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リジョイス聖書日課
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リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、… (サムエル記上11章6節) 王を求める民に、主はベニヤミン族の若者サウルを選び出しました。彼は背が高く美しい若者でした。もちろん主は外見でお選びになったのではありません。また、彼はおとなしく控えめな青年でした。人びとの中には「こんな男に我々が救えるか」と侮る人もいたほどでした。 そのようなとき、ヨルダン川東岸の地ギレアドのヤベシュの町が敵に包囲されます。住民は、敵に対して全イスラエルに援軍を求める猶予を求めます。敵がそれを認めたのは、援軍など来ないと侮っていたからでしょう。実際、ギレアドの状況を聞いた民は、嘆きの声をあげることしかできませんでした。 しかし、サウルは違いました。知らせを聞いたサウルには霊が降り、彼は怒りに燃え、全土に檄を送ります。その結果、全イスラエルが立ち上がり、敵を打ち破ります。 ここに神が彼に与えた治める者としての資質が見えます。怒りや軍事力ではありません。苦しむ者が助けを求める声に、深く思いを向け、なんとしても助けようと行動する力。そこに全国民が統治者の姿を見出したのでした。後に戦死したサウルの遺体を、このギレアドの民が命をかけて葬りました。救われた民は感謝を忘れなかったのでした。 【祈り】 主よ、罪に苦しむ私たちの声に耳を傾けてください。私たちも苦しむ人を助ける者とならせてください。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 (ルカによる福音書20章38節) 死後の世界は具体的にどうなっているのでしょうか。復活後の人間の有り様は具体的にどうなるのでしょうか。興味は尽きないところです。しかし、私たちは自然の力で必然的に生きているのではなく、「神によって生きている」存在です。私たちはこの世の生涯を終えた後にも確かに生き続けますが、それもまた「神によって」のことです。そのことを謙遜に認めるならば、復活後の素晴らしい世界を、この世の常識の延長線上に推し量るべきではありません。 「夫婦という関係はこの世限りで終わる」と聞けば、何か寂しく感じられることでしょう。しかし、この世で夫婦として結ばれたキリスト者同士が、一般の兄弟姉妹に逆戻りするとも教えられてはいません。神のご計画は、進展するのです。では、どう考えたらいいのでしょうか。 私たちは、神によって啓示されていないところを、この世の常識の延長線上に詮索したり、決めつけたりしてはいけません。啓示されていること、殊にその啓示の頂点であるイエス・キリストに注目しましょう。それが「神によって生き」る生き方だからです。このお方は、この世の常識を覆して復活されたお方であり、このお方の内に私たちの希望があるのです。何も心配はいりません。 【祈り】 この世の常識を覆すお方に信頼し、希望を置きます。このお方によって生きる命を賜わり、感謝します。
完全な道について解き明かします。 いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。 (詩編101編2節) 「完全な道」は、「全き道」とも訳されます。主の前に何の落ち度もなく歩むという印象を受けますが、そのようなことが私たち人間にできるでしょうか。ここでは、主の前での相当に理想的な人間の姿が描き出されているように思われます。 表題には「ダビデの詩」とあり、悪しき者を都から断ち滅ぼすとまで言っているので、ダビデ本人か、王の権力を持つ人が作者のようです。 曲がった心を退け、悪を知ることはなく、同じように全き道を歩く人だけを自分に仕えさせると言います。主の都には、そのように悪を離れて主に背かず、全き道を歩む人しか入れないという、王としての強い決意が現れており、その決意自体は尊いものです。しかし、ダビデ王とて大きな罪を犯しました。そう考えると、ここに描き出されているような理想的な状態は、人の決意と努力だけでは実現できないものだと言えます。 作者は、「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか」と言って、主を待ち望みます。それによって初めて、私たちが全き道を歩むことが実現するからです。 後に、神の御国の真の王である主イエスが世に来てくださいました。私たちに完全な道を備えてくださった主がおられる幸いを感謝します。 【祈り】 神の御子なる主イエスよ、私たちのもとを訪れてくださり感謝します。あなたの全き道を歩ませてください。
サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。 (サムエル記上10章9節) この章でいよいよ、初代の王となるサウルに油が注がれます。執行者は最後の士師サムエルでした。しかし真の執行者は神ご自身です(1節)。サムエルは神の代理人であり、神からの委託による執行者にすぎません。これによりイスラエルは、士師の時代から王国の時代へと変わりました。 神は、9節でサウルの心を新たにされます。これはサウルが自ら心を改めたことを意味しているのではなく、主がサウルの心を新しくされ、王としての振る舞いができるようにされたことを表しています。サウルは、油注がれることによって、主の霊に捕らえられた存在となったのです。 けれども、サウルはその後、主に委ねて歩むことから離れていきます。自分の心に自由に生きようとしてしまい、結果、主の御前に罪を犯して、その王位から退けられてしまうのです。 主なる神は、サウルと同じように、私たち一人ひとりにも日々豊かな恵みを添えて与えてくださっています。サウルの心を新たにされた神が、私たちの心をも新たにしてくださいます。御言葉には私たちを変える力があり、聖霊が私たちのうちに働いてくださいます。私たちに求められているのは、キリストと聖霊に信頼することです。 【祈り】 御言葉はいつも私たちへ語りかけます。これを真実に受け取り、自らの使命として歩んでいけますように。
「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。」 (サムエル記上9章16節) この章の最初で、この後イスラエルの初代の王に選ばれるサウルの人となりが描かれています。容姿良く家系も確かで、さらには体格にも恵まれた存在であったとあります。人びとの間ではきっと一目置かれるような存在だったことでしょう。しかし、そういった事柄が王の条件ではありません。神の選び(恵みであり召命)こそが王の条件なのです。サムエルが選んだわけでも、サウル自身が自分から王になろうとしたのでもありません。神が御旨を示してくださったので、事柄は進んで行くのです。 神がお立てになります。いつもまず神が啓示され、示された人物が務めを確認し、告白します。さらに第三の者がこれを認めて新たな職務に就くのです。私たちの教会もこれに倣っています。神の選びがまずあって、それを示された者が告白と共に人びとの前に進み出ます。しかしこれだけではありません。さらに人びとは、今の告白が主の御心かどうか確認します。これらが承認されたとき初めて、その告白者は新たな務めに就くことになります。 サウルはこうして、この後、油注がれて初代の王になります。先だっていつも神の選びがある。私たちの務めはこれに基づいていることを覚えたく思います。 【祈り】 神がお示しくださった今ある務めに、きょうも喜んで仕えていくことができますように。
「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」 (サムエル記上8章7節) この章は、とても重要な章です。イスラエルにいよいよ王制が敷かれるのですが、その必然性と共に、神の御思い、王制のデメリットについても書き残されているからです。 士師の時代は、サムエルの加齢と、継いだサムエルの息子たちの不正によって終焉を迎えます。イスラエルの長老たちは、サムエルの所に集まり王を立てるよう申し入れました。これに対してサムエルは主に祈り、民がこれから歩むべき道を主に乞いました。 主は答えられました。王制を認めるが、それは、主に対する反逆を意味する、と。長老たちがサムエルに「ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」と言った(5節)、このひと言にそれがよく見られます。ここに、主ご自身を王として見ていない罪、神への信仰ではなく他のもの(人の力や武器)に頼っていこうとする不信仰が見て取れるからです。しかし主は、この願いを警告と共に許可されたのでした。 私たちも信仰の揺らぐことがあります。揺らぎが生じたとき、目に見えない主にもう一度立ち帰ることができるよう、罪の中に憐れみを与えてくださる神に常に祈り備えたく思います。 【祈り】 目に見えるものに頼るのではなく、あなたにこそ信頼し歩むことができますように。
「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」 (サムエル記上7章8節) 7章は最後の士師サムエルについて書かれています。この後、イスラエルの民はサムエルに王を求め、王制を敷く国へと変わっていくからです。主に忠実な士師サムエルによって、イスラエルは新たな時代に入っていくこととなります。 サムエルはこのとき、悔い改めの祈りを主にささげるために民らと共にミツパに集まっていました。しかし、ペリシテには何か軍事的な相談でもしているように見えたのでしょうか。どこかからその情報を聞きつけて攻め上って来ました。これを聞いて恐怖した民らが、サムエルに求めたときの言葉が上記のものです。 サムエルは祈りました。このときイスラエルは祈るために集まっていましたから、戦う用意などしていません。真に主に悔い改めるために集まったサムエルと民らです。祈りだけが彼らの頼り、武器でした。文字どおりサムエルは叫び求めて主に祈ったのです。 「主は彼に答えられた」とあります(9節)。主は雷鳴をとどろかせ、ペリシテを混乱に陥れて打ち負かされました(10節)。 真に祈りの乏しい私たちですが、主に信頼し、祈りと信仰の生活のなかで今の時代を歩みたく思います。 【祈り】 真に頼れるお方は、あなたお一人のみです。あなたに向かっていつも祈り、叫び求めて心からの声を上げることができますように。
「今、新しい車一両と、まだ軛をつけたことのない、乳を飲ませている雌牛二頭を用意しなさい。雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して小屋に戻しなさい。」 (サムエル記上6章7節) 主の箱があるために災害に遭い、神の御手が重くのしかかった(5章11節)ペリシテ人たちは、6章でその主の箱を丁重にイスラエルの民に返す計画を進めます。これらの行動は、災いを経て味わい知った神の御力への敗北と、畏れと、敬意によるものでした。ペリシテ中の祭司、占い師が集まって協議がなされました。そして神の民が信じる祭儀の仕方を調べあげたのでしょう、レビ記5章15節以下に従って「賠償の献げ物と共に」返すことにしたのでした(サム上6章3節)。 具体的には、まだ軛をつけたことのない、雌牛二頭を車に繋ぎ、その子牛を雌牛から引き離します。雌牛たちが見ている前で子牛を牛小屋に連れ戻させ、雌牛に繋いだ車の上に主の箱を載せ、賠償の献げ物を一緒に返すという方法でした。普通であれば子牛を案じて戻ると思われましたが、何と雌牛たちはイスラエルの方角に向かいました。ここにペリシテ人たちは主の御業を見、イスラエルの民の下に主の箱は帰還しました。 災いにより神を知るペリシテ人でしたが、私たちはさらなる恵みにより聖書を通して神を豊かに知る者たちです。聖書と共に働く聖霊の恵みにより、救い主イエスキリストを信じる歩みを送りましょう。 【祈り】 異邦人のなかで歩む私たち神の民が、きょうも神の幸いを生き、主の栄光を証しできますように。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカによる福音書19章10節) 「背が低かった」ザアカイは、そのことによって周囲から馬鹿にされ、今で言う「いじめ」の対象にされて居場所を失ったのかもしれません。そうしたことで彼が、罪人と呼ばれる徴税人の頭になったのだとしたら、現代の日本で社会的排除を受けた人びとが、反社会的勢力と呼ばれる疑似家族的な団体を作っていることに通じるものがあります。日本社会で「罪深い男」たちと目される彼らの中には、じつは寂しがりやの人が多いと言われます。力も金も手に入れたザアカイも、本当は寂しかったのではないでしょうか。主イエスはそのようなザアカイの名を呼んで、彼の家に泊まってくださいました。 イザヤ書43章1節(新改訳)には、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」とあります。人はすべて、罪の中に失われた状態で生まれてくるのですが、主イエスは、そのような私たちを捜し出して、私たち一人ひとりの名を呼んでくださっています。そして、「あなたはわたしのものだよ」と言ってくださるのです。 主イエスは、罪の中に失われていた「あなた」を捜し出し、「あなた」を救うために訪れてくださいました。だから、もう寂しくはありません。 【祈り】 罪人であるわたしの名を呼び、救いの交わりに入れてくださった主イエスに感謝します。
知れ、主こそ神であると。 主はわたしたちを造られた。 (詩編100編3節) この詩は、礼拝式文で例に挙げられており、私どもの教会では招きの詞として用いられています。 礼拝に招かれていること自体、実に幸いです。作者は、喜び祝って主に仕えよ、と全地に向かって礼拝への招きを述べます。しかし、全世界のものが一堂に会して主をほめたたえて賛美するのは物理的に不可能なことです。それにもかかわらず敢えてこう呼びかけるのは、全世界は主によって造られ、保たれているからです。 しかし、その中でも、主のもの、主の民、主の羊の群れとされた者たちがいます。それは最大の祝福だということを、人は知らねばなりません。これまでイスラエルに対して御自身を「主」という御名で現して来られた方こそ、真の神、天地の主であることをよく弁えよと主は言われます。 主はすべてを造り、治めておられますが、特に御自身のかたちに似せて人間を造り、さらにご自分の民としてお選びになった者を特別に養う羊飼いとなってくださっています。 その恵みと慈しみと真実はとこしえに及びます。それは神の御子、神の民の羊飼いなる主イエスに至って最高に明らかにされました(ヨハ10章11節)。私たちも今日、感謝と賛美をもって、その主に向かい喜びの声をあげる者とされているのです。 【祈り】 主よ、あなたのことを知らせてくださった恵みに感謝します。私たちの賛美を受け入れてください。
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 (コリントの信徒への手紙一9章23節) マルティン・ルターを始めとする宗教改革者たちのその運動の発端と推進力となったのは、聖書が告げる神がイエス・キリストにおいて啓示された「神の福音の再発見」でした。それを生み出したのは聖書の熱心な学びによるものでした。その結果、聖書に沿った礼拝の様式、説教、聖餐式、教会の在り方の改革へと導かれていったのです。 使徒パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と語り、まことの神を知らない異教徒たちに彼らが理解できる仕方や論述を用いて、神がキリストにおいて啓示された福音を語って(使徒17章22~31節を参照)、託された宣教に、牧会に邁進しました。 神の教会が時代を超えて常に歩むべき道は、いま現在行っている教会での神学、礼拝、説教の伝統をただ守ることでも、また世の思想や風潮に合わせることでもありません。常に神の言葉である聖書に継続して耳を傾ける、学ぶ、それも聖書全体を学び、聖書全体が告げる神の福音の理解を深め、同胞に語ることです。 私たちが受け継ぐべきは、神の言葉に基づいて「常に改革し続ける」という宗教改革者たちのその良き精神です。 【祈り】 父なる神よ、あなたの御言葉、聖書に耳を傾け続け、あなたの福音を、さらに御心をより深く悟らせてください。
その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。 (サムエル記上5章4節) ペリシテ人が神の箱をダゴンの神殿に置いたのは宗教的復讐のためでした。かつてサムソンに神殿を破壊されたことで自分たちの神が屈辱を受けたと感じ、ならばイスラエルの神の箱をダゴンの前に置くことで、その屈辱を晴らそうとしたのです。 しかし、イスラエルの神は人間が作った偽りの神々とは異なります。神は、神の箱が人質のごとくに扱われようとも、それで捕らわれ、翻弄されることはありません。結果として、ダゴン像は地面に倒れ、再び据え直しても翌日には頭と手が切り落とされていました。これは偽りの神の無力さを示し、真の神が偽りの神の思考(頭)と行動力(手)を完全に無効化したことを象徴しています。 異邦人は自分たちの神が真の神に打ち負かされた証拠を見ながらも、信仰を捨てず、「敷居を踏まない」という迷信を作り出しました。これは真理から目をそらし、偽りの神への忠誠を続ける愚かさを表しています。 私たちも偶像に囲まれた世界に生きています。その世界は偶像に頼る無力さを知らされながら、なお真の神に頼らない愚かさを繰り返しています。そして、私たち自身が罪を悔いてはまた犯す存在です。私たちの心が真の神への礼拝に結び合わされ続けるよう、祈りを合わせましょう。 【祈り】 真の神よ、私たちが偽りの神々や偶像から解放され、あなただけを礼拝できますように。
「主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」 (サムエル記上4章3節) サムソンの時代のイスラエルは、もともとは敵対していたはずのペリシテの要求を受け入れ、神の士師サムソンを引き渡そうとさえしました(士15章9~13節)。サムエルが活動する時代に入ることで、敵対する相手といかに戦うか、その正しい姿勢を回復していくことになります。 しかし、そこでの回復は形だけの戦いにとどまり、人びとの心は依然として、まことの神に頼るのではない、異教的な信仰を持ったままでした。彼らは神の契約の箱をまるで単なるお守りのように扱い、箱を持ってくれば勝てると考えました。神を自分の望みを叶える道具としか見ていなかったのです。これは真に神に仕えるしもべの姿勢ではありません。結果として、イスラエルは大敗を喫することになります。三万人もの兵士が倒れ、神の箱はペリシテに奪われ、さらにエリの息子ホフニとピネハスも死んでしまいました。 聖書の神は偽りの神々と異なり、単なるお守りとして扱われることを拒まれます。神の箱があれば勝てるという発想は、神を道具と化する考えであり、主はそれに怒りを示されました。私たちのキリスト教信仰も今、このような姿勢に陥っていないか、省みる必要があります。霊なる神は、私たちの真心からの献身と信頼とを喜ばれ、受け取られるお方です。 【祈り】 主よ、あなたを真の主、真の王として敬う心を与えてください。
「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」 (サムエル記上3章9節) 神は聖書の目的を次のように教えておられます。「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハ20章31節)。 サムエルが神殿で寝ていると、ある声が彼を呼びました。彼はそれが神の声だとは知りませんでした。後に祭司エリの助言によって、それが神の声であったことを知ります。この出来事の目的は何でしょうか。1節に「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく」とあるように、当時は祭司や預言者に神の言葉が語られるということがほとんどない時代でした。 このような時代に、人が神を探したのではなく、神が人を探し求めておられます。夜中に眠っているサムエルに、しかも神だと分からないサムエルのところに、神が来られます。そして語りかけられます。「サムエルよ!」。そうです。どれほど時代が暗くても、サムエル自身が神の声を聞き分けられないほどに闇が強い時代でも、神は世界を再び起こされる計画をお持ちです。そして神の神殿たる一人の人(2コリ6章16節)、神がお用いになる一人の人を通して、神の御計画は実現していきます。 神が聖書を通して語られても、神の声だと認めない時代のなかで、私たちは神の御心に聞き続けます。 【祈り】 神よ、あなたの御声を神の声として、聞き分ける耳と従順な心を与えてください。
「弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ 高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。」 (サムエル記上2章8節) ハンナは、自分の子どもであるサムエルを神に献げたあと、この歌を歌います。ハンナの歌は、王の権能を讃える歌です。ハンナはこう歌います。「主にあってわたしは角を高く上げる」、「思い上がった言葉を口にしてはならない」。なぜなら「勇士の弓は折られ」、「食べ飽きている者はパンのために雇われ」、「多くの子をもつ女は衰える」からです。その一方で「よろめく者は力を帯び」、「飢えている者は再び飢えることがな」く、また「子のない女は七人の子を産」む。 神だけが王です。だからこそ、人の目には強かった者が再び弱くなり、弱かった者が強くなり、豊かだった者が貧しくなり、何もなかった者が豊かになるのです。 この真理を要約したのが6節と7節です。「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」。 この御言葉の核心は、主なる神が真の王であり、私たちの人生はすべて神の御手にかかっているということです。私たちの人生が本当に誰を見つめ、どのような目標に向かって進むべきかを深く考えましょう。私たちの真の王イエスを見つめましょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章47節)。 【祈り】 真の王なる神よ、あなたが私たちの人生を導き、高め、祝福してくださることを感謝します。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 (ルカによる福音書18章14節) 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(10節)。ファリサイ派とは、律法の戒めに忠実に生きようと努めていた人たちで、正しい者と見なされていました。徴税人とは、支配者であるローマ帝国のために同胞から税金を徴収しつつ私腹を肥やしていた人たちで、罪人の代表と見なされていました。 ファリサイ派の人は祈りの中で、自分の信仰とその実践を誇り、神に感謝しました。徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)とだけ祈りました。これについて、主イエスは、義とされたのは徴税人であるとし、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と結論しました。 ただ、ファリサイ派の人には高ぶっているつもりもなかったでしょうし、徴税人にもへりくだっているつもりもなかったでしょう。 ファリサイ派の人は、「心の中で」祈ったのですが、この言葉は原文では、「自分自身に向けて」です。神に心を向けていたのではないのです。だからその祈りは、自分と人を比較して、自分を誇るものとなります。徴税人は、人は見ずに神のみを見つめていました。だからその祈りは、罪の赦しを求めるものとなります。それが御心に適ったのです。 【祈り】 私たちが神にのみ心を向けることができるようにならせてください。
我らの神、主をあがめよ。 その聖なる山に向かってひれ伏せ。 我らの神、主は聖なる方。 (詩編99編9節) 私たちが神を「天の父なる神よ」と呼びかけることができるのは、どうしてでしょう。なぜ私たちは神を知り、礼拝することができるのでしょう。改めて考えてみると大切なことに気づきます。 聖書は私たち人間に罪があることを指摘します。そして、そのような私たちに関わり続けてくださるのも神であると教えてくれます。神は罪に対して必ず裁きもって報いられる。しかし同時に、神は人間の罪をお赦しになる御方です。 昔からイスラエルの民は、必ずと言っていいほど数多くの失敗をしました。神の思いよりも自分たちの思いを優先する罪のため、何度も神を悲しませてしまうのです。でも神は、その都度、働き人をお立てになり、ご自分の民と向き合ってくださいました。「主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた」のです(6節)。 今、神と私たちとの間に立ってくださるのは、ほかでもありません、主イエス・キリストです。この救い主を通して罪赦され、神が語りかけてくださるからこそ、私たちは「天の父なる神」と呼びかけて、神を礼拝できるのです。そのような主なる神を聖なる方としてあがめましょう。 【祈り】 天の父なる神よ、私たちの罪を赦し、あなたとの交わりを喜ぶために、きょうもわたしに答えてください。
エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。 (サムエル記上1章3節) サムエル記上は士師の時代の延長線上にあり、士師時代の核心は「主なる神が王とされない世界」ということにありました。人びとは「自分の目に正しいとすることを行っていた」、つまり、すべての人が自分自身を王とした世界に生きていました。それは、誰も神の律法を守らず、誰も神の御言葉に関心を払わずに生きていた時代でした。その時代は、士師記の後半を見るとよく表されています。たとえば、ミカの偶像事件(17、18章)やベニヤミン族の側女事件(19~21章)は、当時のイスラエルがいかに神の言葉を軽んじ、勝手気ままであったかをよく示す出来事です。 しかし、そのような時代のなかにあって、神の契約の箱があったシロに上って万軍の主に礼拝をささげる人がいました。誰もそうしていませんでしたから、たとえそうしなくても非難されない、他の人もそうしていませんでしたから、罰を受けることもない。しかし、エルカナは「世が基準」ではなく、「神の御言葉が基準」でした。ですから、毎年、シロへ神に礼拝するために上っていきました。 私たちは、このエルカナの姿に、神が士師の時代をどのように終わらせるかを垣間見ることができます。神は、これから、このエルカナの息子サムエルを通して、この混沌の士師時代を終結させるでしょう。 【祈り】 主よ、混沌の時代にも揺るがない信仰を与えてください。
すべてに耳を傾けて得た結論。 「神を畏れ、その戒めを守れ。」 これこそ、人間のすべて。 (コヘレトの言葉12章13節) 「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1章2節)。コヘレトは、彼の生きる現実を、すべては空しいと語ります。しかし、コヘレトはその現実をただ嘆いていただけの人ではありません。目の前の空しい現実を直視し、その中に真理を見つけようとした人です。その結果、見つけ出した真理、それが「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」でした(12章13節)。 戒めとは何でしょうか。主イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と教えてくださいました(マタ22章37~40節)。 神を愛するとは、神から与えられたさまざまな恵みを、何よりも十字架に示された神の愛と救いを心に留め、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです(『ウ小教理』問一)。 私たちの生きる現実は空しさであふれています。しかし、そこに示された神の恵みと愛に心を向け、神を愛し、神が与えてくださった今日を懸命に生きようとする者を、神は空しい人生から解き放ってくださいます。 【祈り】 主よ、あなたの恵みを数え、あなたを愛する一日としてください。
すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。 (コヘレトの言葉11章5節~6節) コヘレトの時代、種蒔きは、ただ地面に種を振りまくだけだったそうです。どの種が実るかわかりません。一つも実らないかもしれません。「実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からない」のです(6節)。 皆さんなら、そのような先のわからない状況でどう行動しますか。 コヘレトは、「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな」と答えます。ただ種を蒔くのではありません。神が成し遂げてくださることは私たちにはわからないのだから、朝から晩まで、夜も休まず種を蒔き続けろと答えるのです。 私たちは一秒先のことも分からない存在です。そのような私たちに、さまざまな将来の不安が襲ってきます。最悪のケースを思うと、体が動かなくなることもあります。そのような私たちに、コヘレトは、先がわからないからこそ、すべてを成し遂げてくださる神に信頼し、神が与えてくださった今を最善を尽くして生きろと勧めるのです。 ガラテヤの信徒への手紙に「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」とあります(6章9節)。成し遂げてくださる神の時を待ち望み、神に委ねられた種を、きょうも蒔き続けたいと願います。 【祈り】 主よ、今日も、あなたに委ねられた種を蒔き続ける者としてください。
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