Discover5分 de ヒストリー ~歴史・世界史・日本史・学び直し/クロノ
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5分 de ヒストリー ~歴史・世界史・日本史・学び直し/クロノ

Author: クロノ

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教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。2024年からUdemy講師。

公式サイト:れきぞう(歴蔵)
https://www.sowhatzone.com/

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https://note.com/simpleple/

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Udemy
https://www.udemy.com/user/song-yuan-xiu-zhi-2/
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※金を建国した女真は「狩猟農耕民」です。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第132回目は「アフター・モンゴルその3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文第6代皇帝のアウラングゼーブの時代にムガル帝国は最盛期を迎えた。禁欲主義者で厳格なスンナ派イスラーム国家を築こうとした彼は、ジズヤ(人頭税)を復活させシーア派や異教徒を迫害した。南端を除くインドを統一し領土最大を実現したが、領土拡大により官僚の急増と給与地不足を招き財政が悪化する。地方で自立化する官僚が出始め、シク教やヒンドゥー教の反抗も始まった。彼の死後、帝国は急速に解体へと向かった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第131回目は「アフター・モンゴルその2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文ティムール亡き後、約100年後に王朝は消滅する。1526年ティムールの子孫バーブルは北インドに侵入してデリーを都にムガル帝国を建国した。第3代皇帝のアクバルは北インドを統一し、検地を行い地租を確定させて財政基盤を確立する。官僚制度としてマンサブダール制を定め、世襲化を防ぐため役職や給与は短期間で変更された。非ムスリムとの融和にも努め、従来課されていたジズヤ(人頭税)を廃止する。中央集権化とインドに多いヒンドゥー教勢力との協力関係を構築できたため、帝国統治は安定した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第130回目は「アフター・モンゴル」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文14世紀後半、中央アジアのチャガタイ=ハン国は東西に分裂した。このうち西チャガタイ=ハン国から台頭したティムールが1370年にティムール朝を建国し、サマルカンドを都とした。イル=ハン国滅亡後のイランやイラクを制圧し、南ロシアのキプチャク=ハン国や北インドにも遠征した。さらに1402年、オスマン帝国をアンカラの戦いで破ったが、明への遠征途上で病死した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第129回目は「モンゴル帝国その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文14世紀の北半球は寒気な気候が続き、不作と飢饉が起きる。ユーラシア規模の巨大な経済圏がモンゴル帝国の強みだったが、ひとたび感染症(ペスト)が発生すると一気に東西に広がった。経済的なつながりが寸断され、各地でモンゴルの支配が揺らぎ政権が衰退する。中国では黄河が決壊して飢饉が起きたので、経済政策としてが交鈔を濫発したり、専売制度を強化したりした。自然災害と経済の混乱で民衆が苦しむ中、宗教結社の白蓮教を中心に紅巾の乱が起こり、元は1368年に明の軍隊に大都を奪われてモンゴル高原へ退いた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第128回目は「モンゴル帝国その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文モンゴルは徴税と治安維持に重点をおき、征服地の社会や文化、宗教や思想に対して寛容だった。仏教やカトリック、イスラームなどが伝来し、特にチベット仏教は歴代のハーンや王族に保護された。東西の交易に力を入れ、駅伝制(ジャムチ)をしいて交通・通信ネットワークを築く。陸路だけでなく海路にも力を入れ、大都から大運河をとおして水路をひらき、南シナ海・インド洋と結ばれた。陸と海を連動させたユーラシア規模のモンゴル経済では銀を通貨の基本とし、補助として交鈔を用いた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第127回目は「モンゴル帝国その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文元の官僚制度はモンゴル人が中枢を占め、ウイグル人やイラン系ムスリムなど中央アジアや西アジアの出身者である色目人が財務方面で重用された。金の支配下にあった契丹人、女真人、漢族などは漢人、南宋の支配下にあった人々は南人と呼ばれた。モンゴルは実力主義だったため中国古来の科挙や儒教を重視せず、軍功・推薦などさまざまな人材登用ルートを用意した。科挙は当初停止されたが、14世紀になって制限つきで再開した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第126回目は「モンゴル帝国その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文モンケが急死した後、弟のクビライがモンゴル帝国東方の支持を得てハーンに即位した。彼は華北を拠点にしていたので、モンゴル高原と華北の境界に都を築き大都と名付ける。その後国号を中国風の「元」と改めた。彼の即位にオゴダイの孫で、中央アジアを拠点とするカイドゥ(ハイドゥ)が反旗をひるがえした。長年にわたり抵抗が続いたためモンゴル帝国は政治的に分裂した。各ハン国は高い自立性をもちつつ、ハーンのもとにゆるやかに連合した。西方での乱に対処しながら、東方では1276年に南宋を滅ぼし、さらにベトナム、日本、ジャワなどへの遠征活動を続けた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第125回目は「モンゴル帝国その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文オゴタイの子グユグが3代目のカーンに即位するが、すぐに死去した。第4代のモンケは弟のクビライに命じて雲南の大理を滅ぼし、同じく弟のフレグを西アジアに遠征させて1258年にアッバース朝を滅ぼし、イル=ハン国を建てた。モンゴルの侵略が止まった西ヨーロッパでは、ローマ教皇や国王が、使節をカラコルムに送っている。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第124回目は「モンゴル帝国その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文チンギス=ハンの後をついだオゴタイは、モンゴル高原の中央部に都カラコルムを定めた。中国の華北を支配していた女真族の金を1234年に滅ぼし、農耕地帯にまで進出する。また、ヨーロッパ世界への遠征を計画し、総司令官を兄の子であるバトゥとした。1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破りロシアや東ヨーロッパを制圧する。遠征の途中でオゴタイ死去の知らせを受け撤退。バトゥはモンゴルに戻らず、中央ユーラシア西部にキプチャク=ハン国を建てた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第123回目は「モンゴル帝国」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文840年にウイグル帝国が崩壊したあと、モンゴル高原には統一勢力が現れなかった。しかし、テムジンがモンゴル系の部族を次々に制圧し、1206年部族長の会議であるクリルタイでチンギス=カン(ハン)の称号を受け、モンゴル帝国が建国された。彼は千戸制という統治システムを使い、軍事と行政を統括した。軍団を率いて東方の金を攻め、ムスリム商人の協力を得ながら中央アジアのホラズム朝を征服し、遠征帰還後に西夏を滅ぼした後、間もなく亡くなった。
※流れの都合上、ここ(遊牧国家)で金を紹介しましたが、女真は狩猟農耕民です。教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第122回目は「金」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文1125年、完顔阿骨打(わんやんあぐだ)のもとで女真が金を建てる。中国の宋とともに契丹(キタイ)を滅ぼした。しかし宋が約束を守らなかったため、都の開封を占領し、皇帝や上皇を北方に連行した。宋が滅亡するまでの一連の流れを靖康の変という。金は、女真人に対しては猛安・謀克(もうあんぼうこく)という軍事・行政組織で統治し、華北では州県制を実施。宋の生き残った王族が再建した南宋とは、淮河(わいが)を国境として金に臣礼をとり毎年多額の銀や絹を貢納することとした。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第122回目は「契丹(キタイ)」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文840年にウイグルが滅んだあと、モンゴル高原を統一する者は現れず不安定な状態が続いた。916年に耶律阿保機(やりつあぼき)がカガンに即位して契丹族を統一し、契丹(キタイ)を建国する。モンゴル高原を統一し、渤海を滅ぼし、燕雲十六州を獲得し中国の一部を支配した。契丹は中国に対しては「遼」と名乗り、モンゴル高原ではカガン、中国では皇帝として支配した。12世紀になると、満州の女真族が力をつけ金を建国する。金と中国の宋との挟み撃ちにあい、契丹はモンゴル高原から逃亡する。その後、中央アジアで政権をたてなおした。これ以降をカラ=キタイ(西遼)とよぶ。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第121回目は「ウイグル」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文モンゴル高原では744年に東突厥を倒したトルコ系のウイグルが台頭する。唐の支配体制を揺るがした安史の乱の際には、唐を支援して事実上、属国化させた。突厥と同じようにソグド人を用いて交易で利益をあげて大いに繁栄したが、840年に内乱に乗じたキルギスに滅ぼされる。帝国の崩壊後、一部のウイグル人が西方に移住する。これによりイラン系が中心だった中央アジアのトルコ化が進み、この地がトルキスタンと呼ばれる由来となった。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第120回目は「突厥」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文6世紀半ば、トルコ系の突厥が急速に勢力を拡大する。柔然を滅ぼし内陸アジア一帯に大遊牧国家を形成した。中央アジアでは遊牧民族のエフタルが大国家を作り、ササン朝の領土に侵入する。ササン朝のホスロー1世は突厥と同盟を結び、これを滅ぼす。6世紀末、東西に分裂し唐に服属した。唐の衰退後、東突厥は7世紀末に帝国を再興し、北方遊牧民最初の文字である突厥文字を使用したが、8世紀にトルコ系のウイグルに滅ぼされた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第119回目は「鮮卑」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文モンゴル高原では2世紀に、匈奴に従っていた鮮卑が台頭する。君主号としてカガンを用い、後に最高君主の称号として中央ユーラシアで広く使われるようになる。3世紀には、いくつかの集団に分かれて華北に侵入する。鮮卑の拓跋氏(たくばつし)が386年に北魏を建国し、439年に華北を統一して五胡十六国時代を終わらせる。モンゴル高原で台頭してきた柔然と対立した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第118回目は「匈奴」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文スキタイと同じ時期に、東方でもいくつかの遊牧勢力が生まれていた。その中の匈奴が前3世紀末に冒頓単于により急速に力をつけて大遊牧国家を形成する。秦滅亡後に誕生した前漢の高祖(劉邦)を破り、事実上の属国とした。月氏を西に追いやりタリム盆地を支配下において東西交易の利益を手にした。しかし、前1世紀には東西に分裂し、さらに東匈奴が1世紀に南北に分裂した。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第117回目は遊牧国家「スキタイ」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文中央ユーラシアの草原地帯では早くから文化、技術の交流が見られ、東のモンゴル高原から西の南ロシア草原までが、草原の道により1つの文化的まとまりが見られた。騎馬戦術を得意とする遊牧民の中から、強大な遊牧国家が生まれた。黒海北岸の南ロシア草原地帯には、前7世紀にスキタイが形成された。最初の遊牧国家で、強大な騎兵隊を組織し、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の軍隊を撃退するなど、強盛を誇った。ギリシア植民市と交易をおこない、黄金の装飾品が取引きされた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第116回目は東アジア文化圏の形成と発展「南宋その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文「宋」は、外交ではこれまでにない屈辱を受けたが、経済的には大きく発展した。国家による都市への商業統制が廃止され、城外では草市が開かれ、大量の銅線や紙幣(北宋時代は交子、南宋時代は会子)が流通する。輸出もさかんになりジャンク船を用いて商人が活躍した。農業は臨案を拠点にして江南の開発が進んだ。干拓地の拡大、成長の早い占城稲の普及により長江下流域の開発が進み「蘇湖(そこ)熟すれば天下足る」と言われるまでになった。唐代末以降に増えた形勢戸と言われる新興地主層が、収穫物の半分ほどの小作料をとって佃戸に耕作させていた。
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第115回目は東アジア文化圏の形成と発展「南宋その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。◇オリジナル基本文靖康の変で、皇帝が北方に連行されたが皇帝の弟が江南に逃れられた。彼(高宗)は臨案を都にして宋を再建する。これ以降を南宋と呼ぶ。金にどう対処するかで主戦派と和平派の2つに分かれた。将軍の岳飛は金との対決を主張し、宰相の秦檜(しんかい)は金が淮河より南進しない可能性が高いことを理由に和平を結ぶべきだと主張した。最終的に和平派が勝利、淮河を境界とし歳幣を贈る屈辱的な和約を結んだ。
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