みことばの実現 No.15
Update: 2015-07-19
Description
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです(2 コリント5:14)。
「取り囲む」とは、「包囲して動けないようにする」、「強いる」の意味。今はもう、キリストの愛がゆえに、次のような生き方しかできないと言っている。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(15 節)。
パウロによれば、以前の自分がキリストとともに死んだという現実がゆえに、もはや、前と同じ生き方をすることは不可能である。今は、自分のうちにキリストが生きておられるという、新しい現実の中にいる。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(1 6 節)。
「人間的な標準」とは、文字通りは、「肉によって」。すなわち、肉にある、この世界の現実によって人を考えることを指す。その現実によれば、キリストは、ナザレ出身の大工の息子。 しかし、霊による現実では、神のひとり子、初めから存在する「ことば」なる方。そして、その同じ霊の現実で言うなれば、あなたは次のような者となる。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(1 7 節)。
創造は、みことばの実現として起きる業。この世界は、「光よ。あれ」という神のことばから造られた。同様に、死んでいたあなたも、「生きよ」という神のことばの成就として生き始めた。新しい創造は、古い破壊を消す。光が来れば、闇は消える。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」つまり、古い現実が過ぎ去り、新しい現実が始まった。
これらのことはすべて、神から出ているのです(1 8 節)。
神はすべての現実の源。彼は「わたしはあるという者である」方。霊の世界の現実、この宇宙の現実も、すべて彼から出てもの。自分の目に映ることだけを現実と考えてはいけない。目に見える物はすべて消えてなくなる時が来る。実は、人の目に見えるのは、限られた種類の光だけだが。神様の目にはすべてが見えている。彼こそが光なる方で、すべての現実は、物質的にも霊的にも、その光によって造られた:「その栄光は全地に満つ。」
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける(イザヤ4 3:1 8 - 1 9)。
したがって、新しい現実の中で生きる者にとって大切なことは、古い現実をもう数えないこと。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」「思い出すな」とは、口に出さないこと、「考えるな」とは「理解するな、悟るな」の意味。それを自分の現実として理解するなということ。今は、和解の時、恵みの時、救いの日、ヨベルの年。
「取り囲む」とは、「包囲して動けないようにする」、「強いる」の意味。今はもう、キリストの愛がゆえに、次のような生き方しかできないと言っている。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(15 節)。
パウロによれば、以前の自分がキリストとともに死んだという現実がゆえに、もはや、前と同じ生き方をすることは不可能である。今は、自分のうちにキリストが生きておられるという、新しい現実の中にいる。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(1 6 節)。
「人間的な標準」とは、文字通りは、「肉によって」。すなわち、肉にある、この世界の現実によって人を考えることを指す。その現実によれば、キリストは、ナザレ出身の大工の息子。 しかし、霊による現実では、神のひとり子、初めから存在する「ことば」なる方。そして、その同じ霊の現実で言うなれば、あなたは次のような者となる。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(1 7 節)。
創造は、みことばの実現として起きる業。この世界は、「光よ。あれ」という神のことばから造られた。同様に、死んでいたあなたも、「生きよ」という神のことばの成就として生き始めた。新しい創造は、古い破壊を消す。光が来れば、闇は消える。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」つまり、古い現実が過ぎ去り、新しい現実が始まった。
これらのことはすべて、神から出ているのです(1 8 節)。
神はすべての現実の源。彼は「わたしはあるという者である」方。霊の世界の現実、この宇宙の現実も、すべて彼から出てもの。自分の目に映ることだけを現実と考えてはいけない。目に見える物はすべて消えてなくなる時が来る。実は、人の目に見えるのは、限られた種類の光だけだが。神様の目にはすべてが見えている。彼こそが光なる方で、すべての現実は、物質的にも霊的にも、その光によって造られた:「その栄光は全地に満つ。」
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける(イザヤ4 3:1 8 - 1 9)。
したがって、新しい現実の中で生きる者にとって大切なことは、古い現実をもう数えないこと。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」「思い出すな」とは、口に出さないこと、「考えるな」とは「理解するな、悟るな」の意味。それを自分の現実として理解するなということ。今は、和解の時、恵みの時、救いの日、ヨベルの年。
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