Discover『朝妻一郎 たかなる心の歌-マイ・ジュークボックス-』
『朝妻一郎 たかなる心の歌-マイ・ジュークボックス-』

『朝妻一郎 たかなる心の歌-マイ・ジュークボックス-』

Author: 朝妻一郎ポッドキャスト

Subscribed: 2Played: 214
Share

Description

(株)フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎が音楽と共に歩んだ人生を振り返り、時代を彩った名曲や思い出深い人達のエピソードを毎週伝えていきます。
各エピソードには音楽制作の現場での出来事や音楽著作権の歴史等、朝妻一郎ならではの興味深い話が織り交ぜられます。
あの名曲の裏話や時代の目撃者としてのリアルな証言など、ミュージックビジネスに興味のある方は必聴です。

構成:「月刊てりとりぃ」編集部
協力:東京エンターテイメント
45 Episodes
Reverse
第45回は、前回に引き続きゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談(最終回)をお送りします。シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、今年2023年デビュー50周年を迎えられました。今回は、林さんの楽曲に可能性を感じた朝妻が、当時としては珍しかった作家の海外進出を図ったエピソードを中心に。MIDEM(世界最大級の音楽見本市)にて、イギリスのロックバンド・ジグソーに気に入られ、その作品がビルボードにチャートインした経緯をお話しします。また、名物プロデューサーであったTBS渡辺正文さんのお仕事ぶりやお人柄について。そして、この50周年の集大成として発売される数々の作品群や11月5日(日)に東京国際フォーラムで開催される『林哲司50周年記念コンサート』についてお話をいたします。(当コンテンツはコンサート開催前に配信したYouTubeコンテンツを基に編集しています。) 【TBS渡辺正文氏とのお仕事やお人柄】 ●渡辺正文 “ギョロナベさん”の愛称で知られる音楽番組プロデューサー。TBS『東京音楽祭』を総指揮したことで知られる。なお、なかにし礼の著作『世界は俺が回してる』は渡辺正文の生涯を描いた小説。 ●『Sound In S』(サウンド・イン “S“) 1974年4月から1981年3月までTBS系列局で放送されていた音楽番組。 ●康珍化(1953年6月24日 - )1979年にアン・ルイスの「シャンプー」で作詞家デビュー。林哲司とのコンビでは「悲しい色やね」をはじめ数多くのヒット曲を送り出している。 ●サマーワイン(1988年) 林哲司が竹内まりや「SEPTEMBER」、松原みき「真夜中のドア」をヒットさせた直後に発表し、日本のAORの先駆的作品となったサード・アルバム。 ●PARACHUTE (パラシュート) 国内の若手一流ミュージシャンが集結して結成されたフュージョンバンド。バンド名の由来は、「どこからでも(パラレルに)シュートが撃てるバンドを標榜したことによる。 ●テレビドラマ『もう一度春』 1981年1月から同年4月までTBSで放送されていたテレビドラマ。 主演の伊藤ゆかりが主題歌「強がり」のほか、劇中の音楽も担当した。 ●レス・ポール「世界は日の出を待っている」(原題:The World Is Waiting for the Sunrise) 1918年に、ジーン・ロックハート(作詞)とアーネスト・セイツ(作曲)によって書かれた曲。1951年にキャピトル・レコード発表されたレス・ポールとメリー・フォード盤は、ミリオンセラーに輝いている。 ●ペドロ&カプリシャス 日本のバンド。ジャズ、フォークからラテンロックなど洋楽のテイストを取り入れたアダルト・コンテンポラリーのサウンドで人気を博したグループ 【宣伝までも見据えた驚異のプロデュース力】 【当時珍しかった作家の海外進出を図った朝妻の挑戦】 【MIDEMで高く評価されジグソーが録音した林さんの作品】 ●MIDEM 毎年1月にフランスのカンヌで開催される、世界最大規模の国際音楽産業見本市。音楽に携わる人々が各国の著作権ルールを認め合い、グローバルな情報交換をする場。 ●Jigsaw (ジグソー) 1966年〜1981年まで活動していたイギリスのロックバンド。 「君にさよなら(原題:If I Have To Go Away)」(1977年)の作曲は林哲司が担当。この曲は全英・全米ともにチャートインする快挙。 【海外アーティストへの作品提供を通じて気づかされたこと】 ●ウインドスウェプト フジパシフィックミュージックが親会社のフジテレビと共同でアメリカに作った音楽出版。 【“林哲司50周年記念コンサート”について】 【50周年の集大成となるCD-BOXと記念書籍について】
第44回は、前回に引き続きゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談をお送りします。シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、今年2023年デビュー50周年を迎えられました。今回は、林さんの代表曲である「September」と「真夜中のドア〜stay with me」の2曲が同時期に制作されたにも関わらず真逆の作曲法であったという貴重な制作秘話を中心に、同じく代表作である「悲しい色やね」で痛感した歌詞の大切さについて。また、造詣の深い映画音楽への見解や、昨今の“シティポップ”再評価について等、多岐に渡る豊潤な対話となっております。 【昨今盛んなコライト(共同制作)の事情】 【映画音楽の現状への見解】 ●マックス・スタイナー (1888年5月10日 - 1971年12月28日) オーストリア生まれのアメリカの映画音楽作曲家。代表作に『トップ・ハット』(1935年)『風と共に去りぬ』(1939年)『カサブランカ』(1942年)『君去りし後』(1944年)などがある。 ●ヴィクター・ヤング(1899年8月8日 - 1956年11月10日) アメリカの作曲家、指揮者、編曲家、ヴァイオリン奏者。代表曲としてジャズのスタンダードとなった「星影のステラ」、映画音楽では『シェーン』(1953年)『八十日間世界一周』(1956年)などがある。 ●トーキー 映像と音声を同調させて再生する映画のこと。 サイレント映画(無声映画)の対義語として“トーキー映画(発声映画)”と呼ばれる。 ●ヘンリー・マンシーニ「ムーン・リバー」(原題:「Moon River」) 映画『ティファニーで朝食を』(1961年)の劇中で、主演のオードリー・ヘプバーンが歌った曲(作詞:ジョニー・マーサー 作曲:ヘンリー・マンシーニ)。1961年のアカデミー歌曲賞を受賞した他、グラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞した。 ●B. J. トーマス「雨にぬれても」(原題:「Raindrops Keep Fallin’ on My Head」) 1969年に公開されたジョージ・ロイ・ヒル監督の西部劇『明日に向って撃て!』(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid)の挿入歌で、B. J. トーマスの歌唱で知られる曲。同映画は、アメリカン・ニュー・シネマの代表作のひとつ。 【映画音楽の制作スタイルの画期的な変化】 ●『イージーライダー』(1969年) アメリカで1969年に公開されたピーター・フォンダとデニス・ホッパーが出演したアメリカン・ニューシネマの代表作(日本では1970年公開)。ステッペンウルフによる主題歌「ワイルドでいこう!」やロジャー・マッギンによる「イージー・ライダーのバラード」をはじめとする楽曲で構成したサウンドトラック・アルバムは1969年8月にダンヒル・レコードから発売された。 【バート・バカラックとエンニオ・モリコーネ】 ●『第三の男』(1949年)(原題:「The Third Man」) キャロル・リード監督による第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。アントン・カラスが作曲したテーマ曲は映画公開後、1950年代最大のヒット曲となった。 このテーマ曲は、映画の登場人物の名前から「ハリー・ライムのテーマ」と呼ばれている。 ●チター オーストリア・ドイツ・スイス等ドイツ語圏を中心に弾かれている民族楽器。5本のメロディー弦と30本以上の伴奏弦を横に張り、メロディー弦を右手の親指にはめた金属製の爪で弾くもの。 【若者に流行する“ファスト映画”や“早送り再生”について】 【最近の“シティポップ”再評価について】 【同時期の「September」と「真夜中のドア」の作曲法の違い】 ●松原みき「真夜中のドア〜Stay With Me」 松原みきのデビュー・シングルで、1979年11月5日にキャニオン・レコード(現・ポニーキャニオン)から発売された楽曲。発売から41年後の2020年にリバイバルヒットし、現在は、シティ・ポップを代表する作品として知られている。 ●竹内まりや「SEPTEMBER」 竹内まりやが1979年8月21日にRCA(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)より3枚目のシングルとして発売した楽曲。この曲で同年12月開催の『第21回日本レコード大賞』新人賞を獲得している。 ●宮田茂樹(1949年11月4日 - 2022年7月29日) 日本の音楽プロデューサー。制作に携わったアーティストは、大貫妙子、竹内まりや、EPO、ムーンライダーズ、鈴木さえ子、LITTLE CREATURES、ジョアン・ジルベルトなど多数。学生時代には、5人組コーラス・グループ “リバティ・ベルス”のメンバーとして、筒美京平が楽曲提供していた南沙織のバック・コーラスなどを務めていた。 ●The Happenings 「See You In September」 1959年にザ・テンポスが最初に録音した曲で、ザ・ハプニングスは、1966年にシングルとしてリリースし、ビルボード・チャートで最高3位を記録した。 【「悲しい色やね」で痛感した歌詞、言葉の大切さ】 ●上田正樹「悲しい色やね -OSAKA BAY BLUES-」 (作詞:康珍化 作曲:林哲司 編曲:星勝) 1982年10月21日にリリースされた上田正樹のシングル曲。 【「September」のディレクター宮田氏の絶対的センスと功績】 【「真夜中のドア」のディレクター金子氏の仕事】 【韓国人音楽プロデューサーNight Tempoの功績】 ●Night Tempo シティ・ポップ・ブームを牽引した韓国のDJ兼プロデューサー。
第43回は、前回に引き続きゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談をお送りします。シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、2023年デビュー50周年を迎えられました。林さんが好きな映画音楽から習得した作曲・編曲法や、大学時代に感銘を受け自身の音楽人生に影響を受けたバート・バカラック、フランシス・レイについてのお話を伺います。また、念願の作曲家になる以前に編曲家として研鑽を積んだことの意義やメロディと歌詞の大切さについての考察、他にも大作曲家・筒美京平さんとのエピソードもお届けいたします。 【映画音楽から習得した作曲・編曲法】 ●ザ・フィルム・シンフォニック・オーケストラ 日本グラモフォンがスタジオミュージシャンを集めて録音した実体のないオーケストラ。ミシェル・クレマン楽団、クリス・カーペンター楽団、モーリス・ルクレール楽団など60年代から70年代にかけてレコード会社各社は、同様のスタイルで映画音楽、イージーリスニングのレコードを制作していた。 ●“ソノシート” 1958年、フランスで開発された塩化ビニール製のレコードが“フォノシート”。 朝日新聞社の系列会社として設立された朝日ソノプレス社(のちの朝日ソノラマ)によって“ソノシート”として商標登録される。非常に安価で大量生産しやすいことが特徴で、1960年代の音楽雑誌の付録として広く使用されていた。 ●『Your Hit Parade(ユアヒットパレード)』 1955年から1976年にかけて文化放送で放送されたラジオ番組。 日本において洋楽をベストテン形式で紹介した最初の番組といわれている。 ●フランシス・レイ(1932年4月26日 - 2018年11月7日) フランス・ニース出身の作曲家。多くの映画音楽を作曲したが、とりわけ『男と女』や『白い恋人たち』の監督、クロード・ルルーシュとの名コンビで知られている。1970年度アカデミー賞で『ある愛の詩』が作曲賞受賞。 ●バート・バカラック(1928年5月12日- 2023年2月8日) アメリカの作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、歌手にして楽団指揮者。作詞家のハル・デヴィッドとのコンビで多くのヒット曲を作曲した。 【大学時代に感銘を受けたバート・バカラックの作品】 ●『バート・バカラックの世界』(原題:Make It Easy On Yourself) 1969年に発表されたバート・バカラックのアルバム。 邦題は『サウンド・クリエイター/バート・バカラックの世界』。 【バカラックと対極にあるフランシス・レイとの比較】 【朝妻がレコード解説を書いていた当時のこと】 【遠回りでも現在に繋がる“辿らなければいけなかった道”】 【作曲家・筒美京平の卓越したセンス】 ●筒美京平(1940年5月28日 - 2020年10月7日) 本名・渡辺栄吉。日本グラモフォンの洋楽担当ディレクターを経て作曲家、編曲家として活躍。幅広いジャンルにわたって多数のヒット曲を世に送り出した、昭和後期から平成期の日本を代表する作曲家。 ●ハッスル本多 本名・本多慧。ビクター・レコードの宣伝マンを経てプロデュースしたDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスの「セクシー・バス・ストップ」が大ヒット、その後、林哲司を起用し、イースタン・ギャングをプロデュースするなど、和製ディスコの礎を築いた。 【アメリカのミュージックシーンの変容と驚き】
第42回はゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談をお送りします。 シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、2023年デビュー50周年を迎えられました。林さんが楽器の演奏や作曲を始めるきっかけになった音楽体験のこと、学生時代に影響を受けた音楽についてのお話を伺います。また、作曲家になる以前に経験された音楽雑誌のライターや編集の仕事を通して見聞を広め、研鑽を積まれたというエピソードをお届けいたします。 ●「僕の隣りの孤独」(1973年):林哲司のデビュー・シングル。ポリドール・レコードより発売。 【林哲司さんとフジパシフィックの出会い】 ●多賀英典(1943年3月1日 - ): 日本の音楽プロデューサー、映画プロデューサー、実業家。小椋佳や井上陽水の作品を手がけた後、独立。キティ・レコードやキティ・フィルムをグループ会社として持つキティ・グループの創業者で、現在は会長を務めている。 ●金子章平 ( 1946年1月20日 - 2011年10月16日逝去): 加藤登紀子、中山ラビ、カルメン・マキ&OZ、井上陽水、安全地帯などのプロデューサーとして活躍。 ●PMP(パシフィック音楽出版の略称): 1966年にニッポン放送の子会社として設立。 2015年に現在のフジパシフィックミュージックに商号を変更。 ●株式会社日音: 1963年、日本音楽出版株式会社として設立し、TBSホールディングスの機能子会社として、「1971年に現在の社名に改称。邦楽曲5万曲以上、洋楽曲100万曲以上の著作権管理をするほか、原盤制作、作家マネージメントなどを手がける。 ●JCM(株式会社セントラルミュージックの略称): 文化放送の子会社で、音楽出版ならびにラジオ放送番組の制作を手掛ける。 ●ザ・フォーク・クルセダーズ: 1960年代後半にデビューした音楽制作集団で、フォークルという略称でも呼ばれる。当初5人のメンバーで活動を始めるが、メンバーが異動、プロデビュー時には、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人で活動。 【兄達からの影響と最初に触れた楽器】 ●ポール・アンカ(1941年7月30日- ) カナダ出身のシンガー・ソングライター。ニール・セダカやデル・シャノンと共に、ポップスの草創期を代表するアーティスト。 【クリフ・リチャードに触れ、ギターを手に取る】 ●クリフ・リチャード(1940年10月14日 - ) バックバンドのシャドウズと共に、ビートルズ時代が到来する前の1950年代末から1960年代初めにかけてイギリスのポップミュージック・シーンを席巻したアーティスト。 【大学進学での上京と映画音楽からの影響】 【ヤマハの音楽スクールで学んだことと貴重な出会い】 ●村井邦彦(1945年3月4日 - ) 作曲家・編曲家・プロデューサー。1960年代後半、慶應大学在学中より本格的に作曲を始め、森山良子、赤い鳥、タイガース、トワ・エ・モワらに作品を提供。69年、音楽出版社アルファミュージックを設立。77年にはアルファレコードの創業者、プロデューサーとして荒井由実(現・松任谷由実)や、細野晴臣が在籍したティン・パン・アレーを見いだし、YMOを世界に送り出して成功に導いた。現在は米国ロサンゼルス在住。 ●萩田光雄(1946年6月16日 - ): 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。1975年に布施明の「シクラメンのかほり」、翌1976年に梓みちよの「メランコリー」で日本レコード大賞編曲賞を2年連続で受賞。関連書籍として『ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代』(リットーミュージック)がある。 ●船山基紀(1951年1月13日 - ): 作曲家、編曲家、キーボーディスト、音楽プロデューサー。1977年、編曲を手がけた沢田研二「勝手にしやがれ」が、第19回日本レコード大賞を受賞アイドル、アーティストら編曲した曲は2700曲を超える。 【音楽制作現場のアルバイトからキャリアをスタート】 ●渡辺貞夫(1933年2月1日 - ) ジャズミュージシャン・作曲家。「ナベサダ」の愛称で、サックス奏者・フルート奏者としてジャズ、フュージョンの分野で活動を展開。1962年に、バークリー音楽院に留学。1965年に帰国後、多くの内外ミュージシャンと共演し、ボサノヴァをジャズの世界に紹介した。 【音楽雑誌のライター/編集時代の思い出】 ●月刊音楽雑誌『ライトミュージック』 70年代に財団法人ヤマハ音楽振興会が発行。 ●フォルスター事務所 米国の放送会社NBCの東京支社長ジョージ・トーマス・フォルスターが、連合国最高司令官から著作権仲介業務の許可を受け、NBC東京支局内で業務を開始した会社。当初の業務は、主に海外の出版社から日本語に翻訳出版する権利を取得の上で、日本の出版社に許諾するという仕事だった。 【ヤマハの音楽スクールと “ポプコン”の功績】 ●ポプコン 『ヤマハポピュラーソングコンテスト』の略称。ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたフォーク、ポップス、ロックの音楽コンテスト。 ●川上源一(1912年1月30日 - 2002年5月25日) 日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ音楽教室を全国で展開して音楽教育の裾野を広げるほか、『ヤマハポピュラーソングコンテスト』や『世界歌謡祭』などを開催して、1970年代から80年代のフォークソングとロックミュージックの隆盛に貢献した。
音楽出版ビジネスの先達たちの中から、戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者で、「ビートルズを日本に呼んだ男」こと永島達司さんについて。日本初のプロモーター、キョードー東京の創業者・永島達司さんが世界中のミュージシャンから多大な信頼を得て、著作権の管理に至った経緯を当時の永島さんとの会話や憧れにも似た永島さんの風格を感じられるエピソードを交えながら回想します。 ●舞台「ビューティフル」:キャロル・キングの半生を描いたジュークボックス・ミュージカル。彼女が作詞作曲した曲のみならず、最初の夫ジェリー・ゴフィンと共に作曲した曲のほか、バリー・マン、シンシア・ワイル、フィル・スペクターらの楽曲が使用されている。 【永島達司さんと音楽出版ビジネス】 ●「雨の御堂筋」:ザ・ベンチャーズが日本で発表したシングル。台湾出身の歌手・欧陽菲菲が、1971年9月に日本で発売したデビューシングルでもある。 【国内外から信望を集めた永島達司さん】 【来日したアーティストの著作権は永島達司さんに】 ●MIDEM(Marché International du Disque de I’ Édition Musicale et de la Vidéo Musique):毎年1月フランスのカンヌで開催される、世界最大規模の国際音楽産業見本市。 【A&Mレコードの音楽出版社ロンドールとの契約を振り返る】 ●チャック・ケイ(1941/8/28 – 2021/2/1):1960年代にフィレス・レコードでキャリアをスタート。アルドン・ミュージック、〈A&M〉の出版部門アルモ・アーヴィングを経て、1980年にデビッド・ゲフィンと音楽出版社〈ゲフィン・ケイ〉を設立。その後、ワーナーチャペルの会長に就任、1988年にフジパシフィック音楽出版と共に音楽出版社ウインドスェプト・パシフィック・ミュージックを設立した。ロジャー・ニコルスやポール・ウィリアムスらを見出した人物でもある。 ●フィル・スペクター(1939/12/26 – 2021/1/16):1960年代前半、“ウォール・オブ・サウンド”と呼ばれるモノラル録音と緻密なアレンジによるサウンドでヒットを連発。70年代以降もジョン・レノンやラモーンズなどのプロデュースを手掛けた音楽プロデューサー。 【ウインドスェプト・パシフィック・ミュージック設立の余波】 【音楽出版社ロンドールの権利の行方】 *朝妻一郎「たかなる心の歌」#41までお楽しみいただきありがとうございます。次の企画スタートは5月中頃を予定しております。次回開始までしばらくお待ちください。
音楽出版ビジネスの先達たちの中から、戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者で、「ビートルズを日本に呼んだ男」こと永島達司さんについて。日本初のプロモーター、キョードー東京の創業者・永島達司さんと知り合ったきっかけに始まり、永島さんが音楽出版社を設立されるに至った経緯をご紹介します。後に日本の芸能ビジネスを確立させた方々との関わり合いや、世界中のミュージシャンから多大な信頼を得た永島さんが日本の音楽シーンへ与えた影響と功績を回想します。 【永島達司さんと知り合うきっかけ】 ●永島達司(1926/4/26 – 1999/5/2):日本初のプロモーター。1953年に「新々プロダクション」を設立。1957年に社名を協同企画(現・キョードー東京)に変更した。戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者で、海外では「タッツ・ナガシマ」の愛称で呼ばれた。 【日本の音楽・芸能ビジネスへの永島さんの影響力】 ●渡邊晋(1927/3/2 – 1987/1/31):日本の実業家・芸能プロモーターで、ベーシスト(渡辺晋と表記される場合も)。日本の芸能事務所の草分け、渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。 ●渡辺晋とシックス・ジョーズ:渡邊晋が早稲田大学在学中の1951年に、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、猪俣猛(ドラム)らと結成したグループ。渡邊はリーダー兼ベーシストとして活動した。 ●井原高忠(1929/6/6 – 2014/9/14):日本のテレビプロデューサー。日本テレビのプロデューサーとして知られ、同局で制作局次長、第一制作局長を歴任後、井原高忠事務所を設立し取締役を務めた。ザ・ピーナッツやとんねるずのユニット名の考案者としても知られる。 ●チャック・ワゴン・ボーイズ:黒田美治が井原高忠らと共に結成し、鳥尾敬孝や寺本圭一も後に加入した日本最初期のウエスタン・バンド。 ●堀威夫(1932/10/15 – ):1948年に、バンド、ワイキキ・ハワイアンズを結成。明治大学商学部時代の1952年、小坂一也、井原高忠らと共に学生バンドのワゴン・マスターズにスカウトされ、ギタリストとして活躍。その後、有限会社堀プロダクション社長、株式会社ホリプロダクション社長、株式会社ホリプロ社長、社団法人日本音楽事業者協会理事長などを歴任した。 【永島達司さんのマネージャー時代】 ●「好きなんだ!(I Love You)/平尾昌晃」(1959年):平尾昌晃のシングル曲。日本での売上は10万枚程度だったが、ハワイでは地元ラジオ局が流したのを機にリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒット。1959年12月にハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」で日本代表として歌唱した。 【永島達司さんと音楽出版ビジネス】
日音の村上司さんについて回想します。日本の歌謡史に数々の名曲を残した村上司さんとの出会いに始まり、筒美京平さんとの関わり合いや、尾崎紀世彦「また逢う日まで」を大ヒット曲にした村上司さんのエピソード。また、村上司さんの留学先だったリーズ・ミュージックのルー・リーヴィーとボブ・ディランの話も交えながら村上司さんの功績や音楽出版社としての役割をご紹介します。 【村上司さんとの出会い】 ●村上司(1936/2/13 – 2005/6/5): 株式会社日音元代表取締役会長。大学卒業後、父親の紹介で日本レダリー(武田薬品工業とアメリカのアメリカン・サイアナミッド・カンパニーが設立した合弁会社)で勤務するが、1963年10月に日音(当時は日本音楽出版)に入社。翌年、渡米しリーズ・ミュージック(現・MCAミュージック)にて研修を受けて帰国。その後は多くの楽曲の開発とプロモートを展開し、日本の音楽出版ビジネスの先駆者となった。 ●草野昌一(1931/2/4 – 2005/6/6):日本の音楽出版ビジネスの先駆者。→他、#38を参照 ●フォルスター事務所:米国の放送会社NBCの東京支社長ジョージ・トーマス・フォルスターが、連合国最高司令官から著作権仲介業務の許可を受け、NBC東京支局内で業務を開始した会社。当初の業務は、主に海外の出版社から日本語に翻訳出版する権利を取得する上で、日本の出版社に許諾するという仕事だった。 【筒美京平さんとの仕事】 【リーズ・ミュージックへ留学した村上司さん】 ●ルー・リーヴィー(1910/12/3 – 1995/10/31):作詞家のサミー・カーンと作曲家のソール・チャップリンとともにリーズ・ミュージック・コーポレーションを設立した(のちにMCAに買収)。ヘンリー・マンシーニやジェリー・ロスらを見出したことでも知られ、ビートルズのアメリカで最初のヒット曲「I Want To Hold Your Hand」の出版をはじめ数々のヒット曲に関わった。1958年から1970年まではASCAPの理事を務めている。 【「また逢う日まで」ができるまで】 ●尾崎紀世彦「また逢う日まで」(1971年):尾崎紀世彦にとってソロ2枚目のシングル。ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」を改詩改題して尾崎紀世彦が歌った作品で、共に阿久悠作詞、筒美京平作曲。第13回日本レコード大賞・大賞受賞曲。 ●ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」(1970年):1968年春に結成し、1971年には解散した日本のグループ・サウンズバンド。その後、ソロでデビューする町田義人が在籍したことでも知られる。これは彼らにとって4枚目のシングル。 【海外で痛感した村上司さんの実力】 ●チャック・ケイ(1941/8/28 – 2021/2/1):1960年代にフィレス・レコードでキャリアをスタート。→他、#36を参照
音楽出版ビジネスの先達たちの中から、日本を代表する訳詞家、漣健児さんとしても有名な草野昌一さんについて回想します。当時、ミュージックライフの編集長だった草野昌一さんとの出会いや「帰って来たヨッパライ」を巡る裏話等、日本における洋楽曲の著作権管理ビジネスの先駆者であり、朝妻の先生的存在でもあった草野昌一さんについてのエピソード。 【草野昌一さんについて】 ●漣健児(1931/2/4 –2005/6/6): 本名・草野昌一。日本の音楽出版ビジネスの先駆者。漣健児名義で作詞家・訳詞家として数多くの作品を書いた(「新田宣夫」名義も)。代表作に「ステキなタイミング」「可愛いベイビー」など。 ●ミュージックライフ:シンコー・ミュージック(創刊当時は新興音楽出版社)が編集・発行した音楽雑誌。主に洋楽を取り上げた(1998年12月号をもって休刊)。 ●「赤鼻のトナカイ」(1948年):原題「Rudolph the Red-Nosed Reindeer」。ジョニー・マークス作詞・作曲のクリスマスソングで、日本語訳詞は、新田宣夫(別名 草野昌一、漣健児)の訳で広く知られている。 【パシフィック音楽出版と草野昌一さんとの関わり】 ●高崎一郎(1931/5/13–2013/8/10):元ニッポン放送プロデューサー、パシフィック音楽出版(フジパシフィック音楽出版の前身)社長。深夜ラジオ番組の草分け『オールナイトニッポン』を企画立案し、初代パーソナリティも務めた。 ●アラン・フリード(1921/12/15–1965/1/20):本名アルバート・ジェームズ・フリード。1950年代に人気を博したアメリカのラジオDJ。 ●ジョニー・ティロットソン(1938/4/20–):「Poetry in Motion」、「Cutie Pie」のヒットをはじめ、浜口庫之助が書いた「涙くんさよなら」を日本語と英語で発表するなどした日本でも知られるヴォーカリスト。高崎一郎がジョニー・ウッドマン名義で作詞し鈴木邦彦がハリー・ウィリアムス名義で書いた「ユー・アンド・ミー」のヒットも。 【「帰って来たヨッパライ」を巡る草野さんとの裏話】 ●「帰って来たヨッパライ」(1967年)ザ・フォーク・クルセダーズ→#12を参照 【草野昌一さんから学んだこと~ビートルズの著作権買収構想~】 【草野昌一さんの音楽業界への功績】 ●ABBA:ストックホルムで結成されたスウェーデンのポップ・グループ。「ダンシング・クイーン」や「マンマ・ミーア」、「マネー、マネー、マネー」など数々のヒットを出すが1982年に活動を停止。2021年11月に40年ぶりのオリジナルアルバム『ヴォヤージ』を世界同時にリリースした。 ●「ビューティフル・サンデー」(1972年):ダニエル・ブーンのシングル曲。世界的には1972年に、日本では1975年11月からテレビ番組『おはよう720』(TBS)の「キャラバンⅡ」のコーナーテーマとして起用され翌年にヒットした。
前回に引き続き、チャック・ケイと共に設立したアメリカの音楽出版社「ウインドスェプト」について。音楽著作権の資産価値としての評価がまだ低かった1990年代後半に、その価値を証明する為に行った決断のエピソード。また、上場している音楽著作権ファンドのひとつ「ヒプノシス・ソングス・ファンド」に関してや、音楽著作権がとても大きな価値を持つ資産として時代とともに移り変わっている様について考察します。 ●ウインドスェプト:フジパシフィックミュージックが親会社のフジテレビと共同でアメリカに作った音楽出版社。その後ウインドスェプト音楽出版はEMI音楽出版に売却され、そしてEMI音楽出版はソニー/ATV音楽出版に買収された。 【90年代後半のウインドスェプト】 ●モーリス・レヴィ(1927/8/27 –1990/5/21): 本名モーセ・レヴィ。NYブロンクス出身、ジャズクラブ、音楽出版、独立系レコード業界の分野でアメリカの起業家。ジャズクラブ「バードランド」や「ルーレット・レコード」の創設者のひとり。 【著作権の資産価値を証明】 【近年の著作権売買の事例】 ●マーク・マキュリアディス(1963/10/2 –):ヒプノシス・ソング・ファンドの創設者でCEO。同社は、ニール・ヤングやフリートウッド・マックのリンジー・バッキンガム、ブロンディ、LAリード、RZA、ザ・ドリームらの楽曲の権利も購入している。 ●ラリー・メステル(1962/4/2 –):本名ローレンス・スコット・メステル。アメリカ音楽界最大級の独立系音楽出版社、マーケティング・タレントマネジメント会社プライマリー・ウェーヴの創設者兼CEO。 【音楽著作権の価値の高まりと理解の向上】
1996年にデビューし、全世界で2,300万枚以上を売り上げ、世界中を熱狂させたガールズグループ、スパイス・ガールズのシングル『2 Become 1』にまつわるエピソード。アメリカの音楽出版社「ウインドスェプト」をチャック・ケイと共に設立した経緯や「ビッグ・セブン」買収の際に危惧した事、さらにプロデューサーのサイモン・フラーが手がけるスパイス・ガールズの著作権を獲得した当時を振り返ります。 ●チャック・ケイ(1941/8/28 –2021/2/1):1960年代にフィレス・レコードでキャリアをスタート。アルドン・ミュージック、ワーナー・チャペル会長などを経て、1988年にフジパシフィック音楽出版と共に音楽出版社ウインドスェプト・パシフィック・ミュージックを設立した。 【ウインドスェプト・パシフィック・ミュージックの成り立ち】 ●モーリス・レヴィ(1927/8/27 –1990/5/21):本名モーセ・レヴィ。NYブロンクス出身、ジャズクラブ、音楽出版、独立系レコード業界の分野でアメリカの起業家。ジャズクラブ「バードランド」や「ルーレット・レコード」の創設者のひとり。 【曰く付きの音楽出版社ビッグ・セブンを買収へ】 ●Lullaby Of Birdland / George Shearing:ジョージ・シアリングが作曲、ジョージ・デイヴィッド・ウェイスが、B.Y.Forster名義で作詞したジャズ・スタンダード。ジョージ・シアリングによれば、この曲はわずか10分で作曲したとの逸話がある。 【ビッグ・セブン買収後のウインドスェプト】 ●I Think We’re Alone Now / Tiffany:ビルボード1位に輝いたティファニーの代表作で、もともとはトミー・ジェイムス&ザ・ションデルズが1967年にリリースした曲。 ●Save The Best For Last / Vanessa Williams(1992年):ヴァネッサ・ウィリアムス7枚目のシングルで、1991年発売のセカンドアルバムからのシングルカット。 【ウインドスェプト、軌道に乗る】 【サイモン・フラーが手がけるスパイス・ガールズの著作権獲得へ】 ●サイモン・フラー (1960/5/17 –):イギリスのキプロス生まれの起業家、アーティストマネージャー、映画、テレビプロデューサー。『アメリカン・アイドル』や『Xファクター』、『ポップ・アイドル』など、アイドル・オーディション番組の制作者でもある。 ●2 Become 1 / Spice Girls:1994年に結成されたイギリスの女性アイドルグループ3枚目のシングル曲で、1996年、UKチャート初登場1位を獲得した。 【ウインドスェプトのアメリカでの功績】
2006年に秋川雅史さんがNHK紅白歌合戦で歌唱し話題となった「千の風になって」。アメリカ発祥の詩「Do not stand at my grave and weep」を2001年に芥川賞作家の新井満さんが翻訳、自ら作曲、歌唱した「千の風になって」が朝日新聞 朝刊1面のコラム「天声人語」へ掲載され、2004年に新垣勉さんが歌唱、そして2006年には秋川雅史さんが歌唱し今なお心に響く「千の風になって」との出会いをご紹介します。新井満さんからのお電話を朝妻が直接お受けした経緯、そのきっかけにはキングレコード 森直美さんの一言があったことなど、時機と人との繋がりを実感したエピソード。 ●「千の風になって」:アメリカ合衆国で話題となった詩「Do not stand at my grave and weep」の日本語訳。2001年、新井満がアメリカ発祥とされるこの詩を日本語に訳し、自ら曲を付けた。原詩の3行目”I am a thousand winds that blow”を借りて『千の風になって』のタイトルがつけられた。  【「千の風になって」との出会い】 ●新井満(1946/5/7 –2021/12/3):作家、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家と多彩な顔を持つアーティスト。  【新井満氏との出会い】 ●「ワインカラーのときめき」(1977年):新井満が歌った1977年のカネボウCMソングで、作詞は阿久悠、作曲は森田公一。 ●天声人語:2003年8月28日付の朝日新聞『天声人語』で「Do not stand at my grave and weep」が取り上げられた際に新井満の訳詩が掲載され徐々に話題になった。 【「千の風になって」をポニーキャニオンから世に】 【朝妻に連絡がきたわけ】 ●森直美(1946/4/5 –):元キングレコード洋楽部で、バークレー・レーベルを担当。その後、キング、テイチクで邦楽ディレクターを経て、現在は算命学などの占い師澪奈莉母として活動している。 【音楽出版社は音楽業界のクォーターバック】 ●新垣勉(1946/5/7 –):沖縄出身のテノール歌手、バプテスト教会牧師。 【2006年秋川雅史「千の風になって」のヒット】 ●「千の風になって」秋川雅史による歌唱(2006年):2006年に発表され、同年の第57回NHK紅白歌合戦への出場を機に一般的に知られることとなった。 【恵まれた出会いとご縁に感謝】 ●「この街で」(2006年):松山市で開催された「21世紀に残したいことば」あなたの言葉で元気になれる『だから、ことば大募集』で松山市長賞を受賞した桂綾子の作品に着目した新井満が、エッセイスト三宮麻由子と即興的に作った曲で、2006年5月に新井自身の歌唱で発売され、その後、中島啓江やトワ・エ・モア、城之内早苗with布施明らによっても歌われた。
カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」を世界に先駆けシングルカットしたキングレコードの寒梅賢さん、カンツォーネの権威 河合秀朋さん、ライナーノーツ執筆のきっかけとなった武田一男さんをはじめ、ポリドール 折田育造さん、東芝レコード 高嶋弘之さんとの仕事を懐古します。 【キングレコード武田一男氏との出会いと仕事】 ●武田一男:ロンドン・レコードほかを担当。ロイ・オービソンなども手掛けた。 ●『魅惑のリズム』友の会:ラジオ番組「魅惑のリズム」(→#30参照)の友の会で、300人程の規模で、月例会には常に約20人が集った。 【キングレコード河合秀朋氏との仕事】 ●河合秀朋:カンツォーネ担当のディレクターを務め、後に洋楽部長として活躍。セブンシーズレーベルの総括担当としても知られる。 【キングレコード寒梅賢氏との仕事】 ●寒梅賢:ディレクターとして活躍。カーペンターズ邦題名の名付け親としても知られる。 ●ビタースウィート・サンバ(1965年):トランペット奏者で音楽プロデューサーのハーブ・アルパートが、自身のグループバンドで録音した曲。 ●あめんぼうとバラ(1961年):ジャック・ジョーンズが歌った1961年発表のヒット曲。 【日本で初めて活字で紹介されたカーペンターズ】 ●カーペンターズ:リチャードとカレンの兄妹デュオ。独自の音楽スタイルで大成功を収めたが、1983年カレンの死で活動を終えた。 ●スティーヴ・バリ(1942/2/23 –):1960~70年代、ボビー・ブランドなどのミュージシャンをプロデュースし、ママス&パパスらに作詞を提供。 ●バート・バカラック(1928/5/12 –):アメリカの作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、歌手にして楽団指揮者。ヒット曲多数。 ●(They Long to Be)Close to You クロース・トゥ・ユー(1963年):邦題「遥かなる影」。多くの歌手によってレコーディングされたが、カーペンターズは1970年発表、全米シングル・チャート1位。 【「トップ・オブ・ザ・ワールド」シングルカットの功績】 ●トップ・オブ・ザ・ワールド:カーペンターズが1972年に発表した曲。ビルボード・チャート1位で代表曲のひとつ。 ●リン・アンダーソン(1947/9/26 – 2015/7/30): カントリー・シンガー。代表曲「ローズ・ガーデン」。 ●アルファレコード:村井邦彦が設立したレコード会社。数々のヒット作を発表した。 【ポリドール折田育造氏の仕事】 ●折田育造(1941/11/29 – 2021/9/1): 1965年ポリドール入社。ワーナーパイオニアに移り邦楽/洋楽部長を歴任。ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役社長を経て、95年ポリドール代表取締役社長。洋楽シーンを牽引する存在だった。 ●加藤和彦「ヨーロッパ三部作」:AL『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』の三作品を指す通称。 【東芝レコード高嶋弘之氏との仕事】 ●高嶋弘之(1934 –):音楽ディレクター・プロデューサー。東京芝浦電気レコード事業部の洋楽ディレクターでキャリアをスタート。ビートルズの初代ディレクターとしても知られる。 ●「帰ってきたヨッパライ」(1967年)ザ・フォーク・クルセダーズ: (詳細は#12を参照)
1968年にフランスのグルノーブルで行われた第10回冬季オリンピックの記録映画「白い恋人たち」のメインテーマ曲であり、フランスが生んだ名曲フランシス・レイ作曲の「白い恋人たち」について。キングレコードの河合秀朋さんに勧められ出会った、甘美なメロディが印象的な「白い恋人たち」を電報を駆使しながら日本地域の権利を獲得したエピソードをご紹介します。 ●「白い恋人たち」: 1968年2月6日から13日間にわたって仏グルノーブルで開催された第10回冬季オリンピック大会のドキュメンタリーで、クロード・ルルーシュ監督が映像詩に仕上げた。日本では1968年11月9日に公開された。レイは4つのテーマを作曲、クリスチャン・ゴーベールが巧みなアレンジを施している。 【「白い恋人たち」との出会い】 ●河合秀朋:キングレコードでカンツォ―ネ担当のディレクターを務め、のちに洋楽部長として活躍。<セブンシーズ>レーベルの総括担当としても知られる。 ●フランシス・レイ(1932年4月26日-2018年11月7日):フランス・ニース出身の作曲家。多くの映画音楽を作曲したが、とりわけ『男と女』や『白い恋人たち』の監督、クロード・ルルーシュとの名コンビで知られる。1970年度アカデミー賞作曲賞受賞(『ある愛の詩』)。 ●クロード・ルルーシュ(1937年10月30日-):フランス・パリ出身の映画監督、映画製作者。主な監督作品に『男と女』、『パリのめぐり逢い』、『白い恋人たち』、『愛と哀しみのボレロ』、『しあわせ』など。多くの自作の音楽にフランシス・レイを起用しており、名コンビとして認識されている。 ●『男と女』(1966年): 1966年のフランス映画。監督はクロード・ルルーシュ、音楽はフランシス・レイ。出演はアヌーク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャン、ピエール・バルーら。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、クロード・ルルーシュの名を世界に知らしめた作品。 【電報を駆使した当時の外国曲獲得】 ●Edition23: フランシス・レイがクロード・ルルーシュら仲間と共に自身の楽曲を管理するために作った音楽出版社。「23」はフランシス・レイとクロード・ルルーシュのラッキーナンバーで、今もパリ8区のオッシュ通りに存在する。 ●ピエール・バルー(1934年2月19日-2016年12月28日):シンガー・ソングライター兼俳優。フランシス・レイとも多数の曲を書いた。また、インディーズレーベル(サラヴァ)の主宰者にして、映画監督、プロデューサーでもある。 【「白い恋人たち」について提示されたアドバンス】 ●永田文夫(1927年3月28日-2016年5月13日):シャンソンを中心とする洋楽の訳詞をはじめ、並行して音楽評論家としても活動した。 【コミュニケーション手段の移り変わり】
音楽業界に進むきっかけとなる、ニッポン放送でのアルバイトを通じて経験した仕事について。ラジオ番組『森永キャンデー・ベスト・ヒット・パレード』で、アシスタントとして高崎一郎さんと選曲をした経験や、初めてライナーノーツを執筆したころのエピソードをお話します。ライナーノーツの執筆にあたり、現在のように情報が氾濫していない当時に楽曲やアーティストの背景についてどのように調べていたかなどもご紹介します。 【『キャンデー・ベスト・ヒット・パレード』でアシスタント】 ●「森永 キャンデー・ベスト・ヒット・パレード」:1960年代はじめよりジョニー高崎(高崎一郎)がパーソナリティを務めた音楽番組。提供は森永キャンデー・ストアで、西銀座サテライトスタジオから生放送されていた。TBSラジオの「今週のベストテン」、文化放送の「ユア・ヒット・パレード」と共に人気だった。 【初めてのライナーノーツ執筆】 ●「君にダウン」(1963年)レニー・ウェルチ:原題「Since Fell For You」。1945年にバディ・ジョンソンが作曲した曲で、彼のオーケストラと共に妹のエラ・ジョンソンが歌ったのがオリジナル。その後、1963年にレニー・ウェルチの歌唱でヒットしたほか、イーディ・ゴーメやバーブラ・ストライサンドらもレコーディングしている。 ●「シュガー・シャック」(1963年)ジミー・ギルマーとファイア・ボールズ:1963年5月にジミー・ギルマーとファイア・ボールズのシングルとして発表され、全米1位を記録したほか、カナダやオーストラリアでも1位を記録するヒットとなった。 ●ケネディ大統領暗殺:1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され死亡した事件。 【幻のライナーノーツ「シュガー・シャック」】 ●「恋のかけひき」のレコードのコピー:朝妻一郎 たかなる心の歌#12-加藤和彦と北山修「あの素晴しい愛をもう一度」の回参照。 【幻となったライナーノーツの行方】 【舞い込むライナーノーツの依頼】 【朝妻一郎流ライナーノーツの書き方】 【ライナーノーツ執筆に役立ったもの】 ●イエナ書店:銀座五丁目、晴海通り沿いの現在クリスチャン・ディオールが店を構える場所で営業していた近藤書店の3階にあった洋書店。ここには、デザイナーやイラストレーター、カメラマンをはじめ広告・放送・音楽関係などに従事する人々が資料を求めて集まった。
ニッポン放送でのアルバイトや、音楽業界に進むきっかけとなる高崎一郎さんとの出会いを導いてくださったヤマハ・ミュージックの楊華森さんについて追想します。音楽出版業界だけでなく訳詞家や作詞家としても名を馳せた楊華森さんをはじめ、当時の音楽業界の成熟に貢献した先輩たち。またニッポン放送のラジオ番組『魅惑のリズム』を提供していた友の会に在籍し、後に音楽業界で活躍する方々とのエピソードもご紹介します。 【ニッポン放送でのアルバイト】 ●ケン田島(1930/10/20 – 2021/4/27): →#30を参照 【楊華森の功績】 ●三木鮎郎(1924/6/26 – 1997/6/6): →#30を参照 ●村井邦彦(1945/3/4 –):作曲家・編曲家・プロデューサー。慶応大学在学中より本格的に作曲を始め、森山良子、赤い鳥、タイガースらに作品を提供。山上路夫とコンビで書いた「翼をください」は現在も愛唱されている代表曲。また自身が創設したアルファレコードにてプロデューサーとして荒井由実(現・松任谷由実)を見いだし、YMOを世界に送り出して成功に導いた。 ●山上路夫(1936/8/2–):ビクター専属作家としてキャリアをスタート。いずみたく主宰オールスタッフで書いた佐良直美「世界は二人のために」(67年)、由紀さおり「夜明けのスキャット」(69年)が大ヒット。それ以降も小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」、梓みちよ「二人でお酒を」、ガロ「学生街の喫茶店」など多数のヒットを手掛けた。とりわけ作曲家/村井邦彦とは鉄壁のコンビとして知られる。 ●本城和治(19339/12–):1962年に日本ビクターに入社。洋楽部門のディレクターとしてポールとポーラを筆頭に60'sポップスを日本に根づかせ、66年からは邦楽部門にてザ・スパイダース、テンプターズなど数多くのグループサウンズのディレクションを務める。一方、マイク真木や森山良子などの日本のフォーク草創期を彩る歌手の作品や、尾崎紀世彦、大橋純子らも手がけ、日本のポップス界を支えた。 【訳詞家 草野昌一の仕事】 ●漣健児(1931/2/4 – 2005/6/6):→#29を参照 【流行の発信地 ヤマハ・ミュージック】 ●「ルイジアナ・ママ」:アメリカのシンガーソングライター/ジーン・ピットニーが1961年に発表した自作自演の楽曲。日本では漣健児の訳詞で飯田久彦が歌ったシングルが1961年に発表され、翌年に40万枚を売り上げる大ヒット。飯田の代表曲となった。 ●シュローダー・ミュージック:アーロン・シュローダー(1926/9/7 – 2009/12/2)が創設した音楽出版社。多くのヒット曲を手掛けたソングライターとしても知られるが、プロデューサーとしてジーン・ピットニーほかランディ・ニューマン、バリー・ホワイトらを見出した。 【音楽業界での恩人 楊華森】 ●安井かずみ(1939/1/12 – 1994/3/17):作詞家・訳詞家、エッセイスト、歌手。愛称はズズ(ZUZU)。アルバイトで訳詞したことが縁で作詞家に。フランス語の語学力と独自の発想による歌詞で人気を集める。代表曲に小柳ルミ子「わたしの城下町」、沢田研二「危険なふたり」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など多数。1977年に加藤和彦と結婚、おしどり夫婦としても知られた。 ●楊華森:→#30を参照  【『魅惑のリズム』友の会による繋がり】 ●『魅惑のリズム』:→#30を参照
ヤマハ・ミュージック楊華森さんとの出会いから音楽業界に入るきっかけとなったニッポン放送でのアルバイトに繋がるエピソードを紹介します。ラジオ番組『魅惑のリズム』が提供していた友の会への入会からポール・アンカのファンクラブの二代目会長に就任するなど、思い出の曲も交えながら回想します。 【音楽業界と繋がるきっかけ『魅惑のリズム』友の会】 ●『魅惑のリズム』:1960年代に月~金曜日の深夜に放送されたニッポン放送のラジオ番組。 ●ポール・アンカ(1941/7/30~):カナダ出身のシンガー・ソングライター。ポップスの草創期を代表するアーティスト。 ●エドムンド・ロス(1910/12/7 – 2011/10/21):トリニダード・トバゴのミュージシャンで、「アマポーラ」や「ブラジル」などのヒット曲がある。 【『魅惑のリズム』友の会ポピュラー研究会】 【ポール・アンカ ファンクラブ二代目会長に】 【ヤマハ・ミュージック 楊華森との出会い】 ●楊華森:ヤマハ~渡辺音楽出版に移り、さまざまな作家に活躍の場を作る役割を担った。 また「加茂亮二」などの変名で、安倍理津子「愛のきずな」をはじめ作詞も手掛けている。 【高崎一郎との出会い】 ●高崎一郎(1931/5/13 – 2013/8/10):元ニッポン放送プロデューサー、パシフィック音楽出版(フジパシフィック音楽出版の前身)社長。深夜ラジオ番組の草分け『オールナイトニッポン』を企画立案し、初代パーソナリティも務めた。 【先輩 亀渕昭信】 ●亀渕昭信(1942/3/1~):日本のラジオ・ディスクジョッキー、ラジオパーソナリティ、フリーアナウンサー、ポピュラー音楽研究家。ニッポン放送の社員として深夜番組『オールナイトニッポン』に出演し、人気を集めた。 ●ヤマハ・エアメール・スペシャル:1950~60年代にかけて冊子とフォノシートを組み合わせた「音の出る雑誌」。各社から書店販売されていたが、これはヤマハミュージックが1961年から販売を始めたもので、エアメールを模した封筒に冊子と最新の洋楽ヒット曲の入ったフォノシート2枚を同封して販売された。 【貴重な情報源『エアメール・スペシャル』】 ●ビリー・ヴォーン(1919/4/12 – 1991/9/26):アメリカの歌手、マルチプレイヤー、指揮者。ポピュラー、イージー・リスニング界におけるヒットメーカー。「Melody of Love」をリリース、ビルボードのシングル・チャートに27週間ランキングされるヒットとなった。 ●リンダ・スコット(1945/6/1~):アメリカの女性歌手。1950年代から70年代にかけて、ポップシンガーとして活躍。最大のヒットとなったデビューシングル「I’ve Told Every Little Star/星に語れば」は、現在、TBSの番組『マツコの知らない世界』のテーマソングに使われている。 【高崎一郎と亀渕昭信】 【ニッポン放送でのアルバイト】 ●ケン田島(1930/10/20 – 2021/4/27):本名・漆原一郎。イギリス生まれの同時通訳者でラジオ関東の番組「ポートジョッキーショー」などディスクジョッキー、アナウンサーとして活躍した。 ●三木鮎郎(1924/6/26 – 1997/6/6):ジャズ評論家、司会者、放送作家、エッセイスト、翻訳家。本名は繁田文吾。兄は我が国におけるCM音楽の開祖・三木鶏郎。「スター千一夜」などのテレビ番組の司会・構成作家などとして活躍した。
譜面の販売から始まった音楽出版社が外国曲の著作権を管理するきっかけとなったSACEMによる視察や、日本で初めての音楽著作権管理会社“水星社”についてもご紹介します。また外国曲のカバーが流行することにより、後に日本を代表する作詞家として名を馳せる訳詞家たちの活躍や、プロダクションの誕生がレコード制作にもたらした影響等を当時の流行音楽の背景と照らし合わせご紹介します。 【昭和初期の日本の音楽出版社】 【水星社による外国曲著作権の獲得】 ●水星社:1956年10月6日に設立された日本初の音楽著作権管理会社。 ●SACEM:Societe des auteurs,compositeurs et editeurs de musiqueの略。作詞家作曲家楽譜出版者協会。音楽業界では最古となるフランスの著作権管理団体のこと。 【ASCAPによる日本視察とその目的】 ●ASCAP(American Society of Composers Authors and Publishers)音楽や音楽に関連する著作物を保護するために、1914年2月13日に設立された、米国作曲家作詞家出版者協会。 ●ルー・リーヴィー(1910/12/3 – 1995/10/31):作詞家のサミー・カーンと作曲家のソール・チャップリンとともにリーズ・ミュージック・コーポレーションを設立した。ヘンリー・マンシーニらを見出したことでも知られ、ビートルズのアメリカで最大のヒット曲「I Want To Hold Your Hand」の出版をはじめ数々のヒット曲に関わった。 【NOSK(日本音楽出版社協会)誕生】 ●NOSK: 日本音楽出版社協会のこと。1973年にNOSKと全日本音楽出版社連盟(JAMP)が合同で、音楽出版社協会(MPA)を設立した。 【オリジナル・パブリッシャー(OP)とサブ・パブリッシャー(SP)】 【外国曲の一般化と訳詞家の台頭】 ●漣 健児(1931/2/4 – 2005/6/6):本名:草野昌一。日本の音楽出版ビジネスの先駆者。作詞家・訳詞家として作品多数。代表作に「ステキなタイミング」「可愛いベイビー」など。 ●岩谷時子(1916/3/28 – 2013/10/25):日本の作詞家。詩人、翻訳家。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。代表作にザ・ピーナッツの「ふりむかないで」や「恋のバカンス」、岸洋子「夜明けのうた」など。舞台『レ・ミゼラブル』などの訳詞も手掛けた。 ●なかにし礼(1938/9/2 – 2020/12/23):シャンソンの訳詞家を経て作詞家に。「石狩挽歌」や「時には娼婦のように」をはじめ数多くのヒット曲を生み、「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北坂場」で日本レコード大賞を3回受賞。ほかにも受賞歴多数。小説家として「兄弟」、直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」なども発表した。 【プロダクションの誕生とレコード制作】 ●ザ・フォーク・クルセダーズ:1960年代後半にデビューした音楽制作集団で、当初5人のメンバーで活動を始めるがメンバーが異動、プロデビュー時には、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人で活動した。 ●「帰ってきたヨッパライ」(1967年):ザ・フォーク・クルセダーズのデビューシングルで、同グループの代表曲。テープの早回しと奇抜な歌詞で反響を呼び、“アングラ・フォーク”ブームを生み出した曲。オリコンチャート史上初のミリオン・シングルで、日本のコミックソングの代表作。 【高まる音楽出版社の存在感】 【音楽出版社の使命】 【ルー・リーヴィーの活躍】
日本の音楽著作権ビジネスの黎明期と“プラーゲ旋風”について。楽曲の著作権がレコード会社に帰属していた時代に始まり、昭和初期にヨーロッパの著作権使用料を徴収する代理人となったウィルヘルム・プラーゲというドイツ人とそれに対抗した日本側の動きが日本における音楽著作権に対する認識と著作権利管理というビジネスを欧米とは異なる方向に向けてしまうきっかけとなった“プラーゲ旋風”についてご紹介します。 【日本の音楽ビジネス黎明期】 【プラーゲ旋風のはじまり】 ●ウィルヘルム・プラーゲ(1888/10/8- 1969/6/19):ドイツ人外交官で、のちに日本の多くの旧制高等学校でドイツ語を教えた人物。1931年に欧州の楽曲について日本の放送局などに高額の使用料を請求する著作権使用料の取立業を始め、それによって引き起こされた様々な著作権紛争事件を指して”プラーゲ旋風”と呼ばれた。 ●BIEM:正式名称「Bureau International des Societes Gerant les Droits d’Enregistrement et de Reproduction Mecanique」。録音権協会国際事務局。音楽著作権のうち録音権と機械的複製権の効果的な管理を目指して、また録音権を管理する団体を結集させることを目的として、1929年にパリで設立。現在は、58カ国・地域から60団体が加盟し、録音権、機械的複製権の国際レベルでの保護および進展に貢献している。 【プラーゲからの破格の要求】 【内務省によるプラーゲ対策】 ●ベルヌ条約:正式名称「Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works」。文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約といい、万国著作権条約と並んで、著作権の国際的保護のための条約のひとつ。 【大日本音楽作家出版者協会の設立】 ●山田耕筰(1886/6/9- 1965/12/29):日本の作曲家、指揮者。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、北原白秋と共に数多くの国民的歌謡、校歌等を創作した。代表作として「からたちの花」「この道」(いずれも作詞:北原白秋)、「赤とんぼ」(作詞:三木露風)など。 【大日本音楽著作権協会の設立と仲介業務法】 ●社団法人大日本音楽著作権協会:1939年12月28日に設立した日本人による音楽著作権団体で、現在のJASRACの前身。ちなみに、著作権信託契約第一号は島崎春樹(藤村)。 【プラーゲが日本の音楽著作権に与えた影響】
  音楽著作権の歴史、最終回は映画に初めて音声が加わり、1927年世界初の"トーキー"として大成功を収めた『ジャズ・シンガー』、以降ASCAPは新たにシンクロ権を誕生させるなど映画の大衆化とともに拡大し変革した音楽ビジネスについてお話します。ロックンロールに音楽の将来を見据えた音楽出版社アルドン・ミュージックの才気あふれる活躍についてもご紹介します。 ●徳川夢声(1894/4/13 – 1971/8/1):本名、福原駿雄。弁士、漫談家、作家、俳優、ラジオ・TV等で活動した日本の元祖マルチタレント。 ●トーキー:映像と音声が同期した映画のことでサイレント映画の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもある。 ●映画『ジャズ・シンガー』:1927年10月6日にアメリカで公開された長編映画として「世界初」のトーキー。第1回アカデミー賞 脚色賞部門にノミネート。 ●アル・ジョルソン(1886/5/26 – 1950/10/23):リトアニアで生まれたアメリカの歌手、俳優。20世紀のアメリカを代表するエンターテイナー。 ●ASCAP:#26を参照 ●Girls Town(邦題:非情の青春):チャールズ・ハースが監督した1959年の青春映画。音楽担当ではないが、ポール・アンカが出演していることから彼の曲が5曲も演奏される。 ●ドン・カーシュナー(1934/4/17 – 2011/1/17):アメリカの音楽プロデューサー、音楽出版社経営者、マネージャー、ソングライター。 ●ボビー・ダーリン(1936/5/14 – 1973/12/20):作曲家、俳優。ジャズやポップス、ロックンロール、カントリーなど様々なジャンルを手掛けた。37歳で早逝。 ●アル・ネヴィンス(1915/5/3 – 1965/1/25):1940年代から50年代にかけて最も人気を博したアメリカのポップ・グループ、スリー・サンズの創設メンバーのひとり。 ●アルドン・ミュージック:#26を参照 ●ニール・セダカ(1939/3/13 - ):ポール・アンカと並びアメリカン・ポップス界を代表する歌手兼作曲家で、作詞家ハワード・グリーンフィールドとのコンビで知られる。代表作は「カレンダー・ガール」など多数。 ●コニー・フランシス(1938/12/12 - ):女性初のロックンロール歌手と言われ、様々なジャンルの楽曲を歌った。日本でもカバーヒットで知られる。 ●キャロル・キング(1942/2/9 - ): 16歳でデビューし1960年代初頭からは夫ジェリー・ゴフィンとのコンビでヒット曲を連発。70年代には、シンガー・ソング・ライター・ブームの代表的な女性歌手となった。 ●ハワード・グリーンフィールド(1936/3/15 – 1986/3/4):作詞家。ニール・セダカなどブリル・ビルディングの作曲家とのコンビで数々のヒット曲を生み出した。 ●ジェリー・ゴフィン(1939/2/11 – 2014/6/19):作詞家。最初の妻キャロル・キングとのコンビで数多くの曲を書いた。1990年にキャロル・キングとともに、ロックの殿堂入りを果たす。 ●バリー・マン(1939/2/9 - ):数々のヒット曲を書いたブリル・ビルディング・ポップの重要な作曲家。 ●スナッフ・ギャレット(1938/7/5- 2015/12/16):ラジオDJ、A&R、レーベルやプロダクション経営者として知られ、1959年からリバティ・レコードに在籍。数々のヒット曲を手掛けた。
  前回に引き続き、音楽ビジネスがレコードの誕生に伴い大きく飛躍していったプロセスについてお話します。出版社や作詞家・作曲家が得るべき収入が支払われていない、と22の音楽出版社と170人の作家が主に演奏使用料の権利を求め、ASCAPという団体を発足した経緯や、ASCAPに対抗し発足したBMIの設立から、現在までアメリカの音楽を二分する二大演奏権協会として常に勢力争いを続けているライバル関係についてお話しします。また、ジョージ・ガーシュウィンを始め、楽曲を売り込むソング・プラッガーについて、A&Rの起源についてもご紹介します。 ●エンリコ・カルーソ(1873/2/25 – 1921/8/2):オペラ史上において有名なテノール歌手の一人。 ●ソングプラッガー:出版社が管理する楽曲を歌手やレコード会社のA&Rマンに売り込むため、ピアノを弾きながら歌った人のこと。 ●A&R(Artists and Repertoire):アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当するレコード会社における職務の一つ。 ●ジョージ・ガーシュウィン(1898/9/26 – 1937/7/11):ポピュラー音楽、クラシック音楽の両面で活躍したアメリカを代表する作曲家で、出世作は1919年の歌曲「スワニー」。1920年代以降は、作詞家となった兄アイラと組んで、レビューやミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。 ●ジェローム・カーン(1885/1/27 – 1945/11/11):20世紀初頭に活躍したミュージカル作曲家の一人で、40年以上のキャリアにおいて作曲数は700以上に及ぶ。代表曲に「煙が目にしみる」など。 ●ASCAP(American Society of Composers Authors and Publishers):アメリカで音楽やその他音楽に関連する著作物を保護するために、1914年2月13日に設立。 ●BMI(Broadcast Music, Inc.):アメリカの実演権団体のひとつ。ソングライター、作曲家、音楽出版社に代わって楽曲の実演に許諾を与える対価として著作権使用料を徴収し、演奏される作品の著作権者たちに印税を分配している。 ●アーヴィング・バーリン(1888/5/11 – 1989/9/22):ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家・作詞家。半世紀にわたる音楽活動で膨大な量の優れたポピュラー・ソングを作詞・作曲し、ジョージ・ガーシュウィンをして「アメリカのシューベルト」と言わしめた人物。 ●キャッシュボックス:『ビルボード』と同様に音楽チャートを掲載する事で知られたアメリカの雑誌。 ●「You Are My Sunshine」:アメリカのポピュラーソングで、作詞・作曲はジミー・デイヴィスとチャールズ・ミッチェル。ジミー・デイヴィスは、後にルイジアナ州知事となり、その際の選挙活動にもこの曲が使われた。現在、ルイジアナ州の州歌にもなっている。 ●「テネシー・ワルツ」:1948年に出版されたアメリカのポピュラー、カントリー歌曲。1950年にパティ・ペイジのカヴァー盤がマルチミリオンセラーとなった。 ●アルドン・ミュージック:アルドン・ミュージックはニューヨークの音楽出版会社。アル・ネヴィンスとドン・カーシュナーが1958年に設立。1950年代末から1960年代のブリル・ビルディング・サウンドに貢献した。
loading