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リジョイス聖書日課
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リジョイス聖書日課

Author: RCJメディアミニストリー

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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合った…。」 (サムエル記上20章42節) 互いの存在を賭けた、緊張感に溢れる魂のつばぜり合いをなす箇所です。ダビデとヨナタンは、友情を確かめ合います。そして同時に、駆け引きし、家族一族に関わる安全の保証(16節「家の契約」)まで結びます。そのようにして、ダビデの危機回避の綿密な計画を立てます。しかし、それは、二人にとっての王、ヨナタンにとっては父であるサウルをだます計画です。その上ダビデは、サウルを欺くために、神への献げものを偽りの言い訳にするという計画です。 ヨナタンは、単に親の愛を捨て、友の愛を選んだのではありません。ダビデが、あの宿敵ゴリアトを倒したとき、すでに「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」のです(18章1節)。一介の羊飼いの少年が、神への崇高な畏敬の心を持っていることに、ヨナタンは激しく同調したからです。ヨナタンもおそらくダビデと同じ信仰、神を畏れる信仰を持っていたに違いありません。 だから、二人の緊張の対話の中にも、「主は生きておられ」「主の御前で」「主が共におられるように」「主は生きておられ」「主がとこしえにおられ」「主の御名によって誓い合った」という言葉がほとばしるのです。 【祈り】  神の御心のままに、御言葉どおりになりますように。
彼の上にも神の霊が降り、…着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。 (サムエル記上19章23節~24節) 父サウルを説得する子ヨナタン。友ヨナタンと友情を深めながら、王サウルに真摯に仕えるダビデ。悪霊により、猜疑と妬みを深めて殺意を持つサウル。父サウルと夫ダビデの間で葛藤しながらも、偶像テラフィムを手離さず、結局わが身を守るミカル。預言者集団を導きながら、しかし、ダビデへの力強い助言も、サウルへの研ぎ澄まされた叱咤もない預言者サムエル。死すべき人間の思いが交錯する中で、自ら油を注いだことに忠実に責任を負われる神、その神の慈しみだけが際立っています。 神はダビデを愛し守られます。しかし、かつて油を注がれたサウルにも、確かに神のまなざしが注がれています。「主からの悪霊がサウルに降った」(9節)とあるように、神は悪霊にサウルを試すことを許されました。そして、今ダビデが身をよせるサムエルのもとにサウルが向かうときに、「彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になった」のです。どうして神は、王として退けたサウルにここまで関わられるのでしょうか。神は、ご自身がかつて油注いだサウルへの慈しみを消すことのできない、憐れみの主だからです。神がサウルを王として退けられても、神の愛が消えることはありません。悪霊の誘惑に負けず、試練を乗り越えることを切に願っておられるのです。 【祈り】 自分に固執する思いを捨て、ただ神のみを仰ぐことができますように。
サウルは、主がダビデと共におられること…を思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。 (サムエル記上18章28節~29節) サムエルによってダビデが次の王としての油注ぎを受けた日から、主の霊が激しくダビデに降るようになりました(16章13節)。18章では、「主がダビデと共におられ」ることが三回も繰り返されます(12、14、28節)。一方、「神からの悪霊が激しくサウルに降り」ました(10節)。 確かに、サウルが王としての資質に欠けていたことは事実でしょう。そして、ダビデが誰からも愛される魅力ある人であることも事実でしょう。しかし、聖書の神は、すでに備え持った性格や外見やその他の良い点によってダビデを立てられたのではありません。神の選びの理由は、私たちが知る由もありません。敢えて言うなら、最も小さい者や誰も目に留めていない者を選ばれるのが聖書の神のなさり方です。ダビデは七人の兄を持つ末の弟でした。まだ、戦列に加わる年齢になる前に、羊の番をしていた少年のダビデを、神は王としてお選びになったのです。 何よりも神ご自身が共におられることを望む者を、神は憐れみ愛してくださるのです。そして、ダビデは、神に顧みられる自分を恐れ、敵意を抱くサウルの卑劣な仕打ちに、仕返しの邪念すら持ちません。一途に神を信頼しているからです。そのような心を神は喜ばれるのです。 【祈り】 どのような境遇にあっても、神にのみ依り頼む真っ直ぐな信仰を失うことがないようにお守りください。
「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。…この戦いは主のものだ。」 (サムエル記上17章45節,47節) サムエル記の中で最も長いこの章は、ダビデの輝かしい戦績を語ります。そして同時に、真の主権が神にあることを鮮やかに描きます。生ける神を侮り、その戦列に挑戦するペリシテ人の巨人ゴリアト。対するは主の霊が激しく降るダビデ(16章13節)。手に汗握る一騎打ちです。 イスラエルの神の別名「万軍の主」は、イスラエルの軍勢の神を示し、かつ全被造世界に対する神の主権を指す壮大な呼び名です。ダビデは神の御前に敵と対峙して、その神による全地のご支配を、高ぶるペリシテと怖気づくイスラエルの両軍に宣するのです。その潔いダビデの言葉に嘘はないことを、長じて彼自身が証ししています。「主はわたしの光、わたしの救い…彼らがわたしに対して陣を敷いても、わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても、わたしには確信がある。…心よ、主はお前に言われる、『わたしの顔を尋ね求めよ』と」(詩27編)。 闘う前からゴリアトは、この少年がただならぬ者であると感じて、「身構え」立ち上がりました(サム上17章48節)。 そして誰よりも、ダビデが神に召された王にふさわしい者であることを、主の霊の離れたサウルが察知したことでしょう。 【祈り】 どのような困難の中にあっても、万軍の主に依り頼む信仰を失うことがないようにお守りください。
「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」 (サムエル記上16章3節) 主なる神がダビデに油を注がれる、神の主権が描かれる章です。 イスラエルの民は、サムエルに不満を抱き、周辺諸国のような王を求めました。それは、神を否むに等しい悪でしたが、神は民の求めに応じて、最初に立ててくださったのがサウルでした。サウルは、神に徹底的に従う信仰の試み(13章のペリシテ人との戦い、15章のアマレク人との戦い)を乗り越えることができませんでした。 しかし、この神への従順を求められるのは、民とサウルだけではなく、預言者サムエル自身への試みでもあったのです。サムエルは、神に従順な預言者として描かれますが、2節では弱音を吐いています。御言葉を伝えることに伴う危険を恐れたのです。 主の御言葉はいつも簡潔です。その御言葉を受けとめ、たとえ自分の思いに反しても、どこまでも従おうとすることが信仰です。その素直さは、何に起因するでしょうか。元来の性格の良い者が従順さを持つのではありません。信仰の従順は、神の賜物でしかあり得ません。 油注がれた日からダビデに降る「主の霊」(13節)に支えられるダビデと、主の霊が去って、かわりに「悪霊」(14節)にさいなまれるサウルがそれを明らかに示しています。 【祈り】 頑なで不従順な者に、主を信じ受け入れて依り頼む心を与えてくださる、尊い主の恵みに感謝します。
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 (ルカによる福音書21章19節) 主イエスは、終末の時を見分ける「徴」について尋ねる弟子たちに、お答えくださいました。主イエスによれば、偽キリストが現れ、戦争や暴動が起こり、地震や飢饉や疫病などが起こる、とのことでした。 戦争や地震や疫病…、そのようなことが起これば多くの人は不安になります。そうすると、その不安に付け込んで惑わす者が現れるものです。しかし、冷静に考えてみれば、こうした出来事は、世界中のどこかで、いつでも起こっていることです。 ここで教えられている大切なことは、「世の終わり」には前兆があるから、その出来事に注目していなさい、ということではありません。ここで教えられている大切なことは、「惑わされないように気をつけなさい」、惑わされて「ついて行ってはならない」ということです。 ですから私たちは、たとえ何が起こっても不安に駆られて惑わされることなく、「忍耐によって…命をかち取」りましょう。「忍耐」が命じられているのは、確かな希望が与えられているからです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主は言われます(33節)。やがては過ぎ去るこの世の有り様に気を取られることなく、主の御言葉に信頼し希望を置いて生きる生き方こそ、私たちにふさわしい生き方なのです。 【祈り】 あなたに希望を与えられ、命をかち取る者とされたことを感謝します。
それらが滅びることはあるでしょう。 しかし、あなたは永らえられます。 (詩編102編27節) 表題には、「心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」とあります。作者は自分の生涯のともし火が消えかかっているような状態にあります。 作者の苦しみは、敵や嘲る者がいるからというだけではなく、それが主の怒りのゆえだからです。エルサレムが悲惨な状態にあるのは、主の懲らしめを受けているからでした。 それでも主の恵みの時が来ると作者は信じています。そして自分はいかにも小さな者と自覚しているが、天地を造られた主に目を上げます。 人は弱く衰えるが、主は変わることなく、御前にその民を立ててくださるという信仰がここにはあります。すべては朽ち果てるが、主は変わらず永らえられる。そこにのみ信仰者のよりどころがあるのです。 自分が主の前に正しく歩むことは大事なことではありますが、人は小さな者で移ろう影のようです。しかし、主が顧みてくださるなら、たとえ大地が滅びたとしても、主が祈りと賛美を献げる者を御前に立たせてくださるのです。 苦難や喪失のゆえに呻く者の祈りを聞き、罪と死から解き放ってくださる主は、永遠に変わらないイエス・キリストとして現れてくださいました(ヘブ13章8節)。 【祈り】 永遠に変わらぬ主よ、移ろう影のような私たちの祈りを聞き、御前に歩ませてくださり、感謝します。
「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。」 (サムエル記上15章22節) アマレク人との戦いで、主は敵を幼児に至るまで滅ぼすこと、家畜も容赦なく撃ち殺すことを命じます。サウルは勝利を収めますが、捕虜を残し、上等な家畜を惜しみ隠しておきます。預言者サムエルは、サウルのこの振る舞いを厳しく指摘します。サウルは配下に責任転嫁し、主のための献げ物だと言い訳します。しかし、もちろん罪を免れることはできません。サムエルは主がサウルを退け、王国を取り上げることを宣告します。サウルはサムエルに縋り付いて罪を悔いますが、手遅れでした。 敵を滅ぼし尽くせという指示も、罪を犯したサウルに対する裁きの言葉も、主の厳しさを印象づけます。聖書の神は異教徒や罪人を容赦なく滅ぼす恐ろしいお方だと言われるのは、こんなところかもしれません。 しかし、サムエルは、主が恐ろしい方でいけにえを求めているのではなく、主に聞き従う人の心を求めておられることを教えています。主ご自身が変わることなく人を顧み、命を与えてくださるお方です。だから、私たちに対しても、変わることなく主の言葉に耳を傾け続けることが求められているのです。 誠実な主に対して、人は誠実をもってはじめて応えられるのです。主への誠実を求め続けましょう。 【祈り】 主よ、私たちを顧みてくださり感謝します。私たちも変わることなく主に従えるようにしてください。
「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」 (サムエル記上14章6節) サウル軍は、ペリシテ軍との戦闘で大勝利を収めます。勝利の要因はヨナタンの活躍でした。しかし、ヨナタンの行動はずいぶん型破りです。王に知らせずに従卒一人と敵陣に攻め込んだり、王が立てた誓約を破って蜂蜜を食べたりと、軍人としては決して誉められたものではありません。 一方、サウル王の行動も何か的外れです。敵陣に攻め込むべきか、主の御心に聞こうと祭司に要求しておいて、すぐ諦めます。断食の誓いも結局兵士たちは家畜を食べてしまい、かろうじて血を避けるために屠り場を設けています。しかもさらにその後、主の応答が与えられないことで、改めて断食の誓いを破った犯人を探そうとするのです。 サウルの行動も、一つ一つは決して悪い動機ではありません。しかし、ヨナタンの言葉には、彼が一貫して神の計らいを信頼していることが表れています。またヨナタンはまずは仲間のことを考え、仲間を守るために行動しています。ヨナタンに比べると、サウルの行動は自分の思いに振り回された場当たりな行動であることがわかります。 不安の中でも、確かな神様の計らいを信頼し、隣人を思いやれるように願いましょう。 【祈り】 主よ、私たちを苦難の中でお守りください。主を信頼する心を与えてください。
「あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。」 (サムエル記上13章13節) 主なる神によって、イスラエルの王に選ばれたサウルでしたが、早速自らその選びを無にしてしまう過ちを犯してしまいます。彼は、戦争に際して、主がお命じになったとおりに献げ物をささげませんでした。 サウルの気持ちが想像できないわけではありません。敵は自軍の十倍以上、鉄製の武器を備えていました。さらに先にサウルによって守備隊を打ち破られたことで憎しみに燃えていました。イスラエルの兵たちはおののき、サウルのもとから散り始めました。軍を率いる王としては、不安を取り除き、士気を挙げる必要がありました。それにも関わらず、サムエルは約束の日に現れません。 しかし、サウルが忘れていたことがありました。もし主が私たちの思惑どおりに応えてくださらなかったとしても、それは見捨てられているのでも、忘れられているのでもありません。ましてや助けることがおできにならないわけではありません。 主は決して忘れることなく、足りないことなく、最も相応しいときに必ず私たちを救ってくださいます。私たちはその神の御手の働きを確信することができるのです。力強い神が傍らで見守っていてくださることを信頼できる幸いを感謝します。 【祈り】 主よ、いつもわたしを守ってくださることを感謝します。どんなときでも主が共にいてくださることを確信できるようにしてください。
サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。」 (サムエル記上12章20節) サウルが王として立てられたことによって、預言者サムエルは、民を裁く務めを王に引き継ぐことになります。 王を立てることは、本来、主の御心に適うものではありませんでした。他の国のように人間の王を置くことで安心しようと考えるのは、目に見えなくても、ずっとイスラエルを守り導いてくださっていた神を信頼できていないことの表れでした。けれども、主は民の思いを受け入れ、ふさわしい人物としてサウルを立ててくださいました。サムエルはその点を強調します。 サムエルは、主が出エジプト以来ずっと民を守り続けてこられた誠実なお方であることを振り返り、実際に力をもって働くお方であることを確かめます。人間の王がどんなに確かで力を持っていたとしても、民が頼るべき方、実際に本当に頼りになる方は主以外にはおられないのです。 主は私たちをご自分の民と決めてくださり、「ご自分の民を決しておろそかにはなさらない」と約束してくださいました。人は目に見えるものを頼りとしがちです。しかし、本当に頼りになるのは私たちを救ってくださる主の誠実さです。その主に心を尽くして仕えることこそ私たちの力なのです。 【祈り】 主よ、あなたこそわたしの支えです。どうか、ますますあなたの力を信頼し頼れる者としてください。
それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、… (サムエル記上11章6節) 王を求める民に、主はベニヤミン族の若者サウルを選び出しました。彼は背が高く美しい若者でした。もちろん主は外見でお選びになったのではありません。また、彼はおとなしく控えめな青年でした。人びとの中には「こんな男に我々が救えるか」と侮る人もいたほどでした。 そのようなとき、ヨルダン川東岸の地ギレアドのヤベシュの町が敵に包囲されます。住民は、敵に対して全イスラエルに援軍を求める猶予を求めます。敵がそれを認めたのは、援軍など来ないと侮っていたからでしょう。実際、ギレアドの状況を聞いた民は、嘆きの声をあげることしかできませんでした。 しかし、サウルは違いました。知らせを聞いたサウルには霊が降り、彼は怒りに燃え、全土に檄を送ります。その結果、全イスラエルが立ち上がり、敵を打ち破ります。 ここに神が彼に与えた治める者としての資質が見えます。怒りや軍事力ではありません。苦しむ者が助けを求める声に、深く思いを向け、なんとしても助けようと行動する力。そこに全国民が統治者の姿を見出したのでした。後に戦死したサウルの遺体を、このギレアドの民が命をかけて葬りました。救われた民は感謝を忘れなかったのでした。 【祈り】 主よ、罪に苦しむ私たちの声に耳を傾けてください。私たちも苦しむ人を助ける者とならせてください。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 (ルカによる福音書20章38節) 死後の世界は具体的にどうなっているのでしょうか。復活後の人間の有り様は具体的にどうなるのでしょうか。興味は尽きないところです。しかし、私たちは自然の力で必然的に生きているのではなく、「神によって生きている」存在です。私たちはこの世の生涯を終えた後にも確かに生き続けますが、それもまた「神によって」のことです。そのことを謙遜に認めるならば、復活後の素晴らしい世界を、この世の常識の延長線上に推し量るべきではありません。 「夫婦という関係はこの世限りで終わる」と聞けば、何か寂しく感じられることでしょう。しかし、この世で夫婦として結ばれたキリスト者同士が、一般の兄弟姉妹に逆戻りするとも教えられてはいません。神のご計画は、進展するのです。では、どう考えたらいいのでしょうか。 私たちは、神によって啓示されていないところを、この世の常識の延長線上に詮索したり、決めつけたりしてはいけません。啓示されていること、殊にその啓示の頂点であるイエス・キリストに注目しましょう。それが「神によって生き」る生き方だからです。このお方は、この世の常識を覆して復活されたお方であり、このお方の内に私たちの希望があるのです。何も心配はいりません。 【祈り】 この世の常識を覆すお方に信頼し、希望を置きます。このお方によって生きる命を賜わり、感謝します。
完全な道について解き明かします。 いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。 (詩編101編2節) 「完全な道」は、「全き道」とも訳されます。主の前に何の落ち度もなく歩むという印象を受けますが、そのようなことが私たち人間にできるでしょうか。ここでは、主の前での相当に理想的な人間の姿が描き出されているように思われます。 表題には「ダビデの詩」とあり、悪しき者を都から断ち滅ぼすとまで言っているので、ダビデ本人か、王の権力を持つ人が作者のようです。 曲がった心を退け、悪を知ることはなく、同じように全き道を歩く人だけを自分に仕えさせると言います。主の都には、そのように悪を離れて主に背かず、全き道を歩む人しか入れないという、王としての強い決意が現れており、その決意自体は尊いものです。しかし、ダビデ王とて大きな罪を犯しました。そう考えると、ここに描き出されているような理想的な状態は、人の決意と努力だけでは実現できないものだと言えます。 作者は、「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか」と言って、主を待ち望みます。それによって初めて、私たちが全き道を歩むことが実現するからです。 後に、神の御国の真の王である主イエスが世に来てくださいました。私たちに完全な道を備えてくださった主がおられる幸いを感謝します。 【祈り】 神の御子なる主イエスよ、私たちのもとを訪れてくださり感謝します。あなたの全き道を歩ませてください。
サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。 (サムエル記上10章9節) この章でいよいよ、初代の王となるサウルに油が注がれます。執行者は最後の士師サムエルでした。しかし真の執行者は神ご自身です(1節)。サムエルは神の代理人であり、神からの委託による執行者にすぎません。これによりイスラエルは、士師の時代から王国の時代へと変わりました。 神は、9節でサウルの心を新たにされます。これはサウルが自ら心を改めたことを意味しているのではなく、主がサウルの心を新しくされ、王としての振る舞いができるようにされたことを表しています。サウルは、油注がれることによって、主の霊に捕らえられた存在となったのです。 けれども、サウルはその後、主に委ねて歩むことから離れていきます。自分の心に自由に生きようとしてしまい、結果、主の御前に罪を犯して、その王位から退けられてしまうのです。 主なる神は、サウルと同じように、私たち一人ひとりにも日々豊かな恵みを添えて与えてくださっています。サウルの心を新たにされた神が、私たちの心をも新たにしてくださいます。御言葉には私たちを変える力があり、聖霊が私たちのうちに働いてくださいます。私たちに求められているのは、キリストと聖霊に信頼することです。 【祈り】 御言葉はいつも私たちへ語りかけます。これを真実に受け取り、自らの使命として歩んでいけますように。
「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。」 (サムエル記上9章16節) この章の最初で、この後イスラエルの初代の王に選ばれるサウルの人となりが描かれています。容姿良く家系も確かで、さらには体格にも恵まれた存在であったとあります。人びとの間ではきっと一目置かれるような存在だったことでしょう。しかし、そういった事柄が王の条件ではありません。神の選び(恵みであり召命)こそが王の条件なのです。サムエルが選んだわけでも、サウル自身が自分から王になろうとしたのでもありません。神が御旨を示してくださったので、事柄は進んで行くのです。 神がお立てになります。いつもまず神が啓示され、示された人物が務めを確認し、告白します。さらに第三の者がこれを認めて新たな職務に就くのです。私たちの教会もこれに倣っています。神の選びがまずあって、それを示された者が告白と共に人びとの前に進み出ます。しかしこれだけではありません。さらに人びとは、今の告白が主の御心かどうか確認します。これらが承認されたとき初めて、その告白者は新たな務めに就くことになります。 サウルはこうして、この後、油注がれて初代の王になります。先だっていつも神の選びがある。私たちの務めはこれに基づいていることを覚えたく思います。 【祈り】 神がお示しくださった今ある務めに、きょうも喜んで仕えていくことができますように。
「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」 (サムエル記上8章7節) この章は、とても重要な章です。イスラエルにいよいよ王制が敷かれるのですが、その必然性と共に、神の御思い、王制のデメリットについても書き残されているからです。 士師の時代は、サムエルの加齢と、継いだサムエルの息子たちの不正によって終焉を迎えます。イスラエルの長老たちは、サムエルの所に集まり王を立てるよう申し入れました。これに対してサムエルは主に祈り、民がこれから歩むべき道を主に乞いました。 主は答えられました。王制を認めるが、それは、主に対する反逆を意味する、と。長老たちがサムエルに「ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」と言った(5節)、このひと言にそれがよく見られます。ここに、主ご自身を王として見ていない罪、神への信仰ではなく他のもの(人の力や武器)に頼っていこうとする不信仰が見て取れるからです。しかし主は、この願いを警告と共に許可されたのでした。 私たちも信仰の揺らぐことがあります。揺らぎが生じたとき、目に見えない主にもう一度立ち帰ることができるよう、罪の中に憐れみを与えてくださる神に常に祈り備えたく思います。 【祈り】 目に見えるものに頼るのではなく、あなたにこそ信頼し歩むことができますように。
「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」 (サムエル記上7章8節) 7章は最後の士師サムエルについて書かれています。この後、イスラエルの民はサムエルに王を求め、王制を敷く国へと変わっていくからです。主に忠実な士師サムエルによって、イスラエルは新たな時代に入っていくこととなります。 サムエルはこのとき、悔い改めの祈りを主にささげるために民らと共にミツパに集まっていました。しかし、ペリシテには何か軍事的な相談でもしているように見えたのでしょうか。どこかからその情報を聞きつけて攻め上って来ました。これを聞いて恐怖した民らが、サムエルに求めたときの言葉が上記のものです。 サムエルは祈りました。このときイスラエルは祈るために集まっていましたから、戦う用意などしていません。真に主に悔い改めるために集まったサムエルと民らです。祈りだけが彼らの頼り、武器でした。文字どおりサムエルは叫び求めて主に祈ったのです。 「主は彼に答えられた」とあります(9節)。主は雷鳴をとどろかせ、ペリシテを混乱に陥れて打ち負かされました(10節)。 真に祈りの乏しい私たちですが、主に信頼し、祈りと信仰の生活のなかで今の時代を歩みたく思います。 【祈り】 真に頼れるお方は、あなたお一人のみです。あなたに向かっていつも祈り、叫び求めて心からの声を上げることができますように。
「今、新しい車一両と、まだ軛をつけたことのない、乳を飲ませている雌牛二頭を用意しなさい。雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して小屋に戻しなさい。」 (サムエル記上6章7節) 主の箱があるために災害に遭い、神の御手が重くのしかかった(5章11節)ペリシテ人たちは、6章でその主の箱を丁重にイスラエルの民に返す計画を進めます。これらの行動は、災いを経て味わい知った神の御力への敗北と、畏れと、敬意によるものでした。ペリシテ中の祭司、占い師が集まって協議がなされました。そして神の民が信じる祭儀の仕方を調べあげたのでしょう、レビ記5章15節以下に従って「賠償の献げ物と共に」返すことにしたのでした(サム上6章3節)。 具体的には、まだ軛をつけたことのない、雌牛二頭を車に繋ぎ、その子牛を雌牛から引き離します。雌牛たちが見ている前で子牛を牛小屋に連れ戻させ、雌牛に繋いだ車の上に主の箱を載せ、賠償の献げ物を一緒に返すという方法でした。普通であれば子牛を案じて戻ると思われましたが、何と雌牛たちはイスラエルの方角に向かいました。ここにペリシテ人たちは主の御業を見、イスラエルの民の下に主の箱は帰還しました。 災いにより神を知るペリシテ人でしたが、私たちはさらなる恵みにより聖書を通して神を豊かに知る者たちです。聖書と共に働く聖霊の恵みにより、救い主イエスキリストを信じる歩みを送りましょう。 【祈り】 異邦人のなかで歩む私たち神の民が、きょうも神の幸いを生き、主の栄光を証しできますように。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカによる福音書19章10節) 「背が低かった」ザアカイは、そのことによって周囲から馬鹿にされ、今で言う「いじめ」の対象にされて居場所を失ったのかもしれません。そうしたことで彼が、罪人と呼ばれる徴税人の頭になったのだとしたら、現代の日本で社会的排除を受けた人びとが、反社会的勢力と呼ばれる疑似家族的な団体を作っていることに通じるものがあります。日本社会で「罪深い男」たちと目される彼らの中には、じつは寂しがりやの人が多いと言われます。力も金も手に入れたザアカイも、本当は寂しかったのではないでしょうか。主イエスはそのようなザアカイの名を呼んで、彼の家に泊まってくださいました。 イザヤ書43章1節(新改訳)には、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」とあります。人はすべて、罪の中に失われた状態で生まれてくるのですが、主イエスは、そのような私たちを捜し出して、私たち一人ひとりの名を呼んでくださっています。そして、「あなたはわたしのものだよ」と言ってくださるのです。 主イエスは、罪の中に失われていた「あなた」を捜し出し、「あなた」を救うために訪れてくださいました。だから、もう寂しくはありません。 【祈り】 罪人であるわたしの名を呼び、救いの交わりに入れてくださった主イエスに感謝します。
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