Discover本の朗読太宰治ー斜陽ラスト
太宰治ー斜陽ラスト

太宰治ー斜陽ラスト

Update: 2020-06-17
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Description


 路傍の樹木の枝。葉の一枚も附いていない枝、ほそく鋭く夜空を突き刺していて、

「木の枝って、美しいものですわねえ」

 と思わずひとりごとのように言ったら、

「うん、花と真黒い枝の調和が」

 と少しうろたえたようにしておっしゃった。

「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。枯枝とちがいますわ」

「自然だけは、衰弱せずか」

 そう言って、また烈しいくしゃみをいくつもいくつも続けてなさった。

「お風邪じゃございませんの?」

「いや、いや、さにあらず。実はね、これは僕の奇癖でね、お酒の酔いが飽和点に達すると、たちまちこんな工合のくしゃみが出るんです。酔いのバロメーターみたいなものだね」

「恋は?」

「え?」

「どなたかございますの? 飽和点くらいにすすんでいるお方が」

「なんだ、ひやかしちゃいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、実は、ひとり、いや、半人くらいある」

「私の手紙、ごらんになって?」

「見た」

「ご返事は?」

「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なんだが、時々、ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍をとおると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒を釣った事や、めだかを掬った事を思い出してたまらない気持になる」


暗闇くらやみの底で幽かに音立てて流れている小川に、沿った路を私たちは歩いていた。

「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑している。」

「ツルゲーネフは?」

「あいつは貴族だ。だからいやなんだ」

「でも、猟人日記、……」

「うん、あれだけは、ちょっとうまいね」

「あれは、農村生活の感傷、……」

「あの野郎は田舎貴族、というところで妥協しようか」

「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の貧乏人」

「今でも、僕をすきなのかい」

 乱暴な口調であった。

「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」

 私は答えなかった。

 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、

遮二無二しゃにむに

私はキスされた。

性慾のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。

 また、二人ならんで歩きながら、

「しくじった。惚れちゃった」

 とそのひとは言って、笑った。

 けれども、私は笑う事が出来なかった。

眉をひそめて、口をすぼめた。

 仕方が無い。

 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。

「しくじった」

 とその男は、また言った。

「行くところまで行くか」

「キザですわ」

「この野郎」

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