神保町には、”静かな革命”を起こしていた女性たちによる、もう一つの文化がありました。声をあげずに書いた人たちのことです。料理をしながら、レシピの裏に自分の思いを隠していました。そこには台所から発信された文学がありあました。彼女たちを支えた神保町の場所とは?
神保町の名物ビアホール「ランチョン」、そのお店の奥のテーブルにいつも座っていた文士・吉田健一。「両手で食べるような料理は、食べ物として不便だ。片手にはビール、もう片手にはつまめる何を持つのが理想だ・・・」こう語っていたそうです、彼にとって、酒とは記憶の装置であり、忘却の鍵でした。
神保町の小高い場所に立つ小さなホテル「山の上ホテル」。アールデコ様式の建築で、多くの文士に愛されました。その中でも、強烈な存在感を放っていたのが、三島由紀夫。彼は書くために、このホテルにやって来て、作品と闘っていました。そして時折、ふらりと1階に降りて、「てんぷら山の上」へ。静けさの中で、どんな味を嚙み締めていたんでしょうか。
サラダと聞いて思い出す文学作品といえば、1987年に出版された歌人・俵万智さんの「サラダ記念日」。時代をさかのぼると、「万葉集」の有名な歌「きみがため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」、これは、新春の若菜摘みを詠んだもの、奈良時代の人たちも、サラダにして食べていたんでしょうか?
川端康成という作家は、無口で、ただじっと視て、自分の世界を振動させながら、作品を生みしていました。一度作品を発表してからも、書き足したりを繰り返す。そんな川端の有名な小説「古都」には、かつて京都・高瀬川沿いに店を構えていた板前割烹「瓢亭」の「笹巻き寿司」が登場します。ネタは、塩をあてた鯛だけ、その美味しさに川端は?
松本清張の推理小説「点と線」に登場する 有楽町のレストラン『レバンテ』。残念ながら閉店になってしまいましたが、このお店で出されていた「牡蠣」は、三重県・志摩にある今年創業100周年の「佐藤養殖場」の「的矢牡蠣」でした。そして、『牡蠣』といえば、フランスのパリ。東のストラスブールと西のブルターニュ、点と点を結んで線になるマリアージュとは?
「食べる」「摂取」「飲む」という3つの言葉から、未来の”食”の意味を考えてみましょう!「食べる」とは「身体と文化をつなぐ行為」。「摂取」とは、「食」をデータ化した言葉です。「飲む」は、未来の食の本命かも知れません。噛まずに済む、すぐ吸収される、身体にやさしく、消化の負担もない。でも、そこに”感情”や”物語”はあるんでしょうか?未来に向かって走る今こそ、あの”ひと噛み”を、もう一度・・・。
今回の大阪・関西万博で、小山薫堂さんのパビリオンの展示を観て来ました。そこで心を打たれたのは、「一杯のコーヒーを淹れるためには、140リットルのお水が必要なんです」という言葉でした。そこでふと思い浮かんだのが禅宗の黄檗宗の人たちが作る「普茶料理」。菜食のおもてなしには「命は借りもの」という思いが込められています。
昔の大阪では、お好み焼は「洋食焼き」と呼ばれていました。日本が太平洋戦争に突入する直前の昭和10年頃のこと。もともとは、駄菓子屋さんや屋台で出されていた「一銭洋食」が「洋食焼き」に変わり、戦後、高度経済成長とともに、家庭にも鉄板文化が広がり「お好み焼」に進化して行きました。実は「恋愛にも向いている料理」ってホント?
大阪・関西万博に行って来ました。第1回は、1851年のロンドン万博、日本での開催は 1970年「大阪万博」でした。あれから55年、今年の万博では「未来の食」というイベントが開催されていました。イタリアで1909年に起こった芸術運動「未来派」。ここでも「未来の食」という試みがありました。それは、なんと「布」の手触りで「味」を感じてみようという斬新なものでした。
一両編成の只見線。これを目当てに只見に来るリピーターも多いとか。森の中をゆっくり走って行きます。昔はこの辺りで桑を育てていたそうです。そんな自然の中で「かっぱらい」といえば?
只見町の南郷トマトは、60年の歳月をかけて試行錯誤して生まれました。そんな南郷トマトを使ったトマトジュースが絶品です。実は、夏トマトと秋トマトを使ったトマトジュースがあることを発見、その違いとは?
只見町で見つけた「なめこ茸」の缶詰。よく見ると「ひらき」と「つぼみ」の2種類がありました。その美味しさの違いとは?そして、只見で感じて欲しいのは「暮らし」、そこには都会にはない”ゆったりとした時間”が流れています。
福島県の南会津にある只見町に行って来ました。自然に囲まれながらホタルが飛ぶ姿を見ました。沢を歩き、川で泳いだあと、夏目漱石の「漱石」というペンネームについて思いを馳せました。その理由は?只見では、懐かしいポン菓子にも出会いました。
オブラートって、「じゃがいも」の「でんぷん」から作られていること、ご存知ですか?小樽には、日本でも数少ないオブラートを専門に作る会社があります。「伊井化学工業株式会社」、ここでは、地元のジャガイモからとれた「でんぷん」を使って「オブラート」が作られています。小樽には蒸気機関車も走っていました。走馬灯のようによみがえる街の思い出を「オブラート」は、今も優しく包んでくれています。
昭和の初め、日本が軍国主義へと舵を切る前夜、小樽で、ひとりの若者が鉛のように重い現実を見つめていました。その若者の名前は「小林多喜二」。彼の代表作「蟹工船」には、北洋の冷たい海の上で蟹の缶詰を作る漁業船団『蟹工船』での不条理な厳しい労働の姿がリアルな言葉で綴られています。文学とは何か?それは、決してページの上だけの出来事ではないのです。
明治から大正、昭和初期の教育者で、小樽の稲穂尋常小学校の校長を務めていた「稲垣益穂」。彼は1896年から亡くなる直前の1935年まで、ほぼ毎日日記を書き続けました。全部で55冊、当時の小樽の人々の暮らしぶりを綴った彼の日記には、小樽港で朝食を食べた時の様子も、詳しく書かれています。
小樽は、かつて「北のウォール街」とも呼ばれた所。大正・昭和初期の北海道経済の中心地でした。華やかなりし頃の当時が偲ばれる建物が「旧日本銀行小樽支店金融資料館」。こには金の延べ棒のレプリカも展示されています。そんな小樽で有名な海の幸といえば「バフンウニ」、金の延べ棒よりも価値があると思うくらいの旨さです!
豊中市、池田市、伊丹市にまたがる「大阪国際空港」通称「伊丹空港」。ここの滑走路から、1967年弥生時代に埋葬された人たちが何体も見つかりました。豊中市郷土資料館に展示していあります。この辺りは弥生時代、多くの人が住むほど豊かな所だったから「豊中」という名前がつけられたのかも知れません。
大阪・豊中市と吹田市に跨る「千里ニュータウン」、1960年代に、千里丘陵に開発された街で。現在も10万人の人が暮らしています。当時は「多摩ニュータウン」「港北ニュータウン」に「アメリカン・ニューシネマ」「ニューミュージック」「ニューウェーブ 」と、「ニュー●●」が大ブームでした。