で刺し殺します。隠していたのは、むしろ憤りと殺意でした。そしてヨアブは言います。「ヨアブを愛する者、ダビデに味方する者はヨアブに続け」と。
将軍ヨアブにしても反乱者シェバにしても、その行動の理由にあるのは不満です。自分は出し抜かれたと思っていました。二人はベト・マアカのアベルで出会います。シェバは追い詰められて町に逃げ込んだようです。土塁が築かれれば町に向かって軍隊の突入が一斉に始まるでしょう。
その町に一人の賢い女がいました。女は知恵により町を救います。神による知恵は「力対力」という固定観念に囚われません。知恵は軍事力に勝ります。争いとは全く別の道を示したこの女性の名前は記されていませんが、神は覚えてくださっています。
【祈り】
神よ、私たちにあなたの知恵を与えてください。苦しみの中に逃れの道をどうかお示しください。
「わたしにはお供をしてヨルダン川を渡ることさえほとんどできません。王はそれほどにお報いくださることはございません。」
(サムエル記下19章37節)
息子の企てたクーデターが失敗しました。息子アブサロムが戦死したのです。父ダビデは嘆きます。「わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」(1節)。ダビデの悲しみはどれほどでしょうか。
しかし同時にダビデは王でした。司令官ヨアブの忠告を受け入れ、私情を振り切り、立ち上がります。そしてアブサロム軍の司令官を、立場を保証しつつ自分の部下に抱え込むという、難しい政治的駆け引きを行いました。国が大きく動きます。
そのとき、新しくなった体制に適応しようとするいくつもの動きが生まれます。ダビデが都落ちをするときに呪い、石を投げつけたシムイが千人の手下を連れてきました(18節)。時流を読んで適応しようとしたのです。しかし、これは心から悔いたのではなく打算に過ぎません。
他方、ダビデを見送るバルジライは誠実です。彼はダビデの先行きが分からない時からダビデの「生活を支え」ました(33節)。ダビデは王宮での十分な生活を保証しますが、バルジライは断ります。高齢で衰えた自分は、王の重荷になるからです。自分の役目を終えて身を引きました。次の時代が来たからです。自分ではなく息子キムハムが王と行くのです。次の世代に信仰の責任が渡されます。
【祈り】
神よ、困難の中でも、あなたからの責任を果たすことができますように。
王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」
(サムエル記下18章5節)
18章は、ダビデ王の息子アブサロムが父に背き、戦いの中で命を落とす場面です。アブサロムは若く、美しく、民の心をつかんで父に反逆しました。しかし最後は、神の裁きのようにして森の木に髪が引っかかったところを、討たれて死んでしまいました。この出来事を聞いたダビデ王は、ただ泣き叫びます。
わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロム。わたしがおまえの代わりに死ねばよかったのに!
罪にまみれた反逆の子であっても、父の愛は変わらなかったのです。
信仰を持ったばかりの方にとって、自分はまだ「神にふさわしく歩めていないのでは」と不安になることも多いと思います。失敗や弱さを経験すると、「自分は神に受け入れられていないのでは」と感じてしまうかもしれません。けれども、ここで覚えてほしいことは、神の愛は、あなたが完璧だから注がれるのではなく、あなたが弱く罪深いままでも注がれるということです。ダビデは反逆した息子を泣いて愛しました。神はさらにそれ以上に、あなたを愛し、御子を与えられました。その愛は、失敗や罪にも揺らぐことはありません。もし自分の弱さや罪に落ち込むなら、「それでもなお、神はわたしを愛してくださる」と思い出しましょう。
【祈り】
主よ、弱さや罪を犯す私たちを、キリストをとおしてきょうも愛してくださることを感謝します。
アブサロムも、どのイスラエル人も、アルキ人フシャイの提案がアヒトフェルの提案にまさると思った。
(サムエル記下17章14節)
あなたは日常の中にある、神の助けに気付いていますか。普段の教会生活や兄弟姉妹の祈りや助言をとおしても神は私たちを守ってくださいます。日常の神の助けを大切にしましょう。
アブサロムのもとにはダビデ打倒のために完璧な計画を立てる助言者アヒトフェルがいました。他方、アブサロムが採用したのはフシャイの提言です。実はフシャイは「ダビデの友」で、アヒトフェルの計画を阻止する必要がありました。不思議にも、主は、ダビデの側の人びとの働き一つひとつを豊かに祝福され、ダビデに有利な事柄が積み上げられていきます。その事柄一つひとつは決して派手で奇跡的なことではありません。しかし、主が油を注いだダビデが勝利することを主は定めておられ、そのために普段の務めが用いられたのです。
主の助けは見えにくいこともあります。私たちには油注がれた勝利の王イエス・キリストが共にいてくださいます。主の働きは、通常は日常の教会生活をとおして私たちに与えられます。教会における説教、礼典、祈りによって励まされ、それに導かれた兄弟姉妹の祈りや助言、助けなどの交わりをとおして、神は私たちを助けてくださいます。この日常の神の助けをきょうも大切にしましょう。
【祈り】
主よ、あなたが普段の教会生活をとおして与えてくださる助けを大切にできますように。
「主がわたしの苦しみをご覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
(サムエル記下16章12節)
あなたは、今受けている苦しみや誤解さえも主の御手の中にあることとして信じられますか。信じられないと思うかもしれませんが、そのための励ましを聖書から聞きましょう。
ダビデは、シムイという人物から激しくののしられました。聞くに堪えない言葉でしたが、もし主が自分を呪わせておられるのならそれを受けようとダビデは決めました。そして、その呪いさえも神がいつか善いものに変えてくださるかもしれないと信じました。私たちはつらいことが早く終わるように願うことがあります。その時こそ、そのつらいことも神が与えておられると受け止め、神の御心へ思いを向ける時です。そのようにして、信仰によって私たちは成長していきます。
罪のない主イエスも、十字架の道でののしりを受けられました。神の子でありながら犯罪者とされました。それでも沈黙を守り、ご自分を父なる神に委ねました。そして復活の栄光を表されたのです。
今、あなたが受けている苦しみや誤解を、主が許しておられることとして受け止められる部分はあるでしょうか。主はすべてをご存知です。主は、あなたがそのように受け止めるのを待っておられ、一緒にその中を歩んでくださいます。
【祈り】
理不尽な言葉に出会うとき、主よ、あなたに自分を委ねる心を与えてください。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書5章3節)
主イエスが山上で宣言された八つの幸いは、この世の価値観とは全く異なる神の国の価値観を示しています。この世では、強い者、富む者、快楽を追求する者が幸いとされますが、主イエスはむしろ心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者たちが幸いだと言われます。
「八つの幸い」は、神が私たちに真の祝福を与えたいと望んでおられるという、深い神のご意志を表しています。神の祝福は、一時的なものではなく、現在と未来、この地と天とを包み込む永遠の祝福です。「天の国はその人たちのもの」「慰められる」「地を受け継ぐ」という約束は、私たちの人生すべてに祝福を満たそうとする神の意志を示しています。
特に注目すべきは、すべての祝福が条件付きではない点です。私たちが先に善を行ったから祝福されるのではなく、先に神の恵みによって祝福されるからこそ、その恵みによって、祝福された者の姿を表すことができます。どのような状況にあっても、神は私たちを通して祝福を実現されます。その祝福は、ときに弱さを通して、ときに涙を通して、ときにへりくだりを通して現わされます。これが神の国の神秘的な逆説です。
【祈り】
きょう、私たちの弱さや足りなさを通しても、あなたの祝福を経験させてください。祝福された者として、あなたの恵みに生きることができますように。アーメン
戦士たちは…サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、…ヤベシュのぎょりゅうの木の下に葬り、七日間、断食した。
(サムエル記上31章12節~13節)
一年の最後に、なんとも辛い記事が与えられました。サウル王の無残な最期について記されています。すでに28章で告げられていたように、サウルとその息子たち、またイスラエルの軍隊はペリシテ人の手に渡され、蹂躙されます。サウルの遺体は徹底して辱められ、城壁にさらされます。これは偶然に起こったことではなく、預言者が語った神の掟を軽んじた罪の結果でありました。この出来事に示された神の裁きの御手を思う時、深い恐れに立ち止まらざるを得ない思いになります。自らのこの一年の歩みを省みたいと思います。
まことに救いようがない結末で、サムエル記上は終わろうとしていますが、その最後の記事に注目しましょう。ヤベシュの戦士たちはサウルとその子らの遺体を取り下ろしたと報告しています。これは命がけの行動です。この背景には、11章に記されていた出来事があります。イスラエル全体から見放されていたようなヤベシュの人びとを、サウルが助けて、アンモン人の手から救いました。彼らはその恩義に応えるために、勇気を奮ってサウル王への忠誠を表したのです。若き日のサウルの純真がこうして思い起こされます。サウル自身が見失ってしまったものをも、神は覚えておられるのです。
【祈り】
この一年の歩みの中で、私たちが見失ってしまったものを取り戻してください。恵みの日々に感謝します。
しかし、ダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは…主なのだ。」
(サムエル記上30章23節)
ダビデの不在の間に、彼の本拠地であるツィクラグがアマレク人によって襲われ、全住民が捕虜として連れ去られるという悲劇が起きました。兵士たちは、やりきれない怒りと悲しみをダビデにぶつけます。しかしこの苦境にあってダビデは、「主によって力を奮い起こし」(6節)、活路を見出します。ダビデに与えられていた王としての資質とは、何よりこの主なる神への全的信頼でありました。
主の託宣に勇気を得たダビデと兵士たちは、すぐさまアマレク追撃に出て勝利を収め、奪われたものを取り返すことができました。ところが、またも問題発生です。ベソル川にとどまった二百人に対する取り扱いを巡ってひと悶着起こりますが、ここでもダビデは王としての資質を示します。彼は疲れ切って従軍できなかった者たちを気遣い、彼らにも平等に戦利品を分けます。それは優しさというより、すべては主のものである、自分たちの自由にしてはならない、との神への忠実によるものです。
「主が与えてくださったもの」「我々の手に渡されたのは主」とダビデは言います。すべては神の賜物です。誰もが受けるに値しない者たちであるにもかかわらず、自由な恵みによって与えていただいた賜物だから、皆で分け合うのです。
【祈り】
あなたへの全的信頼と御旨に対する忠実な心を与えてください。神と人への愛を与えてください。
アキシュはダビデに答えた。「わたしには分かっている。お前は神の御使いのように良い人間だ。しかし…」
(サムエル記上29章9節)
サウルの追跡から逃れて、ペリシテ軍に身を寄せたダビデの後日談が記されています。ガトの領主アキシュに取り入って、うまく立ち回っていたダビデでしたが、他の武将たちは彼の裏切りを警戒します。そこでアキシュはダビデを呼んで、自分はお前を信頼しているが、今は平和に帰ってほしいと告げます。ダビデはどこまでもアキシュに忠誠を尽くす姿勢を見せて、わが主君のために戦えないことがくやしいと憤慨して見せます(8節)。
アキシュはそのようなダビデをなだめるために、「お前は神の御使いのように良い人間だ」とさえ褒めます。短い間にそれほどの信頼を得る、ダビデという人物の純真さを改めて思わされます。しかしダビデは、純真でまっすぐであると同時に、狡猾でしたたかです。実際には裏切りを企てていたのかもしれません。なぜなら、彼がサウル軍と戦うことを望んだはずがないからです。
そういう意味では、ペリシテから追い返されたことは、ダビデを苦悩から解き放つ救いの訪れでもありました。このままでは、契約を結んだ親友ヨナタンとの戦いも不可避でした。しかし神は、そのような苦悩を彼に負わせず、憐れみの道を開いてくださったのです。
【祈り】
私たちの思惑も苦悩もすべてご存じの主よ。偉大なあなたのご計画がきょうも進められますように。



