Discoverイエスのもたらした変革 (小淵沢オリーブ教会)
イエスのもたらした変革 (小淵沢オリーブ教会)
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イエスのもたらした変革 (小淵沢オリーブ教会)

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山梨県北杜市小淵沢町のキリスト教会、小淵沢オリーブ教会のメッセージ配信です。
坂本牧師による「イエスのもたらした変革」シリーズをお届けします。
101 Episodes
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「イエス様は、なんで急に天に戻ってしまわれたんだろう?地球に残って、奇跡をどんどん行ってくれれば、こんなに伝道に苦労しないのに…。」 「どうして、いつ戻ってくるのか、はっきりと教えて下さらないのだろう?」 私たち人間は、とかく「目に見えるもの」や「はっきとした未来の予定」を求めがちです。人間的には、その方が神秘を自分の手のうちにがっしりと捉えられるような気がするからです。 しかし、イエス様は「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。」(ヨハネ16:7)と仰います。 イエス様の昇天以降、救いの御業は教会に託されました。あなたは、この途方もない期待に圧倒されてしまいますか? 「今の時代が分かれば、使命感が湧いてくる」―。日曜日の「パートタイムクリスチャン」ではなく、「フルタイムクリスチャン」として、それぞれの持ち場でしっかりとこの「天国の事業」に加わって生きていくことのヒントを坂本牧師が語ります!
現代社会では、噴出する問題に対してあらゆる分野の優秀な専門家が分析を行い、問題提起をしています。しかし、その中で驚くほど見過ごされていることがあります。 それは、霊的領域。 全世界を創られた神様と人間のあるべき関係についての問題です。 霊的戦いとは、天上で行われている天使と悪魔の戦いではありません。それは、私たち人間が霊的問題に対して鈍感になるように働きかけている悪魔との日々の戦いなのです。 イエス様は、私たちクリスチャンにこの霊的戦いに出ていくようにお命じになりました。 「自分に伝道なんて出来ない」「クリスチャンと名乗ることすら勇気がいる」と思っているあなたに、「戦いの中に真の自由と喜びがある」と坂本牧師がみ言葉をもって励ましを与えます。
「世界に一つだけの花」。SMAPファンならずとも、誰もが知っている大ヒット曲。「ナンバーワンではなくオンリーワン」という歌詞は、喪失しかけていた自信を多くの人にもたらしたといいます。 しかし、本当にそうでしょうか? SNSの世界で多くの人が「いいね」という他者からの承認を求めているように、相変わらず私たちは人からの評価を自己評価に投影しているのではないでしょうか。 聖書は、神様を知らなければ本当の意味で「あるがままの自分」を受け入れ喜ぶことは出来ないと教えています。 劣等感を持たずに生きること。 優越感を持たずに生きること。 神様を知ることは、この世の価値基準を打ち壊すーあなたが、本当の意味で「オンリーワン」として輝けますように。
「もっと自分はできると思っていたのに・・・」 「穴があったら入りたいほど恥ずかしい!」 「大切な人の信頼を裏切ってしまった」 あなたにもこれらのような体験がないだろうか。 だれでも人生において大小様々な挫折を経験し、時にはもう立ち直れないと思うこともあるだろう。 イエスの(自称)一番弟子ペテロも、命をかけた忠誠を誓った直後に裏切ってしまった。自己嫌悪のどん底にいる彼を、イエスはどのように立ち直らせ、初代教会のリーダーとなる器として建てあげたのか。 安易な「リア充」で自分自身の心をごまかしてしまう、弱い人間の姿。 それを全て知りながら、それでもご計画のために人を用いたいと思っておられるイエスの深い愛の言葉が、今あなたを挫折から回復させる!
保険会社は、「いざという時」に頼りになってこそ、その真価が問われます。主イエスは、罪という病で苦しんでいる私たちを深く憐れんで、このように仰っています。 「あなたには治療が必要だ。しかしその医療費は莫大であなたには到底支払うことの出来ないものだから、私が全額肩代わりをしてあげよう。あなたは保険料を払うことすらしなくていい。あなたに必要なことは、ただここにサインするだけだ」。 しかし、どうやって私たちはこの言葉を信頼できるのでしょうか?イエスが本物の救い主だったとなぜ言えるのでしょうか?100%あなたの罪は赦されたなどという保証はどこにあるのでしょうか? 救いの確証の基盤は、主イエスの復活のリアリティーを真に体験することにあります。 聖書は、「神の大能の力」によってのみ、私たちは復活のリアリティーを知り、体験することが出来ると言っています(エペソ1:17-21)。 人智によっては決して辿りつくことのできない復活のリアリティー。それを知らしめる「神の大能の力」とは、一体どれほどの力なのでしょうか? 「死ぬ」「思い出す」、そして「期待する」-。すでに神様があなたの内で始められた「復活」を、坂本牧師が3つのキーワードから精緻に語りなおします。
「私と一緒に最高の景色を見に行かないか?連れて行ってあげるから。」-こんな風に見知らぬ人に誘われたら、あなたならどうするだろう?危険極まりないと一蹴するのか、警戒しながらも付いていくのか、はたまた完全に信頼しきって喜んで付いていくのか?これはイエス・キリストを信じるのか、信じないのか、という人生の究極的な決断と重なる。 私たちは「土曜日の世界」に生きている。イエスが死を征服し、永遠の勝利を打ち立てた「日曜日の朝」は、完全にはまだこの世界に到来していない。この世はまだ、苦しみや悲しみで満ちている。それでもイエスが約束された完全な勝利を信じ、「土曜日の世界」で「日曜日の朝」を生きるのなら、それこそが信仰の歩みである。 信仰にはパラダイムシフトが必要だ。この世で「正しい」「良い」とされていることは、本当にそうなのだろうか?イエスの復活を信じ切れなかった弟子たち、祭司長やパリサイ人は、「土曜日」にしか生きることが出来なかった。 「イエスの物語」は十字架でおしまいだったのではない。祭司長たちは墓を厳重に封印してまで「イエスの物語」を終わらせたかった。しかし、神の用意したストーリーは敵の妨害をもってして、かえって打ち消すことの出来ない復活の真理をクライマックスにもっていく。 私たちは自分たちの力で「土曜日」を「日曜日」に変えたり、早めたりすることは出来ない。「土曜日」でも神の手は休みなく、そのご計画の成就のために働いている。私たちは生活の背景に溶け込む神の見えざる手を信頼し、自分のなすべきことに忠実でありながらも忍耐して「日曜日」を待ちたい。そうすれば、「土曜日」に生きながら主と共に「日曜日」の勝利を祝うことが出来るのだ。
あなたは社会の中で、どれだけクリスチャンとして大胆に生きているでしょうか?ごく親しい人の中でしか「クリスチャン」をカミングアウトしていないのだとしたら、それは霊的な「引きこもり」と言えるでしょう。では、どうすれば、ぶれない「クリスチャン」として、どんなコミュニティーの中でも大胆に生きていかれるのでしょうか? 大胆な信仰の歩みは、恵みによってつくられます。ユダヤ議会(サンヘドリン)の議員であった、アリマタヤのヨセフやニコデモは、イエスの十字架上の死に直面したことにより、あらゆる社会的な不利益を顧みずに「イエスの側」に立つ決意をします。 大胆な信仰の歩みに必要な要素は次の3つ。 確信の強さ(イエスがあなたを救ってくれたということに対する確信) 利益の認識(この世の生涯のあとに約束されている絶大な祝福の理解) 役割の自覚(どんなに小さな役割でも、神様は喜び用いて下さるということへの信頼) たとえ、あなたの今の信仰の歩みが大胆さに欠けたものであっても、落ち込むことはありません。無理に頑張る必要もありません。 神さまは、あなたがみ言葉に真摯に向き合うなかで、聖霊を通して救いの確信を強められ、賜物を通して大胆に証ししていく者へと変えていって下さるのです。
十字架上で、イエスは「テテレスタイ」と宣言されました。 それは「完済した」という意味で、あなたの過去・現在・未来に至る全ての罪の支払いが完了した(=許された)!ということなのです。 クリスチャン・ライフは、この「神様から見て100%良し!」とされるところからスタートします。 クリスチャンなのに、まるで罪が許されていないかのように罪責感を抱えている方、神様の機嫌を損ねたら救いを失うかのように、ビクビク暮らしている方・・・ そんな方は、知らず知らずの内に、「私の罪を許すのに十字架では不十分だった」と言っているのではないでしょうか? イエスを信じた瞬間、あなたの罪の借金は未来永劫ゼロになります。 そんな借金ゼロライフ、あなたはエンジョイしていますか?
十字架上で、イエスの有名な言葉が響き渡ります。 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」 救い主であるはずのイエスは、神に見捨てられたのでしょうか? この言葉の背景を学ぶと、決してそうでないことが分かります。 むしろ、神は沈黙の中で、雄弁にメッセージを語っておられます。 「神の存在を感じられない、意図が分からない、まるで神が沈黙しておられるようだ・・・」 そう感じている方、このメッセージをお聞き下さい。
十字架上で、イエスは3つの誘惑に直面します。 あの荒野の誘惑で退けられたサタンが、リベンジマッチを仕掛けてきたのです。 サタンの攻撃は、最も効果的なタイミングで行われ、最も救いを台無しにする、最悪にえげつないものでした。 しかし、それらの誘惑に全て打ち勝ち、『イエスは十字架から降りなかった』のです!イエスは降りなかった! それがどれ程の事だったか深く味わうとき、私達の内側から感謝と信仰が溢れてくることでしょう。
いよいよイエス・キリストが、3本の十字架の真ん中につけられます。 真ん中の十字架を境に、左右の罪人の行く末が明確になったように、十字架は様々なものの「違い」を明らかにします。 そして、「自分を愛している方が、自分の代わりに、過去・現在・未来の全ての罪を償った」という恵みは、あなたの人生に究極の革命をもたらすのです。 あなたも、この十字架の恵みを受け取ってみませんか?
いよいよ、十字架の道行きの場面に入ります。 過越の祭に来ていたクレネ人シモンは、ひょんなことから、重いイエスの十字架を代わりに背負わされることになります。 そして、坂本牧師も、14年間一度も治らない持病(目・腰)に苦しみつつ、夫婦二人三脚で、聖書の言葉を伝える働きに従事しています。 シモンは「不運な男」だったのでしょうか? 坂本牧師は「かわいそうな男」なのでしょうか? いいえ!イエスと共に十字架を負う道は、最高の買い物なのです! その苦しみが一切気にならなくなるほどの、圧倒的に豊かな人生が待っています! あなたもそんな人生を歩んでみませんか? ※メッセージの中で紹介した回文かるたは、こちらで購入できます。 https://koumaya.stores.jp
皆さん、薄々感じていませんか?あー!!クリスチャン生活って、不自由!! 好き勝手に生きられないし、良い人にならなきゃいけないし・・・ しかし、そのような時に感じる「自由」は、錯覚なのかもしれません。 「誰かに命がけで愛され、誰かを命がけで愛すること」 そこに本当の自由があるのです。 現実の世界には相変わらず制約や困難があります。 その只中にあっても、もっと大きな世界で起こった真の解放が、目の前の現実を凌駕していく、そのような「自由」を味わってみませんか?
今回は、ヘロデの裁判を取り上げます。 知性・理性・客観性を重視したピラトと対象的に、ヘロデには幼稚性・感性・主観性が目立ちます。 ともすれば、私達もヘロデのような態度で、聖書を読んだり神様に向き合ったりしていないでしょうか? ピラト的でもなくヘロデ的でもない、「幼子のようであり大人である」生き方を、聖書から学びましょう。
日本で信仰生活を送っていると、「え、キリスト教とか信じてるの?(なんて非理性的で主観的で愚かなんでしょう)」といった態度を取られることが、ありますよね? 私って、無知蒙昧で狂信的で前時代的な愚かな人間なのかしら・・・と不安になるかもしれません。 ご安心下さい!あのイエス様でさえ、ピラトに同じような態度を取られました。 しかしピラトのような態度には、大きな誤りがあるのです。 今回は、聖書から「愚かに見えてもあなたが勝者」という真理を学びましょう。
私たちは、無意識のうちに自分を裁判官にしていないでしょうか? 許容し難い聖書の記述、身の回りで起こる理不尽、祈っても変わらないあの人、福音を知らずに死んだように思える先祖・・・ 納得できないことは、神に代わって、自分の理性と正義で裁きたくなるものです。 しかし、その先に本当の平安はあるでしょうか? 真の平安への道は、全てのことを完璧に公正に裁かれる「神」に、裁判官の座をゆずることから始まります。 メッセージ中でも触れますが、ウイリアム・ウッド氏による著書「「セカンドチャンス」は本当にあるのか」を購入したい方は、以下の問い合わせフォームからお問い合わせ下さい。 問い合わせ また「松本牧師のYouTube聖書講座」でも、セカンドチャンスについて解説されています。ぜひ参考にして下さい。
誰にでも、将来の夢や理想の生き方があります。 そして、自分の力でそれを達成できると思っています。 イエスに忠誠を誓ったペテロもそうでした。 神様は、時にそのような人生の道を閉ざされます。 身に覚えのある方も多いかもしれません。 しかし、あなたの人生のストーリーが終わったように見えるその瞬間に、神のストーリーが始まっているのです。
教会成長が思うようにいかない・・・ あの人がちっとも成長しない・・・ いつまでもアップダウンの人生で疲れちゃう・・・ ・・・あれ?全能のはずなのに、ひょっとして神さま、苦戦してる? もっと頑張って、神さまを助けないといけないかも? 待って待って!神さまは決して苦戦していません! 「神さま苦戦してるなぁ」と、ついつい思っちゃう人の特徴を押さえながら、神さまの本当の実力を思い知りましょう!
イエスのもたらした変革シリーズも、いよいよゲッセマネの場面に入りました。 血の汗を流しながら祈るイエスと、どうしても眠ってしまう弟子たちの対比が描かれます。 「目を覚ましていなさい」というイエスの言葉を、どのように捉えれば良いのでしょうか? 私たちは、霊的に「起きている」ために、どのような点に気をつければ良いのでしょうか? シリアスな場面の理解を助けるため、(本当にひさしぶりに)スキットを上演します! ライブ配信では初めてなので、本当にドキドキしました・・・ あと、冒頭の適当カンフー牧師が必見です。
私たちは、イエス・キリストを信じた瞬間に救われ、永遠の命が約束されます。ハレルヤ! ただ、広い意味での「救い」は、「義認」「聖化」「栄化」の3つの段階を指します。今回取り上げるのは「聖化」。 「聖化」に必要な3つの要素とは何でしょう? その究極のゴールとなる「神の栄光」とは? っていうか「神の栄光」って、具体的にどういうこと?誰か教えて! 今回は「結局、神の栄光がすべて」というテーマで学びたいと思います。
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