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ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

Author: yamamoyama

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ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。
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今回は#047回を聞いた方からの質問メールについて話をしました。以下質問メールよりーー本願を信じるか・信じないか?本願を疑いなく聞いたか・聞いていないか?は私の選択や決断ではないですよね?阿弥陀仏の本願は、差別的な本願ではなく、万人が平等に救われる唯一の道であり、後生は自分ではどうしようもなく、後生は阿弥陀仏におまかせするしかないと思ってはいるのですが、どうも本願を疑いなく聞けていない自分もいるような気がします。「念仏称える者を極楽浄土に生まれさせて仏に成らせる」のが阿弥陀仏の本願であると聞いて、最近は何も引っかかりもないですし、疑いもないのですが、救われた自覚みたいのもないですし、とくに心境の変化とか、特別な体験とか、念仏がありがたいとか、本願がありがたいとか、そういう思いはあまり湧いてこないのですが、自分自身で信疑決判はできるものなのでしょうか?これについて、またネットラジオ版安心問答でお話しをしていただけないでしょうか?—話の中ででて来たご文○一念多念文意「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(浄土真宗聖典註釈版P678)○教行信証化身土巻如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。(P393)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠
今回は#046を聞かれた方からの質問について話をしました。以下質問ーーー因果の道理や六道輪廻は、仏教全般に言える教えで、これは阿弥陀仏の本願の内容とは、直接的には関係がないから、本願疑惑心ではなく、疑煩悩であるということが分かりました。また、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在については、そもそも、阿弥陀仏は、無上仏であり、色も形もない、真如(法性)そのものであり、信心獲得したからといって、凡夫に阿弥陀仏のことが分かるということはないと知らされました。極楽浄土についても同じで、実際に信心獲得しても、極楽浄土が目に見えるようになるわけではなく、また確認のしようがないので、これもまた凡夫には極楽浄土の世界は分からないと知らされました。しかし、そうすると、凡夫である私たちは、仏教で教えられている因果の道理や、六道輪廻のこと、また阿弥陀仏の存在や極楽浄土の世界のことなど、何も分からないまま、死後(後生)は、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ、仏に成るのでしょうか?死後の行き先である、極楽浄土のことも何も分からず、仏に成るとは、どういうことかも分からず、親さまと呼ばれる阿弥陀さまのことも分からずに、「ただ本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ということだけなのでしょうか?獲信者と未信者の違いは、本願を疑いなく聞けているか?聞けていないか?の違いだけで、その他は何も変わらないのでしょうか?また、ネットラジオ版安心問答で、お話しをしていただけると、ありがたいです。ーーー○話の中で出てくるご文○唯信鈔文意【4】大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。(浄土真宗聖典註釈版P709)<前後>「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。(浄土真宗聖典註釈版P709)(略)阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(浄土真宗聖典註釈版P710)○唯信鈔文意【3】ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(浄土真宗聖典註釈版P707)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)⁠⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠⁠
今回は#045からの質問です。ーーー45回目の質問された方からの追加の質問です。(略)そこで、この疑いは、本願疑惑心なのか?それとも、疑煩悩なのか?いくつか具体例を挙げてみたいのですが、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心を、本願疑惑心と定義されているようですが、たとえば、因果の道理を信じられない心や、私が六道輪廻(流転輪廻)をしている存在であることが信じられないこと、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在が信じられないことなどは、本願疑惑心になるのか?それとも、疑煩悩になるのか?知りたいです。未信の私にとっては、因果の道理や六道輪廻、阿弥陀仏の存在や極楽浄土の存在が、信じられません。また、仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話としか思えず、まるでファンタジーの世界の話を聞いているようです。仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を何度聞いても、感想は同じです。リアル感が全くないです。これが、信心獲得すると、同じ仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)を聞いても、おとぎ話や作り話ではなく、真実(事実)の話として、疑いなく聞けるようになるのでしょうか?それとも、信心獲得しても、仏願の生起本末(阿弥陀仏の本願)は、おとぎ話や作り話、ファンタジーのような話のままなのでしょうか?その辺の話を、またネットラジオ版安心問答で話していただけると、ありがたいです。--○話の中で出てくるご文・自然法爾章無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)⁠⁠https://x.com/anjinmondou⁠⁠Peing(質問箱)⁠⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠⁠
前回の配信記事#044についてーー「本願を信じて、念仏していない」念仏は、念仏ではないと仰っていましたが、法然上人や親鸞聖人は、信前の者にも、念仏することを勧めてはいないのでしょうか?信前の者でも、お念仏を称えることは、尊いことではないのでしょうか?私は、私の心が、どんな状態(心境)であっても、お念仏を称えること自体が、尊いことだと思っていました。また、今回のお話しを聞いて、阿弥陀仏の本願を疑う心(本願疑惑心)があるかないかが、一番重要なんだと知らされました。そこで、この【本願疑惑心】について、詳しく知りたいのですが、本願疑惑心と疑煩悩(煩悩としての疑い)の区別(分別)は、未信の者にも分かるのでしょうか?もし、お聖教に、本願疑惑心と疑煩悩の違いが示されているお言葉があれば知りたいです。(頂いた質問)ーー○話の中で出で来るご文仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。(教行信証化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P378)(60)不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」(正像末和讃・浄土真宗聖典註釈版P610)
浄土真宗辞典 疑惑 疑い惑うこと。親鸞は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。(63)仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく(正像末和讃・浄土真宗聖典註釈版P611)質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心についてyamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)⁠https://x.com/anjinmondou⁠Peing(質問箱)⁠https://peing.net/ja/anjinmondou⁠
#044今回は、前回43回目の質問をされた方から、前回を聞いた上での質問を頂きました。以下質問ーー話の中で出てくるご文①「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典註釈版P643)⇒阿弥陀さまは、第18願文に、「乃至十念」と、称名念仏を勧めておられますが、念仏する者を必ず助ける(念仏の回数や時節は関係ない)という本願であれば、念仏している私は必ず救われると安心してよいのでしょうか?信心と念仏の関係が、今ひとつ理解(整理)できていないので、お聖教を根拠に、信心と念仏の関係を教えていただけると、ありがたいです。②しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生する也。 (西方指南鈔・大胡太郎実秀に与ふる書・浄土真宗聖典全書3-P997)⇒「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし」という法然上人のお言葉ですが、これは、私が称名念仏することによって、信心決定するという意味合いでしょうか?私の口から出る称名念仏(南無阿弥陀仏)を、私の耳で聞いて(南無阿弥陀仏と聞いて)、お念仏一つで(南無阿弥陀仏一つで)、浄土往生(念仏往生)できると確信(安心)できたのが、他力信心なのでしょうか?こちらも、称名念仏と信心(真実信心・他力信心)の関係性についての疑問になりますので、①と②を合わせて、また、ネットラジオ版安心問答で、お話しを聞きたいです。ーー今回話の中で出てきたご文信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(親鸞聖人御消息7・浄土真宗聖典註釈版P749)---質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouPeing(質問箱)https://peing.net/ja/anjinmondou
#43質問:(ブログやネットラジオ版の中で)繰り返し何度も、阿弥陀さまの仰せは、「只今おまえを助ける 」とお話しをされていますが、本当に阿弥陀さまは、私に向かって「只今おまえを助ける」と仰せになっているのでしょうか?また、南無阿弥陀仏の言葉の意味が、「只今おまえを助ける」という、阿弥陀さまからの呼び声なのでしょうか?阿弥陀さまの仰せが、また、南無阿弥陀仏が、「只今おまえを助ける」という、阿弥陀さまからの呼び声(仰せ)であるという根拠が、お聖教のどこに書かれているのか?知りたいです。可能であれば、本願寺出版社の浄土真宗注釈版聖典(第ニ版)の何ページに、阿弥陀さまの仰せが「只今おまえを助ける」意味だと分かる具体的な根拠として書かれているのか?をお示しいただけると、大変有り難いです。いつも、「只今助ける仰せを、只今聞いて、只今救われてください」の言葉を聞いて、阿弥陀さまは、本願文(第18願文や第18願成就文)のどこに、そんなことが書いてあるのか?疑問や不審に思っていました。の質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouhttps://peing.net/ja/anjinmondou
Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。ーー質問「念珠を持った方が良い、西に足を向けるようなのは極楽を思えば控えた方が良い等のお勧めが気になりビクビクします。信心がわからないからか具体的な行動にすがり、特に禁止的な勧めに過敏反応し、苦しくなってしまいます。どうすればというのはおかしいはずなのですが、どうすればと聞きたくなってしまいます。」(Peing-質問箱-より)https://peing.net/ja/q/684fa5ed-5d38-4f4d-bc4b-4f06efa62ff3---話の中で出てきた根拠○御文章一帖目三通(三)  まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。○法然聖人のお言葉法然上人云く。稱名念佛は。樣なきを樣とす。身の振舞。心の善惡をも沙汰せず。念比に申せば往生する也。ーー質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouhttps://peing.net/ja/anjinmondou
質問箱より「御文章の「此方十劫邪義章」における十劫安心への批判がよくわかりません。」という質問について答えました。
質問: 「聞即信」とは、聞いているままが信心であって、聞いたら信心をいただけるということではないのでしょうか? https://peing.net/ja/q/98bb7cad-284d-424b-b2bc-1fc22b856e9c 質問箱には以下のように回答しています。 ーー はい。聞いたら→信心を頂けるということではありません。 信心とは、本願名号を現在聞いている状態をいいます。聞いたら信心を頂けるとすると、「聞いた」ことがあってもそれは時間が経つほど「過去」のことになってしまいます。現在「聞いている」ということにはなりません。 ーー これに加えて話をしています。 話の中に出てくる根拠 「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(一念多念文意 浄土真宗聖典註釈版P.678) ブログ 安心問答-浄土真宗の信心について- メール yamamoyama@gmail.com X @anjinmondou
#039回は、質問箱の以下の質問について話をしました。 質問: 「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか? 質問箱には以下のように回答しています。 はい。口から称名となって称えられている南無阿弥陀仏以外に、何か「概念としての」南無阿弥陀仏を想定しても、それは自分の想像したものです。 「弥陀をたのむ」の弥陀とは、南無阿弥陀仏と称えられているこの南無阿弥陀仏です。  これに加えて話をしています。 話の中に出てくる根拠 わが弥陀は名をもって物を接したもう。ここをもって、耳に聞き、口に誦するに、无辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻) 「帰命」ともうすは、如来の勅命にしたがいたてまつるなり。(尊号真像銘文) 質問や感想は以下によろしくお願いします。 ブログ安心問答ー浄土真宗の信心について x:@anjinmondou
質問箱に頂いた質問について話しました。 Q「念仏は、やっぱり真面目に真剣に称えないとダメだ」と思ってしまうのも、結局本願を疑っていることになるのでしょうか? A「どう称えたか」によって、念仏それ自体が何か変わると思うのは疑っていることになります。それは、念仏を冷凍食品のように「レンジで解凍・あたため」をしないと食べられないもののように考えるからです。 質問箱の回答に加えて話をしました。 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(行文類・P186) 番組の感想、質問は ブログ安心問答 https://anjinmondou.hatenablog.jp/ 質問箱 https://peing.net/ mail:yamamoyama@gmail.com twitter:@anjinmondou
第36回目を聞かれての質問について話をしました。 質問「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?我にまかせよ、必ず助けるという仰せについて疑いのない状態、御本願をそのまま受け入れている状態を言うのでしょうか?」 話の中で出てきた御文 「「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)」 番組を聞いての質問は ブログ安心問答のコメント欄 https://anjinmondou.hatenablog.jp 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com twitter  @anjinmondou までお願いします。
今回は、質問箱に頂いた内容について話をしました。 質問 「蓮如様は、口に念仏申しただけでは足すからぬと仰っていると思います。 一方で、阿弥陀様の御本願には、お念仏をとなえる衆生を必ず助けるとお誓いになられています。 蓮如様のお言葉をどう解釈したらよろしいでしょうか? 今私は助かりたい一心で、御本願を信じてお念仏をあげています。 今のままでは助からないのでしょうか?」 今回紹介した御文章。 答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。(略) 他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。 つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり(御文章3帖目5通) 番組を聞いての質問・感想は以下へよろしくお願い致します。 番組URL:https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/05/12/040544 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com twitter:@anjinmondou
ブログ記事はこちら 安心問答ー浄土真宗の信心について- 話の中に出てくる御文 いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P187) (82) 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571) 質問箱はこちら
ブログ安心問答ー浄土真宗の信心についての音声版として配信をしています。 今日の質問は質問箱のこちらからです。 話のなかで出てきた尊号真像銘文。 「「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。」
質問の全文は、ブログ安心問答浄土真宗の信心についてをご覧ください。
#032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問) Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。 話の中に出てきたご文 (安心決定鈔より) 【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一体の身も南無阿弥陀仏なり。こころは煩悩・随煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。 われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。 (尊号真像銘文より) 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。 この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。 (御一代聞書より) (237) 一 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと[云々]。 ブログ 安心問答 twitter @anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com
「真宗において 称える心、聴聞しようとする心、 それらをもともと持たない私たちが、 阿弥陀仏のお働き、お育てにより念仏を称えるという 内容を見聞きすることがありますが、 念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を 私達は元来、持っていないという内容はお経の中にありますでしょうか? いまいちお経のどこから出てきた内容なのかがわかりません。 教えていただければ幸いです。」 について話をしました。 安心問答 浄土真宗の信心について
#030 今回は質問箱に頂いた質問 「ただ今助けるという阿弥陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等という表現がされますが、そのニュアンスがよくわかりません。 自分の心でただ単に『許諾した』と思い込むことでもないですよね?」 について話をしました。 質問箱はこちら 関連したブログ記事  「『南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く』というのは、南無阿弥陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を思い出しながら、念仏を称え、それを聞くことでしょうか?」(Peingで頂いた質問)
質問箱に頂いた質問 「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」 について話をしました。 話の中で出てきたご文 自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 註釈版浄土真宗聖典P707) http://ur2.link/RYIS ブログ安心問答−浄土真宗の信心について− https://anjinmondou.hatenablog.jp/
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