このツアーを、アムステルダムのもう一つの広場、「新しい市場」を意味するニーウマークトで終えることにしましょう。この広場はデ・ワレンではなくチャイナタウンにあるのでで、多くのアジア系レストランを見ることができます。このツアーの最後に、風俗街で最も有名だった70才の双子の姉妹売春婦、ルイーズ・フォーケンスとマーティン・フォーケンスさんに関するドキュメンタリーの短いトレーラーをご覧いただきたいと思います。二人は自分たちの人生について話し、風俗街の現状についてコメントしています。二人はとても正直でユーモアに富んだ女性たちなので、あなたにもこのビデオをお楽しみいただければと思います。これであなたもデ・ワレンを訪れ、その魅力をご覧になりました。デ・ワレンはただの売春センターに留まらず、とても活気のある、訪問者にとって魅力的な場所であることは確かなのです。Photo De Waag Nieuwmarkt Amsterdam by Gouwenaar is licensed under CC0 1.0
ここは風俗街の特別なエリアです。右手にある通りは「キリストの血通り」を意味するブロードストラートと、「僧侶通り」を意味するモーニケンストラートです。中世には30もあったアムステルダムの修道院のうちのほとんどが、現在の風俗街にありました。周りの環境が変化したのにも関わらず、古くからの通りの名前がそのまま残っているのです。右に曲がり、これらの2つの通りの内のどちらかに進んでください。運河に並行する小さな通りの内のひとつは数年前までブルージーンズ路地と呼ばれており、この呼び方の背景には興味深い話があります。昔、ここで働いていた女性が普通のビキニやランジェリーに飽きて、青いジーンズ生地のショートパンツを試してみることにしました。その女性はとても人気となり、たちまちこれらの通りの女性の半分が同じような服を着るようになりました。これは売春の世界における効果的なマーケティングの例です。この小さな路地をのぞいてみてください。これらの通りでは多くのアジア人女性が働いていますが、オウダゼード・アヒャーブルフワルとブロードストラートの角はトランスセクシャルが集う場所として知られています。風俗街に男性がいるかどうか、メニューのクイズをご覧ください。Photo Boedstraat - The Blood Street by Christopher Elison is licensed under CC BY 2.0
運河の左手には、アムステルダムのセックスシアターの中でも議論の余地なく一番有名なカサ・ロッソ劇場があります。橋を渡って近くに行き、今夜のプログラムやポスターをご覧ください。ひさしの横にあるピンクの像にご注意を。おしっこを引っかけられるかもしれません!セックスシアターでは売春サービスは行われず、代わりにステージでの役者によるパフォーマンスが行われます。基本的に、このパフォーマンスとはステージ上でのセックスを意味し、観客は自分達が許容できる範囲内での参加を求められます。セックスシアターと売春婦はお互いを補完しています。女性のところに行く勇気のない人はシアターに行き、シアターで興奮した人は女性を求めて街に繰り出します。メニューのクイズで、誰がカサ・ロッソでパフォーマンスを行っているかご覧ください。Photo Casa Rosso 1 by Targje is licensed under CC BY-SA 4.0
運河に沿って歩く間に、風俗街での生活についてもう少しお話ししたいと思います。アムステルダムのような煌びやかで生き生きした街は決して立ち止まることなく、常に変化していくものです。その一部である風俗街もまた変化し続けているのです。数年前、当時のアムステルダム市長であったヨブ・コーヘン氏がこの地区は売春婦だけでなくファッションデザイナーの場所にすべきだと提案しました。そのため、いくつかの飾り窓が閉鎖され、若く冒険心旺盛で先端のファッションデザイナーに部屋が与えられました。オウダゼード・アヒャーブルフワル(Oudezijds Acherburgwal)を歩いていると、女性の窓の真隣りに小さなファッションショップが見られます。デザイナーたちは、風俗街付近での経営は双方にとっての利点となり、街全体のイメージにもプラスになると考えています。さらに、歴史的に見てこの地区には織子や仕立屋も住んでいたため、このような隣人関係はこれが初めてということではありません。アムステルダムは、新しいスタイルのファッションと古くからの飾り窓が隣り合い、マネキンと女性達が並ぶ、独特な街です。運河に沿って歩き続けましょう。Photo Erotica by Emilio Labrador is licensed under CC BY 2.0
現在ヴァールゼ教会は一般に開放されており、日曜日の通常の礼拝を行うと共に、様々なアーティストによるコンサートを楽しめます。メニューからこの教会の内装の写真を何枚か見ることができます。教会の正面に立ち、その歴史に耳を傾けてください。ヴァールゼ教会(ワロン教会)は、古いフランスカトリック教会で、15世紀の初めにここアムステルダムに設立されました。後の宗教改革期に同教会はプロテスタントに改宗しました。同教会は、17世紀の終わりまでかなり小さな教区教会であり続けました。その後、ユグノーと呼ばれるフランス人プロテスタント教徒が多数フランスから追放され、アムステルダムに亡命してきました。彼らは現在ヨダーン(フランス語で庭を意味するジャーディンに由来)と呼ばれる地区の近くに住んだため、ヴァールゼ教会は彼らの到来と共に拡大し繁栄しました。この教会には独特でドラマチックな話が 残されています。1775年、フランス人のパン屋の召使いが牧師を撃ち殺そうとした事件が起こりました。この召使いは、地元の裕福な商人の娘と恋におちたのですが、この商人はこの牧師に結婚を強く反対されていました。そのため、怒り狂った男は礼拝中の教会に駆け込み、牧師に向けて銃を発砲しました。牧師は死ななかったものの、地面に倒れ、重傷を負いました。彼は怪我から回復した後、この不幸な恋人が牢に入れられるよう手を尽くしたそうです。ヴァールゼ教会のもう一つの重要な歴史的事実は1870年にフィンセント・ファン・ゴッホがこの教会の礼拝に参加したことです。Photo Waalse Kerk (Delft)3 by Chris06 is licensed under CC0 1.0
橋の上から景色をご覧いただいている間、風俗街で重要になっている現在の課題についてご説明いたします。比較的最近の売春合法化によりいくつかの問題は解決されましたが、同時に新たな課題も生まれました。合法化はこの業界における人身売買、売春斡旋、暴力、薬剤濫用、マネーロンダリングの著しい増加をもたらしました。そのため、2006年から2007年にかけ、アムステルダム市では、飾り窓の約半分を閉鎖しようとする動きが起こりました。当時のアムステルダム市長ヨブ・コーヘン氏は風俗街そのものには賛成だが、そのコントロールが非常に難しいため、数を減らす必要があると説明しました。その後政府は新しいカフェやバー、デザイナーショップ、高級住宅地等、売春とは異なる目的の施設に変えるため、この地区の約20件の建物を買い取りました。当局によるこのような行為は、コミュニティ内から多大な非難を浴び、風俗街の維持を訴える数多くのデモが実施される結果となりました。売春婦たちも風俗街を出て街角で働かなければならなくなるため、不安にさらされました。そうなってしまえば、彼女たちの安全が脅かされ、業界のコントロールも難しくなり、政府がまさに避けようとした問題を逆に引き起こしてしまったでしょう。最終的には、飾り窓の数は以前より減ったものの、その減少数は当初の計画より少なく収まりました。そのため、現在も観光客や地元の人々は風俗街を以前のまま楽しめることになっています。メニューから、数年前の人身売買に反対するプロジェクトを説明したビデオをご覧いただけます。とても印象的なビデオです。Photo Slave Trade by Nina Jean is licensed under CC BY-ND 2.0
売春は世界で最も古くからある職業の一つだと言われています。アムステルダムでもその歴史は何世紀も遡ります。全体的に、オランダにおける売春の発展は他のヨーロッパの国々と大体似ていますが、その結果には著しい違いがあります。中世では売春に対する意見は二つの側面がありました。一方では市民コミュニティに属する純潔な女性を守るために売春が必要不可欠とみなされ、他方では誇りを捨てた女性の完全に 不道徳な職業とみなされていました。16世紀には、売春に対する見解はプロテスタントの影響によりかなり厳しくなりました。しかし、その後は道徳観が緩くなり、公式には禁止されていたものの、実際にはアムステルダムの売春は繁栄していました。当初は売春宿が一般的でしたが、賭博場やミュシコへと変わっていきました。こうした施設は、客が女性との会話を楽しんだり踊ったりする、豪華で華麗な場所になったのです。19世紀初めは、より厳しい大衆道徳とナポレオン が登場しました。ナポレオンは、フランスや占領国に売春規制制度を導入しました。そのため、ここオランダでは売春婦は警察への登録と週1度の健康チェックが義務付けられました。しかし、ナポレオンがいなくなると共に、これらの規制もなくなりました。その後の19世紀の間、売春は奴隷や女性の搾取、女性の権利侵害と見なされるようになりました。様々な社会において、女性を売春から守るべきと考えられるようになったのです。しかし、この業界で働く女性の中には、そういった救済を望まない女性たちもいました。この議論はしばらく続きましたが、20世紀までには、売春の規制は事実上なくなりました。20世紀を通じて、売春はますます公のものになり、2000年には売春宿の禁止が撤廃され、売春が完全に合法化されました。Photo Joachim Beuckelaer - Brothel - Walters 371784 by Joachim Beuckelaer is licensed under public domain
あなたの右手に、トロンペッタースティーヒとドレベハイネンスティーヒという2つのとても狭い通りが見えます。手前の通りがアムステルダムで一番の狭い通りで、その狭さから一見バーの入り口と間違えてしまうかもしれません。実は、この場所は、アムステルダムで最も高級で美しい女性が隠れているところです。観光客であふれた表通りを避けて、この場所の親密な雰囲気のおかげで女性たちはお客さんと交渉しやすいのです。また、この場所で働くのはステータスでもあります。そのため、ここの部屋に空きを見つけるのはとても困難で、「ローテーション」で働く女性たちもいます。つまり、誰かが病気や他の理由で休み、空きが出たところに入るのです。そのため同じ女性が日によって違う部屋で働いているかも知れません。ここで働いているのはほとんど白人女性です。もしあなたがこのツアーを昼間に行っているのであれば、この2つの通りの窓はほとんど閉まっているはずです。それでも、お望みであれば、通りを散策してみるのも良いでしょう。ただし、必ず同じ場所に戻ってきてください。ツアーはこの場所から再開し、運河を下っていきます。Photo Red Light District by Valdiney Pimenta is licensed under CC BY 2.0
通り道では、教会の壁の近く、石畳に埋め込まれた小さなブロンズのレリーフをお見逃しなく。このレリーフには胸を撫でている手が描かれており、明らかに風俗街で働く女性を意味しています。この浮き彫りはある晩、突然ここに置かれたもので、とても不思議なことに誰が作者なのか分かっていません。年に一度、彫刻家がメンテナンスとクリーニングのためにレリーフを回収し、その後元の場所に戻します。過去15年間の間に、同じ匿名芸術家が、いくつもの作品をアムステルダム市内に残しています。このレリーフは、風俗街を示すランドマークの一つです。このレリーフは旧教会の入り口のすぐ横にあります。目の前の運河に辿り着くまで、教会に沿って歩いてください。そこで運河を右に曲がり、ツアーを続けましょう。Photo Bronze relief Oudekerksplein Amsterdam by Stacey B is licensed under CC BY-SA 2.0
ここには窓の中に立っている働く女性の像があります。この小さなモニュメントは、アムステルダムと世界中の性業界で働いている女性を称えて、先ほど通り過ぎた売春センターの設立者であるマリスカ・マヨールさんが2007年に建てました。面白いことに、この像は何と、マリスカさん自身が彫刻家の前に立ち、ポーズをとって作成されました。マリスカさんは、この像がこの場所に永遠に置かれることを願っています。では、教会の周りを歩いてみましょう。Photo Amsterdam Els Rijerse Belle (2007) by FaceMePLS is licensed under CC BY 2.0
旧教会のすぐ隣の細い道の角には、売春情報センターがあります。昔風俗街で働いていたマリスカ・マヨールさんが20年前に開設しました。このセンターを開設した当初の目的は、労働環境、価格、振る舞い方、営業方法、法律的なことなど、売春に関する様々な情報を風俗街で働く女性に提供することでした。しかし、時が経つにつれ、このセンターはそれ以上の場所になりました。現在マリスカさんは週に一度、ツアーを行っており、また「歴史的な売春宿」を見せる小さな博物館も開きました。さらにマリスカさんは「窓の向こう側」を体験できるワークショップを始めました。マリスカさんは、どのように座って、どのように振る舞えばお客さんの気をひけるか親切に教えてくれます。とても楽しく、窓の向こう側というとても独特な本物の経験をすることができます。メニューには、この小さな博物館とマリスカさんの写真が載っています。Photo Prostitution Info Centre by jtriefen is licensed under CC BY 2.0
オウデ・クーク(旧教会)は、市内で最も古い建物のひとつです。この教会は14世紀の初めに設立され、当初ただの木造教会でした。数世紀にわたり内装・外装共に数多くの変更が加えられ、徐々に現在の姿になりました。この構造の進化を説明したビデオを是非ご覧になってください。旧教会についてご説明する間、教会の正面で写真でも撮影されては如何ですか?その後、教会の周りを散歩しましょう。石像や絵画、その他豪華な装飾を含む元来のカトリックの内装は、プロテスタント教徒がカトリック教会を破壊した16世紀の聖像破壊主義時代に大きな被害を受け、ほぼ破壊されてしまいました。そのため、現在ではかなり控えめなプロテスタント教会になっています。この教会には著名なアムステルダム人も多く埋葬されており、約1万人の人々が2500の墓石の下に眠っています。その中には有名なオランダ人画家のレンブラント・ファン・レインの妻のサスキア・ファン・オイレンブルフもいます。旧教会では毎年3月9日に、午前9時頃にサスキアの墓に日の当たるのにあわせて太陽の朝食というイベントが催されています。現在、この教会では、コンサートや展示会等の様々な社会的行事も行われています。Photo Amsterdam Oude Kerk 2008 by Andreas Praefcke is licensed under CC BY 3.0
あなたは今、オウダゼード・フォールブルフワル(Oudezijds Voorburgwal)と呼ばれる運河に沿って移動しています。この運河は、風俗街の中心に位置し、最も興味深く、美しく、珍しい教会が幾つもあります。おどろくなかれ、これからそのうちのひとつである屋根裏教会(Ons' Lieve Heer op Solder)についてご説明いたします。名前から想像がつく通り、この教会は、非常に典型的なアムステルダムの運河屋敷の屋根裏にあります。右手に見える40番の家です。見逃さないようにしてください。ここは国立美術館に次いで、アムステルダムで二番目に古い博物館です。このカトリック教会は、17世紀半ばに裕福な商人であるヤン・ハルトマンにより設立されました。プロテスタントが権力を握る当時のアムステルダムでは、公の場でのカトリックのミサは禁じられていたため、ハルトマンは新しく購入した家の1階をお店と倉庫にし、屋根裏に秘密の教会を作りました。その後周辺に住むカトリック教徒がこの教会に通うようになり、すぐにその存在が知れ渡り人気となりました。よくある話ですが、大きな秘密として始まり、後に広く知れ渡ったのです。当時革命の時代は過ぎ去り、アムステルダム当局はカトリック教会に目をつぶりました。後にこの家はルドヴィクス・レイニエルス神父が買い取り、よりよい階段を作ったため、教会を訪れやすくなりました。こうして約200年間の間、屋根裏教会はアムステルダムの中心に住むカトリック教徒たちの教区教会でした。教会は上の階全体を占め、細長い身廊と約150人分の座席からなります。オランダ古典式の装飾が施され、ヤコブ・デ・ウィットによる有名な絵画「キリストの洗礼」が飾られています。残りの空間は、17世紀オランダ黄金時代の典型的な屋敷を見せる博物館になっています。この博物館と教会は一見の価値があります。ですが、行かないことにした場合のために、メニューから写真を見ることができます。Photo 'Our Lord In The Attic' Amstelkring Museum by Olivier Bruchez is licensed under CC BY-SA 2.0
売春やセックス観光に関しては、アムステルダムは最も人気のスポットのひとつです。オランダが最も安全に売春が行える場所だと信じているため、また売春婦も他の人たちと同じく尊重されているため、多くの女性たちがアムステルダムにやってきます。18歳以上で労働許可がおりているEU出身者であれば、誰でもここで部屋を借りて働くことが可能です。しかし、風俗街の家賃はちっとも安くありません。たった数時間の賃貸ですら約100ユーロかかります。そのため、売春婦たちは窓とキャビネットを共有して、しばしばシフト制で働きます。デ・ワレンでは、1000人以上の女性が働いています。標準的な最低料金は15分50ユーロで、忙しい夜に女性は1人で1500ユーロも稼ぐこともあります。窓の中で働いている女性たちはすべて自営のため、自分自身でスケジュールを組み、料金を設定し、税金を納めなければなりません。オランダで働く売春婦たちは法律と組合で保護されています。そのため、彼女たちには客を選ぶ自由があり、気に入らない客は拒否することができます。さらに、全ての部屋には非常ボタンがあり、セックス産業で働く女性たちを守っています。Photo Sex theater in Amsterdam (red light district) by Leon petrosyan is licensed under CC BY-SA 4.0
この通りの一番手前、左手に、真っ黒な古い家があります。これはアムステルダムに二棟だけ残っている木造の家のひとつです。この建物は1550年頃まで遡ることができ、ご覧のようにその倒壊を防ぐために建物の両側に煉瓦の支えが組まれています。この建物は、1階にある古いバーにちなんで、「サル達に囲まれて」を意味するイント・アーピェン('t Aepjen)と呼ばれています。ぜひ、中に入ってみてください。ここはアムステルダム最古のバーで、船乗りたちは現金ではなく海外から持ち込んだ様々な品で会計を済ますことができました。言い伝えによると、船乗りたちは、当時、お土産としてとても一般的だった猿で酒代を支払ったと言われています。ここは現在でも素敵なバーです。勿論、猿で酒代を支払うなんてことはもうできませんが。オランダ語には「イン・デ・アープ・ゲロジエルト・ジェン(in de aap gelogeerd zijn)」という言葉があり、直訳すれば「猿に囲まれる」ということで、深刻な問題を抱えていると言う意味です。おそらく、お金のない船乗りたちが猿で代金を支払ったこの場所に由来しているのでしょう。Photo In 't Aepjen by brownpau is licensed under CC BY 2.0
デ・ワレンの歴史は売春につきるものではなく、宗教とも深い結びつきを持っています。1578年までは、デ・ワレンには多くのカトリックの男子・女子修道院がありましたが、後にいわゆるアムステルダム革命により閉鎖されるか、他の地に移ってゆきました。これはプロテスタントがカトリックに取って代わり、政府が退陣したときの出来事です。これにより市内の宗教生活に数多くの変化が起こり、多くの教会が改装される結果となりました。デ・ワレンの 濃密な宗教生活は独特の跡を残し、今でも美しい教会が多く見られます。Photo Red-light district of Amsterdam by day. 2012 by Ввласенко is licensed under CC BY-SA 3.0
まず、デ・ワレンと呼ばれるアムステルダム市内の風俗街について、もう少し詳しくご紹介しましょう。この地区は、売春がとてもオープンに見られる場所として世界中に知られています。ここまでオープンに性的サービスが展示されている場所は世界中を探してもどこにもありません。女性たちは、たいてい建物の1階にある巨大な窓(飾り窓)に立っていて、コミュニケーションをとることが簡単にできます。この場所は観光客の間で人気がとても高いので、たくさんの人に圧倒されないようご注意下さい。デ・ワレンはアムステルダム市最古の地区であり、同市が生まれた場所と言っても過言ではありません。港に近く船乗りが多かったため、当初から売春で知られていました。窓を利用した売春は20世紀初頭に始まり、たちまち人気となったため、窓の数が増え、この地区は徐々に現在のような姿になりました。Photo De Wallen by Rungbachduong is licensed under CC BY-SA 3.0
あなたは今、市内で最も美しい建物の内のひとつであるアムステルダム・セントラル駅の前に立っています。目に入ってくるのは後ろの駅と目の前の大混乱。トラム、バス、自転車、そして大勢の人々が様々な方向からやってきます。しかし、ご心配なく!このマルチメディアツアーは、アムステルダム市内で最も面白く、それでいて物議をかもすエリアである風俗街(赤灯地区)を知ることができるよう楽々とご案内いたします。これから、この独特な場所の様々な特徴をお見せしますので、この風俗街にたくさんの見所があることがお分かりになるでしょう。Photo Amsterdam centraal side by S Sepp is licensed under CC BY-SA 3.0