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ダヴァール神の国
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ダヴァール神の国

Author: Davar Kingdom of God

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浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時
132 Episodes
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みことばの実現 No.20

みことばの実現 No.20

2015-08-3001:19:16

ああ。渇いている者はみな、 さあ、水を求めて出て来い。 金のない者も。 さあ、穀物を買って食べよ。 さあ、金を払わないで、穀物を買い、 代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え(イザヤ55:1)。 ここに、「金を払わないで」とか、「代価を払わないで」という表現が出てくるが、これは 驚き。どうも、人の世界における、金を基盤とした経済的な概念は、神から出たものではないら しい。そもそも、供給と需要のバランスから定まる物の値段は、供給に制限があることを前提に している。事実、昔は水を金で売買するということはなかった、それは、綺麗な水の供給が十分 でなくなり、その需要が高まった時に始まった。今はまだ、空気の売買をしていないが、汚染が 進めば、その可能性も出てくる。エデンの園にいた人間たちには、金は必要なかった。すべてが ただであり、神の恵みによって与えられた。金による富は、人が罪を犯した後の世界に必要とな ってしまった悪である。したがって、イエス様はそれを「不正の富」と呼ばれ、「まことの富」 と区別された(ルカ16:11)。天国では、地上での富や金は通用せず、すべてがただであり、恵 みである。 あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ10:8)。 すべてが「ただ」で与えられる所では、「ただ」で与えることもする。この辺が、この世界に 慣れ過ぎてしまった、私たち人間に理解しにくいところ。気がつかないうちに、頭で損得の計算 をして、取るべき行動を利己的に選択して行くので、神のみこころが行えない。 わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異な るからだ。— —主の御告げ— —天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道 よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:8-9)。 したがって、その「思い」や「道」が高い神様のみことばに、よく「耳を傾け」、彼に「聞き」、 自分の間違いに気がついたら、それを素直に認め、彼のもとに「出て行く」ことが必要である。 耳を傾け、わたしのところに出て来い。 聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。 わたしはあなたがたととこしえの契約、 ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(3 節)。 その時、みことばは自ずと成就する。契約は神の創造された天地の基であり、私たち人間の生活 の土台である。土台が崩れれば、その建物は全部破壊される。実は、人が神との契約を破った時、 世界は崩れ始め、破壊の道を行くことになった。しかし、神様は、キリストを通して、もう一度、 世界の基を築き直された。それが、「とこしえの契約」、「ダビデへの変わらない愛」のこ と。あなたがみことばの成就として歩むことを望むならば、あなたもこの契約の中に入って来る 必要がある。 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は 富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがた が、キリストの貧しさによって富む者となるためです(2 コリント8:9)。 飢饉の状態になってしまったこの世界は、キリストという新しい礎の上に新しく建て直された。 その契約の中に入って来るならば、「金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶ どう酒と乳を買う」ことができる。
みことばの実現 No.19

みことばの実現 No.19

2015-08-2301:06:32

ああ。渇いている者はみな、 さあ、水を求めて出て来い。 金のない者も。 さあ、穀物を買って食べよ。 さあ、金を払わないで、穀物を買い、 代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え(イザヤ55:1)。 「ああ」(ヘブル語、ホーイ)とは、人間の生き方を嘆いて、「信じられない!」といった感じ の神様の思いが表現されている。私たちはみな、サタンに洗脳されてしまった。「さあ」とは、 文字通りでは、「行く」という動詞で、「何をしているのか、早く行って...」というふうに、 人に強く行動を促す時のことば。それが、三回も使われている。 「穀物を買う」とは、シャバールという動詞で、ここでは2 回使われている。これは、ヤコブの 息子たちが、飢饉の時に、「穀物を買う」ためにエジプトのヨセフの所へ2 回行ったことが背景 になっている。2 回とも、払った銀は全部戻されて、結局彼らは、「金を払わないで、穀物を買 った」。これが、神様が人間たちにしてあげたいこと、また人間たちに生きてほしい生き方。 なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、 腹を満たさない物のために労するのか。 わたしに聞き従い、良い物を食べよ。 そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう(2 節)。 地は、人の罪の結果、十分な食べ物を生み出すことができず、飢饉の状態にある。生きて神に仕え て働くこと以前に、自分が生き延びることだけのために働くようになってしまった。そして、その ような生き方をしている自分たちのことを、何も不思議に思わない。本来、人はみな、神の恵みに よって、すべてをただで受けて生きる者であった。支払いは、人にとって不自然なこと。 耳を傾け、わたしのところに出て来い。 聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。 わたしはあなたがたととこしえの契約、 ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(3 節)。 そのために必要なことは、神に「耳を傾け」、彼のところに「出て行く」こと。「耳を傾け」、 「聞く」とは、神のことばを信じ、その霊的現実を自分の現実として受け入れていくことを指す。 彼のところに「出て行く」とは、今の世界から出て、彼の世界(国)に入って行くこと。ヤコブ とその息子たちが、ヨセフのもとに行き、そこに住み始めたように、あなたも、世から自分を聖別 し、彼の道を歩んで行くことが必要。その時、神は「とこしえの契約、ダビデへの変わらない 愛の契約」をあなたと結び、みことば通りに、ご自分の望むことを成し遂げてくださる。 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、 必ず地を潤し、それに物を生えさせ、 芽を出させ、種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える(10 節)。 これは、飢饉の原因である、「いばら」や「おどろ」が完全に取り去られてしまったからである。 いばらの代わりにもみの木が生え、 おどろの代わりにミルトスが生える。 これは主の記念(名)となり、絶えることのない永遠のしるしとなる(13 節)。 この「名」、「しるし」とは、イエス・キリストのこと。
みことばの実現 No.18

みことばの実現 No.18

2015-08-1601:06:32

新しい歌を主に歌え。 全地よ。主に歌え。 主に歌え。御名をほめたたえよ。 日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ(詩篇96:1-2)。 「新しい歌を主に歌え」とは、どういう意味だろうか。次の詩篇にも同じことばが出てくる。 新しい歌を主に歌え。 主は、奇しいわざをなさった。 その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ(98:1)。 実はここで言う、主の「右の御手」や「御腕」による救いとは、特に次のような話に由来するもの。 主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。...主よ。あなたの右の手は力に 輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く(出エジプト15:4−6)。 これは、エジプトを脱出したイスラエル人が、海の真ん中を通ってエジプトの軍勢から救われた 時に、モーセが歌った歌。敵からの救いと勝利を喜ぶ歌である。これを境に、イスラエル人たち は、神の民として新しく存在し始めた。イザヤ書に行くと、次のようなことばがある。 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。...わたしは、あなたを地の果てから連 れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「...わたしはあなたを 選んで、捨てなかった。...わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の 右の手で、あなたを守る(イザヤ41:8-10)。 実は、ユダの滅亡のあと、バビロンへ捕囚に連れられて行ったユダヤ人にとって、エルサレムへ の帰還とその町の復興は、第二の出エジプトとして考えられ、新しい神の創造の業によるもので あった。 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、...イスラエルよ。あなたを形造っ た方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。...あな たが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなた は押し流されない(43:1-2)。 新しい創造は、新しい時代の到来でもある。次のように歌っている。 先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。...主に向か って新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから(42:9-10)。 バビロン捕囚のあとイスラエルの民に起きた創造の業は、キリストを通して、もっと大きな人類 全体のレベルで起きた。恵みの時の到来である。今こそ、本当に新しい歌を歌う時。それは、救 われた者だけが歌うことのできる歌。エルサレムの滅亡を体験し、自分たちの神への信仰と、生 きることに疲れたユダヤ人たちに、神様は語られた。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力 を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れな い(40:30-31)。 天地を造られた創造の神を小さく考えてはならない。知っているつもりでも知らないでいるのが、 私たち信者だ。神様は常に新しいことをなさる方。それを受け取る準備はできているだろうか。
イザヤ書 61章のみことば、キリストにある者にどのように実現したのか、見ていきます。
みことばの実現 No.17

みことばの実現 No.17

2015-08-0201:06:32

あなたがたはわたしの証人、-主の御告げ-わたしが選んだわたしの しもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたし がその者であることを悟るためだ(イザヤ43:10)。 10 節から13 節は、全体がchiasmus(交錯配列法)の形をしていて、10 節が12 節に対応して いることが分かる。 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかっ た。だから、あなたがたはわたしの証人。-主の御告げ-わたしは神だ(12 節)。 注目してほしいのは、「知って」、「信じ」、「悟る」という動詞と、「告げ」、「救い」、 「聞かせた」がそれぞれ、対応していること。最初は、「あたがたがた(イスラエルの民)」 が主語、二つ目は「わたし(主)」が主語。主がことばを「告げ」て啓示することによって、 イスラエルがそれを「知り」、さらにそれを「信じ」ることによって、主は彼らをお「救い」 になる。しかし、それで終わりではなく、その後、主は彼らに、その救いがどのようにして起き たのかを「聞かせる」ことによって、「わたしがその者(みことばを成就するヤーベの神) であること」を「悟る」ことができるようにしてくださる。そして、民がそのように「悟る」 ならば、彼らは、出て行き、全世界に対して「わたしの証人」、つまり、彼らの神が約束を守 られ、語られたことばを成就なさる方であることを伝える者となる。 これは、直接は、神の怒りによってさばきを受け、バビロンに捕囚に連れられて行った、選びの 民に対して語られたことばだが、同じことばが、キリストにある私たちにそのまま当てはまる。 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。それで、 わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、の のしられるようにした(27-28 節)。 神の怒りが選びの民にぶつけられた後、怒りは去り、「わたし、このわたしは、わたし自身の ためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と言われる。 神は「最初の先祖」からの罪の怒りを耐えて来られたが、それをこの時、彼らにぶつけられた。 同様に、ひとり子の神、キリストが、最初の人から見逃されて来た神の怒りを受けて、なだめの 供え物となって下さった。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、 公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今まで に犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです(ローマ3:25)。 「なだめの供え物」とは、神の怒りを抑えるためのいけにえのことで、それによって、神と敵 対関係にあったものが神と和解することができる。 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちを ご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました(2 コリント5: 18)。 神の怒りはすでに取り除かれた!今は、恵みの時、救いの時である。 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受け ないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、 救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です(6:1-2)。
キリストにあって新しく造られた者として生きることは、みことばの実現として生きることと同じであることを学んでいきます。
みことばの実現 No.16

みことばの実現 No.16

2015-07-2601:06:32

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(1 7 節)。 これがキリストにあるあなたの現実。古い現実は過ぎ去った。新しい現実が来て、その中で生きる者となった。現実が変われば、生き方も変わる。結婚という現実に入れば、夫、あるいは妻となり、それまでの独身の生活は終わり、新しい生き方に変わる。子供ができれば、父、あるいは母となり、子供のために労する生き方が始まる。同じように、キリストに付くバプテスマを受け、彼とともに死んでよみがえった者は、「新しく造られた者」、すなわち、みことばによって新しく創造された者として、新しい現実の中で生きて行く。古い生き方はもうできない。 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける(イザヤ4 3:1 8 - 1 9)。 ここで言う「先の事ども」とか「昔の事ども」とは、サタンの行った、昔の破壊と死の業のこと。逆に、「新しい事」とは、みことばによる、新しい創造といのちの業のこと。破壊の業は終わった。死の現実は過ぎ去った。それらを「思い出すな」、「考えるな」とは、古い現実を受け入れるなということ。なぜなら、破壊は新しく創造し直され、死は勝利に呑まれて、いのちのことばがすでにあなたに実現したからである。そして、それを体験したあなたは、その証人である。 目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に「ほんとうだ」と言わせよ(8-9 節)。 ここで言う「先の事」とは、神様がなさった昔の創造の業のこと。それらはみな、みことばの成就として起きた事。神が語られ、そのとおりになった。それを、あなたが神をまだ知らない人々の前で証言して、彼らに聞かせると、彼らは「ほんとうだ」と言って納得すると、上のみことばは言う。あなたは、その証人である。 あなたがたはわたしの証人、-主の御告げ-わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ(10 節)。 「わたしがその者である」とは、「わたしがみことばを実現する神である」という意味。言い換えれば、彼はヤーベの神、「主」である。これを知り、信じ、また悟って、その証しをするために、私たちは選ばれた。 わたし、このわたしが、主(ヤーベ)であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ(11-12 節)。 「わたし、このわたしが...」と強く強調されていることに注目。すべてのことが、神が計画され、ことばを語り、それを実現させることによって起きている。この神のほかに神はいない。彼は、ことばを語ることによ って私たちに「告げ」、それを成就させることによって私たちを「救い」、そしてその後、それがみことばの成就として起きたことを私たちに「聞かせた」。彼はヤーベ、みことばの成就の神であり、私たちはみことばの実現の民である。
キリストにあるあなたが新しく造られた者として生きることが、あなたがみことばの実現である真理とどんな関係があるのか、見ていきます。
みことばの実現 No.15

みことばの実現 No.15

2015-07-1901:06:32

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです(2 コリント5:14)。 「取り囲む」とは、「包囲して動けないようにする」、「強いる」の意味。今はもう、キリストの愛がゆえに、次のような生き方しかできないと言っている。 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(15 節)。 パウロによれば、以前の自分がキリストとともに死んだという現実がゆえに、もはや、前と同じ生き方をすることは不可能である。今は、自分のうちにキリストが生きておられるという、新しい現実の中にいる。 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(1 6 節)。 「人間的な標準」とは、文字通りは、「肉によって」。すなわち、肉にある、この世界の現実によって人を考えることを指す。その現実によれば、キリストは、ナザレ出身の大工の息子。 しかし、霊による現実では、神のひとり子、初めから存在する「ことば」なる方。そして、その同じ霊の現実で言うなれば、あなたは次のような者となる。 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(1 7 節)。 創造は、みことばの実現として起きる業。この世界は、「光よ。あれ」という神のことばから造られた。同様に、死んでいたあなたも、「生きよ」という神のことばの成就として生き始めた。新しい創造は、古い破壊を消す。光が来れば、闇は消える。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」つまり、古い現実が過ぎ去り、新しい現実が始まった。 これらのことはすべて、神から出ているのです(1 8 節)。 神はすべての現実の源。彼は「わたしはあるという者である」方。霊の世界の現実、この宇宙の現実も、すべて彼から出てもの。自分の目に映ることだけを現実と考えてはいけない。目に見える物はすべて消えてなくなる時が来る。実は、人の目に見えるのは、限られた種類の光だけだが。神様の目にはすべてが見えている。彼こそが光なる方で、すべての現実は、物質的にも霊的にも、その光によって造られた:「その栄光は全地に満つ。」 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける(イザヤ4 3:1 8 - 1 9)。 したがって、新しい現実の中で生きる者にとって大切なことは、古い現実をもう数えないこと。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」「思い出すな」とは、口に出さないこと、「考えるな」とは「理解するな、悟るな」の意味。それを自分の現実として理解するなということ。今は、和解の時、恵みの時、救いの日、ヨベルの年。
あなたがみことばの実現として生きるためには、聖書の教える霊的な現実をしっかりと自分のものとして数えて生きていくことが大切であることを学んでいきます。
みことばの実現 No.14

みことばの実現 No.14

2015-07-1201:06:32

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6:11)。 もしあなたが自分の人生にみことばの実現を願うならば、聖書が語る霊的な現実を受け入れ、その上に立つ信仰によって生きることが必要である。上のみことばの「思いなさい」は、「数えなさい」の意味。ちょうど、アブラハムが天の星を数えて、「あなたの子孫はこのようになる」という自分に対する霊的現実を受け入れた時に、その信仰が神によって義と数えられたのと同じ。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです(3-4 節)。 キリストが自分の罪のために死に、三日目によみがえられたことを信じるあなたは、二千年前に起きたキリストの死と復活という事実が、この物質の世界の現実を超え、全く異なった時代に生きるあなたのためであったと信じていることになる。そんなことが可能だろうか。この世界の現実では不可能。しかし、霊の世界では、それが確かな現実。みことばは、あなたがまだ存在する前に、すでに「キリストとともに葬られた」と言う。それは、あなたがキリストを信じることによって、彼の死にあずかるバプテスマを受けたからである。 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです(5 節)。 彼の死と同じ状態になったあなたは、彼の復活とも同じ状態になった。キリストと全く一体化したからである。それが神の見方であり、霊的な現実である。神様はあなたを、キリストと一体化した、罪と汚れのない完全な者として御覧になる。人の目と神の目は違う。神の目は、霊の世界の現実からあなたを見る。それが本当のあなた。 以上のことが事実であり、真の現実であるならば、その現実の上に立った、それにふさわしい歩み方がある。キリストにあって神の義とされたあなたには、神の敷かれた義の道がある。も しあなたがそれ以外の道を歩むならば、あなたは自分の現実を否定し、自分を欺いて生きることになる。 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです(17-18 節)。 義とされた者は、義の道を歩む義の奴隷である。以前は、この道に関して自由に生きていた。みことばの語る霊的現実に関して全く無知であったからである。その時の私たちには、肉の目で見るこの世界の現実がすべてであって、その中にどっぷり浸かり、その現実における、地上のさまざまな問題に振舞わされて生きていた。その時、みことばの成就は絶無。 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です(2 0 - 2 1 節)。 しかし、今は神の義とされたあなたには、みことばの語る霊的現実を 信じる信仰が与えられている。その信仰の上にしっかりと歩むならば、 みことばは必然的に実現する。
私たちの信仰が義とみなされた事実と、私たちがみことばの実現であるという真理とが、どのような関係があるのか学んでいきます。
みことばの実現 No.13

みことばの実現 No.13

2015-07-0501:06:32

聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります(ローマ4:3)。 アブラハムは、星を数え、「あなたの子孫はこのようになる」という神の約束を信じた。その時、その信仰が義とみなされた。「みなされた」とは、「数えられた」という意味。彼が、空の星である霊の世界の現実を数えたので、神様も彼を義と数えられた。これは、彼に与えられた大きな神様の計画と約束が実現するために、どうしてもなくてはならない最初のステップであった。 つまり、人の上にみことばが実現するためには、その人が義人であることが絶対的な条件である。 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ(イザヤ59:1-2)。 義なる神がいくら人を救いたくても、人の不義がそれを妨げ、そうさせないようにしている。不義さえ解決されれば、人はあらゆる問題や苦しみから解放され、相続人として神の祝福を無限に受けることができる。 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、...アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです(ローマ4: 16)。 みことばの成就は完全に止まった。父の子として身分から、異国の主人の奴隷となり、豚の世話を強いられた。恵みとあわれみは全部消えている。 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください(17-19 節)。』」 これを、子として受けるべき財産の分け前を要求した最初の時と比べると良い。以前は、父に従い、彼に仕えることを嫌ったが、子としての分け前だけは要求した彼が、ついに、父の「雇い人のひとり」になることを決心した。雇い人とは、主人に従い、彼の言うことを行う者。いのちの木から取って食べる生き方をする準備ができたことになる。 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(20 節)。 これが父の望まれること。それを成し遂げたいと、彼はいつも見張っている。弟息子は、ただそれを受けるだけ。これを恵みという。 息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません(21 節)。」 彼が「雇い人のひとりにしてください」と言おうとすると、父はそれを止めるようにして、しもべたちを呼び、彼らに向かって言った。 急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24 節)。 みことばの実現だ。彼が父のもとに戻った瞬間、みことばの実現も戻った。
放蕩息子のたとえ話から、みことばの実現に関する二つの生き方について見ていきます。
みことばの実現 No.12

みことばの実現 No.12

2015-06-2801:06:32

ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前を下さい」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった(ルカ15:11-12)。 この弟息子は、自ら父のもとに行き、子として受けるべき自分の財産の分け前を願った。父のもとにいる限り、彼の戒めを守ることが要求されるので、遠い異国の地に行き、自由奔放の生活をしたかったからである。つまり、自分の判断で生きることを願い、善悪の知識の木から取って食べる方を選んだ。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった(13 節)。 さて、この息子、この状態で、それまで受けて来た自分の父のことばの成就、つまり、その豊かさと良きみこころの実現は、あるだろうか。 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった(14-16 節)。 みことばの成就は完全に止まった。父の子として身分から、異国の主人の奴隷となり、豚の世話を強いられた。恵みとあわれみは全部消えている。 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください(17-19 節)。』」 これを、子として受けるべき財産の分け前を要求した最初の時と比べると良い。以前は、父に従い、彼に仕えることを嫌ったが、子としての分け前だけは要求した彼が、ついに、父の「雇い人のひとり」になることを決心した。雇い人とは、主人に従い、彼の言うことを行う者。いのちの木から取って食べる生き方をする準備ができたことになる。 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(20 節)。 これが父の望まれること。それを成し遂げたいと、彼はいつも見張っている。弟息子は、ただそれを受けるだけ。これを恵みという。 息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません(21 節)。」 彼が「雇い人のひとりにしてください」と言おうとすると、父はそれを止めるようにして、しもべたちを呼び、彼らに向かって言った。 急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-24 節)。 みことばの実現だ。彼が父のもとに戻った瞬間、みことばの実現も戻った。
ヨシャパテ王の例から、みことばの実現として歩むために必要なことを学んでいきます。
みことばの実現 No.11

みことばの実現 No.11

2015-06-2101:06:32

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異な るからだ。— —主の御告げ— —天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:8-9)。 神様の願われること、計画されることは、人の願いや計画をはるかに超えている。だから、みことばの成就と言っても、あなたがその真理をわきまえず、自分の殻にはまった小さな願いや計画に固執していれば、その成就はむずかしい。アブラムは、自分の財産を引き継ぐ、自分の子供が欲しかった。しかし、神様は彼を通して、全世界の民族が祝福される計画をなさった。 あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたは祝福となる。...地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世12:2-3)。 彼に与えようとされた土地も、小さな畑のレベルではなかった。 さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう(13:14-15)。 しかも、それは単に子孫を増やすことや、広い土地に彼らを住まわせるだけのことではなかった。 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである(18:19)。 だから、彼を教え、訓練された。ご自分と同じ思いを彼に持って欲しかったからだ。与えられたイサクをいけにえとしてご自分に捧げるように命じられたのもそのためであった。 あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい(22:2)。 あなたは、自分の心の願いを自分の願いと思ってはならない。神様は、あなた個人の小さな、しかも利己的は願いをかなえるための道具ではない。あなたを造られた神ご自身があなたに望まれることがあることを忘れてはならない。そのためのみことばの成就である。 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる(イザヤ55:11)。 みことばの成就は、神ご自身の「望む事」の成就である。そのみことばは、彼の語られるみことばであって、それを彼ご自身が、ご自分のために実現しようといつも見張っておられる。私たちの方が、彼の道具である。 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わ たしは見張っているからだ(エレミヤ1:12)。」 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべて を越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、 栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン(エペソ3:20-21)。
アブラムの例から、みことばがどのように実現していくのか、学んでいきます。
みことばの実現 No.10

みことばの実現 No.10

2015-06-1401:06:32

サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来 なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。そこでサウルは、「全焼の いけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。こうして彼は 全焼のいけにえをささげた(1 サムエル1 3:8 - 9)。 ペリシテ人の大軍を前にして恐れを持ったイスラエルの兵士らは、どんどんサウルから離れて行った。サウル王は、それを止めようとして、本来祭司のみ捧げることのできるいけにえを自らの手で捧げた。当然、そのいけにえは、神に捧げたというより、兵士たちに見せるためのものであり、彼の頭の計算によった。彼がいけにえを捧げ終わった時、サムエルが来て、彼に言った。 あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。今は、あなたの王国は立たない(1 3 - 1 4 節)。 クリスチャンが肉によって歩む時、みことばの成就が止まる。それは、自分の判断で行動することであり、善悪の知識の木から取って食べるのと同じ。だから、聖書は言う。 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3:5 - 6)。 主の臨在は、いつでもどこでも変わらない。それを認めるかどうかは、私 たちの問題。サウル王は、敵に攻められ、そこに主を認めず、自分の悟りにたよって行動した。彼の道はまっすぐにされず、確立されなかった。 これと同じような境遇に置かれたヨシャパテ王の例を見てみよう。ある時、モアブ人とアモン人の大軍が攻めて来たという知らせが彼に告げられた。 ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、主を求めた(2 歴代2 0:3 - 4)。 彼は、自分の判断の前に、主を置いた。そして、主の宮の前に行き、祈った。 私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。...私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです(6 - 1 2 節)。 これを「主により頼む」と言う。その時、主からのことばが来た。 あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから(1 5 節)。 主に委ねると、主が成し遂げて下さる。みことばの実現である。自分でまだできると思っている間は、恐れが来て、失敗する。出陣の前に、彼は民を励まして言った。 あなたがたの神、主を信じ、確立されなさい。 その預言者を信じ、勝利を得なさい(2 0 節)。
今回も、私たちを通してみことばが実現されるためには、私たちが霊によって歩む必要があることを学んでいきます。
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