Discoverフクロウラジオ『エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを君に』を観て
『エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを君に』を観て

『エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを君に』を観て

Update: 2025-11-15
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お久しぶりです。大熊弘樹です。

約2年ぶりとなる「フクロウラジオ」第49回を配信しました。

今回のテーマは、先日、全国の映画館で再上映された伝説の映画、『エヴァンゲリオン 旧劇場版 Air/まごころを、君に』です。


昔フクロウラジオで同コンテンツについて皆んなと語り合った時、「人生を変えてくれた」とまで公言していたこの作品と再会したわけですが、正直に言うと、ある奇妙な「違和感」を覚えてしまいました。

圧倒的なクオリティ、世界の残酷さと人間の醜さを描き切ることが美しさの表現につながるという逆説。その根源的な魅力は再確認できました。しかし、かつてのように「スッと入ってこない」。

なぜ感動しきれなかったのか。今回のラジオは、その「距離感」の正体を、自分なりに整理してみました。


違和感の正体:1997年という「余裕」の時代

鑑賞中、そして鑑賞後に強く感じたのは、この作品が持つ強烈な「時代性」でした。

『旧劇場版エヴァ』は1997年の作品です。一般的にこの時代は「絶望の時代がこれから始まる」という予感をはらみつつも、経済的にも精神的にも、まだギリギリの「余裕」があった特異な時代として解釈されます。


臨床心理士の東畑開人さんの言葉を借りるなら、「実存(=自分自身のあり方や生きる意味)と向き合うためには、まず生存(=物理的に生きていくこと)が保証されていなければならない」。

1997年とは、まさに人々が自分自身の「実存」の問題と向き合ったり、他人の物語(創作物)に深く共感したりすることができた、最後の「余裕」のある時代だったのではないでしょうか。


そして、『旧エヴァ』は、その「余裕」を前提として成立していた「時代の産物」だったのだと、今になって強く感じます。

だからこそ、物理的にも精神的にも「生存」が最優先となり、余裕が完全に失われた現代においてこの作品に触れても、ノスタルジーは感じても、かつてのような切実さでは響いてこなかった。これが、私が感じた違和感の核心なのだと思います。


対極の傑作:高畑勲と『となりの山田くん』


『旧エヴァ』が「時代の産物」である一方、同時期に、はるかに高いレベルでこの時代の本質を射抜いていた作家がいます。

それが、高畑勲(たかはた いさお)監督です。

『旧エヴァ』(1997年)のわずか2年後、1999年に公開されたのが『ホーホケキョ となりの山田くん』でした。

私は、この2作品を「心の問題」という軸で対比できると考えています。

• 『旧エヴァ』(庵野秀明)

• 心の「喪失」の問題を扱った作品。

• 「何を失ったのか」が明確であり、その喪失感と向き合う物語。これは、先述の「余裕」があるからこそできることです。

• 『となりの山田くん』(高畑勲)

• 心の「欠落」の問題を扱った作品。

• 「何が失われたのかさえ分からない」という、現代に通じる「底が抜けた」状態に向かい合うために描かれています。


現代は、日々の「生存」に追われ、「実存」と向き合う余裕がない「欠落」の時代です。高畑監督は、90年代後半の時点でその時代の到来を誰よりも敏感に察知し、「欠落の時代にふさわしい作品」を、あの時点で完璧に作り上げていたのです。

『となりの山田くん』のラディカルな批評性


『となりの山田くん』は、「適当に生きればいいじゃない」というテーマや「家内安全は世界の願い」というコピーを掲げた、一見すると「ほのぼのとした日常アニメ」です。

しかし、その制作姿勢こそがこの上なくラディカルなものだったと感じています。

高畑監督は、あえて感動的なエピソードや刺激的な展開をシナリオから徹底的に排除し、取り留めのない日常の断片をミニマルに描き出しました。

これは、「真実の苦しみと向き合うことの尊さよりも、見せかけの幸せでいいから日常を取り繕い、人生を回していくことの価値」を提示する、極めて批評的な態度だったのではないでしょうか。

その意味では、矢野顕子さんが歌う主題歌『ひとりぼっちはやめた』も象徴的かつ示唆的です。

心が疲弊しきった現代においては、「孤独に耐えて自分と向き合う」ことよりも、「“ひとりぼっち”をやめる」ことの方が、よほどラディカルで勇気のいる選択であるように、私には思えます。


まとめ:『旧エヴァ』から『シン・エヴァ』へ

『旧エヴァ』を貶めたいわけでは決してありません。その価値は誰よりも分かっているつもりです。

今回の鑑賞体験は、作品が色褪せたのではなく、「自分がもはや、あの作品を“ノスタルジー”としてしか見られなくなってしまった」という、自身の変化にも由来してると思います。

まあ、この「余裕」から「欠落」への時代の変化という視点は、そのまま『シン・エヴァンゲリオン』にも通じると感じています。

『シン・エヴァ』こそ、良い意味で「心がない映画」、つまり『となりの山田くん』と同様に、現代の「欠落の時代」に完璧にチューニングされた作品だと私は捉えています。

近いうちに『シン・エヴァ』の再上映も観に行き、この仮説の答え合わせをしたいと思っています。その時は、またラジオで。


(フクロウラジオ 第49回:大熊弘樹)

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