Discoverネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)
ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)
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ネットラジオ版安心問答(浄土真宗の信心について)

Author: yamamoyama

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ブログ安心問答(浄土真宗の信心について)の音声版です。浄土真宗の教え、信心、その他についていろいろと話をするpodcastです。
29 Episodes
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質問箱に頂いた質問 「自力を捨てるとは、自力が問題にならなくなることですか?それとも自力が意識から消えるのでしょうか?」 について話をしました。 話の中で出てきたご文 自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 註釈版浄土真宗聖典P707) http://ur2.link/RYIS ブログ安心問答−浄土真宗の信心について− https://anjinmondou.hatenablog.jp/
質問箱に頂いた質問について話をしました。 「信後には安心がありますか?」 話の中で出てきたご文 弥陀の名号称えつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃) http://ur0.work/znv3 ブログ 安心問答−浄土真宗の信心について
質問「逆謗の死骸である機を見つめよとか、機はほっといて法の尊さに目をつけよとか言いますが、どららが正しいのでしょうか?どちらもそんなに気にせずに聴聞すればいいのでしょうか?」 についての話をしました。 話の中に出てくる親鸞聖人の御言葉 摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証 総序) http://urx.space/Ue4Z 浄土真宗聖典註釈版P132 https://anjinmondou.hatenablog.jp/
パロディ (id:parotan) 2019-08-20 交通の便が悪い田舎に住んでいることや、自分の体調のこともあり、なかなかお寺へ参ることができません そのため本を読んだりネットで法話の動画を見て浄土真宗の勉強をしているのですが、聴聞をしないものは救われないのでしょうか。について、思ったことをラジオ版で話してみました。
今回は、頂いた質問 「阿弥陀仏の本願に対する疑いがどうしても晴れません。悩んでいます。救うと誓われているのになぜ獲信者が少ないのでしょうか」 について話をしました。 −−− 今回出てきた和讃は、以下 正像末和讃 (67) 自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける (68) 仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり https://bit.ly/2JFKyWN −−− 番組に対する感想・質問があれば、ブログ安心問答コメント欄または、yamamoyama@gmail.comまでお願いします。                           
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/21/055958 に関連した内容をラジオ版で収録しました。 ・一 あさの御つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より「尽十方の無礙光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かな らず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。上様(蓮如)御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ候ふ、ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことに候ふ。(御一代記聞書2) ・スイカ泥棒の話
猿松 2019-02-28 12:03:25 (略) あれから「おまかせする」ということについて考えておりました。 「弥陀の本願信ずべし」とは「弥陀をたのめ」ということであり「阿弥陀仏におまかせする」ということである。これを詳しく言うと「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」ということなると思います。 しかし自分の心底を見てみると、本当に阿弥陀仏の存在も自分の後生の存在も信じているのか、かなり怪しいところです。 では、なぜ浄土真宗を求めているのかといえば、「このままではロクなことにならない」という漠然とした将来の不安と「この教えには何かある」という漠然とした希望でしかありません。 こんな私が「阿弥陀仏に自分の後生をおまかせする」には具体的に何をすればよいのか、お念仏すればよいのか、聴聞に行けばよいのか…しかしこういう思考で念仏したり聴聞したりすること自体ダメだというのはわかります。 つまりしてはならないことはわかるが、してよいことがわからない(してよいことを考えること自体ダメですが…)だからしてはならないことを、ついついしてしまうといった感じで、行き詰まっております。 してはならないことを一つ一つ潰していけば最終的に「おまかせする」ことになるのかなあとも愚考します。 とりとめのない質問となりましたが、先生のご指導をいただければと思います。 頂いた猿松さんのコメントについて話をしました。
ブログ記事 https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/02/02/203016 に関連して、 罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し  (高僧和讃) のご和讃について話をしました。 過去の理解と今の理解の違い「罪障と功徳が等価にならない」について話をしました。
ぷろぐれすさんから頂いたコメントについて話をしました。
#020「金剛心になると聞いたことがあります。なにが金剛なるのでしょうか?」(頂いた質問)
頂いた質問 「命がけで聞かないと救われないのでしょうか?」について話をしました。 (63) 一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。(御一代記聞書)
今回は頂いた質問 「私はなぜ助からないのでしょうか」について話をしました。
#017 今回は南無阿弥陀仏と念仏していてもいかにもありがたそうに称えられる人の念仏と比べると、私が称える南無阿弥陀仏と違うのではないかと思ってしまいます。という方からの質問について話をしました。
御文章、領解文に書かれている「たすけたまへ」「弥陀をたのむ」について話をしました。
園児さんのコメントより 「易往而無人」について話をしました。 −−−− 律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。 (教行信証信巻 註釈版聖典248頁) この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。 (御文章2帖目第7通 註釈版聖典1119頁) −−−−−−−−−−−
今回は園児さんのコメントから 「愚者になりて往生す」(末灯鈔)について話をしました。
今回は 「心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。」(御一代記聞書232)の意味について質問を頂いたので話をしました。 ------- 一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。 (御一代記聞書232 https://bit.ly/2Qg0iSn) ---------
今回は、「阿弥陀仏に救われるのに、信心決定するのに、早い人と遅い人がなぜいるのでしょうか?」という質問について、話をしました。
メールで頂いた質問 歎異抄一章に「摂取不捨の利益」と仰っておられるとお聞きしますが、その世界は、どういう世界でしょうか。 について話をしました。 今回収録に出てきた御文 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄) http://labo.wikidharma.org/index.php/歎異抄#.E7.AC.AC1.E6.9D.A1 (114) 超日月光この身には  念仏三昧をしへしむ  十方の如来は衆生を  一子のごとく憐念す(浄土和讃) http://labo.wikidharma.org/index.php/浄土和讃#P--577 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。(御消息) http://labo.wikidharma.org/index.php/親鸞聖人御消息#.E6.9C.AB.E7.81.AF.E9.88.94.281.29
タロウさんのコメントについて話をしました。 以下、ブログのコメントより −−−−−−−−− タロウ 2018/10/06 22:38 山も山さんこんにちは。 わざわざ記事にしてくださりありがとうございます。 >それは、なんとかなろうと聞いているときも同じです わからないのがここです。 これだと、 「なんともなろうとは思ってない聞き方」があると解釈 できてしまします。 ネットラジオNo4で山も山さんがお話になった、 「聞思して遅慮することなかれ。」っという ことなのだと思うのですが、心の性質上そんなこと が可能とは思えないのです。耳で聞いた情報は、耳に入ってき た瞬間に思いが(計らい事が)働き、自分勝手に解釈 してしまうようにでけていると思うのですよ。。 「聞思して遅慮することなかれ」 これは、海のマグロに泳ぐのをやめろ!という ようなものではないかと思うのです。 つまり、できっこないことをヤレ!と言われている 気分なのですよ。 気にする、注意する、思う・・っといったことは、 わりかしできますが、 ・思うな ・気にするな ・計らうな これは無理っぽいです。 ・思う必要がない ・気にする必要がない ・計らう必要は無い これが腑に落ちる縁に出会った時に初めて可能 になるのだろうとは思います。 聴聞というのは禅の公案みたいな ものなのかな?とは勝手に思っています。 聞いたまんまが信心です・・の、聞即信。 聞いたまんま、そうですね・・っと、 ならないのが煩悩の仕業であるとは 思ってます。 「必ず救う、我に任せよ」・・ これが、たとえおとぎ話であろうがなんだろうが、 本心から、 「ホントにそうなんだぁ!、なんてこったいウヒョー!!」 っと思い喜べたら、それは間違いなく素晴らしいことです。 頭がイカれた奴と思われても私は一向に構いません。 −−−−−−−−−
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