62,【前編】12月21日 月曜日 14時17分 マルホン建設工業
Update: 2020-04-08
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「失礼します。」
木製の重厚感ある扉を開いて佐竹は入室した。彼の目の前には仕立ての良いスーツを見に纏い、窓から外を眺める本多善昌の姿があった。
本多善昌は衆議院議員本多善幸の実子である。本多善五郎が築き上げた裕福な生活基盤を受け継いだ善幸は一人息子である善昌を殊の外かわいがった。ありとあらゆるものを買い与えた。その寵愛ぶりが善昌の人間形成に大きな影響を与えたのだろう。欲しいものは絶対に手に入れなければ気が済まない性格となる。市内のエリート養成幼稚舎からエスカレータ式にその系列の高校を卒業した善昌は、善幸にアメリカへ行って見聞を広めたいと申し出る。常に自分の側に置いておきたい一人息子であり、万が一のことがあるかもしれないと思うと善幸は気が気でなかった。しかし一人の人間として考えた末の決断であり、その意志を尊重したいということで善幸は善昌のアメリカ留学を認めた。
しかしこの留学がいけなかった。善昌の成績は高校の二年あたりから振るわなくなってきていた。見聞を広める、語学を修得するというのが名目の留学の実際は、親の目から離れた遠い異国の地で放蕩の限りを尽くしたものとなっていた。彼はアメリカ留学時にタバコや酒、ギャンブルを覚え、現地の女性にも手を出して妊娠すらさせた。これらの目に余る放蕩ぶりに激怒したのが祖父の善五郎だった。彼は強制的に善昌を日本へ呼び戻す。そして退廃しきった彼の性根を一から鍛え直すということで、善幸から奪うように善昌を預かった。帰国直後は善五郎の厳しい躾のせいで1年間引きこもりの状態であったが、徐々に祖父との生活にも慣れ3年後には自衛隊へ入隊させられる。自衛隊入隊時に祖父の善五郎が他界。これをきっかけに善昌はすぐさま除隊。善五郎の監視の目から開放された善昌は父の勧めでマルホン建設に入社する。その後総務課長、部長、常務取締役、専務取締役を経て昨年代表取締役となっていた。
「佐竹さん。まだウチの口座に1億入ってなんだけど。困るじゃないですか。」
「申し訳ございません。」
「あのさぁ、こっちはこっちで支払いの都合があるんだからさ。」
窓から外を見ていた善昌はこう言って振り返った。
「あれ?」
善昌の視線の先には佐竹ともう一人の男があった。彼は善昌と目が合うと軽く会釈をした。そして善昌を無視するように社長室中央に配されている応接ソファまで足を進めて、そのまま腰を懸けた。
「なんなんだお前。」
「支店長の山県です。社長、1億は貸せんことになりました。」
「はぁ?」
顔つきが変わった善昌はソファに懸けている山県の正面に乱雑に座った。
「どういうことだよ?冗談は顔だけにしろ。」
「はははは、すんません社長。嘘言いました。1億の融資は明日には実行されます。」
「お前、ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ。俺を誰だと思ってるんだ。」
「…ただの社長。」
山県は不敵な笑みを見せた。
「ただの社長? 何?その上から目線。」
佐竹から1センチほどの厚みのある資料を提供された山県はそれを善昌の前にそっと差し出した。
「これを飲んでくれたら1億は明日オタクの当座に入金されます。」
善昌は出された書類に目をやった。その表紙には大きな明朝体で「マルホン建設工業株式会社の経営改善策について」と記載されていた。
「経営改善?」
「ええ、これを即座に飲むのが条件です。」
「条件だと?」
「はい。これを蹴られるんでしたら融資はできかねます。」
「はははは。山県支店長でしたっけ。」
「はい。」
「ふざけたことぬかすんじゃねぇよ。」
「ふざけていません。」
「こんなままごとみたいな書類なんか読むに値しない。」
「…読みもせずにままごと扱いですか。」
「お前みたいな下っ端じゃ話にならんよ。もっと上の人間を寄こせ。」
「はぁ…社長さん。今日はね、私、役員会の決定を受けてここに来てるんですよ。」
「なに?」
「ままごとはあんたの経営です。あんたには選択権はないんですよ。さっさとこれを読んで下さい。」
山県の姿勢に憤りを感じながらも善昌は書類を手にとって目を通し始めた。
2,3ページ読み進めた善昌は顔を上げて山県を見た。彼は不敵な笑みを浮かべて善昌を見た。
「悪い話ではないでしょう。」
「提携だと?」
「はい。社長もこの辺りを車で走っとたらお分かりやと思いますけど、最近、なんか新しいもの建てとるなぁと思っとったら、大体が高齢者施設。私はその分野の細かなことは分かりませんけど、特養とかデイサービスとか小規模多機能型とかいろんなもんが建っとりますわ。その介護分野にこのドットメディカルが参入を検討しとるんですよ。」
「何を持ってきたかと思えば、今流行りの介護事業参入を画策する会社と提携しろと?我が社に新規事業を起こせと言うのか。しかも俺も聞いたことがない会社じゃないか。」
「やれやれ、ドットメディカルも知らんのですか。」
山県はため息をついた。
「しかも直ぐに結論を求める。ちゃんと書類を読んでから話してくださいよ。見出しだけ読むのは週刊誌だけにして頂きたいもんですな。」
山県は善昌に対して要点を掻い摘んで説明するように佐竹に言った。
「はい。ドットメディカルは金沢市に本社を置く医療機器卸売の会社です。近年、海外大手の医療機器メーカーの特約店契約を取り付け、そのメーカーを背景とした信用と充実したサービスの提供から業界では成長著しい会社です。このドットメディカルが今検討中なのは、先程山県が言った介護事業です。この会社には海外の医療業界とのパイプを持ち、異国の様々な事例、設備、サービスなどに深い見識を持つスタッフが大勢います。そして地元の医療機関でのシェアも確実に伸ばしています。今まで培った国内外の医療の専門的見地をふんだんに取り入れた新しい形態の介護サービスを提供しようとしています。」
「ふーん。で。」
「医療や介護のノウハウ蓄積はドットメディカルと関係のある会社からスタッフを引き抜いて、専門の部署を立ち上げて順調に準備は進んでいます。ですがひとつ課題があるのです。」
「なに?それは。」
「建設ノウハウです。」
善昌は佐竹と山県の顔を見た。
「実はドットメディカルはその介護事業において建築、デザイン、設備、人員、サービス、情報システムなど全てのものを自らの手で利用者に提供することを考えています。そして質の高い介護サービスを比較的安価に提供できる仕組みを検討しているのです。」
「で。」
「人員やサービス、システムといったソフト面はある程度固まってきています。いままでのコア業務の延長線でものごとを考えて計画できますから。ですが、建設やその設計といったところになるとそう簡単に行きません。不得手なものは外に丸投げするというのは確かに方法の一つです。しかしドットメディカルは介護に関するすべてのものを自分たちの責任で利用者に提供するとことを考えています。ですので緊密に連携をとった動きをできるパートナーを探しているんです。」
善昌は腕を組んで考えた。
「御社には3つの核となる事業部があります。公共事業における大型工事や企業プラント建設のようなものを扱う総合建設事業部。 不動産仲介、賃貸、戸建て分譲を行う住宅事業部。 遊休地の有効活用をコンサルティングする開発コンサルティング事業部です。これら総合的な建設に関するノウハウを御社は長い年月の中で蓄積しています。ドットメディカルはこれが欲しいんです。あの会社は何も一棟の介護施設を立てることだけを目的としているのではない。彼らの事業戦略はもっと大きいものです。」
「大きいもの?」
「独自のノウハウを活かした介護施設を実際に経営し、そこで得られたノウハウをパッケージとして新規事業参入者に提供するというものです。」
山県の言葉に善昌は頭を振る。
「ノウハウ提供だけだったら、ウチは今まで培ったノウハウをみすみすその会社に売るだけになってしまうじゃないの。」
山県は呆れた表情で善昌を見る。
「社長。私はマルホン建設のノウハウだけを売れとは言ってません。提携したらどうですかと言っています。」
「なんだよ。勿体ぶらずに早く教えなさいよ。」
「はーっ…。」
ため息をついた山県はしばしの間うなだれた。
「いいですか。だから提出された書類をちゃんと読めと言っとるんですよ。」
「後で読むよ。こっちは忙しいんだよ。何事も結論から言ってもらわないと、その話が検討に値するかどうかの判別に時間がかかるじゃないですか。」
山県は目の前の机を思いっきり叩いた。
「いい加減にしろ。無能経営者。」
「なにぃ!!」
「冒頭言ったやろ、お前には選択権はないって。」
「貴様!! 誰に向かってその言葉を言っている!!」
「やれやれ気に食わない事があれば大声を上げるのは当行の本多専務と一緒ですな。」
「黙れ!! 俺の問いに答えろ!!」
「本多善幸議員のご子息であり、かつ当行専務取締役本多慶喜の甥っ子さんでしょう。」
「俺の力を使えば、お前の処分なんか何とでもできるんだよ。」
「だから言っとるでしょ。これは金沢銀行役員会の決定やって。」
「そんな馬鹿な話なんかあるもんか。」
そう言うと善昌は懐から携帯を取り出して電話をかけた。その様子を見ていた山県は彼がどこに電話をかけているか瞬時に悟った。彼は何度も電話をかけ直し、それを耳に当てるも言葉を発さなかった。
「専務もいろいろとお忙しいですからね。」
善昌は手にしていた携帯を力なく落とした。
「仕方が無いから説明しましょう。先ほどの続きです。御社がドットメディカルと提携して得られるものは大きい。彼らが初回に建設する介護施設の建設はおろか、彼らのノウハウをベースに介護事業に参入する者たちの建設案件も受注できる。何故ならドットメディカルは事業そのもののノウハウを全てを売るわけだから。ソフトもハードもまるまるドットメディカルが参入事業者に提供する。建物もそうですよ。」
「…悪い話じゃ…ない…ですね…。」
「良い話です。この上ない良い話です。」
山県は笑みを浮かべてテーブルの上に配された灰皿を指差した。
「…どうぞ。」
煙草を咥えてそれを堂々と嗜む山県の姿は、力なく受け応えする善昌とは対象的だった。
「受けて貰えますね。」
「…はい。」
善昌の言葉を受けて笑みを浮かべた山県は、佐竹に直ぐにドットメディカルへ連絡をするよう指示した。
「しかし…。」
「いいから直ぐにドットメディカルに連絡しろ。善は急げだ。」
「わかりました。」
そう言うと佐竹は社長室を出て行った。
善昌は社長席に座って窓の外を眺めていた。
「社長。この言葉をご存知ですか。」
「何ですか…。」
彼は山県の方を見ずに力の無い返事をした。
「軍人は四つに分類されるそうです。」
「軍人?」
「はい。有能な怠け者。有能な働き者。無能な怠け者。無能な働き者です。ご存知ですか?」
「いや。」
「有能な怠け者。これはどうすれば自分が、部隊が楽をして勝利できるかを考えるため、前線指揮官に向いていると言われます。」
「ほう…。」
「有能な働き者。これは自ら考え、実行しようとするので部下を率いるよりは、参謀として指揮官を補佐するのが良い。」
「なるほど。」
「次は無能な怠け者。」
「耳が痛いな。」
善昌はそう言うと椅子をくるりと回して、座ったまま山県を見た。
「これは自ら考えて行動しないため、参謀や上官の命令通りにしか動かない。よって総司令官、連絡将校、下級兵士に向いている。」
「くっくっく…。」
「最後に無能な働き者。無能であるために間違いに気付かず、進んで実行するため、さらなる間違いを引き起こす。よって処刑するしかない。」
山県の言葉を受けて善昌は頭を抱えた。
「なんだ…。俺はその無能な働き者だとでも言いたいのか。」
「いいえ。」
「じゃあ何でそんな話を引き合いに出すんだ。」
「私はこれに独自の解釈を加えているんですよ。もうひとつ付け加えます。無能なのに働き者の振りをしている者。」
「何だそれは。」
「無能でも働き者であるというのは結構なことです。確かにこのような人間が上に立ってしまうと、組織は混乱する。しかしそのために参謀という役職があるのです。彼らが機能すれば、トップの行動力が推進力となり組織が回り出す。問題なのはそのトップが実際のところ何もしていないのに、重責を抱えてさも日々忙殺されているかの如く振る舞うことなのです。これは非常に具合が悪い。忙しそうに振る舞うことで参謀の言葉に耳を傾けない。そして向き合わなければならない事から目を背け続ける。その癖変にプライドが高いため、無駄に世の中のトレンドなどを知っている。しかしそれらはテレビや雑誌から仕入れた上辺をなぞった程度のもの。掘り下げて自分で考えようともせずに、知っていることそのものに価値があるかと勘違いする。威張りちらすしか能がなく結局のところ何も自分の手で実行しない。これが本当に処刑せねばならない対象なのです。」
善昌は天を仰いだ。
「それが俺だというのかね。」
山県は善昌をただ黙って見つめる。
「ついさっきまではそう思っていました。」
山県の表情には笑みがあった。
「あなたは経営者として無能だ。業績をみれば一目瞭然。そしてろくに働きもしない。しかしどういう訳か素直だ。現に今、あなたは私が提出した経営改善案を受け入れました。」
「褒めているのか、貶しているのか…。」
「あなたが全ての元凶ではないんですよ。」
善昌はうっすらと笑みを浮かべた。
「社長。改善案の最後のあたりを読んでください。」
山県の言葉に従って、善昌は改善案のまとめの段を読んだ。彼がこのくだりを読むには2分ほどの時間を要した。読み終えた彼は山県を睨みつけた。
「俺を除いた全役員をクビにするのか。」
山県はタバコに火をつけ、それを吸い込んで目一杯の煙を吐き出した。
「はい。せっかく磨けば光る素直な経営者がいるのに、それを活かしきれない役員連中は無能の極み。これは一刻も早く処刑せねばなりません。」
「ふざけるな!!」
「社長。言ったでしょう。提出された書類にはちゃんと目を通した方がいいって。」
「認めん。認めんぞ!」
社長室のドアが開かれ、佐竹が戻ってきた。
「ドットメディカルは社長の英断に感謝するとのことです。今日の晩にでも一度社長とお会いしたいとの申し出です。」
「なにぃ!? お前、なにを勝手なことを!」
善昌の反応に佐竹は戸惑った。
「はははは。交渉成立ですな。社長。いやめでたい。誠にめでたい。」
「山県!! 貴様!! 俺を嵌めたな!!」
「社長。残念ですが、承諾したのはあなたですよ。こっちはただ伝書鳩みたいにただ先方へ連絡しただけですわ。撤回したいんならご自分でどうぞ。」
怒りに震えていた善昌であったが、事を飲み込んだのか方の力を落として諦めの表情となった。
「流石、善五郎さんのお孫さんだ。飲み込みが早い。」
そう言うと山県は立ち上がって社長席に座る善昌の側まで歩み寄った。
「さて、社長。今晩のドットメディカルとの会談を前にあなたがやるべき大きな仕事がある。」
善昌は自分の前に立ちはだかる山県を見た。小柄であるはずの彼の姿は、今の善昌にとって途方もなく大きな壁のように見えた。
「一族をそれまでに罷免しろ。どんな手を使ってもいい。それがお前とマルホン建設が生き残るための唯一の方法だ。」
「そんな…無理だ…。」
山県は善昌の襟元を掴んで詰め寄った。
「支店長!!」
「いいからやれま!! お前がやらんくて誰がやれんて!!」
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木製の重厚感ある扉を開いて佐竹は入室した。彼の目の前には仕立ての良いスーツを見に纏い、窓から外を眺める本多善昌の姿があった。
本多善昌は衆議院議員本多善幸の実子である。本多善五郎が築き上げた裕福な生活基盤を受け継いだ善幸は一人息子である善昌を殊の外かわいがった。ありとあらゆるものを買い与えた。その寵愛ぶりが善昌の人間形成に大きな影響を与えたのだろう。欲しいものは絶対に手に入れなければ気が済まない性格となる。市内のエリート養成幼稚舎からエスカレータ式にその系列の高校を卒業した善昌は、善幸にアメリカへ行って見聞を広めたいと申し出る。常に自分の側に置いておきたい一人息子であり、万が一のことがあるかもしれないと思うと善幸は気が気でなかった。しかし一人の人間として考えた末の決断であり、その意志を尊重したいということで善幸は善昌のアメリカ留学を認めた。
しかしこの留学がいけなかった。善昌の成績は高校の二年あたりから振るわなくなってきていた。見聞を広める、語学を修得するというのが名目の留学の実際は、親の目から離れた遠い異国の地で放蕩の限りを尽くしたものとなっていた。彼はアメリカ留学時にタバコや酒、ギャンブルを覚え、現地の女性にも手を出して妊娠すらさせた。これらの目に余る放蕩ぶりに激怒したのが祖父の善五郎だった。彼は強制的に善昌を日本へ呼び戻す。そして退廃しきった彼の性根を一から鍛え直すということで、善幸から奪うように善昌を預かった。帰国直後は善五郎の厳しい躾のせいで1年間引きこもりの状態であったが、徐々に祖父との生活にも慣れ3年後には自衛隊へ入隊させられる。自衛隊入隊時に祖父の善五郎が他界。これをきっかけに善昌はすぐさま除隊。善五郎の監視の目から開放された善昌は父の勧めでマルホン建設に入社する。その後総務課長、部長、常務取締役、専務取締役を経て昨年代表取締役となっていた。
「佐竹さん。まだウチの口座に1億入ってなんだけど。困るじゃないですか。」
「申し訳ございません。」
「あのさぁ、こっちはこっちで支払いの都合があるんだからさ。」
窓から外を見ていた善昌はこう言って振り返った。
「あれ?」
善昌の視線の先には佐竹ともう一人の男があった。彼は善昌と目が合うと軽く会釈をした。そして善昌を無視するように社長室中央に配されている応接ソファまで足を進めて、そのまま腰を懸けた。
「なんなんだお前。」
「支店長の山県です。社長、1億は貸せんことになりました。」
「はぁ?」
顔つきが変わった善昌はソファに懸けている山県の正面に乱雑に座った。
「どういうことだよ?冗談は顔だけにしろ。」
「はははは、すんません社長。嘘言いました。1億の融資は明日には実行されます。」
「お前、ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ。俺を誰だと思ってるんだ。」
「…ただの社長。」
山県は不敵な笑みを見せた。
「ただの社長? 何?その上から目線。」
佐竹から1センチほどの厚みのある資料を提供された山県はそれを善昌の前にそっと差し出した。
「これを飲んでくれたら1億は明日オタクの当座に入金されます。」
善昌は出された書類に目をやった。その表紙には大きな明朝体で「マルホン建設工業株式会社の経営改善策について」と記載されていた。
「経営改善?」
「ええ、これを即座に飲むのが条件です。」
「条件だと?」
「はい。これを蹴られるんでしたら融資はできかねます。」
「はははは。山県支店長でしたっけ。」
「はい。」
「ふざけたことぬかすんじゃねぇよ。」
「ふざけていません。」
「こんなままごとみたいな書類なんか読むに値しない。」
「…読みもせずにままごと扱いですか。」
「お前みたいな下っ端じゃ話にならんよ。もっと上の人間を寄こせ。」
「はぁ…社長さん。今日はね、私、役員会の決定を受けてここに来てるんですよ。」
「なに?」
「ままごとはあんたの経営です。あんたには選択権はないんですよ。さっさとこれを読んで下さい。」
山県の姿勢に憤りを感じながらも善昌は書類を手にとって目を通し始めた。
2,3ページ読み進めた善昌は顔を上げて山県を見た。彼は不敵な笑みを浮かべて善昌を見た。
「悪い話ではないでしょう。」
「提携だと?」
「はい。社長もこの辺りを車で走っとたらお分かりやと思いますけど、最近、なんか新しいもの建てとるなぁと思っとったら、大体が高齢者施設。私はその分野の細かなことは分かりませんけど、特養とかデイサービスとか小規模多機能型とかいろんなもんが建っとりますわ。その介護分野にこのドットメディカルが参入を検討しとるんですよ。」
「何を持ってきたかと思えば、今流行りの介護事業参入を画策する会社と提携しろと?我が社に新規事業を起こせと言うのか。しかも俺も聞いたことがない会社じゃないか。」
「やれやれ、ドットメディカルも知らんのですか。」
山県はため息をついた。
「しかも直ぐに結論を求める。ちゃんと書類を読んでから話してくださいよ。見出しだけ読むのは週刊誌だけにして頂きたいもんですな。」
山県は善昌に対して要点を掻い摘んで説明するように佐竹に言った。
「はい。ドットメディカルは金沢市に本社を置く医療機器卸売の会社です。近年、海外大手の医療機器メーカーの特約店契約を取り付け、そのメーカーを背景とした信用と充実したサービスの提供から業界では成長著しい会社です。このドットメディカルが今検討中なのは、先程山県が言った介護事業です。この会社には海外の医療業界とのパイプを持ち、異国の様々な事例、設備、サービスなどに深い見識を持つスタッフが大勢います。そして地元の医療機関でのシェアも確実に伸ばしています。今まで培った国内外の医療の専門的見地をふんだんに取り入れた新しい形態の介護サービスを提供しようとしています。」
「ふーん。で。」
「医療や介護のノウハウ蓄積はドットメディカルと関係のある会社からスタッフを引き抜いて、専門の部署を立ち上げて順調に準備は進んでいます。ですがひとつ課題があるのです。」
「なに?それは。」
「建設ノウハウです。」
善昌は佐竹と山県の顔を見た。
「実はドットメディカルはその介護事業において建築、デザイン、設備、人員、サービス、情報システムなど全てのものを自らの手で利用者に提供することを考えています。そして質の高い介護サービスを比較的安価に提供できる仕組みを検討しているのです。」
「で。」
「人員やサービス、システムといったソフト面はある程度固まってきています。いままでのコア業務の延長線でものごとを考えて計画できますから。ですが、建設やその設計といったところになるとそう簡単に行きません。不得手なものは外に丸投げするというのは確かに方法の一つです。しかしドットメディカルは介護に関するすべてのものを自分たちの責任で利用者に提供するとことを考えています。ですので緊密に連携をとった動きをできるパートナーを探しているんです。」
善昌は腕を組んで考えた。
「御社には3つの核となる事業部があります。公共事業における大型工事や企業プラント建設のようなものを扱う総合建設事業部。 不動産仲介、賃貸、戸建て分譲を行う住宅事業部。 遊休地の有効活用をコンサルティングする開発コンサルティング事業部です。これら総合的な建設に関するノウハウを御社は長い年月の中で蓄積しています。ドットメディカルはこれが欲しいんです。あの会社は何も一棟の介護施設を立てることだけを目的としているのではない。彼らの事業戦略はもっと大きいものです。」
「大きいもの?」
「独自のノウハウを活かした介護施設を実際に経営し、そこで得られたノウハウをパッケージとして新規事業参入者に提供するというものです。」
山県の言葉に善昌は頭を振る。
「ノウハウ提供だけだったら、ウチは今まで培ったノウハウをみすみすその会社に売るだけになってしまうじゃないの。」
山県は呆れた表情で善昌を見る。
「社長。私はマルホン建設のノウハウだけを売れとは言ってません。提携したらどうですかと言っています。」
「なんだよ。勿体ぶらずに早く教えなさいよ。」
「はーっ…。」
ため息をついた山県はしばしの間うなだれた。
「いいですか。だから提出された書類をちゃんと読めと言っとるんですよ。」
「後で読むよ。こっちは忙しいんだよ。何事も結論から言ってもらわないと、その話が検討に値するかどうかの判別に時間がかかるじゃないですか。」
山県は目の前の机を思いっきり叩いた。
「いい加減にしろ。無能経営者。」
「なにぃ!!」
「冒頭言ったやろ、お前には選択権はないって。」
「貴様!! 誰に向かってその言葉を言っている!!」
「やれやれ気に食わない事があれば大声を上げるのは当行の本多専務と一緒ですな。」
「黙れ!! 俺の問いに答えろ!!」
「本多善幸議員のご子息であり、かつ当行専務取締役本多慶喜の甥っ子さんでしょう。」
「俺の力を使えば、お前の処分なんか何とでもできるんだよ。」
「だから言っとるでしょ。これは金沢銀行役員会の決定やって。」
「そんな馬鹿な話なんかあるもんか。」
そう言うと善昌は懐から携帯を取り出して電話をかけた。その様子を見ていた山県は彼がどこに電話をかけているか瞬時に悟った。彼は何度も電話をかけ直し、それを耳に当てるも言葉を発さなかった。
「専務もいろいろとお忙しいですからね。」
善昌は手にしていた携帯を力なく落とした。
「仕方が無いから説明しましょう。先ほどの続きです。御社がドットメディカルと提携して得られるものは大きい。彼らが初回に建設する介護施設の建設はおろか、彼らのノウハウをベースに介護事業に参入する者たちの建設案件も受注できる。何故ならドットメディカルは事業そのもののノウハウを全てを売るわけだから。ソフトもハードもまるまるドットメディカルが参入事業者に提供する。建物もそうですよ。」
「…悪い話じゃ…ない…ですね…。」
「良い話です。この上ない良い話です。」
山県は笑みを浮かべてテーブルの上に配された灰皿を指差した。
「…どうぞ。」
煙草を咥えてそれを堂々と嗜む山県の姿は、力なく受け応えする善昌とは対象的だった。
「受けて貰えますね。」
「…はい。」
善昌の言葉を受けて笑みを浮かべた山県は、佐竹に直ぐにドットメディカルへ連絡をするよう指示した。
「しかし…。」
「いいから直ぐにドットメディカルに連絡しろ。善は急げだ。」
「わかりました。」
そう言うと佐竹は社長室を出て行った。
善昌は社長席に座って窓の外を眺めていた。
「社長。この言葉をご存知ですか。」
「何ですか…。」
彼は山県の方を見ずに力の無い返事をした。
「軍人は四つに分類されるそうです。」
「軍人?」
「はい。有能な怠け者。有能な働き者。無能な怠け者。無能な働き者です。ご存知ですか?」
「いや。」
「有能な怠け者。これはどうすれば自分が、部隊が楽をして勝利できるかを考えるため、前線指揮官に向いていると言われます。」
「ほう…。」
「有能な働き者。これは自ら考え、実行しようとするので部下を率いるよりは、参謀として指揮官を補佐するのが良い。」
「なるほど。」
「次は無能な怠け者。」
「耳が痛いな。」
善昌はそう言うと椅子をくるりと回して、座ったまま山県を見た。
「これは自ら考えて行動しないため、参謀や上官の命令通りにしか動かない。よって総司令官、連絡将校、下級兵士に向いている。」
「くっくっく…。」
「最後に無能な働き者。無能であるために間違いに気付かず、進んで実行するため、さらなる間違いを引き起こす。よって処刑するしかない。」
山県の言葉を受けて善昌は頭を抱えた。
「なんだ…。俺はその無能な働き者だとでも言いたいのか。」
「いいえ。」
「じゃあ何でそんな話を引き合いに出すんだ。」
「私はこれに独自の解釈を加えているんですよ。もうひとつ付け加えます。無能なのに働き者の振りをしている者。」
「何だそれは。」
「無能でも働き者であるというのは結構なことです。確かにこのような人間が上に立ってしまうと、組織は混乱する。しかしそのために参謀という役職があるのです。彼らが機能すれば、トップの行動力が推進力となり組織が回り出す。問題なのはそのトップが実際のところ何もしていないのに、重責を抱えてさも日々忙殺されているかの如く振る舞うことなのです。これは非常に具合が悪い。忙しそうに振る舞うことで参謀の言葉に耳を傾けない。そして向き合わなければならない事から目を背け続ける。その癖変にプライドが高いため、無駄に世の中のトレンドなどを知っている。しかしそれらはテレビや雑誌から仕入れた上辺をなぞった程度のもの。掘り下げて自分で考えようともせずに、知っていることそのものに価値があるかと勘違いする。威張りちらすしか能がなく結局のところ何も自分の手で実行しない。これが本当に処刑せねばならない対象なのです。」
善昌は天を仰いだ。
「それが俺だというのかね。」
山県は善昌をただ黙って見つめる。
「ついさっきまではそう思っていました。」
山県の表情には笑みがあった。
「あなたは経営者として無能だ。業績をみれば一目瞭然。そしてろくに働きもしない。しかしどういう訳か素直だ。現に今、あなたは私が提出した経営改善案を受け入れました。」
「褒めているのか、貶しているのか…。」
「あなたが全ての元凶ではないんですよ。」
善昌はうっすらと笑みを浮かべた。
「社長。改善案の最後のあたりを読んでください。」
山県の言葉に従って、善昌は改善案のまとめの段を読んだ。彼がこのくだりを読むには2分ほどの時間を要した。読み終えた彼は山県を睨みつけた。
「俺を除いた全役員をクビにするのか。」
山県はタバコに火をつけ、それを吸い込んで目一杯の煙を吐き出した。
「はい。せっかく磨けば光る素直な経営者がいるのに、それを活かしきれない役員連中は無能の極み。これは一刻も早く処刑せねばなりません。」
「ふざけるな!!」
「社長。言ったでしょう。提出された書類にはちゃんと目を通した方がいいって。」
「認めん。認めんぞ!」
社長室のドアが開かれ、佐竹が戻ってきた。
「ドットメディカルは社長の英断に感謝するとのことです。今日の晩にでも一度社長とお会いしたいとの申し出です。」
「なにぃ!? お前、なにを勝手なことを!」
善昌の反応に佐竹は戸惑った。
「はははは。交渉成立ですな。社長。いやめでたい。誠にめでたい。」
「山県!! 貴様!! 俺を嵌めたな!!」
「社長。残念ですが、承諾したのはあなたですよ。こっちはただ伝書鳩みたいにただ先方へ連絡しただけですわ。撤回したいんならご自分でどうぞ。」
怒りに震えていた善昌であったが、事を飲み込んだのか方の力を落として諦めの表情となった。
「流石、善五郎さんのお孫さんだ。飲み込みが早い。」
そう言うと山県は立ち上がって社長席に座る善昌の側まで歩み寄った。
「さて、社長。今晩のドットメディカルとの会談を前にあなたがやるべき大きな仕事がある。」
善昌は自分の前に立ちはだかる山県を見た。小柄であるはずの彼の姿は、今の善昌にとって途方もなく大きな壁のように見えた。
「一族をそれまでに罷免しろ。どんな手を使ってもいい。それがお前とマルホン建設が生き残るための唯一の方法だ。」
「そんな…無理だ…。」
山県は善昌の襟元を掴んで詰め寄った。
「支店長!!」
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