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ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

Author: yamamoyama

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ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。
42 Episodes
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Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。ーー質問「念珠を持った方が良い、西に足を向けるようなのは極楽を思えば控えた方が良い等のお勧めが気になりビクビクします。信心がわからないからか具体的な行動にすがり、特に禁止的な勧めに過敏反応し、苦しくなってしまいます。どうすればというのはおかしいはずなのですが、どうすればと聞きたくなってしまいます。」(Peing-質問箱-より)https://peing.net/ja/q/684fa5ed-5d38-4f4d-bc4b-4f06efa62ff3---話の中で出てきた根拠○御文章一帖目三通(三)  まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。○法然聖人のお言葉法然上人云く。稱名念佛は。樣なきを樣とす。身の振舞。心の善惡をも沙汰せず。念比に申せば往生する也。ーー質問・感想はブログ、メール、質問箱、メールにてお願いします。安心問答ー浄土真宗の信心について(https://anjinmondou.hatenablog.jp)yamamoyama@gmail.comX(@anjinmondou)https://x.com/anjinmondouhttps://peing.net/ja/anjinmondou
質問箱より「御文章の「此方十劫邪義章」における十劫安心への批判がよくわかりません。」という質問について答えました。
質問: 「聞即信」とは、聞いているままが信心であって、聞いたら信心をいただけるということではないのでしょうか? https://peing.net/ja/q/98bb7cad-284d-424b-b2bc-1fc22b856e9c 質問箱には以下のように回答しています。 ーー はい。聞いたら→信心を頂けるということではありません。 信心とは、本願名号を現在聞いている状態をいいます。聞いたら信心を頂けるとすると、「聞いた」ことがあってもそれは時間が経つほど「過去」のことになってしまいます。現在「聞いている」ということにはなりません。 ーー これに加えて話をしています。 話の中に出てくる根拠 「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(一念多念文意 浄土真宗聖典註釈版P.678) ブログ 安心問答-浄土真宗の信心について- メール yamamoyama@gmail.com X @anjinmondou
#039回は、質問箱の以下の質問について話をしました。 質問: 「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか? 質問箱には以下のように回答しています。 はい。口から称名となって称えられている南無阿弥陀仏以外に、何か「概念としての」南無阿弥陀仏を想定しても、それは自分の想像したものです。 「弥陀をたのむ」の弥陀とは、南無阿弥陀仏と称えられているこの南無阿弥陀仏です。  これに加えて話をしています。 話の中に出てくる根拠 わが弥陀は名をもって物を接したもう。ここをもって、耳に聞き、口に誦するに、无辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻) 「帰命」ともうすは、如来の勅命にしたがいたてまつるなり。(尊号真像銘文) 質問や感想は以下によろしくお願いします。 ブログ安心問答ー浄土真宗の信心について x:@anjinmondou
質問箱に頂いた質問について話しました。 Q「念仏は、やっぱり真面目に真剣に称えないとダメだ」と思ってしまうのも、結局本願を疑っていることになるのでしょうか? A「どう称えたか」によって、念仏それ自体が何か変わると思うのは疑っていることになります。それは、念仏を冷凍食品のように「レンジで解凍・あたため」をしないと食べられないもののように考えるからです。 質問箱の回答に加えて話をしました。 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(行文類・P186) 番組の感想、質問は ブログ安心問答 https://anjinmondou.hatenablog.jp/ 質問箱 https://peing.net/ mail:yamamoyama@gmail.com twitter:@anjinmondou
第36回目を聞かれての質問について話をしました。 質問「阿弥陀様をたのむものを必ず助けるということですが、阿弥陀様に助けてくださいとお願いするのではなく、仰せをそのまま承るとはどのようなことなのでしょうか?我にまかせよ、必ず助けるという仰せについて疑いのない状態、御本願をそのまま受け入れている状態を言うのでしょうか?」 話の中で出てきた御文 「「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)」 番組を聞いての質問は ブログ安心問答のコメント欄 https://anjinmondou.hatenablog.jp 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com twitter  @anjinmondou までお願いします。
今回は、質問箱に頂いた内容について話をしました。 質問 「蓮如様は、口に念仏申しただけでは足すからぬと仰っていると思います。 一方で、阿弥陀様の御本願には、お念仏をとなえる衆生を必ず助けるとお誓いになられています。 蓮如様のお言葉をどう解釈したらよろしいでしょうか? 今私は助かりたい一心で、御本願を信じてお念仏をあげています。 今のままでは助からないのでしょうか?」 今回紹介した御文章。 答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。(略) 他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。 つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり(御文章3帖目5通) 番組を聞いての質問・感想は以下へよろしくお願い致します。 番組URL:https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/05/12/040544 質問箱 https://peing.net/ja/anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com twitter:@anjinmondou
ブログ記事はこちら 安心問答ー浄土真宗の信心について- 話の中に出てくる御文 いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P187) (82) 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571) 質問箱はこちら
ブログ安心問答ー浄土真宗の信心についての音声版として配信をしています。 今日の質問は質問箱のこちらからです。 話のなかで出てきた尊号真像銘文。 「「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。」
質問の全文は、ブログ安心問答浄土真宗の信心についてをご覧ください。
#032「心が南無阿弥陀仏になるというのはどういう意味なのでしょうか?」(頂いた質問) Peing-質問箱-に頂いた質問について話をしました。 話の中に出てきたご文 (安心決定鈔より) 【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一体の身も南無阿弥陀仏なり。こころは煩悩・随煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。 われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば、色心正法それになりかへることなり。 (尊号真像銘文より) 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。 この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。 (御一代聞書より) (237) 一 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと[云々]。 ブログ 安心問答 twitter @anjinmondou メール yamamoyama@gmail.com
「真宗において 称える心、聴聞しようとする心、 それらをもともと持たない私たちが、 阿弥陀仏のお働き、お育てにより念仏を称えるという 内容を見聞きすることがありますが、 念仏しようとしたり、聴聞しようとする殊勝な心を 私達は元来、持っていないという内容はお経の中にありますでしょうか? いまいちお経のどこから出てきた内容なのかがわかりません。 教えていただければ幸いです。」 について話をしました。 安心問答 浄土真宗の信心について
#030 今回は質問箱に頂いた質問 「ただ今助けるという阿弥陀仏の本願を『許諾する』『受け入れる』『聞き受ける』等という表現がされますが、そのニュアンスがよくわかりません。 自分の心でただ単に『許諾した』と思い込むことでもないですよね?」 について話をしました。 質問箱はこちら 関連したブログ記事  「『南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く』というのは、南無阿弥陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を思い出しながら、念仏を称え、それを聞くことでしょうか?」(Peingで頂いた質問)
質問箱に頂いた質問 「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」 について話をしました。 話の中で出てきたご文 自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 註釈版浄土真宗聖典P707) http://ur2.link/RYIS ブログ安心問答−浄土真宗の信心について− https://anjinmondou.hatenablog.jp/
質問箱に頂いた質問について話をしました。 「信後には安心がありますか?」 話の中で出てきたご文 弥陀の名号称えつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃) http://ur0.work/znv3 ブログ 安心問答−浄土真宗の信心について
質問「逆謗の死骸である機を見つめよとか、機はほっといて法の尊さに目をつけよとか言いますが、どららが正しいのでしょうか?どちらもそんなに気にせずに聴聞すればいいのでしょうか?」 についての話をしました。 話の中に出てくる親鸞聖人の御言葉 摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証 総序) http://urx.space/Ue4Z 浄土真宗聖典註釈版P132 https://anjinmondou.hatenablog.jp/
パロディ (id:parotan) 2019-08-20 交通の便が悪い田舎に住んでいることや、自分の体調のこともあり、なかなかお寺へ参ることができません そのため本を読んだりネットで法話の動画を見て浄土真宗の勉強をしているのですが、聴聞をしないものは救われないのでしょうか。について、思ったことをラジオ版で話してみました。
今回は、頂いた質問 「阿弥陀仏の本願に対する疑いがどうしても晴れません。悩んでいます。救うと誓われているのになぜ獲信者が少ないのでしょうか」 について話をしました。 −−− 今回出てきた和讃は、以下 正像末和讃 (67) 自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける (68) 仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり https://bit.ly/2JFKyWN −−− 番組に対する感想・質問があれば、ブログ安心問答コメント欄または、yamamoyama@gmail.comまでお願いします。                           
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/21/055958 に関連した内容をラジオ版で収録しました。 ・一 あさの御つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より「尽十方の無礙光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かな らず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。上様(蓮如)御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ候ふ、ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことに候ふ。(御一代記聞書2) ・スイカ泥棒の話
猿松 2019-02-28 12:03:25 (略) あれから「おまかせする」ということについて考えておりました。 「弥陀の本願信ずべし」とは「弥陀をたのめ」ということであり「阿弥陀仏におまかせする」ということである。これを詳しく言うと「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」ということなると思います。 しかし自分の心底を見てみると、本当に阿弥陀仏の存在も自分の後生の存在も信じているのか、かなり怪しいところです。 では、なぜ浄土真宗を求めているのかといえば、「このままではロクなことにならない」という漠然とした将来の不安と「この教えには何かある」という漠然とした希望でしかありません。 こんな私が「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」には具体的に何をすればよいのか、お念仏すればよいのか、聴聞に行けばよいのか…しかしこういう思考で念仏したり聴聞したりすること自体ダメだというのはわかります。 つまりしてはならないことはわかるが、してよいことがわからない(してよいことを考えること自体ダメですが…)だからしてはならないことを、ついついしてしまうといった感じで、行き詰まっております。 してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します。 とりとめのない質問となりましたが、先生のご指導をいただければと思います。 頂いた猿松さんのコメントについて話をしました。
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