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リジョイス聖書日課
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リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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ああ、恐るべき日よ 主の日が近づく。 全能者による破滅の日が来る。 (ヨエル書1章15節) 思いがけない失敗や行き詰まりを覚えるときに、「天を仰ぐ」と表現することがあります。当たり前と思っていた日常生活や楽しみが、ある日突然失われる。そんなどうしようもない状況に直面したとき、私たちは天を仰ぎます。 「ヤハウェは神」を意味する名の預言者ヨエルは、未曾有の国難を前に、人びとが天を仰いで嘆く姿を描きます。いなごと干ばつという国の壊滅的な状況を、ヨエルは来たるべき「主の裁きの日」の前触れとしてとらえます。人の力を超えた災いを前に、私たちは無力です。主の裁きを前に、祭司たちは主の民に、神殿に集まり、神に立ち帰り、主に嘆きの祈りをささげるよう、呼びかけます(14節)。 全能者である主の裁きを前に、罪ある私たちは、憐れみを乞うほかありません。しかし、キリスト・イエスに結ばれている者にとって、主の日はもはや恐怖の日ではなく、救いの日です(ロマ8章1節)。十字架の御業によって、罪の赦しが成し遂げられたからです。天を仰いでささげられた嘆きの祈りに、主は確かに耳を傾けられます(詩116編参照)。 目まぐるしく変化する時代にあって、御言葉は主に立ち帰るよう、きょうも呼びかけています。 【祈り】 主よ、天を仰ぎ祈る私たちに、十字架によって応えてくださり、感謝いたします。
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 (マタイによる福音書22章40節) ある律法の専門家が、主イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(37~40節)。申命記6章5節とレビ記19章18節が組み合わせられて、律法全体と預言者、すなわち聖書全体がこの二つの掟に基づいていると言われます。私たちは、聖書の教えを神への愛と隣人への愛を基とする教えとして理解します。また、神への愛のない隣人愛はなく、隣人愛のない神への愛もないと言えるでしょう。 主イエスは、私たちの主として、ご自分を十字架でささげて、完全な愛を示し、この最も重要な掟を完全に満たしてくださいました。その証しとして、御父は主イエスを栄光の体で復活させられました。そして、天におられる主イエスは、今や聖霊によって私たちの心にご自分の愛を注いでくださり、私たちが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することができるようにしてくださるのです。愛のない私たちが愛することができるとは、ただ神の恵みにほかなりません。 【祈り】 主イエスよ。私たちが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せますように。
陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。 (詩編139編8節) 私たちは常に喜びに溢れているわけではありません。闇に紛れてしまいたいと思うときもあり、神の御顔から隠れようとするときもあります。 「陰府」とは、死者が辿り着く場所、光も届かない暗闇が支配する場所、あるいは絶望が支配する場所であり、私たちが考えうる、神から最も遠く離れた場所です。一切の希望を失い、何のやる気もおきず、ただ横たわっているような時を過ごすこともあるでしょう。それは、一見すると、神への純粋で従順な信仰からは全くかけ離れたように見える状態です。 ところが、詩人は「見よ、あなたはそこにいます!」と言うのです。どこに隠れようとも、もう逃げ場はないという、神の裁きに対する恐怖ではありません。神の赦しの恵みと憐れみが、そんなところでも私たちを待ち受けていた!と驚くのです。 神の恵みはこんなところには届かないだろうと思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、従順ではないときにも、神を見失い、絶望しているときにも、まさにその場所で、神は私たちを憐れみと赦しの恵みをもって待っていてくださいます。陰府にさえも降られた主イエスをとおして(使徒信条)、神はそこに横たわる私たちをも、赦しの恵みへと招いておられます。 【祈り】 私たちの内にある深い闇を光に変えるほどの恵みをもって待っておられるあなたに目が開かれますように。
しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、…王の返書が送られてくるのを待った。 (エズラ記5章5節) エズラ記5章は、長く中断していた神殿再建が、再び動き出す場面を描いています。 まず彼らに与えられたのは、神の言葉でした。預言者ハガイとゼカリヤが語った神の言葉によって、ゼルバベルとイエシュアは立ち上がり、再び神殿の工事を始めました(1、2節)。このように、神殿再建の力は、神の語りかけから生まれました。 しかし、再建の働きはすぐに順調に進んだわけではありません。地方総督が現れ、本当に再建の許可があるのかと問いただしました(3、4節)。しかし、それでも工事は止まりません。「神の目がユダの長老たちの上に注がれていた」からです(5節)。人びとから疑いの目が向けられているそのときにも、神ご自身が彼らの働きを見守り、支えておられたのです。 工事が長く中断していた間も、神は沈黙しておられたのではなく、再び働きが進むように備えておられました。そして時が満ちて、作業を再開するとき、神のまなざしは彼らの上に確かに注がれていたのです。 私たちもまた、何かをやり直そうとするときには、自分の思いだけに頼るのではなく、まず神の言葉に耳を傾けたいものです。そして同時に、神の目が私たちの上に注がれていることを覚えましょう。 【祈り】 きょうもあなたの御言葉に聞き従い、あなたのまなざしの中を生きる者とならせてください。
そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。 (エズラ記4章24節) エズラ記4章は、神殿再建という主のための働きが妨げられ、中断に至る出来事を描いています。 周囲の人びとが協力を申し出たとき、指導者たちはそれを丁重に断りました(3節)。これは多神教的な礼拝を避け、イスラエルの神、主だけにささげられる純粋な礼拝を守るためでした。しかしその結果、妨害が起こり、ついには工事が停止させられてしまいました。 このように、人びとの反対によって工事が中断されることは、外から見れば神の民の敗北に思われるかもしれません。しかし、神の御心にかなった働きであっても、中断が起こることがあります。物事が思うように進まないからといって、それが神の御心でないとは限りません。 このことは、イエス・キリストの十字架を思い起こさせます。主イエスは人びとの反対によって十字架につけられ、そのときすべてが終わったかのように見えました。しかし主は、ご自分が苦しみを受けて殺され、三日目によみがえることを前もって語っておられました(マコ8章31節)。十字架は敗北ではなく、神のご計画による復活の栄光への道でした。 主は沈黙しているように見えるときにも働いておられ、やがて御心を成し遂げてくださいます。 【祈り】 苦難のときこそ、祈りと御言葉に立ち帰り、あなたの時を待ち望む者とならせてください。
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