#31 ニッポン放送でアルバイト【中編】音楽業界の成熟に貢献した先輩たち
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ニッポン放送でのアルバイトや、音楽業界に進むきっかけとなる高崎一郎さんとの出会いを導いてくださったヤマハ・ミュージックの楊華森さんについて追想します。音楽出版業界だけでなく訳詞家や作詞家としても名を馳せた楊華森さんをはじめ、当時の音楽業界の成熟に貢献した先輩たち。またニッポン放送のラジオ番組『魅惑のリズム』を提供していた友の会に在籍し、後に音楽業界で活躍する方々とのエピソードもご紹介します。
【ニッポン放送でのアルバイト】
●ケン田島(1930/10/20 – 2021/4/27): →#30を参照
【楊華森の功績】
●三木鮎郎(1924/6/26 – 1997/6/6): →#30を参照
●村井邦彦(1945/3/4 –):作曲家・編曲家・プロデューサー。慶応大学在学中より本格的に作曲を始め、森山良子、赤い鳥、タイガースらに作品を提供。山上路夫とコンビで書いた「翼をください」は現在も愛唱されている代表曲。また自身が創設したアルファレコードにてプロデューサーとして荒井由実(現・松任谷由実)を見いだし、YMOを世界に送り出して成功に導いた。
●山上路夫(1936/8/2–):ビクター専属作家としてキャリアをスタート。いずみたく主宰オールスタッフで書いた佐良直美「世界は二人のために」(67年)、由紀さおり「夜明けのスキャット」(69年)が大ヒット。それ以降も小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」、梓みちよ「二人でお酒を」、ガロ「学生街の喫茶店」など多数のヒットを手掛けた。とりわけ作曲家/村井邦彦とは鉄壁のコンビとして知られる。
●本城和治(19339/12–):1962年に日本ビクターに入社。洋楽部門のディレクターとしてポールとポーラを筆頭に60'sポップスを日本に根づかせ、66年からは邦楽部門にてザ・スパイダース、テンプターズなど数多くのグループサウンズのディレクションを務める。一方、マイク真木や森山良子などの日本のフォーク草創期を彩る歌手の作品や、尾崎紀世彦、大橋純子らも手がけ、日本のポップス界を支えた。
【訳詞家 草野昌一の仕事】
●漣健児(1931/2/4 – 2005/6/6):→#29を参照
【流行の発信地 ヤマハ・ミュージック】
●「ルイジアナ・ママ」:アメリカのシンガーソングライター/ジーン・ピットニーが1961年に発表した自作自演の楽曲。日本では漣健児の訳詞で飯田久彦が歌ったシングルが1961年に発表され、翌年に40万枚を売り上げる大ヒット。飯田の代表曲となった。
●シュローダー・ミュージック:アーロン・シュローダー(1926/9/7 – 2009/12/2)が創設した音楽出版社。多くのヒット曲を手掛けたソングライターとしても知られるが、プロデューサーとしてジーン・ピットニーほかランディ・ニューマン、バリー・ホワイトらを見出した。
【音楽業界での恩人 楊華森】
●安井かずみ(1939/1/12 – 1994/3/17):作詞家・訳詞家、エッセイスト、歌手。愛称はズズ(ZUZU)。アルバイトで訳詞したことが縁で作詞家に。フランス語の語学力と独自の発想による歌詞で人気を集める。代表曲に小柳ルミ子「わたしの城下町」、沢田研二「危険なふたり」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など多数。1977年に加藤和彦と結婚、おしどり夫婦としても知られた。
●楊華森:→#30を参照
【『魅惑のリズム』友の会による繋がり】
●『魅惑のリズム』:→#30を参照