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リジョイス聖書日課
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リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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更に、拝殿の奥の面まで奥行きを測ると二十アンマ、その横幅も二十アンマであった。そして彼はわたしに、「ここが至聖所である」と言った。 (エゼキエル書41章4節) エゼキエルが見た都の建物は、新しい神殿の幻でした。青銅のように輝いている人がエゼキエルを神殿の拝殿に連れて行きました。 そこは神殿の中心部になります。青銅の輝きの人は六アンマの測り竿を持っており、その測り竿で建物を測ります。その長さは、3.15メートル程です。そこは既に触れたように、更地ではなく、外壁に囲まれた新しい神殿の建物が建っています。設計図を書いて、更地に杭を打って、設計図に従って測量して建築の準備をするのではなく、幻のうちに示されている建物を測量して、設計図面を書くということのようです。エゼキエルは数字を書きとめ、幻に示された神の新しい神殿を原型とした地上の建物の図面を作るというわけです。神の新しい神殿は、既に幻の中で建てられています。 その新しい神殿の至聖所の中にエゼキエルは案内されました。そこはかつての神殿では契約の箱が置かれ、神が臨在を約束された部屋でした。 大祭司だけが年に一度そこに入り、儀式を行うことができました。エゼキエルでも入ることができなかった部屋です。至聖所の存在は神の臨在を保証します。新しい神殿の再建は、神が再び民と共に住まわれることを約束しています。 【祈り】 主なる神様。主は再び神の民に礼拝の恵みを与えてくださいます。主の礼拝を祝福してください。
神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。 (エゼキエル書40章2節) これまで預言者エゼキエルに示された幻は、神の裁きを示すものでした。彼は都が破壊され神殿から神の栄光が去ることを預言しました。そして、後に都も神殿も破壊され、瓦礫になりました。 しかし、神は、再び新しい神殿を建てることをエゼキエルに幻で示されます。それは彼が捕囚になってから二十五年、エルサレムの都が破壊されてから十四年目(紀元前573年)のことでした。 神は彼を幻の中でイスラエルの地に連れていき、非常に高い山の上に立たせ、都をお見せになります。今ならドローンの映像を見るかのような情景かもしれません。山の南側には都のように建設された建物がありました。主がそこに彼を連れていかれると、姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立ち、彼をその建物に案内します。その人は麻縄と測り竿を持ち、エゼキエルを導き神殿を測量していきました。そして、その内部を案内し、それを書きとめるように命じました。新しい神殿は周囲を壁で囲まれ、東の門、北の門、南の門と三方の門から入る構造です。 神殿の再建は、神によるイスラエルの民の再生を意味しています。神は、堕落した民の罪を赦し、約束の地に神の民を連れ戻してくださいます。 【祈り】 神様、裁きが終わり、新しいことが始まります。希望は神のご計画の中にあることを覚えさせてください。
「それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。」 (エゼキエル書39章25節) ゴグとその大軍団が主によって裁かれて後、主の御民に二つの役目が与えられます。一つは、あらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食となった彼らの遺体、遺骨をすべて探し出して、地に埋めるという役目です。こうして、七カ月をかけて地を清めます。 もう一つの役目は、武器を集めて焼却するという役目です。そして、この作業のために要する期間は、なんと七年間であるのです。どれほどの大軍が迫っていたかが分かります。 さて、もし戦いが続くとしたなら、武器は焼かれずに大切に取っておかれます。それゆえ、この武器の焼却は、すべての戦争に終わりを告げるものであると理解することができます。主は、すべての武器を人びとが生活を営むために必要な薪にすることをよしとしておられます(10節)。 イスラエルは捕囚の民として国々に送られなければならないほど、不信の罪を重ねてしまいました。それでも終わりの日に、主はその一人ひとりを再び集め、救いの完成に至る御業に用いてくださるのです。 主の憐れみにより、私たちも集められ、用いられる者となりました。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェ5章8節)。主に喜び仕えてまいりましょう。 【祈り】 主よ。あなたが私たちを用いてくださることに感謝します。
「わたしはお前を立ち帰らせ、お前の顎に鉤をかけて、お前とその全軍、馬と騎兵を連れ出す。」 (エゼキエル書38章4節) 37章で、イスラエルの完全な回復が約束されました。けれども、まだ十分ではありません。主の救いのご計画の中で、なお一つ成し遂げられなければならない御業がありました。それは、総首長ゴグが率いる悪の一大勢力の滅亡です。主は驕り高ぶる罪と悪をそのままにはされません。 驕り高ぶるゴグ自身は、顎に鉤をかけられ、主によって連れ出されていることが分かりません。そこで、心に浮かんだ悪い計画をそのまま実行に移します。終わりの日に、ゴグの大集団、大軍団は地を覆う雲のように攻め上ります。彼らが狙いを定めたのはただ一つ、イスラエルの山々で安らかに暮らしている主の御民です。 さて、彼らが襲いかかろうとしていたその日、大地震が起こります。これにはゴグも大集団も真っ青です。こうして、御民は一つも関わることなく、主ご自身が高ぶる彼らを徹底して裁かれます。このように、やがて聖なる主がすべてのことに決着をつけてくださるのです。 それゆえ、私たちは次の御言葉の勧めを心に刻みましょう。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ12章19、21節)。 【祈り】 主よ。あなたの救いのご計画に感謝します。
「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」 (エゼキエル書37章5節) 谷間に満ちる枯れ果てた骨の山、何とも不気味な絶望と静寂が満ちる情景です。しかし、主はここに復活の恵みを注ぐと約束されました。 なるほど、この預言の言葉を最初に聞く捕囚の御民は、ふてくされたままであったことでしょう。先祖の罪の報いを我々が負わされるのは不公平だ、主の道は正しくないと彼らは言っていたからです(18章2節、33章17節)。けれども、自分こそ御怒りを受けるべき罪人であることを認め、枯れ果てた骨はわたしのことであったと理解できたならどうでしょうか。望みが溢れます。 主にある私たちも、かつてはこの枯れ果てた骨々でした。自分の過ちと罪のために死んでいたからです(エフェ2章1節)。しかし、今や生きる者となりました。主が私たちを再生し、聖霊を吹き込んでくださったからです。そして、私たちは少人数では終わりません。非常に大きな集団となるのです(エゼ37章10節)。 さらに、37章の後半に約束されている僕ダビデが私たちには与えられています。この世の分断を癒す、平和の君である一人の牧者、永遠の王、主イエス・キリストがいてくださいます。共にいて、私たちを治め、導いておられます。へりくだった心で主の御声に聴き従ってまいりましょう。 【祈り】 主よ。私たちに復活の恵みをお与えくださり、王なるキリストの僕としてくださったことに感謝します。
「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 (ルカによる福音書16章13節) 「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない」に続いて、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。本来、富は、仕える対象ではありません。けれども、ここで言う「富」は、「マモン」と呼ばれ、拝金主義という偶像礼拝を意味しています。富が偶像となり、主人となる。そして、私たちがその僕となる危険があるのです。 金銭は、善でも悪でもありません。けれども、必需品や欲しい物を手に入れるために金銭が必要であり、また、富が地位や名声に繋がりやすいことから、金銭が大きな力を持つのです。 金銭や富は、神が私たちに預けてくださる恵みですから、神の御心に沿って思慮深く用いなければなりません。与え主から目を離すことなく、与えられた金銭を用いるのです。神の国の前進のため、あるいは、貧しい者、弱い者を支えるために用いるなら、この世の富は、永遠の利益をもたらし、私たちの信仰も深まります。 たとえ少額であったとしても、神から委ねられた金銭を忠実に管理して用いるなら、神は喜んでくださいます。そして、真に価値のある、朽ちることのない神の国の莫大な宝を任せてくださるのです。金銭に心を占められ過ぎてはいないか、立ち止まって思い巡らしてみましょう。 【祈り】 神様、あなたから預かった金銭を、御心に沿って用いることができますように、どうぞ助けてください。
主の灯は人間の吸い込む息。腹の隅々まで探る。 (箴言20章27節) 「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2章7節)。聖書は人間の創造についてこのように教えています。この主なる神の息によって造られた私たちは、きょうも生きる者として神の言葉をいただいています。 私たちが神の言葉に生きることが許されるのは、いつも、主なる神が私のことを知ってくださるからです。それが主の照らしです。自分でも気づかないわたしの奥深くに主は臨んでくださり、神の言葉の光が照らしてくれます。その確かさを詩人は「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」と歌います(詩139編1~4節)。 残念ながらこちら側に神の語りかけをしっかりと受けとめる力はなく、罪によって壊れてしまいました。けれどもその只中において主の灯として隅々まで照らし続けてくださっています。たとえこちらが忘れても、主の照らしが消えることはありません。 【祈り】 主よ、あなたに照らされてきょうも生きる者とされていることを感謝します。それを失うことがありませんように。
あなたがたの従順は皆に知られています。…なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。 (ローマの信徒への手紙16章19節) ローマの信徒への手紙の最終章で、パウロは一人ひとりの名前を挙げて挨拶を連ねます。しかし、突然厳しい戒めの言葉を記します。正統な教えに反して不和やつまずきをもたらす人びとを警戒するようにと勧めるのです。背景には当時のローマ教会におけるさまざまな混乱がありました。その混乱の原因は、神の御心よりも自分の考えを優先させる姿勢から来るものでした。それは言い換えれば、キリストに完全には従順でなかったということです。 イエス・キリストは父なる神の救いのご計画に完全に従順に従い、私たちの救いのためにへりくだってくださいました。だからこそクリスチャンはキリストに従順に生きようとするのですし、ローマ教会の人びともそうだったのでしょう。パウロもそのことを認め、喜んでいると言います。けれどもなお、それは完全なものではありませんでした。すべてのことは罪を入り込ませる機会となります。自分は従順だ、自分こそが神の御心に適っていると思う心が高慢にさせることがあるのです。 悪魔の策略に絡めとられないために、善にはさとく、悪には疎くあるようにと勧められています。神は必ず悪魔を打ち砕いてくださいます。その神に信頼したいと願います。 【祈り】 私たちが直面する試練をあなたは恵みの実現のために用いられますから、忍耐強く歩ませてください。
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (ローマの信徒への手紙15章13節) パウロは15章の冒頭で、自分の満足ではなく隣人を喜ばせることを勧めます。そして、9節から12節にわたって旧約聖書の四つの箇所を続けて引用します。いずれも、異邦人がユダヤ人と共に神をたたえ、神に希望を置くという内容です。聖書全体を貫くこのメッセージを受けて、パウロは「希望の源である神が…あなたがたを…希望に満ちあふれさせてくださるように」と祈るのです。 では、聖書の言う「希望」とはいったい何でしょうか。ここではエルピスというギリシア語が使われています。この言葉は本来、良いことばかりではなく災いが起こる可能性も含みます。いくら希望を抱いても実現する保証はどこにもなく、正反対のことが起こることもあり得ます。また、そもそも自分が願っていた希望が神の御心とは違うものだったということもあるのです。 聖書の語る「希望」は、人間の願いではなく、信仰によって、そして聖霊の力によって、喜びと平和で私たちを満たすものです。パウロが4節で記したように、私たちは聖書から忍耐と慰めを学ぶときに「希望」を持つことができます。神は、神に敵対していた私たちを愛をもって忍耐し、キリストによる慰めを与えてくださいました。この神こそ希望の源です。 【祈り】 希望の見えにくいただ中にあっても、御顔を仰ぎ、あなたの中にこそ希望を見つつ歩ませてください。
あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 (ローマの信徒への手紙14章22節) キリスト者であれば誰しも、神の御前で正しいことをしたい、神の御心に適った生き方をしたいと願うものです。けれども、何が神の御前に正しく良いことなのかについての判断は、人によって異なることがあります。そして私たちは、自分と異なる考えを持つ人を神に背く者として裁いたり、あるいは本質的でないことにこだわっていると見下したりしてしまうことが起こります。 当時のローマ教会では、食べ物や飲み物のこと、あるいは特定の日を重んじるかどうかなどで、考え方に違いがありました。お互いに自分の方が正しいと主張し、信仰者同士の間に溝が出来ていたのです。 この難しい問題に対して、パウロは、キリストがすべてのキリスト者のために死んでくださったのだから、他人を裁いてはならない、兄弟をつまずかせてはならないと戒めます。その上で、確信を抱くことの大切さを説きます。キリスト者は飲食も含めてすべてを神の栄光のために確信をもってすべきなのです。疑いながら、心にやましさを感じながら行うならば、神を愛し、神のためにという信仰者の幸いから逸れてしまうことになります。私たちはお互いが、神の栄光に与る者とされていることを受け取り損ねてはいけないのです。 【祈り】 あなたの救いの御業が私たちを覆っていることを信じ、真実にあなたの道を歩ませてください。
更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。 (ローマの信徒への手紙13章11節) 現代では、多くの人が、将来の希望が見えにくいと感じているのではないでしょうか。さまざまな格差が広がり、地球環境の破壊が進み、人と人との対立は激しさを増しています。この先いくら努力をしてもさほど良いことがあるとは思えないのです。昨日も今日も明日も大した違いはない、ただ時が流れていくだけだ、と。そのような感覚で生きるならば、「今」という時に意味があるとも、また意味のある未来へと向かっているとも感じられないのではないでしょうか。 しかし、キリストの福音に与っている私たちには、それぞれの「時」に意味があります。過去の日々は、自分の罪に気づき、その中でなお神が忍耐をもって導き、救ってくださったことを知るためのものです。また今は、自分を救ってくださった神の御業を喜び、自分を通して神の栄光を現す時とされています。そして、これからの日々は、神の恵みを更に豊かに受けるためにあるのです。 パウロは、私たちが眠りから覚めるべき時が既に来ていると言います。キリストが再び来られ、神の御業が完成に至る時、私たち一人ひとりは完全な祝福に与るのです。そのような全く良い時が日々近づいているのです。私たちには、日々をふさわしく生きることが勧められています。 【祈り】 すべての時はあなたの栄光が現されるためにありますから、あなたの栄光を求めて歩ませてください。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 (ローマの信徒への手紙12章1節) キリストによる救いをいただいた私たちはどのように生きるのか。それに対する具体的な勧めが12章から記されています。私たちは、心身共に健康で力強くありたいと願い、また自分の理想や自己実現を追い求めて生きようとするのかもしれません。けれども、誰もがそうした理想像とは対極にある弱さや罪を持っています。そして、私たちの体はいくら健康で立派であっても、どれほど若く力に満ちているようでも、やがて必ず死を迎えます。それは創造主である神に背いた罪の結果です。 しかし、パウロはそのような体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として献げるように勧めます。いけにえは、傷や汚れのないものでなくては、神に受け入れられることはありません。なぜ生けるいけにえになることが可能なのでしょうか。 それを解く鍵が、冒頭の「こういうわけで」という言葉です。この手紙のこれまでの箇所で、パウロは主イエスの尊い犠牲によって与えられた救いについて丁寧に説いていました。キリストによって救われた者は、既に魂も体も聖なるものとされています。だからこそ私たちは、神の憐れみに感謝をし、もはや自分自身の快楽や満足のためではなく、神に自分の存在すべてを献げて生きるのです。 【祈り】 あなたは私たちを御前に聖いものに変えてくださいました。生活が御心に適うものとなりますように。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 (ルカによる福音書15章10節) 羊飼いは、一匹ずつ、羊に名前を付けて、日々世話をしています。何か変わったことはないか、気をつけて見ながら、囲いの中に入れ、羊飼い自身が囲いの門となって、夜は羊を守ります。羊は近視で、群れから離れると迷子になり、崖から落ち、あるいは、獣に喰われる危険もありました。野原で羊が羊飼いから離れるということは、その羊が命を失うことを意味していたのです。 私たちが神から離れるなら、これと同じです。神によって、霊を持つ者として造られ、神が創造された世界を、御心に従って治める業を託された私たち人間。神から離れ、神を礼拝することなく、自分勝手に生きるなら、自分の存在の起源も価値も分らなくなります。生きる目的は失われ、人間の尊厳も、お題目となります。 昨今、話題を呼んだ、朝の連続テレビ小説の中で、一人の女学生が、「どうして人を殺してはいけないのですか」と、主人公の女性に問いました。なぜ命が大切なのか。これは、愛と喜びをもって、ご自身のかたちに、私たち人間を創造された神を抜きに、答えることができない問いなのです。 主イエスはきょうも、迷える羊を捜しておられます。そして、その一匹が神のもとに帰ってくるならば、天に喜びが湧きあがるのです。 【祈り】 神さま、わたしを捜し出してくださり、ありがとうございます。きょうもあなたの羊が戻ってきますように。
主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき災難に襲われることはない。 (箴言19章23節) 満ち足りて眠ることができるとすれば、眠っているわたしのことをしっかりと見守ってくださる方がおられるからです。出エジプト記12章42節の御言葉を思い出します。「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである」。 満ち足りた眠りのためには、それを支える主の寝ずの番があります。主は約束の地をめざす旅を始める人びとを、徹夜して見守ってくださいました。そのことに感謝して、神の民たちは家の門柱に犠牲の小羊の血を塗り、徹夜しながら過越祭を祝うことになりました。 私たちはゲツセマネの園における主イエスを思い浮かべないわけにはいきません。それは弟子たちが眠り込んでしまっているそばで苦い杯を受け入れようと血の汗を流しながら夜を徹して祈られた主イエスの姿です。この大切な時に何とも頼りなく見えてしまう弟子たちを目の当たりにしながら、主イエスは寝ずの番をされたのではないでしょうか。ここに主イエスの限りない愛のまなざしが感じられます。この主のまなざしの中に私たちは祈られています。 【祈り】 主よ、あなたのまなざしの先に私たちを見つめてくださりありがとうございます。その見守りに感謝します。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」 (エゼキエル書36章26節) 御民イスラエルは、捕囚の地に追いやられても主の聖なる御名を汚していました。悔い改めることを少しもせず、この不幸の原因は先祖たちの背きの罪にあると決めつけていたからです(18章1、2節)。 その彼らに、主なる神は救いの日を来たらせると約束されました。その日には、すべての汚れから清められます。そして、新しい心が与えられます。かたくなな石の心が取り除かれ、柔らかな肉の心が与えられます。また、新しい霊が授けられます。主の掟に従って生きることを心から願い、可能にする、聖なる力に満ちた新しい霊です。そしてその日、まず何より自分たちの悪い生き方を思い起こし、その罪と忌まわしさのゆえに自分自身を嫌悪する、その自由が与えられます。真実な悔い改めに導かれるのです。これらの恵みこそ、イスラエルの民に、そして私たちになくてはならない救いの恵みです。 主イエスは、この約束を成就させるために十字架に架かって死なれ、よみがえられました。主が、ご自分の命をかけて成就してくださった、まことに尊い救いの恵みです。 そして、この救いの恵みの約束は、キリストを信じる一人ひとりの心に与えられている聖霊によって、今や成就しています。それは何と幸いなことでしょう! 【祈り】 与えられている新しい心・新しい霊に従って生きる者としてください。
「セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書35章15節) 箴言24章17節の御言葉は、私たちにこう教えています。「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな」。それゆえ、どのような敵であっても、私たちがその相手に対して持つべきは敵意とあざけりの心ではなく、赦しと憐れみの心です。しかし、セイルすなわちユダの隣国エドムの人びとがイスラエル人に対して持っていたのは、敵意とあざけりに満ちた心でした。 確かに、彼らがイスラエル人を憎悪するのは当然だったかもしれません。ダビデによって一万八千人が討ち殺され、隷属させられていた過去があるからです(サム下8章13、14節)。そのため、彼らはバビロンの手から逃れた者たちを剣に渡し、さらに弱体化したかつてのダビデの王国を占領しようと企てます。 この果てしない敵意を抱いている彼らに、主は徹底した裁きを告げられます。「お前を荒れ果てた廃虚とする」(3節)。けれども、このときにこそ彼らは知るのです。主こそ神であることを。悔い改めに進む最初の一歩へと、主が導かれるのです。 箴言24章17節に続く御言葉を心に留めましょう。「主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう。…主に逆らう者のことに心を燃やすことはない」(18、19節)。 【祈り】 ゆだねるべきことと為すべきこととを見分ける知恵をお与えください。
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」 (エゼキエル書34章23節) 主の御怒りによって、捕囚の地に連れて来られていた御民は、34章の主の言葉をどう聞いたでしょうか。 まず、「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは」という告発の言葉に、「本当に、そのとおりだ。彼らはひどく自分勝手だった!」と怒りを新たにしたことでしょう。けれども、非難されるべきは民の指導者たちばかりではありません。底意地が悪いことをしていたのは自分たちも同じだからです(17~19節)。 この望みなき御民に、主は一人の牧者を与えると約束されます。その牧者は、失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くしてくださる牧者です。また、平和と豊かな実りを与えてくださる牧者です。 捕囚の地の御民は、この約束によって望みが与えられ、生き残っていくための力を得たことでしょう。 そして、この約束を成就させた方こそ、私たちの大牧者、主イエス・キリストです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」とあるとおりです(1ペト2章25節)。 私たちへの主の憐れみは尽きることがありません。それゆえ、大牧者の御声に聴き従ってまいりましょう。 【祈り】 私たちの大牧者である主よ。あなたが私たちを養い、育て、導いてくださることを感謝します。
「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」 (エゼキエル書33章11節) エゼキエルは、イスラエルの見張りとして、エルサレムの陥落と捕囚を経験し望みを失った民に、新しい民として再出発するために語りかけます。民の救いのためには悔い改めが必要です。神の裁きを重く受け止めた民の間では、「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」と、悲観的な空気が立ち込めていました(10節)。しかし、単なる絶望感からは自暴自棄しか生まれません。 主なる神はエゼキエルを通じてイスラエルの民に希望を与えます。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」。主は、人が滅びることを喜ばれません。むしろ、悔い改める希望のない極悪非道な者をさえ、最終的には、主は御自分のもとへと心を向け、悔い改めることを忍耐して待っておられます。 過去に犯した罪が如何に大きく絶望的であっても、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちのすべての罪と咎は贖われています。十字架に上げられた主イエスを、信仰をもって仰ぎ見るならば、赦されない罪はありません。主イエスの十字架には神の愛と忍耐が現されています。主イエスは、「わたしを愛しているか」と今も、私たち一人ひとりに語りかけています。 【祈り】 主なる神、十字架に現されたあなたの限りない愛と忍耐に感謝します。
「人の子よ、…エジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ。わたしは彼らを地の低い所に下らせる、穴に下って行く者と共に。」 (エゼキエル書32章18節) エルサレムが陥落して間もなく、エジプトとファラオに対する神の審判が預言されました。ファラオは、川の中であばれ回る水中のわにのようだと、その高慢さと暴虐性を譬えられています。そこで、神は「地引き網でお前を引き上げ」、野に投げ捨てられる、と高ぶるファラオへの裁きを預言されています。エジプトが滅びるとき、エジプトに依存していた周囲の国々はぼう然とし、毛が逆立ち、命に不安を感じて絶え間なく震えます。 後半のもう一つの預言では、エジプトが裁かれて陰府に下ると、そこには先に滅んだアッシリア、エラム、メシェクとトバルがいます。かつて地上の栄華を誇り、近隣諸国から恐れられた国々です。エジプトはそれらの「割礼のない者、剣で殺された者たち」と共に横たわります。「割礼のない者」とは異邦人で、汚れた者たちです。地上における横暴かつ神を恐れない行動に対する報いをエジプトは受け、既に裁かれている者たちの世界に自らも引きずり込まれます。 私たちも罪の汚れにより、死の底にあった者たちです。しかし、主イエスが「死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえ」られました。私たちは、罪の報酬たる死を恐れません。主の復活により永遠の命と復活が約束されているからです。 【祈り】 主なる神よ、わたしの代わりに罪の刑罰を負ってくださった主イエスの恵みに感謝します。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」 (ルカによる福音書14章27節) 大勢の群衆が、主イエスについてきました。途方もない人数だったことでしょう。主イエスの言葉や、主イエスの奇跡を見て、自分も願いを叶えてほしいと思ったのでしょうか。 しかし、主イエスは、群衆と弟子は、全く違うとおっしゃいます。神を第一に愛し、自分の命が神の御手の内に在ることを信じて、自分の十字架を背負って神に従うこと。これが主イエスの弟子の条件であり、全てに勝る価値があると教えられたのです。 主イエスは、収税所にいたレビに、「わたしに従いなさい」と言われましたが(5章27節)、主イエスによって癒された男性が、お供したいと願うと、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(8章39節)と言われました。 ある人が、自分の十字架があまりにも重いので、ポンと放り出して、さまざまな形と重さの十字架が置いてある中から、自分に合うものを探し始めました。これも違う、あれも違う…。そして遂に、自分にぴったりの十字架を見つけて大喜び。すると、それは、彼が放り出した自分の十字架だったのです。一人ひとりが、神から与えられた「自分の十字架」を担うのです。 【祈り】 神様、あなたがわたしにお与えくださった十字架を担って歩めますように、きょうもわたしを支えてください。
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