前回は、カントが『純粋理性批判』で示した<アプリオリな総合判断>や、それを成立させる感性と悟性のアプリオリな形式とその必然性・再現性についてお話しました。感性には時間と空間を生み出す形式があり、悟性には感性を通過してきたものを4分野それぞれ3種類ずつ合計で12種類とされるカテゴリーによって仕分けるという形式があり、それはヒュームが言うような偶然的な単なる習慣ではなく、必然的で再現性のある仕組み、アプリオリな仕組みであるという、純粋理性に対する信頼を取り戻そうとする考えでした。今回は、理性の中でも実践理性の話、理性にとって人間は自由になり得るんだというカントの考えをお話して、「自由って何?」という問いに対する答え合わせをしております。
前回に引き続き「自由って何?」の感想の続きです。前回はカントが『純粋理性批判』で示した「4つのアンチノミー」についてお話しましたが、そこで明るみになった理性の限界を踏まえて、今回は「アプリオリな総合判断」や、それを可能にするアプリオリな「感性」と「悟性」の形式、その形式によって人間の前に偶然ではなく必然的に表れる「現象」について話しています。デカルトやヒュームやルソーの話も交えながら、カントが考える理性、そして自由について見える化できればいいなと思います。
前回のテーマ「自由って何?」についての感想です。ここでは、カントの自由論を理解する上で重要となる、四つのアンチノミーを巡る哲学的議論について、話しています。
倫理記号の恣意性第6回「自由って何?」現代の国際社会は、人権を守ることが最大の正義とされています。そして、人権の中でも第一に尊重されるのは自由権ですが、そもそも自由とは何なのでしょう。一般的には、誰かに強制されることなく自分の思うように行動することが自由だと考えられています。あらゆる価値よりも自由を貴ぶことを正義と考えるリバタリアン≪自由至上主義者≫は、自由についてのこうした考え方を徹底し、特に経済活動の自由を掲げて、ビジネスに制限を加える権力を批判し、市民の財に税を課す政府を泥棒と呼びます。また、ロックやパンクなどの音楽に代表されるカウンターカルチャーは、社会の中にある様々な支配構造を破壊して、全ての人々が自分の望む生き方の出来る世界を理想とします。しかし、現代の自由主義思想の源流となったヨーロッパの近代哲学には、現代人の考える自由とは対照的な自由の概念がありました。十八世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの考えた自由とは、自然法則に支配された生理的な欲求に対する自由、欲望の意のままにならず道徳的に行動する自由でした。人間以外の動物が自然法則である本能に支配されて行動しているのに対し、理性を持つ人間だけが自らの生理的な決定から自由になれる存在なのだと、カントは言ったのです。彼は、理性に沿った自由意志による行動にも二種類あると説明します。一つは仮言命法と言い、何らかの欲求を果たすために必要なことを理性で判断し実行することです。もう一つは定言命法と言い、理性の定める道徳律に従って行動することを指します。仮言命法は「欲求を果たすため」という条件を常に伴い自然法則の支配下にあるため、真の自由な行動とは言えませんが、定言命法は無条件に倫理的理性に沿った行動になるため、自己の内なる自然法則から完全に自由な状態となります。重力の下で今あなたが手にしているものを手離せば、その物体は床に落ちるでしょう。人間ならだれでも共通した理性的認識に沿ってそう判断します。理性とはそのように、あらゆる人間に共通した認識をもたらします。道徳についても、同じ条件の下では人間には共通した実践理性が働くため、道徳律は人類普遍なものであるとカントは考えました。そして、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的法則となるように行為せよ」と言います。「格率」とは人間がそれぞれに持つ自己の判断基準であり、それが万人の共有する倫理基準と矛盾しない定言命法に適ったものとなるように行動せよというわけです。現代の自由主義者が、自由を守ることこそ正義だと考えているのに対し、カントは、正義を守ることこそが自由だと考えていたのです。
仏教の十二縁起と、キリスト教の楽園追放の類似性 イヴの原罪とアダムの原罪 ジョン・スチュアート・ミルの質的功利主義、ベンサムの功利主義からの逸脱 異なる3つの論理体系
ポンペオ米国務長官が七月二十三日に、中国の人権抑圧・領土拡張・経済的不公正と、その理念的基盤であるマルクス・レーニン主義に対し、宣戦布告とも解釈できる演説を行ったことで、新型コロナウィルスで混乱の中にある世界は新冷戦時代へ突入することになりました。現代の世界には、エリート階級が政策決定の権限を独占する体制と、自由と民主主義を標榜する体制の二種類の国家に分類することができますが、中国は前者、アメリカは後者の正義を代表する国家だと言えるでしょう。 しかし、中国の不正義を糾弾したポンペオ氏のアメリカの中にも相矛盾する複数の正義があり、必ずしも一枚岩とは言えません。自由と民主主義を標榜する社会の正義の一つには、最大多数の最大幸福を目指して経済的効率性を高めようとする功利主義や、他者の権利を侵害しない限りあらゆる個人の自由を認めるべきだと考えるリバタリアニズム≪自由至上主義≫があります。 例えば、アメリカの軍隊ではベトナム戦争まで徴兵制が実施されていましたが、全国民が兵役の義務を持ち国家の防衛に責任を負うべきだという考え方に対して、功利主義やリバタリアニズムはそれぞれの立場で異議を唱え、金銭を支払って兵役の義務を他者に代行させるという南北戦争時代の制度の正当性を主張します。 まず功利主義は、金銭を支払う者はそれによって兵役を回避するという利益を得るし、兵役を代行する者はそれによって金銭という利益が得られるため、双方の幸福が最大化されていると言います。またリバタリアニズムは、双方が自分の意思で多額の金銭を支払ったり、兵役を代行したりしている以上、この制度は自由の原理に適合していると言います。 その一方で、アメリカには両者の主張に対する反論もあります。その一つは、「兵役は国民が平等に負うべき義務であり、民主主義国家においては、あらゆる階層の人々とその愛する伴侶や子供や孫の全てが戦場に行かなければならない可能性があればこそ、政策決定者も簡単には戦争を起こせないのだ」というものです。平等な兵役こそ戦争を防ぎ平和を守るという論理です。イラク戦争では、戦場に赴いた志願兵の多くが低所得者層で、戦争を主導した政治家など富裕層の割合は低かったという事実があります。兵役の平等が崩れた社会は戦争を起こしやすい一面があるのです。また、兵役代行を引き受ける者の多くが金銭的に貧しい階層出身だという事実は、徴兵回避が貧しい者を奴隷的拘束に置くのと同じ状態になることを示しており、自由の原理にも矛盾しています。 経済効率や自由という正義と、道徳や公平という正義が、ここに対立しているのです。
歴史の教科書には、国王や貴族に奴隷的拘束を強いられていた民衆が、自らの選択と決断によって生きる「自由」を求めて革命を起こす姿が記されています。イギリスの市民革命やアメリカ独立戦争やフランス革命は、近代社会の誕生を象徴する出来事ですが、これらの革命で人々が獲得を目指した最も重要な権利は「自由」でした。そして、権力によって奴隷的に拘束される牢獄のような状態は否定され、自らの意志で行動できることが、現代の人権思想の根本原理となったのでした。 しかし、社会全体の利益を追求する時には、この「自由」が制限されても仕方がないという考え方もあります。例えば、感染力の高いウィルスが流行して人々の命を脅かす時、人間の自由な移動・行動がその繁殖を拡大してしまうなら、それは制限されなければならないという考えです。あるいは、社会全体の発展を促進するためには、指導者が強い権限を発揮して様々な政策を進めていかなければならないため、その体制に批判的な言動は厳しく取り締まるべきだという考えです。 こうした「最大多数の最大幸福」を追求する考え方に対し、それよりも個人の「自由」が優越するとして、他者の自由を制限しない限りどんな行動も認められるべきだと考える思想を「自由至上主義・リバタリアニズム」と言い、この思想を掲げる人々はリバタリアンと呼ばれています。 リバタリアンは、自由を制限するどんな制度も法律も慣習も宗教も全て排除していくべきだと主張し、国家による道徳的規制に反対します。そして、職業選択の自由、信仰の自由、言論の自由、婚姻の自由が認められるべきであるように、働かない自由、信仰を否定する自由、性的・暴力的表現をする自由、同性婚の自由を越えて他の動物と婚姻する自由なども、制限されてはならないと考えます。妊娠中絶が制限されるべきでないのと同様に、自殺する自由や、依頼されれば自殺を助ける自由も人間にはあり、命を捨てても自分の臓器を売る自由さえあると言います。 彼らは、国家による経済的自己選択権の侵害を強く批判し、福祉政策のために税金や社会保険料が徴収されることに反対しています。貧しい人々や身体的ハンディキャップを持つ人々の救済は、国家がやらずとも、マイクロソフト創始者のビル・ゲイツや大投資家ウォーレン・バフェットなどの富豪が自ら好んで行うため、税の徴収による労働意欲や消費意欲の抑制は経済にとって害があるだけだと言うのです。 世界一の先進国であるアメリカ合衆国に現在も公的健康保険制度が無いのは、こうした原理的な自由主義に対する強い信仰があるためだと考えられます。
イギリスの道徳哲学者ジェレミー・ベンサムは、道徳の至高の原理とは苦痛に対する快楽の割合を最大化することだという、功利主義の原理を確立しました。人間がとるべき正しい行いとは、快楽や幸福を増やし、苦痛や苦難を減らす、「効用」の最大化であるというわけです。 1884年、ミニョネット号というイギリス船が沈没し、ボートで漂流していた四人の船乗りたちが、水も食料もない限界状況に追い込まれた結果、悲惨な効用の最大化を迫られました。衰弱して死の淵にあった一人を二人が殺害したのです。残り一人は殺人に断固反対したものの、共に死体を食料とし、三人は生き残りました。数日後に救出された三人は、当局に事実をありのままに告げて逮捕されます。殺人を犯した二人が起訴され、反対した一人は釈放されました。裁判の結果、二人には死刑が宣告されますが、ヴィクトリア女王の特赦により禁固六ヶ月に減刑されました。 二人の殺人行為は、現代では緊急避難と呼ばれるもので、非常事態における違法行為は、それによって生じた損害より、避けようとした損害の方が大きい場合、罪に問われないことになっています。この当時のイギリスでは、まだその制度が論争中で法制化されていなかったため、殺人罪が適用されたのでした。 ベンサムは、公的諸政策の根底に置くべき道徳原理として、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化するべきだ」とし、幸福計算を提唱しました。これは、データを集めてある行為の生む快と苦の量を計算し、その量によって政策の善悪を決めることです。この計算に基づけば、ミニョネット号の例でも、殺人を犯した二人の行為は正しかったことになります。では、殺人に反対したもう一人は間違っていたのでしょうか。 ベンサムの功利主義を継ぎ、これを改良しようとしたジョン・スチュワート・ミルは、人間の自由意志を重視し、幸福の量よりも質に基づく道徳原理を説きました。「人間は、自分の望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなことをすることが出来る」というのがその主張です。 「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ル=グウィンが「オメラスから歩み去る人々」という小説を書いています。あるところに、オメラスという幸福に満ちた豊かな町がありました。しかし、町の片隅の不潔で劣悪な地下室には、なぜか知能の低い一人の少女が閉じ込められています。少女は「ここから出して」と訴えているのですが、人々に無視され続けます。この町の幸福は、この少女の犠牲と引き換えに与えられていたからです。少女を救えば、町の人々がみな不幸になるよう定められています。ほとんどの人々は時折思い出したように言い訳をしながらも、町の幸福を享受し続けます。ところが、中にはそれを恥じて、この町を歩み去る人々もいます。 あなたなら、この町に居続けますか? それともオメラスから歩み去りますか? それとも、少女を救って町中を不幸にしますか。
電磁波の中の十兆分の一に満たない可視光を、周波数の高い方から赤、橙、黄、緑、青、紫など更に色分けして、私たち動物は周辺環境を把握するのに活用しています。しかし、人間が「赤」と呼ぶ波長と、「橙」と呼ぶ波長の間には明確な境界線がありません。赤と黄、橙と緑など明らかに違う波長の光を反射する物体であれば誰もが同じように色分けできますが、どこまでが「青」でどこからが「紫」なのか決めるのは悩むところで、人によって判断は異なることでしょう。 倫理における正義と不正義の色分けにも、同じことが言えます。どこまでが正義で、どこからが不正義か、そこに境界線を引くのは難しいことです。 あなたが路面電車を運転しているとします。気が付くと、前方に五人の作業員が工具を持って線路に立っていました。ところが電車のブレーキが急にきかなくなり、このままではあなたは確実に彼らを轢いて死なせてしまいます。その時、右へと逸れる待避線が目に入ります。五人を救うにはあなたはそちらへ電車を向けなければなりません。でも、そこにも作業員が一人立っていて、そちらへ進めば確実に彼を死なせることになります。あなたならどうしますか? これは「トロッコ問題」と呼ばれる有名な倫理学上の課題ですが、多くの人は葛藤の末により多くの人命を守る選択肢を選ぶようです。そこでもう一つ、今度はあなたが運転士でなく、暴走する路面電車を鉄橋の上から見ている傍観者とします。電車の前方にはやはり五人の作業員が電車に気づかず作業をしています。ふと隣を見ると大変太ったあなたより体の大きな見ず知らずの人が立っていました。あなた自身の体では電車の暴走は止められそうにありませんが、隣の人の太った体を線路に突き落とせば確実に電車を止めらそうです。あなたはその人を突き落としますか? この場合、同じように五人を救うために一人を犠牲にする行為であるにもかかわらず、あえて殺人を犯すことは不正義だと感じる人が多いそうです。では、作業員が五人ではなく五十人だったらどうでしょう。あるいは、その太った人が死の運命にある作業員たちを見てゲラゲラ笑っていたとしたら? 更に、あなたが一国の首相だとします。あるウィルスが流行し、感染者の二%は確実に死んでしまうとします。感染を防ぐためには経済活動を封鎖しなければなりません。しかし、そうすれば経済危機によりたくさんの命が失われます。あなたなら、どうしますか?
「言語記号の恣意性」という言葉があります。19世紀のスイスの言語学者ソシュールの考えで、言葉とは、それを表す音声・文字(シニフィアン)と、それによって表される意味・概念(シニフィエ)が、合理的な必然性を必要とせずに結び付いて出来ているという考えです。 例えば、「イス」という音声は、「人が座るための台」のことではなく、「食事や仕事や勉強をするための台」のことであってもよく、「ツクエ」という音声は「体を横たえて寝るための台」のことであってもよかったわけですが、たまたま何となく勝手気ままに(恣意的に)現在のような組み合わせになっている、ということです。 この考え自体は、「そりゃそうだね」とすぐに納得できるものだと思います。日本人みんなで、ピーマンのことをナスと呼び、ナスのことをピーマンと呼んだって、みんなでやれば何も怖くはありません。でも、ソシュールが言う「恣意性」はそれだけで終わりではありません。 どこかの星から手も足も腰もないボール型の体の宇宙人が地球へやってきて、日本語を勉強するとします。その時、同じ台状の形をした物体を、イス、ツクエ、ベッドと言い換えていることを知ったら、その宇宙人は「Why,Japanese people⁉」と叫び出すかもしれません。人間は、同質なモノやコトを別々の音声(シニフィアン)で名づけることにより、それぞれを私たちには異なる価値(シニフィエ)を持った存在に見立ててしまいます。そして、その言葉を知らない者には理解不能な独自の現実世界を、言葉で作り出すことが出来るのです。 こうした言葉の恣意性に似た性質を、倫理について説明した人が二五〇〇年前の中国にいました。儒教の祖である孔子です。倫理とは、道徳やモラルに近い意味の言葉で、人間としてしなければならない行動基準のことです。「仁」=【思いやり】と「礼」=【その表現】の結びつきで倫理が出来ていると孔子は言いました。これは、言葉が意味・概念とそれを表す音声・文字で出来ているのに似ています。思いやりを表現する方法はいろいろなので「仁」と「礼」の結びつきは恣意的だし、たくさんの礼儀作法が生まれると、表現される思いやりの種類も増えていってしまいます。 このように倫理は根源的な恣意性を持っているため、人間の心には困ったことが起きてしまいます。「伝染病が流行してるんだから外出を控えるのが思いやり」という考えが生まれる一方、「そんなことしたらいろんなお店が困ってしまうじゃないか」という考えも生まれます。何が正しいか、悩み、惑い、葛藤するのは、私達の心が背負う宿命なのでしょう。
今回のフリートークは、私の世界観として、存在の用具生と他者性、記号的実在と記号前の神々の実在、科学的実在と文学的実在などについて話し、その後、AIに意識を持たせることや、仏教の執着とキリスト教の罪の対応関係などについて話しています。同じようなことに関心のある方は聞いてください。 なお、雑音が多くなってしまった上、音声が小さくなりました。すみません…、
遠い未来の技術で甦ることを期待する人々のため、アルコー延命財団では、顧客の死後その肉体を凍結保存しています。全身凍結ではなく、頭部だけ保存する人々もいます。 凍結した肉体や脳を復活させる技術が登場するかしないかは分かりませんが、脳のデータをコンピューターにコピーして保存しておくことは不可能ではないかもしれません。人間の脳は860億のニューロンで出来ており、各ニューロンには1万の接続があるため、一個の人間の脳には1000兆の脳細胞間接続の独自パターンがあると言われていますが、それは現在の地球にある全てのデジタルコンテンツの合計と同じサイズのバイト数に相当します。しかし、コンピューターの能力は18ヵ月ごとに倍になっているため、あなたの神経回路のマップをコピーできる日が来るかもしれません。 ただし、神経回路図を保存してもそれだけで意識が生じるわけではありません。思考や感情や認識を生み出しているのは、細胞間の接続で実行される毎秒何千兆もの化学的物質の放出や、タンパク質の形態の変化、ニューロン軸索を伝わる電気的活動の波です。そのため、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のヒューマン・ブレイン・プロジェクトは、人間の脳のシミュレーションを実行できるハードウェアとソフトウェアのインフラの完成を目指しています。 では、完全な脳のシミュレーションで意識は再現できるのでしょうか。それは知覚し、考え、自己を意識する存在となるのでしょうか。動物のニューロンとて物質でできており、電気的・化学的なやり取りをしているだけなので、細胞を回路に、酸素を電気に置き換えても、心を生み出す科学反応は起こせそうです。それなら、人間の脳のコピーでなく、人工知能でも心を持つことは可能に思えます。 しかし、自律神経も感覚神経も運動神経も、呼吸や栄養摂取といった生理反応によって活動できるものであると同時に、その生理反応を助け維持するために存在しているものです。生理によって心理が生まれ、生理のために心理が働くわけで、生命維持のアルゴリズムが神経系の活動である以上、維持すべき肉体がなければその活動は意義を持たなくなります。糖を必要とする肉体がなければ、「甘い」という快感の報酬系も生成されません。 肉体の生理が障害や矛盾に直面した時、神経系に葛藤が生じます。その問題を解決する新たなアルゴリズムを生む作用が思考であり意識であるなら、心と体は一つのものでしょう。
2007年、ラムッスン脳炎による発作で苦しんでいたキャメロン・モットという少女が、12時間の神経外科手術のすえ、脳の半分を摘出されました。しかし、手術後も彼女は体の片側が弱いだけで、他の子どもたちと同じように言語、音楽、数学、物語を理解でき、スポーツにも参加することが出来ました。脳の残り半分が失われた機能を引き受け、神経の配線をし直し、ほぼ全ての働きが半分のスペースに押し込まれたのです。このように、新しい状況に順応して学ぶたびにみずからを変えるという脳の可塑性が、テクノロジーと生物学の融合を可能にします。 人工内耳は、外部マイクロホンが音声信号をデジタル化して聴覚神経に送り、人工網膜は、カメラからの信号をデジタル化して目の後ろの視神経につながれているグリッド電極に送ります。現在、何十万という聴覚・視覚障害者がこうした装置で自分の感覚を取り戻しています。初めのうち異質の電気信号は脳にとって理解不能ですが、やがて神経ネットワークは入ってくるデータのパターンを抽出し、大ざっぱでもそれを理解する方法を見つけ、他の感覚と相互参照し合って入ってくるデータの構造を探り出し、数週間後には情報が意味を持ち始めるのです。 脳という汎用の計算装置は、入ってくるどんな情報でも活用できるアルゴリズムを構築し様々な感覚を生み出します。そこで、私たちの五感やバランス感覚、温度の感覚などで捉えることのできないものを直接脳に送り込むことを可能にすれば、人間にも紫外線や赤外線や超音波に反応する感覚が身につけられるかもしれません。デイヴィッド・イーグルマンは、小さな振動装置で覆われているべストを作りました。身に着けていると音のデータストリームが胴体に伝わる振動パターンに感覚代行され、5日も経つと話されている言葉が特定できるようになるのです。 感覚は拡張することも可能です。スマホの画面を見ることなく、インターネットの天気や株価のデータを脳で直接理解できるようになるかもしれません。ただ新しい感覚を持つだけでなく、新しい運動を作り出すことも可能です。脊髄障害で筋肉の動かなくなったジャン・シュールマンは、左運動皮質へ2個の電極を埋め込むことで、ロボットアームを動かせるようになりました。 発展すれば、人間は宇宙ステーションにいるロボットを感覚的に操作することさえ可能になることでしょう。
私たちは隣人の微細な表情の変化を見てそれを自分の顔にコピーし、その表情に対応した痛み、悲しみ、怒り、喜びといった感情を自分の中に再現するミラーリングという能力を先天的に持っています。この共感こそが人間社会の道徳の根源で、無意識の集団的共感の連鎖が「見えざる手」となって人間を社会秩序に従わせるのだと、倫理学者で経済学の祖アダム・スミスも『道徳感情論』において説いています。 隣人に共感し、同時に隣人の共感を期待しながら人間は集団の中で生きていますが、そんな個体の集合が一つの生命体として部族や民族や国家の集団的思考と行動を生み出す事は、人間の強みである一方、怖さでもあります。 1995年7月11日 、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで、国連の駐留地から追い出された8000人以上のイスラム系ボスニア人が、外で待っていたセルビア人武装集団の手により、国連軍の目の前で10日の内に殺害されてしまいました。この事件を含め、ユーゴスラビア紛争中の1992年から95年の間に、10万人を超えるイスラム教徒がセルビア人に虐殺されています。第二次大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺に恐怖し、二度と同じ事を繰り返さないと誓ったヨーロッパで行われた現代のジェノサイドです。 なぜ隣人の痛みに共感できる私たちに、こんな虐殺をしてのけることが出来てしまうのか?その理由は、外集団と内集団の違いにあります。スレブレニツァでは、ついこの前まで同じ学校で学び、同じ街で働いていた人々が、隣人に銃を突きつけて撃ち殺しました。人間は、自分の属す集団の中で共感し合う一方で、その外にいる人々のことを物として扱えるような感情の神経スイッチを脳の中に持っているのです。 綿棒を手に当てた写真と、注射針を手に突きつけた写真を見比べた時、後者には脳の痛みを感じる領域が活性化します。しかし、この写真にキリスト教徒、ユダヤ教徒、無神論者、イスラム教徒、ヒンズー教徒、サイエントロジストといったラベルを一つ貼り付けるだけで、脳の活性具合は変わります。自分の属す集団のラベルが付いた手の写真には痛みを感じるのに、外集団のラベルが付いた写真だと、内側前頭前野の活性具合が落ちるのです。 内集団と外集団を分けるスイッチは身近なイジメでも押されています。このおかげで、昨日まで友人だった人の痛みに反応せずにいられるわけです。
現在のスマートフォンは、小さくなったコンピューターと言える性能を持っています。しかし、これがインターネットに接続していなかったら、私たちが重宝しているその能力のほとんどは消えてしまうでしょう。一方、世界中のスマートフォンが接続していないSNSというのは想像できるでしょうか。個々の端末が接続していない時、そこにはインターネットも存在していません。 人間も、個々の大脳等の神経ネットワークの働きだけでは、私たちの考える個としての人間の姿を説明できません。私たちの存在の半分は、他者によって出来ているからです。また、私たちは、他者とつながり合った社会的動物として情報交換することで、巨大な集合的生命体として存在しているとも言えます。それは、個々の細胞の集合として生物が存在し、個々のニューロンのシナプス反応により全体としての神経系が生まれるのと同じことです。 ウサギ、電車、モンスター、飛行機、 子どものオモチャ、これらはみなアニメのキャラクターとして登場し、人間はこれらを自分たちと同等の存在とみなして感情移入することが出来ます。心理学者のフリッツ・ハイダーとマリアンヌ・ジンメルが1944年に作った短編映画は、こうした私達の共感能力の強さをよく示しています。映像には大きな三角形と小さな三角形と円が動き回る様子が映っているのですが、それが私達には、大きな三角形に襲われた小さな三角形と円が、協力して戦い、逃走に成功した物語として見えてしまうのです。 無機的な図形の運動にさえ社会的意図を読み取ろうとするこの能力は、まだ話すこともできない赤ん坊の頃から持っています。1歳未満の赤ちゃんに、アヒルをいじめるクマと、そのアヒルを助けるクマの人形劇を見せ、2匹のクマの人形を目の前に持っていくと、ほぼすべての子が親切なクマと遊ぼうとします。生存のためには敵と味方を素早く判断する能力が不可欠であるため、目の前のあらゆる事物がまず他者として現れる能力を、私達は生まれつき持っているのです。 人間は成長に従い、文脈によって複雑化していく社会関係に直面します。そこで脳は、互いの言葉と行動の他、その声の抑揚、顔の表情、身ぶり手ぶりから、他者の意図を読み取みとっていきます。しかし自閉症の人の場合、脳のこの共感機能が活発に働かないため、他者が表情や仕草に表す情報に反応できないようです。 他者の意図を読むためには、ミラーリングが必要です。これは、微細な顔面神経が相手の表情を無意識のうちにコピーして自分の顔でその表情を真似することです。これにより他者の気持ちを脳に再現することが出来るのです。 長年連れ添った夫婦の顔が似てくるのは、このミラーリングの積み重ねの結果だと言われています。
目の前の幾つかの選択肢から一つを選ばなければならない時は、現在の生理的な状態が決断の決め手となります。純粋な情報の比較計算しかできないと、考えられる可能性は無限にあるため、いつまでも決められないのです。では、選択の結果が未来に関わる問題の場合どうでしょう。 今日は日曜日。最近ハマっているゲームをなんとかクリアしたい。でも、二週間後に中間テストが迫っていて、準備を始めないと間に合わない。だが、十歳下の弟が自転車の練習を手伝って欲しいと言う。弟は自分になついているので可愛いし、弟に付き合ってあげれば家族の平和にも貢献できる。こんな未来の査定に迫られる状況にも、生理現象、ドーパミンと呼ばれる神経伝達物質の報酬が、選択の基準になります。つまり、選択肢の中で一番報酬の大きそうな方へ行動を移すわけです。 しかし、未来の事は結果が出るまで時間がかかる上、期待通りの報酬が得られるかも決まっていません。弟に付き合う事を選択した結果、弟が転んで怪我をし、「お兄ちゃんが手を離したせいだ」と泣いて両親に訴えれば、親子喧嘩になってドーパミンの放出は抑制されます。逆に、弟が思った以上に上達して自転車に乗れるようになり、お祝いに家族で高級寿司屋へ行くことになればドーパミンの放出量は急増します。予測以上の結果が出ればその行動の査定額は上がり、逆なら査定額も下がります。 さて、どんなに査定額の高い未来の選択肢でも、現在目の前にある欲求には負けてしまうものです。太ると分かっていても目の前のケーキは食べたくて仕方がない。査定額の高い未来より、悪魔の誘いに惹かれてしまうのです。 ギリシャ神話に出てくる英雄オデュッセウスは船旅の途中、海の精霊セイレーンの海域に入ります。この精霊の歌は大変美しく、聞く者は歌に惹かれて海に飛び込んだり、船を岩にぶつけたりすると言われています。どうしてもこの歌声を聞きたかったオデュッセウスは、船乗りたちの耳に蝋で栓をし、自分の体はマストに縛りつけておきました。歌声が聞こえると彼は海に飛び込もうとするのですが、耳栓をした船乗りたちはそれを無視して船を進め、無事にその海域を通過できました。 上記のオデュッセウスのように事前に行動へ制限を加えられない時には、意志力が必要になります。しかし、食事をしたいのに我慢している時などは生理的に大量のエネルギーが消費され、他の事に使う力が削がれてしまいます。囚人の仮釈放に関する2011年の研究で、1000件の判事の裁定が分析されたところ、食事休憩の直後では仮釈放が認められる割合が65%だったのに対し、休憩直前では20%しか仮釈放が認められませんでした。空腹で、丁寧に裁定する意志力が残っていなかったようです。 選択とはやはり、生理的に決まる現象なのです。
脳外科医は手術中に患者の脳に電極を当て、ニューロン間の電気信号のやり取りをスピーカーに流し、電圧の微小な変化を音声に変換して、それを頼りに手術を行います。電極を当てる場所によって「ポンポンポンポン」になったり、「ポン…ポンポン…ポン」になったり、音のテンポが変化しますが、流れる情報の内容によっても神経ネットワークはそれぞれ異なる音を発します。 脳には痛みの受容体がないので、手術中でも患者と話をすることができます。上の有名な騙し絵「若い女性と老婆」の絵を見せ、若い女性と老婆のどちらが見えるか尋ねると、若い女性と答えた時と、老婆が見えたと答えた時では、「ポン」のテンポが異なります。これは、電極を当てた個所のニューロンが独力で知覚の変化を起こしているわけではありません。一つのニューロンは何千という他のニューロンとつながり合い、蜘蛛の巣のようなネットワークを形成しており、何十億というニューロンの協働の結果、音のテンポが変化するのです。観測者が捉える変化は、脳の広大な領域で起こるパターン変化の反映であり、脳内で一方のパターンが他方に勝つ時、見え方が決定されます。 アイスクリーム屋でバニラとチョコのどちらの味にするか迷っている時も、バニラを選ぼうとするニューロンネットワークと、チョコを選ぼうとするネットワークが拮抗しています。それぞれのニューロン群は必ずしも隣りあっているわけではなく、感覚や記憶に関わる領域にその網を広げ、広範囲にまたがるネットワークになって自己を主張し合います。そして、ネットワーク同士のこの主張合戦こそ、私達が悩み、葛藤している状態です。大脳では、こうしたジレンマが日々起きて、意識を生み出しているのです。 眼窩のすぐ上にある眼窩前頭皮質は、体の状態、空腹、緊張、興奮、当惑、渇き、喜びなどを、脳の他の部分に伝える信号の流れを統合していますが、ここを損傷すると肉体の生理的欲求がその時々の外部からの情報に価値を与えることがなくなるため、複数の選択肢から一つを選ぶことができなくなります。スーパーで買い物しようとしても、全ての商品についてそれを買う意義が、身体の欲求と関わりなく理性的に主張されるので、永遠にそれぞれの商品の有用性を比較計算し続ける人工知能のように、具体的な行動に踏み出すことなく立ち往生してしまうのです。美味しそうなものに出すよだれ。値段の高さに汗ばむ手。魚の缶詰で食当たりした記憶が生む背筋の寒け。それらが私達の選択と行動の源です。 人間は理性だけでは決められません。決断には生理状態や感情が不可欠なのです。
意識とは何かについての仮説(あくまでもこれって私の感想ですが)について話しています。普段は原稿の音読ですが、今回は初めての、原稿無しのフリートークになりました。内容は、「意識とは、苦しみのこと」という仮説の検証を、以下のような仏教の話を交えながら進めています。 仏陀の説いた「一切皆苦」の謎。 世界には、苦しいことも、楽しいこともともにあるではないか? → サンスクリット語、古代パーリ語で言う「一切皆苦」の「苦」と、一般的な「苦しみ」との違い(中村元の著書より)。 仏教でいう「苦」とは、思い通りにならない状況、儘ならない世界における葛藤を表す言葉である。欲しいものが手に入らない渇望の状態ももちろん苦しいが、欲しいものが手に入ることで今度はそれが失われる不安の状態になるのも苦しみだということ。 すなわち、何かが欠けているのは不快だが、快感が失われていくことによっても不快になるということ。 仏教では、世界のあらゆる事物は変化し続けている、つまり「諸行無常」であり、いかなる事物も何らかの因果関係によって現れており単独で存在できる実体は無い、つまり「諸法無我」であるというこの世界のデフォルト設定が、「一切皆苦」の原因として説明されており、その「苦」に満ちた状態からの解放、つまり「涅槃寂静」が目指されている。 「四苦八苦」 「四苦」とは、生老病死という人間には避けようのない四つの「苦」。 「八苦」とは、四苦に加えて誰もが必ず経験する「求不得苦」「怨憎会苦」「愛別離苦」「五蘊盛苦」 という4つ苦しみが人間にはあるということ。 求不得苦(ぐふとくく):お金、地位、名誉、物など手にはらないものがある苦しみ 怨憎会苦(おんぞうえく):妬みや憎しみなど嫌な感情を抱く人と出会う苦しみ 愛別離苦(あいべつりく):どんなに愛するモノであっても、いつかは必ず別れなければならない苦しみ 五蘊盛苦(ごうんじょうく):体や心が思うようにコントロールできない苦しみ
1987年5月23日の夜、自宅でテレビを見ながら眠りに落ちたケン・パークスは、妻の実家で仲の良かった義父と義母を殺害した後、最寄りの警察署に出頭し「僕は誰かを殺した気がする」と告げました。遺伝的な睡眠障害のあった彼は、後に夢遊病であることが裁判で認められ、釈放されることになります。人は意識のない状態で車を運転し、殺人を犯すことも出来てしまうようです。 20世紀初頭の科学者フロイトは、それまで悪魔の憑依や意志薄弱で説明されてきた精神疾患の原因が、目に見えない脳の活動、無意識にあることを発見し、無意識の解明を患者の治療に応用しました。精神疾患に限らず、私たちが何を考えどう行動するかは、無意識によって決められているのです。 先に与えられた刺激が後の刺激の処理の仕方に影響を与える現象を「プライミング効果」と言います。例えば、暖かい飲み物を持った人と、冷たい飲み物を持った人に、家族との関係について質問すると、前者は好意的な意見を言い、後者はやや好ましくない意見を述べます。悪臭漂う環境にいる人は、他人の行為に対して倫理的に厳しい意見を持ったり、ビジネスの取引の場で硬い椅子に座っている人が強硬な交渉をする一方、柔らかい椅子に座っている人は譲歩しがちになったりします。 無意識に人々の行動に影響を与える「ナッジ」と呼ばれる注意喚起や控えめな警告もあります。スーパーで果物を目の高さに並べると客が健康的な食べ物を選択したり、男性便器に蠅の絵を貼るとうまく狙いをつけるようになったり、従業員を自動的な年金積立制度に加入させるとより良い貯金の習慣に繋がったり、人々の行動を無意識のうちにリードすることはできるのです。 無意識が思考と行動を決定するなら、自由意志はあると言えるのでしょうか。人間の脳には小脳と大脳があり、無意識的な運動を担っている小脳には大脳の数倍のニューロンがありますが、意識が発生するのは大脳です。大脳に意識が生まれ、小脳に生まれない理由は、それぞれの情報伝達を担う無数の神経モジュールが繋がっているか否かにあります。大脳では色や形や明るさ、音や臭いや味や熱さなど情報を伝えるモジュールが互いに結びついていますが、小脳にはそうした統合が見られないと統合情報理論では説明しています。百億以上のニューロン統合の組み合わせは如何なる存在にも予測不能なアウトプットを生じますし、外部からの情報と内部の生理との間には矛盾と葛藤が生まれますから、その辺りに無意識の停滞としての自由意志が存在すると言えるのかもしれません。
カップに入ったコーヒーをひと口すする、そんな単純な行動も何兆という電気インパルスが支えています。視覚系がコーヒーカップを捉えるためにその場を見渡すと、過去の同じ状況の記憶がよみがえり、前頭皮質から運動皮質へ信号が送られ、胴体・腕・前腕・手の筋肉収縮を正確に連係させてカップをつかみます。カップに触れると、神経はカップの重さ・位置・温度・取っ手のすべりやすさなどの情報を送り返し、その情報が脊髄を通って脳に流れ込むと、補完情報がまた送り返されます。基底核、小脳、体性感覚皮質、その他さまざまな脳の部位どうしのこうした情報の複雑なやり取りの結果、一瞬でカップを持ち上げる力や握力が調整され、長い弧を描くようにスムーズに口元までカップは持ち上げられ、やけどしないように液体が唇に流し込まれるよう筋肉の調整が行われます。 このような集中的な計算とフィードバックをやってのけるには、世界最速のスーパーコンピュータが何台必要になるか分かりません。ところが、その時意識されているのはテーブルの向こうにいる相手との会話の内容で、しかもその会話を成立させる唇の動きや呼気の調整も、意識されることはありません。私たちの運動のほとんどは、無意識のうちに行われているのです。 イアン・ウォーターマンという男性は、胃腸の流感による神経障害により、触覚と、固有受容覚という手足の位置に関する感覚神経を失いました。しかし、彼はその状態に屈することなく、手足の位置の全てを視覚に頼り、一つひとつの動きに意識を集中させることで、歩行できるようになりました。とはいえ、身体感覚無しに体を動かすということは、全自動で動いていたロボットの手足の動き一つひとつを手動で操作するような困難な作業です。人間と同じように運動することのできる全自動ロボットは、今のところ存在しません。 人間の運動のほとんどは小脳を中心に無意識的に行われています。スポーツや曲芸などは、いかに無意識的に行えるかが重要で、何かを意識するとむしろ動きが鈍くなります。では、行動の大部分が無意識的に全自動で行われるのなら、いつ意識は表れるのでしょう。それは、予想外に無意識の行動が阻害された時や、神経ネットワークが構築されていないような前例のない事をしなければならない時です。そのような状況における神経の葛藤こそ、意識の正体だと言えそうです。