Discoveryes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ
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Author: TOKYO FM

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Description

風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。 誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。 YESとNOの狭間で。 今週、あなたは、自分に言いましたか? YES!ささやかに、小文字で、yes!明日への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語をお聴きください。
202 Episodes
Reverse
千葉県、我孫子駅にある立ち食い蕎麦の人気店、『弥生軒』。この店で働いたとされる、放浪の画家がいます。山下清(やました・きよし)。弥生軒は、昭和3年に創業。当初は、我孫子駅構内で弁当を販売していました。山下清は、昭和17年からおよそ5年間、住み込みで働いていたと言われています。弥生軒の初代社長は、戦中、戦後の食べ物がない時代を経験。来るものは拒まずの精神で、ただお腹いっぱい食べられそうだ という目的だけでやってきた山下を、こころよく受け入れました。山下は、3歳のとき、病で生死の境をさまよい、その後遺症で軽い言語障害、知的障害を患います。弥生軒でまかされたのは、弁当を売ることでもお金を勘定することでもなく、たとえば、大根切り。店のひとにお願いされると、包丁を華麗に操り、最後の芯のところギリギリまで切ったそうです。繊細でひとなつっこく、いつも笑顔で、周囲を和ませました。突然、ふらりといなくなったかと思うと、必ず半年後に戻ってくる。それを5年間、繰り返したといいます。その間に、山下は、画家として脚光を浴び、画伯になっていました。弥生軒のみんなが「すごいねえ、立派になったねえ」と言っても、どこ吹く風。「ボクは何も変わらないんだけどなあ」と、必死に大根を切ります。弁当に掛ける掛け紙に絵を画くことになり、春夏秋冬、我孫子の自然を描きました。手賀沼公園の秋を画いたあと、病に倒れ、49歳で他界。冬の掛け紙は、永遠に描かれることはありませんでした。放浪に出かける前の晩は、決まってこう言ったそうです。「今夜は、月がきれいですね。星もきれいですね」半ズボンに坊主頭、リュックを背負っておにぎりを食べる、放浪の画家・山下清が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
55歳から、全く違う人生を歩み、偉業を成し遂げた先人がいます。伊能忠敬(いのう・ただたか)。昨年、没後200年を迎えた伊能は、現在の千葉県香取市佐原で酒造業を中心とした商いで身を立て、地域の発展に大きく貢献しました。50歳で家督をゆずり、江戸に発ちます。そこで、天文学、暦学、測量学を学び、55歳のとき、東北に向かい、日本地図の作成を始めるのです。最初の測量の旅から、実に17年あまりをかけて、史上初めての実測による日本地図を完成させました。歩いた距離は、およそ地球を一周半。一回目の測量は、自分の歩幅を40センチに定め、愚直なまでにただ歩いて測るというものでした。体はボロボロ、精神的にも、いますぐやめてしまいたいという自分の心との闘いの連続でした。それでも彼は前へ前へ、一歩一歩進んでいったのです。千葉県香取市には、伊能の足跡を知る「伊能忠敬記念館」や、住んでいた旧宅、銅像などが点在しています。なぜ、そこまでして、測量に命をかけたのか…。どうして、55歳になって、もう一度人生を生き直そうと試みたのか。そこには彼が過ごした、厳しい少年時代の記憶が関係しているのかもしれません。傾きかけた、伊能家を見事に復活させた商人としての手腕には、彼の人生に対する思いがありました。「この世に役立つことをしたい。自分が生まれてきた意味を残してから死にたい。」のちに、彼が偉業をたたえられ、どうして成し遂げられたと思いますか?と尋ねられたとき、こう答えたといいます。「私は、私がほんとうにやりたかったことをやっただけです」日本地図を作った男、伊能忠敬が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
岐阜県出身と言われている戦国武将に、一世を風靡した茶人がいます。古田織部(ふるた・おりべ)。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、千利休の愛弟子として茶の湯を学んだ才人。最近では、漫画『へうげもの』が話題になり、にわかに脚光を浴びています。へうげもの、とは、「ひょうきんなひと」「わくにとらわれない、変り者」「ひしゃげたもの」という意味。その言葉どおり、織部は独特の感性で、庭園や焼き物、建築に新しい息吹を与えました。深い緑色が特徴の織部焼。その形はいびつで、大胆。ときに、一度焼きあがったものを割ってしまい、それをつなぎ合わせることで、わびさびを表現しました。縄文時代の土器を思わせるフォルムと模様。当時のひとたちに与えた衝撃は、はかりしれません。岐阜県本巣市の道の駅「織部の里もとす」は、文字通り、古田織部ゆかりの場所です。施設の向かいにあった山口城で生まれたとされる織部。この道の駅の織部展示室では、彼の人となりをさまざまな角度から紹介し、織部焼や、織部風の茶室や茶道を知ることができます。彼が破天荒な道に進むきっかけは、師匠である千利休のこんな言葉でした。「ひとと違うことをしなさい」整然として、静かで落ちついている。そんな茶の湯を説いた、千利休。それを継承しながらも、織部が向かった道は、誰も歩いたことのない、いばらの道でした。大坂夏の陣で、豊臣側への内通を疑われ、徳川幕府に切腹を命じられた男、古田織部。彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
岐阜県の南西部、広大な濃尾平野に位置する、北方町。岐阜県の中で最も小さなこの町に生まれた、伝説のフォークシンガーがいます。高田渡(たかだ・わたる)。反戦歌『自衛隊に入ろう』、沖縄出身の詩人、山之口貘(やまのくち・ばく)の詩に曲をつけた『生活の柄』など、数々の名曲は、今も若者たちの心をつかんで離しません。北方町では、月に1回「WATARU CAFE」が開かれ、高田渡の歌や生き方を継承しています。群れるのを嫌がるひとでした。口先だけで行動しないひとを、静かに軽蔑するひとでした。嘘や欺瞞、権力にへつらうひとには、容赦ありませんでした。ただ、大声をはりあげたり、声高に生き方を説くような歌い方はしませんでした。あくまで淡々と、日常に向き合い、己を見つめる。そんなストイックな語り口は、彼の心のさみしさとせつなさを具現化していたのです。とにかく、お酒が好きでした。56歳でこの世を去る、その少し前も、ステージで歌い続けました。ヘロヘロでリハーサルを終えても、本番には考えられないような歌声を披露する。「ボクの肝臓の値はね、寺山修司を越えたんだよ」周囲をなごませるユーモアをいつも忘れませんでした。ひとなつっこく、誰にでも優しい。特に、うまく生きることができないひとへのまなざしは格別でした。「いいんだよ、人生なんてもんは、うまく生きられないやつが上等なんだ。生き方が上手なんて、なんの誉め言葉でもないんだよ。ただね、ひとりを怖がっちゃいけない。ひととつるんでばかりだと、人生は逃げていくよ」多くのミュージシャンに影響を与えた反骨のフォークシンガー・高田渡が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
来年の大河ドラマの主人公は「本能寺の変」で有名な、明智光秀です。大河ドラマ59作目にして、初めての主役。光秀は、天下の謀反人と言われながら、実はその多くが謎に包まれています。今回再び、脚光を浴び、新しい史実や研究の成果が次々と発表されました。その多くが、謀反を起こした理由についてです。最近発見された『石谷家文書(いしがいけ・もんじょ)』によって、織田信長は四国攻めを計画しており、それを阻止するために、明智光秀が変を起こしたのではないかという説も浮上しました。謀反を起こした悪人としてのみ印象づけられた光秀ですが、たとえば、京都の福知山市では、御霊神社に光秀が祀られています。由良川の堤防をつくり、ひとびとを水害から救い、町を守ったことを、地元のひとは忘れなかったのです。岐阜県可児市は、光秀が生まれ、およそ30年過ごしたとされる、彼の故郷です。北を流れる木曽川。中央には可児川。豊かな自然と、名古屋エリアのベッドタウンとしての利便性を併せ持つ、可児市。いまも戦国時代の名残をとどめるように、リクリエーションとしてのチャンバラ合戦が多く開催され、大人から子どもまで笑顔で参加しています。その平和な景色を眺めたら、光秀はどう思うでしょうか?もしかしたら、彼ほど戦を嫌い、平和を望んだひとはいないかもしれません。幼い頃から古今東西の書物に触れ、また、自らの足で諸国を巡り歩き見識を広めた才人としての一面は、あまり知られていません。城を築く才覚は、並外れたものがあったといわれています。「天王山」で秀吉に負け、「三日天下」と揶揄(やゆ)された謀反人、光秀は、何を思い、何を考え、50年あまりの生涯を終えたのでしょうか。彼が私たちに問いかけるものとは…。そして、明智光秀が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
今年の秋、大規模な改修工事を終え、リニューアルオープンする岐阜県美術館は、ある画家の有数なコレクションで知られています。その画家の名前は、オディロン・ルドン。ルドンの代表的な作品は、幻想的で奇妙。黒を基調としたキャンバスには、大きな眼が描かれています。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』で有名な「目玉おやじ」は、ルドンから着想を得たとされていたり、人気漫画『寄生獣』を描いた岩明均にも、多大な影響を与えたと言われています。ルドンは、1840年生まれ。印象派の巨匠、クロード・モネと同じ年に生まれました。モネが、見たままをいかに表現するかに命を削った一方で、ルドンは、いかに目に見えないものを創造するかに心を砕いたのです。モネは光を求め、ルドンは暗闇を描きました。岐阜県美術館のコレクションには、見るひとを異次元にいざなうような、いくつかの石版画があります。『おそらく花の中に最初の視覚が試みられた』という作品では、植物の花にあたる部分に大きな目玉が描かれています。上目づかいの瞳は、いったい何を見つめているのか…。幼くして里子に出されたルドンのやすらぎは、暗闇の中にありました。闇に身をあずけ、膝をかかえ、いつも上目づかいに世界を眺める。そんな時間を持つことで彼が手に入れたのは、「見えない世界にこそ、真実がある」という世界のしくみへの入り口でした。彼の絵は、見るものに問いかけます。「あなたは、ちゃんと世界を、人間を、見ていますか? まさしく今、隣にいるひとの心が、見えていますか? ほんとうの眼を持っていない人間は、しょせん何も見えてはいないんですよ」。ひとと同じに生きることを拒み続けた孤高の画家、オディロン・ルドンが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
「木曽路はすべて山の中である。あるところは、岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間(すうじゅっけん)の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」。有名な書きだしで始まる、小説『夜明け前』。作者は、現在の岐阜県中津川市馬籠出身の島崎藤村です。彼は生まれ故郷の様子を、まるで鳥が谷間を飛びながら眺めるように描写しました。馬籠は、木曽路の宿場町。かつてはにぎわいを見せていた街道も、島崎の幼年時代には、鉄道や国道の新設にともない、さびれつつありました。彼がこの地に暮らしたのは、幼少期の数年でしたが、木曽山中の景色や匂い、伝統や人々の暮らしは、人格形成に多大な影響を与えたと言われています。北アルプスの一角。山脈に挟まれた谷での生活は、厳しい寒さとの闘いが常でした。山肌を縫うように道がうねっている。屋根には風雪に耐えるように、重い石がのっている。ひとびとは、自然と向き合い、自然と喧嘩せぬよう、置かれた環境の中で必死に生きていく。彼は、こんな言葉を残しています。「弱いのは決して恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ」。生まれると、兄弟それぞれに乳母がつくような名家の出身でしたが、気が弱く、人の目が気になり、まわりの人の言葉を信じることができない、繊細な子ども。いつも、他人と自分の違いばかりを数えあげ、疎外感に打ちのめされていました。そんな島崎が、明治、大正、昭和を生き抜き、しかも、浪漫主義の詩人、自然主義文学の大家、偉大な歴史小説家と、絶えず自分の変革を遂行したのです。彼が大切にしたのは、自分の弱さでした。弱さから逃げないことで彼は自分を律し、成長のための努力を惜しまなかったのです。文豪・島崎藤村が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
松江豊寿(まつえ・とよひさ)。彼は、福島県若松市、現在の会津若松市の第九代市長として、上水道の敷設に尽力し、白虎隊の墓がある飯盛山の整備にも力を注ぎました。いわば、会津若松市の土台を築いた偉人です。しかし、彼を崇めてやまない、もうひとつの場所があります。松江が陸軍の軍人だった頃、俘虜収容所の所長を勤めた赴任先。徳島県鳴門市です。鳴門市の坂東俘虜収容所には、千人にも及ぶドイツ人が収容されていました。松江は、当時ではおよそ考えられないことをやり遂げました。彼等ドイツ人に人道的な対応をしたのです。彼はある収容所を見学した際、ひもでつながれ、同じ粗末な服を着せられた俘虜たちを見て、心を痛めました。「いまは、ただ、このような立場であるが、いつなんどき、その立場が入れ替わるやもしれん。そのとき、どう思うか。常に相手の立場になって考え、己の義に背くようなことはしないこと。それこそ、会津藩の魂である」彼が俘虜たちに自由を与えた結果、ベートーヴェンの交響曲第九番合唱付き、いわゆる『第九(だいく)』が、日本で初めてフル演奏されるという歴史をつくったのです。昨年、その演奏会から、ちょうど100年でした。その記念コンサート。『よみがえる「第九」演奏会』では、ドイツ人と日本人が一緒に『歓喜の歌』を歌いました。その中には、当時俘虜だったドイツ人のお孫さんもいたのです。俘虜たちは、松江のことを忘れませんでした。100年の間、交流は途絶えることなく、続いたのです。今、もし松江がその演奏会を見たら…。涙を流し、『歓喜の歌』を歌うひとたちを見たら、どう思うでしょうか。数々の悔しさを信念に変えた会津の偉人、松江豊寿が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
ハリウッド版『ゴジラ』の新作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が、5月31日、日本をはじめ、世界で同時公開されます。世界中のファンを魅了し続ける、ゴジラ。1954年、日本初の本格的特撮怪獣映画として公開された『ゴジラ』は、空前の大ヒットを記録しました。映画館がある日劇の周りには、幾重にも観客の列が渦を巻き、邦画として初めての全米公開作品になったのです。その産みの親こそ、福島県出身の特撮の神様・円谷英二(つぶらや・えいじ)です。今年1月、彼の故郷、福島県須賀川市に『円谷英二ミュージアム』が開館しました。展示の目玉は、高さおよそ2メートルの初代ゴジラを模したスーツです。市民センター内にあり、入場は無料。円谷の生涯を7つのブロックに分けた展示や特撮スタジオの再現など、見どころは満載です。円谷は、幼い頃から何処にも出かけず、ひとりで遊ぶことが多く、ひととの関わりが苦手でした。本心を明かすことはめったになく、いつもテヘラテヘラと笑ってごまかすことから、先輩の映画監督には「おまえは、テヘラ亭だ!」と揶揄されました。上京したのちも、訛りがとれず、言葉じりを笑われたことで、さらに会話にコンプレックスを持つことになったと言われています。映画製作チーム全体をまとめる監督、というタイプではなく、あくまでも職人気質。撮影の細部へのこだわりは、まわりを震え上がらせるほどでした。言葉が少なく、映画会社から誤解され、劣悪な撮影環境に置かれても、その逆境をバネにあらゆる撮影技法を生み出していきました。セットにお金がかけられないなら、カメラの前にガラス版を置き、そこに絵を画くという「グラスワーク」でしのぐ。予算が少なく奥行きが出ないのであれば、ミニチュアで遠景をつくってしまう。まさに、このミニチュアづくりこそが、後の特撮の原点になったのです。どんな状況にあっても、自分のやるべき信念を追い求める、特撮の神様・円谷英二が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
新しい年号にともない、紙幣の肖像も変わります。千円札は、北里柴三郎になりますが、現行の千円札の肖像として親しまれているのが、野口英世です。北里と野口は、長きにわたり、師弟関係にありました。野口は、1898年4月、北里が所長を務める伝染病研究所に入職し、研究に従事しました。野口が1900年に渡米留学するときも、便宜をはかり、彼の研究を支えたのです。野口英世は、福島県三ツ和村、現在の猪苗代町に生まれました。猪苗代湖の湖畔には、彼の記念館が建てられています。ノーベル賞の候補にもなった、世界的な医学者の足跡を知ることができる展示も人気ですが、何より目をひくのは、生家の床柱。そこに、19歳の野口が上京する際に刻んだ文字が、当時のまま保存されているのです。曰く、「志を得ざれば、再び此地を踏まず」。自分は、医者になれなければ二度とふるさとには帰ってこない、強い決意を心にしっかりとどめるように、弱い自分に鞭うつように、ナイフで文字を書きました。大きな火傷を負い、左手をほとんど使えなかった幼年時代。多くのひとの力を借りて医学者になってからも、苦難の連続でした。それでも彼は志を全うすべく、努力に努力を重ね、黄熱病と梅毒の研究に邁進したのです。特に黄熱病との格闘はすさまじく、結局、自身も黄熱病に倒れ、51歳の若さでこの世を去ります。彼は、こんな言葉を残しています。「家が貧しくても体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸いも災いも、自分から作るもの。周りの人間も周りの状況も、自分から作りだした影と知るべきである」医学に命を捧げた偉人・野口英世が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
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