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『芦田の毎日』
『芦田の毎日』
Author: Hironao Ashida
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© Hironao Ashida
Description
2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。
会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。
元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。
※BLOG『芦田の毎日』のアドレスは、https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/ です。
会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。
元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。
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この、芦田先生の記事は、夏目漱石の小説と森昌子の歌謡曲に登場する**「先生」「せんせい」という言葉を例に挙げ、同じ語彙であってもその意味は常に更新され、多様であることを解説しています。芦田先生は、ベルグソンやハイデガーの思想を引用しながら、言葉が持つ同一性と差異の共存について深く考察しています。特に、一見異なる文脈が交差する瞬間に耐える言葉の力を、ハイデガーの「アオストラーク(決着・耐える)」という概念を用いて説明しているのが特徴です。最終的に、言葉の意味とは固定されたものではなく、絶えざる超越と存在論的差異の中に成立するものであると説いています。このように本書は、日常的な言葉を通じて存在と意味の豊穣性**を浮き彫りにする哲学的な論考となっています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat41/post-507.html
このテキストは、哲学者である芦田宏直が思想家吉本隆明の人間性と理論について綴ったブログ記事です。著者の妻が偶然吉本と遭遇した際の心温まる逸話を導入として、日常的な営みを肯定する吉本の謙虚な姿勢を紹介しています。そこから議論は深化し、吉本の生涯のテーマである**「転向」や、庶民の生活感覚を重視する「大衆の原像」という概念へと展開されます。また、現代のグローバル化やAI化**、あるいは他者の権威に依存する教養主義に対置する形で、吉本の思考がいかに自立的で現在的であったかを考察しています。最終的に、学問と日常的な社交が交差する瞬間に宿る**「関係の絶対性」**の重要性を説いています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat41/post-439.html
この資料は、大学で学ぶ意義を「知性」と「多様性」の観点から深く考察したものです。著者は、経済状況や育った環境に左右される「人物評価」とは異なり、本を通じた知識の習得こそが最も公平で自由な学びの手段であると説いています。人間が未熟な状態で生まれるからこそ手にした言語や知性は、世界を多面的に解釈し、個性を開花させるための鍵となります。また、過去の出来事や偶然の重なりに自ら意味を見出す**「悦ばしき知恵」**を持つことの重要性が強調されています。最終的に、安易な予測や既存の価値観に縛られず、主体的に未来を創造する力を養うことこそが、大学教育の本質であると結論付けています。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-506.html
この文章は、芦田先生が「研究」と「教育」は不可分であるという考え方に基づき、昨今の教育のあり方を鋭く批判したものです。著者は、膨大な執筆量や科学研究費の獲得実績といった客観的な指標を挙げ、質の高い教育は教員の卓越した研究能力に裏打ちされるべきだと説いています。文字を介さない安易なアクティブラーニング**や、明確な基準を欠いた「多様性」重視の政策が教育の質を低下させている現状に対し、強い危機感が示されています。富士山の頂上を知る研究者こそが登山口を正しく導けるという比喩を用い、高度な専門性こそが真の高等教育を成立させると主張しています。文科省の過去の答申や現在の評価体制の変化にも触れ、大学教育における厳格な標準性の再確立を求めた内容です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-505.html
この資料は、大学での学びの本質と、卒業に向けた具体的な学習方法を多角的に解説しています。前半では、単位修得の条件やAIを活用した予習法、さらには学内での相対的な順位の重要性といった実務的な戦略が示されています。中盤では、学力が家庭環境に左右されにくい公平な指標であることを説き、知識を得ることで世界の捉え方が多様化する知性のメカニズムを紐解いています。終盤には、言葉の獲得による精神的自由や、偶然を必然へと変える教養の力について触れられています。全体を通じて、単なる知識の蓄積を超えて、自らの手で未来を構築するための姿勢を学生に促す内容となっています。
この資料は、哲学者である芦田宏直氏が、思想家・吉本隆明の全集月報を執筆することになった経緯とその思想的背景を綴ったものです。執筆のきっかけは、吉本がテレビ番組で語った「ファンクショナリズム(機能主義)」との闘いに芦田氏が強く共鳴し、自身のブログでその熱量を分析したことにあります。この記事が吉本の長女であるハルノ宵子氏の目に留まり、父への深い理解を高く評価されたことで、月報の執筆依頼へとつながりました。文章中では、吉本の核心的概念である「自己表出」や「関係の絶対性」が、単なる知識の蓄積ではない切実な表現の原理として解き明かされています。また、芦田氏の妻が偶然吉本と遭遇した際の心温まる逸話も交えられ、吉本の人間性と理論の両面が多層的に描かれています。最終的に、これらの思索は現代のネット社会における「検索バカ」への批判や、真に「読む」ことの意義を問い直す独自の論考へと昇華されています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/2026323.html
この資料は、芦田宏直氏による講演録であり、機能主義が支配する現代の情報社会と、Twitter(現X)というメディアがもたらした変容を哲学的に考察しています。機能主義は入出力を重視して内面を軽視しますが、著者はこの思考がデータベース化や検索主義の極限にあると指摘します。これに対し、Twitterは情報を細分化(微分)して**「現在」を共有することで、蓄積された実績や専門性といったストックの権威を解体し、人間を身体的で対等な関係へと導くと説いています。また、ネット上の交流に依存する「オンライン自己」の病理や、教育現場における主体性の強制といった社会問題にも鋭く切り込んでいます。最終的には、絶え間なく流れるタイムラインの性質を、死の忘却やハイデガー的な存在論の時間構造に結びつけて論じています。このように本書は、テクノロジーが人間の自己認識や死生観**にどのような影響を及ぼしているかを解き明かす一編です。※元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx.html
この資料は、芦田宏直の著書『シラバス論』を中心に、その教育思想と学問的背景を詳細に解説したものです。著者はシラバスを単なる事務書類ではなく、知識を時間軸に沿って受肉させる「教育設計の核」と定義し、日本の大学における教育の空洞化を厳しく批判しています。背景には現象学や現代思想の深い素養があり、主体性や人間力といった曖昧な言葉が、かえって教育内容を消失させ格差を固定化していると指摘します。また、吉本隆明や柄谷行人、苅谷剛彦といった思想家と比較することで、芦田の主張が**「公共的な知識の編成」**を通じた社会的な公正の追求にあることを浮き彫りにしています。結論として、本書を単なる授業改善論ではなく、知のあり方と大学制度の根幹を問い直す思想書として位置づけています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-ai-2.html
これらの資料は、芦田君と木下さんという男女の出会いから結婚に至るまでの歩みを綴った、手書きの思い出の記録です。中学生の頃の初めての出会いや、高校合格発表の日に行われた突然の告白といった瑞々しい記憶が、女性の視点から情緒豊かに語られています。また、哲学に傾倒する芦田君の独特な性格や、彼が提唱した「一対一討論」という二人の関係性を象徴する言葉についても触れられています。一方で、男性側の視点では、結婚式を控えた新郎としての気恥ずかしさや戸惑いが、ユーモアを交えて率直に書き残されています。最終的に、13年という長い歳月を経て結ばれた二人の深い絆と、周囲への感謝の気持ちが表現された感動的な手記となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/post-499.html
この資料は、日本の教育現場における選抜制度のあり方を巡る、対照的な二つの視点を提示しています。校長による断章では、偏差値やペーパーテストが個人の多面的な才能や人間性を見落とし、パターン学習を助長している現状に懸念が示されています。対して芦田氏の記事は、知識中心の試験こそが家庭環境や階層の影響を排除し、社会的流動性を生む公平な装置であると強く主張する内容です。人格や意欲を評価に含めるとかえって不平等を招くという逆説的な指摘により、近代的な能力主義の真価が論じられています。両者は、数値化できない「人間性」を評価すべきか、あるいはあえて「知識」のみを測るべきかという、教育評価の本質を問い直す構成となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-498.html
このテキストは、現代の教育現場における**「概念型学習」の是非と、それを巡る指導者の在り方について対照的な二つの視点を提示しています。一方は、本質的な学びには専門知識に裏打ちされた深い概念理解が不可欠であり、教員が単なる支援者に留まることが学力低下を招くと厳しく批判しています。対してもう一方は、断片的な暗記を超えて世界の構造を把握する視点を養うことや、生徒自らが問いを立てるプロセスの価値を肯定的に説いています。両者は、表面的な知識習得を超えた思考の枠組みの重要性を認めつつも、その実現に向けた教員の役割や指導の質**に関しては真っ向から対立しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/-2-1.html
この文章は、ある患者が肺がん手術から5年が経過し、再発の兆候もなく無事に定期診断を終えた喜びと回想を綴ったものです。著者は、肺の機能を温存できる**「区域切除」**という高度な手術を選択した経緯を詳しく説明しています。一般的な大学病院が推奨する大規模な切除に疑問を抱き、名医である渡辺先生を探し当てたことで、わずか数日の入院で社会復帰できた体験が記されています。専門的な知見や医師の技量に対する独自の考察に加え、術後の快復がいかに早かったかを示す具体的なエピソードも紹介されています。最後には、闘病を経て古希を迎えた著者が抱く、人生観や幸福のあり方についての深い洞察で締めくくられています。
提供された資料は、教育における**「主体性」や「個性」の尊重が孕む危険性と、学校が果たすべき本来の役割について論じたものです。ある校長が掲げる、教師を「学習の支援者」と位置づける進歩的な教育観に対し、芦田先生はそれが結果的に家庭環境の格差を固定化させると厳しく批判しています。芦田氏は、未完成な存在である子どもに自律を強いることは「放任」に等しく、教育の使命はむしろ家庭の背景から生徒を解放し、知的な標準性を与えることにあると説いています。対照的に校長側は、自由と構造の両立を目指す学びの環境設計こそが教師の仕事であると主張し、両者の間には「指導」の定義を巡る深い溝が存在します。最終的にこれらのテキストは、公教育が格差の再生産**を防ぐ砦として機能すべきか、あるいは個々の特性を伸ばす場であるべきかという、教育の本質的な対立軸を浮き彫りにしています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-495.html
このテキストは、芦田先生と生成AIが**「生成AIの可能性と人間性の根幹」について深く対話した記録です。両者は、風に舞う葉や川を泳ぐ魚に見られる「ゆらぎ」を単なる計算上のノイズではなく、世界が意味を持って現れるための根源的な条件であると位置づけています。議論はハイデガーやベルクソンの哲学を引用しながら、AIが人間のように「死への有限性」や「引き受けとしての自由」を生きられるかという問いにまで及びます。最終的に、AIが人間を模倣できたとしても、存在の分裂を肯定的に耐え忍ぶ「時間の切実さ」**を共有できるかどうかが、両者を分かつ決定的な境界線として描き出されています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/itai/aiai.html
このテキストは、芦田氏が高校時代の恩師である松本純先生との思い出を通じ、教育におけるコミュニケーションの真髄を論じた回想録です。かつての敗北した戦士としての影を持つ教師から、映画や文学、そして時代の精神を学んだ経験が、氏の知的な骨格を形成した様子が描かれています。特に、試験を単なる評価手段ではなく、教員と生徒が互いの真意を確かめ合う最大の対話の契機として捉える視点は、氏の教育観の根幹をなしています。昨今の形式的な評価制度を批判しつつ、師の生き様そのものが**「文学」であったと述懐する内容は、教育が持つ本来の熱量を浮き彫りにしています。このように、個人的な師弟関係の記録でありながら、現代の教育現場へ向けた力強い提言**にもなっています。元記事は以下の通り。増補版『灰とダイヤモンド』と松本先生との〈コミュニケーション〉について。映画『灰とダイヤモンド』は、私が高校時代の「現代国語」担当の恩師・松本純(60年安保の敗北の戦士)が、私に「芦田、『灰とダイヤモンド』観たことあるか」と思い入れたっぷりに語っていたときはじめて知った映画。目的を失った人間の孤独が見事に描かれていました。思わず主人公マチェクの印象的なサングラスを真似て付けてました。松本純先生にその時に同時に教わったのは、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』は、60年安保の敗北でうなだれた大学生たちが雨にふられてさまよう様を歌った歌なんだ、ということだった。妙に説得力のある話だった(笑)。彼の自宅にも訪れたときがあって、中野重治全集が置いてあったことだけはよく覚えている。当時の高校の先生の書斎ならどこでもそれくらいのものはあったと思うが(私には、中学を出たての15,16歳の私には、高校の先生は同時に〝知識人〟に見えていた)、最近の先生は大学の先生でさえ、全集を持っていない。どういうことだ。彼に「現代国語」を担当してもらって、10クラスあった学年のトップの成績を取れるようになった。期末試験を終わったあと、わざわざ「芦田、一番だったよ」とうれしそうに駆け寄ってきてくれた松本先生だった。多分誰よりも私の答案を見たかったのだろう。時には「なんであの問題解けなかったのよ」とも。※今思い出したが、そういえば、大学の英語担当の永坂田津子(ながさかたづこ)先生も、私の結婚式の主賓挨拶で、その英語の私の、10年以上経っているよれよれの答案用紙を披露して、「これ、芦田くんの英語の答案用紙です、私の10年以上の教育経験の中で初めて付けた100点でございます。その上、解答欄の余白にこう書いてございます。『先生、試験の訳読回答なので、精確さを中心に訳します。文学的な表情なしに訳しますのでご勘弁を』と」と笑って話されていた。この祝辞1時間以上続いたと思いますが。私はその時から、試験問題こそ、教員と生徒・学生との最大の〈コミュニケーション〉の契機だと考えるようになった。期末試験を〈解く〉とき、生徒・学生は、初めて〝先生の本心〟を〈わかる〉のだ。授業の語りや教材がどんなものであったかと関係なく。それは、今も大学教員を前にして、私が主張し続ける最大のアジェンダだ。昨日も法人理事長+大学幹部を前にした会議でその趣旨の新年度事業計画基本方針を策定したところだった。試験問題を採点するとき、教員(と学校)は、自分の授業と教育のすべての〈反応〉をそこに集約できるような〝仕組み〟を作る必要がある。それが〈期末試験〉(単位認定という出来事)だ。そう私が言えるのも、この松本先生が採点後駆け寄ってきてくれた廊下の一風景が原点になっている。アクティブラーニングなどのルーブリック評価のような〝評価〟や、〝多面的〟で〝総合的〟な評価がなぜくだらないかと言えば、その種の評価は学生を評論家のように第三者的に評価して終わるからだ。そんな関係の中では、松本先生と私との間にあるコミュニケーションは100年続けても生まれない。かれは、私を東京へ送った数年後に、酔いどれたまま交通事故で亡くなったが、まさにマチェクのような生きざま=死にざまを見せつけてくれた先生だった。彼そのものが〈文学〉だったのだ。いまから思えば10万人もいない片田舎出身の私が、東京の大学を選んだのも、私の高校の恩師と言える先生がふたりとも(松本先生と塩見先生ともども)東京の大学を出ていたからだ。後は京都の教育大学出身の先生たちばかりだったが、すべてつまらない授業だった。松本先生のおかげで、私は雑誌「近代文学」に集まった文芸評論家たち、平野謙や本多秋五、埴谷雄高や小田切秀雄を片っ端から読むことができた。当時、高校生でも、これくらいの連中が書くものを読む力はだれにでもあった。なぜなら、当時、時代のほとんどの感性は、マルクス主義だったからだ。マルクス主義は、今を待たなくても、遙か以前からグローバリズムの老舗だった。当時、世界史を意識しない若者などいなかった。どんな片田舎の青年であっても。元記事のBLOGリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat28/post-486.html
高校生のとき、圧倒的に影響を受けた吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』。前半の〈自己表出〉と〈指示表出〉という概念装置は、誰でも知っていると思うが、私があらーと感心したのは、実はⅣ章以降の〈表現転移論〉。〈文学体〉(=自己表出)と〈話体〉(=指示表出)という概念を駆使して、近代文学史を見事に描ききったことだった。太宰治論などは卓越していて、話体の文学体という矛盾の文体が太宰だったのだ。〈批評〉の力を感じた最初の作品が、吉本のこの表現転移論だった。この間もわが道後キャンパスの心理学者たちと学生の実験レポートの評価について話していて、あなたたちは、いきなり書かせようとするけど、そんなことするまえに、〈批評〉という段階を経させないと、と議論をふっかけた。書くのは単に知識だけでは書けないと偉そうなことを言う割には、いきなり書かせて添削を重ねて、学生、教員共犯でレポートを完成させる。これでは、学生の自立的なレポート作成能力は評価できない。数々のレポートの類例を低級なものから立派なものまでを見させて、それに評価を加える経験をさせること、これは、知識と書くこととを架橋させるもっとも知的な訓練なわけだ。まさに、書かせる前の、〈批評〉の段階。これが、大学の実験レポート論や建築の設計製図の実習の中で一番欠けているのです。吉本のこの表現転移論は、理論と文学史との見事な融合を果たしていて、柄谷行人の処女作『畏怖する人間』もこの吉本の仕事なしには生まれてこなかったように思う。こういう〈批評〉の空間が大学教養の最大の宝物だったのに、訳のわからない科学主義、実践主義によって、この種の訓練が雲散霧消しつつあるわけだ。悲しいことだ。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-490.html
著者は、長年愛用してきたiPod touchやiTunesによる車載音楽再生から、より高音質な環境を求めてUSBメモリによる直接再生へと移行した体験を綴っています。実験を通じて、特定のブランドのメモリやexFAT形式でのフォーマットが音質向上に寄与することを発見し、従来の接続法よりも鮮明な音の世界に驚きを示しています。特にFLAC形式のハイレゾ音源が再生可能になった点は大きな利点ですが、一方で最新のBluetooth接続が持つ利便性や音の太さも無視できない要素として挙げられています。最終的にオーディオの世界における理論と聴感のギャップを楽しみつつ、最適な再生方法を模索する様子が描かれています。このテキストは、技術の進化に伴う車内リスニング環境の変化と、個人のこだわりが交錯する興味深い記録です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/ipod-touch7thitunesusb.html
この文章は、著者である芦田先生が評論家・内田樹氏の文体の変容に対して抱いている違和感を綴ったものです。著者は、内田氏がかつての親しみやすさを失い、反論を許さない預言者のような断定的表現を用いるようになった現状を鋭く批判しています。共産党機関誌「赤旗」のような丁寧な語尾(です・ます)が逆に議論を拒絶する壁として機能しているのと同じようだと指摘し、知人ゆえの残念な思いを吐露しています。かつて本人に直接伝えた際のエピソードを交えながら、環境の変化が思考や対話の姿勢に与えた影響を考察しています。全体を通して、知的な交流が失われつつあることへの個人的な落胆が込められた内容となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-488.html
人間環境大学が展開する**「合同プログラム」は、愛知と愛媛のキャンパスや学部の垣根を越えた革新的な学びの枠組みです。心理、環境、情報、看護の4分野において、100名を超える専門教員が指導にあたり、通常の授業では得られない実践的な教育を提供します。学生は、沖縄でのフィールドワークや最新の脳計測、海洋調査、さらには海外研修など、多彩な25のプログラムから自由に選択可能です。この取り組みは、地域社会や自然界を舞台に、理論を生きた知識へと昇華させることを目的としています。所属を超えて専門知を結集させることで、学生の探究心と未来を切り拓く力**を強力に支援する体制が整えられています。
この芦田先生のテキストは、日本の戦後リベラリズムが抱える欺瞞と、国家の自立性に対する欠如を鋭く批判しています。著者は、日本国憲法の平和主義に依存し、地政学的な現実や軍事的な危機を軽視してきた左翼知識人たちの姿勢を問題視しています。過去の社会党や共産党の動向を振り返りつつ、国家という枠組みが崩壊すれば個人の人権も維持できないという厳しい現実を指摘しています。特に、ウクライナ情勢などの現代的な脅威を前に、旧来のリベラルな言説はもはや通用しない時期に達していると主張しています。最終的に、現在の日本のリベラリズムは時代遅れの層によって支えられており、衰退の一途を辿るだろうと結論付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-483.html




