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『芦田の毎日』
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『芦田の毎日』

Author: Hironao Ashida

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2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。

会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。

元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。

※BLOG『芦田の毎日』のアドレスは、https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/ です。

240 Episodes
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高校生のとき、圧倒的に影響を受けた吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』。前半の〈自己表出〉と〈指示表出〉という概念装置は、誰でも知っていると思うが、私があらーと感心したのは、実はⅣ章以降の〈表現転移論〉。〈文学体〉(=自己表出)と〈話体〉(=指示表出)という概念を駆使して、近代文学史を見事に描ききったことだった。太宰治論などは卓越していて、話体の文学体という矛盾の文体が太宰だったのだ。〈批評〉の力を感じた最初の作品が、吉本のこの表現転移論だった。この間もわが道後キャンパスの心理学者たちと学生の実験レポートの評価について話していて、あなたたちは、いきなり書かせようとするけど、そんなことするまえに、〈批評〉という段階を経させないと、と議論をふっかけた。書くのは単に知識だけでは書けないと偉そうなことを言う割には、いきなり書かせて添削を重ねて、学生、教員共犯でレポートを完成させる。これでは、学生の自立的なレポート作成能力は評価できない。数々のレポートの類例を低級なものから立派なものまでを見させて、それに評価を加える経験をさせること、これは、知識と書くこととを架橋させるもっとも知的な訓練なわけだ。まさに、書かせる前の、〈批評〉の段階。これが、大学の実験レポート論や建築の設計製図の実習の中で一番欠けているのです。吉本のこの表現転移論は、理論と文学史との見事な融合を果たしていて、柄谷行人の処女作『畏怖する人間』もこの吉本の仕事なしには生まれてこなかったように思う。こういう〈批評〉の空間が大学教養の最大の宝物だったのに、訳のわからない科学主義、実践主義によって、この種の訓練が雲散霧消しつつあるわけだ。悲しいことだ。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat35/post-490.html
著者は、長年愛用してきたiPod touchやiTunesによる車載音楽再生から、より高音質な環境を求めてUSBメモリによる直接再生へと移行した体験を綴っています。実験を通じて、特定のブランドのメモリやexFAT形式でのフォーマットが音質向上に寄与することを発見し、従来の接続法よりも鮮明な音の世界に驚きを示しています。特にFLAC形式のハイレゾ音源が再生可能になった点は大きな利点ですが、一方で最新のBluetooth接続が持つ利便性や音の太さも無視できない要素として挙げられています。最終的にオーディオの世界における理論と聴感のギャップを楽しみつつ、最適な再生方法を模索する様子が描かれています。このテキストは、技術の進化に伴う車内リスニング環境の変化と、個人のこだわりが交錯する興味深い記録です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat7/ipod-touch7thitunesusb.html
この文章は、著者である芦田先生が評論家・内田樹氏の文体の変容に対して抱いている違和感を綴ったものです。著者は、内田氏がかつての親しみやすさを失い、反論を許さない預言者のような断定的表現を用いるようになった現状を鋭く批判しています。共産党機関誌「赤旗」のような丁寧な語尾(です・ます)が逆に議論を拒絶する壁として機能しているのと同じようだと指摘し、知人ゆえの残念な思いを吐露しています。かつて本人に直接伝えた際のエピソードを交えながら、環境の変化が思考や対話の姿勢に与えた影響を考察しています。全体を通して、知的な交流が失われつつあることへの個人的な落胆が込められた内容となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-488.html
人間環境大学が展開する**「合同プログラム」は、愛知と愛媛のキャンパスや学部の垣根を越えた革新的な学びの枠組みです。心理、環境、情報、看護の4分野において、100名を超える専門教員が指導にあたり、通常の授業では得られない実践的な教育を提供します。学生は、沖縄でのフィールドワークや最新の脳計測、海洋調査、さらには海外研修など、多彩な25のプログラムから自由に選択可能です。この取り組みは、地域社会や自然界を舞台に、理論を生きた知識へと昇華させることを目的としています。所属を超えて専門知を結集させることで、学生の探究心と未来を切り拓く力**を強力に支援する体制が整えられています。
この芦田先生のテキストは、日本の戦後リベラリズムが抱える欺瞞と、国家の自立性に対する欠如を鋭く批判しています。著者は、日本国憲法の平和主義に依存し、地政学的な現実や軍事的な危機を軽視してきた左翼知識人たちの姿勢を問題視しています。過去の社会党や共産党の動向を振り返りつつ、国家という枠組みが崩壊すれば個人の人権も維持できないという厳しい現実を指摘しています。特に、ウクライナ情勢などの現代的な脅威を前に、旧来のリベラルな言説はもはや通用しない時期に達していると主張しています。最終的に、現在の日本のリベラリズムは時代遅れの層によって支えられており、衰退の一途を辿るだろうと結論付けています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-483.html
人間環境大学が新設する環境情報学科は、日本の大学教育における従来の情報教育の欠落を埋め、実践的なソフトウェア開発のプロフェッショナルを育成することを目指しています。本学科の最大の特徴は、カリキュラムの95%を演習に充てることで、理論に留まらず「身につく」学習を徹底し、他大学を圧倒する授業時間を確保している点にあります。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが抱いたようなコンピュータへの情熱を教育に取り込み、プログラミングから設計、運用までを統合的に習得できる環境を整えています。学生にとっては、少人数制の手厚い指導を通じて、卒業後すぐにグローバル水準のITエンジニアとして高年収や自由な働き方を実現できる道が開かれています。保護者や関係者に対しても、産業界のニーズに直結した「アジャイル開発」等の最先端手法を学べる、実務直結型の教育体制であることが強調されています。世界的な権威を教員陣に迎えたこの新学科は、地方から世界を動かす次世代のリーダーを輩出する革新的な学びの場となるでしょう。●元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/post-456.html
この芦田先生のテキストは、哲学者ハイデガーの思想を軸に、大学教育の本質と「新人」の誕生について論じています。著者は、教育とは単なる即戦力の育成ではなく、既存の伝統や慣習を再解釈し、**「終わりから始まりを切り拓く者」を見出すプロセスであると定義します。特に、社会から隔離されたキャンパスという「遊動空間」が、機能主義的な時間から学生を解放し、新たな可能性を育むために不可欠であると説いています。また、SNSがもたらす「忙しい退屈」が現代を侵食する中で、深い退屈や余白を耐え抜くことが真の創造性へと繋がると指摘します。最終的に、学力に関わらず誰もが自己を更新し続ける「新人」**になれる場所として、大学の開放性を強く肯定する内容となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/twitterx12.html
芦田先生による「Twitter(現X)微分論」第4章は、オンライン上の自己変容と現代教育の機能不全を鋭く分析しています。著者は、体系的な知識の蓄積を軽視し、「納得」や「コミュニケーション能力」を偏重する現代社会が、若者の内面を肥大化させたと指摘します。24時間プッシュ通知に縛られるIT環境は、「現在」を細分化(微分)することで「死」や「他者」といった根源的な不在を忘却させる装置として機能しています。しかし、Twitterのタイムラインという極限の現在性は、既存の権威やストックを解体し、馬鹿も賢者も平等にする革命的な可能性と危うさを孕んでいます。この議論は、ハイデガーの**「エネルゲイア(完動態)」論**を通じて、教育や大学の在り方を問い直す第5章への期待へと繋がります。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx4.html
芦田先生による本論考は、Twitter(現X)というメディアの特性を、日本のマークシート試験に見られる**「近代的自由と平等」の観点から鮮やかに分析しています。著者は、個人の出自や長い時間の蓄積である「人間性」や「専門性」を評価の対象から外すことが差別を打破すると説き、一瞬の数値や短文で決まる「短い時間」こそが敗者復活を可能にする究極の民主主義であると主張します。従来のデータベース型メディアとは異なり、Twitterは「いま」という瞬間を微分して共有することで、権威や階級を解体し、異質な他者とのフラットな交流を実現させました。このように反省やストックを排した身体的なリアリティこそが、検索主義の限界を超えたTwitterの本質であると結論づけています。続く第4章では、この「現在」に特化した自己がいかに死を忘却し、ヘーゲル的な「存在しない今」**へと接続されるのか、さらなる哲学的な考察が期待されます。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/-twitterx6.html
本稿は、芦田先生による「Twitter(現X)微分論」の第2章を基に、「環境」と「データベース」の本質的な時間構造を解き明かしています。著者は、環境とは事後的に発見される**「忘却と無視」の体系であり、人間が健康に生きるための条件であると説きます。対照的に、現代の機能主義的なデータベースは、あらゆる過去を検索可能な「現在」へと引き戻すことで、後悔や無意識を排除しようとする欲望の現れです。この考察は、効率化を極めるテクノロジーが人間の有限性をいかに塗り替えているかを鋭く指摘しています。続く第3章では、こうした時間論が近代の学歴主義や自由・平等の問題**とどう接続されるのか、さらなる議論の展開が期待されます。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat17/twitterx2.html
このテキストは、2010年代初頭、話題となった、芦田先生の「Twitter(現X)微分論」の第1章を解説したもので、形而上学の歴史的変遷と機能主義の現代的限界を鋭く考察しています。アリストテレス本来の「第一哲学(存在論)」が編纂上の都合で「形而上学」へと変質し、現代の「存在忘却」に至った過程を浮き彫りにします。後半では、近代を象徴するサイバネティクスや機能主義を批判的に検討し、人間と機械を同一視する行動主義の論理を解き明かしています。特に、人工知能が直面する「フレーム問題」を通じて、無限の副産物を無視して行動できる人間特有の「驚き」や「忘却」の能力の重要性を説いています。本書は、情報化社会の底流にある計算機的な世界観**に疑問を投げかけ、真の存在論へと回帰するための思索を促しています。全5部の導入として、後続の議論への期待を抱かせる構成となっています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat40/twitterx1.htm⁠l
この文章は、人間環境大学の芦田先生が、同大学の横光健吾先生による編著書**『代替行動の臨床実践ガイド』を読み解き、その内容を批評したものです。著者は、依存症対策としての認知行動療法が、意志の力に頼らず「刺激統制」や「行動コスト」の調整によって日常の誘発要因を遠ざける仕組みを詳しく解説しています。一方で、この手法が前提とする人間観の単純さや、要因を特定する過程で生じる解釈の難しさといった限界についても鋭く指摘しています。最終的に、学問的な厳密さや歴史的視点の重要性を説きつつも、気鋭の研究者である横光先生の今後の活躍に大きな期待を寄せる内容となっています。執筆スタイルやマインドフルネスの扱いに関する議論も含め、専門的かつ教育的な視点から構成された多角的な書評**です。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat6/-2022.html
この芦田先生の記事は、ドラマ『メシア』を通じ、信仰の成立過程を論じています。信仰の根拠は教祖個人ではなく、周囲の人間による解釈や役割から生まれると指摘。太宰治のユダ論を引用し、死への態度や弟子の存在が「救世主」を形作るという超越論的な構造を解説しています。元記事は以下の通り。Netflix『メシア』。これは内容的に超大作というか問題作というか、最初みたとき衝撃を受けました(最近三回目をみています)。イエスの誕生か、それともキリストの誕生か(そんな遠藤周作の名著がありましたが)、どうして、イエスがキリストになったのか(つまり哲学的には超越論的、存在論的問題なのですが)をまともに扱った超大作です。かつてブルトマンらが〝史的イエス〟問題として扱った問題。この作品のテーマは直接キリスト教ではないのですが。それに、ミシェル・モナハンが最高に素敵です。この作品のシーズン2は、もろもろの問題で出ないのではないか。切望しているが。どんな〈信仰〉にも、ペテロやパウロみたいな人物が必要になるということ、かな。この作品の意味は。〈信仰〉の〝根拠reason〟は、後から〈教祖〉と言われる人物をいくら史的に検証しても出てきはしない。周りの人間が後から作ったものだ。教祖の〝能力〟は、周りの人間の能力に他ならない。キリスト教神学的には、〈信仰〉は、〈復活〉とほぼ同義語だが、復活はすなわち人間の〈死〉の解釈の一つだ。おのれの死に向かう態度の通俗板が〈信仰〉だとも言える。太宰治は、イエスの本質を、裏切り者とされるユダの存在に見たが、それも同じ事だと思う。「きれい事ばかり言いやがって」とユダはいつも思っていたのだ。そのきれいごとを現実的に支えているのは私(ユダ)だと。ペテロやパウロより、太宰にとってはユダの方がほんとの弟子だったのだ。〈女〉を幸せにできなかった太宰らしいユダ論だった。 
日本共産党の二段階革命論は、民意が得られるまで天皇制廃止などの主張を伏せ、啓蒙を通じて段階的に目標を遂行する戦略です。批判者はこれを、自分たちを「目覚めた存在」と過信する前衛主義的で不誠実な姿勢だと指摘します。真の革命とは、国民を操作の対象とする戦術ではなく、太宰治が説いたように自己を律し、現実と誠実に向き合う静かな変化であるべきだと論じています。芦田先生の元記事は以下。この動画インタービューで、田村智子さんが示している革命論を「2段階革命論」といいます。現時点では国民の民意が得られない日米軍事同盟廃棄、これについて私たち共産党は廃棄の立場ですけど、民意が得られない現段階では廃棄しません、というもの。これと同じように天皇制廃棄も、現段階では廃棄しないと。もう一つ、自衛隊も明白に日本国憲法違反だけど、自分たちが政権を取ったあと、民意を得て、一度自衛隊を解散させて、その後軍隊を持ちます、との立場。これが二段階革命論です。二段階革命論自体は、スターリンコミンテルン(共産主義インターナショナル)の革命論のプロセスで出てきたものです。二段階革命論の中身を簡単に辿ると、まだ国民(民衆)は、時の権力イデオロギーに染められているので、共産党が政権を取る過程で、啓蒙し、その中で(真の)多数派を形成して、日米軍事同盟廃棄、自立した軍隊の構築、天皇制の廃止するというもの。民意が目を覚ますまで啓蒙しつつ待つということ。二段階革命論の迷妄はあきらか。自分たちだけは権力イデオロギーに染められてないという超越はどこで生じたのか(いつ自分たちだけが目覚めたのか)、さっぱり説明できない。結果、民意の尊重ということは、見せかけということになります。国民政党ではないということです。「天の声にも変な声がたまにはあるなぁ」と自民党の1978年総裁選嘆いたのは福田赳夫でした。橋本龍太郎は総選挙で負けて、「ちくしょー」と言いかけて悔しさを滲ませました(1998年)。選挙(多数決)というものの結果は、いろいろな意味でしみじみとかみしめるもの。共産党にはこういうしみじみ感はなくて、「私たちの活動が足りなかった」「敵のイデオロギーが強かった」ということになります。さらには、小選挙区制は死票が多いから、民意ではないとまで言いはじめます。いつも、自分たちは正しいという立場です。その証拠に、総選挙で負けて、共産党中央委員会委員長が辞任したことは一度もありません。橋本龍太郎は潔く即辞任したのに。もし本気で日米同盟廃棄、憲法改正、天皇制廃止と考えているのなら、最初からそう言えばいいし、正々堂々と論陣を張ればいいのに、そこを避けるわけです。論陣を正々堂々と張る中で、共産党自身の〝理論〟や〝革命の原理〟も成長、進化するはず。そうしないで、民意を戦術的な対象としかみなさない。これを前衛主義とも言うわけです。トロツキーは、ロシア共産党はすべてを変えたが、唯一変わらなかったのはその共産党自身だった、と言いました。革命とは矛盾なのです。『灰とダイヤモンド』(1958年)のマチェクの空虚な死もまたその革命の矛盾を生きたからこそだった。ついでに言えば、私はこの二段階革命論について考える度に、太宰治(太宰は共産党に入党はしなかったが、寄付(金銭カンパ)を毎月していた)をの二つのテキストを思い出す。世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、 「世間というのは、君じゃないか」  という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。 (それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?) (そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ) (世間じゃない。あなたでしょう?) (いまに世間から葬られる) (世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?) ― 『人間失格』第二の手記1948年よりもう一つは、ただ、言葉で、かくめい、かくめい、と、うわごとのように、つぶやいているだけでは、それは、何もしていないのと同じことです。本当に、かくめいを行おうと思っているならば、もっと生活の、つまらない、些細な、目立たない部分から、一つ一つ、きびしくあらためて行かなければならない。昨日よりも、今日、今日よりも、明日、というように。本当のかくめいは、もっと、ずっと、しずかな、そうして、もっと、ずっと、おそろしいところから、はじまるものなのです。言いわけをしないこと。卑怯なふるまいをしないこと。自分を、ごまかさないこと。それは、とても、むずかしいことです。けれども、その、むずかしいことを、ただ、黙って、少しずつでも、やりはじめること。それが、かくめいというものの、ほんとうの姿なのです。私は、そう信じています。 ― 太宰治『かくめい』(1948年)より
音声概要の元記事(BLOG『芦田の毎日』)の全文は以下である。------------憲法第九条第二項を改正しないというのは、自衛隊員の人権を無視していることと同じだということについて、リベラル派は何も考えついていないのでは。自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置いて、自分は平和主義者だというのは、アホだと思う。どこがリベラルなのだ。「自衛隊は軍隊ではない」と言って、軍事裁判制度がない状態で自衛の「交戦権」は認めるというのだから、アホな話だ。日本の平和主義と自衛権に関わる軍事行動というものを軍事裁判なしでどう裁くのだ。〝自衛〟であれ、〝侵略〟であれ戦闘行為を認めるのなら、軍事裁判の担保なしにはあり得ない。いちいち〈殺人罪〉で起訴されることを心配していたら、戦闘行為に入ることなどできないからだ。この不合理を見て見ぬ振りするには、自衛隊員を〝国民(=市民)〟の外に置くしかないのだ。これは、リベラルとは言えない。侵略者を裁く前に、自衛隊員を拘束しているわけだ。そもそもこの占領軍(1945年~1952年)の条文(GHQ草案)は、まだ中国が共産化していないときの、アメリカの日本論を表現しているだけの条文であって、平和主義とは何の関係もない。1949年以降(中華人民共和国成立以降)の日本の再軍事化(反共の砦としての)は、アメリカの東アジア戦略の中で生じたもので、これもまたアメリカの日本論の中で変化したに過ぎない。日本の自衛権としての戦力論は、戦後一度も自律的に考えられたものではない。憲法第九条第二項の位置づけとそれにかかわる平和主義は、よじれによじれている。これに気付かないで、日本の左翼のリベラリズムが存在している。日本の自立を謳うこと自体が〝右翼〟であるかのように。そのことによって実質的に自衛隊員の人権が疎外されているのである。
芦田先生の記事は、中道改革連合を組織依存の強さから国民政党ではないと断じ、その「平和」の訴えを共産党以上のポピュリズムと批判します。多様性を抱える自民党の寛容さを評価する一方、日本のリベラリズムの思考停止を指摘。保守の本質は天皇制や歴史に裏打ちされた感情性にあり、実力不足な左翼では太刀打ちできないと論じています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-470.html
提供された芦田先生のテキストは、増え続ける訪日外国人観光客を貴重な財源と捉え、消費税減税を批判的に論じています。著者は、消費税を外国人や富裕層から確実に徴収できる重要な税収源と位置づけ、安易な引き下げは経済的に合理的ではないと主張しています。特にインバウンド需要による税収は自動車輸出に匹敵する規模であるため、これを福祉政策などの財源として活用すべきだという視点を示しました。さらに、低所得者対策には減税ではなく給付付き税額控除で対応すべきだと提言しています。結論として、円安傾向の中で観光立国としての強みを活かし、戦略的に税制を運用することの重要性を説いています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/podcast.html
このテキストは、芦田氏が1999年から四半世紀にわたりブログ**『芦田の毎日』を書き続けてきた背景と動機を詳述したものです。その発端は1995年のグループウェア導入に遡り、学内掲示板での書き込みが公私混同との批判を浴びた経験が、独自のメディアを持つきっかけとなりました。著者はネット上での「公」と「私」の境界線や、言葉のあり方について深く考察し、哲学的な論文の文体と日常的な話体を融合させる新たな表現を模索しています。SNSのような断片的な発信が主流となる中で、ブログという形式を通じて思考の質を維持し、体系的な記述にこだわり続けてきました。2026年のサイトリニューアルを機に、これまでの歩みを振り返りながら、情報化社会における言葉の表出方法**への飽くなき探求心が綴られています。元記事のリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/about.html
この芦田先生の記事は、令和四年度から導入された高校普通科の再編がもたらす深刻な懸念を批判的に考察しています。著者は、普通科が四つの新学科に分化されることで、主要科目の授業時間が削減され、生徒の基礎学力が著しく低下することを危惧しています。学校教育だけで十分な学力を補えなくなる結果、家庭の経済力に応じた教育格差がこれまで以上に固定化されると論じています。最終的に、この政策は学力の不足を「個性」という言葉で包み隠し、教育の質の低下を招くものであると厳しく指摘しています。元記事のリンクはこちら→https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/4-2.html
この資料は、高市氏が提唱する衆議院解散の正当性について、二つの段階に分けて論じたテキストです。主な内容は、少数与党の現状を打破し、自民党内の緊縮財政派や親中派といった抵抗勢力を一掃して、自らの政策を強力に推進することの必要性を説いています。特に、財務省主導の財政方針から脱却し、「責任ある積極財政」への転換を通じて、国民の暮らしと経済安全保障を守る重要性を強調しています。また、野党や党内の反対派に対抗するため、選挙を通じて国民から直接的な信任を得るべきだという強い主張が示されています。最終的には、単なる政権維持ではなく、ガソリン税廃止などの即効性のある物価対策を実行し、国の誇りと独立を維持することを究極の目的としています。元記事へのリンクはこちら→ https://ashidahironao.sakura.ne.jp/blog/cat3/post-469.html
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