夢野久作ードグラ・マグラ17
Description
部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ
硝子戸棚の行列が立塞がっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二間ぐらいに見える大卓子が、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子の表面に張詰めてある緑色の羅紗は、やはり薄いホコリを被ったまま、南側の窓からさし込む光線を眩しく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に蔽い被さっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。しかもその前には瀬戸物の赤い達磨の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸を続けているのが、何だか故意と、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。
その赤い達磨の真正面に衝き立っている東側の壁面は一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽に跼まれる位の大暖炉が取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、清々しい朝の光りの中に、或は眩しく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。
事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種の投やりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。
私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に
治癒りましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
――歯齦はぐきの血で描いたお雛様ひなさまの掛軸――(女子大学卒業生作)
――火星征伐の建白書――(小学教員提出)
――唐詩選五言絶句「竹里館ちくりかん」隷書れいしょ――(無学文盲の農夫が発病後、曾祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫きごうせしもの)
――大英百科全書の数十頁ページを暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――「カチューシャ可愛や別れの辛つらさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家を以て任ずる失職活動俳優の自称「創作」)
――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)
――竹片たけきれで赤煉瓦に彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
――鼻糞で固めた観音像、硝子ガラス箱入り――(曹洞宗布教師作)
私は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向けて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。
それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢れてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに赤インキの一頁大の亜剌比亜アラビア数字で、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴと番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。
巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
心がわかっておそろしいのか
その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」
若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後からうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現した珍奇な、面白い製作の一つです。当科の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵成に書上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容が亦非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、色情表現、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと流石に、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に横溢しております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を異にした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」
若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。
「ヘエ。そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」
「……それは斯様な訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身で或る幻覚錯覚に囚われた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に幽閉められて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」
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